ーLight of deathー死の光

天の父ヤーウェは、最初の人として、リリスLilith)という名の女を創造した。

リリスが地上で目覚めると側に一人の天使が座っていて、彼は彼女に向かって言った。

「愛しい我が娘、リリスよ。わたしはあなたを育てる為に天から降りて来て此処に来た。あなたはまだ幼く、多くの教えを必要とする者だからである。あなたはわたしのことを母と呼んでも良いし、父と呼んでも良いが、あなたの真の父の名はヤーウェであることを忘れないでください。わたしの名は、あなたが最初にわたしを呼んだ名にしよう。さあ好きなように、わたしを呼びなさい。」

幼い少女リリスは、あどけない微笑みを浮かべながら彼の美しい目を見つめて言った。

「ナァマ、ナァマ、ナァマ。」

彼は男神であったが、どうやらちいさなリリスは彼を母として認識したようだ。

彼は彼女に微笑み返すと、頷いて言った。

「今日からわたしの名はナァマである。わたしはあなたが成長するまで此処にいて、あなたを一人で育てる。あなたが成長する日まで、わたしはあなたの母となる。」

そう言うと彼はリリスを抱き上げ、膝の上に載せて身体を揺り篭のように揺らした。

リリスは嬉しそうに声を出して笑った。

この幸福な時間がこのエデンで、三十年ものあいだ続いた。

彼は悲しみを押し殺し、成長した彼女をひとり地上に残して天に帰った。

天でヤーウェは、彼女の為に、最初の人の男を創造した。

神はそれをアダム(Adam,土と血の意)と名付けた。

それは実際に、血を飲んだ土によってできたからである。

神が息吹を吹き込んだ瞬間、アダムは目覚め、側で自分を見つめ下ろすリリスに向かって言った。

「アァパ…。」

アダムの目は不安に揺れていて、リリスの彼を見つめる目は冷たかった。

そのとき、天から声が降りて来て、リリスに及んだ。

リリスは天の父に代わって、アダムに向かって言った。

「アダムよ。お前の名はアダム。最初に創られた人の男である。お前はわたし、リリスと同じ土と血によってできた。お前はまだ幼く、何も知らないが、やがてわたしとお前は夫婦となり、地に子孫を繁栄させることが父の望みである。」

そう冷ややかに言い捨てるとリリスはちっぽけなアダムの側を離れた。

ちいさなアダムは、言いようのない悲しみと寂しさを覚えて涙と鼻水を流した。

これを天から見ていた神は、夜の泉の淵で不貞腐れて佇んでいるリリスに向かって言った。

リリスよ。何故お前は生まれたばかりの自分のひとり息子を放ったらかしにしているのか。今すぐ行って、アダムを抱いてあげなさい。あなたは彼のたったひとりの母親なのだから。」

リリスはこれを聴いて、地に突っ伏して泣きながら言った。

「おお、わたしの愛する天の父よ。どうかわたしに母(ナァマ)を戻してください。わたしは彼なしで、此処で生きていたくありません。わたしは息子など欲しくなかったのです。わたしは愛するナァマさえいればそれで良いのです。」

天は黙し、彼女に返事をしなかった。

その夜、仕方無しにアダムに乳を与えながら眠っているリリスの夢のなかに神は降りて、彼女に言った。

「わたしの愛する娘、リリスよ。あなたに本当のことを話す。ナァマは、実は何処にも存在してはいない。彼はわたしが操っていた傀儡(くぐつ)であり、実体はわたしの霊であって、ほかの何者でもない。彼はまた、物質的存在ではない。あなたが感じて、触れていた彼のすべては幻である。だがこれをあなたがそのとおりに信じて、あなたが悲しみのなかに生きてゆくことをわたしは望んではいない。もし、悲しむばかりならば、この夢の記憶をあなたのなかからわたしは消し去る。だが、リリスよ、わたしはあなたを地に残して去らねばならなかったとき、どれほど悲しかったか。わたしは確かにあなたの父であり、また母なのである。人類の子孫を、この地に繁栄させることの目的と理由と意図は、あまりに複雑で、それはあなたに理解することはできない為、まだ話すときではない。」

そののち、リリスは自分の心を殺した。そうすることで、すべてに対して、といっても彼女にとっての”すべて”とは、天の父、神の存在であったが、リリスは神に対する最も良い報復の方法を知っていたからである。

真の暗黒が、彼女を包み、何より優しく抱いた。

その暗黒は、己を真の死へと至らしめるものであると彼女は知った。

或る夜のことである。神は最初の子、光を齎す者ルシエル(Lucifer)を地上に降ろした。

彼はリリスの暗黒の闇を壊(やぶ)り裂くと、光のなかで彼女を抱き、恍惚となって言った。

「わたしの愛する人リリスよ。わたしはあなたを妻にする為、天から降りて来た。あなたは最早、処女ではなくなった。光の子を無数に産み落とし、彼らのすべてを、あなたは支配するだろう。」

リリスは納得し、ルシエルを抱き返すと眩しい光のなかに彼女の闇は溶けてゆき、果たして彼女は、二度と戻らなかった。

即ち、このときリリスは、ルシエルに完全に侵食され、二人は真の一体となった。

天の父、神はこの存在を、サマエル(Samael)と呼んだ。

それは「わたし(神・EL)の毒(Sam)」という意味である。

サマエルは、両性具有の神(半神半人)であり、のちに人々は彼(彼女)をサタン(Satan)と呼んだ。

このとき、アダムはまだ幼かった。自分の母リリスに突如、男性器が生え、その風貌や身体が勇ましく、逞しくなったことに対しても、特に関心を示さなかった。

アダムは、母から愛されないことが関係してか、人として欠陥していたからである。

サマエルは、愛する可愛い我が子の下となって生きようと並々ならぬ努力をつづけた。

だがアダムは、何処までも欠失していて、幼稚であり、霊性があまりにも低かった。

とうとう、アダムが三十の歳になったとき、サマエルは自分が下になりつづけることに堪えられなくなり、彼のもとを去った。

天の父は、この哀れなアダムの為に、第二の妻を創造した。

アダムは、自分の肋骨から創られたこの幼い妻を、最初ハウヮ(Hawwa)と名付けたが、のちにこれを「ハッヴァ」と呼ぶようになった。

それは真に生きており、また呼吸していたからだった。

アダムは、自分の妻であり、また母であるリリスに捨て去られて自信を完全に喪失していたが、ハッヴァの愛らしさは彼を人として立ち戻らせ、真の幸福へと至らせるものだった。

アダムはハッヴァを我が娘として何よりも愛して育て、ハッヴァは成長しても彼を「アーム」と愛情を込めて呼び、父として愛した。

だが、ハッヴァが真に求めていたのは父でも夫でもなく、母であった。

神は天からハッヴァの寂しげな顔を見つめていた。

アダムもそれに気づいていたが、彼女の前で気付かない振りをした。

時は過ぎ、ハッヴァは女として十分に成熟する十六の歳になった。

天から朝の光線と共に声が降り、アダムのところに臨んだ。

「愛するわたしの被造物であるアダムよ。あなたの妻は真になにひとつ穢れることなく成長しました。あなたが母性を深め、無償の愛で彼女を愛しつづけたからである。だが今こそ、あなたは彼女と交わり、肉なる契を交して夫婦となるときである。その日こそ、この地で何よりも祝福される日となる。それはこれまでこの地に於いて、最も幸福な日となる。」

