Hotline Miami

※この作品は、暴力シーンやグロテスクな表現が多く含まれています。
この作品はビデオゲーム「ホットライン・マイアミ」の二次創作物として設定、同じ台詞が出てきますが内容は異なります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おい、此処は何処なんだ。俺(俺は女か?男か?それすらも忘れちまったようだ)は何処にいる。
此処は・・・どこかの地下倉庫みたいな場所だ。酷く黴臭い。意味のわからねえヤツが閉じ込められそうな場所だ。
雨の匂いも感じられるが此処は屋内のようだ。
頭痛がずっとしていて、エメラルドグリーンとイエローの点滅が俺のなかでしている。

その時、ドアが開いて鶏が一人なかへ入って来て言った。
「目が覚めたか。おまえは一体何者で、何故こんな処にいるか、わかっているか」
俺は煙草に火を点けながら言った。
「いや、わからねえ。あんたが鶏だってことも俺にはさっぱり、わからねえな」
鶏は側にあった木箱に座って答えた。
「よく見ろ。俺は鶏に見えるか」
俺は頭を掻いてくんくんその爪を嗅ぎながら言った。
「ああ、あんたは鶏だろ?赤い鶏冠(とさか)がチャームポイントになってる」
鶏は木箱の上で右脚を立てて膝を抱えながら答えた。
「オレは鶏の頭のマスクを被っているが、おまえと同じ人間だ。よく見ろ」
俺は項垂れて木の床板を見詰めた。
「そんなことはわかっているつもりだ」
「オレはおまえを知っているし、おまえとオレは前にも会ったことがあるだろう?」
「憶えちゃいねえよ・・・。それになんでさっきからあんたが俺にショットガンを向けているのかも、俺には、わからねえ…」
鶏は携帯の画面を見ながら言った。
「向けていないが、おまえがそう見えるなら、オレは否定しない。それより時間が迫っている。今から5時間以内に、この建物にいる人間を全員殺せ。もしおまえがオレの任務を遂行しないなら、その時は、おまえの命は無いものだと想え」
そう言って鶏は奥にある大きな箱の中からあらゆる形状の銃、ナイフ、日本刀、爆弾、鎌、斧、バット、ゴルフクラブアサルトライフル、ショットガン、サブマシンガンを取り出し床に並べた。
俺は迷わず黒いショットガンを手に取り、鶏に向って言った。
「俺はあんたに会ったことがあるような気がするが、想いだせねえ」
鶏は一つのナイフを手に取り自分の頚動脈に向って突き立てながら答えた。
「制限時間は朝の8時まで。それまでに全員を殺せ。何、おまえに罪はない。おまえを脅迫し、命令したのはオレだからな。勘違いするな。此処は夢のなかだろう?」
そう言い棄て、ぺた、ぺた、ぺた、ぺた、と音を立てながら鶏はこの部屋から出て行き、見えなくなった。
俺は何名いるのか、訊いておけば良かったと後悔したが、もう家鴨を、いや鶏を追って訊きに行くのも億劫で、人を殺すという使命以外、何もしたいと想えなかった。
俺が誰で此処は何処で、俺が愛していたのは誰で、俺が見ていたものは何か?そんなことは、もう何だって、どうだって良かった。
気付けば頭痛も引いて、此処は居心地の良い場所、誰も俺を傷つけず、誰も俺を殺さないが、俺は人を。
ずっしりとしたショットガンを右手にぶら提げ、俺はこの部屋を出た。
身体は軽く、現実味は感じない。まず、歩いていると(此処が外だか中だかわからなかったが)俺は待ち伏せてあった黒いミニバンに乗った。
運転手は、リアルな豚の頭だけの着ぐるみを着た人間。
鼻先を触って確かめてみたが、本物の豚の皮のような触感だった。
豚は俺に番号の書いた紙切れを渡し、「もし助け手がどうしても必要になったらここへ電話しろ。もう一人の、殺し屋を呼んでやる。しかしおまえは、そいつに大きな借りが出来る」と言った。
目が覚めると、俺はPizza Restaurantの透明のドアの前に立っていた。
外から中を覗いてみると、ミリタリーな戦闘服を着て手にはショットガンを持っている奴らが1,2,3,4,5人もいる。
眼鏡をかけて髭を生やした長髪で赤毛の店主らしき人間を銃で脅し、ピザをただで喰らっていた。
俺はまず、窓の外から店主の心臓を撃ち抜き、次には5人の兵士たちの頭を次々に撃って行った。
皆、脳味噌を辺りにぶちまけて、派手な死に様でその血は、ピザソースの色そっくりだったので、俺はその血を手で掬ってテーブルの上にあったピザの上にトッピングして携帯でカメラを撮った。
序(つい)でに、白っぽく黄色っぽくもある脳味噌は丁度チーズのようだったので、それも手で掴んでトッピングしたが、それは携帯のカメラで撮らなかった。
俺はテーブルの上にあったメニューを開いて、VEGANPIZZAを探したが、なかった。
FUCK,そう言って中指を立てて眼鏡のズレを直し、皿の上のピザにショットガンを向けて撃った。
テーブルと床に穴が開いた。
俺は携帯を見て残りあと4時間34分しかないことを知り急いで外へ出た。
待ち伏せてあった黒のミニバンに乗り、運転手を見た。
狼の剥製で作ったような頭だけの着ぐるみを被っている人間が俺にペットボトルの水を差しだし言った。
「よく遣った。おまえは人殺しが慣れているようだなぁ。しかし油断は禁物だぞ。おまえに殺されたい人間など、一人もいない。おまえの中にはいたとしてもな。その水、美味いだろう。此の世で一番高い水だ。何、感謝も憎悪も要らない。逆の立場なら、おまえだって同じ事をしただろう?」

