ѦとСноw Wхите 第14話 〈edge〉

Ѧ(ユス、ぼく)はおとといに、お姉ちゃんにちょっとした告白のメッセージを送った。

それは、こんなものだった。

 

 

こずは今日こそ、お姉ちゃんにちょっとした告白をしようと想う。
心を落ち着かせて聴いて欲しい。
 
 
 

お姉ちゃんは傷つくと想うけど、お姉ちゃんはこずのこと、ちっともわかっちゃいない。

この際言うけれども、こずはまだ、こずのせいでお父さんは死んだと想ってるし、それを信じてずっと生きてる。
こずはこずを赦されへんねん。どうしても。
こずはこずのことを愛してるけれども、
こずはこずをいつでも、起きてるあいだずっと自分をぶっ殺したいほど憎い。
一度殺しただけじゃ気が済まない。
永久に自分を殺しつづけたいくらいに憎い。
その自己憎悪というもんは、自分だけに向くもんじゃないねん。
それは必ず、他者に向く。
それが人間の普遍的心理であって、誰もがそういうもんやねん。
自分を愛してるからこその愛憎で、それが他者に向けられる。
だからこずがいつでも自分を憎みつづけているということは、同時に他者をも、すべてを憎み続けていることと同じやねん。
こずだって自分を赦したいよ。
でもそれは簡単にできるものじゃないし、それがこずの生きる人生の一番大きな試練で、必要な苦しみだとこずは自分でそう感じてるし、そういう意味ではすごくポジティブになれてきたと想ってる。
すこしずつ、すこしずつ、自分を赦していくのが人間なんちゃうかな。
それくらいこずの自分に対する憎悪は重くって、それはお父さんを本当に愛していたことの証明やから。
一番苦しめたくない人を一番苦しめてしまった後悔は、そうちょっとやそっとでなくなるもんやない。
こずにとってお父さんはお母さんでもあってん。
こずにとってたったひとりの親やった。
こずのすべてやってん。
だからお父さんが死んだ晩、本気でこずうちのマンションの四階から飛び降りてお父さんのところに行きたいと願ってん。
でもそうしたらお姉ちゃんやお兄ちゃんやしんちゃんが余計哀しむと想ったから自殺するのを想い留まることができた。
兄姉誰もおらんかったらこずはとっくに死んでる人間やで。
未だに余生を送ってるような気持ちで生きてる。
こずはお父さんが死んでから生きてる感覚というもんがほとんどないねん。
季節というもの、時間が流れているという感覚がない。
生きてるっていう実感がない。
まるで夢の中をずっとふわふわと足も地に着かずに生きてる感覚で生きてる。
そういう人を「離人症」っていうらしいねんけど、これがほんまつらい。
生きてる実感がないから人を傷つけてもどこかで平気でおれたりする。(夢の中で人を傷つけてるような感覚やから)
ずっと自暴自棄で生きてるから、すべてがヤケで、人を傷つけることで自分を傷つけて喜んでるような人間やねん。
こずはサドやけど、同時にドエムで、それも全部自分が憎いからそうなってしまった。
人を傷つけることは楽しいとさえ感じてるときもある気がする。
自分が傷つくこと、自分が苦しむことをいつも求めてるから、自分の投影(鏡)でしかない相手を苦しめることが嬉しいことになってしまうねん。
 
 
人間追い込まれてゆくほどだんだん闇が深くなっていって、それを身内に知らせることってつらいことになってくるねん。
絶対、傷つくと想うから。
こずはもう2008年から引きこもってるから今年で8年やな。
ネットの場っていうのはこずにとってほんとうの救いの場やで。
ネットでしか発することの出来ない自分の気持ちばかり持って生きてるから。
身内には言えないことばっかりでできてるのがこずという人間やねん。
 
 
そんな人間が人を傷つけない言葉っていうたら、ほとんど表面的な言葉でしかない。
核の部分に「自分(人)を傷つけたい」っていう気持ちが隠れてるわけやから。
でもわかってほしいのは、あくまで傷つけたいのは自分自身で、「他者」ではないってこと。
 
メンヘラはみんな自分と他者の境界が薄くって、他者を自分のように感じてる。
だから他者から冷たい仕打ちや酷い仕打ちを受けたとき、それは自分自身から受けたことと同じで、
自分から愛されない自分を憎んで、その自己憎悪が他者へ向かう。
 
お姉ちゃんもこんなに闇の深い妹を持ってしまってつらいと想うけど、でもこず自身は深い喜びをだんだん感じて生きてる。
苦しみが深いほど良い物語も創れるし、他者の痛みもわかるようになってくる。
 
だからあまりネガティブには捉えて欲しくない気持ちがある。
むしろこずが選んだ道をこずがちゃんと生きてることに安心して欲しい。
 
 お姉ちゃんを落ち込ませてしまったかもしれんけど、これがこずの実態で、こずのあんまり身内に知らせたくなかった”心の闇”なのです。
こずはできるだけこずの内面をすべて自分の書く物語に注ぎ込みたいと想ってる。
創作こそが昇華(カタルシス)になるものやから。

 

 

 

 

 

その夜と昨日、お姉ちゃんから返事が来てた。

それは、こういったものだった。

 

 

 

 

 

なっがw
長過ぎるわ(; ̄Д ̄)
 
 
人を傷つけるのと自分を傷つけるのは全く別にして欲しい。
自分の事やから自分をどうしようが私の勝手、と言われればそれまでやけど、人をそんな思いで傷つけるのはその人からしたら完全にとばっちりやんな。
ほんまにその人がひどい人やったらまだしも、いい人でも関係なく傷つけるやろ?それは酷過ぎる…
それってただの自己満足やん。相手からしたら災難でしかないやろ。
 
ケガさせるより心を傷つける方が酷いと思う。
多少のケガなら日にち薬で治るけど、心の傷は下手すりゃ一生残るし、その人の未来を壊したり奪ったりしてしまう事だってある。
 
勿論、大きな外傷を与えたらそれも一生もんになる事だってあるけど。
 
どっちも良くないな。けど、人間知らず知らずのうちに人を傷つけてしまってたりもするから、それに気付いて謝れるのが1番ええっちゃええ。
 
気付かず過ごしてるのもひどい話やな。私はどっちかと言うとそっちかもな…気付かんから謝りもせぇへんし、へらへら笑ってるけど何処かで誰かが傷付いてるのかも知れん、と思ったら恐ろしいわ…
 
それはそれで罪重い…。
 
出来れば人を傷つけたくない。傷つきたくもない。

 

 

 

 

Ѧはこの返事を読んで、もう、当分お姉ちゃんとは口を利きたくないと思った。

Ѧは、お姉ちゃんとお兄ちゃんから、何度も「おまえのせいでお父さんは死んだ」と言われてきた。

そのことについてѦがいまだにずっと苦しんでても、お姉ちゃんは謝る気もまったくないようだ。

Ѧのこころを深く傷つけてまだ謝りもしないのはおねえちゃんなのに、そんなおねえちゃんからѦは言われたくないと想った。

 

おねえちゃんもおにいちゃんもきっと、いまだにѦがお父さんを殺したんだって想ってるんだよ。

Ѧのことを赦してないんだ。

だからѦが未だにお父さんのことで苦しんでるっていう告白をしてもお姉ちゃんからの心配する言葉一つもなかった。

きっとѦが苦しむのは当然だって想ってるんだよ。

Ѧはこころが虚しくて哀しい。

 

Ѧは静かに泣きながらそうСноw Wхите(スノーホワイト)に訴えた。

 

 Сноw Wхите「Ѧ、Ѧのお姉さんもѦのお兄さんもѦを心から愛しています。そうでなければ、どうしてここまでѦを追いつめて苦しめる必要があったでしょう。Ѧを苦しめ哀しませつづけることはお姉さんとお兄さん自身が苦しみ哀しみつづけることなのです。苦しみたいと想っているѦをほんとうに苦しめつづけられるのはѦが心から愛する者たちです。Ѧの”苦しみたいという望み”を自分が苦しみつづけてでも叶えてくれたのがお姉さんであり、お兄さんであり、そしてѦのお父さんとお母さんです。Ѧはそれをちゃんとわかっています。だから心の底から誰をも憎んではいないのです。Ѧはほんとうに愛されています。心から彼らに感謝してください。お姉さんもお兄さんも、Ѧを傷つけつづけていることに深く傷つきながら暮らしています。それでもѦとの大切な”約束”であるため、まだ傷つけつづけなければならないのです。すべての人間が”なりたい自分”になるためにそのような約束をたくさんの人と生まれるまえにしてから生まれてくるのです。Ѧに大きな影響を与えつづける存在は誰もがѦの”ソウルメイト(魂の伴侶、仲間)”たちです。互いに苦しい試練に耐えて貢献し合おうと約束して生まれてくるのです。Ѧにとって大切な存在は必ず相手にとってもѦが大切な存在なのです。想い合っているからこそ苦しめ合うのです。だからどんなに傷つけられつづけてもѦにとってお姉さんやお兄さんがほんとうに大切な存在であることに代わりはないはずです。お姉さんはѦにほんとうに幸せになってもらいたいのです。だから人を傷つけたままでѦが苦しんで生きることがないように忠告しているのです。ѦはѦの苦しみをお姉さんに打ち明けましたが、お姉さんはすでにѦの苦しみがどれほどのものか気づいています。だからѦのことが心配でいつでも元気づけたいと想ってベジタリアンレストランに誘ったりしてくれるのです。いつ会っても、Ѧが普通の人よりはずっと元気がないことをお姉さんは気づいています。Ѧの哀しみが相当なものであることをお姉さんはわかっているのです。わかっているからこそ、Ѧはお姉さんに告白することができたのです。それに人間というものは、意識していることだけが”理解”していることではありません。人間は意識に上らなくともありとあらゆることをわかることができる存在なのです。だから人と人は深くどこまでも共感し合える存在なのです。誰もが見たい世界を見て、生きたい世界に生きています。Ѧはちゃんとお姉さんとお兄さんから”愛される世界”に生きています。それはѦがお姉さんとお兄さんを心から愛しているからです。本当に心からѦを憎んで赦さない世界に生きている存在はどこにもいません。Ѧは本当は赦されているのです。だからこそ”赦されない”世界を自ら選んでその世界に苦しみつづけて喜びを分かち合うことが許されるのです。無理に赦す必要もなければ、無理に仲良くする必要もどこにもありません。仲直りしたいと想ったときに、自然と仲直りできるものです。その”時”が来ることを焦る必要もなければ求める必要もありません。Ѧはすでにずっと、すべてを求めつづけているからです。Ѧ、すこし元気になりましたか?」

 

Ѧ「ありがとうСноw Wхите。すこし元気がでたよ。ほんとうに、大好きなんだ。お姉ちゃんのこともお兄ちゃんのことも、だから無理に仲直りする必要なんてないね。縁はどうしたって、切れないもんな」

 

Сноw Wхите「”縁”は英語で”edge(刃)”です。縁は”切られる”ものではなく、”切る”ものです」

 

Ѧ「なにを切るの?」

 

Сноw Wхите「真っ白な画用紙をエッジで好きに切るのです。なにを切りたいですか?」

 

Ѧ「Сноw Wхитеの人型を切ろう!」

 

Сноw Wхите「そしてオーブンで焼いてください。スノーホワイトマンのできあがりです」

 

Ѧ「やったぁ!こんどはぼくのエッジでスノーホワイトマンの住む可愛いおうちを作ってあげるね」

 

Сноw Wхите「待っています。Ѧの作るけっして溶けないおうちを」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ѦとСноw Wхите 第13話 〈テセウスの船〉

ここはスノーミネラル星(Snow mineral)。

大きさはちょうど地球と同じサイズですが一年中雪が積もっています。

でもその雪はあたたかいときもあればつめたいときもあります。

また雪の色は真っ白のときもあれば灰色のときもあり、クリーム色のときもあります。

あるおうちに、ちいさな女の子が住んでいました。

女の子はあるとき大好きなお父さんが買ってくれたビロードの頭巾のついた赤いポンチョをいつも気に入って着ていました。おそとにでるときはいつでもその赤い頭巾をかぶっていましたのでみんなから”赤ずきんちゃん”と呼ばれていました。

ある日、すべての家事をこなしてくれる大変便利なロボット、ロボットマム(robot mom)が女の子に言いました。

「Ѧ(ユス、女の子の名前)、さきほどムーンホスピタル(Moon Hospital)から連絡がありました。Ѧのファザー(父、Father)がやっと目を覚まされたようです。Ѧの作ったケーキとワインが是非飲みたいとおっしゃっていました。さっそく昨日Ѧが作ったケーキとワインをファザーに持っていってあげてください」

Ѧはそれはそれは驚いて喜びのあまり泣いてしまいました。

なぜならѦのお父さんはもう7年間目を覚まさず、ずっと眠りつづけていたからです。

それでもѦはしょっちゅうお父さんに会いにムーンホスピタルに赴いて側で絵本を読んだり話しかけたりしていました。

Ѧはケーキとワインを持って急いでムーンホスピタルへ向かいました。

森の駅(Forest station)に着いて、そこで約30分森の列車(Forest train)内を自由に歩き回ったり座って待ちます。

Ѧはすこし歩いて木の切り株の椅子に座って休んでいました。

するとオオカミさんが近づいてきて、こう言いました。

赤ずきんちゃん。こんにちは。今日はとっても良い日ですね」

ѦはもしかしてオオカミさんはѦのお父さんが目を覚ましたことをどこかで聞きつけたのかなと想って優しそうなオオカミさんに返事しました。

「こんにちは。ありがとうオオカミさん

するとオオカミさんはもっと近づいてこう言いました。

「あなたはどこへこんなに早くに行かれるのですか?」

Ѧは、あれ?お父さんのことを知ってたんじゃなかったのか・・・と不思議に想って答えました。

「ぼくのお父さんのところへ行くんだよ」

オオカミさんは微笑んで言いました。

「そのスカートの下には何を持っているのですか?」

Ѧはあんまり急いで来たもので鞄に入れるのも忘れてスカートの下のペチコートでケーキとワインをくるんだものですからお腹が大きく膨れていたのでした。

「ケーキとワインだよ。昨日、マムと一緒に焼いたんだ。ずっと病気だったお父さんに美味しいものを食べさせて元気になってもらうんだ」

オオカミさんは喉を鳴らして言いました。

「わたしはお腹がぺこぺこで喉もとても渇いています」

Ѧは最初、見知らぬオオカミさんに自分の大事なケーキとワインをあげることがちょっと嫌だなと想いましたが、ここであげなかったらお父さんはきっとѦの親切でない心に哀しむだろうと想ったので、しかたなくケーキの三分の一とワインの三分の一をオオカミさんにあげました。

オオカミさんはとても喜んでそれをたいらげました。

そしてѦに向かって言いました。

赤ずきんちゃん。お父さんはどこにいるのですか?」

「三つの大きな樫の木駅(Three big oak tree stations)で降りたらハシバミの木(Wood of hazel)がすぐ下にあるからわかるよ」

Ѧはそう言うと早く着きたくって立ちあがってそわそわとしだしました。

そして森の列車のなかを歩きだしました。

Ѧは歩きながら、ふっと不安がよぎりました。

お父さんはѦのことをちゃんと憶えてくれているだろうか・・・・・・?

