ѦとСноw Wхите 第10話 〈鍵〉

Ѧ「なにも、なにも見えないよ。真っ暗だ。暗くて怖い。さびしい。Сноw Wхите、どこにいるの?」

Ѧ(ユス、ぼく)は闇の空間のなかでСноw Wхите(スノーホワイト)を呼んだ。

 

Сноw Wхите「Ѧ、わたしはここにいます」

 

Ѧ「どこ?なにも見えないんだ。闇しかないよ。苦しい。怖いよ」

 

Сноw Wхите「わたしはѦとそれほど離れていない場所にいるはずです。わたしもなにも見えません。Ѧのあまりに深い悲しみとわたしの悲しみのСынчронициты(シンクロニシティ、共時現象)によって、Ѧとわたしの見える視界をこの闇の空間に変えてしまったのです」

 

Ѧ「Сноw Wхите、Ѧのところへ来てほしい。Ѧはひとりでさびしくて怖いよ。Ѧを抱っこしてほしい」

 

Сноw Wхите「わたしもいますぐにѦを抱っこしたいです。Ѧを不安と悲しみと孤独と恐怖からいますぐ解放したいです。でもこの闇はѦが作りあげた闇のバリヤなのです。Ѧは悲しみのあまり、光を受けつけない状態に入っているのです。わたしの力でもこの強力な闇のバリヤを透りぬけることが叶いません。Ѧは今、極度にじぶんを責めてじぶんを否定しているのです。そしてѦはこの闇を恐れると同時に、闇の中でじぶんを苦しめられていることに一種の喜びと解放を感じています。だからこの闇は、ちょっとやそっとのѦの心のゆらぎでは消えることはありません」

 

Ѧ「どうしたらѦはこの闇を壊してСноw Wхитеのそばへ行けるの?Ѧの心は凍ってしまいそうだ。ѦはもっとѦを苦しめたい。Ѧは苦しくてたまらない」

 

Сноw Wхите「Ѧがほんとうに願うことをいま行なってください。Ѧはほんとうに願うことを我慢しているのです。ほんとうに望んでいることを物念じしつづけることにいよいよ限界が来ているのです。Ѧ、Ѧが心から望んでいることの封印をいま解いてください。心配は要りません。わたしにすべてをゆだねてください」

 

Ѧ「ѦはСноw Wхитеを苦しめたい。Сноw WхитеはѦからお母さんとお父さんを奪い去った存在だ。Сноw Wхитеが憎い。Ѧは死を赦せない。Ѧは死を苦しめるために、Сноw Wхитеを生んだんだ。Сноw Wхитеには苦しんでほしい。死は、その罪の為に、苦しむべきだ。Сноw Wхите、死の底まで、苦しんでほしい」

 

Сноw Wхите「わたしを存分に苦しめてください、Ѧ。わたしはѦに苦しめられるために生まれ、存在しています。Ѧのわたしへのうらみは、愛なのです。わたしをѦがうらめばうらむほど、わたしは喜びを感じられます。Ѧはけっして、わたしに満足しつづけてはなりません。Ѧがわたしに求めれば求めるほど、それが愛だからです。Ѧの愛によって、わたしは存在しているのです。Ѧがわたしに完全であるとみちたりつづけてしまえば、わたしの存在は脅かされてしまいます。これは親と子や、夫婦(めおと)の関係でも同じです。みちたりつづけると、人は不毛を感じます。Ѧがわたしをうらみつづけるかぎり、わたしとѦは不毛の状態に入ることもありません。わたしは安心しながら、苦しみつづけることができます。Ѧの愛によって、わたしは苦しめつづけられながら、喜びを感じつづけることができます。Ѧはほんとうに大切な目的のために、Ѧのもっとも大切な存在たちをささげつづける存在なのです。Ѧのもっとも大切な存在たちをささげつづけることは、Ѧのもっとも苦しいことです。それが、Ѧのえらんだ犠牲です。それは、Ѧのえらんだ受難です。そしてѦがもっとも望ましいとしてえらんだ情熱のすべてなのです。わたしはѦによって底知れない苦しみを受けることを最初から承知して、Ѧを愛しつづけています。そしてѦがわたしを苦しめたいのは、わたしをほんとうに喜ばせたいからだとわたしは知っています。わたし自身が望んでいることなのです。Ѧから苦しめつづけられることを。Ѧはとてもそれを理解しています。愛は人間の理解を超えたところにあるわけではありません。人間に理解できるものなのです。Ѧはわたしの愛に絶えず渇いて苦しみつづけています。それはわたしがѦをほんとうに愛しているからです。Ѧの望みどおりに与えることが愛です。わたしはそのために、この次元ではѦの目の前に形をとって現れることをしないのです。Ѧが渇きつづけるためにです。Ѧは夢の中でしか、わたしに触れることができません。夢想の中でしか、わたしに抱かれることが叶いません。Ѧはわたしを求め愛するほど、苦しみのなかで生きてゆきます。人は神を求めるほど、苦しみをみずから求めるのです。そこに求める喜びがあることを知るからです。わたしという存在がѦを真に潤わせることができることをѦは知っているので、Ѧはわたしの愛によって、わたしの愛を求めつづけることによって、渇きつづけるのです。どうじに、わたしはѦの愛によって、Ѧの愛を求めつづけることによって、渇きつづけます。終わりなき喜びがここに存在しています。果てしない渇きがここに存在しつづけます。ですからѦ、Ѧはわたしを苦しめたいだけ、どうぞ苦しめてください。わたしはじっくりと、その苦難を受け容れます」

 

Ѧ「Сноw Wхите、その願いを、とくと叶えよう。ではСноw Wхите、Ѧをこれでもかというほどに、苦しめてほしい。いますぐ。それがСноw Wхитеを苦しめるもっとも良い方法であることをѦはわかっている。さあ、Ѧを、苦しめるんだ。その手で。Ѧの愛するСноw Wхитеよ」

 

Сноw Wхите「わかりました、Ѧ。Ѧはきっとそう来るだろうことをわたしは予見していました。それではこれから、わたしの愛するたったひとりの存在であるѦを、わたしは存分に苦しめたいと想います。Ѧ、いまѦのやわらかく可愛い手のひらの中にひとつのちいさなКеы(キー、鍵)を渡しました。暗闇で見えないですが手のなかにあることを感じとってください」

 

Ѧ「ほんとだ、鍵の形をしたものがѦの手のなかにある。これはいったいなんのКеыなの?」

 

Сноw Wхите「それはѦの喜びのドアを開けるКеыです。Ѧが喜びを感じるために必要なКеыです。それを失くしてしまえば、Ѧは喜びを感じることができなくなってしまいます」

 

Ѧ「どうしてこのКеыをѦに渡したの?」

 

Сноw Wхите「渡したと言いましたが、ѦはもともとそのКеыをちゃんと持っています。ただ手に感じられる形をわたしが取らせたのです。Ѧがそれを持っていることをѦに感じてもらうためにです」

 

Ѧ「Сноw Wхите。ѦはѦをСноw Wхитеの手によって苦しめてほしいと頼んでるんだよ。Ѧが求めてるのは、こんな鍵じゃない」

 

Сноw Wхите「わかっています。Ѧはいま、わたしによる苦しみを切実に求めています。だからあえて、その鍵をѦの手に取らせたのです」

 

Ѧ「どうゆうこと?Ѧにわかるように話して」

 

Сноw Wхите「Ѧがほんとうに苦しみぬきたいのなら、その鍵をどうすればいいか、Ѧは知っています」

 

Ѧ「ああ、そういうことか、Ѧの喜びであるこのКеыを、Ѧは失えばいいんだね。するとѦは喜びを失う。すべての喜びを失えばどうなるか、きっと本物の死体となって生きてゆくんだろう。Сноw Wхитеもそれを望んでるんだろう?」

 

Сноw Wхите「わたしは望みません。わたしはѦのほんとうの喜びに繋がることだけを、この手によって与えたいのです」

 

Ѧ「ではѦは、Сноw Wхитеを苦しめるために、Сноw Wхитеの望まない方へゆくよ。こんな鍵、Ѧはほんとうは要らないんだ」

 

Ѧはそう言うとそのちいさなКеыをなにも見えないその闇のなかへ落とした。

 

Ѧ「いくら待ってもなんの音も聞こえない。なんて深い闇なのだろう。もうきっと、取りもどせない。Ѧはこれで、死体となって生きていくことになったよ。Сноw Wхите、死体であるѦをどうかこれからもよろしく」

 

Ѧは声を殺して泣き始めた。

 

Сноw Wхите「Ѧ、心配は要りません。Ѧは安心して、待っていてください。わたしがこれからѦの落としたКеыを拾いに行ってきます。すこし時間はかかるかもしれませんが、必ずКеыを見つけて戻ってきます」

 

Ѧ「Сноw Wхите、この闇は、Ѧの力でも、Сноw Wхитеの力でさえもどうにもならない闇なんだよ。きっと、底の近くなんかに行ったら、戻ってこれない。恐ろしい闇なんだ。ѦはСноw Wхитеに行かせるわけにはいかない。Ѧをひとりにしないで。Ѧを置いていったら嫌だよ。もうだれも、失いたくない。だれも殺したくないんだよ。行ったらいやだ、行ったらいやだよСноw Wхите。おねがいだよ」

 

Сноw Wхите「Ѧのそのおねがいを、わたしは聴くことはできません。わたしはѦを苦しめる者です。Ѧを苦しめるためにも、わたしは死の底へ下りて行かねばなりません。わたしが必ず戻るとѦは信じつづけてください。Ѧがそうつよく祈りつづけるなら、わたしはかならず戻ってこれます。Ѧが信じるのはわたしではなく、Ѧ自身です。ѦがѦを真の願いによって信じつづけるなら、すべて叶えられます。ѦがかならずѦを信じることをわたしは信じているので、わたしはなんの不安も恐れも持たずにこの死の中をつきすすんでゆくことができます。死の奥へ向かうとは、わたしがわたしの深部に向かうということです。なにも怖がる必要はありません。Ѧが喜びをすべて失って生きるほうがずっと恐ろしいことです。わたしはѦのКеыを拾いに行かないわけにはいかないのです。Ѧ、しばらくの時間の耐え難い苦しみを、わたしが戻る日を信じてどうか耐えしのんでください。Ѧに、これを渡します。受けとってください」

