〘牛の首〙-葬られた牛神伝説-

又昔、一人の老いた僧が旅の途中、真夜中に峠を過ぎようとしたときであった。
それまで何の煩わしき音一つしなかったのに、此処へ来て妙な、不安な音を聴いた。
それは水音と、何者かが嘆き悲しんでいるかのような幽かな音だった。
僧はじっとして少しの間、その音に耳を澄ませていたが、音が止んだと想う瞬間、音のする山の奥へと入って行った。
するとそこに、小さな池が、黒い水面を一面に湛えていた。
僧はその池に静かに近寄り、その水面を覗き込もうとしたその時であった。
後ろから、不穏な幽気が、僧を引き寄せんとした。
僧が振り返ると、何人もの亡者が、頭を垂れながら列を成して進み、一人ずつ黙々と池の中へと入ってゆき、淵の水面に消えて見えなくなった。
僧は憐れみ、成仏できぬ亡者たちの為に池に向かって経を唱えた。
そうしていると、この場所で代々行われ続けてきたある儀式が見えて来た。
僧は錫杖を打ち鳴らし、一層激しく真言(呪句)を唱えた。
そして両の瞼をそっと開いた。
夜な夜な、此処で繰り広げられてきたあまりにもおぞましき光景を、僧は見つめた。
目の前に映るこれらが幻覚であったならば、どれだけ救われたであろうか。
しかしこの老僧は、そこで残酷な儀式を行っている自分の過去世を観たのである。
村の者から恐れられてきた一人の孤独な呪術師の姿、それが自分であったことを僧は思いだす。
僧は、水辺に跪き、己自身の罪の深さを愈々知って悲しみに打ち拉がれた。
老いた虚無僧は哀れにもこの真っ暗な水辺でひとりさめざめと泣いておった。
それに気づいた一人の娘が、密やかに近付いて僧の背を優しく摩って憐れみ、自分の住処へと誘った。
だが僧は、夢現のなかにまたも見たくはないものに囲まれねばならなかった。
何故ならばこの娘こそ、村のものたちの畏れる人喰いの鬼神であったからである。
人の首や骨が、あちらこちらに転がり打ち棄てられているこの娘の住処で、僧は朦朧とした感覚のなかに、娘を棄てて此処を去ることもできず、半月程ばかり共に暮らしたのちのことである。
ある日、僧は娘から愛らしい声で呼ばれた。
「お母さん…。」
そして娘は僧に抱き着くと、自分を乳呑み子のように抱いてくれとせがんだ。
僧は娘を抱きながら、恍惚な歓喜と同時に、堪えられぬ悲痛に嗚咽した。
この娘は、何も知らぬのか…?
我がした事を…。
僧は血の気の引く身体に顔も青ざめていたが、娘への愛おしさに欲情し、娘を強く抱き締めながら想った。
この娘を改心させ、人のように生きさせることが己の責任であり、それが叶うならば娘と残りの人生を添い遂げたいと心の底から願った。
だが、その為には、この娘に自分の本性(過去)を打ち明かさねばならぬことをわかっていたので、僧は悲しみに暮れてはひとりで隠れて泣いた。
しかしとうとう、隠しておくのに堪えられなくなった僧は、酒をたらふく飲んだ夜、娘を膝に乗せ、愛する我が子に話し掛けるように、ゆっくりと話し始めたのである。
「未だ、あの儀式が続いているのは、わたしのしたことが原因であるだろう。わたしが、あの夜に何をしたか、お前は知っているか。わたしは…なんということをしたのだろう…。だがわたしはあの夜、正気であったことを憶えている。お前にこんなことを言うのは、あまりに言い訳がましいことだ。どうかわたしを許せ。わたしがあれを行ったのは、すべてを救う為だったのだ。呪術には、陽と陰があるが、わたしは陽の術しか、行った試しはない。つまり…単純に何かを呪って行ったことは一度もなかった。今でも変わらぬが、あの時代にも、だれもが己れの罪を知らぬと嘯きながら罪を犯しつづけ、他者の痛みに、そこにある助けを乞うて伸ばす手に気づくことができなかった。だから天王さまが、御怒りになって、人々に気づかせる為に雨を降らさなかったのだ。しかし、人々は何処までも神に背き、愚かだった。人々は我が身に愈々危険が迫れば、何処までも無慈悲になれるのだ。その哀れさ、その虚しさに、わたしは最早堪えられなかった。人々は、旱魃や疫病に遭うことで己れの業を省み、悔悟するどころか、益々深い業を積むようなことをし始めたのだ。それは自分の罪を、"他者"に着せ、それを犠牲として神に差し出すことで許してもらおうとしたのである。天の神が、それを喜ばれると本気で想っていたのだ。しかし結果、天による災いは終わらなかった。