目が覚めると、薄暗いエレベーターのなかにいた。
54階でドアが開き、俺はエレベーターの外へ出た。
黒いバラクラバを被った男に呼ばれ廊下を歩いて着いて行く。
携帯を見ると午前4時32分。まずい、8時まであと三時間半しかない。
案内された部屋へ入ると中には先程のピザ屋の店主が一人とバラクラバを被った人間が俺をここまで連れてきた男含め1,2,3,4,5人、ピザ屋の人間はまた銃で脅され怯えている。
俺はまずピザ屋の人間を撃ち殺し、後に続いて残りの五人の頭も素早く撃ち抜いた。
流れ出た血をまた手で掬ってテーブルの上にあった赤ワインの入ったワイングラスにぽたぽたと垂らし、それを携帯のカメラで撮った。
そして小鉢に飛び散った白い脳味噌を盛り付け、葱を刻んでもみじおろしを載せ、ポン酢を数滴垂らして白子風脳味噌の刺身を作ったがそれを携帯のカメラには収めなかった。
白子ってどう見ても人間の脳味噌じゃねえか、FUCK,と言って中指立てて眼鏡のズレを直し、白子風脳味噌の刺身をショットガンで瞬殺した。
エレベーターで1階まで降りて待ち伏せていた黒のミニバンに飛び乗った。
運転手はタイガーの頭だけの着ぐるみを着た人間だった。
俺は血と体液でぬめついた手で顔を覆い眼を見開いて口を手で押えながら言った。
「12人殺した。あと何人いる?」
タイガーはバッグからほかほかの御絞りを俺に渡して答えた。
「それはおまえ次第だ。オレにはわからない。何故って?言っただろう。此処は、おまえの夢のなかだろう?おまえはあと何人殺せば、任務を全うするんだ?」
「おかしいよ、この世界は。最初のフィールドで殺したはずのピザ屋の男が、さっきもいた。何故だ?」
タイガーは煙草を着ぐるみの中で吸おうとして咳き込みながら答えた。
「おまえにはそう見えるだけだ。おまえの罪悪の念が、おまえに幻影を見せている。兵士にはよくあることだ。おまえはこう信ずるべきだ。おまえに殺されたすべての人間は、皆死ぬべき存在であったのだと。何故か?それはおまえが生きる為だ。他に答えがあるのか?」
「俺が生きる為なら、何人殺しても赦されるのか」
手渡された御絞りを冷めてもじっと見詰めている俺に新しく熱い御絞りを渡してタイガーは言った。
「そうだ。おまえには遣り残したことがあるから、おまえが残している砂金をすべて浚い切るまで。殺しても赦されるっておまえは想っているのか?」
「いや、俺が訊いているんじゃないか」
「ははは、そんなことは、おまえがおまえのなかで、考えろ。ここはおまえの夢のなかだろう?」
俺は手渡されたお絞りが今度は冷めないうちに顔と手をごしごしと拭いてから答えた。
「あんたに、前にも会ったことがある気がするんだが、」

