The Sea of Elijah

白い海の向こうには、紅い砂漠がつづいていて、人々は朽ち果て、そこにただ独り、遺る人を想うこともなかった。
地には血の雨が、三年と六ヶ月降りつづけていた。
深い谷の川のほとりの洞窟で、エリヤは目覚めた。
涸れつづけていた川に、水の音を聴いた。
その日から、決まって黒い渡り烏(ワタリガラス)がパンと肉を彼のもとへ運んできたが、それはどちらも人の肉(死体)であった。
エリヤは、渡り烏に言った。
「わたしは最早、人の肉を食べたくはない。これまでは眠りのなかにいて、それがわたしの肉であると想っていたが、わたしは今目覚めたのであり、それをもう必要とはしなくなったからである。だから何かほかの食べ物を運んで来るように。」
渡り烏は一声ちいさく鳴くと、何も言わずに空に飛んで行った。
エリヤは目の前に棄てられた、人の肉から目を背けて空を見上げた。
のどかなほかになにもない縹色の空であった。
エリヤは澄んだ川を流れる水を眺めながら懐いだしていた。
エリヤは、地に雨も露も降らないようにと祈った。
するとどうだろう。
見よ、すべての地に三年と六ヶ月ものあいだ、一滴の露も雨も降らなかった。
その代わりに、地には真っ赤な血の雨がそのあいだ止むことなく降り続けた。
人々は互いに身を切り裂き、その血を水の代わりに飲み、その肉をパンの代わりに食べようとしたからである。
風はなく、なんのざわめきの音も聞こえないほど静かな午後だったが、エリヤは神の声を聴いたような気がした。
神はエリヤに言った。わたしを待つ者が、そこにいて、その者にわたしに人の肉以外の食べ物を与えさせる。だからそこに滞在するようにと神はエリヤに命じられた。
エリヤは早速、この暗い洞窟をあとにして出発し、その町へ向かった。
多分、十日以上歩いて、やっと町の入り口へ彼は着いた。
彼は喉が非常に渇いていたので、荒れた地で、ちょうど薪を拾っていた女に声を掛けた。
「わたしにどうか水を飲ませてください。」
彼女は、驚いて振り返りエリヤを見た。
その表情は困惑と悲しみに満ちており、彼女は痩せ細った痛々しい身体を翻し、水を取りに行こうとした。
エリヤは彼女の背中に呼び掛け、言った。
「どうかパンも分けてください。」
すると彼女は振り返り、涙を流して言った。
「あなたは生きている神、あなたの神エホバに懸けて言います。もう、わたしたちは終りです。あと一握りの麦粉と、少しの油で最後のパンを作り、わたしとわたしの愛する息子はそれを食べて死ぬだけなのです。」
エリヤは、このとき、絶望した。
悲しい顔でエリヤと女は見つめ合うなか、彼は想った。
わたしはどれほどの命を殺してきたか知らない。神はわたしを大量殺戮者として生を与え、最後に出会った女とその子が飢えて死にゆくのを見つめろというのか。
エリヤは、悲しみのあまり血が滲み出るほどに歯を食い縛った。
そして、神に向かって心の裡に叫んだ。
神よ、あなたの御心が叶うならば、どうかわたしの願いを叶え給え…!
そのときであった。一羽の、大きな美しい虹色に光る黒い渡り烏がエリヤと女の間の地上に降り立ち、咥えていた血の滴る大きな鮮やかな赤い肉の塊を地に放おった。
そして大きく一声鳴くとまた空へ飛び立った。
女はまるで救われたような安堵の目で、一心にその肉を見つめていた。
エリヤは、女に言った。
「あなたはそれを食べてはならない。それを食べればあなたはどんな奇跡を行うこともできれば不死の魂を手に入れることもできるが、その代償に、あなたは愛する自分自身と、愛する誰かを喪う。それは永遠に喪いつづけ、最早、あなたにそれは戻らない。」
しかし女は素早くその肉を手に持つと、薪で火を熾して焼いて息子と共に食べ尽くした。
エリヤは、飢えの苦痛のなかに、その光景を地獄を見つめるようにぼんやりと眺めていた。
自分が永遠に生きつづけることを知っていたエリヤは、もう少し楽な世界に生きたいと願った。
この地上に、残されているものとはなんだろうか。
わたしのすべての警告は、塵のように虚しい。
わたしの人類への愛は、暗黒の雲に覆われ、人もわたしも最早見えない。
わたしは彼女を何よりも愛していたが、彼女の息子を同等に愛することはできなかった。
女は、エリヤを愛してはいたが、息子ほどに愛してはいなかった。
エリヤの胸に抱かれて女が眠る夜、そのときだけの彼の至福の歓びは、女と共鳴し合う日は来なかった。
神の力をみずから棄て去ったエリヤに対して、女は自分たちと同じような人であると感じていた。
だが、同時に“人ではない”ものをエリヤに感じていた。
