NO Happiness

あれから、約三年あまりの時が過ぎた。
ウェイターの男は三十五歳になっていた。
今も男は独りで、ずっと暮らしている。
だが一月前、男はあの家をとうとう離れた。
彼女との恍惚な時間の残骸と化した、あの寒々しく悲惨な部屋を。
真っ暗な狭いキッチンで赤ワインを飲むと、それは血に見える。
いつものようにウェイターの仕事を終え、帰宅してシャワーを浴びてタオルで髪を拭きながらキッチンで水をグラス一杯飲む。
すると髪から水が滴り落ち、グラスの中の水と交じり合う。
それが血に見える。
電気は点いているはずなのに、まるでこの世界は色を喪ってしまったままだ。
もう彼女は、この部屋を訪れることも、その窓を見上げることも、そのドアをknockすることも、電話を掛けてくることもない。
時間が止まってしまっているからだ。
時間が流れていないこの部屋に、どうやって彼女は、足を踏み入れるだろう。
主人の居なくなった部屋と同じに、愚かでしかない。
主人の帰ってくる見込みもないのに、ひたすら主人の帰りを待ち続ける部屋に、わたしは住んでただ息をしている。
小鳥が午前の光りに囀り、車が車道を走る音が聞こえ、穏やかな秋の風が吹いて、だれひとり笑うことのない部屋のなかの寝台の上で毛布にくるまりながら、男はとうとう決断をする。
光の届かない場所に、越すことにしよう。
カフェから車で二時間ちょっとの場所に、小さな古い空き家を見付ける。
問い合わせてみるとその家は二十年近く人の住んでいない過去に事故のあった訳有りの家らしい。
側には池もあり墓地も近い。
夜にはたまに、狐がホラー映画さながらの悲鳴を上げる声が聞こえる。
誰も住みたがらない曰く付きの家具もそのままにしてある家で、しかもその家には地下室がある。
だがその家の主人の遺体が見付かったのは地下ではない。
地上の一階である。
主人の老いた男はどうやら老衰であったようだ。
近くを通り掛かったひとりのハンターの男が、犬の吠える声に訝りその家のドアを開けた。
そこには綺麗に、しゃぶられた骨が散らばっていたという。
どうやら犬が主人をすっかりと食べ尽くし、餌がなくなったから吠えていたようだ。
年を取って痩せた雄のシェパードだった。
何故、主人は老衰で死んだとわかったかというと、実のところ何もわからない。
それは事実ではなく、近所に暮らす人間たちの願望である。
犬はその後、どうなったかというと一度は人間の肉の味を知った大型犬は危険だと言って、処分場に送られたが、それを知った或る犬好きの人間に引き取られて行ったという。
そして風の噂では、人間を襲うこともなく従順に人間の側で大人しく暮らして静かに死んだ。
でも本当のところは、誰も知る者がいない。
わかっているのは、その後この家には誰も住んでいないことくらい。
地下室が何のためにあったのかもわからないし、老人がそこで何をしていたのかもわからない。
誰もそんな不気味な家には住みたがらない。
いたとするなら、そういったマニアたちだろう。
でもこの家は町からも離れていて不便な場所に建っていて、土地もそこそこ高いから誰も住みたがらなかったのかもしれない。
ウェイターの男はたった一度の下見で、この家を気に入って、ローンを組んで買い取った。
そして主人の居なくなった何もない部屋を眺め渡し、彼女への未練を振り切ってドアを閉め、鍵を掛けてタクシーに乗った。
混んでいなければ、二時間と少しで着くはずだ。
行き先を告げたタクシーが発車して、男は疲れた目を閉じた。時間は午後十二時半前。
もう二度と戻れない時間から、男を乗せた車が遠ざかって行く。
もう二度と戻れない場所から、男は何かを垂らして去ってゆく。
透明の液体を、震える目蓋の隙間からしたたらせながら。
愛する人との想いでの詰まった空っぽの宝石箱を、その想いでだけで作られていた男の身体を、男は脱いで、逃げるように飛んだのである。
地下へ向かって落下するように。
これまで何度と、地下のプラットホームから身を投げようとしたことも忘れて、男は背凭れにぐったりと痩せた背中を預けて眠りに入っていった。
新しい家から、車で約40分の場所にグロサリーストアがあるようだ。
男は早速、そこへ買い物に出掛けた。
頻繁に買いに来ることもできないからできるだけ、纏めて買わなければならない。
男は日持ちする罐詰やパスタ、冷凍保存できる食パンなどを籠に入れてカートを押して野菜と果実コーナーへ向かった。
キャロット、オニオン、ビーツ、ポテト、セロリ、パセリ、適当に調理のしやすいものを選んで籠に入れてゆく。
そしてキノコのコーナーに向かいマッシュルームを探したその時、明らかにキノコではない色彩のものを見付けて顔をしかめた。
色鮮やかな赤い鮮肉がパックの中に入れられて黙って白いマッシュルームの並べられた上に載っていた。
鮮肉コーナーに戻しに行くことがそんなに面倒なのだろうか?
