初めて蝶を羽化させることに成功した。
昔に何度かアオムシを育てたことがあったがどれも寄生蜂にやられて羽化する前に死んでしまった。
野菜についてる蝶の幼虫はいつもモンシロチョウのアオムシで、だいたいは蛾の幼虫がほとんどなのでアオムシを育てることは久しぶりだった。蛾も蝶も幼虫を見つけたときはほぼ一センチ足らずの小ささの場合も多いため野菜を洗うときに一緒に流してしまいかねない。私はそれを最小限にするために溜めた水で何度も洗いその水の中に幼虫が浮かんでいないか念入りに見てから流すようにしている。野菜の中のほうに入り込んでいる幼虫も多いためよく洗ってから切らねばならない。
これがそのアオムシである。小さな黒い点はうんちだ。もりもりとよくうんちをしていた。蕪の葉についていたアオムシなので蕪の葉が好物だった。
私は幼虫のあのひんやりした身体がとても好きで、できたら手に乗せたかったが蛾の幼虫に比べ身体が細いので手に持つとあまりよくないと思い触らなかった。
ものすごい早さで成長して即、蛹になり、今日起きたら羽化していた。
一ヶ月も掛からないとは脅威の成長と進化振りである。
もっと観察をしたかったが狭い容器の中でバタバタとせわしなく飛んでいたので可哀相に思い、すぐに外へ放してやった。
ベランダから放したが、晴れた日の緑の中に向かって飛び立った姿はとても感動的であった。
あの暗黒の冬の凍て付く夜に放さねばならなかった蛾のときと偉い違いだ。
どのような生涯を遂げるかはわからない、放したあと近況を記した手紙をよこしてくれるでもなし。
それなので放す瞬間の光景というものはなかなか忘れがたいものだ。しかし別れと呼ぶにはふさわしくないと感じる。
いったい何が別れなのかわからなくなる。
わからない、私はかつて一番に愛した蛾の幼虫きゃたぴぃは羽化したあと水槽の中で死んだ。
蛾の幼虫に出会うたび、きゃたぴぃにまた会えた、という気がする。
今回のアオムシだってそうは変わらない、私は何度もきゃたぴぃを育て羽化させているような気持だ。
違う名前をつけたところで、やはりきゃたぴぃなのである。
例えばこれが人間の場合、愛する子供を亡くしても、次に生まれてくる子供を前の子供のように思って愛するということになる。
愛する恋人を失っても次の恋人を前の恋人を愛するように愛するということになる。
つまり愛し方に変化がない限り、いつでもかつての存在を愛するかのように愛するということになる。
しかし私は思う。きゃたぴぃのように愛せる幼虫はもう現れないのかもしれないと。
きゃたぴぃを何度も育てながら思う。きゃたぴぃを失った喪失が深いため、その喪失が愛を見失うのではないかと。何故なら愛を見失わないでは、また深い喪失を味わうしかないからだ。
喪失を怖れるとは、愛を恐れるということである。
だから私は思っている。もう同じようには愛せないのではないかと。
愛することが怖いために、もう愛せないのだろうと思っているのだ。
愛する子を亡くした親は思う、もうあの子以上に愛することの出来る子は生まれてこないと、そう思いながら次の子をかつて愛した子のように愛するのである。
これが愛の矛盾である・・・・・・。
愛とは矛盾なのである。
そして別れを拒む者ほど別れを信じないのである。
私は永遠の別れがどこにあるのか、わからない。