赤い液体と白い気体

他に好きな男ができたんだ。
だからきみとは、...別れたい。
携帯から女は想わず、耳を離した。
何か、堪えがたい声が、声を失ってそこに、その向こうに震えているのが見えた。
電話口の向こうから、穏やかないつもの男の声が聴こえた。
会って、話が...今から会えませんか。
女は生唾を飲み込み、携帯を握る手には汗の水滴が見てとれた。
もう、きみには会えない。
ぼくの気持ちを...わかってほしい。
きみの未練を早く断ち切るために、もう会うことはできない。
電話口の向こうで、苦しそうに静かに喘いでいる。
彼の弱い心臓は、持つだろうか。
たった一週間程まえだった。
女が男の弱い心臓も労らない激しいセックスを求め、男を殺しかけないほどに快楽を与えてやったのは。
でも今では、女は男の籠った独特な汗の匂いしか未練がない。
女は自分の手のひらの汗の水滴を見つめながら、男の腋の毛についたいくつもの小さな水滴を想いだし、残念に想った。
男はもう一度、ゆっくりと声を発した。その声は明瞭で余裕の感じられる声でありながら、話し方は気が重くなるような空気の底に蟠る闇の中からの声のように想えた。
貴女にきっと会えば、わたしは諦められるはずです。
しかしこのまま会えないのであれば...わたしは死ぬ迄、自分を呪いつづける気がします。
だから会ってください。
会って、話をするだけでいいですから。
女は貧血を感じながら、軽く吐き気も起こった。
この男の執念は、特に何でもない普通の恋人の別れ際に発せられる台詞のようでありながら、何か普通でない恐ろしさがあることを否定する強さが、女にはなかった。
男がいつも女のなかに達した瞬間の男の表情を、女はそこにだけある男のなかの答えを、探し求めた。
何故、そんなに寂しそうな表情をするのか、女は男に何度も訪ねた。
女はこの時も、男に訪ねた。
男の戸惑いは電話の向こうからでもよく伝わってくる。
五分ほどの沈黙のあと、男は落ち着いた低い声で答えた。
今日の午後七時、いつものカフェのいつもの席で、貴女に最後に、それを伝えてわたしは去ります。
女は男に折れ、返事をして電話を切った。
待ち合わせの時間まで、あと二時間もある。
午後七時、いつも女と男があのカフェで、待ち合わせをしたあと二時間近く話して、女は男の家に向かっていた。
午後六時半に、女はカフェに着いた日がある。
そこには既に、男は椅子に座って本を読んでいる。
女はすたすたと歩き寄り、俯いている男に声を掛ける。
いつから待ってるの?
男は顔を上げて眼鏡のずれを人差し指だけで直し女を見上げた。
あの瞬間の表情と、よく似ている。
それまでなんでもない表情で女を待っていた男は、女を見上げる瞬間だけ、とても寂しそうな表情をする。
女が軽く微笑み、男は寂しそうな表情のまま微笑み返す。
何も言わず女が椅子に座り男と向き合う。
いつからでしょう。今日は早く仕事が終わったんです。
そう。女は着ていたジャケットの胸元を叩いて煙草が入っているのを確かめると履いているジーンズのポケットからマッチを取りだし、煙草に火を点けた。
口から煙を勢いよく、右に顔を向けて吐き出す。
男はじっとその様子を眼鏡の奥のちいさな眼から眺めている。
女はウェイターを引き留め、赤ワインのグラスを二つ頼んだ。
今日は良いだろう?女は強張った顔で男に言った。
構いません。一緒に飲みましょう。
男はいつものように優しく微笑みながらそう言った。
何読んでたの?
女がそう訪ねると男は本の背表紙を見せて答えた。
コルタサル短篇集ですよ。
男と女が、別れる話は残念ながらこの本にはないようです。
探してみたの?
ええ。
いつ?
貴女が電話を切ってから。
女はウェイターの持ってきた赤ワインのグラスを一気に飲み干した。
いい加減にして。
女は空のグラスを見つめながら小さく言った。
男は赤ワインを一口飲むと女のグラス越しの口許を見て口を開いた。
どんな男性ですか?貴女の新しく愛した男性は。
女はもう一本煙草を吸うと今度は後ろを振り向いて煙を吐いた。
普通の人だよ。特にこれといって惹かれる要素があるわけじゃない。
セックスが良いとか、そういうことでもない。
きみよりずっと、垢抜けない感じの、野暮ったい人だよ。
男がまたワインを一口飲む。
女はウェイターを呼び止め、ボトルの赤ワインを頼んだ。
ぼくは見ての通り、地味で老けた田舎の売れない詩人の女。
きっとぼくとあの男が街を並んで歩いていたら、かなり悲惨なカップルに見えることだろう。
愛している人を、何故そんな風に言うのですか?
女は既に、男と目を合わすこともできず、目をテーブルの一点に合わせて瞬きもしない。
何故って、愛してるから言えるんだよ。
女の視界の端で、男の身体がとても微細に震えているのが見えた。
女が瞬きをするなら、きっとその瞬間に粉々になるのだろう。
そして粉々となった男の粒たちが、女を見上げてこう言う。
わたしのたった一粒でも、貴女に愛されることは、できませんか。
女はボトルワインのワインを男のグラスに注ぐため男のグラスに手を伸ばし、残ったワインを飲み干した。
男はその様子をじっと眺めながら言った。
わたしを酔わせてしまいたいですか。
女は悲しみのあまり、男を見て笑い、このまま男の家に行き、最後の虚しい行為を求めたなら、男はどんな顔をするだろうと想った。
そうだ。一人で酔うのは、堪えられない。
きみも楽になるだろうから、飲んでくれないか。
男は女を哀れむ顔をしてグラスを手に取った。
女は男のグラスに、濃い赤色のワインを並々と注いだ。
そのグラスの縁すれすれのワインの量に、男は女を見て無邪気に笑った。
男はそのままグラスに口を寄せて、赤い液体を飲んだ。
女はその男のグラスのなかに、煙草の煙を吐いた。
そしてコースターで蓋をした。
女と男が向き合うそのテーブルの上に、奇妙なオブジェのごとくそれができあがり、最初それは交じり合いそうにはないものに見えた。
赤い液体と白い気体が、ちいさなガラスの容れ物のなかに閉じ込められている。
白い気体は、赤い液体に交じり生きていけるだろうか?
では赤い液体は、白い気体のなかで、生きていけるでしょうか。
男はウェイターの制服のベストの内側からちいさな箱を取りだし、その箱を開けて二つのちいさな金属のシルバー色の輪を、自分と女の指にはめた。
そしてコースターを右手で押さえ、左手でグラスを持ち上げると勢いよく、上下に振り、コースターを外して中の液体を女と自分の輪をはめたほうの手を重ねた上に注いで言った。
これがわたしと貴女の最高のセックスと、別れの約束です。
一人のウェイターが閉店のあと、このテーブルの上に、深いキスをした。
赤い液体は気化し、白い気体は液化していることを、このウェイターの男は確信した。
自らの、涙と涎によって。