迚も斯くても、自分たちを助けつづけてきた大切な牛を生贄にし、神に雨乞いをする儀式は無駄に終わった。すると人々は何を想ったのか、天にどれほど生贄を捧げて乞うても雨が降らないので、今度は天を怒らせようとし、池の主である龍神さまをも憎み、池を血で穢し始めたのだ。最初のうちは厳かな祈祷を行うなか松の大木に松明を灯して鼓や鉦太鼓を打ち鳴らし踊りて、水辺の祭壇で牛の首を刎(は)ね、その首を石棚に祀ったり、首を池の淵に放り込むだけだった。だが一向に、雨は降らぬ。なれば、さらなる神の怒りを買う為、とことん牛を苦しめてから殺すことを村の者たちは考えた。牛を気絶させることなく頸動脈を切り、牛の息の根が絶えぬうちに皮を剥いで、腹を切り裂いてはらわたを引き摺りだし、四肢を根元から切断した。そしてまだ心の臓が動いている間に、最後に牛の首を切断して池に放ったのだ。わたしはその様子を、岩の陰から息を呑んで見つめていた。血濡れつづける祭壇の石も、巨大な血溜まりと化した血の池も、もはや人を呪うことしかしていなかったが、人々はそれに気づかなかった。その穢れを洗い流そうと、神がいまに雨を降らせるのだと人々は信仰し、餓鬼の如くに興奮して殺したばかりの牛の生肉を皆に振る舞い、それを喰らい、牛の血を飲みながら狂喜乱舞するのを祭祀儀礼と称してやめようともしなかった。わたしはどうしても、それを終わらせたかったのだ。予想通りに、何度と殺牛儀礼を繰り返そうが雨が一向に降ってこないことに苦しみ、村の者はこの近くでたった一人呪術を行えるわたしの元に泣いて懇願しに来た。わたしはこのときを待ち望んでいたゆえ、嬉々として、彼らにわたしの劃策を伝えた。わたしは彼らに、こう伝えた。『此の世で最も恐ろしく、最も天王さまと龍神さまを悲憤慷慨させることのできる秘術がある。これを行うならば、必ず雨が降り、旱魃が半世紀に亙(わた)って来ないことを約束しよう。』承知した村の長が、早速わたしの言う通りに、一頭の子を孕んだ若く美しい斑の牝牛を用意した。わたしはその牝牛を可愛がり、人の肉だけを喰わして養った。母牛はやがて、元気な子牛を産み落とした。それは牝の子牛であった。人の肉だけを食べて生きて来た母牛のなかには、人の念(残留思念)が生きており、母牛は人の情で、我が子を愛して育てた。わたしは母牛の我が子への情が極まった頃、一人の若い破戒僧を捕らえてくるようにと村の者たちに言った。するとわたしの想像通りの、美しく、悟りを既に開いているかのような静かな面持ちの僧侶がわたしの目の前に連れて来られた。この僧侶と、母牛と子牛を同じ倉に閉じ込め、良く互いに触れ合わせ、情が互いに映るようにした。僧侶が口にするのをわたしは観なかったが、この倉のなかには人の肉だけを彼らの食べるものとして持って行かせた。僧侶はいつも、なんとも言えぬ深い情の目をして親子の牛を見つめておったものだ。聴くところによると、この僧侶は母を知らぬ棄て子であった故、母に愛された記憶を持たぬそうだ。それは、わたしも同じであったが故、僧侶に同情しないではおれなかったが、わたしはあのとき、これを行うことが天命であることを確信していたのだ。わたしはわたしの命から、逃れる術はなかった。お前に、こんな話をする日が来ようとは、あのときのわたしは想像することさえできなかったよ…。……お前も嘸かし辛かろう。しかし、つづきを話せねばなるまいな。その僧侶は確かに、悟りを開くか、開かないかとしておったはずだ。そうでなければ、あんなに静かに、飢えと監禁の苦しみのなかに母牛と子牛を情愛の眼差しで見つめつづけることができたであろうか。わたしはあの若い僧に、母親の眼差しを見たのだ。まるで母のように、自分と共に捕らえられた母牛と子牛を見つめておったのだよ。この先に起こることをすべて見通しているかのような目で。わたしは己れに言い聴かせること必死であった。最も残酷なことを終らせる為に、それを上回る残酷な儀式を行う必要があることをわたしは知っていたからだ。」
老僧は、ふと目蓋を開いた。
呪術師と、みずからを呼び、誇りにでもしていたのであろうか。
己れの目の前、丑三つ刻の水辺にひっそりと立ち竦む過去の自分の姿は、まるで血に穢れた屠殺者と何も違わぬことを知った。
それも過去の己は、最も残虐な行いをした一人に違いないのである。
彼の右手には、牛を屠る為の刃物が握られ、松明の火が、屠られる者たちを美しく照らしている。