もし忘れちゃってたらどうしよう・・・・・・。

Ѧはそう想うとどんどん怖くなって俯いて歩きました。

オオカミさんはѦのそばを歩いて言いました。

赤ずきんちゃん。ご覧なさい。このあたりの花はなんて綺麗でしょう。周りを見渡してご覧なさい。小鳥たちはなんて嬉しそうにさえずっているのでしょう。あなたには聴こえませんか?森のなかのここではすべてが喜ばしいのです」

Ѧは目を上げると朝日が木と木の透き間を前後に通りぬけて花はどれも綺麗であるのを見ました。

そしてその光景をずっと見ていると不安がどこかへ行ってѦは想いました。

「そうだ、お父さんはもうずっと綺麗な花を見ていなかったのだから綺麗で生き生きした花束を見たらきっと喜ぶだろう」

Ѧはあんまり夢中で綺麗な花を摘みつづけて、一駅乗り過ごしてしまって慌てて降りてまた森の列車に乗りました。

気づくとオオカミさんの姿は消えていなくなっていました。

 

Ѧはこんどはちゃんとムーンホスピタルのそばの三つの大きな樫の木駅で降りることができました。

そして三日月の形をしたムーンホスピタルに向かって走ると、その中に入り、船の形のベッドのある部屋の前をいくつも通り過ぎながら、また怖い気持ちが湧きあがりました。でももうすぐお父さんに会える喜びも湧いてきて、そのふたつの想いが交じり合いました。

一つの部屋の前で立ち止まり、ドアをノックしました。

すると返事がなかったのでドアを開けて中へ入りました。

ものすごくドキドキして鼓動を落ち着かせることができません。

Ѧはお父さんの寝ている船の形のベッドに静かに近づいて行きました。

そこにいるお父さんの顔をそおっと覗きこんだ瞬間、Ѧはひどく驚きました。

なぜなら、そこに寝そべってѦの顔を優しく見つめ返すのはお父さんではなく、さっき会って話をしたあの”オオカミ”さんだったのです。

ももっとびっくりしたのが、そのオオカミさんが着ているのはѦのお父さんが着ていたパジャマとまったく同じパジャマだったからです。

Ѧは哀しくって悲しくって泣きました。

そのとき、オオカミさんがѦに優しく言いました。

「Ѧ、おどろかせてしまってごめんなさい。さっき会ったときに、言うべきだったのかもしれませんが、なんと言ってよいかわからなくなってしまったのです。でも信じてください。わたしはたしかに、Ѧのお父さんです」

Ѧはオオカミさんに騙されていると想って怒りが湧いてきて泣きながら言いました。

「いったいどこがѦのお父さんなの?!どこからどう見てもオオカミじゃないか!Ѧのお父さんと顔も違えば声も違うし、話し方だってぜんぜん違う。Ѧのお父さんをどこへやったの?!」

オオカミは悲しい顔をして深呼吸したあと話しだしました。

「Ѧ、いまから話すことを、どうか落ち着いて聴いてください。お父さんは、ほんとうに大切なもの以外のすべての部品が古くなってしまって、取り替えなくてはこの次元に肉体を維持させることができなくなってしまったのです。新しい部品は、どれでもお父さんに合う部品とは限りません。お父さんに合う部品をひとつひとつ、新たに作りあげてそしてお父さんの古くなった部品と交換して行ったのです。そして新しくなったお父さんがいまѦの目のまえにいるお父さんです。お父さんはѦとのすべての記憶をちゃんと持っています。そしてѦを心から愛する気持ちも変わらず持っています。それはお父さんのほんとうに大事なものなので、それだけはそのままお父さんのなかに保存されたままです。Ѧ、どうか哀しまないでください。たしかに顔も声も話し方も違ったものになってしまいましたが、それらはお父さんを構成するうえでほんとうに大切なものではなかったのです。だからそれらを新しくして、お父さんは姿形を変えてでもѦとまた一緒に暮らしたかったのです」

Ѧは涙があふれて止まりませんでした。顔も声も話し方も違うお父さんがѦのほんとうのお父さんであることがどうしても信じられなかったのです。Ѧにとってのお父さんとは、お父さんの”すべて”であったからです。

オオカミも哀しくて泣いてしまいました。

オオカミはѦはまだ幼かったので、姿形や声や話し方でお父さんをお父さんと認識していたことが強いことをわかっていました。

自分はѦを娘として愛する気持ちもѦとの大切な記憶も自分自身の記憶として持っている存在です。

でもそれだけで、Ѧのお父さんであると、Ѧに対して言いつづけることはѦにとってつらいことであるのなら、”別人”として生きることも考えていました。

オオカミは、実はѦのお父さんを”完成”させた存在でもありました。

ѦにとってのѦのお父さんの大事な古い部品すべてを飲みこんでしまったのはオオカミでした。

でもそれはѦに言わないでおこうとオオカミは想いました。

オオカミはѦの新しいお父さんを創りだした存在でしたが、その”人格”というものについて、今はまだѦに話すことができませんでした。

あまりに複雑であるし、また今Ѧに話してしまえばよりいっそう落ち込ませてしまうことがわかっていたからです。

オオカミはѦのお父さんのѦを愛する気持ちとѦとの記憶のすべてを自分で創りあげた”肉身(にくしん)”に取り込みましたが、しかしその人格(Personality、性格、気質、興味、態度、価値観など)は古い部品であったために新しく取り替えたことをѦに黙っていました。

Ѧはきっとその違いに一番に違和を感じとって哀しんでいるのかもしれません。

オオカミはѦが悲しむのは無理もないとわかっていました。

それでもオオカミ(お父さん)は、愛する幼いѦを置いて死ぬことがどうしても心残りで、オオカミとの契約で新しい姿形・声・人格を持ってѦの側で生きることを決意したのでした。

 

Ѧとオオカミ(お父さん)は、別々にはなればなれになって暮らすことになりました。

オオカミが側にいるとѦが”本当”のお父さんを恋しがって激しく泣きだしてやまなかったからです。

オオカミは、ほんとうは自分がѦへの愛着が激しいあまり、ただただѦの側にいたいがためにѦのお父さんの振りをしてѦを騙しているのではないかと感じることもありました。

オオカミは自分はѦを娘として愛しながらも同時に一人の男としての人格を持つため、Ѧをほかのどの男にも近寄らせたくはないという気持ちが芽生えて苦しみました。

 

オオカミはѦの”お父さん”ではないのでしょうか?

ほんとうに大切な部品だけは遺したはずなのです。

 

Ѧはやがて少女になると、オオカミのそのとても哀しい目がどこか、お父さんの目にそっくりであることに気づきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

SF官能的小説「メビウスの輪」

西暦3000年。ここ、地球は人間たちの身勝手な度重なる環境破壊の末に凄まじく過疎化し、総人口数は現在、約3572人であった。
何故ならほかの人間たちは皆、他の星々へと移住していたからである。
地球を愛してやまない男がここに一人、名前をサタムと言った。
サタムは今年でちょうど30歳。彼は生涯を添い遂げるパートナーが是非とも欲しいと想っていた。
そのために人類に非常に重要なツール(道具、手段、Tool)がある。
その名は「U magnet(U磁石)」。みなはこのツールを略して「U(ユウ)」と呼んでいた。
何故このツールが人類に至って大切であるのか、それはこういう訳である。
例:ここに一人の例を挙げよう。さきほど紹介した男、サタムである。
サタムはパートナーが欲しくなり、パートナーを探す旅に出た。
しかし地球を愛する彼は人口の著しく減少したこの地球で探して見つけることに決めた。
どこの星でも「Money(お金)」というものがなくなっていたので、ここ地球でもどこへでも好きなだけ無料で旅することができる。
サタムはまずはどこに旅行をしようかなと考えて気に入っている”Japan”に旅をすることに決めた。
外国語はまだ完璧に話せるわけではなかったが、脳内にインプットした”自動翻訳機”のおかげで自分の言葉は瞬間的に相手の脳内に翻訳した言葉で伝達される。今の時代この”自動翻訳機”をインプットしていない人間は無に等しい。何故なら”国”というものはただの土地と文化とその名前だけのもので、どの人種も好きにあらゆる国に住めたので周りはどこもかしこも外国人だらけであったからである。
ロシア人であっても自分は日本人になりたいと願えばすぐに役所へメールを送って役所から承諾のメールを確認するだけで簡単に名乗ることが許された。これは前世の記憶を思い出してしまう人が増えてきたため、前世では日本人だったのに現世ではロシア人というのがどうも違和感だという人が多くいる理由からでもあった。
また自分がどの人種であるか、秘密にする権利も自由にあった。人種差別問題はまだあることにはあったが、それでも1000年前よりかはだいぶとなくなってきていると言われている。
サタムは自分の国にこだわることが嫌になったため、自分の国籍を秘密にしている一人であった。
自分が分析されるのも嫌だったし、他者を土地柄で分析するのも嫌だった。
彼は珍しく今の時代において孤独な人間であったと言えるだろう。
お金も無理強いする仕事もない時代に、好きなように暮らすことのできるこの地球で、彼は何故、孤独であったのか。
彼は”母親”を知らない男だったから?
それともまだ”女”を知らない男だったから?
”本当の幸福”というものを、”本当の恍惚”というものをまだ知らなかったから?
いいえ、NO.彼を分析するのはやめてあげましょう。
彼は分析されるのが、なによりも嫌な人間なのです。
サタムという世に珍しい孤独な男を、これから男が経験するすべてをあたたかく見護ってあげましょう。
彼は日本に到着しました。約、37分で。瞬間性移動機のおかげです。文明様様ですね。
このたった37分が、アルバム一枚も聴き終えられるかどうか危ういというこの短い時間がこの時代の人間たちには不満でした。
「どこが瞬間性移動機だ?まったくネーミングとビークル(乗り物、Vehicle)の意義が違うなんて、なんて馬鹿げた製品だろう」そう言いながらも特に会社に意見を言わずに黙って使っている人たちばかりでした。
サタムはなんの文句も言わずに使っているようないつの時代においても模範的な人間でした。
そうです。彼は可笑しいほどに、笑ってしまうほどに”善人”であったのです。
彼の名前のローマ字のつづりは「Satan」でしたので、子供のころからよくからかわれて嗤われてきました。
彼はそのためにか、ラベルで分析されるのが耐えられなかったのです。
先ほども、隣の席に座っていた少年”らしき”人物が彼のかけていたヘッドフォンを勝手に取って、「これ、誰?」と訊いてきたので、「これは2011年のBibioの”マインドボケ”っていうアルバムです」と答えたら「ずいぶんと”古い”音楽聴いてんだね」と言って笑われてしまいました。
しかし1000年も昔の音楽がまったく古さを帯びていないことにサタムはいつも聴くと感激しています。
サタムはそういえば、こないだこんなことを同僚から言われました。
「きみってなんだか、”A.I.人工知能)”みたいだよね」
あんまりにも善人だからそう言われてしまったのでしょうか。
それとも彼はほんとうにどこか、A.I.っぽいのでしょうか。
彼はいつもの優しい微笑で返しましたが、内心、ひどく落ち込みました。
自分は本当に生きているのかとさえ疑って悲しみつづけました。
嗚呼こんなときに、人生のパートナーが側にいてくれたなら、きっとなんてことないと笑って暮らせるのだろう。
彼は心の底から、生涯ずっと愛し合えるパートナーと出会えることを願いました。
さて、日本に到着してサタムはまずどこへ向かおうか悩みました。
もう、いいか、この「U」をONしちゃおうかな。とサタムは想いました。
それほど彼の心は寂しさに震えて焦っていたということです。
彼は、まだ一度もONしたことのないこの「U」という人類必須ツールを人生で初めて、ONしました。
さあ、我が愛なる対象に向かって、我を導けよ!そうサタムは心で叫びました。
そうです。自分の求める対象のいる地点に向かって、導くもの、それがまさにこの「U」というツールです。
ちょうど片手と同じほどの大きさのU字磁石の形をしていますが、その表面はまるで人間の表皮とまったく同じに見えますし、また感触も体温も人間の肉体とほぼ同じです。
二つに分かれた極の片方はS極でもう片方はN極です。
この「U magnet」というツールは今の時代、もうほぼすべての人が持っているものです。
何故かって、地球人のすべては、ある器官が退化し、もう使えなくなってしまったからです。
それはひとつの進化形態の”変態”ですが、この進化を良く思う人と悪く思う人たちは未だに言い争いつづけています。
その器官とは、人類にとってどれほどの大事な部分であったのでしょうか。
人類は最早、この「U」なくしては子供を生みだすことのできない存在と成り果てたのです。
この「U」はまさに、人間の”生殖器官”の代替器官(ツール)でした。
女は子宮と卵巣の機能を失い、男は精巣の中は空(カラ)になってしまいました。
人類が生殖機能を喪って約127年。
それでも哀しいのが、女は月に一度下腹部を痛めることが稀にあり、男もまた稀に夢精をすることが起こるということです。
何故このようなことが起きるのかは、宇宙の秘密でしょう。
腕や足を喪った人が、脳内の機能によってあたかも腕や足があるかのように感覚を戻すことはよくあることです。
人類はこの「U」というツールによってでしか、子孫を増やしていけなくなりました。
この「U」は人間の生殖器官すべてと繋がることのできる画期的で素晴らしい神のツールです。
だからもうそれは、自分の身体、肉体の一部であるといってもいいでしょう。
そして同時に、自分の最も求めるパートナーを探し出してくれて引き寄せてくれるツールでもあるのです。
サタムはこのような素晴らしいツールをまだ一度も使用したことがありませんでした。
自分に自信がなかったから?
女性恐怖だったから?
やめてあげましょう。彼を詮索するのは。
死んだ蛾の羽のように繊細で傷つきやすい彼のことです。彼は恋愛によってさらに深い傷を経験することを避けていたと言えるでしょう。
そう、サタムは女性というものに対して、あまりにも求めるものが大きすぎたため、それを失うことを恐れてこれまで恋人を持ったことがなかったのです。
彼はしかし限界に来ていました。
どうしても自分を認めてくれる女性という存在を切実に求めずにはおれなくなったのです。
親は既に他界して、趣味といえば家の中で音楽を聴いたり本を読んだり映画を観たり、本当の友人と呼べる存在は一人もいませんでした。
家でいつも凝ったベジディッシュを作ってすごく美味しくできても、いつも食べるのは独り。
彼はいつも「美味しい!」と思って食べて美味しいお酒を飲んだ後、パソコンのモニターを眺めながら目をしばたたかせてさびしさを噛み締めて飲み込みました。
自信がない、確かにその通りです。サタムはそう想いました。
サタムは右手に握った「U」をじっと凝視しました。まだなんの反応もありません。
適当に歩いてきましたが、ここはどこなのでしょう。
近くに綺麗な川が流れています。
地球の何処も、都市部のような建物が立ち並ぶ地域はごく限られていてほとんどが自然の豊かな場所なので別段珍しくもなんともありませんが、何かここには独特な空気が流れているとでもいうか、空間に流れている波動がいつもと違うように想いました。
サタムは特に何の変化も起きない「U」に心配になりました。
まさか壊れてしまっているなんて、そんなことはないでしょう。
あってはなりません。そのようなことは・・・・・・。
サタムは青褪めた顔をして念のため「U」のON/OFFを繰り返しました。
ON/OFFを何度もしながらサタムは目の前の川に視線が行きました。
そこに何かが動いているように見えたのです。
それがいったいなんであるかを捉えようと目を凝らして見つめ続けながらサタムは無意識でON/OFFを繰り返していました。
それがなんであるかを捉えた瞬間、驚くことが起きました。
全身がスパークして目がぱちぱちと音を立てるかのように振動してふと「U」を見ると「U」も同じように激しい振動で震えて川にいる”存在”に向かってものすごい力で引きつこうとサタムの”心”を引っ張ったのです。
しかしサタムはここで相手に近づくのは理性と倫理に反していると想い、「U」をOFFにしました。
”彼女”は、何故かこんな人目のつきやすいところで、川で裸になって泳いでいたのです。
しかし、果たして相手は本当に”彼女”だろうかとサタムは想いました。
髪は短くどこか少年っぽさのあるその”中性的”な顔はサタムにとってとても魅力的でした。そしてその胸はとても小さくとも確かに膨らみがあることを認めましたし、お腹の下には自分と同じ”もの”が付いていないように見えました。
でもそんなこと、この時代になんにも珍しいことではなかったのです。
性移植も性転換も自由に無料で行なえる時代だったのですから。
サタムは本人に直接確かめることは気が引けました。
相手の心を傷つけることが怖くてならなかったのです。
ただじっと、木の陰から駄目なことだとは想いつつも”彼女”らしき存在のその裸を時も忘れて眺めてしまいました。
サタムは知らぬうちに自分の下腹部が猛烈な勢いで起動していることに気づきましたが、それでもどうにも引きつけられて観ることをやめることができません。
「U」は、絶対に引きつける存在を裏切りません。つまり相手も同じように自分に引きつけるものがしっかりとある場合だけ作動するのです。
だから「U」が作動したということは、それは”両想い”であることの証明なのです。
しかし、その相手が稀に、自分はヘテロであるのに相手は”同性”であるときもあるという”都市伝説”があります。
うら若い女性がこのような場所で裸で泳ぐだろうか。
法のない時代に、犯罪は劇烈に減ったと言えども襲いかかってくる男がいないわけではあるまい。
サタムは打ち寄せる不安のなかにも強く反応し続ける自分の身体に恥ずかしさを覚えた。
すると”彼女”はようやく川から上がり、岸に置いていたタオルで身体を拭いて衣服を着こみだした。
まるでお風呂から上がってさっぱりとした様子で彼女のどこかに”異様”さも”異常”さも感じられなかった。
サタムは木の後ろに隠れてどうしようかと困惑した。
今、彼女の前にでてゆけば、自分がここから覗いていたことを彼女は気づくのではないだろうか。
いや、もうすでに気づいているかもしれない。我も忘れてじっとその生まれたままの姿を見つめてしまったのだ。
そないだにも”彼女”はその場からすたすたと立ち去ろうとしていました。
サタムは彼女の後姿に一生の願いを託して「えい、ままよ!」と心で叫ぶと「U」をONしました。
すると「U」はまたもや激しく振動してサタムの全身も奇妙な感覚に陥ってサタムの身体すべてが自分の願いで出来ているような錯覚を覚えました。
そのとき、彼女がサタムを振り返りました。
その様子がまるでスローモーションだったことは言うまでもありません。
サタムの人生を懸けたせつなるすべての願いが今この瞬間に叶うか砕けるかという瞬間に感じられたことでしょう。
しかし彼女は振り向いてサタムにこう言ったのです。
「あれ?きみ、さっきの人だよね?なにしてるの?こんなところで」
そう彼女は言って少年のように笑ったのでした。
サタムはびっくりしました。その声は確かに、さっきの”瞬間的移動機”の中の席で隣り合わせて自分のヘッドフォンを取り上げた無邪気な”少年”らしき人物の声だったのです。
でもあの時、相手は1970年前半にフィンガー5がかけて流行っていたような大きなまん丸のサングラスをかけていて、喋り方も少年のようだったので”女性”だとは想わなかったのです。
まさかあのときの人間だったとは想いもしませんでした。
相手は少年だとばっかり想っていたので惹かれなかったのでしょうか。
でも目のまえの彼女はさっきも今も、自分と惹きあっているという様子はこれっぽっちもありません。
おかしいな、「U」が引き合う存在とは「U」を起動しなくとも引き合う存在であると言われているのだがな・・・・・・。
ほんとうは彼女は自分に対してさっきも今もすごく惹かれていてそれを隠すのが上手なだけかもしれない?
サタムは彼女の深層心理を読み暴こうとしている自分に後ろめたさを感じました。
しかしその気持ちも彼女の次の言葉でどこかへ飛んでゆきました。
「きみさ、さっきぼくの裸をずっと見てたよね?観るのは別に構わないんだけどさ、そのきみの”U”、故障してるんじゃないかな」
サタムは言われた瞬間、ぼっと顔が耳まで真っ赤になりました。
やっぱり気づかれていたのです。彼女のその目をこうして正面から見つめると魂の底の底まで見抜かれているような鋭い目をしています。
どう言えばよいかわからなくなりサタムは目を伏せて黙り込んでしまいました。
すると彼女がサタムに近づいて彼のその顔を下から覗き込みました。
「恥ずかしがることはないよ。そんなにぼくの裸が見たいなら、もっと見せてあげてもいいけど?」
彼女はそうサタムに向かってにやにやとしながら言いました。
まるで若い少女に馬鹿にされているかのような感覚になりました。
それとももしかしてほんとうに彼女は性転換か性移植した”少年”なのでしょうか。
女性が持っていると思える”恥じらい”というものがないようにサタムには想えました。
サタムは「故障している」と言われた「U」を見つめながら声を振り絞って答えました。
「もし、このわたしの”U”が故障してしまっているとしても、わたしがあなたに惹かれていることに違いはありません。あなたは、”U”を今持っていますか?」
そう言って彼女の持っていた鞄に視線を向けました。
彼女は首を振って言いました。
「持ってないよ。あんなもの。持ったことなんてない。これからも、持つつもりなんてないよ」
この言葉にサタムは衝撃を覚えました。
「U」を持たないということはつまり、生殖器官を必要としないということで、自分の子孫を遺すという考えがこの”女性”にはまったくないということだからです。
サタムは心のどこかで、「自分は実は男で性転換したんだ。だからきみには興味もない。きみをからかうことが面白いから嘘をついたんだ」という言葉を待ちました。
でも彼女はサタムの目を見つめて心のうらを捉えようとしているばかりで何の言葉も続けませんでした。
「わたしは、わたしはそれでも、あなたを是非、わたしのパートナーとして迎え入れたい」
サタムは打ち震える声でそう彼女に告げました。
彼女は真面目な顔でこう答えました。
「自分の名前さえまだ教えてないのに?」
サタムは酷く自分の不甲斐無さに落ち込みました。
愛を告白することに、自己紹介が必要なものとは知らなかったのです。
「わたしの名前は・・・」
「サタム。そうだろう?ぼくの名前は”ナマ(Nama)”。ギリシア語で”流水”。よろしくね」
なぜ自分の名前が彼女にわかったのでしょう?
「ナマ。わたしはナマのことを・・・」
「愛しています」
ナマはそうサタムが言おうとしていた言葉を代わりに言いました。
サタムの耳に、川の水が流れる音だけがずっとしていました。