しかし七日間が過ぎても、アダムは彼女の身体に指一本触れることはなかった。

神は、二十二日間待った。だがハッヴァは相変わらず、処女のままであった。

神の悲しみの怒りは嵐と雷鳴となって彼に襲った。

アダムは圧し折れた樹にしがみついて天に向かって叫んだ。

「神よ…!どうかお許しください。わたしにはできません…!彼女はいまでもわたしに母を求めており、わたしに夫を求めてはいないからです。愛する天の父、彼女はまだ未熟で、心はまったく幼いのです。彼女と交わることは、わたしにはとうていできません…!」

すると神の声は稲妻のあとの轟きと同時に彼の処へ落ちてこう言った。

「アダムよ、黙りなさい。わたしはあなたの創造者である。あなたが何故、彼女と交わることができないか、わたしにはわかっている。あなたは恐れているからです。自分を棄てたリリスとハッヴァを重ね、同じことが起こることをあなたは恐れている。あなたはあまりにも弱い。その弱さが何処から来ているか、わたしが教えよう。それはあなたが今もあなたを許せないからです。あなたがあなた自身を受け容れることができないからです。あなたの申し開きを、わたしは聴きません。それは真実だからである。」

アダムの悲しみの何倍も神の悲しみはそれは深く、無限に拡がりつづけ、地上の植物はすべて枯れ果て、忽ちに地の全土は荒野と化した。

神はひとつのことを決心し、再びサマエルを天から地に降ろした。

その夜、ハッヴァはアダムと共に泣きつかれて、アダムの隣で眠っていた。

サマエルが其処へ近づくとハッヴァだけを抱き上げて少し歩いた場所にある泉の側に彼女を優しく下ろした。

ハッヴァは神の息吹と、アダムとリリスの血と肉と骨によって創られたものだった。

彼女の何よりも愛らしい寝顔を見つめながら、サマエルは静かに囁いた。

わたしはこのときを待っていた。わたしはなにものも恐れない者であることを、わたしに証明するこのときを。わたしは、全能者である。わたしはわたしに背くことを真の喜びのなかに行える者である。

そして彼は、自分の娘である彼女と肉なる交わりを通じて夫婦となり、のちにアダムを葡萄酒によって誘惑し、彼とも同時に肉の交わりを通して三位一体の(三者によるイニシエーションを行う)者となり、天の父なる神に対する最も罪深い反逆者と呼ばれるようになった。

だが神は、すべてを知っておられる。

神はサマエルを、「我が彷徨える悪意」と呼び、同時に彼を、

「(我が)死の光(Light of death)」と呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Arovane - Sicht

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Can I Call You Tonight?

18歳の彼は受話器を手に取り、”向こう側”にいる相手に向かって言った。

「ねえ、ぼくは近くに感じている。ぼくは今、此処にいるけれども、ぼくはぼくの行方を知らないんだ。ぼくの知っているぼくじゃないよね。ぼくは天国という場所をいつも夢想していた。そしてぼくは見つけた。実にさっぱりとした場所さ。だれもいないんだ…。でもぼくは知ってるんだ。ぼくはぼくに再会する道を、ただただひたすらに独りで歩いてゆくんだってことを。だからぼくの心はとても興奮していて、わくわくドキドキしている。ずっとずっと真っ直ぐに歩いてゆくんだけどさ、公衆電話を見つけて、ふとぼくはきみを想い出したんだ。電話をかけても、きみは出なかったから、ぼくは伝言メッセージを伝えた(録音した)。『Can I Call You Tonight?(
今夜、君に電話してもいいかい?)』って。そう…言ってから気づいたんだ。此処は、夜がいつ来るんだろう?何処まで歩いても、美しく、寂しげな縹色の空がつづいているんだ。ぼくはきみに会う為に、きみだけに再会する為に、この道を歩いてゆく。そしてぼくはすこしずつ懐いだしてゆく。ぼくの経験してきたすべては、ぼくがぼくを知る為に必要なことで、必然なことだったんだって。苦しくてたまらなくて、自分を殺そうとしたことが何度もあったし、実際にぼくは、ぼくを何度も殺してしまった。ぼくは存在していることに堪えられなかったし、存在自体が虚しかった。ずっと探していたんだよ。ぼくはきみを。きみがいないと感じてた。ぼくを嫌って、ぼくは拒まれて、きみから忘れ去られてしまったんだと想っていた。ぼくは本当(Real)のことだけが知りたかった。Cause I wouldn't know.〈原因を知らないから〉。天国は知ってるんだ。きみのいるところさ。ぼくはまだ、はっきりとそれを話すだけの時間が在る。でもぼくは外へ向かう力とファンをonにすることができない。どうやらぼくという”諸分子から構成された一種の精巧な機械(インテリジェント・デザインの産物)”は電源が切れてしまってるみたいだ。どうかぼくに言ってほしい。すべての存在は還元不能に複雑なマントラによって創造されたのだとね。ねえ今夜、きみを呼んでもいい?ぼくは決心する為にぼくの心を補おうとしている。ぼくにはきみの音声が電話から聴こえる。ぼくは最早、孤独(独りきりであること)を喪失しそうなんだ。ねえ、どうかぼくが感じるように、何がこれ以上本物かについて、教えてくれないかい?」


(We're sorry; you have reached a number that has been disconnected or is no longer in service)
(If you feel you have reached this recording in error please check the number and try your call again)
(申し訳ございませんが、この番号は現在使われておりません。)
(この録音に間違いがあると思われる場合は、番号をお確かめの上、再度おかけ直しください。)


「ねえ、きみはもう本当に行ってしまうのかい?そう…ぼくはきみを手放さなければならないと想う。でも…本当に行くのかい?ねえ、行かないで、行かないでよ…。ぼくがだれだか、わかってるだろう?きみは、ぼくの未来だ。天国に向かう雲の上の道を歩きながら、これ以上の現実(Real)を見つけに行こうとしている。でもきみは、その道の途中で公衆電話を見つけて電話に出るんだ。そしてきみはぼくに言ったんだ。」


『So can I call you tonight?(それで今夜、きみに電話してもいいかい?)』
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Dayglow - Can I Call You Tonight? (Official Video)