まず、彼はその幼気(いたいけ)な子牛の頭を押え、その頸動脈を切り、素早く皮を剥ぎ、腹を切り裂いた。
そのとき、火傷をするかと想うほどに熱い血が溢れ出て、噎せ返るほどの血腥い臭いが彼を包んだ。
子牛は苦痛から、悲鳴をあげながら石の上でのたうち、その様子を母牛と、僧侶がじっと息を飲んで見つめている。
彼は子牛のはらわたを引き摺りだし、一体、だれに対する怒りなのか、それを母牛と僧侶の顔面に投げ付けた。
そして子牛がそれでも暴れて逃げようとするなか、四肢を根元から切断し、最後に首を切断した。
この時点で漸く、子牛は動かなくなった。
彼は、返り血と汗で汚れた顔を僧侶に向け、悲憤の交じる疲れた声で言った。
「御主は神に選ばれし者也。御主こそ、真の世の救い主で在られる。」
彼は血溜まりの石台に腰を下ろし、子牛の首を己の前に置き、四肢を合わせて自分の周りに五つの角が五芒星のように生えるように置くと吉祥坐を組んで呪文を唱え始めた。
その夜はそれで事を終え、あくる夜、彼の手によって母牛が同じように水辺で犠牲となった。
母牛の場合、まず横たわらせる必要があったので四肢の先を最初に刀で切断した。
立っていることの叶わなくなった母牛の大きな身体は血の溜まった平らな岩の上に倒れ込み、僧侶に向かって必死に助けを請い、目尻から涙を垂らし、目を剥いて訴えた。
母牛のはらわたをも顔面にぶつけられた僧侶は、このときばかりは見開いた血眼で彼に向かって泣き叫び、苦しみのあまり嘔吐した。
僧侶は、呪術師が真言を唱え、呪術を行っているなかまだ生きている母牛の、その皮を剥がれて血を滴らせた切り落とされたる赤い首を抱き締めると我が母のことのように悲しみ、慟哭した。
(今だ!)
「今だ!」老僧は目の前の呪術師と同じ瞬間にそう叫ぶと、刀を僧侶の首元目掛けて振り下ろした。
瞬間、僧侶の首が床に落ちるまでの間に、僧侶の手から母牛の首が、まるでそれそのものが生き物であるかのように僧侶の切り落とされた身体を這うようにして上ったかと想うと、その首の根元の方にしっかりと繋がったのである。
その姿は、牛神(うしがみ)として畏れられるに相応しく威厳に満ちており、我が術が、真に成功したことをわたしは歓んだ。
斯くして、母牛の首と繋がれし僧侶は、逞しく立ち上がると、ぎろりとわたしを見下ろし、黄金の眼で睨みつけ、言った。
『良いか。我は世の滅ぶまで、まさしく世を支配する者也。それがお前と、お前の主の望みであるが故。』
わたしは、己れによって創造した神、その者を、こう呼んだ。
「おお、我が母なる神、我が天の王、世の夜明けを担う救世主、ゴズ(牛頭)よ…!」
そう…牛の首(頭)を持つ荒ぶる祟り牛神を創造したのは、わたしなのだ。
この神は、水の災いと、疫病を掌る神である。
この神は、まさしくお前の、父であり、母である。
そう言うと老僧は涙を流し、娘を震える身体で抱き締めた。
娘も悲しんで、共に泣きつづけた。
夜明け前、老僧は片眼をそっと開けた。
すると娘の首は、鬼に喰いちぎられたようにして床に転がって、息絶えており、血に穢れた斑牛の毛が幾本も、床に落ちておった。
この牛神(牛鬼)は、自分がとうの昔に殺した人間の娘の姿に化けいて、
その実、牛鬼が化けていた娘は過去生で老僧の愛娘として生きており、その娘は呪術師の殺した子牛の前世であった。
この牛神が、自分のことを何故、"お母さん"と呼んだのか、このとき、老僧は知った。
それは彼の、魂を懸けての、望みであったのである。
真の時間の存在せぬこの世界では、あらゆるとき、あらゆる形体(生命の形)で、人も他の生命も生まれ変わる(立ち現る)ことができる。
正しく、この老僧こそ、牛頭の神であったのである。
人がみずから、己れの殺生の罪を報わんとして、また相手の苦しみと悲しみを知るが為、己れによって殺されたる者として生まれ変わって来るという此の世の在り方、これぞ、真の仏の慈悲也。
老僧は、最早なにものも喪うまいとして我が娘の首をしかと強く抱き締め、牛頭の姿(本体)で血の涙を流して言った。
「わたしは人から愛されなかったが故、人から殺されねばならなかった。わたしが呪いつづける者。それはわたしである。わたしが愛される者として、存在してはいなかったことを、わたしは永遠に呪いつづける。」
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