目が覚めると無機質な白い空間に白い上下の作業服とマスクの付いた白い無塵キャップ。
クリーンルームの流れ作業は外の色彩豊かな世界が本当に存在していることを忘れさせてくれる。
つまりこの空間のどこにも在りはしない監視カメラに絶えず監視され続けていることを知るための限りなく人が人であることを忘れさせてくれる空間だ。
もう、たくさんだ。宇宙からの追放。現存在している全宇宙からの追放を待ち望む。
俺はいつもの夜勤を終えて早朝に家に帰った。
シャワーを浴びるのも歯を磨くのも億劫で水を一杯飲むと俺はパイプベッドに横たわり、目を瞑った。

翌朝にベッドの上で目覚め、俺はようやく自分の任務を想いだした。
しまった。俺は携帯を見た。時間は残り3時間19分。
全身白尽くめの作業服に着替えクリーンルームに入る。背中に挿し込んでいたショットガンをおもむろに抜いて白尽くめの作業員たちを片っ端から撃っていく。離れたところから撃っても腸や肉片が吹き飛ぶ。
無機質で白い空間が一気に生々しい生命で彩られた空間に成り変わる。
この部屋にいる人間はすべて撃ったか。俺は血でぬるぬるした白い床を滑らないように慎重に歩いて部屋を見渡し、エアーシャワー(高速ジェットエアーを人や搬入物の表面に直接当てて、付着した塵埃を除塵するための一メートル四方のクリーンルームの出入り口に設置されている装置)の中を確認しようと近づいた。
中に人間がいるのが見えたが様子がおかしい。俺はショットガンを相手に向けながらエアーシャワーの中へ入った。
高速ジェットエアーが撥水加工の作業服に飛び散った返り血を四方の壁に微小の赤い斑点状に一瞬で噴霧させる。
俺は中にいる俯いている人間のこめかみにショットガンを向け引き金を引こうと指に力を入れたとき、相手が見上げ目が合った。
目の部分だけが開いた白い帽子の隙間から見える潤んだ褐色の目が俺に訴えかける、女の目のように見える。
俺は震えて気を失うんじゃないかと想うほどの動悸のなか相手の帽子を乱暴に掴んで取り去った。
ブロンドに染めた長い髪が乱れ相手はまた俺の目を訴えるように見上げた。
木目細かそうなのにぼろぼろに荒れた色白の肌に老けてるのに同時に童顔でおぼこいすっぴんの顔。変に細い首。ガラス玉みたいな丸い目に黒く太い眉毛。乾燥して罅割れた唇の上に生えた産毛……。俺は目の前のどこか異様で矛盾だらけの人間の魅力にとり憑かれ引き金を引くことができなかった。
女か。たぶん女だな、こいつは……。
俺はショットガンを下ろし作業服を脱いで女の着ている作業服も強引に脱がし、紫のワンピース姿の女を35kgの米袋(女は変に軽かった)を肩に担ぐように抱きかかえるとそのままエレベーターで降りて乗ってきた黒のミニバンの助手席に乗せて車を走らせた。
女はずっと助手席で背を丸めて顔を伏せて震えていた。
住んでいる外装も内装もコンクリート打ちっぱなしのアパートに着いて女をまた同じように肩に担いでエレベーターに乗って部屋に入った。
女を廊下で下ろすと女の前で裸になりシャワーを浴びた。
顔に付いた返り血を洗い流すまで息もまともにできない。
シャワーから裸で上がると女はまだ廊下で震えて膝を抱えて座ったままだった。
身体を拭いて女に水でも入れてやるかと想ったが、ふいに限界が来てベッドに倒れ込んでそのまま意識を失った。