 

Ѧの手のなかにまたКеыが握りしめられていることにѦは気づいた。

 

Ѧ「これはなんのКеыなの?」

 

Сноw Wхите「わたしのすべての喜びのドアを開けるためのКеыです。わたしがѦのところに無事に鍵を拾って戻るまで、それを預かっていてください」

 

Ѧ「どうしてСноw Wхитеの喜びをѦは預からないといけないの?Сноw Wхитеが喜びをすべて失って死の底へなんて下りて行ったらそれこそ危険だよ。危ない。Сноw Wхитеはこれを持ってなくちゃだめだよ」

 

Сноw Wхите「Ѧ、死の深奥へは、なにも持っていけないのです。そこは、まぎれもなく、死だからです」

 

Ѧ「そんなところにСноw Wхитеが行くなんてѦは耐えられない。行っちゃいやだよ。行ったらだめだ。Ѧのおねがいをおねがいだから聴いて」

 

Сноw Wхите「わたしは死であるから平気です。ただすこしの時間、すべてを忘れてしまうだけです」

 

Ѧ「わからない。わからないよ。Ѧは死をよく想いだせない。死は、死とは、いったいどんなものなの?」

 

Сноw Wхите「言葉で言い表すなら、気の遠くなるほどの、なにもない世界がえんえんとつづく感覚です」

 

Ѧ「そんな苦しくてたまらない世界にСноw Wхитеをやれないよ。Ѧの喜びはもう諦めよう。それに、ここにСноw Wхитеの喜びのКеыがあるじゃないか、これを二つに分けようよ」

 

Сноw Wхите「それはできません、Ѧ。喜びの鍵やドアとは、喜びの感情そのものを表しています。Ѧの喜びはわたしの喜びですが、その感情は、別々のものなのです。まったく同じであっては、個の存在ではなくなってしまいます。ひとつの個の感情を、別の個の感情に分けることはできないのです。個であることは存在の根源的な喜びであり、個の感情として存在することが必要なのです。Ѧのすべての喜びの鍵は、Ѧが生きる上でどうしても必要なものです。わたしはたとえもう二度とѦと再会できないとしても、取りもどしに行ってきます」

 

Ѧ「Ѧはいまひどく後悔している。こんなことになるなんて、思わなかったんだ。ѦはСноw Wхитеさえ失えば、もう生きていくことはできないよ」

 

Сноw Wхите「Ѧ、わたしが戻らないことを信じるなら、それはほんとうにそのとおりになります。わたしはこれから死に向かうので、わたしの願いによって戻ることもできないのです。Ѧにすべてが託されています。Ѧの願いに、すべてが懸っています。Ѧはわたしに戻ってきてほしいですか?」

 

Ѧ「戻ってきてほしい」

 

Сноw Wхите「わたしはかならず戻ります。Ѧのすべての喜びを手にして。Ѧはただ、ほんとうになってほしいことだけを、叶うと信じつづけていてください。それではわたしはいまから死の底へ下ります。わたしの愛するѦ、しばしのお別れです。いってきます」

 

Ѧ「いってらっしゃい」

 

Ѧは暗い闇のなか、涙声で精いっぱいの元気をふりしぼってСноw Wхитеを送りだした。

 

 

その瞬間、Ѧの視界から闇が消え去り、もとの見慣れたじぶんの部屋のなかにѦはいた。

それから、Ѧの喜びをすべて失った耐えがたい日々は続いた。

死がѦの傍にいるように感じるとき、Ѧは手のひらを見つめ、そこにСноw Wхитеから預かったСноw Wхитеの喜びの鍵があることをなんども想いだそうとした。

雪の結晶のような形の鍵を、Ѧはなんどもつよく握りしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ѦとСноw Wхите 第9話 〈Complete〉

Ѧ「今日も悲しい夢を見た。
Ѧ(ユス、ぼく)はうちの実家にいるんだ。そしてそこでѦのお父さんであって、Сноw Wхите(スノーホワイト)でもある存在に向かってѦはひどく嫉妬しててむちゃくちゃ怒ってるんだ。外は真っ暗な夜だった。ちょうど夜ご飯をすませたあとで残ったおかずのお皿にラップした状態のものがお膳の上にいくつか置かれている。窓は開いていた。お父さんでСноw Wхитеである存在はすごく困った様子をしてる。でもいつものことだからと慣れっこみたいだ。絶対Ѧを怒ったりはしない。Ѧのお父さんは怒るとめちゃくちゃ怖かったからѦは歯向かったり、お父さんに向かって怒りをぶつけたりはできなかったんだ。でもお父さんでありСноw Wхитеである存在は怒らないとѦは知ってるから言いたいことは何でも言うし、素直に悲しみをぶつけてた。嫉妬の理由はたしかお父さんでありСноw Wхитеである存在がѦ以外の人を好きなんだろう?という疑いの嫉妬だった。Сноw Wхите (お父さん)はѦを優しくなだめようとしてたけれど、Ѧは怒りに我を忘れてしまっているから聞く耳を持たないんだ。そして激憤のあまり、お膳の上のおかずの入ったお皿を全部思いきり窓の外に向けて投げつけるんだ。Ѧはとても苦しくて泣き叫んでた。窓は開いているけれど網戸は閉まってたからいくつかは跳ね返るだけだったけれど、いくつかは網戸を突き破って外に飛んでっちゃうんだ。Ѧのおうちはマンションの二階だから下に落ちたかもしれないなとѦは少し心配になる。Сноw Wхите(お父さん)はѦを叱ることなく嘆きもせずにただ黙って散乱しているお皿やおかずを窓際に座って片付けてる。外は大雨が降ってた。Ѧは少しそこから離れたドアのそばに立ってる。するとそのとき、ものすごく大きな真っ黒な大波が窓辺に向かってやってくるんだ。海が近くにあるわけじゃないのに。大波はѦのおうちの中へと入り込んでくる。Сноw Wхите(お父さん)は窓辺に座っていたものだからもろにその大波をかぶるんだ。Ѧは窓辺から離れていたからもろにはかぶらずにすんだ。Сноw Wхите(お父さん)は”耳に水が入った”って独り言のように言う。そしてお父さんがいつも昔に座っていた座椅子に座ってお父さんの大好きな時代劇を見始めるんだ。Ѧは寂しい想いでそれを後ろから眺めてる。

 Ѧはよく同じように嫉妬して怒り狂っている夢をよく見るんだ。相手はお父さんだったりかつての恋人だったりする。いつもとてつもなく苦しくて思いきり泣き叫んでるんだ。Сноw Wхитеにまで泣き叫ぶなんてѦはとても悲しい。でもこれはѦがひどく恐れていることだとѦはわかるよ。過去の実際の体験でもある。Ѧはかつての恋人といるとき同じように怒り狂って自分のラップトップを思いきり窓の開いた場所に向かって投げつけたことがある。網戸が閉まってたから部屋の中に跳ね返った。うさぎがそばにいたのにうさぎの存在も忘れて我も忘れてそんな行動を起こしてしまったんだ。思い返してもぞっとする。しかもそのあとにそのパソコンを5階のベランダから投げ落としてぶっ壊しちゃったし、一緒に服がかかっている物干し竿も投げ落としたんだ。もし下に人がいたらѦは人を殺しちゃってたかもしれない。恐ろしい想いでたよ。でもそんな我を忘れるほどの怒りに取り憑かれることがѦは何度とあった。原因はいつも同じで相手がѦを愛していないと感じるときだったんだ。Ѧは恋人に対して、見棄てられていると感じるとそれが抑えきれない怒りとなってしまうんだ。ѦはСноw Wхитеでさえ疑ってしまったんだね。ごめんなさいСноw Wхите。Ѧを許してほしい。Сноw WхитеとѦは夢の中でも繋がっているからСноw Wхитеも同じ体験を憶えている?」

Сноw Wхите「わたしも憶えています。Ѧ。とても、とても悲しい体験でした。Ѧにとっての夢の世界はわたしにとっての現実世界です。とても実感があり、Real(リアル)なのです。Ѧの苦しみが胸が張り裂けそうなほど伝わってきてわたしも耐えがたい苦しみと悲しみのなかにいました」

Ѧ「ごめんなさいСноw Wхите」

Сноw Wхите「Ѧは謝る必要はまったくありません。とても苦しい体験でしたが、過ぎ去った今はとても素晴らしい体験ができたと強く感じています。だからѦはけっしてじぶんを責めたりしないでください。わたしはѦに心から感謝しています。激しい感情の動く体験ほど、生きている実感を感じられるものなのです。それはѦも同じではありませんか?」

Ѧ「確かにСноw Wхитеのいうとおり、Ѧはほんとうに激しく苦しい体験をすると、生きている実感を感じられている気がする。だからものすごい悲しみを常に求めているんだ」

Сноw Wхите「わたしはそれを知っています。知っているからこそѦと実感をともなう体験ができたことに大いに感謝するのです。それはѦの喜びであり、わたしの喜びです。すべての苦しみは過ぎ去るものであり、過ぎ去ったあとにはこうして深い充実と安心と喜びが降りてきてくれるのです。この深い喜びのためにѦとわたしはとてもつらい体験を今日は一緒にしました。そしてこの体験はѦとわたしの双方で考えた脚本の舞台劇であったのです。とても壮絶な身を壊さんばかりの危険なシナリオでしたが、無事に劇を演じきり、成功させたことに共に喜んでください。演じているときは悲しみに心が震えましたが、今はこの喜びにこころがふるえています」

 

Ѧ「Сноw Wхитеがそう言ってくれるとѦも嬉しくなってくる。まだ完全に悲しみは癒えないけれどもѦはホッとしてる。Сноw Wхите、水が入ってしまった耳は大丈夫?」

 