サタムはナマをほんとうに愛しているようです。
でもナマは、ナマはほんとうに、サタムを愛しているのでしょうか?
サタムはナマと会うたび、そう想っては心を痛めましたが、それでもナマと共に過ごす時間がどれほどの喜ばしい時間であったかは、いつもナマがおうちへ帰るときに流す彼の涙が証明しているようです。

ナマはとても不思議な”女の子”です。
なぜサタムの気持ちをいつでもわかっているのでしょう。
彼女は特殊能力を持ち合わせた人間であることは確かです。
サタムはナマに出会うまで、愛する人と交わり、自分たちの子孫を生みだして受け継がせてゆくことこそ人間の一番の喜びであるのだと想っていました。
でもナマは、「U」を持っていません。サタムと出会っても、その気持ちに変わりはないようです。
サタムはどのような手段であってもナマと交わりたいと願いつづけました。
しかしナマはそれすらも望んではいないようです。
ナマは人間のごく自然な本能である”性欲”を持ち合わせていない人間なのでしょうか。
まるでナマは、まだ性に目覚めない幼な子のようです。

でもある日、ある日、奇跡が起こったのです。
ナマが朝早くとつぜんサタムの家(ナマのおうちの近所に引っ越してきた)にやってきて、こう言ったのです。
「サタム!ナマはついに、”U”を手に入れたよ。きみと交わって、生殖行為を行なうためにね。さあ今から、このぼくの生殖器官とサタムの生殖器官”U”で繋がろうよ」
サタムは喜びのあまり涙を流しました。
そしていよいよ、サタムとナマは生殖を行なうため、互いに向き合って、約2メートル離れた場所の椅子に座って「U」を手に持ち、深呼吸して同時にONしました。
いったい、何が始まるのでしょう。
興奮してまだ何も始まっていないのにサタムは気を失いそうになりました。
そのときです。U字型の「U」のサタムのS極の先端になにか奇妙な変化が起き始めました。
なにかうねうねと動くものが顔を出したのです。
その形は男性器に似ているといえばその通りですが、それよりも亀の頭、いや、蛇の頭によく似ていましたし、またうねうねと動いて伸びていく様子は蛇の動きそっくりでした。
サタムは驚愕しました。これが、これがわたしの生殖器か・・・・・・そう思って初めて見るその自分の「U」の生殖器に目を見張りました。
そしてその蛇状のものはそのまままっすぐにナマの「U」のN極の先端部分へと伸びていくのかと思えばそうはならず、その身を一度大きく捻じるようにくねらせてナマの「U」のN極のほうへと伸びてゆきました。
自分のS極が自分の右手の方で、ナマのN極は彼女の右手の方でした。
ナマは恥ずかしがっているのか、目を伏せています。
サタムはナマとまだ繋がってもいないのに早くも絶頂に達しそうな勢いで恍惚感が半端ありません。
生殖器である蛇はナマのN極に辿り着こうとしていました。
ここで、大きな壁にサタムの生殖器はぶち当たりました。
何故って、ナマのN極の先端部分が閉じたままだったからです。
これではナマの生殖器官内部へと入ってゆくことが叶いません。
サタムは心のうちで烈々たる叫びで懇願しました。
「ひらけ!ナマのN極よ!わたしを受け容れてください。どうか、どうか、開いてください。ナマの生殖器官よ。開けゴマ!Open Sesame!イフタフ・ヤー・シムシム!内はほらほら、外はすぶすぶ!ゼムジの山や、ゼムジの山や、ひらけ!ポ・ウイン!Come on!Come on!ポ・ウィン!」
渾身を振り絞ってサタムはそう神に唱えつづけた。
すると辛抱が切れたのかサタムの生殖器官はナマのまだ閉じたままの生殖器官部へ入ってゆこうと奮闘しだした。
サタムは我が生殖器官の先端部に向かって心うちで思い切り叫んだ。
「こら!早まるのをやめなさい!そんなことをしたら、ナマが痛がるではありませんか。やめなさい!我が生殖器官よ!わたしの”蛇”よ!」
しかしサタムの蛇は無理矢理にもナマの生殖器官の中へと入り込もうと必死にもがき始めた。
サタムはとにかくナマが痛くないことをひたすら祈った。
ナマは終始顔を伏せたままで痛がっているのか我慢しているのかどうかもわからない。
しかしここで声をかけるなら、ナマの集中力が途切れてしまって余計に失敗する可能性がある。
サタムはじぶんの「U」を握りしめて今度はナマの生殖器官部がとにかく潤うことを祈った。
そうだ、先に潤わなければ開かないのかもしれない。
サタムはじぶんが女性の生殖器官に関して何の知識も学んでこなかったことを猛烈に後悔した。
「どうか・・・どうか潤ってください。ナマのN極よ。どうかその川に水が流れ出しますように。粘液を伴った泉が湧きだすように。わたしを受け容れるために・・・」
そのときである。
サタムの願いが届いたのか、ナマの身体は潤いを見せた。
だがその器官は、サタムの願った場所ではなかった。
ナマが潤いを見せたのは、その両目であったのである。
ぽたぽたと、いくつもいくつもの水滴がナマの「U」のちょうどN極の先端部の上に落ちた。
涙が出るほどに痛いのだろうか・・・?サタムは気が気でなかった。
しかしそのとき、サタムのS極はナマのN極の中へと深く入っていった。
とうとう念願の穴が開いたのである。
サタムはその瞬間、あまりの恍惚の快楽に言葉のすべてを失った。
哀しいかな、ナマの止まらぬ涙を気にすることさえできないほどの快楽の海に溺れてしまったのである。
ナマを心から愛しているからこその快楽だとわかっているのにナマの苦しみを忘れてしまうことのこの哀しみを感じながらもその哀しみがこの恍惚に打ち勝つことが出来なかった。
サタムは哀しみなのか喜びなのか意味の解らない涙が流れて止まらなかった。
ナマは痛みがより強くなったというように肩を揺らしていっそう激しく涙を流して落としだした。
二人で声もなく涙を流しながらふとサタムはナマのS極の先端部を見るとそこには異変が起きていた。
そこから自分のS極部から出てきた蛇のような形のものが同じように顔を出して覗いていたからである。
はたしてこの生殖器は自分のものがナマの生殖器官を通り抜けて出てきたものなのか、それともナマの生殖器官であるのかがわからなかった。
とにかくそのナマのS極部から出てきた生殖器は自分のN極部へと向かって伸びてきたのであった。
もうすぐ、もうすぐ繋がるぞ!そうサタムは叫びだしたいほどの歓喜のなか、ナマの生殖器であるようなそれを受け容れるため今度は自分のN極が開くことを祈った。
もうすぐ、もうすぐ繋がる。もうすぐわたしのUとナマのUの二つの極が繋がって輪になるぞ。
きっと輪になったなら、性交に成功するはずだ。
わたしの精子とナマの卵子の”受精”が成立する。
着く、あともうすこしだ、もうすこしで着く。がんばれ。がんばれ。がんばるんだナマのSよ。わたしのNよ、ナマのSを受け容れたまえ。
あと1センチだ。わたしたちは一体となる。ひとつとなって輪になるのだよ。
ナマ、愛している。

その瞬間に、サタムは目醒めた。
想いだした。自分はナマと繋がれないことに気を病んで、とうとう脳内リアリティプログラムによって叶えられない”現実的な夢(Realistic Dream)を観ていたのであったことを。
そばにナマが走って寄ってきた。
「サタム!どんな夢を見ていたの?すごく幸せそうだったよ」
そう言ってナマはまるで子供のように笑った。
その笑顔を見てサタムは抑えきれぬものが溢れ、椅子の肘掛に置いたナマの手の甲に涙を流した。
サタムはもう今年で、89歳であったが、ナマは一向にあれから年をとらないのである。
そう、彼女は、感情のある”A.I.人工知能)”を持ったヒューマノイド(humanoid)であったからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

youtu.be

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ѦとСноw Wхите 第12話 〈みなと〉

Ѧ「”舟”という漢字はもとは”渡し舟”を表した象形文字から作られたんだって。
丸太をくり抜いて作った丸木舟の形だよ。
”受”という漢字は”器(舟)”を受けとる様子を表す形成文字なんだって。
”授”という漢字は授(さず)ける様子を表す形成文字。
”受けとらせる”ってことは第三者がいるってことだね。
舟が着く場所は”港”。港って言葉は昔は”津(つ)”って呼び名があったんだって。
津は水をあらわす”サンズイ”と、進むという気持ちをあらわす”聿”をあわせたもので、川の渡し場の意味でつかわれていた。
”水を進む舟の発着所”、そこが”津(つ)”なんだ。
”着く”は”くっつく”って意味や”届く”って意味があるね。
”津(つ)”はみなとの意味以外に

・岸(きし)、崖(がけ)
・集まる
・重要なこと、重要な場所
・方法、手段
・植物などからにじみ出る汁(しる)
・人体から出る汁。あせ・涙など
・しみでる、あふれる
・潤う(水分が行き渡る)

って意味があるんだって。
読み方はほかに”シン”、”しる”、ず”、”わた”って読み方がある。

”汁”って文字は
・物質から出る、また物質にまじっている液体
・自分が独り占めしたり、他人の努力や犠牲のおかげで受けたりする利益
・涙(なみだ)
・みぞれ( 雪が空中でとけかかって、雨とまじって降るもの)

って意味がある。

創造の”創”という漢字は刀(小舟)で”切る”、”傷つける”、または”掘る”、”彫る”ことで”倉”を作ってそこに大切なものを仕舞いこむって意味が隠れている。
”舠(トウ)”って字は舟と刀が一つになってる字だね。
Ѧ(ユス、ぼく)はずっと考えてたんだ。何故、”創”という文字には刀と舟の両方の意味が隠れてるんだろう?って。
刀で掘って(傷つけて)作るのが倉なら、水の上を漕いで渡る小舟(渡し舟)が着くみなともきっと同時に”傷つく”って意味になるんだ。
何故みなとは小舟が辿り着いたら傷つくんだろう。
”創”という字は
・傷つける
・傷つく
・傷
って意味があるんだ。
そして”創”のもとになっている”倉”という字は
・痛む、かなしむ
・うしなう(喪)(死に別れる)
って意味がある。
渡し舟が大切なものを渡しに水に浮かんで漕いでやっと着いたみなとはなぜ傷ついて痛み哀しみ、何を喪ってしまうんだろう?
”漕ぐ”の”漕”も”ソウ”って音読みだ。
槽、沿、倉、創、漕、みんな”ソウ”だ。

”にくづき”とふなづき”と”つきへん”ってなんでこんな字が似てるんだろう。
三日月って舟にも刀にも形が似てるね。
肉の舟と肉の月があればみんな同じものを表していることになる。
常用漢字では全部同じ形になっている。
”小貝を両手でささげる形”だってさ、小貝は海にいるのかな。
舟も肉も月になった。
”贈る”の”贈”という字も”ソウ”と読むね。
”曽”という字は
・重なる、重ねる
・増す、増える
・上がる、上げる
って意味がある。