The Sea of Elijah

白い海の向こうには、紅い砂漠がつづいていて、人々は朽ち果て、そこにただ独り、遺る人を想うこともなかった。
地には血の雨が、三年と六ヶ月降りつづけていた。
深い谷の川のほとりの洞窟で、エリヤは目覚めた。
涸れつづけていた川に、水の音を聴いた。
その日から、決まって黒い渡り烏(ワタリガラス)がパンと肉を彼のもとへ運んできたが、それはどちらも人の肉(死体)であった。
エリヤは、渡り烏に言った。
「わたしは最早、人の肉を食べたくはない。これまでは眠りのなかにいて、それがわたしの肉であると想っていたが、わたしは今目覚めたのであり、それをもう必要とはしなくなったからである。だから何かほかの食べ物を運んで来るように。」
渡り烏は一声ちいさく鳴くと、何も言わずに空に飛んで行った。
エリヤは目の前に棄てられた、人の肉から目を背けて空を見上げた。
のどかなほかになにもない縹色の空であった。
エリヤは澄んだ川を流れる水を眺めながら懐いだしていた。
エリヤは、地に雨も露も降らないようにと祈った。
するとどうだろう。
見よ、すべての地に三年と六ヶ月ものあいだ、一滴の露も雨も降らなかった。
その代わりに、地には真っ赤な血の雨がそのあいだ止むことなく降り続けた。
人々は互いに身を切り裂き、その血を水の代わりに飲み、その肉をパンの代わりに食べようとしたからである。
風はなく、なんのざわめきの音も聞こえないほど静かな午後だったが、エリヤは神の声を聴いたような気がした。
神はエリヤに言った。わたしを待つ者が、そこにいて、その者にわたしに人の肉以外の食べ物を与えさせる。だからそこに滞在するようにと神はエリヤに命じられた。
エリヤは早速、この暗い洞窟をあとにして出発し、その町へ向かった。
多分、十日以上歩いて、やっと町の入り口へ彼は着いた。
彼は喉が非常に渇いていたので、荒れた地で、ちょうど薪を拾っていた女に声を掛けた。
「わたしにどうか水を飲ませてください。」
彼女は、驚いて振り返りエリヤを見た。
その表情は困惑と悲しみに満ちており、彼女は痩せ細った痛々しい身体を翻し、水を取りに行こうとした。
エリヤは彼女の背中に呼び掛け、言った。
「どうかパンも分けてください。」
すると彼女は振り返り、涙を流して言った。
「あなたは生きている神、あなたの神エホバに懸けて言います。もう、わたしたちは終りです。あと一握りの麦粉と、少しの油で最後のパンを作り、わたしとわたしの愛する息子はそれを食べて死ぬだけなのです。」
エリヤは、このとき、絶望した。
悲しい顔でエリヤと女は見つめ合うなか、彼は想った。
わたしはどれほどの命を殺してきたか知らない。神はわたしを大量殺戮者として生を与え、最後に出会った女とその子が飢えて死にゆくのを見つめろというのか。
エリヤは、悲しみのあまり血が滲み出るほどに歯を食い縛った。
そして、神に向かって心の裡に叫んだ。
神よ、あなたの御心が叶うならば、どうかわたしの願いを叶え給え…!
そのときであった。一羽の、大きな美しい虹色に光る黒い渡り烏がエリヤと女の間の地上に降り立ち、咥えていた血の滴る大きな鮮やかな赤い肉の塊を地に放おった。
そして大きく一声鳴くとまた空へ飛び立った。
女はまるで救われたような安堵の目で、一心にその肉を見つめていた。
エリヤは、女に言った。
「あなたはそれを食べてはならない。それを食べればあなたはどんな奇跡を行うこともできれば不死の魂を手に入れることもできるが、その代償に、あなたは愛する自分自身と、愛する誰かを喪う。それは永遠に喪いつづけ、最早、あなたにそれは戻らない。」
しかし女は素早くその肉を手に持つと、薪で火を熾して焼いて息子と共に食べ尽くした。
エリヤは、飢えの苦痛のなかに、その光景を地獄を見つめるようにぼんやりと眺めていた。
自分が永遠に生きつづけることを知っていたエリヤは、もう少し楽な世界に生きたいと願った。
この地上に、残されているものとはなんだろうか。
わたしのすべての警告は、塵のように虚しい。
わたしの人類への愛は、暗黒の雲に覆われ、人もわたしも最早見えない。
わたしは彼女を何よりも愛していたが、彼女の息子を同等に愛することはできなかった。
女は、エリヤを愛してはいたが、息子ほどに愛してはいなかった。
エリヤの胸に抱かれて女が眠る夜、そのときだけの彼の至福の歓びは、女と共鳴し合う日は来なかった。
神の力をみずから棄て去ったエリヤに対して、女は自分たちと同じような人であると感じていた。