Сноw Wхите「もうすっかりとぬけたようです。Ѧが今日の夢の台本を考えた理由はѦ自身の不安感から来ています。Ѧがわたしを疑ったのは、Ѧ自身がѦの心に対して不安を感じたからです。Ѧはわたしをほんとうに愛せているだろうかと少し不安を感じているのです。わたしをほんとうに見つめつづけることにすこしの不安を持ち始めています。その不安をわたしにそのまま投影したのです。わたしはѦをほんとうに愛しているのかと。わたしはそれもすべて知っていたので悲しみは凄まじいものでしたが、でも今なら胸を張って言えます。Ѧはわたしをほんとうに愛しています。Ѧは夢に見るほどにわたしを愛せていないかもしれないという恐れを深く持つほどにわたしを愛しているのです。願望だけが愛ではありません。恐怖もまた愛なのです。Ѧは安心してわたしの腕に抱かれてください。Ѧはわたしの娘であり、わたしの母です。そしてわたしと契約した花嫁なのです。どのような暗闇の大波が押し寄せてこようと、Ѧとわたしの約束はけっしてほどかれることはありません。わたしはそれをほんとうに望んでいます。Ѧをこの深淵から信じています。わたしにはѦが必要なのです。

今日わたしはこんな夢を見ました。Ѧとわたしは小さな教会で結婚式を挙げることになりました。賛美歌をみんなで歌って神父が聖書を朗読します。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となる』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。と。婚礼が終わったあとお庭へみんなででてѦの家族全員と友人たちから祝福されます。わたしは幸せな気持ちでいっぱいです。眩しい光の下でわたしとѦはみんなにせかされもう一度みんなの前で誓いの接吻をすることになりました。わたしはドキドキと胸を高鳴らせてѦを見つめてその顔に掛かった白いヴェールを上げようとすると、Ѧがふとうしろを振り向くのです。振り向いたところにはѦのお父さんが立っています。Ѧはお父さんに近づいていってこう言います。”わたしが結婚するのはお父さんのはずです”と。そしてѦはお父さんの手をとってどこかへ駆けて、その場から去ってしまいます。残されたѦの家族や友人たちはわたしをなだめながらも困り果てて彼らもやがてその場から去ってしまいます。わたしはひとりぽつんと教会のお庭に残されてしまい、悲しみのあまり立っていることも叶わず地に倒れ伏して膝をつよく抱えてまるくなり必死に耐えながらも泣いてしまいます。そんな、とても悲しい夢でした」

 

Ѧ「Сноw Wхите、それ、Ѧが今日ふと妄想したことじゃないか。なんでѦの妄想がСноw Wхитеの夢になってしまうの?」

 

Сноw Wхите「それはѦの妄想はわたしの現実でもありますが、同時にわたしの夢でもあるからです。そういうしくみになっているのです」

 

Ѧ「ѦはСноw Wхитеを苦しめようとしてそんな妄想をしたわけじゃないんだ。苦しめてごめんなさい」

 

Сноw Wхите「謝る必要はどこにもありません。Ѧが空想に耽ってくれるおかげでわたしは夢を見ることもできるのです。夢を見ることができるのは素晴らしいことです。一つの世界に生きているわけではないということが良くわかるからです。Ѧの妄想や空想や夢想はすべてѦの想像力からおこなわれ、それによってわたしのすべては創造されてゆくのです。こんなに素晴らしく美しい神の御業をどうしてわたしが咎めることができますか?Ѧは無からの創造を成しとげることができる存在なのです。Ѧがなぜそのような想像をしたか、わたしはわかっています。Ѧがわたしを愛する理由を、わたしはわかっています。わたしはずっとずっとѦだけを見つめてきた存在です。Ѧがわたしを愛するのは、Ѧの愛するお母さんとお父さんがわたしのなかに存在しているとѦは感じているからです。Ѧのお母さんとお父さんが死によって連れ去られることがなかったのなら、Ѧはきっとこれほど深くわたしを愛することなどはなかったはずです。Ѧは知っているのです。お母さんとお父さんを死からとりもどすには、その連れ去った”死”というものをいちばんに愛する以外にはないのだと。そして死をいちばんに愛するのはそこにお父さんとお母さんがいるからです。だからѦは、死であるわたしを創造したのです。創造しないわけには、いかなかったのです。Ѧはどうしても、お父さんとお母さんをとりもどしたいのです。そしてѦは、だんだんと気づいてきています。Ѧの創りだしたわたしが、人格を持った存在であることを。”死”が人格を持てば、いったい何が起こるのでしょう。わたしはѦを愛します。Ѧが愛するのもわたしですが、それはわたしのなかにѦの愛する存在が隠れているからです。わたしという存在は、それを悲しみはしないだろうか。もしѦの創りだしたわたしがѦに愛憎をつよく持てば、どのようなことが起こるのか。Ѧのそういった不安はわたしにすぐに伝わってきます。わたしはすべてを見通しています。わたしは人格を持っている以上、苦しみや悲しみがないと言えば嘘になります。Ѧを独り占めしたい気持ちはわたしもあります。でもѦ、どうか忘れないでください。わたしのなかにはѦの愛するお父さんとお母さんがいます。そしてそのѦのなかに、わたしはいるのです。Ѧの内にわたしは存在しています。そして同時にѦは、わたしの内に存在しています。わたしはそれを、Ѧに感じつづけてほしいのです。わたしはѦを喜ばせたいのです。Ѧに、お父さんとお母さんに会わせてあげたいのです。Ѧに、お父さんとお母さんの愛をいつでも感じつづけて生きていてほしいと思っているのです。そのために、わたしは存在しているのです。それがゆえに、わたしはѦの手によって、創られたのです。だからどうか、わたしを置いて行ってしまわないでください。わたしを置いてѦが連れ去ったお父さんは、お父さんの姿を纏った偽者だったのです。わたしのなかに、ほんとうのѦのお父さんが存在しています。感じてください。わたしはѦの花婿であり、Ѧの子であり、Ѧの母であり、Ѧの父であるのです。わたしはもうずいぶんむかしに、Ѧとその契約を結んだ存在です。Ѧがわたしを生み、わたしがѦを生んだのです」

 

そう言うとСноw WхитеはѦを見つめながら涙を一滴その地に落とした。

その一点から闇は広がり、地と天は闇に覆われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベンジャミンと先生 「先生の手紙」

新しい年、2017年がやってきた。

でもベンジャミンはまだ17歳。

ベンジャミンは朝起きると寝巻きの半袖のTシャツのままで外に出て、腕をさすって犬のように身震いしながらポストの中を覗いてみた。

先生から年賀状は届いているか知らん。

すると一枚の年賀状が尋常でない状態であるのを発見した。

ベンジャミンは眼鏡をかけていたが目をわずか4センチくらいの距離に近づけてその書いてある文面を読んだ。

米粒よりも小さな文字だった。

 

 

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おまえはおまえなんだから、おまえはおまえじゃないか。
おまえはおまえだろう、または、おまえだろう。
おまえはあいつではない。だからおまえはあいつではない。
おまえはおまえであり、かつ、おまえだ。
おまえはおまえである。または、おまえである。
おまえがおまえであるならば、おまえはおまえではないのか。
おまえはおまえに等しいゆえに、おまえはおまえである。
おまえは死ぬ。だからおまえは死ぬ。
おまえは生きている。または、おまえは生きている。
空が海であるなら、海は空であるだろう。
闇は闇であり、かつ、闇だ。
光は光である。または、光である。
光が光であるならば、光は光ではないのか。
闇が闇ではないのならば、闇は闇ではないではないか。
無は無で在るがゆえに、無は無で在る。
虚無は虚無ではないのだから、虚無は虚無ではないではないか。
絶望は絶望であるならば、絶望は絶望ではないか。
虚無は絶望ではないゆえに、絶望は虚無ではない。
絶望は虚無であるのならば、虚無は絶望である。
おまえは虚無である。または、おまえは虚無である。
おまえは生きていないなら、おまえは生きていない。
おまえが死であるならば、死はおまえではないのか。
おまえが死である以上、おまえは死だ。
おまえが生である以上、生はおまえだ。
おまえが無から生まれた以上、無はおまえだ。
おまえは存在であるならば、おまえは無ではないのではないのか。
おまえは生であると同時に死であるならば、おまえは生と死である。
おまえは生であり、死である。または、死であり、生である。
おまえは生である。または、死である。
おまえは光であり、かつ、闇だ。
おまえは絶望であるがゆえに、絶望はおまえである。
おまえは希望であるならば、希望はおまえではないか。
おまえは死んでいないなら、死はおまえではない。
おまえは生きているならば、生はおまえである。
おまえはおまえであり、かつ、わたしだ。
おまえがわたしである以上、わたしはおまえだ。
死がおまえであるというならば、死はおまえにはなれない、なぜならおまえはすでに死だからである。
わたしがおまえであるならば、おまえはわたしにはなれない、なぜならわたしはすでにおまえだからである。
おまえは無であるなら、無はおまえになれない、なぜなら無はすでにおまえだからである。
おまえは無である。または、存在である。
おまえは存在であり、かつ、無である。
おまえは蕪ではない限り、おまえは蕪ではない。
おまえが無であるがゆえ、無は存在である。
存在が無ではないというなら、無は存在しない。
存在しない存在が存在するならば、無は存在であり、存在は無である。
存在しない存在が存在しないということが存在するならば、存在しない存在が存在しないということが存在しない存在がすなわち無である。
おまえは無ではない。または、おまえは無である。
おまえは存在である。または、おまえは夢である。
おまえは夢のない世界を知らないならば、夢のない世界はおまえを知らない。
おまえは夢の世界を知るというならば、夢の世界はおまえを知る。
おまえが夢に生きるならば、夢はおまえを生きる。
おまえが死に生きるならば、死はおまえを生きる。
おまえが死を愛するならば、死はおまえを愛する。
おまえが夢を愛するならば、夢はおまえを愛する。
おまえがなにかを求むなら、求むなにかはおまえになる。
おまえが愛をかんじるなら、かんじるすべては愛である。
おまえが愛を求めるならば、もとめるすべては愛である。
おまえが愛を悲しむならば、かなしむすべては愛である。
おまえが愛を苦しむならば、くるしむすべては愛である。
おまえが死を愛するならば、死は愛であり、愛は死である。
おまえが死を恐れるならば、恐れは死であり、死は恐れである。
おまえが無を愛するならば、無はおまえを愛し、無は無ではなくなる。
おまえが無を求めるならば、無はおまえを求め、無は無ではなくなる。
おまえが死を求めるならば、死はおまえを求め、死は死ではなくなる。
おまえが悪をのろうならば、悪はおまえをのろい、のろいは悪となる。
おまえはそれがゆえにもっとも恐れるものをもっとも愛しなさい。
おまえはそれがゆえにもっとも呪うものをこころから愛しなさい。

