Mother Space

「それは疑いもなく固いもので、なんともいえない色艶をしていて、いい香りがする。それはおれじゃないあるものだ。おれとは別のもの、おれの外にあるものだ。しかし、おれがそれに触れる。つまり指を伸ばしてつかんだとする。するとその時、何かが変化するんだ、そうだろう?パンはおれの外にあるのに、おれはこの指で触り、それを感じることができるんだ。おれの外にある世界も、そういう世界じゃないかと思うんだ。おれがそれに触れたり、それを感じたりできるのなら、それはもうおれとは違った、別のものだとは言えないはずだ。そうだろう?」

 

コルタサル短篇集「追い求める男」131,132P 》

 

 

 

 

自分の人生を、まるで映画のように好きに編集できたなら良いと想う人は、どれほど多いだろう。
ウェイターの男は今夜も、自分の過去の人生を想い返し、ひとつひとつ、後悔していた。
”あのときのあの言葉が、あのときのあの行為が、あのときのあの仕種が、あのときのあの想いが、彼女からわたしへの愛を去らせた”
彼女からわたしへの愛を、奪い去ったのではないか。
外は雨が降っている。雨の音を聴くと、彼女と一緒に聴いた日を想いだす。
雨に触れた道路を車が走る音を聴くと、彼女とドライヴへ出掛けた日のことを想いだす。
夜空を見上げれば、そこに瞬く星ひとつない。
それでも何度と、彼女とわたしは夜の空を見上げ、言葉なく涙を流す彼女の脣に、わたしは脣付けをする。
彼女は、「なぜここにいるのかわからない」と言う。
わたしは自分に言聞かせる。「わたしは彼女の孤独を愛したわけではない」
あの男のように。
彼女はいま、わたしの外にはいない。

「Cut!」と声が掛かり、彼女はほっとした表情で微笑みわたしに握手して着替えをするため衣装室へ向った。
わたしはCafeを淹れてソファに座り、飲みながら彼女を待つ。
衣装室からでてきた彼女はわたしの隣に座りわたしを抱き締め、耳元で言う。
「ぼくはきみの孤独を愛したわけではないよ」
彼女はいま、わたしの外以外にはいない。

バルティモアの夜、彼女はわたしに求めたわけではなかった。
彼女からわたしに求めたことはなにひとつなかった。
彼女は自分の内側にいるわたししか、愛したことはなかった。
なにひとつ、彼女はわたしを求めなかった。

「Cut!」と声が掛かり、わたしは着替えて車で彼女を迎えに行く。
今夜は二人が出逢った日の記念日であることを彼女は忘れていた。
だからこの日、わたしに別れの言葉を言ったに違いない。
彼女は家には居なかった。待ち合わせの時間まであと一時間半もある。
一体どこに行ったのだろう。わたしはちいさな箱を開けて今日彼女の指と、わたしの指にはめようと想っていた指輪を眺め、この二つのちいさな輪を繋げるにはどうしたら良いのだろう。この二つの輪が繋がっていないため、彼女はこれからわたしに別れを告げるのだと想った。
でもこの二つの輪を用意したのは、わたしだった。
どうすれば戻れるだろう。彼女をわたしに縛るために用意したこの分かれた二つの輪によって、わたしたちは別々の人間であったことを証明される前に。

「Cut!」と声が掛かり、わたしは彼女を待っている。
このCafeには、秘密の部屋が在る。
「Bedroom」と書かれたドアの向こうで、数えきれない男女が密会を行い、そして別れてきた。
約2m四方の部屋で彼らが囁きあった愛の言葉は全て、酷く有り触れた詰らないものだったため、この部屋の空間ごと、カットせざるを得なかった。
だからこの部屋は本当はどこにも存在しない。
愛の空間だけが実はこの世界のどこにも、存在できない。
彼女は店を閉めた後のこの部屋に、何度とわたしを誘った。
そして彼女のチューリップのなかにわたしが入ることを望んだ。
アンティークの3人掛けのチェスターフィールドソファの赤みを帯びた本皮は、謂わば残り続けている死体の一部と言える。
彼女は何度もわたしに言った。
「このソファで抱き合う恋人たちは死の一部と為っているんだ」
「死んではいないとは言えない行為を遣っているんだよ」
「Cut!」と声が掛かり、彼女はわたしの死の一部と為った。
彼女の死は、わたしの一部と為った。
わたしたちは生を、死に売って来たのではなかったか。
存在しないすべてに、存在するすべてを売り払って、わたしたちは存在すると想い込んで来た。
わたしたちは死として、存在すると。
彼女の赤みを帯びたチューリップの中が完全の死を以てわたしを誘い、わたしでないなにかを産み落とそうとしていたことに、わたしは気付いていなかったわけではなかった。
わたしは恐れなかった。
いや、恐れていた。
わたしと彼女はもはや別々のものではなかった為、わたしは安心と恐怖を、本当に同じだけ感じていた。
しかしわたしに最初に触れたのはわたしでなく、彼女だった。
触れるまでわたしには、恐怖とそれに触れることの渇きしかなかった。
無内容の聖域、愛を虚像として創りあげたなら彼女という女性になっただけのことであり、それ以外に、わたしは彼女のなにを観ていただろう。
彼女のなにが、わたしを見ていたのだろう。
彼女は巨大なこの空を包む女性器のような白い花弁のMother Space(マザースペース)であり、わたしはその蜜を吸いに飛んで行き、彼女の愛の蜜に絡まりながら窒息死してゆく存在に過ぎなかった。
わたしと彼女は性を以て、愛し合ったに過ぎない。
わたしは愛の虚像として、彼女を創り愛し慈しんだ。

「Cut!」と声が掛かり、わたしは振り返る。
そこには誰もいない。ただひとつの古い鏡が、わたしに疲れ切った顔で問い掛ける。
「彼女とおまえは、切り離されたため、おまえが苦しんでいるだろうか」

わたしは今夜も、わたしのなかにだけ存在する彼女を抱いて安心して眠り、恐怖に目覚めるのは、やはりそこに彼女がいないことを知るからです。