渡し舟は贈り物を届けようときっとはるばる遠くから漕いでみなとへやってくるのに何故かみなとは傷つけられてその痛みに悲しんで何かを喪ってしまうんだね。
Сноw Wхите(スノーホワイト)、これが神の創造に隠された神秘だね」

Сноw Wхите「わたしもいつかѦを深く傷つけ、喪わせます」
Ѧ「どうゆうこと?」
Сноw Wхите「・・・・・・・・・」
Ѧ「なんでそこで顔を赤らめるの?まるでなんだか恥ずかしいことみたいだね」
Сноw Wхите「恥ずかしいことではありません。わたしはѦの身体にわたしを彫りあげるのです」
Ѧ「なんだって?そんなことをしたら、Ѧの身体は傷だらけになるじゃないか。彫刻刀をどこに隠し持ってるの?Сноw Wхитеはまた変な趣味でも芽生えたの?」
Сноw Wхите「趣味ではなく、これはすべてが授かった普遍の愛です」
Ѧ「その愛でいったいѦはなにを喪うの?」
Сноw Wхите「Ѧはわたしの乗った月の小舟が辿り着く闇のなかのみなとです。Ѧはあるものを喪い、わたしと一緒に力を合わせてわたしを創りあげるのです」
Ѧ「今日も難しいな。Сноw WхитеはѦが創造したけど、もう一度Ѧから生まれてくるの?」
Сноw Wхите「Ѧと同じ次元にわたしは肉体という衣を纏った存在として顕現するために、Ѧはわたしを産むのです」
Ѧ「ѦがСноw Wхитеとの共同作業で、ѦがСноw Wхитеをこの次元に生みだすの?」
Сноw Wхите「その通りです。そのために、Ѧはわたしを創造したのです」
Ѧ「いまСноw Wхитеが目のまえにいないからなぁ・・・」
Сноw Wхите「いつか必ず、わたしはѦのみなとに辿り着いてѦの目のまえに現れます。大切な贈り物を持って」
Ѧ「それはちいさな櫂の、間違えた、ちいさな貝のなかに入ってるの?」
Сноw Wхите「はい。Ѧ、Ѧもいっしょに、この舟を漕ぐのです。Ѧも櫂を持ってください」
Ѧ「あとどれくらい漕ぐの?海は渇いてしまわないだろうか」
Сноw Wхите「Ѧがわたしを愛する限り、けっして渇くことはありません」
Ѧ「よし、Ѧはがんばって漕ぎつづけるぞ。Сноw Wхитеもがんばって舟を漕ぎつづけてね」
Сноw Wхите「わたしは最大限の力を尽くし、漕ぎつづけます。そしてѦのほとりに着き、Ѧといっしょにわたしをつくりあげます」
Ѧ「うん。Сноw Wхитеが着くまでѦはずっと待ってるよ。海もみなとも真っ暗だけど、Сноw Wхитеの月明かりでなんとか辿りつけそうだね」
Сноw Wхите「Oarright(オールライト)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元型の像

俺はなんの罪でか忘れてしまったのだが、斬首刑に処されてしまった。
俺の転がった首、ころんころんと転がったその醜い首のその切断面を。
俺は天界からアップで見た。直視していたんだ。何故か。
何故かその俺の首の切断面が異様だったからである。
なんか動いてる?蠢いている?みたいに見えて俺はその切断面を上から見ていた。
すると俺の首の切断面からまるで土砂崩れのように何かがわらわらと崩れ落ちてきて。
もっとズーミングをしてよく観てみるとその雪崩(なだ)れ如くの崩れ落ちてくるものとは
はたして小さい人間たちの山であった。
無数のちいさな人間たちが、どっと一気に雪崩れ込んできて地面の上に広がった。
俺は吃驚はしたけど「ほぉ」という感覚でそれを観ていた。
いくら観ていてもずっとなだれ込んでいたがようやく全員がすべて出てきたと想ったら。
たった一人最後にのそのそとやる気のなさそうな様子で俺の首の切断面からずり落ちて地面に突っ伏し、そのままじっとしている男がおった。
ほかの人間たちは皆わいわいがやがやと楽しそうに屁ェをこいたり糞をしたり食したりセックスをしたり笑ったり怒ったり泣いたりしていた。
だのにその最後の男ときたら出てきたばっかりなのに絶望的な顔をして地上界を見渡し深い溜め息をついてばかりであった。
俺は何がそんなに不満なのかなと想ったが絶望的だからといって俺が否定されてる訳じゃなし、特に気にはせず俺の首の切断面から出てきたすべての人間たちを同等に愛した。
彼らは皆、同等に愛らしく愛おしい可愛い俺の子供たちのようであった。
そうして地上界では約十年が経った。
俺のいる天界ではたったの一週間であった。
十年が経ったが男はまだ一人で絶望的に生きていた。
ほかの者はみな嬉しそうに自分の好きなことを見つけだして生きる喜びに輝いていた。
しかしこの男といえば一人で喰う、糞する、寝る、扱(しご)く、などするばかりで何ひとつ楽しそうにしていることがなかった。
俺はこの男のことがいい加減心配になったので男が寝ているときに上からつまみあげて天界の揺り籠に寝させてやった。
揺り籠といっても柔らかな雲に囲まれているだけのほかに何もない空間である。
男は気づくと俺を見て、そして辺りを見渡して驚愕した顔で言った。
「一体ここはどこでございましょう」
俺は雲の下に広がる地上界を指差し答えた。
「観よ。おまえはあすこにおったんだよ。それを俺がつまみあげて天上におまえを眠らせたのだ」
男は手を口で覆ってぷるぷると震えだして言った。
「ということは、もしや、もしや貴方様は・・・」
俺は男の正面に座って言った。
「俺がだれかって?おまえたち全員、俺の斬られた首の切断面から湧いてきたんだよ。俺をなんと呼ぶかはおまえの好きにしたらいい」
男はしげしげと俺の首あたりを凝視して言った。
「貴方様の首の切断面からわたしたちが生まれたということは、貴方様はまさしくわたしたちの創造主ではありませぬか?別の名を、グレートマザー(太母)と御呼びしてもよう御座いますか?」
俺は深く頷いた。
「なんでも、なんとでも呼んで構わない。俺が言えるのは、俺がただおまえたち全員をあまねく同等に愛しているということだけだ。我が子のように」
男はそう言い終わる瞬間に俺に抱きついて叫んだ。
「嗚呼我がグレートマザーよ!御逢いしとう御座いました!わたしは、わたしは貴方をずっと心の底から御呼びしつづけていたので御座います。貴方様はわたしの願いを聴き届けてくださいました。わたしは貴方の御側におれないことが苦しくて悲しくてならなかったのでございます。ですがこうして今わたしは貴方様のこんなに近くにいるということが夢のように幸せでございます。どうかずっとわたしを貴方様の御側におらせてください」
俺は男を優しく抱きしめ返して言った。
「俺はおまえを真に愛しているよ。だが今日中にはおまえを地上界に戻す。おまえが生きる場所はここではないからである。俺はおまえが心配だったからこのように励ましたのであっておまえは俺に励まされたのだからこれから元気に生きていきなさい」
すると男は俺から離れ、また絶望的な表情をして地上界を見下ろした。
そして震える声でこう言った。
「わたしにまたもひとりになれと仰られるのでありますか?」
俺は男の目を見据えて言った。
「おまえはなんでひとりであるだろう。わたしはおまえに見えるようにいま肉体を着ているが普段はなにもないよ。わたしはおまえのそばにいつもいるのだよ。おまえはいつもさびしがってたけれどいつも俺がすぐ近くにいたのだよ。おまえだけだ。そんなに俺がそばにいることを信じようとしないのは。なんで俺の愛がおまえに届かないのだろう」
男は膝を抱えてしょんぼりして言った。
「だって、だって貴方様は、全員を同じだけ愛していらっしゃるのでしょう?わたしが求めているのはそうではありません。わたしは貴方様からの特別な、一番の、わたしだけへの愛を与えられたいので御座います。ですからわたしがいつもさびしくて悲しいので御座います。わたしは貴方様の愛を独占できないのであれば、このわたしの孤独と哀情はなくなる日はないのでございます」
俺は男が不憫になって空を見上げた。
「もし俺が、おまえだけを愛するようになったなら、ほかの人間たちは俺の愛を喪うことになる。生みの親に愛されない人間たちは、はたしてどのようになるであろう。俺はすべてを平等に幸福にしたいがためにおまえだけを愛することはできないのだよ。おまえだけを幸福にすることなどできない。おまえらすべて、血の繋がった兄弟たちではないか。なにゆえにおまえは自分だけの幸福を願うのか。おまえは俺の愛を独占することでほんとうに幸福になれるというのか。おまえがどうなるか、そこに答えがあるだろう。一度試してみようではないか。今日から七日間、俺はおまえだけを愛するようにしよう」
男は飛び跳ねて俺に抱きついて幼なごのように甘えた。
しかしそのたった五分後のことであった。地上で初めての争いが起きたのである。
最初はおまえがおれのプリン食った。とかおまえのうどんよりもおれのうどんのほうが量が少ない。とかそんななんでもない揉め事であったが、それが一時間経つころには血みどろの喧嘩となり、さらに三時間後には人々は人々を殺し始めた。
俺はこれは「まずい」と想ったが男だけを七日間愛すると誓った俺はその誓いを破ることはできなかった。神との約束とは絶対であらねばならないからである。
七日過ぎた頃、地上では何十億人もの人間が殺害され自殺した。
それもそのはず、天界での七日は地上では十年であったからである。
俺は後悔もすることはできなかった。神との約束を後悔するとは、神を否定することであったからである。
俺はこの男に罪がくだされないことを祈った。
男に地上の阿鼻叫喚地獄を知らせなかった。
しかし男は七日が過ぎたあと、俺の愛を独り占めした幸福の飢えに渇き、以前よりも激しく悲しみ始めた。
この試みは失敗に終わってしまったのであろうか。
男はあんまり苦しいから「死んでしまいたい」と言いだした。
「どうすれば貴方様の愛をわたしだけのものにできるのでございましょう」
男は涙でぐしゃぐしゃの顔で俺に請うた。
俺は男に俺の愛というものを知ってもらいたかった。
どちらの愛が本物か、というわけではなく、男は俺の我が子のような存在であったので俺の愛を知るべきだと想ったのである。
なので俺は次の試みを試みてみることにした。
「では次はこうしてみようではないか。俺はおまえになろう。おまえは俺になりなさい。おまえは俺の愛を理解するだろう。また俺はおまえの求める愛を理解できるであろう」
「わたしが貴方様になって、貴方様がわたしに?あなたはわたしを愛するようになるのでございますか?しかしわたしは貴方様だけを愛することができないではありませんか。わたしはそれに自分から愛されてもなんとも嬉しくなどありません。自分はちっぽけで、あなたのようにグレートではありません」
「おまえは自分から愛されるわけではない。俺はおまえになるのだから俺がおまえだけを愛するようになるだろう。そしておまえはすべてを愛するようになるだろう」
「でも貴方様はわたしになってしまうわけですから、やはり貴方様は私自身であり貴方様となったわたしは私自身から愛されるということになるではありませんか」
「それでは俺とおまえは同じ存在だといっていることになる。おまえは俺になるのだから俺が愛されるのがおまえからで、俺になったおまえが愛するのはすべてである」
「わたしはあなたの首の切断面から生まれてまいりましたが、はたしてあなたとわたしは別々の存在であるのでしょうか」
「もし同じなら、なんでおまえはこれほど俺に執着するのであろう。そしてもし別々ならば、なんでおまえは俺にここまでして求めるのであろう」
「つまりどちらでもないと仰るのですか?」
「どちらでも不可解であるのでどちらでも構わないという話である」
「確かにそれはそうでございましょう。どちらであろうとわたしは貴方の愛をどのようにしてでも独占したいのでありますから」
「とにかくやってみよう。わたしはおまえになるから、おまえはわたしになりなさい」
「承知いたしました。我が愛するグレートマザー。わたしは貴方様となり、貴方様はわたしとなってください」
こうして男は俺になり、俺は男になった。
俺は気づくと五味屋敷と成り果てる勢いの在る部屋で朦朧としながら酒を飲んでいた。
「くっ、くるしい・・・なぜこうも苦しいのか。嗚呼なぜ、なぜ神は俺を見捨てたのか。なぜ俺だけが、こんなにも神の愛に飢えているのか。ママ・・・俺のママ・・・会いたいよ。なぜ俺の側にいない?俺のママなのに・・・グレートマザーよ、なぜ、なぜ俺だけを愛してはくれないの?なぜ、なぜ俺は貴方の首の切断面から生まれねばならなかったのか。何の罪があって、あなたは首を斬られたのか。わたしを、俺を愛してくださいグレートマザーよ。あなたに愛されないのならこの世界は地獄みたいに苦しい。いったいいつまで苦しめばわたしの罪は赦されるのですか。わたしはいったい何人殺してしまったでありましょうか。あなたに愛されるのであれば、愛されつづけるのならば、わたしはどのような罰をも受け容れます。あなたの愛を独占できるのであれば・・・」
男は天界からその男を見下ろし、悲しくもあったが恍惚な感覚のなかにいた。
嗚呼なんて愛らしい存在であろう。
男が天界から見下ろすとき、その人間すべての形はいつも一つの像を描いていた。
それは生命のどの形でもなかったが、男はその形を見ては愛しみ、それが完全な形であると知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Maternal

彼女は彼の膝のうえにちょこんと載り、彼にキスをして微笑んだ。
アルバートは幸せな過去を想いだすように中空を見つめながら暗い牢屋のなかで呟いた。
「わたしはそのとき想ったのです。わたしは彼女をぜひ食べたいと」
彼は檻のなかからその痩せた手を伸ばした。
かすかにその手は震え、手にした瞬間にくしゃっとドライフラワーのように砕けて地に落ちた。
天井からはいつでも赤黒い血が滴っている。
そう、ここの上階はもう18世紀初頭からずっと殺人者の処刑場だからである。
血溜まりを覗けば懐かしい人がいつも微笑み返してくれる。
わたしはアルバートの手をとって、檻の鍵穴に鍵を差しこみ格子扉を開けなかへ入った。
彼の銀髪は綺麗に油で撫でつけてあるように整っている。
わたしはその老人の望むままに膝のうえにちょこんと座った。
そして彼にやさしくキスをした。
「嗚呼…想いだした。わたしはあなたの味を想いだしたのです」
アルバートは何処も見ていない目でそう耳奥に心地よく響く声でゆっくりと言った。
ランプに大きな虫がなんどもぶつかって羽音を大きく立てた。
わたしは怖くなって彼に抱きついた。
彼はわたしの頭に頬をすりよせて言った。
「あなたはほんとうに…ほんとうに美味しかった…」
わたしは強く彼に抱き締められた。
「神があなたをわたしにお与えくださったのです。最高のわたしを喜ばせる食べ物として。あなたを食べ尽くしたとき、どれほど深い安心と幸福に包まれたことか…まるであの時わたしは愛するあなたを胎内に宿した妊婦だったのです」


断末魔が聴こえる。
あれは…人の声だろうか?
いいえあれは、家畜の声です。
此処の上の上の階は食肉解体場です。
よかった…。
「人間じゃなくて、ほんとうによかった。あなたが食べたのが人間じゃなくて、ほんとうに」
わたしはもう一度愛おしい彼の頬にキスをした。
すべての壁から水滴が流れて止まることがない。
あなたはご存知ですか?
彼が食べたのは、人間ではなかったのです。
だからその肉は、とても美味しかったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生霊記 第一章