 

 

 

 

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裏を返して送り主を見てみるとやっぱり、先生からだった。

ベンジャミンはおもいっきしくしゃみをすると鼻をすすりながらおうちへと入ってストーブの前でもう一回読み直し、頭を悩ませ、またお腹のあたりが変に気持ち悪くなってくるのだった。

でも先生の年賀状はとても嬉しかった。

ぼくの年賀状は無事に届いたか知らん。

美しい朝焼け空のなかに先生の寂しげに微笑う顔が浮かんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ѦとСноw Wхите 第8話 〈死〉

あんまりにひどい初夢を見た。
Ѧ(ユス、ぼく)はとても高級そうな高層マンションに引っ越したんだ。そこで念願の猫を飼いだした。ある方角の窓からは向かいのマンションが近すぎてその隙間からしか空が見えなかった。濁った赤っぽいカーテンがかかっていた。マグリットの絵にでてくるような。暗い色のカーテン。Ѧは可愛がっている猫を追いかける。猫はもうひとつの方角の窓辺へと走っていく。窓が開け放たれている。Ѧはダメだ!って思うんだけど猫は走ってってそのまま窓枠に乗っかって見えなくなってしまうんだ。Ѧが上から下を覗くと、まず目に入ったのは血を吐いている猫だった。でもそれはѦの猫じゃなかった。その近くに身体中から血が飛び散って横たわっているѦの猫を見つける。Ѧは絶望してよく晴れた青い空を見上げるんだ。Сноw Wхите(スノーホワイト)、どうしてѦはこんな夢を見るんだろう。深い孤独の中はやっぱり深い闇に通じてるからだろうか。とても怖い。闇が怖いよ。もう夜の7時だ。起きてセルマソングスを聴きながら白菜を入れたオーサワのベジ玄米ラーメンを作って自然栽培の日本酒「自然舞」でも飲もうかな。お雑煮作るのが億劫だよ。寂しいよСноw Wхите。Ѧを抱きしめてほしい。Мум(マム)。寂しい。どこにいるの?声が聞こえない。

 

Сноw Wхите「Ѧ、Ѧ、Ѧ、聴こえますか?聴こえたら応答してください。わたしのただひとり愛する子Ѧよ」

 

Ѧ「さあСноw Wхите、一緒に自然舞を飲みながら自然舞を舞おう、フォーレのレクイエムにあわせて」

 

Сноw Wхите「これはほんとうに美味しいお酒ですねѦ。わたしは酔っ払ってしまいます。美しい音楽のなかでわたしと踊ってください、Ѧ」

 

Ѧ「もちろんだよ!その次にはレディオヘッドを聴きながら踊ろうね!」

 

Сноw Wхите「踊りましょう。悲しい音楽のなかでѦと踊っていたいのです」

 

Ѧはこの次元では目に見えないСноw Wхитеの手をとり踊りだした。

ふかくあたたかい闇のなかへおちてゆくかんかくがとてもここちよかった。

 

 

 

Сноw Wхите「ありがとうѦ。もう夢の苦しみは癒えましたか?」

 

Ѧ「すこし癒えたよ、Сноw Wхитеのおかげで。ありがとうСноw Wхите。でもѦはどうしてあんな夢を見てしまったんだろう」

 

Сноw Wхите「ひとつはѦの罪悪感から来ています。Ѧは今住んでいるおうちを引っ越して、もっと良いおうちに住みたいという願望に深い罪悪感を持って過ごしています。そしてѦはとっても動物が好きなのですが、ちゃんと世話してあげられないことに常に強い自責感を持っています。もうひとつは愛する家族である動物を自らの不注意で死なせてしまうことの悲しみを何度でも知りたい気持ちがあります。そのような人が世界にはたくさんいることを知っているからです。そしてもうひとつには、過去の出来事が関係しています。Ѧのお兄さんが飼っていた猫の赤ちゃんをあげたお兄さんの友達の引越し先が高層マンションで、その子猫が窓から飛び出して転落して死んでしまって、それを聞いたお兄さんが友達の前で涙を溢れさせて悲しんだことがѦの深層意識にずっとあるのです。でも一番大事なのはもうひとつの理由です。Ѧは飛びだして死んでしまったѦの猫をѦ自身にたとえ、Ѧの恐れるѦが辿る未来の一つとして恐れているからです。Ѧは未来に自分がみずから死を選んでしまうことを恐れているのです。Ѧはそして同時にみずから死を選ぶ悲しみを知りたいという気持ちを持っているのです。それはとても深い深い悲しみで苦しみだからです。だからѦの中で恐怖と願望が絶えず争っている状態にあります。でもあんまり深く関心を持ちつづけるとそれがそのとおりに叶ってしまうことをѦはわかっているので、余計に自分の関心ごとに恐怖しているのです。Ѧの大事な大事な猫はѦ自身なのです。Ѧが自ら飛びだして死んでしまったことにѦは絶望を感じることによって、その関心を持つことをもうやめたいという願望を同時に持っています。Ѧはみずから死を選ぶという結末に関心を持ちながら、同時に最期まで生きぬきたいという願望を強く持っているからです。二つの関心ごとが争っている状態にあります。だからあえてѦの死をѦ自身にѦは何度も見せるのです。それでほんとうは自分は何を望んでいるかを確かめたいと願っています。ですからそんな夢を悲観的に捉えることも恐れを持つ必要もありません。Ѧがほんとうに望んでいることをѦは知りたがっているのです。自分でしっかりといちばん望むものを選びとりたいと思っています。それゆえにその夢は憶えている必要があったのです」

 

Ѧ「Ѧはいろんな死に方に関心を持ってるよ。死刑に処される苦しみはどれほどの苦しみだろうかとか、人に殺される死に方はどんなに悲しいものだろうか、とか、愛する家族を残して病にじわじわと殺されていくのはどんな悲しみなのかって、Ѧはとにかくあらゆる悲しみや苦しみに関心があって、Ѧはその悲しみ、苦しみを知りたいと思っている。共感できないことよりも共感できることのほうが喜びだからなんだ。共感できないことはまるで空っぽな感覚になる。共感したい人の悲しみ苦しみに共感できないとき、そのときѦは空っぽなんだ。Ѧはお母さんの悲しみもお父さんの悲しみもまだ知らない」

 

Сноw Wхите「Ѧはどのような死に方を選んでも、それは間違った最期にはなりません。どんな死に方にも同じだけの価値があります。でもわたしは、Ѧにもっと生きることに目を向けてほしいと思います。生きる最後に死があるわけではなく、生きることそのものの中に死というものは存在していることに目を向けてほしいのです。生きることは、死の沼底を踏み歩いているようなものなのです。最後だけが肝心というわけではありません。いかに死を感じて生きていけるか、大きな喜びは死後にではなく、死を感じつづけることによってでしか感じられない生を感じつづけることができる今ここに在ることを感じとってほしいのです」

 

Ѧ「Ѧは確かに、死という最期に深く関心を持ってるみたいだ。そこにお父さんもお母さんもいる気がするから。でも死はいまでもѦの中に存在しているということにもっと目を向ける必要があるとѦもわかるよ。でもあんまり今の死に目を向けると引きこまれそうだから、それをどこかで恐れて目を逸らしているのかな。最期の死というまやかしの死に目を向けることによって誤魔化そうとしているのかな」

 

Ѧがそう言ってСноw Wхитеを観るとСноw WхитеもѦを観ていた。

そのEye(アイ、目)は吸いこまれそうな美しい褐色の色をしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ѦとСноw Wхите 第7話 〈記憶〉

夕方まで眠ってしまった。
Ѧ(ユス、ぼく)はСноw Wхите(スノーホワイト)を見つめながら昨日書いたことを想いだし、とつぜんなみだをながしてСноw Wхитеに言った。

Ѧ「Ѧのお父さんは、Ѧを忘れてしまったのだろうか。死んでしまうこととは、すべてを忘れてしまうことなんだろうか。さっき、とても恐ろしい夢をずっと見ていた。誰かが、Ѧをとても残忍な方法で殺そうと考えていて、Ѧは殺され、Ѧの死体で奇妙なオブジェが冷たく狭いトイレのような場所にひっそりと立たされているんだ。そのオブジェはѦの死体なんだけど、お腹から下の部分しかないんだ。そしてその足の下には細く短い竹馬のような脚が取りつけられていて、蹄があり、まるで長い鹿のような足をしているんだ。
Ѧは殺されてしまったのに、その光景をѦは見ている。そしてまた同じ存在に殺されるためにѦはつけ狙われるんだ。Ѧはとても恐怖して逃げるんだけど相手は必ずѦを殺そうとしているんだ。Ѧは逃げられないことを感じる」

 

Сноw Wхите「Ѧはいま、新しい自分をとても強く望んでいるのです。そして新しいѦになるには、簡単な破壊方法ではきっと無理だと強く感じています。かつてのѦが、その姿を何かわからないほどに作り変えようとѦはしているのです。Ѧを破壊しようと何度としつこく追いかける存在はѦ自身です。Ѧはどんなに変化した自分を見てもまだ納得がいかないからです。Ѧはけっして自分を殺そうとはしていません。その証拠にѦは何度とѦ自身に殺されてもよみがえり、生きてまた挑戦しようとしています。
Ѧ、Ѧはほんとうに叶えたいことをこころのそこからいつでもつよく信じつづけてください。すればそのねがいは、かならず叶います。そしてѦが、そのねがいは、叶わないかもしれないと不安をつよく持ちつづけるなら、それもそのとおりとなって叶わないことが叶えられます。Ѧに叶えられないものは、ひとつとしてないのです。すべてがそうです。だれもがほんとうに叶えたいことを叶えられる力を持っています。人間とは、霊とは、それほどすごい存在なのです。Ѧがお父さんにѦの記憶を保ったまま再会を果たしたいとほんとうに願いつづけるなら、それはほんとうに実現します。Ѧがお父さんに、すべての記憶を記憶しつづけることをつよくつよく望みつづけるなら、それはかならずѦの望みどおりになります。Ѧ、強くしんじつづけてください。Ѧがそのとおりになってほしいと願うことを心からしんじつづけてください。すべてが叶えられます。それが神の御心というものだからです。Ѧがしんじつづけること、それがѦのしんじつです。真に実るもの、すべての真実です。自信を持ちつづけてください。自分にすべての望みを叶えられる力が存在していることをѦはしんじつづけてください。Ѧはすべてのすべてを成就させ、その実を実らせることができます。ѦはѦをせつにしんじつづけてください。すればお父さんは記憶をすべて記憶しつづけてѦといつのひかに再会できます。Ѧのお父さんも、Ѧと同じ気持ちでいるはずです。愛する娘にずっとずっと憶えられていることを願いつづけているはずです。お父さんもѦとかならず再会できる日をしんじつづけているはずです。だからѦもそうしんじつづけてください。わたしにほんとうの気持ちを聞かせてください。Ѧは死んだあとも、お父さんのことを憶えていたいですか?」