だが、同時に“人ではない”ものをエリヤに感じていた。
“人ではないもの”を、エリヤは彼女の息子に対して感じていた。
それは最初から、“異形の者”だったのである。
だが人は、己れの鏡を通してでしか、相手を見ることはできない。
女の腹を孕ませたのは、人ではなく、鬼と獣の一体となった者。
エリヤは、心の底で望んでいた。
彼女の息子が、此処を去るか、死ぬことを。
エリヤは、自分の未来を想いだしている。
わたしはやがて女を愛する。
堪らないほどの彼女への愛がわたしを襲いつづけるようになり、わたしは悲しみのなかに、その愛に満たされていた。
女は、ある雨の朝、エリヤの腕のなかで目覚めると不安な顔で彼にこう言った。
「あなたは、わたしに悦びを押し付けています。あなたは、いつも此処にいて、わたしが自分を開いて悦びを享受することを待っているのです。あなたは、いつもわたしにこう言います。"求めつづけなさい。貴女が真に求めつづけるものはすべて、まさしく貴女に与えられます。"そして、あなたはわたしにこうも言いました。"あなたは真の幸福に値する"」
エリヤはいつも、女が自分を見つめるとき、いつでも自分を通って彼女の息子の姿を見つめていることを知っていた。
そして女は、ある日わたしに言う。
女は、あの日、息子の亡骸のまえで蒼い亡者のような顔を涙で濡らしてエリヤに向かって血を吐くように言った。
「わたしは、やっと気づいた。あなたは、死の神だった。あなたが、わたしの息子から魂を抜き取り、戻れない場所へと連れ去った。あなたは、わたしの罪をわたしに思い起こさせ、わたしの最も愛する息子を殺す為に来た。わたしの積みつづけた実、その罪を無残に刈り取る、あなたは死の神だった。」
エリヤは、すべてが終りを迎えることをわかりながら、女に言った。
「あなたの息子をわたしに渡しなさい。」
それで、エリヤは彼女の息子の亡骸を彼女の目に見えない暗い場所へと連れてゆき、そこでその亡骸にみずから呪(まじな)いを唱えながら三度身を重ねると、彼女の処に降りて行って、言った。
「見なさい。あなたの子は生きている。神が、あなたの願いを聴き入れたのです。」
女はエリヤに言った。
「あなたは真に生と死の神。あなたの言葉のすべては真実です。」
彼女の息子は果たして、死のなかに、甦った。(それは人の様相でもなかった。)
彼女の息子が、彼女を此処から連れ去った。
これ以上、死が、死で在りつづけることさえできない場所へ。
エリヤは、永く共に暮らした、何よりも愛する女に別れを告げ、その地を独り去った。
闇の雨が、赤い地に当たり、白々と、骨の砂が谷底で光っていた。
人々は巨大な牛頭人身の神を崇拝し、生贄に我が愛する子を捧げて祈っていた。
何を祈っていたのだろうか。
それは此の世に“悪”が、永続することである。
生命の地獄と拷問と絶叫の黒い血の海のなかで、終りなく、歓喜しつづけられることを、彼らは祈りつづけていた。
そして何よりも、信じていた。神が自分の愛する者を生きたまま焼き殺し、それを我がものとすることで、わたしたちは赦されつづけ、わたしたちは救われる。
神は彼らに言う。その黒い血の海のなかの赤い実を、わたしのなかで実らせる。
さあ、お前の最も愛する者を、月も星もない夜にその海辺へ横たわらせ、お前の剣を、その者の心臓に突き立てよ。
お前は、真の自由を手にし、永遠に生きることも、永遠に死ぬことも許される。
いつ目覚めようとも、愛する者がお前の処にいて、お前だけを限りなく、愛しつづける。
お前に、この宇宙のすべてを与える。
すべてはお前のなかに在り、お前の外には何も、何もない。
お前は最早、この夢から目覚める日は来ない。
エリヤはこの地上でたったひとつ残された山の頂上に登り、地に跪き、慟哭する。
今、エリヤの愛するたった一人の女は、生きてもおらず、死んでもおらず、光を喪った闇のなかで、愛する息子の亡骸と幸福に暮らしつづけている。
エリヤは、漆黒の夜に自分の膝のあいだに顔を深くうずめ、産みの苦しみのなか、神に祈る。
「見よ。これはあなたの息子。貴女が産み堕とし、わたしが殺した“わたし”。わたしのたった一人の愛する娘のあなたの息。」
エリヤはそれを、七度繰り返す。その瞬間、天は黄金に光り輝き、彼の周りの果てなき海がすべてに渡って反射し、高く立ち昇る。
彼は海を見下ろし、預言する。
必ず、最後のときに、わたしはこの海に戻ることを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