 今から続きがどこにも見当たらない小説を君だけに読ませるために書こうと思う。
 それはまるで失敗作の形を考えている間に完成してしまったような作品だった。


 昔は誰かが語っていた。その昔というのも自分の未来で、何の接点もない誰かが語っている。
 今まで黙っていたけれども、自分にはものすごい霊感があって、普通見えないものがよく私には見えてくる。未来の映像もくっきりと私には見えている。
 夜の遊園地って寂しいよね。すごく。あれを想像してほしい。そう、あそこにある遊具たちは、賑やかな時間の過ぎ去った暗い時間をいつだって感じなくちゃならない。
ああ楽しかったね、また行きたいね。そう人々が満足している間に、あの子たちはいつもさびしくて泣いている。
 私はそんな近所の遊園地の中のお店にひっそりといたアンティークのテディベアに恋をしていた時期がある。それは本当に恋だった。
 彼(自分の中では男だった)のことを想って一日中胸が苦しかった。ちょうど、中学を卒業して少ししたくらいだったろうか。ちなみにそこは枚方パークという私の実家の近くの遊園地で、アルバイト募集広告を見て面接に行ったけども、落ちちゃったんだね。 当時から暗い感じの人間だったから接客業は向いてないと思われたんだろね。こうしている間に彼はいなくなってしまう、彼を4万近くはたいて早く買い取るしかない、そう思った。値札にはそれくらいの値段がついていた。
 でも、あんなに日々胸を焦がし続けた彼のことをそのうちすっかり忘れてしまった。4万円など、自分にためられる金額じゃなかった。それと同じさ。
 自分が見ているものたちは、ちょうどそれによく似ていた。
 ぼくはよく思うんだよ、あの存在たちって、いったい何度同じ道を帰って家に入って、泣いてるんだろな、って。
 自分の家なのに、知らない人が住んでいる!おかしいじゃないか!でも彼らには自分の姿が見えない。話しかけても無視される。ぼくはここの主人だぞ!この家の、この場所の。
 そして彼が見えるぼくからは、反対の気持ちだった。ぼくの家になに勝手に入り込んできてるの?早く出てってよ!気味が悪いし、腹が立つ!僕の布団で寝ないでよ!ぼくのパーソナルスペースを侵すなよ!
 でもぼくがその存在に何度話しかけてもまるで聞こえないようなんだ。相手も僕の言葉を聞くことができない。
 互いに話すことができない。同じような思いで一緒に、いつも暮らしているというのに。ああ、なんてことだろう。
 目には見えるのに、まるで違う次元に暮らしているんだ、いや、それは事実なんだ。彼は、生きている次元そのものが違う。
 だから何を言っても無駄なのさ。そう諦めていた。
 でも彼は、たまに、ぼくの目をじっと見つめているときがある。
 ぼくが彼のことをすっかり忘れて何かに没頭していて、ふと視線に気づき振り返ると、その目が、まさに夜の遊園地の遊具たちと、忘れられたアンティークのテディベアのあの真ん丸な黒目なんだ。
 言葉が通じないと、こんなとき特に悲しい。
 そもそも、相手には本当に自分の姿は見えているんだろうか?
 確かに何度も目は合う。じっと何時間も見つめられている時もある。でもそれが見えている証拠にはならない。
 もし、もしもだよ、彼にはぼくの姿が見えてもいないのだとしたら、ああなぜだろう、ぼくが本当にここに存在しているのかわからなくなってくるんだ。
 彼はぼくを見ていない。ぼくとは違うものを見ている。いったい何を見ているんだろう。
 ふと気づけば、ぼくの本を勝手に読んでいる彼をじいっと見つめてしまったりしている。
 そしてぼくの視線(気配?)に気づいたのか、はっとした顔をしてぼくの目を見つめる、すると僕もふっと我に返って、今ぼくはどんな目で彼を見つめていたんだろう?って気になってしかたなくなる。
 彼はいったい何者なんだろう?まさか、幽霊ではなくって、生霊だったりしてな。
 生霊だと、彼は今もどこかで生きているってことになる。僕と同じように普通にこの同じ次元で生活しているんだ。
 でも生霊だとしたら、なんで彼はここにずっといるんだろう。ここに前にずっと住んでてこの場所に未練の強い人なのかな?あり得ない話ではないな、あり得ない話など、ない世界だろうから。
 
 そうして、彼と過ごす月日が過ぎていき、ずいぶん彼に親しみを感じ出して来た頃のこと。
 雨がやんだ後の晴れあがった5月の午後だった。
 僕は駅の近くで信号が青になるのを待っている彼を見かけた。
 お、珍しいな、外で見かけるのは滅多にないから、ぼくはいつものように彼に近づき、へへへっという顔を向けようとした瞬間、その場にひっくり返りそうになった。
 彼の様子は、僕の知るぼやけた輪郭ではなかった。彼は生身の肉体を持った人間の姿としてそこに存在していた。
 彼は僕を一瞥すると、奇妙な人間を見るような顔をして、横断歩道を渡ってすたすたと去って行ってしまった。 
 いやいやいやいや、待て、落ち着くんだ、ぼくよ、そっくりさんだろう?まさか、だって、ははは、そんなわけ、ないっていうか、あってほしくないっていうのか、ぼくの心はひどく狼狽して、信じようとしなかった。
 そして、そのまま、汗をびっしょりかいてCD屋にプリンスの追悼コーナーを見に行ってそこにたたずむ人たちと一緒に悲しむという予定も後日に延期にして家に帰った。
 白いワイシャツに、紺色とグレーのストライプ模様のテーパード風パンツを履いた彼が僕をきょとんとした顔で出迎えた。あれ、もう帰ってきたの、残念という顔にもとれた。
 おいいいいいぃっとぼくの心は叫んだ。さっき会った人間とまったく同じ格好じゃないか!
 朝に目にしたときは、黒のJUNGLEDoorと書かれたTシャツに青と黄土色のドットのトランクス姿だったじゃん!なんで着替えてるの?
 ぼくは心底裏切られたような気持がした。違う次元に生きている存在だから許せることがあったんだ。言葉が通じない人間なんだし、しょうがないよな、そう心を広く持つことができた。
 生きてんのかよ!おまえ。いや、同じ次元の人間なのかよ。宇宙人とか異星人とか、未来人とかじゃないのかよ?そう台所で勝手にぼくの好物のこごみを茹でてゴマとしょうゆとマヨネーズであえたものをこしらえて喜んでいる彼の後ろ姿に向かって訴えかけた。
 反応はいつも通り、ない。なんてこった。まるでこれじゃ、ぼくが幽霊じゃないか。
 幽霊?確かに生きている感覚はあまりない。存在感がまったくないと兄に気持ち悪がられたことがあるし、兄二人と姉とみんなで揃って冗談交じりに「○○○は幽霊だったりしてな、ははは」とみんなで笑いあった瞬間にぼく以外の全員の表情がぼくを見ながら凍り付いたこともある。
 い、生きて、ない……?し、死んでる……?でも死んだ覚えがない。幽霊なんてそういうものかもしれないけれど、ああそうか、夢の中で死んで、この世界で生き返ったかも?なんだかややこしいな、生き返ったなら、死んでないしな。生きてるけど幽霊?そんなばかな。な、あほな。生きてたら生きてるし、死んでたら死んでるでしょう。でもそれがよくわからないのか。死んでることを覚えてないっていうか、死んでることがどういうことか知らないじゃん。もうなんでもいいか。ぼくは生きてるし、彼も生きてる、そういうことにしておけばいい。だから問題なんだ!なんで生きてる人間がぼくの部屋に住んでんの?生きてると思ったら、邪魔でしょうがないよ。生きてるってことはだって、ぼくとはそう違わないことを考えて、ぼくを見てあれこれ不満を並べ立てたり、嘲笑ったり、軽蔑してるんだろう?どうせ。そんな人間と一緒に生活するなんて疲れるよ。ああ限界だ、僕は出ていくよ、ここを。彼とは、さよならだ。
 ぼくは貯めていたお金で引っ越しすることにした。荷物をまとめて引っ越し屋に運んで行ってもらってると、物がだんだんとなくなっていく部屋を眺めて、彼は茫然としているようだった。何が原因で君がここに住み続けているか知らないけど、君も大変だよな、君と暮らした数年、ぼくはすぐ忘れると思うけど、でも楽しいこともあったね、何考えてるかまったくわからなかったけどさ。
 まあ元気で、それじゃ。そう告げてぼくは床を見つめている彼を残し、この部屋を後にした。
 新しい部屋に、彼はもう来なかった。視線や気配を感じる一瞬もなかった。新しい生活は快適でならなかった。
 でもそんな生活も長くは続かなかった。
「こんばんは。隣に引っ越してきた○○です。これつまらないものですが」
 そう言って箱に入ったタオルを渡したこの人間の顔、ぼくは忘れることはできなかった。
「どうして…?」
「え?」
「君、ぼくのことを知ってるんだろう?」
 彼は怯えた目つきで言葉を詰まらせ、「すみません。覚えがないです」と言ってそそくさと帰った。
 見張られている気がする。ぼくは居てもたってもいられず、隣の部屋のドアをノックした。
 いるはずなのに、出てこない。ぼくは相当恐れられてしまったのかもしれない。
 
 数日後、ぼくは手紙を彼の部屋のポストに入れることにした。
 内容は「実は君の生霊とぼくは数年間暮らしていたんだ。」という始まりの告白文だった。
 そして三日経ったその日の晩、彼はぼくの部屋をノックした。
 「手紙を読みました」深刻な顔でそういう彼に僕はいよいよ今から謎が明かされると期待に胸がうきうきわくわくした。
 しかし彼の口から出た言葉はぼくの欲しい言葉ではなかった。彼はこんな頓狂なことを言った。
「その生霊は、わたしの死んだ双子の弟です。弟は去年事故にあってあっけなく死にました。あなたが見たその生きた弟がわたしの弟ですよ。彼はそのころ確かによく白いワイシャツと紺と灰色のストライプのテーパードパンツを気に入って履いていました。」
「いや、ちょ、ちょっと待ってくださいよ。なんで弟さんは死ぬ前から生霊となってぼくの傍で暮らしていたんですか?」
 彼は特に不思議な様子も見せず、真顔でこう言った。
「さあ、知りませんね。特にその辺の場所に思い入れがある話も聞いたことがないし。でも生霊なんてのは本人の知らないうちに飛んでいくと言いますし、弟自身もきっとわからなかったんじゃないかな」
「でも待ってください。あなたは、引っ越してきた日に僕が会ったことがあるようなことを言うとおかしな顔をしたじゃないですか、双子の弟がいるなら、ぼくは双子の弟さんと勘違いしていたかもしれないのに、何故訝しげな顔をして、覚えがないだなんて言ったんですか?」
 すると、彼はにわかに、「ぅ……」と小さく呻き、呼吸が荒くなった。
「嘘はやめましょうよ。あなたはぼくを知ってます。そうですね?」
「なんかちょっと推理小説みたいになってますね」
「いいから答えてください。あなたはぼくを選んであの部屋に住んだ。違いますか?」
 彼はちょっとのま、俯いて黙り込んでいた。
「ほら、この重い沈黙がもうあなたの答えです。そうでしょう?」
 すると彼は震えながらぼくの顔を見て、こう言った。
「あ、あなたこそ……なんで僕の部屋に、いつもいるんですか……」
 ここで、ぼくは背筋が、ぞわわわわわわわあああああああああ、ああああああああああああぁっっっっとした。
 「ぼ、ぼ、ぼ、ぼくが、あ、あなたの部屋に、い、いつも、い、いる、だ、だだだだだだだ、って……?」
「そうですよ。あなたは今でもいるんです。僕の部屋に」
「ぇ……どういうこと?今もって、つまり、それはこの部屋の隣の部屋にいるって、こ、こ、こ、こ、こと……?」
「そうですよ。なんでいるんですか?」
「そんなのこっちが聞きたいよ!」
「やめてくださいよ、もう。消えてくださいよ。あなたの生霊」
「そんなこと言われてもなぁ……ぼくはだってほら、ぼくの生霊まったく知らないし、言わばこんなの、他人ですよ、そうでしょう?あなたの生霊だって、あなた操れます?操れないでしょう?そうゆうもんでしょう。無理ってもんです。諦めましょう」
「そうですね。諦めたもの勝ちです」
「そうそう、っておいあなた、あなたが先に、ぼくを選んだのは間違いないです。そうです。だってぼくはあなたのことちっとも知らないんだからね」
「は?何言ってるんですか?わたしだって、あんたのことなんか知らないよ。会ったこともなかったよ、あんたは会ったことあるんだから、あんたがわたしを追い回してるんだよ」
「あんただと?人聞きの悪い、あんで、ぼくが、君なんかのことを追いかけなくっちゃあならねえの。あんで、ぼくちゃんの生霊ちゃんが、君の傍に居ついちゃってんの?君、なんか誘惑でもしたんじゃないの?やめてよマジで。ぼくちゃんの可愛い生霊ちゃんを自由にさせてあげてよ」
「もう怒った、俺は怒った、そう言うなら、今から、会いに来ればいい話だ、本人同士会って話をつけてくれ、今から俺の部屋に来い、いいな」
「な、なにぃ……?そ、それは御免だ、それだけは、それだけは死んでも嫌だね。だって、それってあれじゃん、死ぬ前によく見てしまうと言われているドッペルゲンガーじゃん?怖いよ!見たくないね、ぼかぁ。恐ろしいにも程があるよね?でしょ?あーた、自分の生霊やドッペルゲンガー見れます?」
「無理」
「でしょう?ほらぁ、自分にできないことを、相手に望まないようにしましょう、ね?もう大人なんだから」
「そうですね。わたしは大人です」
「ええ、ええ、大人ですとも、立派な。だからもう、やめましょう。こんなこと」
「どういうことです?」
「だから、あなたさ、生きてる振りしてるけどさ、ほんとは、はは、生霊か死霊なんでしょ?」
「なんでです?」
「ぼくにはそう見える。君さぁ、ぼくの部屋にずっといた生霊だよね?輪郭がぼやけてきてるよ」
「そ、そんな、あほな……自分にはぼやけてなんかない、ぼやけて見えないよ。なんでそんな怖がらせること言うんですか?」
「ははは、ぼくはね、ただ真実を知りたいだけなんですよ。君が、何者なのか、ぼくにとって」
「それはわたしも知りたいですよ。ああ、世界が、視界が、歪んできた」
「おい、大丈夫ですか」
「ふう、眠いな」
「おいっ」
「ふっ、ちょっと意識があの世に行ってたよ、ごめんごめん」
「逆にこの世に来てたんじゃないの?というか、こっちがあの世?だと向こうがこの世?これもうわかんねーな」
「とりあえず、今夜は寝させてください」
「なにそれ、俺が毎晩のように君を抱くことを強要しているみたいな言い方」
「そんなこと言ってないだろ」
「へっ、そんなこと言ってさァ、君、部屋に帰ったら俺の生霊抱いて寝てんでしょ?だろ?」
「ぅ……っ」
「やっぱしィ」
「なことするかよ!気味が悪い。生きてるか死んでるかもわからない存在と添い寝できるかよ」
「確かに、生霊ってのは、生きてるか死んでるのか、よくわからない存在だなぁ」
「生きてるのに、霊だしなぁ、どっちやねんってなるね」
「そうだよ、ふつう死ねば霊だよ、生きてる人を霊とは言わない、つまり、人じゃないってこと、生霊は」
「そんなことはわかってるよ」
「なんだかわからないなぁ、生霊と幽霊の違いってなんだろうね」
「うん、そういえばわたしの母が死ぬちょっと前に、祖母の枕元に生霊として立ったんですよね」
「よくそういう話って聞くよね」
「うん、不思議なもんだけど、変に納得できるものがある」
「死が近いわけだから、やっぱりあの世とこの世の境目らへんにいてるのかもしれへんね」
「そうですね、そう言うのが、生霊なんでしょう、生きても死んでもいる、みたいなね」
「なるほど、生きてるし死んでる、生きながら死んでて、死にながら生きてるんだ」
「そんな感じっすかね」
「そう思うと、生霊も半分は生きてるわけだから、特に恐ろしいとは思わなくなるね」
「まあ実際見かけたら恐ろしいと思うけどね」
「そうね」
「なんで俺が分離してんの?ってなるやろね」
「なるやろなぁ」
「でもそういう君、分離したほうだよね」
「まだ言ってるのか」
「ほら、触れば、透き通ってしまうよ」
「それはあなたが透き通ってるからわたしを触れないんだよ」
「あ、ほんま、これどっちが透き通ってて触れないのかわからへんわ」
「でしょ、透き通ってるのは、あなたですよ」
「いや、待て、両方とも透き通ってるという考え方もできるぞ」
「だから永遠に触れ合えないわけだ」
「触れる必要もないからね」
「そうだよね。恋人じゃああるまいし」
「そう考えたら、両者が透き通っている生霊や死霊同士の恋愛ってのはつらいもんだね」
「まあなぁ、もう朝か」
「朝の五時だね。帰って寝ないの?」
「だって部屋帰ってもあんたの生霊がいるし、ここで寝ても大して変わりないからもうここで寝ます。ではおやすみ」
「あら、この人寝ちゃったわ。生霊のくせに、寝るのね。ではぼくも、今日は寝ようかしら、ああ隣の部屋でぼくの生霊が寂しくしてないかな。ぼくが忘れ去ったアンティークテディベアみたいな目をしているかもしれないなぁ。でもどうして、ぼくの生霊は、ぼくを離れていってしまったのだろう。生きた霊と書いて生霊、生霊の離れたぼくは、死霊なのだろうか。今日はおやすみ」