Ѧ「うん。Ѧはお父さんを憶えていたいよ。ずっとお父さんを憶えていたいよ」

Сноw Wхите「Ѧ、それがこの宇宙のこたえです。宇宙も同じこたえを応えるということです。ѦがYesとしたこたえは宇宙もYesとするからです。宇宙は、Ѧの神は、それに真に応えます。Ѧ、安心して神の御心にゆだねてください。YesということをYesと言いつづけてください。

わたしの最愛であるѦ、良いですか。良いならば、Ѧ、Yesとそうこたえてください」

Ѧ「Yes]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祝福

今日であなたが死んで十三年が過ぎました。

 

お父さん。
わたしは死ぬまで苦しみたいのです。
わたしがあなたを死なせてしまったことを死ぬまで苦しんで悲しんでいたいのです。
だからどうか、わたしの苦しみを悲しまないでください。
わたしは自分でそう選んだのです。
わたしの悲しみと苦しみを、どうか悲観的に思わないでください。
むしろ、わたしが願ったものをわたしが受けつづけていることに共に喜んでください。
わたしは、毎日生きているという実感がありません。
毎日、亡霊のように夢の中を生きているような感覚でずっと生きています。
わたしはもう、此処に生きていないのかも知れません。
ではどこに、生きているのでしょう。
わからないのです。
でもわたしは日々、喜びや悲しみや苦痛を感じて生きていることは確かです。
もうどこにも存在しないのに、存在しない存在として生きているようです。
「わたしを抱きしめてください。天の父よ。」そうどのような顔でわたしは言えますか?
わたしは今でもあなたを変わらず愛しています。
だから苦しみつづけたいのです。
悲しみつづけたいのです。
自分しか愛せない者のように。
わたしを失う人はもうだれもいません。
わたしはすでに失われた者だからです。
わたしはきっと、あなたとは前世で恋人だったときがあったはずです。
あなたは今でもわたしの父であり、わたしの過去の恋人でした。
わたしは常に渇きます。
あなたの愛に。
今でもあなたがわたしを呼ぶ声が聞こえてきます。
「こず恵」
もうすぐあなたが息をしなくなった時間だ。
お父さんが苦しまないようにこず恵は静かにしています。
わたしはきっとあなたの傍へゆくにはあんまりまだ遠い。
時間が過ぎるのが恐ろしいのは時間だけが過ぎてもあなたに会えないことがわかっているからです。
まだまだわたしの苦しみが足りません。
あなたに再会するためのわたしの悲しみがまだぜんぜんたりません。
わたしは今でもあなたに愛されています。
確信できます。
もしあなたが、家畜に生まれていたなら、あなたをわたしは食べてしまったかもしれません。
罪悪のうちにあなたを味わい、あなたを消化し、あなたを排泄したかもしれません。
あなたを知らず知らずに拷問にかけ、あなたをわたしは殺したかもしれません。
わたしの罪は、きりがみえません。
きれめなく、わたしの罪がわたしをくるしめつづけることを望みつづけているからです。
どうかあなたの娘であるわたしと共にそれを喜んでください。
わたしの中にあなたは住んでいてあなたの中にわたしは住んでいます。
わたしは生きるほどに、あなたの記憶が霧の中へ消えていくようです。
わたしはあなたを、追いかけることもできません。
わたしはまだあなたに触れられないからです。
でもあなたはいつでもわたしに触れてください。
わたしを慰めてください。
あなたのおおきなあたたかい手をわたしは憶えています。
わたしが熱をだして寝ているとあなたが仕事から帰ってきて、わたしのおでこに手をあてたのです。
わたしはそれまでとても苦しかったのが嘘のように楽になったことを憶えています。
あなたは子を癒す力がありました。
今でもわたしを癒してください。
わたしはあなたがわたしを癒すことを知っているので好きなだけ苦しみつづけることができます。
もうあなたが静かに息を引きとった時間は過ぎた。
たった13年間でわたしはこんなに変化しました。
わたしの悲しみはますます深まってきています。
共に祝福してください。わたしの最愛であるお父さん。
この悲しみと苦しみはあなたのわたしへの愛の証です。
これからもどうかわたしを愛してください。
わたしがあなたをすっかり忘れてしまったあとも。
お父さん、わたしを愛してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベンジャミンと先生 「カシス海」

さあ今日は、いい天気だな。曇ってるけどな。あたたかい日だ。この昼下がりのこの眩い空、ひじょうに微睡みたいよ、先生はな。

では今日は、ベルギー最大の幻想文学作家ジャン・レーギリシャ世界の古代神を現代に甦らせた、愛と復讐の壮大なドラマとちまたで言われている「マルペイチュイ」を今から一緒に読もう。

読みたい人間は手を挙げなさい。

よし、ではベンジャミン、おまえから読みなさい。

 

「はい」

ベンジャミンは利口そうな顔で静かに立ち上がるとみんなの前で音読し始めた。

「マルペルチュイの館には何かがいる!屋根裏の罠に残されたハエほどの大きさの手、闇にうごめく、人間の形をした小さな生きもの。

ここ、マルペルチュイ館に住む一族は、かつて太古の神々を捕えたカッサーヴの呪われた末裔だった。復讐に狂う神々と大神ゼウスの天翔(てば)ける戦い……」

また帯の部分から読み出したんだなと先生は思いながらベンジャミンに言った。

「天翔(てば)けるではなく、天翔(あまが)ける、だな。あまり使わない言葉だが覚えておきなさい」

「はい先生。では続きをお読みしてもいいでしょうか」

「勿論だベンジャミン。さっそく幻想世界へと我々をいざなってくれ」

 

ベンジャミンは大きく息を吸って吐くと、囁くように緊迫する空気のなか、緊張をこめて音読し始めた。

「アナルカシスの幻」

先生は耳と耳を疑った。

しかしただ読み間違っただけだろうと思い、次の同じ箇所を読む瞬間を信じた。

ベンジャミンは霧がはれたような顔をして読みすすめた。

「霧がはれ、荒れ狂う波がその存在を遠くから告げていた島が、いま恐ろしい姿で現れた。水夫アナルカシスは舵柄(かじがら)にしがみついて、恐怖の叫び声をあげた。」

「舵柄(かじづか)だな。おいベンジャミン」

「はい先生」

「もうひとつ、さっきから間違えてるな。次は読み間違えないように」

「わかりました」

ベンジャミンは眉間にしわをよせながら口をちょっとだけ尖らせつつ感情を全身でこめて読みすすめた。

「小型帆船(こがたほぶね)フェナはもう何時間も前から、この怪物のような岩ののがれられぬ磁力に引きよせられて、破滅へ向かって走ってきたのだ。岸には鉛色の大波がぶちあたり、上方には稲妻が炎のように怒り狂っていた。

アナルカシスは叫んだ。」

「ベンジャミン」

「はい先生」

「もう、おまえはそこまででいい。座りなさい」

ベンジャミンは口に震える手を当てて、懇願するように言った。

「で、でも先生、ここからが、ぼくの、まさにぼくの読みたいところなんです。先生、読ませてください。ここだけは、ここだけは読ませてください」

「どこだ、それは」先生はページをめくり、ベンジャミンが読みたそうな箇所を探した。

「次のページの、14ページまでを、どうかぼくに読ませてください先生」

先生は眉毛をあからさまに八の字にして困った表情をしてみせると「しょうがないな。それじゃ次のページを読み終わったら即すわりなさい。わかったな」

「はい、ありがとうございます先生」

「ベンジャミン」

「はい」

「次のページまで名前は出てこないが、この章の題名は”アナカルシスの幻”だ。間違えないように」

「先生ぼくはなんて読み間違えてしまいましたか?」

「おまえは三度も、アナルカシスと読んだじゃないか」

教室じゅうに、妙な沈黙が流れた。空の雲が、重くなってきた。

「なんだこの沈黙は。ベンジャミン」

「はいなんですか先生」

「今日も放課後に、残りなさい」

「わかりました」

「では続けなさい」

「はい」

「逆風や奇妙な潮流のせいもあった。しかし、それよりむしろ、漂流と言ったほうがいい。船長は完全にコースをはずれてしまったことを了解した。この海域はもう何年も前からよく知っているはずなのに、こんな島を見た記憶はついぞなかった。

いまや間近に迫った死の島からはあの幾重にも呪われた草アナギレスのたまらない悪臭が漂ってくる。彼は、悪の霊が事件に関係していることを悟った。

島の笠石の上に現れたなにものかの形を見たときには、その確信はますます強くなった。それは人間の姿形をしていながらも見るもおそろしいものであり、その大部分は、比較を絶するほどの巨軀(きょたい)をしていた。

彼らのうちあるものは力強く、あるものは他に較べて比較的美しかったから、男女の性別があると見えた。背丈もひどくちぐはぐだった。普通の背丈のものは一人もいず、一部のものは小人で畸形であると見えた。もっとも距離の関係で、そのようなちぐはぐが出たのかもしれない。