目が覚めて、携帯を見た。午後5時48分。一体何時間寝てたんだ。
寝返りを打って我が幻と我が目を疑った。女が静かに寝息を立てて眠っている。
女が俺の隣で寝ているなんて、一体何年振りだろう。覚えちゃいねえ。
俺は女の首に幾つもの赤い大きな腫れ物ができているのを発見した。
それが妙に、俺を欲情させた。堪らずその腫れ物に舌をレロレロと這わすと下腹部の情熱も抑えきれなくなり女の下着を首に舌を這わせながら脱がして触れると生温かい粘液が手に付いた感触がして手を女の股から引き抜いて見た。
俺の手は鮮やかな赤に血濡れていた。失神しかけるほどの貧血になり俺は手の血がシーツに付かないように上げたまま女の寝顔を眉を顰(しか)めて眺めた。
一体、何を考えてるんだ俺は。これ以上情が移ることをすると自滅だ。
この女も、当然俺が殺さなければならない人間のカウントに入れられているはずだ。
多分、逃げられないだろう。俺はこの女を逃がして、生きてはいけない。
懐かしい……。この女が俺の隣にいるこの空間が。
俺は何かを、大事な何かを忘れちまってるんじゃねえか…?


1989年4月3日フロリダ州マイアミ

起きて手を洗い顔も洗って歯を磨いたあと、留守番電話のボタンが点滅していたのでボタンを押した。
「新しいメッセージが1件あります」と音声が聞えた。
「❇ピー❇ パン屋のティムです。ご注文のクッキーですが、もう届いているはずです。
 レシピも入れてあるので、よく確認してください」
俺は廊下に出てドアを開け、共同廊下に置かれた箱を中に入れその中を見た。
中には鶏のマスクと一枚の紙が入ってあり、そこにはこう書かれていた。
「今からすぐにポイントF-32に行け。制限時間まであと1時間半を切っている。Shake it(急げ)失敗は許されない。常におまえを監視している」
俺は急いで着替え、女のあどけない寝顔を一瞥すると鶏の頭を持ってショットガンの入れたバッグを手に持ち、走って車に乗りポイントF-32に向けて車を爆走させた。
昨夜に殺した数は確か十人。女を入れたら十一人だった。
ブリッケル地下鉄駅に着いて、俺は車を降りた。
駅に向う階段を下りて入り口前にいた白い防護服姿の人間に向けて躊躇わずにショットガンをぶっ放した。
しかし急所を外し、相手は倒れながらも呻き声を上げていたのでもう一発心臓に向けて撃った。男は血をげぼっと内臓を吐き出すかのように勢いよく吐き出し、目をかっ開いたまま息絶えた。
男の顔はどこかで見た顔…そうだ、あのピザ屋の店主だ。
俺はよろよろと先へ進もうと歩いたが、耐え切れずに被っていた鶏のマスクを剥ぎ取り跼(せぐくま)ってグレーと黒のチェッカーボード模様のフロアに胃の中のものを吐いた。
ほとんど胃液だった。そういえばいつから俺は食べていないんだ。
あの女が食べられるものが俺の部屋にあればいいが・・・。
生え際から流れて来る脂汗がフロアに落ちる。
そんなことを考えている場合じゃねえ・・・。早くここにいる全員を殺させねえと。
俺は酸っぱい胃液状の唾を吐き捨てよろめきながら起き上がり、正面の先にあるPublic Lavatory(公衆トイレ)のドアを思い切り蹴り飛ばし左側洗面台と鏡の前に立っていた白い防護服の男の腹を撃ち抜いた。
男は即死状態で両手を広げて仰向けに倒れ腹からは腸(はらわた)が飛び出して内容物の糞便も辺りに飛び散っていた。ちかちかとランダムに明滅する切れ掛けの蛍光灯がフラッシュバック的な惨状の映像を作りだしている。
俺は込み上げて来るものを必死に飲み込みながら個室に誰もいないことを確認すると先へ進んだ。