男はそのパックを手に取り、パッケージに印刷された写真と文字をまじまじと眺めた。
そこには『Happy Farm(幸せな牧場)』と会社名が表記されており、牛と豚と鶏が仲良く草原の上に立ってこちらへ顔を向けて嬉しそうな眼で見つめている写真のついたパッケージで、『アニマルウェルフェア(動物福祉)』を考えて、人間も動物も安全で体に優しいものを生産していることを唱った文句が下に書かれていた。
男は苦々しい想いでそれを見つめ、小さく息を吐いてそれを鮮肉コーナーに戻しに行った。
生き生きとした死体の肉が並べられているところに入り、アニマルウェルフェアの牛肉コーナーを探した。
そして『Happy Farm(幸せな牧場)』のパッケージが並んだ牛の赤い死肉コーナーにそのパックを置いて、すぐに此処を立ち去りたい気持ちに駆られ振り返って歩き出そうとしたその時だった。
グロサリーストア内に、何故か牧場があり、その柵の中に自分は立っていて、自分の目の前には先程見ていた鮮肉コーナーが広がっていた。
自分が立っている場所と鮮肉コーナーとの距離は約五メートル程だった。
男は何故、自分が牧場の柵の中に立っているのかがわからず、柵を乗り越えようと柵に足を掛けた。
その瞬間、前方から声が聞こえた。
「久し振りだね。」
顔を上げて男は柵に掛けた足を地面に静かに下ろした。
「元気だった?あれからどうしてたの?そういやあの家引っ越したんだね。風の噂で聞いたよ。」
男から約五メートル離れた鮮肉コーナーの前に、黒い牛の顔の被り物を被った黒いワンピースドレス姿の彼女がそこに立っていた。
右の指には何かが光っていた。
あの日彼女に渡した指環が、太陽の光りに反射してきらきらと光っている。
男は彼女に声を掛ける。
「わたしは気が朦朧として、今にも倒れそうです。」
彼女は子供のように笑い声を上げる。
「きみは何故そこにいるの?」
笑ったあとに彼女は男にそう訊ねる。
男は彼女の後ろに並べられた物を彼女を透かして見ると答える。
「わたしはきっと今、貴女の後ろの過去に立っているのです。」
彼女はまた無邪気に笑うと両手を叩いて言う。
「何故、きみがそちらに立っているのか、ぼくは不思議だ。」
男は恐れを感じて柵をぐっと掴む。
「ではわたしは、どちらにいるべきなのか、教えて貰いたいのです。」
目の前の視界がぼやけ、タクシーの運転手の低い声が聞こえる。
「この近くにグロサリーストアがあるから、ついでに買い出しに行ってきたら良い。俺は此処で待ってるよ。」
真っ暗な目蓋の内側で、彼女の声が聞こえる。
「それはきみが知ってるさ。きみはそちらにいてもあちらにいても大して変わらないなんて想ってないよね。」
運転手の声が彼女の声に重なる。
「『ベーコン一枚をバーガーに載せるだけの為に豚が一頭殺されるべきじゃない。』って、俺も同じようなことを彼女に言われたことがあるよ。それで...」
彼女の声が今度は運転手の声に重なる。
「きみの幸せを量れるのは、きみだけだろう?」
「随分ダイエットに成功したよ。彼女は痩せた俺を見て褒めてくれた。」
「前より愛してるとね。彼は言ってくれる。」
「あんたはまだわからないのか?そこに立っていることが。」