“人ではないもの”を、エリヤは彼女の息子に対して感じていた。
それは最初から、“異形の者”だったのである。
だが人は、己れの鏡を通してでしか、相手を見ることはできない。
女の腹を孕ませたのは、人ではなく、鬼と獣の一体となった者。
エリヤは、心の底で望んでいた。
彼女の息子が、此処を去るか、死ぬことを。
エリヤは、自分の未来を想いだしている。
わたしはやがて女を愛する。
堪らないほどの彼女への愛がわたしを襲いつづけるようになり、わたしは悲しみのなかに、その愛に満たされていた。
女は、ある雨の朝、エリヤの腕のなかで目覚めると不安な顔で彼にこう言った。
「あなたは、わたしに悦びを押し付けています。あなたは、いつも此処にいて、わたしが自分を開いて悦びを享受することを待っているのです。あなたは、いつもわたしにこう言います。"求めつづけなさい。貴女が真に求めつづけるものはすべて、まさしく貴女に与えられます。"そして、あなたはわたしにこうも言いました。"あなたは真の幸福に値する"」
エリヤはいつも、女が自分を見つめるとき、いつでも自分を通って彼女の息子の姿を見つめていることを知っていた。
そして女は、ある日わたしに言う。
女は、あの日、息子の亡骸のまえで蒼い亡者のような顔を涙で濡らしてエリヤに向かって血を吐くように言った。
「わたしは、やっと気づいた。あなたは、死の神だった。あなたが、わたしの息子から魂を抜き取り、戻れない場所へと連れ去った。あなたは、わたしの罪をわたしに思い起こさせ、わたしの最も愛する息子を殺す為に来た。わたしの積みつづけた実、その罪を無残に刈り取る、あなたは死の神だった。」
エリヤは、すべてが終りを迎えることをわかりながら、女に言った。
「あなたの息子をわたしに渡しなさい。」
それで、エリヤは彼女の息子の亡骸を彼女の目に見えない暗い場所へと連れてゆき、そこでその亡骸にみずから呪(まじな)いを唱えながら三度身を重ねると、彼女の処に降りて行って、言った。
「見なさい。あなたの子は生きている。神が、あなたの願いを聴き入れたのです。」
女はエリヤに言った。
「あなたは真に生と死の神。あなたの言葉のすべては真実です。」
彼女の息子は果たして、死のなかに、甦った。(それは人の様相でもなかった。)
彼女の息子が、彼女を此処から連れ去った。
これ以上、死が、死で在りつづけることさえできない場所へ。
エリヤは、永く共に暮らした、何よりも愛する女に別れを告げ、その地を独り去った。
闇の雨が、赤い地に当たり、白々と、骨の砂が谷底で光っていた。
人々は巨大な牛頭人身の神を崇拝し、生贄に我が愛する子を捧げて祈っていた。
何を祈っていたのだろうか。
それは此の世に“悪”が、永続することである。
生命の地獄と拷問と絶叫の黒い血の海のなかで、終りなく、歓喜しつづけられることを、彼らは祈りつづけていた。
そして何よりも、信じていた。神が自分の愛する者を生きたまま焼き殺し、それを我がものとすることで、わたしたちは赦されつづけ、わたしたちは救われる。
神は彼らに言う。その黒い血の海のなかの赤い実を、わたしのなかで実らせる。
さあ、お前の最も愛する者を、月も星もない夜にその海辺へ横たわらせ、お前の剣を、その者の心臓に突き立てよ。
お前は、真の自由を手にし、永遠に生きることも、永遠に死ぬことも許される。
いつ目覚めようとも、愛する者がお前の処にいて、お前だけを限りなく、愛しつづける。
お前に、この宇宙のすべてを与える。
すべてはお前のなかに在り、お前の外には何も、何もない。
お前は最早、この夢から目覚める日は来ない。
エリヤはこの地上でたったひとつ残された山の頂上に登り、地に跪き、慟哭する。
今、エリヤの愛するたった一人の女は、生きてもおらず、死んでもおらず、光を喪った闇のなかで、愛する息子の亡骸と幸福に暮らしつづけている。
エリヤは、漆黒の夜に自分の膝のあいだに顔を深くうずめ、産みの苦しみのなか、神に祈る。
「見よ。これはあなたの息子。貴女が産み堕とし、わたしが殺した“わたし”。わたしのたった一人の愛する娘のあなたの息。」
エリヤはそれを、七度繰り返す。その瞬間、天は黄金に光り輝き、彼の周りの果てなき海がすべてに渡って反射し、高く立ち昇る。
彼は海を見下ろし、預言する。
必ず、最後のときに、わたしはこの海に戻ることを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


David Sylvian - Before the Bullfight