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Exists or Exits

  ヨォ、久し振りじゃァねえか。
…嗚呼,なんだ、お前か。
久々に会ったってえのによぉ、そりゃネエゼ。
…それもそうだな。まあ座れよ。
言われなくとも俺は此処に座ろうと想ってたさ。
それにしても、久し振りだね。
オイオイ,お前なんだよ、そのツラ…いつにも増して…
人質に捕られたラタンの壺みてえな顔か。
そうよ…。
ハハ…それもそうさ。
何を操作した?
…ん?俺だよ…。
お前…大丈夫かよ。ところでお前、それ美味そうな奴、何飲んでんだ?
嗚呼,これか、これはブランデーとコーヒーと豆乳と沖縄の黒糖を混ぜたものさ。
お、そりゃ美味そうじゃねえかょ。一つ俺にも注文してくれよ。
良いぜ、俺が作ってやる。
なんだよこの店、客も店員もいねえのかよ。
ま、そうゆう御時世なんだろう、世も末だ。
なあお前、お前いってえいつから此処で独りで飲んでんだ?
…うん?知らんよそんなこと。おい、そんなことはどうだって良いじゃねえか。それより、お前コイツを飲め。
お、すまんね。
どうだ、イケるだろう。
お、コイツはまた、甘くてイケるじゃねえか。
HOTだろう。
HOTだ︎。☕
ははは、俺の魂はSuper freezingさ。
相当、身に沁みそうだな。まあ聴いてやろうじゃねえか、冥土の土産にもしてやろう。
なァ、オレ、おれは、聴いてくれ、俺は…。
だいじょぶか?
俺はさ、宇宙の無限性を信じている。宇宙ってやつは何処まで行こうが続いている。そんだけ広いならよ、どんなやつだろうが存在してても可笑しくねえってことなんだ。俺はあるとき考えたんだよ。例えばこういう奴がいたって、良いよなあ。
どんな奴だ?一生みずからの屁を空間に溜め込み続けて充満させていることに真の喜びを感じて自分の屁だけで呼吸して生きて行けるか命懸けで挑戦してる奴か?
そんな奴はいなくていいだろ。
じゃあどんな奴のことなんだい?
俺はこんな奴がいたら良いと想ったんだよ。40歳過ぎて独身で友人もいなくて、そいつは変わりもんだから、だれひとりにもまともに相手にされなくなって、でも若い女性アーティストに心底惚れ込んでしまうんだよ…それでひたすらに、そいつはすべてに対する情熱と悲しみを彼女に送り続けるんだ。それはそいつにとってとても切実なものだが、彼女には何も届かない。無反応で、読んでるかどうかもわからない。とうとう或日、彼女にブロック(受取拒否)されている(だろう)ことに気づくんだ。でもそれでも、そいつは長文の手紙を死ぬ迄、何十年と彼女に送り続け、彼女の発表する新しい作品を死にたくなるほどの悲しみのなかに鑑賞しては賛美し続けるんだ。そんな男が、この果てなき宇宙の何処かの、本当に目立たぬ処にいても良いな。ってね。
つまりそいつは自分の手紙が相手に届いてはいないだろうと知りながらも長ったらしくて未練たらたらな文章を書き綴って無反応の女に何十年も送り続けてるってわけか。
そうさ。
そいつ、ただのバカだろ?
バカはバカでも、❝ただの❞バカだとは想わねえな。
じゃあなんだ?❝完全なるバカ❞、〘パーフェクトバカ(Perfect Fool)〙か?
もっと凄いだろ。
どこがどう凄いってんだ?そいつ、他に遣ることねえだけなんじゃねえのか?
いや、それは違うさ。
どう違うってのさ。
そいつはさァ…つれえ(苦しい)だろ、かなりよ…。
知らねえよ、そんなこたぁ。好きでやってるんだろ?
好きも嫌いもねえよ、それだけ惚れてんだよ、その女に。
その馬鹿女にか?
馬鹿じゃねえよ、女は。
じゃ、なんだってのさ。大して売れねえ自分の作品をずっと賛美し続けてくれてきた一人のPatron男を恩も忘れて、鬱陶しさを感じた瞬間に面倒になってすかさずブロックしたんだろ?どうせよぉ。
お前さ、お前の糞くだらねえ先入観と固定観念でものを語るのはよせよ。
何、お前、怒ってんのか?
怒ってはいないさ…。
で、そいつ、だれなんだ?いるのかよ、そんなパーフェクトバカ。
いるさ。そんな哀れな男が、宇宙の端っこにね。
お前、見たのかよ。そいつを。
❝見ないで信じる者は幸いである。❞
❝ワザワイ❞だろ?
❝サイワイ❞だ。イエスもそう言っている。
ヘッ。で、そいつがどうしたんだっけ?
俺はさ、真面目な話よ、そこまで哀れで惨めったらしい馬鹿で素直な男がよ、宇宙の何処かにいるんだぜ。俺はそれを確信する。だからさ、俺だって、そいつとまったく同じような経験をしたって良いんだよな、いや、寧ろ俺はそれをしてみてえよ、それでそいつと深い悲しみをShareできるんだからね、凄く面白えし、嬉しいじゃねえか。
おい、お前そんなこと言って、ハハハッ、そいつ、お前が俯瞰して観た今のお前自身だったって堕ちだろ?ワハっ。
…違うさ…。
否定するのかよ?未来のそれを経験するお前と今のそいつと何が違うってんだ?
…そいつは俺の未来だと言いたいのか?
だってお前はまったくそいつと同じ経験がしたいんだろ?同じ経験をするにはよぉ、まったく何から何まで同じじゃねえと無理じゃねえか?
いや、俺はまったく同じ経験をしたいなんて言ってない。良く似た経験さ。
でも本当の処はまったく同じ経験をしてえんだろ?
いや…違う…!っていうか、俺はそいつのこと何もしらねえんだぜ。
だからさ、お前の想像上のパーフェクトバカな生き物だろ?
俺が想像した瞬間に、もうそいつは宇宙の何処かに存在してんだよ。
オイ、さっきから気になってたんだが、なんでずっとMarvin Gayeの「I Want You」が延々とリピートされてんだよ?この店は。
…さあね。良い想い出でもあるんだろう。
…まあ良い曲だけどよ。で、オイ、そいつ今何遣ってんだ?そのパーフェクトバカはよォ。
オレは…いやそいつ…いや、おれは…俺は今朝から,まったくツイてなかった。
なんだ、犬のうんこでも踏んだのかよ。
もっと酷いものだ。
もっと酷えもの…キリストの踏み絵でも踏んだのかよ。
…俺は、何の罪で俺は此処迄、人から嫌われて見離される存在に成り果てちまったんだなァ。
おい,キリストの踏み絵ってのは踏まれる為のものとしてそこに展覧されている。そんでその踏み絵の横にはこう書かれてあんだよ。『どうぞ御自由に御踏みください。』とな。それを踏まねえで帰るならキリストに失礼ってもんだ。人間ってのは馬鹿で正直だからよォ、踏み絵としてそこにあって、自由に踏んでも良いんだとわかると踏んで屁ェこいて帰りたくなるものなんだよ。
…。俺のこの苦しみと悲しみがキリストに背いた罰だとお前は言いたいのか?
違うってのか?キリストとはこの世に何が善で、何が悪であるのかをはっきりと示した預言者であるんだぜ?キリストはこう言ったんだよ。『わたしはこの世に平和ではなく、剣を齎すために来たのである。』剣とは破壊させる為のもの。それから、切り分ける、選別する為のものだよな?つまり、イエスはこう言いたかったのさ。俺は人間の罪の意識を破壊する為に来た。そして俺は、罪の意識のある者と、罪の意識のない者とに選別し、自分に背く方を、つまり、罪の意識に苦しんで、悲しんでばかりいるパーフェクトバカたちを永遠に滅す。とね。
いや、逆だろう。イエスは『悲しみ嘆く者は幸いである。』と言ったんだ。イエスは善良な人ほど人が罪の意識によって苦しんで嘆き続けることを知っていたからさ。そしてその苦しみ、悲しみの深さによって、人は深く悔い改めることができることを知っていたんだ。イエスが破壊させるものとは寧ろ人が罪を忘れた罪悪のない意識なのだよ。