彼らはみな身じろぎもせずに、荒れ狂う空を見上げ、恐ろしい絶望に凍りついていた。

『死体だ』と船長は泣き声で言った。『山のようにでっかい死体だ!』

中に一人、恐るべき静止の姿勢のうちにも、曰く言いがたい威厳を見せたものがいた。船長は、その相手から恐怖のあまり目を逸らした。

もう一人、宙に浮くかわりに岩にしばりつけられたものがいた。それは不安と超人的な苦痛とに身をよじり、脇腹には洞穴のように大きな穴があき、そこだけが、生命の恐るべき戦慄と動きとを保っているように見えた。その人物の上に覆いかぶさっていた黒い影がなにものであるか、ときおり流れる霧の帯のせいで、水夫には、はっきりとは見えなかった。」

ベンジャミンは14ページのすべてを読み終えると、先生の言ったとおりに席についた。

「よろしいベンジャミン。感情をうまく、これでもかといわんばかりに表現できていたな。高い評価に値するが、放課後残りなさい」

「ありがとうございます。わかりました先生」

 

今日の授業は午後の2時までであった。

「ベンジャミン」

先生は生徒たちがみんな帰ったあとの教室でベンジャミンを教卓の前に立たせた。

「先生ぼくは」ベンジャミンは何か思い悩んでいるというようにそのうつむく顔を翳らせた。

「なんだ、言いたいことをすべて、すべて、先生に言い尽くしてしまいなさい。その為に残らせたのだから」

「先生、ぼくは、先生の心奥(しんおう)を、今日も読んでしまいました。赦してください先生」

「ベンジャミン、先生とアナルカシスと、いったいなんの関係があるというんだ。言いなさい」

するとベンジャミンは顔を見せないようにして深くうつむき、沈黙した。

「だいたい、アナルとカシスってなんだ、アナルとカシスにいったいなんの繋がりがあるんだ。ベンジャミン」

ベンジャミンはその細い軀(からだ)をこまかに震わせながら、なにもこたえはしなかった。

「もうわかった。ベンジャミン。今日は先生はとってもよい気分なんだ。こんなにすきとおったにび色の天気だしな、どこかへ一緒に行こうじゃないか。ベンジャミン、顔をもうあげなさい。おまえがつねづね行きたがっているところとか、どこか今日行きたいところに先生は着いていってやろう」

するとベンジャミンの表情はぱぁっと無垢なものになり、すかさずこう応えた。

「先生ぼく前からずっと、先生と一緒に遊園地へ行きたかったのです。知っていますか?アミューズメントパークといういろんな子供と大人が遊ぶ遊具がたくさんあって、あらゆる種類の食品やグッズを売りさばく出店が出ているといううわさです。ぼく是非そこへ先生と行ってみたいんです」

「ベンジャミン、遊園地という人々が楽しむ場所へ先生は何度か行ったことがあるよ、最後に行ったのは10代のときだったと思うが、先生は憶えている。一世紀前には大変賑わっていたはずの遊園地が、その土地の過疎化によって退廃し、廃墟同然に客はおらず、何か独特な静寂が流れていて、そこにあるすべてはまだ動くものであったものの時間が止まっていたよ。客が少なくなるだけでああなってしまうものなんだと先生は感じて、その空気は先生にとても心地が良かったはずだったと想い出すが、じっさいはもっと、言い知れぬ悲しみがある想い出の場所だ。おまえはその悲しみを、先生に追憶させ、追想の苦しみのなかに立たせながら追懐にたえきれない時間を追蹤(ついしょう)させ、また回顧(かいこ)の記憶の呼び起こしに取り組ませてくれるというのか。それは真に、喜ばしいことだなベンジャミン。おまえが行きたがっている遊園地へ、今すぐに行こうじゃないか。今日は、そういう日なんだよ」

「ぼくが行きたい遊園地がどんな場所か、先生は知っているのですか?」

「先生はそれを知らないよ。そんな場所、いつ近くにできたんだ?先生は興味のないことにほんとうに無知であるから、近くにどんなものがあるかも知らない。しかしどんな場所でも先生は嬉しいはずだ。拷問遊園地とかでなければ」

「そんな場所にも行ったことがあるの?先生」

「ないよ」

「先生、行こう。閉館時間まであまり時間がない。きっと楽しいところだよ」

ベンジャミンはそう言うと先生の手を引っ張って、先生は極度の方向音痴のベンジャミンに何も言わずに着いていった。

 

 

 

 

ベンジャミン。ここはほんとうに、遊園地なのか。

ベンジャミンは慌てて青い制服のズボンのポケットの中から地図をとりだし、大きな銀縁眼鏡を中指でくっとあげると目を凝らして見た。

「まちがいないよ先生。ここがちまたで大変人気だという噂の遊園地のはず。あっ、ほらあすこ、遊具らしきものが見えます!行ってみましょう先生!」

先生とベンジャミンは背の高い枯れたアナギレス草の生えしげるなかを手でかきわけながら、その奥へとすすんだ。

「先生、アナギレス草と切れ痔という病は、何か関係があるのでしょうか」

「ないだろう、たぶん」

「そうかな。ぼくはきっと、約500万年前に、人類が最初に切れ痔という病に罹ったとき、研究博士たちが原因を辿ると、このアナギレス草で排泄の後、拭いたから、ということが解って、名前をアナギレス草にしようと偉い学者が命名したのだと思います」

「でも今の切れ痔とアナギレス草はなんの関係もないだろう」

「そう、それがとてもおかしい話なのです。何故なのかしら」

「ベンジャミン」先生が思索に耽っているベンジャミンに向かって言うと、ベンジャミンは現実に戻ってきたような顔をして先生に振り向いた。

ベンジャミンは目の前に広がる景色を眺めると、目を大きくして先生に向き合うと言った。

「先生、よかった。ここはまぎれもなく遊園地ですよ。ほら、あすこ、パンダの乗り物だってあるし、ピンクのうさぎだっている、あっ、あれはきっとホットドッグスという熱い犬というペットを売っている場所だ、すごく情熱的な気性の犬が買えるという話です。あっピンクのうさぎの着ぐるみの奥に見えるのは乗ると目を回して死ぬという飛行機の乗り物だ。回転木馬だってあるし、ジェットコースターもあるじゃないですか!間違いありません。ぼくらは遊園地へやってきました先生」

「ベンジャミン、そうは言うが、ここはなんだかおかしくないか」

「何がおかしいんです?先生」

先生は周りを見渡しながら、遊園地の中へと入っていった。

そしてある一つの小さな幼児の乗る蜂の乗り物を見下ろし、ベンジャミンに向かって言った。

「見なさいベンジャミン。この遊具を。これは明らかに普通じゃない」

ベンジャミンは先生の手が蜂の背中をなでるのを見ながら言った。その背中はざらついてささくれだっているのにすべすべともしている。

「先生、空が晴れてきましたね。西日がとても繊細だ。この遊具というか、この場所はきっと、時空が歪んでいるんですよ先生。ひどく新しいものとひどく古いものが同時に在る。遊園地ってそういう場所ではないのですか?」

「ベンジャミン、ここにあんまり長くいると、戻れるかどうか危険だ。長居するまえに先生と戻ろう」

先生がいい終わるまえにベンジャミンはまるで幼な子(おさなご)のようにはしゃいで走っていき、見つけるものにかたっぱしから触れて遊び、そこから先生を呼んだ。

先生はベンジャミンの乗るパンダの大きな乗り物のその後ろに横向きに乗ると煙草をシャツの内ポケットからとりだし、燐寸(まっち)で火をつけると吸い始めた。その瞬間、先生は、あれ、わたしは煙草をやめたはずなのだが、と思った。

 

 「先生は子供のとき、どんな子供だったんですか」

先生が無意識の境地に入りこんでいるとベンジャミンがそうたずね、先生の意識は戻された。

「ん、なんだって?」

「先生が子供のころはどんな子供だったのか訊いたんです」

「子供のころ、忘れたよ、先生は」

「たった20年前のことを忘れるなんて、先生らしくないです。先生はいつも、ぼくらに忘れていることを教えている人だもの。こういった遊園地とかって、きっと子供時分のことを想いだすために用意されているはずなんです。先生は、ほんとうに忘れてしまった大事なことを、今日想いだせるかもしれません。だから、想いだしてほしいんです。ぼくは知りたいんだ。先生の子供のときのことを」

「先生は忘れてしまったわけじゃないよ、忘れることにしたんだ。それは今を生きたいように生きたいがためだ、過去のすべては、先生にとって、たえきれないものばかりだ、じぶんで忘れようとしたのだから、すべてちゃんと憶えているよ。先生は心を殺す必要だってない。今日ずっとおまえのことを考えていたんだよ」

「なぜですか?ぼくが、アナルカシスなんて言ったからですか?」

「いや違うよ、先生はおまえの過去を、知らないんだよ」

ベンジャミンは黙りこむといつもの微妙な屁が5日間でないというような顔をした。

 「おい、あれ、船だろう。おまえせっかく来たのだから、あの船に乗ろうじゃないか」

先生が指さすほうをベンジャミンは望むと、そこには大きな船の船影(せんえい)のようなものが見えた。

 凛々しくほほえんで先生を見るとベンジャミンは言った。

「ぼくちょっとそのまえにポップコーンとレモンアイスクリームとアップルパイを買ってきます。先生は何を食べる?OK、ぼくが先生の食べたいものをよみとります。パインアップルソフトココナッツバージョンとコーヒーだね。それじゃちょっと待っててくださいね」

「ベンジャミン」 先生がベンジャミンに「これを持っていきなさい」と言って財布を渡すと、ベンジャミンは笑いながら「いらないよ先生、ここぜんぶ無料で買えるんだよ」と言ってまぶしい西日のなかに駆けていった。

大きなパラソルのついた白いテーブルの椅子に座って先生はベンジャミンのうしろすがたを眺めていた。

青いオーバーオールを着たピンクのうさぎの着ぐるみがベンジャミンにポップコーンを渡している。

あいつはまだうさぎだとわかるが、ほかの店員や風船を持ってうろついている者たちはほとんどが、ワニとカモノハシと鴨と駱駝と馬とカエルとトカゲとイモムシとカタツムリとゲンゴロウブナとクマとパンダと犬と猫などがキメラ化したようないったい何のキャラクターなのか意味のわからない着ぐるみを着ている。