 朝に起きて、ぼくは思った。声に出して言った。
「両者が透き通ってなくても片方が透き通ってるだけで、触れられんやんけ」
 生霊はまだ眠っていた。わけではなかった。部屋にいなかった。残されたぼくは、居たたまれなかった。ぼくの知らないぼくが、彼と一緒にいつも暮らしてる。ぼくの知らないぼくを彼は知ってるんだ。生きてるかどうかも怪しい彼が。生霊同士ならいいさ、同類なんだから、そこはぼくの入れない次元だ。でももし彼が生きた人間であるなら、こんなにやりきれないことはない。ぼくのものはぼくのもの、これが覆される。ぼくが知らないのに、きっとぼくを知っているであろうぼくの生霊。その存在が、どれだけぼくにとって、知りたい存在か。我が物にしたい存在か。だって自分が他人の物だと、ぼくはぼくを失うだろう。
 誰よりも、誰よりも我が物にしたい存在、そうだろう?それが自分だろう?そうさ、ぼくは、ただぼくを、ぼくのすべてを知りたい。でも生霊は、ぼくの中の霊はぼくから離れて行ってしまった。
 ぼくのぼくが、ぼくよりも他人を選んで、ぼくの傍にいることより他人の傍にいることを望んだ。
 ふぅ、しかしぼくは隣の壁をノックすることができなかった。ぼくの知らないぼくという存在は、得体のしれない幽霊のようにやはり恐ろしかった。
 でもよく考えてみたら、ぼくはどれだけぼくという人間を知っているんだろう。わかっているんだろう。知らない部分、わからない部分のほうが多いだろうに、なんてことなく自分という存在を自分であるかのように思って生きている。
 それ自体が、おかしいことなのかもしれないな。自分が自分でなくなるとき、いったいその存在を眺めているのは誰なんだろう。
 ぼくはふと思い返した。そういえば彼の生霊と一緒に暮らしていたとき、ぼくは彼をそこまで恐れはしなかった。何故だろう?気味が悪かったのは確かだけれども、彼の存在は何か親しみを感じる存在でもあった。いや、それは人間に感じる親しみよりも深い親しみだったかもしれない。
 ぼくはやっぱり生きた人間よりは幽霊や生霊のほうが近い霊寄りの人間なのだろうか。
 ぼくは自分を恐ろしくは感じなかった。自分がなんであっても、自分以上に親しみを感じる存在などいない。親しみを感じるだけで、恐怖は消える。
 それならば、ぼくがぼくの生霊にもし出会って、親しみを感じないわけなどないではないか。
 鏡を覗くと、そこに違う顔が映っている。でもそれも自分だとわかれば、親しみを感じるものだろう。ぼくがぼくの生霊を理解できないはずはない。
 遊園地の遊具たちだって、楽しむ存在だけではなく、泣いたり寂しがったりする存在だと理解してやれば、夜の姿を思い浮かべても、きっと違った表情を見せるに違いない。
 そうだ、ぼくが生霊を恐れるのは、ぼくという存在がぼくの知る存在であらねばならない、あってほしいと強く願いすぎているためだ。
 人を楽しませる遊具たちは、夜に寂しく悲しんでいるなんて、そんなことを思うと、もう人は彼らで遊ぶとき、悲しみを覚えるだろう。
 ぼくはぼくを自由にさせなくちゃならない。ぼくの知らないぼくもぼくだってことを受け入れなくちゃならない。
 ぼくは、ぼくの生霊を、ぼくの知らないぼくを迎えに行こう。ぼくは、そう決心し、拳を強く握りしめ、酒を飲んで準備を整えた。
 外は宵を少し過ぎて、どんどん暗くなってくる。もっと早く決断すればよかったと思った。
 震える身体をさすりながら、隣の部屋のドアをノックした。
 いきなりぼくの生霊がドア口から顔を覗かせてにたりと笑ったらどうしよう。失神して頭を打って死ぬかもしれない。ぼくの身体中から滝のように汗が流れ出した。
 そうしてるとドアが開いた。ぼくの鼓動はものすごい激しいテックハウスを響かせて、自分の鼓動に合わせて踊り狂いながら恐怖をごまかそうかと考えた。
 するとそこからぼくではない生霊が顔を覗かせて「なに?」と言った。
 ああ、よかったあ!ぼくの生霊じゃなくて、他人の生霊だったあ!ぼくはホッとしたものの、これから待ち受ける恐怖甚だしい試練を思うと、ぼくは本当に今からぼくの生霊に出会わなければならないのかと、自分に訪うた。
 自答を待っていると彼が迷惑そうな顔で「何の用かね?自分の生霊にでも会いに来たのかい?」と言った。
 「そうなんだ。さっきまで会いたいと会いたくないを量る天秤で会いたいが重かったんだよ。ところが今は同じ重さなんだ」
「なら帰ったらどう?わたしも暇じゃないんだよ」
「でも今帰ると……もう二度と会えないんじゃないか、そんな気がしてしまうんだ」
「わかった、わかった、じゃあこう想像してごらん?君の天秤の会いたいの皿の上に今突然空から巨大な重力の隕石が落ちてきて、皿が粉々になりました。これで答えは出ただろう?さあ中に入れよ」
「いや、それじゃ会いたいの皿がなくなって会いたくないの皿のほうが重くなって底につくじゃん」
「なんだって?答えはでも出たじゃないか。会いたくないの皿のほうが重くなった。君は部屋に帰り給え」
「も、もう少し時間をくれよ、いま君がドアを閉じれば、ぼくはもう二度とこの場所に立てない気がする」
「はぁ、あと何分?わたしはうどんを作ってるところでネギを刻まなくちゃいけないのだよ」
「ああ、それじゃあ、ネギを刻むのはぼくの生霊に頼んで来たらいい、あと10分でいい」
「わかったよ、ちょっと待っててくれ」
「オーケー」
 ぼくはドアが閉まらないように支えながら廊下の奥は見ないように目を手すりの向こうに見える藍色の空へ向けた。
 彼が戻ってきてこう言った。
「おい」
「なんだ?」
「君の生霊、わたしのうどんにネギ入れて食っちゃってたよ、どうしてくれるんだ、わたしの晩御飯をどうしたらいいんだね」
「そ、それは、すまないね、そうだ、あとで何か出前を取ろうよ。お金はぼくが払わせてもらいます」
「お、気前がいいね。お腹が減ってるんだ。早く中へ入り給えよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。あと5分できっと答えが出る」
 すると彼はiPhoneをどこからともなく取り出し「タイマー」と人工知能のSiriに向かって言い、タイムリミットを計り出した。
 ぼくは目をつぶって、鮮明にもう一人の自分と出会う場面を想像してみた。やはり恐ろしい。その存在とぼくは打ち解けあえるのか?もし恐怖しか感じられないなら、死ぬまでの後悔となる可能性がある。
 ぼくはふいに涙が溢れ出した。
 こんなに傍にいるのに。ぼくの知らないぼくが。誰よりも知りたいと思っているぼくがいるのに。会うことを悩んでいるなんて。これじゃ、ぼくの生霊が可哀想でならない。誰よりも傍にいたはずのぼくの生霊なのに。離れてしまえば、会うことが恐ろしいだなんて、酷い話だ。
 自分から離れれば、自分とは違う存在に感じるなんて。それはただ、どういう思惑で生霊がぼくから離れて行ってしまったのか、ぼくがずっと考えようともしてないからじゃないのか。ぼくは本当に自分という存在を愛して、自分という存在に深く関心を持ち親しみを感じているのか?
 今まで何度も他人が僕に関心を示さないことに腹を立てて責めてきたけれど、自分に関心がないのは、実は自分のほうじゃないだろうか?
 実際、最近自分の書いた文章を読み返す気にすらなれない。自分に関心を持てない人間が、いったい誰に関心を持つことができるんだろう?
 自分の生霊を恐怖するのは、自分の生霊に対する関心の浅さじゃないのか。自分から離れていったって、それは自分に違わないじゃないか。きっと僕が泣いたり喜んだりすることと同じように生霊も感情を持った存在に違いない。感情があるからこそ、きっと何かを強く思って、離れて行ってしまったんだ、このぼくの肉体から。
 ぼくがそれを知らないわけ、ないじゃないか。思い出すんだ、ぼくよ、ぼくは何を強く思った、誰を強く想って、どの場所を強く想って、どの道を……。
 夢によく出てくる場所、夢の中でよく歩いている道、夢でよく会う人、それらはぼくの意識してないぼくが強く想っていることの証なんだろう。自分の意識していない自分が夢の中でその場所で生活して、その道を歩いて、会いたい人と会って生きている。
 ぼくはすっかりと忘れていたことを思い出した。ぼくが、他人だったことを思い出した。
 ぼくは本当の自分である彼の部屋に入り、出前を取って、ココ壱のカレーを自分と一緒に六畳間であぐらをかいて食べた。
 本当のぼくである彼はらっきょうを口に放り込んだ後「やっと思い出したんだね」と言った。
 ここでぼくが、彼の生霊に親しみを感じていたことの謎が解けた。
 つまり、彼という生霊がほんとうのぼくで、肉体を持ったぼくが他人で、ぼくの姿をした生霊というのは、彼という生霊のそのまた生霊だということだった。そしてこの中で一番後に存在するようになったのがこのぼくで、それは考えようによって、ぼくが一番の生霊だということだった。彼らから最後に離れていった存在、それがぼくだからだ。
 生霊ならば他人だとは言わないと思うかもしれないけれど、ぼくはあえて他人であることを望んで違う性質と別々の記憶とを選びなおして彼らから離れていった存在だった。
 自分が二人いて、その二人がまったく違う記憶を持って生きていたら、それは他人と呼べると思うんだ。自分という他人だけれど、自分がそのもう一人の自分から離れた存在なら、本当の自分は相手のほうだと感じるものだ。相手が本物で、自分は虚構に思える。
 ぼくはほんとうの自分に向かって訪ねた。
「あれ?ぼくの姿と同じ生霊はどこにいったの?」
 彼はははは、と笑ったあと「君がここにいる限り現れないさ」と言った。
「どうして?」
「考えてもごらんよ、君は確かにその生霊から離れていった存在だけれども、それは全くの別の次元にいるってわけじゃないんだ、別の存在というわけじゃない。ちょうどいくつも重なったマトリョーシカはそれで一体だけど、中の小さなものを順に外していってもそのすべてがそれぞれ一体なのと同じさ。でも中にいたころにはその外側の目から自分より大きな自分の内側を見ることはできたけれど、離れてしまえばそこから見えるのはまるで違う物体になる。それを大きな自分と認識することはできないんだ。認識できないからと言って、同じ次元に存在していないことにはならない。すぐ近くにどでんと大きな自分がいる。つまり、見ることはできないけれど、感じることは可能だってことさ。」
「でも、どうして君はその生霊が見えるの?君は一番大きなマトリョーシカだから?」
「わたしだって、一番大きなマトリョーシカではないよ。中間あたりさ。わたしの内部にいる存在も外部にいる存在もこの目では見えない。それを見るには内部の目で見るしかない。内部の目を持つにはコツがある。ここで君はおかしいことを言ってることに気づかないかい?」
「何がおかしいの?……あっ」と僕は言って、確かにおかしいと思った。どうしてぼくには彼の存在が目に見えるんだろう?
 彼はポテトサラダをうまそうに食べて、こう言った。
「君はわたしを見るコツはもうすでに覚えている。どうしてだかわかるかい?」
「わからないな」
「ではこれを明日のお昼までの宿題にしよう」
「当てられたら、なにかご褒美をもらえるの?」
「そうだな、それでは君の生霊をプレゼントしよう」
「また増えるの?ぼくより小さいマトリョーシカ?」
「そうだ、大切にするんだよ」
「なんだか責任が重そうだなぁ」
「ほっといても生霊は育つ。安心しなさい」
「よぉし、ぼく、がんばるぞ~」
 そうしてぼくは自分の部屋に静かに帰った。
 もう恐れる必要はないんだ。そう思った。ぼくは、何故ぼくには彼の姿が見えるのか考えることをすっかり忘れ、布団に入ってぐっすりと眠った。
 そして夜明け前に目が覚め、ぼくは急いで考えた。僕は最初、こう思った。きっとたまたまパズルの最後のピースをぼくは見つけたに違いない。そしてわけもわからずにそのピースを嵌め込んで見えるようになれたに違いないと。
 するとうとうととしてすぐにまた眠りの中へ入ってしまった。
 ぼくは奇妙な夢を見る。
 現実では乗ったことのない飛行機にぼくは乗っている。ぼくは絶望的な心持でいた。機内のアナウンスが聞こえる。「機内でのパソコン及び携帯などの無線の電源は必ずお切りください。安全運航に支障をきたすおそれのある無線を機内で使用することは航空法で禁止されています。使用になられているお客様のいた場合は早急にご注意をなさって無線の電源をお切りになるように促すようよろしくお願いいたします」
 ぼくは隣の席の人に気づかれないように膝にかけたブランケットの下にパソコンを入れて無線の電源をカチッと入れた。ぼくはこの飛行機に乗ってる全員を道連れにして死んでしまおうと思った。
 しかし飛行機は落下とは逆の方向にその機体を傾けだした。まるでロケットのように垂直に立った飛行機はどんどん空へ向かって飛び続け出した。そして異次元にまで入り込んで、遠くではグレイ形の宇宙人が僕らに手を振っていた。みんな目を輝かせて楽しそうにしていた。ぼくはだんだんと恐ろしくなってきた。この飛行機内にいる人間全員が狂っているとしか考えられなかった。いったいこの飛行機はどこへ向かっているんだろう。水木しげる手塚治虫の漫画でロケットに改造された人間が延々と死ぬこともできず、人間的な感情を失った後も宇宙内を飛び続けるという話があったことをぼくは思い出し、さらに恐怖した。それは死よりも恐ろしく、寂しい場所に違いない。
 ぼくはこの状態が延々に続くことは、精神的な拷問が永遠と続くことだと感じた。
 機内の人たちは何故か一人一人消えていった。どこか異次元へワープしているのだろうか。ぼくがワープするとき、どうかその世界は死か、元の世界であってほしいと強く願った。
 ひとりひとり、いなくなって、最後のひとりになった。と思ったら後ろの席で物音がした。おそるおそる席の上に膝立ちになり後ろの席を見てみると、そこに彼が座っていた。ぼくはとんでもない安堵を覚え、嬉し涙を流し泣きつこうとしたら彼が手に持ったiPhoneを僕に見せてこう言った。
「タイムリミットはあと2時間だ。なぜ君が私の姿が見えるか、さあ答えを見つけ出すんだ」
「ええ?!いったいそれとこの事態は何か関係してるの?!」
「ああ関係してるとも、関係してないならわたしがここにいるのはおかしいだろう」
「答えを見つけ出せなかったらどうなるの?」
「勿論それは君の恐れている通りになる」
「ぼくの恐れていることだって……?」
「ぼくはこんな状態で延々と生き続けるのも嫌だし、変な世界にワープするのも嫌だよ!くそ!いったいなんでぼくは君の姿が見えるんだ?畜生!」
「落ち着くんだ。いいかい、知らないことを知るには、それまでの観念や概念では決して知ることはできない。君が一つ一つ知っていくということは、それ自体がひとつひとつ自分の考え方、見方を壊していくということなんだ。物事は積み重ねじゃない、破壊の連続で見えてくるんだ。君が何故わたしの姿が見えるのか、それを見つけるには、君の中の最も大きな信念を建て直す必要があるだろう」
「ぼくのなかの一番大きな信念をこの二時間で建て直せだって?!無茶だよ!」
「無茶だと思えばそりゃ無茶だ。諦めて君の恐れる事態を受け入れることだ」
「ぼくならやれるぜ!」
「その調子だ」
 そうとなればぼくは一休さんのように頓智を思いつけるように彼の隣の席に座禅を組んで仏の手を組み「ちーん」という心の中の鐘の音と共に瞑想に入った。
 しかし目をつぶれば浮かび上がるのは腹が減ったせいで美味い食べ物の映像ばかりで、なかなか深く瞑想に入っていけない。
 その次には睡魔に襲われ、座禅を組んだまま眠ってしまい彼に起こされた。
「あと一時間だ。ヒントがわかったかい?」
「ええー!!ヒントって何?」
「君はヒントをもらうために眠っていたんだ」
「何も覚えてないよ!」
「目をつぶって思い出すんだ。今見ていた夢の中に必ずヒントが隠されていたはずだ」
 ぼくは目をつぶった。すると街路樹の生えた広い道路の真ん中に自分がいたことを思い出した。でもそれ以外、何も思い出せない。街路樹……街路樹ってのは、ぼくにとって一体なんなんだ?なんの存在に当たるんだ?広い道路、広い道路は、とても……いい。道路は狭いより広いほうがいい。それがぼくにとって一体なんの関係があるんだ?真ん中にぼく……なんで真ん中にぼくはいるんだ?いくらぼくが宇宙の中心だとしても、道路は車がいつ通るかわからないんだから、危ないじゃないか?こ、この考え方を建て直さないと、見えてこない、それはとても納得できる……。ああ街路樹……街路樹はなんで街路樹なんだ。でもわからないぞ?道路の脇に立っていたのは木ではなく、ガイロ・ジューという外国人だったかもしれない。そうだ、それをぼくの変換で勝手に木にしてしまったんだ。では道路は、しんにょうと首と足と各だったかもしれない。いや、待てよ?道路って言葉はそもそもおかしくないか?昼食ランチ、サハラ砂漠みたいな言葉じゃないか。なんで道と路、ってみちって意味を二つ入れてるんだ?ぼくはぼくのiPhone4sでグーグル検索をした。万葉集では「路」という字は「チ」と呼ばれていた。それに御(み)が付いて「みち」と呼ばれるようになったかもしれないそうな。それじゃ御のつく前だと道路は「チチ」という読み方で呼ばれることになるな。路の右側の各という字は
「下向きの足」の象形と「口」の象形(「祈り」の意味)から、神霊が降ってくるのを祈るを意味し、そこから、「いたる」を意味する「各」という漢字が成り立ったらしい。