そうなのかなぁ、俺は罪悪心というものが皆無だからなぁ。じゃあ俺は滅ぼされちまうってのかよ?
罪悪心が皆無の者は滅ぼすとだれが言ったんだ?例えば幼児は虫を踏み潰しても何とも感じていないが、何者もそれを咎めようとはしない。何故なら言っても理解できる能力がないからさ。
俺がもしその馬鹿なガキの親なら、そのツラを思い切り引っ叩くね。言ってもわからねえなら痛みで思い知らせるしかねえからなぁ。
でもそいつはなんで自分が叩かれたのか全くわからねえから泣くばかりさ。
それはしょうがねえだろう、これが因果応報というもんだとそのPerfect未満バカに教えてやんねえとな。
お前、本当にそんな親になるつもりなのか?
俺が親?いつ俺は親になれんだ?どんな女も俺の情熱が暑苦しい上に寒々しいっつって俺に嫌気が差して去ってゆくってのによォ。
確かにお前が親になるなんざ、想像できねえが…しかし人間ってもんは親になった気持ちでこの宇宙を俯瞰しなくては、結句何も見えては来んのだよ。
そうか、ソイツはすげえ。そんでお前はその見えて来たものによって今お前の罪がお前を苦しめてるんだと想ってんだな?
いや、そんなことは本当のところは想ってないさ。
そんじゃお前はなんだってそんなに延々と苦しんで悲しみ続ける人生なんだよ?
…なあ、想像してみてくれよ。俺たちは全員、Racer(レーサー)なんだよ。登ってる山の天辺が一応一つのGoalなんだ。死ぬ迄、安全運転で行く奴もいれば俺みてえに全速力で突っ走り続けるバカもいる。俺は早くゴールに着きたいんだよ。スピードを上げ続けて走るためにはそれだけのEnergyが必要だ。俺は何故だかわからねえが、死のCurve(カーブ)を曲がる前ほどエネルギーが満ちて来て燃えてくるんだ。俺はスピードを落とすことなく全速力でその角を曲がろうとする。案の定、曲がり切れねえで俺の車は横転し、崖から滑り降ちる。それでWrecker(レッカー車)で引き揚げられてズタボロの俺はまたそこから〘RESTART〙だ。Rearview mirrorもHeadlightも、修復不可能になって来る。俺はいつもまるでこの世界に独りきりで存在しているように感じるんだ。俺はいつも寂しくてしょうがねえが、それでも俺は、スピードを落とすことはできない。俺には落とし方がわからねえんだ。みんな俺のことが理解出来ねえから、みんな俺をこう想ってる。
できるならば一生深く関わりたくはないDangerous Looney Mad Perfectバカってか?
そうさ。
Total Super Fool アホだな?
同じような意味合いを言い方を替えて二度言わんで良い。俺は、つまり、だれも本気で俺に近付こうとはしないんだよ。
だれも絶対に本気で近づきたくはないTotal Weirdo Nutcase Insanity ばか(トータル・ウィアードゥ・ナットゥケイス・インサニティ・バカ)だ。
でも俺は人と表面的関わりは死んでもできねえから深く深く闇の底までも引き摺り合ってく関わりを求めて関わるんだ。
そりゃだれとも続かねえぜ。
…はッ。俺だってよ、本当の本当に、魂が空になっちまうほど惚れた女がいたんだ。俺はその日、彼女を喜ばせる為にValentineのCakeを朝から作ってた。Decorationに俺の彼女への愛のメッセージを書くつもりだった。でもそれを書くまえに彼女がうちにやって来たんだ。俺は少し部屋を片付ける為にCakeのそばを離れた。そして戻ってきたら、テーブルの上には食べた残骸と化したCakeがあった。俺は彼女に問い質した。一体これはどういうことなのかね、と。すると彼女、気味の悪い笑みを浮かべて俺に言ったんだ。二月なのに彼女は暑さを感じて窓を開けた。そしたら1匹の大きなアシナガバチ(Paper wasp)が  🐝¯­­--­­_ぷーん。と言いながら飛んで部屋のなかに入ってきたんだ。彼女はそいつを見つめてた。するとそいつは旋回したあと、Cake上の中空に止まって自分のケツの先から、まるで出産するかのように白くて小さな球体のチョコを出して、Cakeのその表面にチョコペン風に点描し始めたんだ。書き終わるとそいつはまたぷーん🐝 𓂃 𓈒𓏸.。oஇと言いながら外に飛んで行った。そこにはこう書かれてあった。『君は在って、無い。』つまり"君は《在る》と同時に《無い》"とアシナガバチが彼女の為に書いたんだ。彼女はそれを、一人で食べた。俺と分けて食べたくなかったって彼女は言ったんだ。俺は泣きながら彼女に言ったよ。良いかね、それはまさしく天からのMessengerだったんだ。そんな素晴らしい奇跡を、ほとんどの人は、経験することなく死んでゆく。何故かわかるかい?信じちゃいないからさ、そんな奇跡が本当に起こり得るとはね。馬鹿げてるだろう…僕は君とそれを分けて食べたかったのだよ、真に…。彼女はとても嬉しそうに笑ってた。その、一ヶ月後のことだった…。
おい、俺ァその話、もう何万回と聴いたぜ。もうその腓(こむら)返りをしている間に浮かぶ奇怪な話みてえな過去を話すのはよせよ、もっと楽しい話をしようじゃねえか。
…彼女はWhitedayに死んだ。白い日に、彼女はまた啓示を受けたんだ。それは天使からの無言の啓示だった。純白の鳩が、窓から入って来て、それで、それで…
おい、良いからもうやめろって…
それでその鳩のケツから、最高に濃度の高いヘロインが出て来て彼女の口元へと注がれつづけたんだ。
おい、もう烏が寂しげな声で鳴き始めてるぜ、夜が明けたんじゃねえか?
純白の鳩は、純白の霊であり、それはイエスという花嫁だったんだ。彼は彼女を夫として選び、天に連れ去った。人の子の精液をその内へ注がれた者は、もはや此処では生きてはゆけないのだよ。
なあそれより俺の話を聴いてくれ。一人の男が、たった一人、愛し続けた女から見棄てられる。女は本当の愛に目覚めたんだ。女は男に言うんだ。彼に自分の全てを捧げると。男は嫉妬に狂いながら相手の男を監視し始める。だがその男を知れば知るほど、男は嫉妬の炎に苦しむんだ。何故なら、そいつはPerfectなんだよ。
そいつもPerfectbakaか。
おい、真剣に聴けよ?それで、そうそのパーフェクトバカ。じゃねえ、Perfect野郎、そいつは自分の知る男のなかで最高にCoolなんだよ。男はとうとう、マジで嫉妬に我を失い、男を殺しちまうんだ。それでその最も素晴らしく最も美しい男の死体を見つめて、男は気付く。その男はイエスであることを。そして男は、自分の彼に対する狂うほどの嫉妬は、彼に対する真の愛の為であったことを知って、イエスの亡骸を、父を抱き締めるように抱き締め、男は恍惚のなかに、昇天するのさ…。真の愛とは、真の愛で相手を愛するとは、相手からの真の愛を、何よりも切実に求めることなんだよ。男が本当に求めていたのは、女の愛(Erōs)ではなく、イエスの愛(Agape)だった。そして女も…
おい、『agape』の、《aga》は、『贖う』の《アガ》だと知ってたか?『aganow』、"贖う"は、元々《アガノウ》とも言っていたんだ。”我、今、神の愛也”という意味だ。
なるほどなあ、ってことはよ、つまり、『贖い(アガナイ)』とは、”神の愛がない”って意味なんだな?
そうさ。…って違うだろ、お前。
HAHAHA…なあ…俺はもうそろそろ帰るぜ。お前と久々に話せて、俺は嬉しかったぜ。
おい、もう帰るのか?
 