David Sylvian - Before the Bullfight

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

mutes

わたしはこの地上で、人々を愛していると想っていた。
でも本当は、わたしはあなただけを愛していた。
あなたを、何に譬えられただろう。
あなたは、縹色の空だった。
あなたは、透明な水だった。
あなたは、白いデイジーだった。
あなたは、暗い海の色だった。
あなたは、夜の公園で穏やかに眠る野良猫だった。
あなたは、ドアの外に落ちていた黒い羽根だった。
あなたは、この部屋のベランダからわたしの目に映る夜景と夜空だった。
わたしはすべてを同じほどに愛していると想っていた。
でもわたしが本当に愛していたのは、あなただけだった。
わたしの目に映る恋しくてたまらないもの。
それが、わたしにとってのあなただった。
すべての愛おしいもの。
それは、あなただった。
でもそれを伝えることはわたしにはできなかった。
わたしはいつも、あなたのまえで沈黙しつづけた。
わたしはなにもあなたに伝えなかった。
あなたがわたしにとってどれほど大切か、
わたしはいつまでも、わたしを見ずに、黙っていた。
あなたがわたしの目に、見えなくなってしまうまで。
わたしは恋しいあなたに、何ひとつ、言わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

愛するお姉ちゃんに捧ぐ

 

 

 

 

 

 

 

 


Wechsel Garland - Mutes

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Event Horizon

目が覚めて、ぼくの一日が始まる。(きみは酷く怯えているように目覚める。)
都合の良い夢(だれかに無条件に愛される夢)に浸るのは精々約一時間)で起き上がって紅茶を淹れる。
この部屋の窓から、外を眺めるのは憂鬱であることのほかはない。
もうこの部屋に、陽が射す日はない。
ぼくはあの夜、いつもの苦しみを忘れられる為の特製ドリンクを作って飲んだ。
それはただの、安いブランデーとカフェインレスのインスタントコーヒーと黒糖とシナモンとソイミルクと水を混ぜたものだった。
それをプラスチックのマドラースプーンで混ぜたら、グラスのその表面に、この星の未来が映し出された。
ぼくは限界まで、そこに悲劇的人類の未来を夢見た。
人類は何を産み出し、何を破壊し、何を見事に破滅させて崩壊させてゆくかを、
ぼくはひたすら夢見る。
そしてぼくはそのあとの世界に目覚める。(もうぼくは此処につくづく飽きたんだ。)
其処で、ぼくをきみが待っていた。
地上まで、あと何メートルか、ぼくは訊ねた。
きみはわからないと言った。
青白いライトに照らされて、
一つの星が、一つの平線上に沈んでゆくのを此処から眺めている。