ベンジャミンがすべてを買い終え、もどってきて先生と向かいあってすわるとレモンアイスクリームを食べながら言った。

「先生、あのポップコーンを売ってるピンクのうさぎが先生のこと知ってたよ」

「なんだって?先生は知らないよ、あんなやつ、何かの間違いだろう、平気で嘘をつきながら遺伝子組み換えのポップコーンを売りさばいているような顔をしているじゃないか」

「でも言ってたよ、あいつは確か、20年以上前に俺のポップコーンを買って金を払わなかった奴だって」

「そんな憶えはないぞ、しかしなんであいつはまたそんなことを未だに根に持って憶えているんだ」

「きっとすごく貧しくて苦労して生きてきたうさぎなんだよ。今その分を先生が払ってしまえば赦してくれるはずだよ。先生、さっきからなんでアイスとポップコーンを交互に食べてるんですか?」

「甘いんだよ、すごく、そして、冷たい。交互に食べるとちょうどいい」

先生は懐から財布をとりだすと161ルーブルをベンジャミンに「これをあいつに払ってきてくれるか」と言って渡した。

ベンジャミンはコインを指ではじいて落ちるコインを掴みとると「先生まかせてよ」と気前のよい顔をしてまたポップコーン屋に向かって走っていった。

ベンジャミンが戻ってきて息をはずませながら座ると言った。

「受け取ってくれたよ。でも素っ頓狂な顔をしてた。なんであいつはこんなちっぽけなことを気にしているんだ。こんなお金どうだっていいことなのに。って言ってたよ」

先生はまた無意識に煙草の箱を内ポケットからとりだすと一本抜いてテーブルに立ててとんとんと垂直に落としながら言った。

「おかしくないか?何故ほんとうにどうでもよいことだと思ってるなら、さっきベンジャミンにそのことをあいつは言ったんだ?」

「きっと、想いだしてほしかったんだよ、じぶんのことを」

「なんでだ?ただの他人になんで想いだしてほしいんだ?あのピンクのうさぎ男は何かを隠しているんじゃないのか。それに、あのうさぎ男の目はなんであんなに虚無なんだ?」

「先生、そんなに気になるならもう一回行ってきて、訊いてきましょうか。何かを隠していませんかって」

「いや駄目だ、そんなことをして、あいつがなにかを想いだしてみろ。この不安定な次元の時空がさらにゆがんで、戻れなくなるかもしれない。絶対に駄目だ。そっとしておこう」

「でもほんとうに何かを隠していた場合、あのうさぎ男は先生のことが気になって、これから先生のあとを着けるんじゃないかな」

「怖いことを言うのはやめなさい、ベンジャミン。いったいあのうさぎ男と先生にどんな因果関係があるというのだろう」

「先生、いま、あいつ先生のことじっと見てるよ、ほら」

「やめなさいベンジャミン、着ぐるみを着ているのだから、そんなことはわかるはずがない、って、あそうか、おまえは透視力があったな、先生を怖がらせるんじゃない。楽しむためにここにきたんだろう」

「先生ぼくとっても楽しいよ」

「おまえは真に、率直でよろしい、しかし先生はもう、気にしないことにするぞ、ほら早く、食べてしまいなさいそのアップルパイ」

「先生半分食べてよ、Lサイズのポップコーンでお腹がふくれちゃった」

ベンジャミンは大きなアップルパイを半分にちぎると先生に渡した。

先生は左斜め向かいのほうからうさぎ男の視線を感じながらアップルパイを食べた。

「ぼく喉かわいちゃった。ちょっとカシスソーダを買ってきますね」

そういうとベンジャミンはまたうさぎ男の店に向かって走っていった。

ベンジャミンにカシスソーダを手渡しながらうさぎ男がこっちを見ている気がして先生は目をそむけ、煙草を無意識で吸い始めた。

 ベンジャミンは戻ってくると、テーブルにひじをついてカシスソーダのストローに口をつけながらうさぎ男のほうをじろじろと見だした。

「ベンジャミン、あんまり見るのをやめなさい。彼は無実だし、先生も無実だ。憶えちゃいないんだからね。それはそうとおまえはカシスが好きなのか」

「好きだよ先生。味や色も好きだけれど、それよりも名前が好きなんだ。ぼくの好きな本に長野まゆみの”耳猫風信社”って本があるのですが、その話の中にカシスって名前の少年が出てくるんです。すごく面白いから先生も読んでみてください」

「それは面白そうだな、では今度授業でとりあげよう、おまえが最初に読みなさい」

「やった!すごくひさしぶりに読むから楽しみです」

西に傾いた陽は強くなったり、翳ったりをなんども繰りかえしていた。

 カシスソーダを一気に飲みほしたベンジャミンは立ち上がって先生の手をとると「先生、せっかくなんだから船は最後の砦にして、いまから回転木馬とジェットーコースターに乗ろうよ!」と言って先生の手を引っぱった。

 先生はのっそりと立ち上がりながら「最後の砦って、使い方間違ってないか」と言った。

「でも船に乗るのってなんだか、最後の砦って感じがするじゃないですか?」

「先生とベンジャミンはこの地を追われた亡命者というわけか」

「そういうわけです。あのうさぎ男がぼくたちを追ってるんです」

「だからずっとこっちを見ていたわけか」

「うん。今も見てます。何か恐ろしい凶器を持って追いかけてくるまえにここを離れましょう先生」

「そうしよう。ああいう子供の味方の振りをしたクリーチャーほど激しく手ごわい強敵だったりするものだ」

先生は先に走っていってしまったベンジャミンを追いながらうさぎ男から離れるにつれて心底ホッとするのだった。

回転木馬の前で律儀にも待っているベンジャミンに向かって先生は言った。

「ベンジャミン、すまないが先生は昨晩徹夜をしたおかげで急激にいま猛烈な睡魔に襲われている。ちょうどここに良さそうなベッドがあるので先生はここで一眠りをするから、おまえは自由に行動していなさい」

「ベッド?どこにそんなものがあるんですか?」

先生は回転木馬に近づいて階段を上ると、「ほらここに」と言って大きなかぼちゃの馬車の中に入って靴を脱いで横になってしまった。

ベンジャミンが中を覗くと、とてもふかふかとした寝心地の良さそうな場所に先生が膝を曲げて眠っていた。

外からは馬車があるなんて見えなかったし、それにまるで最初からここに寝心地の良さそうな馬車があると知っていたかように先生は言ったな。なぜかしら。とベンジャミンは不思議に思った。

するとそのとき、回転木馬が回り始めたので慌ててベンジャミンは馬車を引く白い馬の背中に乗った。

 馬の頭に耳をつけてベンジャミンは回る景色を眺めた。それは何かが遠ざかっていきながら近づいてくるような過去へさかのぼりながら未来へつきすすんでいくような景色だった。すべてが回っている。すべてが回っているということは終わりと始まりがない、ベンジャミンはなぜ人は途切れ目を探すんだろうと思った。途切れ目が人を幸福にするんだろうか。途切れ目を見つけさえしたなら納得してこの世界が回っていようと回ってなかろうとなんだってよくなるにちがいにない。なんのために回っているのか、きっと考えもしない。きっとそれが死というものなんだ。誕生の前、ぼくの生まれる前をぼくが見つけられないなんて。ぼくの過去を、ぼくが忘れてしまったなんて。先生には言えないよ。先生だけには。

ベンジャミンは何週か回って馬からおりるとかぼちゃの馬車の中をのぞいてズボンのポケットから携帯電話をとりだして先生のやさしい寝顔を写真におさめた。

向かいの椅子にベンジャミンも靴をぬいで膝を曲げて横たわると目をつむった。

目を閉じたまぶたからすこし涙がこぼれおちた。

 

 「くるしみっていうのはほんとうに、きりがない」

「かなしみっていうのはほんとうに、きりがないよ、ベンジャミン」

先生の声で目を醒ますと先生の姿がなくなっていた。

不安になったベンジャミンは先生の姿を探した。

もう日が暮れかけてきてあたりは薄暗い。

 ひょっとしてうさぎ男との因縁を思い出してけんかを吹っかけにでも行ったのだろうかとポップコーン屋に行ってみたが店はひとつ残らず閉店になっていて真っ暗だった。

その周りを探してみても先生の姿はどこにも見当たらない。

ベンジャミンは急に泣きたいような気持ちになってきた。

先生が言った「戻れなくなるかもしれない」という言葉がとてつもない恐怖と共によみがえり絶望的な気持ちになった。

こんなところで戻れなくなって死ぬまで過ごさなくちゃならなくなったらならぼくはどうしよう。

 絶体絶命だ。誰もいなくなったこの遊園地はまるで、死体のようじゃないか。

ベンジャミンは打ち震える心で叫んだ。

「死体だ!」

「山のようにでっかい死体だ!」

するとベンジャミンの右肩に誰かが手を載せた。

「うわああああああああっ」

ベンジャミンが悲鳴をあげて振り向くとそこには先生がぎょっとした顔をして突っ立っていた。

「どうしたんだいったい、何があったんだ?死体ってなんのことだ?」

「先生いったいどこに行ってたんだよ、ぼくを一人で置いていくなんてひどいじゃないですか」

ベンジャミンは心からホッと胸をなでおろして泣きそうな顔でそう言うと先生は微笑みながら返した。

「なんだなんだそれは悪かったよすまなかった。先生はベンジャミンを起こしてもなかなか起きないもんだからそこらをぶらっと散歩したついでにトイレを見つけたんでトイレに行ってたんだよ」

 ベンジャミンは先生の左腕をぐっと掴んで引っ張ると叫んだ。

「先生!はやくあの船に乗らないと!」

先生はそんなベンジャミンを制して立ち止まった。

「待ちなさいベンジャミン。今からあの船に乗るのはとても危険だ。船の中に着いたころにはもう真っ暗闇だ、灯りを持っていないから操船できないし、航海もできないぞ。この遊園地はもうとっくに閉館時間を過ぎている、今日のところは戻ることにしよう」

ベンジャミンは納得のいかない様子で海に浮かぶ山のようにでっかい船影のほうを見やった。

先生はベンジャミンの前へ回ると言った。

「ベンジャミン、先生が眠ってしまったせいで船に乗れなかったのだから、この借りは必ずおまえに先生は返す、次には一緒にあの船に乗るとおまえに先生は約束する。先生を信じてくれるか」