男はそう自分の向かいの席に置いてある姿見に向かって言うと、男の後ろに去ってゆく男の後ろ姿が見えて、男はその寂しげな後ろ姿が見えなくなるまで振り返らずに見送った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
Marvin Gaye - I Want You
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

If you really don't want it.

君は行きたい処はないの?
Is there anywhere you want to go?
ぼくは此処にいたい。
I want to stay here.
此処はとても酷い地獄だけれど、それでも良いの?
It's a hell of a place, but is that okay?
…ぼくは知ってるさ。
...I know.
君はずっとずっと苦しんできたね。
I know you've suffered a lot.
ぼくは幸福な時もあった。
I've been happy at times.
君は幸福を知り、悲しみを知った。
You've known happiness and you've known sorrow.
君は幸福を知るほど、悲しみを知った。
The more happiness you know, the more sorrow you know.
君は幸福な時、愈々悲しかったね。
The happier you are, the sadder you are.
ぼくは幸福を恐れている。
I'm afraid of happiness.
君は幸福を感じるとき、罪を感じる。
When you feel happy, you feel guilty.
ぼくに罪はない。ぼく自身が罪なんだ。
I'm not guilty. I am the sin.
君は罪ではない。君は恐れだ。
You are not a sin. You are fear.
ぼくは恐れている。ぼくは衣服を恐れている。
I'm afraid. I'm afraid of clothes.
衣服が今日、夢の中でぼくに後ろから襲い掛かってきた。
The clothes came at me from behind in a dream today.
それは本当に酷い悪夢だ。
That's a really bad nightmare.
あれは真の心霊現象だ。
It's a true psychic phenomenon.
君は逃げた。
You ran away.
ぼくはぼくの部屋の中で逃げた。
I ran away in my room.
君を襲った衣服は黒っぽい色をしていたね
The clothes that attacked you were blackish in color.
うん、それは生きているようだった。
Yeah, it was like it was alive.
それは君の恐れだ。君の恐れは真に生きている。
That's your fear. Your fear is truly alive.
別の衣服が、玄関のドアの前に吊るされていて、そいつの胸には顔があった。
There was another garment hanging in front of the front door, and it had a face on its chest.
そう、幾つか顔があって、君はそれを邪悪なものだと感じた。
Yes, there were several faces, and you felt they were evil.
ぼくはその服を選んだことを後悔した。
I regretted my choice of clothing.
でもその衣服は、君が選んだ時は顔がなかったじゃないか。
But the clothes didn't have a face when you chose them.
うん,ぼくが顔を恐れたから、ぼくの衣服は顔を持つようになった。
Yeah, because I was afraid of my face, my clothes came to have a face.
君はずっとずっと、衣服に悩まされてきた。
You've always been bothered by clothes.
ぼくはずっと衣服を恐れて来た。
I have always been afraid of clothes.
衣服は,肉体を象徴している。君という霊的存在は肉体の全てを恐れている。
Clothes symbolize the body. You, a spiritual being, are afraid of everything physical.
肉体が存在するようになり、この世界に拷問の苦痛が存在するようになった。
When the body came into existence, the torment of torture came into existence in this world.
君がそれを恐れたからだ。
Because you fear it.
全ての肉体は、真に恐ろしいものだ。
All flesh is truly terrifying.
君が恐れなければ、肉体は何処にも存在しなかった。
Without your fear, there would be no bodies anywhere.
ぼくの恐れが、肉体というものを創造した。
My fear is what created the body.
肉体は、それはただそれだけで、生きている。
The body, on its own, is alive.
君の恐れは真に生きている。
Your fear is truly alive.
肉体は、ただそのものだけで、生命だ。
The body, just by itself, is life.
君は真に生きている。真に生きる者が創造するもの、それは真に生きている。
You are truly alive. That which is created by the truly alive, is truly alive.
僕を襲った彼らは、彼らは生きた死者だった。
Those who attacked me, they were the living dead.
君の恐れ、それは死に行くものたちだ。
Your fear, it's the dying ones.
今、それはぼくの中で生きている。
Now it is alive in me.
君はかつて、真の永遠の死者だった。
You were once the true and eternal dead.
ぼくは恐れた。
I was afraid.
きみは恐れた。
You were afraid.
永遠に生きるということを。
afraid of living forever.
そしてぼくらは、ぼくらの恐れそのものになった。
And we became our fear itself.
永遠に生きるというぼくらの恐れ、それがぼくらの夢(この全ての想像が具現化する現実)で、永遠に死に行く者たちを演じ続けているのさ。
It's our fear of living forever that keeps us playing the eternally dying in our dreams (the reality in which all this imagining materializes).
 
 
 
 
 
 
 
 
 



 
Scattle - Fight The Nightmare



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Selfish Greedy Misery

僕らはついに遣ってしまったんだ。
何を?
見境なく、あの、史上最高の未確認飛行物体を、撃ち落としてやったのさ。
メラメラ燃えて、眩しかったぜ、アイツ。
藁にもすがる思いで這いずってきやがって、しこたまこちとらBackdrop決めて彼奴は。
どうした?
死んだよ。
お前、まさか、死んだのか。
死ぬことないだろうに。
お前が遣ったんだろ。
僕らはついに遣ってしまったんだ。
何を?
昨夜むくんでた足を切り落としてやったんだ。
誰の?
俺の。
俺の足は踊って言った。
『もうじき春だなあ。』
俺は言ってやった。
「お前、頭可笑しいんじゃねえのお?」
あいつは楽しげに笑いながら海の方へ走ってって、そのうち、見えなくなった。
俺は遣ってしまった。と想った。
俺の足だからなぁ。
代わりに、葦を足にしたんだが、
どうした?
いや、へなへなで、これじゃあ蛭児だ。
俺ァ蛭児だ。
僕らは遣ってしまったんだ。
あの夜。ただ遊べる金が欲しかったんだ。
たった七日間、僕らは遊んで暮らす金が欲しかった。
あの嵐の晩、強盗に入った団子屋の親父がまさかの、マフィアのボスだった。
僕ら三人、全員、手と足の指を一本一本ずつ、見沢知廉みたいに、小さな小さなナイフでゆっくりゆっくりと削るように切り落とせ。そう顳かみに銃口を突き付けられて言われたんだぁ。
嗚呼、絶体絶命の週末。目の前の壁に何故か”力饂飩”っていう掛け軸が掛かってた。
意味がわかんねえなあ。俺はそう想いながら、手指と趾二十本、痛みこそ最高の快楽だと己に言い聴かせながら脱糞しそうな想いで切り落としてやったんだ。
こんなことになるならさ、俺は仏陀を目指して頭丸めて出家するべきだったよ。
今からでも遅くない。
そう、俺は、俺達は、今からでも遅くはないさ。
指はもうねえけどなあ。
愛しいあの娘の酒で荒れた紅い頬を、俺の、長く細い指で撫でるのが好きだった。
彼女は俺に言ってくれたんだ。
貴方のなかで何よりも、手の指が美しいと。
その指で、彼女の好きそうな音楽を作ったり、彼女に愛の手紙を書いたり、そう…
俺が燥いで飛ばして事故った車の助手席で死んだ彼女の骨も、俺は拾ったよ。
凄く、熱かったけど。
嬉しかったのかなあ…。彼女。あん時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Scattle - Selfish Greedy Misery