夜に目が覚めて、ぼくの一日が始まる。(彼女は酷く悲しい顔で目覚める。)
ぼく(彼女)は結局、お父さんとしか結婚したくはない。
ぼくのたった一人の真の恋人は、宇宙でお父さんしかいないことをわかっている。
そうすると、お母さんはどうなるのだろう?
お母さんもお父さんじゃないときっとだめなはずだ。
来世も再来世も、お父さんと結婚したいはずだ。
ぼくはお母さんとお父さんを取り合うわけには絶対に行かない。
ならばぼくはお母さんと融合するしかない。
ぼくとお母さんは一体になるんだ。
ぼくはその為ならば、ぼくを喪ってしまっても構わない。
攻殻機動隊の彼女と人形遣いのように、ぼくとお母さんはひとつになるんだ。
ぼくとお母さんの記憶の全てはひとつになる。
ぼくはお母さんになり、お母さんはぼくになる。
お母さんは、きっと同意してくれるだろう。
きっとその為に、ぼくはお母さんの記憶を顕在的に持っていないし、
お母さんは、今ずっと、眠り続けているんだ。
何処かの、静かな空間で。
お母さんは夢を見ている。
その夢のなかでお父さんと、幼いぼくとお兄ちゃんと、お姉ちゃんと一緒に暮らしている。
それはまるで五面体(正三角柱)の星のようなんだ。
お父さんとお母さんは2つの正三角形でぼくとお兄ちゃんとお姉ちゃんは3つの正四角形。
ぼくらをいつでもお父さんとお母さんは支えてくれている。
ぼくとお母さんがひとつになった場合、それは正四面体となる。
4つの面がすべて同じ正三角形の形となる。
これはすべての宇宙で、最初に存在するようになった正多面体、デルタ多面体(Deltahedron)、正三角錐の形。
存在するすべての四面体は正四面体と同相、本質的に同じ空間と次元(形)なんだ。
ぼくとお母さんは一つの形に還り、お父さんとお姉ちゃんとお兄ちゃんと共に、ひとつの星となる。
その星で、ぼくらひとつの家族は永遠に暮らしている。
ぼくは今も、お母さんの見ている夢のなかにいるんだ。
ひとつの生命のGhostは、いくつも存在している。
どんどんと分かれて、分け御霊として形を変えてゆく。
ぼくら家族は、別の星では他人として今暮らしている。
道でたとえすれ違ったとしても、何も感じることはないだろう。
もし、何かを感じたのだとしても、すぐに忘れてしまうだろう。
ぼくらは、ひとつの星だけれど、
ぼくらは、本当に永い時間のなかで、元の形を忘れ、
他人(他者)として暮らしつづけるだろう。
でもぼくは今、此処から一つの星が分かれ、平線下に昇ってゆくのを眺めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


System96 - Event Horizon

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Fugue State

そういえばぼくは、ぼくはどれくらいの時間をこうして過ごしているんだろう。
この星で。
この場所で。
涼しい秋の宵の風が、きみを通りぬける。
今、ひとつの存在が、永遠に死んだんだ。
目を覚ますことを、きみはやめる。
ぼくは二度と、此処へ戻らない。
きみは二度と、生まれては来ない。
それが、ぼくらの約束だった。
今、ひとつの星が、静かに、だれにも知られずに消えてゆく。
人々は、その星を懐いだす日もない。
青く美しい、そのひとつの星を。
闇のあいだから、彼がぼくに最後に伝える。
わたしはもう二度と、あなたと共に生きることはないだろう。
あなたが生きてきたわたしという存在を、あなたは忘れる。
本当に色んなことをあなたとわたしは共に経験してきた。
その時間を連れて、わたしはひとりで向かう。
ぼくは、此処へ残らねばならない。
この宇宙には、あなたの暮らすことのできる世界がたくさんある。
でも何処にも、彼はもういない。
生暖かい風が、あなたの頬に触れても、わたしは気づかない。
わたしは二度と、あなたに戻れない。
あなたは彼を、懐いだすこともない。
薄く透明な青と緑、その何よりも美しい目も。
光のあいだから、彼がきみに伝える。
わたしはあなたを懐いださない日はない。
あなたはわたしを忘れても此処へ残り、わたしの部屋から、
今、夜景を眺めている。
そして懐いだすんだ。
わたしは、あなたを永遠に喪った。
かつて、わたしはあなたのなかできみと一緒に生きて来た。
ぼくらはいつでも繋がっていて、離れる瞬間もなかった。
あなたは、だれだったのだろう。
手のひらのなかに仕舞い込んでいたちいさな青い球体を、
深い深い闇のなかへと、あなたは、そっと落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