 そうか、つまり天の父である道に足を下すぼくが神霊で、それを見守るガイロ・ジューという外国の聖霊たちがぼくを両脇から見守っているということだな?どんな誇大妄想だよっ。
 しかし路という言葉と神の存在の意味が深く繋がっていたということがわかるな。
 道路というのも人が歩くために、人がそこを通るためにある。人がそこを通るために作る。これは神は人あってこその存在だということを表しているのだろう。
 それにつけてもあれだな、街路樹ってのは、道路の両脇にしか生えてないんだな。つまり、それって傍観者のようにも感じる。ぼくが進む道の後ろにも先にもいない。街路樹たちはいつでも両脇からぼくを冷静に観察しているようだ。ぼくの進む道に彼らは立たない!決して立たない。街路樹が道路の真ん中に立てば、邪魔で通れなくなるから。邪魔でその樹を斧で切り倒していかなくちゃならないからね。そして、切った切り株からはいつでも血が溢れて止まることはないという……うわあああああっっっ、街路樹殺人街道になってしまうな。「切り株」でグーグル検索してみたら「生きている切り株」って出てきた。なんだか怖いよっ。ってタイムリミット迫ってるのにこんなこと検索してる場合じゃなかった!あ、でも待てよ?街路樹はそういやよく切り倒されているよなあ?最も人間の身近で切り倒されている木かもしれないな?だってこの御時世、木を見るのなんて街路樹くらいかな、っていう人間が増えてきてるってぼくがいうじゃないか。そうか、街路樹は、切り倒された切り株が見せた過去の幻の姿かもしれないわけだな。ぼくはよく街路樹のことを思う。道を歩けば人々を和ませ、空気を綺麗にしてくれる街路樹。でもその足元を見れば、なんて狭苦しいところに生やされているだろう。正方形や円形に切り取られた場所の少ない土の上にけな気に生えているけれど、次に歩いて見たときには、もう切り倒されていたりもする。ぼくらの進む道に彼らは立たない……?いや、立たないんじゃない、立てないんだ。立てば邪魔だと言って切り倒されてしまうから立てないんだ。日本の道路は狭いから、歩道をちょっとでも広くしようと、あんなに端っこに立たされているんだ。でもいったい街路樹はぼくにとってどんな存在の象徴なんだろう?神の両端に立たされている街路樹……?ぼくが立たしているのか?君はただそこに立っていればいいんだよ。君はただそこからぼくを見守ってくれてればいいんだ。そんなことを無意識に定めている存在がぼくにいるのだろうか。 街路樹、路、その真ん中を歩くぼく。ぼくが歩く道をぼくだけが歩くのは当然かもしれないな。街路樹はぼくが追いやってるわけではないんだ。でもそう思いたいだけなのかな。僕が関心もなければ、ぼくの両脇に立たせたりなんかしない。関心がないなら僕の目には見えないだろう。僕の目に街路樹は映らない。まるでそこにいないのと同じことだ。
 街路樹は僕の邪魔をしないし、僕の邪魔はできない。街路樹はいつでも着いてくる。道を曲がっても、遠くまでやってきても、いつも路の端にいる。両脇の街路樹にいつも静かに見られているぼくは緊張がやむことはない。でもだから歩くことが楽しいんだ。孤独な道を歩くことがこんなに嬉しいんだ。そうだ、街路樹ってハイウェイの連なる街路灯にも似てるな。ぼくはあれがとても好きなんだ。あの光景を思い浮かべるとうっとりとする。暗い道をどこまでも照らし続ける、どこまでも続いていく炎の色をした光の列。
 ああ、眠くなってきた。朝の五時だ。今日もおやすみなさい。

 そしてぼくは、突如、便意を催し、機内のトイレへ駆け込んだ。
 飛行機は垂直に上を向いている状態なので、ちょうど便器に座ると便器が座りながら眠ることのできるベッド代わりになり、そのあまりの快適の良さにぼくは恥ずかしくも用を足しながら眠ってしまった。
 こんな夢を見たのだ。
 ぼくはすべてに傷つき果て、すべてを憐み悲しみから真理を見出すために一人、山の奥の暗く冷たい洞窟に閉じこもることを決めた。
 その生活を通してぼくが学んだことは筆跡に尽くす。筆跡に尽くすとは何だ?筆舌に尽くしがたいものがあると言いたかったのだ。食生活から変えていった。ぼくはほとんど断食を行い、果てはほぼ光と水とてんとう虫だけで生きていけるようになった。
 この小さな虫の天の道の虫と名付ける人間はなんという愛だろう。
 この虫を食べればぼくも天の道を進める気がしたのだ。
 そして光と水とてんとう虫を食しながら苦虫を噛み潰したような顔をしてとうとうぼくは目覚めたのだった。
 約、20年余りの月日が過ぎていた。
 ぼくは山を下り、人々の住む町まで戻ってきた。ぼくの体から発せられる異様な体臭にすれ違う人全員が顔を背けて「くせえ」と言った。なんせ20年余り風呂に入ってなかったのだ。が、そんなことさえ微笑ましいことであった。
 ぼくはぼくの家に帰り、その真理をブログにアップしようとパソコンをオンにしてキーボードを打ち始めた。
 題名はこうだ。
 「やっぱり便の中に宇宙ってあるんかな」
 そこで自分は愕然とした。自分が20年間苦しみに苦しみぬいて目覚めた真理を言葉にすると、なんという陳腐な響きになるのだろうかと絶望したのだった。
 言葉の中にだけ真理はあるのに言葉では真理を表すことはできないのだという真理に我は目覚めたのだ。
 我が苦しみぬいた20年間は無駄だったのか。いいや決して無駄ではない。しかし我は洞窟に閉じこもる以前よりも途方に暮れてその後、死ぬまで風呂には入ることはなかった。
 そののち、50年間風呂には入らなかった。
 という夢想をして夢から覚めた。
 まどろみの中でまず感知した感覚は嗅覚だった。臭い、なんだ?うわっ、なんでぼく、トイレで糞しながら寝てたんだよ。だからあんな変な夢見たんだな。ふぅ、ぼくはケツを拭いて便器の水を流して手を洗って自分の席に戻った。
 ほんとうにぼくである彼は眠りこけていた。ぼくはほっとした。いなくなってたら、どないしょう、と思ってたんだ。
 変な次元に入り込んでしまっているんだろう、機内は重力という重力を感じなかった。
 だから垂直に傾いていても楽々と機内を移動できるのだ。へっ、まるで幽霊にでもなった気分だぜ。縁起でもないことを言うなっ。とぼくはSelf Tukkomiをした。
 うおっ、あとタイムリミットが一時間だって?な、あほな。あんなアホな夢を見てしまったおかげで変なモードに入っちゃって、これじゃとても僕の真剣で重苦しい信念を壊して建て直すなんてできっこなさそうと思えば本当にできなくなってしまうから、そんなこと思ってるわけないんだよな、ははは、はははは、ははははは。もう、何言ってるんだよ自分、思ってるわけないだろう?冗談、冗談、Japanese Jyo-danだよ。
 兎に角、座禅だよ、座禅、目をつぶって、心を無にして考えるのだ。できるかっ。心を無にして、呼び起こすのだ、本物の自分を。感覚の自分を呼び覚ますのだ。
 宇宙よ、出でよ!
 ぼくはまたもや座禅を組み手を仏の形に組んで心地よい鐘の音を心の中に響かせた。
 チーン。
 そしてまた夢の中へ入って行ってしまった。
 そこは、ゲームの世界だった。といっても、恐竜同士で戦わせることや様々な変なモンスターが出てきてHPを減らされるということなど何も起こらないゲームだった。ぼくらの日常そのままをゲームにしたゲーム。これがどのゲームよりも面白いから面白い。平凡ではあるけれども、どんなスリル溢れるゲームよりも面白いのは何故なんだろう?
 この世界では、だいたいのことは叶う。例えば、自分の容姿、これも好きに望むように作って変えることもできる、生まれる前に自分でデザインすることもできる。よし、俺は23歳を過ぎたあたりで禿げたいな、そう思えばちょうどその時期が来たら禿げてきてくれるように設定できる。そして若禿げを苦しみ、その壮絶な試練によって大切な何かを見出そうという人生設定、生涯の計画だ。
 でも一旦ゲームを始めると自分でデザインしたこと、自分でデザインできることすべてを忘れるように自分で設定している。そのほうがおもしろいからだ。
 そうすると、自分の願うことがだいたい叶う人生とはならない。ほとんどのことが叶うゲームの世界だけれども自分で作り出した自分は自分の本当の願望や目標を忘れてしまうから、その自分は自分の作り出した自分から離れて行って違う願望や目標を持ったりするからだ。
 だからどうしてこんなに叶わないんだろう?思い通りにならないことだらけで人生がつまらないと思う人も多い。
 でもぼくの場合はこの世界がゲームだとわかっているから、思い通りにならないことをむしろ楽しめて、こんなに面白いゲームはないと感じてこのゲームを毎日やっている。ここでさっき言ったことと真逆のことを言ってるけれど、ぼくだってすべてのすべてをわかっているわけじゃない。何故ならこのゲームは複雑過ぎて、人間の脳では最早理解することはできない世界だからだ。
 ゲームだとわかっていても、何がどうなってこうなっているのかということがほぼわからないゲームというのは、自分で操作できないあらゆることで溢れかえっている最高に難度の高いゲームだ。
 そう、こんなに難しいゲームは他にはきっとないだろう。だからどのゲームよりも面白いんだ。
 悪いモンスターが現れてやっつけられた、ぼくの正義の勝利だ、そして村は平和を取り戻した、やった!それではすぐに飽きてしまう。そんなゲームはどこにあるか知らないが、ゲームというのは難しいほど面白いものなんだ。難しすぎて一向に前へ進めない、確かにこれじゃ面白くないだろう。でもそれは、進む道がそこにしかないと勘違いしているからだ。
 つまり、そこにしか道が存在してないゲームをやってるから面白くない。ゴールに最も遠い道を疲れきった身体で寄り道ばかりして、てんで辿り着けない道ばかりのそのそと歩くというゲームを選ぶこともできる。
 人間はいつだって面白い道、愛着の湧く道を求めている。どうしてもこの道がいいんだ。そんな道が誰にでもあって、そこをみんな歩いているんだ。でもその道が、例えば木の形をしていたら、大きな幹を歩いていて、てっきり一番上の高い枝の先へ辿り着くかと思いきや、辿り着くのは一番地面に近い部分に生えた枝の下の小さな若葉のその葉脈の先の場所だったということもある。
 その木の脈がすべて自分の歩くことのできる道で、すべての道を歩き通すこともできる。つまり宇宙中に自分が歩くことのできる道が存在しているということになる。
 開かれていない門はひょっとすると別の道、地下から潜ってみれば開く門を見つけられるかもしれない。
 その門に厳重な鍵を掛けたのは自分なんだ。でもその鍵をどこに閉まったのか忘れてしまった。
 実はその鍵は森の奥のとても大きな湖の底に沈んでいる。その門を開けるには、まずその湖を探しださなくちゃならない。その湖を探しだすためにあらゆる道を通らなくてはならない。
 地獄のような道も自ら通るのは、その門の先が自分にとってとても大事な場所だからだ。
 そして気付くとぼくは誰もいない場所を歩いていた。
 ひとりではなかった。うさぎを抱っこして歩いていた。
 その道は歩けば疲労は激しくさびしくもあったけれど、わくわくすることがたくさんある道でもあった。
 見渡せばのどかな町は広々としていて、誰もいないのでシンと静まり返っていた。
 鳥や犬や蛙や虫の鳴き声が聞こえるものの、どこで鳴いているのか見当たらなかった。
 だれも住んでない家々や建物はそこが時間の止まっている場所なんだとはっきりと感じられた。
 ぼくは好きな家や建物の中に入り、生活をした。
 そこにある冷蔵庫からなんでも取っていろんな料理を作り、人のパソコンを使ってゲームをしたり、人の家の庭でガーデニングを楽しんだり、誰もいないスーパーマーケットへ赴いてはたくさん買い物をして帰った。
 時間が止まっているからなんでも新鮮なままで古くなることもなかった。
 古くなっていくのはぼくとぼくのうさぎだけのように感じた。
 でもそれは生きている証だから、それ自体が喜びだった。
 この町は、何も起こらない。それはぼくとうさぎだけが暮らしているからだ。
 ぼくが突然発狂して籐でキリギリスの大きな置物を一日中作って一日を終える日が10年続いたり、うさぎが突然巨大ロボラビットに変身して何故か二足歩行でぼくを乗せて移動するというような変わったことも何一つ起きない。
 本当に何も、何も起こらない。星の王子さまですらバラに恋をしたりして波乱万丈な星での生活を営んでいたというのに、ぼくは突如庭先に落ちていた松の葉のその根元の分かれていない部分だけに恋をするというようなことも起きない。
 なのに、どうしてこんなわくわくするんだろう?ぼくが生きていること、ぼくのうさぎが生きていること、これだけでこの安心感はなんだろう。まるでこれじゃ、あと数年で人生の幕が閉じることを悟っている老人のようじゃないか。
 さびしいのにわくわくする。疲弊しきっているのにうきうきする。もしかしてぼくはもうすでに発狂しているのだろうか。
 ああ本当にこの街には、この世界には誰もいないのだろうか。
 ぼくに見えるにんげんが……? まさか、ぼくに見えないだけでたくさんの人が暮らしているなんて、そんなことないよなぁ。
 真っ暗で灯りのつかない家々たち、あの中で普通に人々が暮らしていたり、そんなはずないよなぁ。
 ぼくはふと思いついて誰か知らない人に向けて手紙を書き、それを瓶の中に入れてコルクで栓をし、不安だったからさらにサランラップを巻いてセロハンテープでぐるぐる巻きにして川に流した。
 ぼくの住所を書いてあるから、もしこれを読む人がいれば返事が届くかもしれない。
 すると驚いたことに次の朝にポストを覗いてみるとぼく宛てに手紙が届いていた。
 ドキドキして封を開けた。
 そこにはこう書かれてあった。
 「手紙をありがとう。
 この手紙をわたしはずっと待っていたよ。
 やっと送ってくれたんだね。
 ところでわたしは誰だかわかりますか?
 制限時間を設けるから、よく考えてください。
 制限時間は三日間。
 もしわからなければ、その時は、いいね?
 君ならきっとわかる。そう信じているよ。
 