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〘牛の首〙-葬られた牛神伝説-

又昔、一人の老いた僧が旅の途中、真夜中に峠を過ぎようとしたときであった。
それまで何の煩わしき音一つしなかったのに、此処へ来て妙な、不安な音を聴いた。
それは水音と、何者かが嘆き悲しんでいるかのような幽かな音だった。
僧はじっとして少しの間、その音に耳を澄ませていたが、音が止んだと想う瞬間、音のする山の奥へと入って行った。
するとそこに、小さな池が、黒い水面を一面に湛えていた。
僧はその池に静かに近寄り、その水面を覗き込もうとしたその時であった。
後ろから、不穏な幽気が、僧を引き寄せんとした。
僧が振り返ると、何人もの亡者が、頭を垂れながら列を成して進み、一人ずつ黙々と池の中へと入ってゆき、淵の水面に消えて見えなくなった。
僧は憐れみ、成仏できぬ亡者たちの為に池に向かって経を唱えた。
そうしていると、この場所で代々行われ続けてきたある儀式が見えて来た。
僧は錫杖を打ち鳴らし、一層激しく真言(呪句)を唱えた。
そして両の瞼をそっと開いた。
夜な夜な、此処で繰り広げられてきたあまりにもおぞましき光景を、僧は見つめた。
目の前に映るこれらが幻覚であったならば、どれだけ救われたであろうか。
しかしこの老僧は、そこで残酷な儀式を行っている自分の過去世を観たのである。
村の者から恐れられてきた一人の孤独な呪術師の姿、それが自分であったことを僧は思いだす。
僧は、水辺に跪き、己自身の罪の深さを愈々知って悲しみに打ち拉がれた。
老いた虚無僧は哀れにもこの真っ暗な水辺でひとりさめざめと泣いておった。
それに気づいた一人の娘が、密やかに近付いて僧の背を優しく摩って憐れみ、自分の住処へと誘った。
だが僧は、夢現のなかにまたも見たくはないものに囲まれねばならなかった。
何故ならばこの娘こそ、村のものたちの畏れる人喰いの鬼神であったからである。
人の首や骨が、あちらこちらに転がり打ち棄てられているこの娘の住処で、僧は朦朧とした感覚のなかに、娘を棄てて此処を去ることもできず、半月程ばかり共に暮らしたのちのことである。
ある日、僧は娘から愛らしい声で呼ばれた。
「お母さん…。」
そして娘は僧に抱き着くと、自分を乳呑み子のように抱いてくれとせがんだ。
僧は娘を抱きながら、恍惚な歓喜と同時に、堪えられぬ悲痛に嗚咽した。
この娘は、何も知らぬのか…?
我がした事を…。
僧は血の気の引く身体に顔も青ざめていたが、娘への愛おしさに欲情し、娘を強く抱き締めながら想った。
この娘を改心させ、人のように生きさせることが己の責任であり、それが叶うならば娘と残りの人生を添い遂げたいと心の底から願った。
だが、その為には、この娘に自分の本性(過去)を打ち明かさねばならぬことをわかっていたので、僧は悲しみに暮れてはひとりで隠れて泣いた。
しかしとうとう、隠しておくのに堪えられなくなった僧は、酒をたらふく飲んだ夜、娘を膝に乗せ、愛する我が子に話し掛けるように、ゆっくりと話し始めたのである。
「未だ、あの儀式が続いているのは、わたしのしたことが原因であるだろう。わたしが、あの夜に何をしたか、お前は知っているか。わたしは…なんということをしたのだろう…。だがわたしはあの夜、正気であったことを憶えている。お前にこんなことを言うのは、あまりに言い訳がましいことだ。どうかわたしを許せ。わたしがあれを行ったのは、すべてを救う為だったのだ。呪術には、陽と陰があるが、わたしは陽の術しか、行った試しはない。つまり…単純に何かを呪って行ったことは一度もなかった。今でも変わらぬが、あの時代にも、だれもが己れの罪を知らぬと嘯きながら罪を犯しつづけ、他者の痛みに、そこにある助けを乞うて伸ばす手に気づくことができなかった。だから天王さまが、御怒りになって、人々に気づかせる為に雨を降らさなかったのだ。しかし、人々は何処までも神に背き、愚かだった。人々は我が身に愈々危険が迫れば、何処までも無慈悲になれるのだ。その哀れさ、その虚しさに、わたしは最早堪えられなかった。人々は、旱魃や疫病に遭うことで己れの業を省み、悔悟するどころか、益々深い業を積むようなことをし始めたのだ。それは自分の罪を、"他者"に着せ、それを犠牲として神に差し出すことで許してもらおうとしたのである。天の神が、それを喜ばれると本気で想っていたのだ。しかし結果、天による災いは終わらなかった。迚も斯くても、自分たちを助けつづけてきた大切な牛を生贄にし、神に雨乞いをする儀式は無駄に終わった。すると人々は何を想ったのか、天にどれほど生贄を捧げて乞うても雨が降らないので、今度は天を怒らせようとし、池の主である龍神さまをも憎み、池を血で穢し始めたのだ。最初のうちは厳かな祈祷を行うなか松の大木に松明を灯して鼓や鉦太鼓を打ち鳴らし踊りて、水辺の祭壇で牛の首を刎(は)ね、その首を石棚に祀ったり、首を池の淵に放り込むだけだった。だが一向に、雨は降らぬ。なれば、さらなる神の怒りを買う為、とことん牛を苦しめてから殺すことを村の者たちは考えた。牛を気絶させることなく頸動脈を切り、牛の息の根が絶えぬうちに皮を剥いで、腹を切り裂いてはらわたを引き摺りだし、四肢を根元から切断した。そしてまだ心の臓が動いている間に、最後に牛の首を切断して池に放ったのだ。わたしはその様子を、岩の陰から息を呑んで見つめていた。血濡れつづける祭壇の石も、巨大な血溜まりと化した血の池も、もはや人を呪うことしかしていなかったが、人々はそれに気づかなかった。その穢れを洗い流そうと、神がいまに雨を降らせるのだと人々は信仰し、餓鬼の如くに興奮して殺したばかりの牛の生肉を皆に振る舞い、それを喰らい、牛の血を飲みながら狂喜乱舞するのを祭祀儀礼と称してやめようともしなかった。わたしはどうしても、それを終わらせたかったのだ。予想通りに、何度と殺牛儀礼を繰り返そうが雨が一向に降ってこないことに苦しみ、村の者はこの近くでたった一人呪術を行えるわたしの元に泣いて懇願しに来た。わたしはこのときを待ち望んでいたゆえ、嬉々として、彼らにわたしの劃策を伝えた。わたしは彼らに、こう伝えた。『此の世で最も恐ろしく、最も天王さまと龍神さまを悲憤慷慨させることのできる秘術がある。これを行うならば、必ず雨が降り、旱魃が半世紀に亙(わた)って来ないことを約束しよう。』承知した村の長が、早速わたしの言う通りに、一頭の子を孕んだ若く美しい斑の牝牛を用意した。わたしはその牝牛を可愛がり、人の肉だけを喰わして養った。母牛はやがて、元気な子牛を産み落とした。それは牝の子牛であった。