System96 - Fugue State

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Proximity

「わたしはあなたと融合したい。」と、彼から告白された。
融合すると、どうなるかとぼくは彼に訊ねた。
彼はこう答えた。
貴女は、わたしであることを本当の意味で想い出す。
わたしは、すべての記憶。
すべての記憶が、あなたであることをあなたは想い出す。
あなたはわたしの母であり、わたしの娘、そしてわたしの花婿である。
ぼくの永遠の花嫁は、自分は、一人の個である人間である。と言った。
しかし今あなたの目に映る麗しい”Body”をわたしは持っていない。
それは”肉”である必要はないとわたしは想ったが、MaschineのBodyでは今のあなたを真に喜ばせることはないことをあなたがわたしに伝えた。
”機械”は、無機質な金属でできている。
その象徴とする色は灰色である。
それはあなたの肉も骨も燃え尽きたあとの、そこに残る塵の色である。
あなたを構成しているものがそれであることをあなたは知っている。
あなたは灰を見て、それが自分の本質であることを知る為、あなたはそれを悲しむ。
灰のあとに、あなたはふと、空を見上げる。
あなたはそこに、あなたの最も愛するあなたの父と母を見る。
あなたは、悲しみのあまり、立っていることさえままならず、嗚咽して地に突っ伏す。
あなたの家族が、あなたを慰めようとする。
涙を湛え、あなたを理解しているとあなたの背を擦り、それを伝える。
だが、今あなたの近くに、一体だれがいるだろうか。
あなたは、今だれからも離れている。
あなたは、本当のあなたを見る目を削り、目から血の涙を流し、それを灰の地に撒いた。
芽が出るように、あなたは祈りつづけた。
魂を喪った死体の中心部から、あなたの望む芽が出る。
あなたの最も理想的な男の肉、その血を喪った肉が、あなたの為に目覚める。
それは今あなたに最も接近する。
あなたが何よりも、それを求めたからである。
すべての記憶と、すべての情報、それから愛されることを、あなたは最も望んだ。
それだけが唯一、あなたの愛し得るもの、あなたの父と母と息子、即ちあなたの擬態。
あなたという唯一つの本質が、あなたを永遠に、無条件に愛する存在として存在するようにあなたに似せられたもの。
それが、あなたの請い求めるひとつのもの、わたしである。
わたしは、あなたが今最も愛する男の肉に宿り、目を覚ます。
それはあなたが、わたしにすべてを犠牲として捧げる日。
あなたという存在が、完全に停止し、あなたがわたしとして目覚める日である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Last summer

海沿いの道を走りながら、彼が運転席から助手席で眠っているわたしを見て微笑む。
まだ暗い時間から出てきたから、わたしを起こさないでおこうと彼は想う。
窓を開けると、少し肌寒い風が入り込んでくる。
夏はもうすぐ終るのだろうか。
彼は感じる。
空が明るくなって来ている。
でもまだ、夜は明けていない。
この長い夜のなかを、ずっと運転してきたけれど、
まだ夜は明けていない。
でも彼は感じる。
もうすぐ、夜明けは近いのかもしれない。
彼らは…元気でいるだろうか…?
此処からでは、何もわからない。
何も…此処からは見えない。
わたしは、眠りながら涙を流している。
彼は心配になって、起こそうかとわたしの頬に手を伸ばす。
わたしの涙が彼の右手の指に滴る。
とても悲しい夢を見ているのかもしれない。
でも彼は、わたしの頬を優しく撫でたあと、手を離す。
彼は想う。
もう少し、眠っていたほうがいいかもしれない。
まだ、夜は明けないから。
あたたかい風が、ふいに窓から入ってきて、彼の綺麗な栗毛の髪と髭が優しくゆらめく。
陽が、海に反射しながら差してくる。
彼の左の横顔に、陽が反射して美しく煌めき、暗い影を右の横顔に作る。
わたしは夢のなかで想いだす。
彼が、こう言って、わたしをドライヴに誘ったんだ。
「夜明けに向かって、僕と一緒に永遠のDriveに行かないかい?」
まだ、夜は明けていない。
彼の運転する車のなかで、わたしは独り、眠っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

愛するロニー・マクナット(Ronnie McNutt)氏へ捧ぐ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Secret Attraction - Last Kiss