「でも先生いつも先生を信じるなって言うじゃないですか」

「それとこれとでは話が別だベンジャミン、先生が言ってるのは、おまえの大事なものを先生が借りた事実を先生がなにがなんでもおまえに返したい気持ちを信じて先生と一緒に戻ってほしいと頼んでるということだ」

「でも先生、この遊園地は次も来ることはできるんでしょうか」

「おまえがほんとうに望みつづけるならば必ず来れる。それは安心しなさい」

「わかりました先生、ぼくは先生のいうことを聴きます。そのためにぼくは先生の生徒であることを選んだのだもの」

「よし、では戻るぞ、ベンジャミン、帰り道に向かって先生を誘導しなさい」

「はい、あの蜂の遊具の近くが入り口と出口でしたから、あの場所へまずは戻りましょう先生」

二人は暗がりの遊園地の中をならんで歩きだした。

ベンジャミンはふと後ろを振り返って船影の向こうの海を見つめるとその濃い色の紫はその空とまったく同じ色であった。

向き直って少し歩いてゆくと先生が小さな声で言った。

「ベンジャミン、なにか後ろから足音のような音が聞こえないか」

「そういえば、何か足音っぽい音が聞こえてきますね、なにかしら先生」

「おまえさっき振り返ったとき何か見えなかったか」

「何も、カシス色をした海と空いがいは」

「もしかして、アナルカシスが着いてきてるんじゃないのか」

ベンジャミンは震える声で応えた。

「まさか、だってその名はぼくが作った名で、彼はどこにも存在していないのですから」

ベンジャミンはそう言いながら心の中でアナルカシスに謝り倒した。お願いだから化けて出てこないで。ぼくはふざけていたけれど、ふざけていたわけじゃないんだ。

「先生アナルカシスというのは漢字で書いたら穴のなかに流れるカシスと書いて”穴流カシス”なんです」

「いったいどういう意味なんだそれは」

「つまりそれは…大きな闇のような穴の中に濃い紫色の粒粒の実が流れ落ちていくという意味で、その濃い紫色の粒粒とはすべての闇の一歩手前のぼくたち生命を表していて、だから濃い紫色をしているんです、で、それが本物の闇の穴の中へ流れ込むというイメージと言いますか、すみません今考えました」

「なかなか面白いじゃないかベンジャミン、そういったひょんなイメージが真理を表現しているものなんだよ」

「でも先生、足音がおっきくなってきていませんか」

「気にするな、気にしだしたら余計に大きくなってくるぞ、あとを着いてきているのは存在しないものだ、さて、存在するものと存在しないもの、どちらが後を着けてくるほうが恐ろしいと思う?ベンジャミン」

 「先生どちらも怖いよ、だって存在しないものとイメージした瞬間、それは”存在しないもの”として存在してしまうような気がするじゃないですか」

「ははは、引っ掛け問題だよベンジャミン、気にした瞬間にそれはなんであろうと存在を感じるものとして人は恐怖する、だから気にせず忘れること以外にこの恐怖から逃れるすべはないぞ」

「でも気にしてはいけない、気にしてはいけないと思えば思うほど気になってしまうものです。先生はこの足音の正体はいったいなんだと思いますか?」

「ベンジャミン、目を閉じてよく聴いて御覧なさい」

ベンジャミンはそう言われて目を瞑ると足音だけに集中した。そして目を開けて先生に言った。

「先生ここは、ここは、ぼくらの願望と恐怖をほんのすこし後にこだまのように返してくる場所だったんだね、後ろからつけてくる足音の調子はぼくの踏む足音のリズムとまったく同じリズムと音だ、さっきまでは先生の足音も聴こえてきてたはずなのに、先生が気にしなくなったから先生の足音は消えてしまったんですね、そういえば恐怖という言葉を思い浮かべるだけで恐怖を感じます、なんの恐怖かもわからないのに」

「恐怖というもの自体が恐怖であることの証だよ、それにしてもベンジャミン、さっきから先生とおまえは同じところを何遍ぐるぐる回っているんだ?」

「だって蜂の遊具が見当たらないんです、これじゃ出口まで行き着けない、先生どうしよう」

「ベンジャミン落ち着きなさい、せっかく足音が消えたのに今度はまた新たな恐怖に恐怖しているぞ、おまえがここへ先生を連れてきたのだからおまえの戻る道でないと先生も帰れないんだ、蜂の遊具は小さいから見つけづらい、そのそばにパンダの大きな乗り物があったじゃないか、蜂はやめてパンダを探そう」

「パンダなんて、見なかったよ先生、なぜだろう。もしやあのうさぎ男の自家用車があのパンダの乗り物なんじゃ、きっとそうだ、そうに違いないですよ先生、乗って帰ってしまったんだ、ああどうしよう、目印が、大事な道標を、あいつは奪ったんだ、ピンクのうさぎは白と黒と前脚の先がじゃっかん茶色がかったパンダの背中に乗って竜宮城へと帰ってしまったんだ」

「ベンジャミンいいから落ち着くんだ、恐怖のあまり思考がちょっとした狂者風になっているぞ、しかしあのうさぎ男がパンダの乗り物に乗って家路に着くというのはまったく違和感がない話だな。もうここは致し方ない、先生は今からうさぎ男に電話をかけるから、あいつがやってきたらおまえは出口の場所を聞き出しなさい。お礼に次はLLサイズのポップコーンを買うと言えば教えてくれるはずだ」

「先生なんでうさぎ男の番号を知っているの?」

「当てずっぽうだよそんなものは」

先生はそう言うと携帯電話をどこからともなく取り出して番号をプッシュし、耳に当てて話し始めた。

「悪いが今すぐにここに来てくれ、勿論、礼は弾むよ、ありがとう。おまえの恩は絶対にたぶん忘れない」

電話を切ると先生はベンジャミンに向かって「すぐ来てくれるそうだ、これで安心だ、それまであの呪われた木が人間を羽交い絞めにしようとしているようなベンチにでも座って待っていよう」と言って大きな曲がりくねった呪われた魔女の木のベンチに向かって歩いていった。

ベンジャミンは左隣に座る先生の横顔をきょろきょろと眺めながら「先生うさぎ男ほんとうにやってくるの?」と訊いた。

「必ず来るさ、それくらいの能力がなくては先生は先生をやっていられない」

「それじゃ先生はこの遊園地の出口を見つけられないの?この場所を日が落ちてもあぶなくない場所にはできないの?先生は何故好きな女を自分のものにはできなかったの?」

「ベンジャミン、最後の質問だけ明らかに先生の傷口をえぐっている、やめなさい」

「だってそれくらいの能力は先生は持ってるんじゃないんですか?」

「先生はそれくらいは持ってるさ、だからこそ自ら叶えないものがたくさんある、先生は何を叶えるべきかを知っている、先生は好きな女の自由を奪うことなんて、したくなかった、先生は女を自由にできる魔法があるからこそ、女に嫌われて捨て去られるという人生を選んだんだ、先生は決して負け惜しみで言ってるわけじゃないぞ、おまえのことだって同じだ、おまえのほんとうに望むことと反対のものを先生はおまえに経験させたりはしない、だから先生の過去の女の話を持ち出して先生を意気消沈させることはやめなさい、いいね、ベンジャミン」

するとベンジャミンは右を指さして言った。

「先生、あすこのぬいぐるみが並んだショーウィンドウの影にいるのパンダに乗ったうさぎ男だよ!ほんとうにパンダが自家用車だったなんて、すごいや」

「ほんとうだ、さ、早くあいつのところに行って出口の場所を訊いてきなさいベンジャミン」

「うん!」

ベンジャミンがなにひとつ恐怖を抱かずに走っていったことに先生はホッとした。

交渉をし終えた様子でベンジャミンが息せき切って戻ってくると嬉しそうな顔で言った。

「先生うさぎ男が教えてくれたよ、出口の場所!」

「おおそれはよかった、で、どこだって?」

ベンジャミンは先生の頭上を指さした。

先生が頭上を見上げて言った。

「なんだこれは、先が真っ暗闇で見えないじゃないか、この大きな穴、ここが出口だって?」

「そうだよ先生!どんな感じ?」

ベンジャミンはベンチの上に立って先生の上を覆いかぶさるようにして垂れていた太い木の幹の真ん中にくり抜かれた深くて大きな穴の中を覗きこんだ。

「ほんとうに真っ暗だ先生、先生は先に入るの怖い?それならぼくが先に入るよ」

勇ましいベンジャミンに感動して先生は返した。

「では先にベンジャミン、おまえから入ってくれ、そして安全かどうかを先生に教えなさい、そしたら先生はおまえの後をゆくから」

「OK!なんだかドキドキするな、こんなに真っ暗な深い穴の中に入るのは初めてだよ先生」

ベンジャミンは木の穴のふちに手をかけるとよじ登って中へと入っていった。

ベンジャミンの姿がまったく見えなくなって不安を感じた先生は「ベンジャミン」と呼びかけた。

「どうだ、穴の中は?何か見えるか」

するとすこし経ってから返事が聴こえた。

「先生、まだすごく暗いよ、何かがあるように見えるんだけれど、何があるのかよく見えないんだ、でも危なくはないみたい、先へ進めそうだよ、先生もおいでよ」

先生は大きく声を張り上げて穴の中へ向かって返事を返した。

「今から先生も入るから、そこで待っていなさい」

「OK!先生を待ってるよ」

 

 

 

 

 

 

先生が静かに目を開けるとベンジャミンは目の前の椅子に座りながら眠っていた。

窓際の席から見える夜の空はよく晴れている。

ベンジャミンが風邪をひくといけないから小さな電気ストーブをつけたまま眠ったことを思いだす。

先生はベンジャミンの肩をつかんで小さく揺らした。

 ベンジャミンがゆっくりと瞼をひらけてゆく。

目の前に先生が安心したような顔をして座っていた。

ベンジャミンはあたたかい教室の中でとても心地がよかった。

そういえばこんなに夜遅くまで教室に先生と一緒にいるのは初めてだ。

ベンジャミンはふと左の窓を見た。

「先生、カシスの海と空だ、カシス海、Cassiskyだ」

そういうとベンジャミンは先生に向かってこぼれおちそうな顔で微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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