人の肉だけを食べて生きて来た母牛のなかには、人の念(残留思念)が生きており、母牛は人の情で、我が子を愛して育てた。わたしは母牛の我が子への情が極まった頃、一人の若い破戒僧を捕らえてくるようにと村の者たちに言った。するとわたしの想像通りの、美しく、悟りを既に開いているかのような静かな面持ちの僧侶がわたしの目の前に連れて来られた。この僧侶と、母牛と子牛を同じ倉に閉じ込め、良く互いに触れ合わせ、情が互いに映るようにした。僧侶が口にするのをわたしは観なかったが、この倉のなかには人の肉だけを彼らの食べるものとして持って行かせた。僧侶はいつも、なんとも言えぬ深い情の目をして親子の牛を見つめておったものだ。聴くところによると、この僧侶は母を知らぬ棄て子であった故、母に愛された記憶を持たぬそうだ。それは、わたしも同じであったが故、僧侶に同情しないではおれなかったが、わたしはあのとき、これを行うことが天命であることを確信していたのだ。わたしはわたしの命から、逃れる術はなかった。お前に、こんな話をする日が来ようとは、あのときのわたしは想像することさえできなかったよ…。……お前も嘸かし辛かろう。しかし、つづきを話せねばなるまいな。その僧侶は確かに、悟りを開くか、開かないかとしておったはずだ。そうでなければ、あんなに静かに、飢えと監禁の苦しみのなかに母牛と子牛を情愛の眼差しで見つめつづけることができたであろうか。わたしはあの若い僧に、母親の眼差しを見たのだ。まるで母のように、自分と共に捕らえられた母牛と子牛を見つめておったのだよ。この先に起こることをすべて見通しているかのような目で。わたしは己れに言い聴かせること必死であった。最も残酷なことを終らせる為に、それを上回る残酷な儀式を行う必要があることをわたしは知っていたからだ。」
老僧は、ふと目蓋を開いた。
呪術師と、みずからを呼び、誇りにでもしていたのであろうか。
己れの目の前、丑三つ刻の水辺にひっそりと立ち竦む過去の自分の姿は、まるで血に穢れた屠殺者と何も違わぬことを知った。
それも過去の己は、最も残虐な行いをした一人に違いないのである。
彼の右手には、牛を屠る為の刃物が握られ、松明の火が、屠られる者たちを美しく照らしている。
まず、彼はその幼気(いたいけ)な子牛の頭を押え、その頸動脈を切り、素早く皮を剥ぎ、腹を切り裂いた。
そのとき、火傷をするかと想うほどに熱い血が溢れ出て、噎せ返るほどの血腥い臭いが彼を包んだ。
子牛は苦痛から、悲鳴をあげながら石の上でのたうち、その様子を母牛と、僧侶がじっと息を飲んで見つめている。
彼は子牛のはらわたを引き摺りだし、一体、だれに対する怒りなのか、それを母牛と僧侶の顔面に投げ付けた。
そして子牛がそれでも暴れて逃げようとするなか、四肢を根元から切断し、最後に首を切断した。
この時点で漸く、子牛は動かなくなった。
彼は、返り血と汗で汚れた顔を僧侶に向け、悲憤の交じる疲れた声で言った。
「御主は神に選ばれし者也。御主こそ、真の世の救い主で在られる。」
彼は血溜まりの石台に腰を下ろし、子牛の首を己の前に置き、四肢を合わせて自分の周りに五つの角が五芒星のように生えるように置くと吉祥坐を組んで呪文を唱え始めた。
その夜はそれで事を終え、あくる夜、彼の手によって母牛が同じように水辺で犠牲となった。
母牛の場合、まず横たわらせる必要があったので四肢の先を最初に刀で切断した。
立っていることの叶わなくなった母牛の大きな身体は血の溜まった平らな岩の上に倒れ込み、僧侶に向かって必死に助けを請い、目尻から涙を垂らし、目を剥いて訴えた。
母牛のはらわたをも顔面にぶつけられた僧侶は、このときばかりは見開いた血眼で彼に向かって泣き叫び、苦しみのあまり嘔吐した。
僧侶は、呪術師が真言を唱え、呪術を行っているなかまだ生きている母牛の、その皮を剥がれて血を滴らせた切り落とされたる赤い首を抱き締めると我が母のことのように悲しみ、慟哭した。
(今だ!)
「今だ!」老僧は目の前の呪術師と同じ瞬間にそう叫ぶと、刀を僧侶の首元目掛けて振り下ろした。
瞬間、僧侶の首が床に落ちるまでの間に、僧侶の手から母牛の首が、まるでそれそのものが生き物であるかのように僧侶の切り落とされた身体を這うようにして上ったかと想うと、その首の根元の方にしっかりと繋がったのである。
その姿は、牛神(うしがみ)として畏れられるに相応しく威厳に満ちており、我が術が、真に成功したことをわたしは歓んだ。
斯くして、母牛の首と繋がれし僧侶は、逞しく立ち上がると、ぎろりとわたしを見下ろし、黄金の眼で睨みつけ、言った。
『良いか。我は世の滅ぶまで、まさしく世を支配する者也。それがお前と、お前の主の望みであるが故。』
わたしは、己れによって創造した神、その者を、こう呼んだ。
「おお、我が母なる神、我が天の王、世の夜明けを担う救世主、ゴズ(牛頭)よ…!」
そう…牛の首(頭)を持つ荒ぶる祟り牛神を創造したのは、わたしなのだ。
この神は、水の災いと、疫病を掌る神である。
この神は、まさしくお前の、父であり、母である。
そう言うと老僧は涙を流し、娘を震える身体で抱き締めた。
娘も悲しんで、共に泣きつづけた。
夜明け前、老僧は片眼をそっと開けた。
すると娘の首は、鬼に喰いちぎられたようにして床に転がって、息絶えており、血に穢れた斑牛の毛が幾本も、床に落ちておった。
この牛神(牛鬼)は、自分がとうの昔に殺した人間の娘の姿に化けいて、
その実、牛鬼が化けていた娘は過去生で老僧の愛娘として生きており、その娘は呪術師の殺した子牛の前世であった。
この牛神が、自分のことを何故、"お母さん"と呼んだのか、このとき、老僧は知った。
それは彼の、魂を懸けての、望みであったのである。
真の時間の存在せぬこの世界では、あらゆるとき、あらゆる形体(生命の形)で、人も他の生命も生まれ変わる(立ち現る)ことができる。
正しく、この老僧こそ、牛頭の神であったのである。
人がみずから、己れの殺生の罪を報わんとして、また相手の苦しみと悲しみを知るが為、己れによって殺されたる者として生まれ変わって来るという此の世の在り方、これぞ、真の仏の慈悲也。
老僧は、最早なにものも喪うまいとして我が娘の首をしかと強く抱き締め、牛頭の姿(本体)で血の涙を流して言った。
「わたしは人から愛されなかったが故、人から殺されねばならなかった。わたしが呪いつづける者。それはわたしである。わたしが愛される者として、存在してはいなかったことを、わたしは永遠に呪いつづける。」
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