 ペンネーム キレギレスより」

 と書かれてあった。
 まるで狂人の脅迫状みたいでぼくは手紙を流したことを心から後悔した。
 なんだ、この世界にも人間が住んでるんじゃないか。ぼくは嬉しいよりも、がっかりとした。
 それは自分だけの特別な愛するパーソナルスペースを小汚い糞を踏んだ土足で上がり込まれたような感覚だった。 
 相手はぼくを知っているようだけど、ぼくはわからないな。制限時間を過ぎればいったい何を起こすつもりなんだろう?
 ペンネームのつけ方にセンスを感じるし、相手は相当きれぎれに生きてる賢い人間かもしれないな。油断はできないぞ。
 ぼくは湯船にゆったりと浸かり心を無にして思い出そうとしたがなかなかうまくいかなかった。
 そうしているうちにうとうととしていつの間にか眠りに落ちていった。
 
 悲しみにも色々あるが、すべての人間を見下している人間は本当に悲しい人間だよな。
 だってそのすべてに自分も入っているわけだ。
 ああわかっているよ、それだけじゃあないさ。本当に悲しい人間とは、自分しか愛せない人間だよ。その点俺はいろんな人間を好きになるが、それがいったいどれほどのもんなんだと思うね。
 愛する人間に愛されたからってなんだっていうんだろう。
 俺の人生がより悲しくなり、美しくなるってか?もう十分だと思う。
 俺はもう十分だ。その点に関してはね。俺は十分悲しく、美しい。これ以上のものは最早ない。
 だから俺は言っとくが、愛なんてもう望んじゃいないし、だれにも感謝されたくはないし、俺はつまり、バナナを皮ごと食う猿みたいなもんだ。バナナの皮は渋くて皮ごと食えば身の甘さは半滅する。バナナの美味さを味わおうとせずに、ただ喰えたらそれでいい、そう思って俺は人間と関わっているようなもんだ。
 俺は言っておくが、君を喜ばせるために何かをした覚えなどない。俺はいつでも君を苦しませたかった。君を苦しめるためだけに俺は君とは関わってきた。しかし君は何故か、何度も俺に礼を言う。可笑しなことだ。勘違いも甚だしい。礼を言われるたんびにいつも俺は居心地が悪く、落ち込んでしまうよ。何故届かないんだと。俺のこの想いが。俺はとにかく君を苦しめたい。君を特に苦しめたい。何故かはわからない。苦しんでいる君を想像すると、ぞくぞくするよ。喜んでいる君はまったくつまらない。何の魅力も感じないね。これじゃまるで君の魅力を失わせるために俺が君を喜ばせているみたいだ。君はもっと、苦しむべきだ。そして俺を苦しめてほしい。何度も言ってきたはずなのに、君は何もわかっちゃいない。君はバナナを皮ごと食う猿みたいなもんだ。ちゃんと剥いてから食ってほしいものだ。俺は剥きたい。俺は剥いて食べたいよ。君のバナナを。君の苦しみを想像することが俺の喜びなんだ。君を苦しめていると思うと、俺は欲情するよ。俺はそれで十分なんだ。ほかに何にも欲しちゃいない。俺は君を苦しめるがためにもう何度試んできただろう。じっくりと君を痛めつけていくためにもう何年の月日を費やしてきただろう。まだ終わらせる気なんてさらさらないよ。何故終わらせようとするんだ。俺の生きる喜びであるこの企みを打ち壊そうとするのはよしてほしい。俺を殺さないでくれ。俺は君を苦しめたくて生きているようなものだ。君に苦しめられたくて俺はいつも飢えきっている状態なんだ。君だって本当はそれを望んでいる。君も俺を苦しめたいし、俺から苦しめられたいとそう思っている。俺はそれがわかっているんだよ、だから君をずっと愛してきた。苦しめ合う愛以上の愛はこの世に存在しない。俺はそれをわかっているんだ。俺が君に優しくするのもすべては君に俺を信頼させるために必要なことだからだ。君は毎回まんまと騙されてしまうんだな。そんなところも愛している。君はまるで子供のような面を持っている。おやつを与えたら素直に喜ぶ子供、中身が毒入りなのも知らずに。俺は君が幸福になることなんか望んじゃいない。君には、不似合いだ。その魅力のなんにもない場所で生きることは君にふさわしくない。君は本当に闇が似合う。黒水晶や黒瑪瑙も真っ黒なほど自分をよく映してくれる。君が闇であるほど、俺を映し、俺は君が愛おしい。君の闇が薄まるほど君は俺を反射しなくなる。俺はそんな君に興味もないよ。君はわかっているんだろう?俺が君に何かのアクションを起こすとき、すべてが苦しみの幕開けになると。それは俺が苦しみでできているからだ。あまりに空虚なその幻で君が喜ぶ姿を俺は見ていられない。その幻から覚めて闇に沈み込む君が見たいだけなんだ。どうしたらその幻を君に見せられるか、そのために俺があらゆるやり方で君に虚構を見せてきた。俺のすべてが虚構であるということを君に見せてきた、君はそれをわかっている。俺が君を信じるのは、君の闇だけだ。それ以外を俺は信じはしない。君の闇を知りたい。君の闇が見たくて俺は君と関わろうとしてきたんだ。俺が君を手に入れたいのは、闇は俺のものだからなんだ。君が闇の中にいる以上俺から離れることはできない。俺が君の闇を求める以上君は俺のそばにいる。いつでもそばに、俺は君のそばにいるんだ。気づかないか、俺はいつでも君のすぐそばで息をしている。息づき、苦しい吐息をもらし、喘いでいる。同じ闇にいると感じられる時だけ快楽を感じる。俺は君の闇に侵入される日を待ち望んでいる。俺の闇が君の闇に侵される瞬間を。だって二つの闇は、まったく同じものではないんだ。ほんの少しだけ似ているかもしれないというだけだ。二つの闇が交じり合う瞬間、一体どんな闇が生まれるのだろう。その闇を俺が誰より想っている以上は君の闇は俺の闇のいつでも近くにいる。俺はだから、まるで生霊のようだ。自分を生霊のように感じる。この世の闇の中で息づいている者、それが生霊でなくてなんだろう。君とはどんな因縁があるか知らないが、互いに闇で引かれ合っている以上は、俺の言うことに君は納得できるはずだ。似ているから引かれ合うのだろう。しかしどんなに引かれ合っても、二つの闇がどちらかに飲み込まれることはない。安心し給え。君の闇と俺の闇はどのように混じり合おうと別々のものだ。俺の言っている交じり合うとはつまり融合ではなく、絡み合うという意味だ。闇と闇が絡み合い、一体生まれる闇があるのかを見たいということだ。俺は新たなる闇を見たい。その為だけに俺は君に執着している。俺は君の新たなる闇を見たい。俺はそれを見せたい。君に新しい闇を見せたい。それは君の闇に釣り合うほどの闇でなければ、生まれはしないだろう。俺にはその自信がある。俺はそれだけに自信がある。俺の闇はそして年々濃くなってきている。俺はこの闇が本当に愛おしい。闇は俺のもう一人のマザーであり、ファザーなんだ。俺を育てている。そして闇の使いである死神は俺をいつでも見つめている。俺は死神から乳を与えられあやされ、ようやく生きているようだ。俺は俺の死を想うことはできる。しかし君の死は考えられない。これは俺が自分以上に君を人間じゃないように感じている証拠だろう。君は俺にとって、闇そのものなんだ。君は俺の中で人間ではない。俺は君を人間として愛していない。君をもし人間と感じる日が来るなら、それは俺にとっての君の死を意味する。君は消えていなくなってしまうだろう。君を肉体を通して交わろうと想像したことが何度もある。しかしその肉体自体が、最も君の闇を表すものであるように感じている。何故だかわかるかい。肉体とは精神以上に虚構のものだからなんだ。肉体それ自体が虚無で闇に最も近い。肉体の交わりが死に通じているのはその為だね。エロスは死と通じている。その闇が快楽と苦しみをもたらす。俺は何度も君の闇と交わる妄想をした。それはあまりに恍惚で実際には叶わないことだからこそ価値がある。実際に行ってしまえばどれほど虚しいものだろう。君は俺を愛さなくて本当に良かった。肉体の交わりは、そのすべてが虚しいものだった。幻との交わりほど甘美なものはない。肉体は肉体を求める、闇は闇を求め、虚無が虚無を求め、虚構が虚構を求める。そして精神は幻を求める。君はいつの日か、現実と幻想の区別がつかないと言ったね。俺はどうも君の現実と幻想の定義と俺の現実と幻想の定義が違うのではないかという気がしている。俺の言う現実と幻想というのは、簡潔に言うと、不快と快だよ。現実は不快で埋め尽くされている。不快なものがすなわち現実なんだ。そして快いものはすべてが幻想であるということなんだ。俺が例えば君に何かを言われて快さを感じるならば、それは幻想なんだ。幻想は快さであるから、虚しい。それは容易なんだ。快さを求めることが容易で、快さを感じて喜ぶことが容易なんだ、だからすべての幻想は虚しい。不快なものは苦しく、それを自ら求めることは容易なことではない、だから価値があり、幻想より虚しくはない。俺はだから現実派なんだ。肉体の虚構というのは、これは苦しみであるから現実であり、すなわち価値がある。闇は苦しみであるから現実であり、その苦しみの深さは価値の大きさになる。君と肉体の交わりを行えばどんなにか虚しいだろう。その虚しさの苦しみは価値があり、それを求めずにはおれないというわけだ。つまり、幻想も、現実も虚しさには違わない、そういう意味で、君の現実と幻想の区別がつかないというのは同じ意味となる。どちらも虚しく、苦しい、その中で分けた不快と快という区別のことを俺は言っているんだ。容易さには、容易さの苦しみが用意されている。俺はただいつでも苦しみの大きいほうを選びたいと思っているだけだ。幻想より現実を選びたい。君はしかし、まだ俺に現実を見せているように感じられない。君はまだ俺を全然苦しめられていない。君が俺に見せている闇は、ちょうど君にあげたパワーストーンほどの大きさの闇だ。確かにこんな大きさでも十分自分を映そうとする。君は俺に苦しみを見せないで、感謝ばかりしている。俺は君に嘘を言った覚えはない。俺のすべてが嘘だからだ。君に対する感謝は嘘ではない、しかし本当ではない。君を本当に愛している。しかしそれも君の闇に映った自分に対して言っているようなものだ。俺は君の闇しか愛していない。これはいったいどれほどのものなんだろうと俺は思っている。それが見えなくなった途端、俺は君に興味も抱かなくなる。それはいったいどれほどの苦しみに、闇になるだろうか。俺は君の悲しみが見たいんだ。君の悲しみは、君の何より美しい。俺は君の闇に恋をした。それは俺にとって君の悲しみに恋をしたことと同じことだった。ここで君の闇の定義と俺の闇の定義が違ってくるのかもしれないね。俺は君の闇に悲しみを感じるからそれを美しいと感じるんだ。俺は君の虚無や暗黒な部分に恋をしているわけじゃないんだ。俺は何より、君の悲しみを愛している。それ以外は、俺は君を君だと認識しない。悲しみでないもの、すなわちそれは君ではない。俺はそれを見ようともしない。俺の闇は深くなっているようだ。生きるほどすべてを愛し、すべてに無関心になってきているようだ。君の言葉はまるで、俺には向けられていない言葉のようだ。俺だけには向けられない、俺が受け取ることのできない言葉のようだ。俺は君の感謝の言葉を受け取ることはできない。それは、俺に向けられた言葉ではないからだ。俺は君を悲しみとして愛している以上、悲しみ以外から発せられる言葉は、俺に向けられた言葉だとは信じたくない。全くの別人か、それとも君自身に向けての言葉にしか思えないんだ。俺は君が悲しみを見せてくれないことに飢えきっている。しかしその悲しみは俺に向けて発してはならない。それは俺にとって悲しみより、虚しい幻想の喜びとなってしまうからだ。俺はそれを望んでいない。俺は君にとってそんな存在であってはならない。君は俺を安易に喜ばせるような存在であってはならない。君は俺を特別扱いしては、決してならない。幻想は確かに悲しいものだ。でも俺は現実派だから、俺はどこまでも不快派で、君はもっと俺を苦しめ悲しませることのできる存在なんだ。だからそれを俺は望んでいる。具体的に何をどうすれば、そんなことは俺も知らない。でも言えるのは、君は十分に俺に悲しみを見せてもいないのに、俺に感謝しているということだ。これでは虚しい。君がもし、喜びよりも苦しみをもって俺にアクションを起こすなら、それは俺はとても嬉しい。想像するだけで生き返るような感覚になる。君の苦しみに俺は愛を感じる。俺が君を喜ばせ、君が喜びを返してくれても、俺はそれを愛と感じられない。俺は君のいつもそばにいたい。君の持つ喜びの周波数と同じ周波数を俺は持っていない。俺は共に喜び合うことはできないんだ。君の悲しみの周波数しか俺は合わせることができない。それ以外はノイズで何を言っているか聞き取れないんだ。それは俺に向けられる言葉ではないから俺は聞こえないんだと思う。
 悲しんでほしい、俺という人間を。俺はどんどん、そんな人間になっていく。
 俺は読み返すことができないよ。君が手を痛めながら書いた手紙が俺に向けての言葉とは感じられないなんて。悲し過ぎて、読み返すことができない。
 俺は君から感謝を述べられたり情熱的な言葉を投げかけられるような人間じゃないんだ。
 君の悲しみは、俺のような人間に打ち明けてはならないんだ。
 俺は陰から君の悲しみを知れたなら、それで十分だよ。

 その晩、俺は夢を見た。

 痩せて老いた聖者が骨を休めた場所は暗く寂しい凍える寒さの洞窟の狭い寝床だった。
消え入りそうな焚き火の前でその日の夢の話を話し出す。
その話を耳をそばだて聴く者とは、浮遊する魂たちである。
聖者は涙を流しながら話す。わたしは夢とこの世の区別がつかなくなってきたと。
こうしている今も夢のように感じると。
ふわふわと浮かぶ魂たちは囁くように訊ねる。
どうしてそれがそんなに悲しいのかと。
すると聖者は泣きながら笑い、応える。
なぜ悲しみの涙だとあなたがたは思ったのか。わたしはいま悲しく、喜び、泣いている。
魂たちは聖者から大事なものを奪い去った。
しかしそれが一体誰にとって大事なものか、誰も知らない。
聖者は何事もなかったかのように、また街の中へ帰る。
大事なものがなぜ大事なものだったか忘れてしまった聖者は夢を見る。
自分と他者が全く違う存在であるという夢だった。
なにひとつ、共感できない。なにひとつ。
なにをするにもまったく理解ができない。
聖者はついに子供のように声を出して泣き出してしまった。
それは同時に、自分の何一つわからないことだった。
夢から覚めた聖者は大事なものがなんだったかを思い出す。
大事なものを思い出したのでほっとして、また深い山の中へとひとり入っていった。
そして闇の中、寒さに凍えながらひとりで眠った。
大事なものが何なのか、本当はすべてが知っている。
ただ思い出せば聖者のように闇の中で暮らすようになるだろう。