男は苦しい過去の記憶を辿るようにゆっくりと彼らに話始める。
「わたしはかつて、此処にいたのだと想います。彼女はとても深い負い目を持って、わたしを愛してくれていました。そして彼女も、此処にいたのです。わたしはいつか彼女を殺してしまうのだと感じて、それでも彼女を手離せず、自分のものにしてしまうことに苦痛と快楽を感じていました。その感覚は彼女との唯一の共鳴感覚であり、本当の意味での交わりであったはずです。わたしは彼女の死を味わい、彼女はわたしの死を味わいながら、互いに快楽を感じ合うことで互いに手を取り合って死んで行く存在だったのです。わたしが彼女を苦しめていることのわたしの苦しみに彼女は苦しみ、その彼女の苦しみに苦しみながら快楽を貪り合うことでしか生きられなくなった一つとなった存在のように。この死の循環を、わたしたちは喜んで、苦しんでいました。わたしたちは"彼ら"よりは幸せであることを感じ、どうすればこの循環から逃れられるのか、悲鳴を上げながら互いの肉を味わい続けていました。わたしと彼女は、完全に殺し合うその時まで、苦しみ合い続けなくてはならない関係なのです。彼女はわたしの肉を殺し、食べて味わったあとには、もうその肉は必要ありません。わたしの彼女の欲する肉はすべて、彼女の肉となりました。彼女の欲するものだけ、彼女に取り込まれ、あとに残されたわたしはなんと惨めで虚しい物体なのでしょう。わたしの肉なるものはまだ残されたままで、わたしは此処に死んでいるのです。彼女はわたしのすべてを必要とはしませんでした。目や脳、骨と骨髄、わたしの核なる部分を残し、彼女はわたしを棄てたのです。わたしは母の記憶がありません。記憶はすべて喪われ、わたしは母と共に一度死に、そして肉となって生まれ変わり、彼女は肉のわたしを激しく求めました。そして彼女と初めて交わり、わたしは自分の存在によって彼女を殺し、そして生かしていることに気付きました。彼女は日に日にわたしの前で死んで行く存在であり、わたしも彼女と共に果てのない死のなかを手を取り合って泳いでいました。わたしは彼女に取り込まれ、彼女と一体となる恍惚な悦びのなかで、わたしは彼女と消えることを恐れ続けて生きる運命でした。死んだ青白い顔をして、わたしと彼女は求め合ってきました。わたしの霊は未だに、この肉の殻のなかで彼女を求めて彷徨い続けています。わたしの肉は今も、彼女の身体を、肉を堪能していることでしょう。今、気づいたのですがそれは、貴方なのではないでしょうか。

タクシーの運転手の男は黙って前を向いている。
どうやら新しい家の前に到着したようだ。
一体どこを遠回りして走ったのか、外はもう暗くなっていた。
ウェイターの男は料金を椅子の上に置いてタクシーを降りた。
家具や荷物は明日の早朝に届く予定だ。
ということは今夜は、この家の元の主人の寝台を借りて寝よう。
タクシーの車が走り去った後、知らない土地に独り残された男が夕闇空を見上げて寂しげに言った。
「ただいま。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一話完結的連続小説 『ウェイターの男の物語シリーズ』