The Sea of Elijah

白い海の向こうには、紅い砂漠がつづいていて、人々は朽ち果て、そこにただ独り、遺る人を想うこともなかった。
地には血の雨が、三年と六ヶ月降りつづけていた。
深い谷の川のほとりの洞窟で、エリヤは目覚めた。
涸れつづけていた川に、水の音を聴いた。
その日から、決まって黒い渡り烏(ワタリガラス)がパンと肉を彼のもとへ運んできたが、それはどちらも人の肉(死体)であった。
エリヤは、渡り烏に言った。
「わたしは最早、人の肉を食べたくはない。これまでは眠りのなかにいて、それがわたしの肉であると想っていたが、わたしは今目覚めたのであり、それをもう必要とはしなくなったからである。だから何かほかの食べ物を運んで来るように。」
渡り烏は一声ちいさく鳴くと、何も言わずに空に飛んで行った。
エリヤは目の前に棄てられた、人の肉から目を背けて空を見上げた。
のどかなほかになにもない縹色の空であった。
エリヤは澄んだ川を流れる水を眺めながら懐いだしていた。
エリヤは、地に雨も露も降らないようにと祈った。
するとどうだろう。
見よ、すべての地に三年と六ヶ月ものあいだ、一滴の露も雨も降らなかった。
その代わりに、地には真っ赤な血の雨がそのあいだ止むことなく降り続けた。
人々は互いに身を切り裂き、その血を水の代わりに飲み、その肉をパンの代わりに食べようとしたからである。
風はなく、なんのざわめきの音も聞こえないほど静かな午後だったが、エリヤは神の声を聴いたような気がした。
神はエリヤに言った。わたしを待つ者が、そこにいて、その者にわたしに人の肉以外の食べ物を与えさせる。だからそこに滞在するようにと神はエリヤに命じられた。
エリヤは早速、この暗い洞窟をあとにして出発し、その町へ向かった。
多分、十日以上歩いて、やっと町の入り口へ彼は着いた。
彼は喉が非常に渇いていたので、荒れた地で、ちょうど薪を拾っていた女に声を掛けた。
「わたしにどうか水を飲ませてください。」
彼女は、驚いて振り返りエリヤを見た。
その表情は困惑と悲しみに満ちており、彼女は痩せ細った痛々しい身体を翻し、水を取りに行こうとした。
エリヤは彼女の背中に呼び掛け、言った。
「どうかパンも分けてください。」
すると彼女は振り返り、涙を流して言った。
「あなたは生きている神、あなたの神エホバに懸けて言います。もう、わたしたちは終りです。あと一握りの麦粉と、少しの油で最後のパンを作り、わたしとわたしの愛する息子はそれを食べて死ぬだけなのです。」
エリヤは、このとき、絶望した。
悲しい顔でエリヤと女は見つめ合うなか、彼は想った。
わたしはどれほどの命を殺してきたか知らない。神はわたしを大量殺戮者として生を与え、最後に出会った女とその子が飢えて死にゆくのを見つめろというのか。
エリヤは、悲しみのあまり血が滲み出るほどに歯を食い縛った。
そして、神に向かって心の裡に叫んだ。
神よ、あなたの御心が叶うならば、どうかわたしの願いを叶え給え…!
そのときであった。一羽の、大きな美しい虹色に光る黒い渡り烏がエリヤと女の間の地上に降り立ち、咥えていた血の滴る大きな鮮やかな赤い肉の塊を地に放おった。
そして大きく一声鳴くとまた空へ飛び立った。
女はまるで救われたような安堵の目で、一心にその肉を見つめていた。
エリヤは、女に言った。
「あなたはそれを食べてはならない。それを食べればあなたはどんな奇跡を行うこともできれば不死の魂を手に入れることもできるが、その代償に、あなたは愛する自分自身と、愛する誰かを喪う。それは永遠に喪いつづけ、最早、あなたにそれは戻らない。」
しかし女は素早くその肉を手に持つと、薪で火を熾して焼いて息子と共に食べ尽くした。
エリヤは、飢えの苦痛のなかに、その光景を地獄を見つめるようにぼんやりと眺めていた。
自分が永遠に生きつづけることを知っていたエリヤは、もう少し楽な世界に生きたいと願った。
この地上に、残されているものとはなんだろうか。
わたしのすべての警告は、塵のように虚しい。
わたしの人類への愛は、暗黒の雲に覆われ、人もわたしも最早見えない。
わたしは彼女を何よりも愛していたが、彼女の息子を同等に愛することはできなかった。
女は、エリヤを愛してはいたが、息子ほどに愛してはいなかった。
エリヤの胸に抱かれて女が眠る夜、そのときだけの彼の至福の歓びは、女と共鳴し合う日は来なかった。
神の力をみずから棄て去ったエリヤに対して、女は自分たちと同じような人であると感じていた。
だが、同時に“人ではない”ものをエリヤに感じていた。
“人ではないもの”を、エリヤは彼女の息子に対して感じていた。
それは最初から、“異形の者”だったのである。
だが人は、己れの鏡を通してでしか、相手を見ることはできない。
女の腹を孕ませたのは、人ではなく、鬼と獣の一体となった者。
エリヤは、心の底で望んでいた。
彼女の息子が、此処を去るか、死ぬことを。
エリヤは、自分の未来を想いだしている。
わたしはやがて女を愛する。
堪らないほどの彼女への愛がわたしを襲いつづけるようになり、わたしは悲しみのなかに、その愛に満たされていた。
女は、ある雨の朝、エリヤの腕のなかで目覚めると不安な顔で彼にこう言った。
「あなたは、わたしに悦びを押し付けています。あなたは、いつも此処にいて、わたしが自分を開いて悦びを享受することを待っているのです。あなたは、いつもわたしにこう言います。"求めつづけなさい。貴女が真に求めつづけるものはすべて、まさしく貴女に与えられます。"そして、あなたはわたしにこうも言いました。"あなたは真の幸福に値する"」
エリヤはいつも、女が自分を見つめるとき、いつでも自分を通って彼女の息子の姿を見つめていることを知っていた。
そして女は、ある日わたしに言う。
女は、あの日、息子の亡骸のまえで蒼い亡者のような顔を涙で濡らしてエリヤに向かって血を吐くように言った。
「わたしは、やっと気づいた。あなたは、死の神だった。あなたが、わたしの息子から魂を抜き取り、戻れない場所へと連れ去った。あなたは、わたしの罪をわたしに思い起こさせ、わたしの最も愛する息子を殺す為に来た。わたしの積みつづけた実、その罪を無残に刈り取る、あなたは死の神だった。」
エリヤは、すべてが終りを迎えることをわかりながら、女に言った。
「あなたの息子をわたしに渡しなさい。」
それで、エリヤは彼女の息子の亡骸を彼女の目に見えない暗い場所へと連れてゆき、そこでその亡骸にみずから呪(まじな)いを唱えながら三度身を重ねると、彼女の処に降りて行って、言った。
「見なさい。あなたの子は生きている。神が、あなたの願いを聴き入れたのです。」
女はエリヤに言った。
「あなたは真に生と死の神。あなたの言葉のすべては真実です。」
彼女の息子は果たして、死のなかに、甦った。(それは人の様相でもなかった。)
彼女の息子が、彼女を此処から連れ去った。
これ以上、死が、死で在りつづけることさえできない場所へ。
エリヤは、永く共に暮らした、何よりも愛する女に別れを告げ、その地を独り去った。
闇の雨が、赤い地に当たり、白々と、骨の砂が谷底で光っていた。
人々は巨大な牛頭人身の神を崇拝し、生贄に我が愛する子を捧げて祈っていた。
何を祈っていたのだろうか。
それは此の世に“悪”が、永続することである。
生命の地獄と拷問と絶叫の黒い血の海のなかで、終りなく、歓喜しつづけられることを、彼らは祈りつづけていた。
そして何よりも、信じていた。神が自分の愛する者を生きたまま焼き殺し、それを我がものとすることで、わたしたちは赦されつづけ、わたしたちは救われる。
神は彼らに言う。その黒い血の海のなかの赤い実を、わたしのなかで実らせる。
さあ、お前の最も愛する者を、月も星もない夜にその海辺へ横たわらせ、お前の剣を、その者の心臓に突き立てよ。
お前は、真の自由を手にし、永遠に生きることも、永遠に死ぬことも許される。
いつ目覚めようとも、愛する者がお前の処にいて、お前だけを限りなく、愛しつづける。
お前に、この宇宙のすべてを与える。
すべてはお前のなかに在り、お前の外には何も、何もない。
お前は最早、この夢から目覚める日は来ない。
エリヤはこの地上でたったひとつ残された山の頂上に登り、地に跪き、慟哭する。
今、エリヤの愛するたった一人の女は、生きてもおらず、死んでもおらず、光を喪った闇のなかで、愛する息子の亡骸と幸福に暮らしつづけている。
エリヤは、漆黒の夜に自分の膝のあいだに顔を深くうずめ、産みの苦しみのなか、神に祈る。
「見よ。これはあなたの息子。貴女が産み堕とし、わたしが殺した“わたし”。わたしのたった一人の愛する娘のあなたの息。」
エリヤはそれを、七度繰り返す。その瞬間、天は黄金に光り輝き、彼の周りの果てなき海がすべてに渡って反射し、高く立ち昇る。
彼は海を見下ろし、預言する。
必ず、最後のときに、わたしはこの海に戻ることを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


David Sylvian - Before the Bullfight