中に誰も、誰もいなかったはずだ。俺はさっき確認したばかりのトイレの個室の一つに、俺が座って煙草を吹かしている姿が一瞬見えた気がしたのを想いだす。
幻覚が見えた?それって、この状況じゃあ・・・正常の証じゃねえか・・・。
さらに階段を下り、駅までの廊下の曲がり角で出会い頭(がしら)に俺に銃を向けようとした白の防護服姿の人間を振り向きざまに約1メートルの距離から心臓を狙って撃った。
心臓を狙ったつもりが顎を貫通させ首から上が吹っ飛び、頭蓋骨は砕け散り頭部の原型は全く留めていなかった。
腹ン中がペパーミントのハーブを吸ったみてえにスースーする。俺は苦い唾を飲み込んで先へと急いだ。
憶えちゃいねえんだよ…いやまったくだ…。俺は気付けば独り言を何やらぶつぶつと呟いていた。
走ってって駅の待合室にいた人間の右斜め後ろからショットガンで思い切り頭部を殴りつけ仰向けに倒れ込んだ男の胸に銃口を当て、今度は外さぬように心臓を撃ち抜いて即死させた。
白い防護服の開いた真っ赤な穴から何かが生れて来ようとしているかのようにぶくぶくと音を立てて血の泉が湧き上がって来た。
変に喉が渇いて近くにあった自動販売機のボタンをすべて拳で連打する。出てこない。一つも。何故だ?ああそうだ、金を入れてなかった・・・。
俺はジーンズの後ろポケットから財布を取りだし吐き気に耐えながら小銭を取ろうとしたら小銭入れを逆さに向けて口を開けた為、中の小銭が全てフロアに散らばった。
咄嗟にマスクの上から口を押さえ背を屈めて小銭を拾おうとしたが小銭がすべてスローモーションでフロアに跳ね返りうまく掴むことすらできない。
俺は膝を付いて這うようにそのコインを掴み取る為に手を必死に伸ばした。
スローで生きているように飛び跳ねるコインの向こうに、何かがぼやけて映り、俺がコインを追っ駆けて這ってようやっとコインが停止しようとして俺の手が掴めそうなそのスロー映像は、コインがちょうど殺した男の見開いた眼のすぐ前で止まった瞬間、停止した。
おかしいな。俺は確かさっきこの男を仰向けの状態で殺したはずだが、何故顔だけ横を向いて死んでいるんだ?
世界が急速に歪んでゆく感覚のなかで俺は起き上がり結局、男の死体の首を撃ち抜いた。
男の首と胴体は切り離され、首はぶっ飛んで行きその目は明後日の方向を凝視していた。
俺は頭を抱え込んだ。何かが確実におかしい……この男は…この男は、最初に殺したピザ屋の店員じゃねえか……?
んぜ、…なぜ…、…ぜ、何度も何度も何度も、何度も、俺の前に現れて来るんだ……?
残りの6人を、気が朦朧とするなかゴルフクラブで頭部を殴りつけて殺し、その後、指示通りに別の場所へ向ってそこの路地裏でバットを手に持って向ってきた一人の浮浪者のような男を顔面をバットで殴って撲殺した。
実際、この男は殺すべき人間だったのかもわからず、俺はまた正常な感覚に戻った途端、嘔吐した。
何の因果か、俺はその男の潰れた顔面の上に嘔吐してしまい、我の因果を呪っても呪い切れなかったが、そうやって絶望する暇も無く、俺はとにかく死にたくは無いということだけがはっきりと自分のなかにあった。
殺されるよりは、殺しても先へ進みたい。その先がどこに繋がっているかということを確かめるまで。
もう少し、簡単に殺せないだろうか、と、俺は想った。
目を瞑ってでも、人を殺せるようになれたなら……?は…はは…は…はは、はァ……はァ…・・・はァ……はァ……ジーザス…………。
取り敢えず、今夜の使命の全員は殺せたはずだ。俺は血でまみれた手を洗面台で洗い流し、ついでにマスクを脱いで洗い、顔を洗って口を濯ぎ、ふと、目の前のミラーを見た。

顔を洗って、口を濯ぎ、目の前のミラーを見た。
随分窶(やつ)れているな……。疲れが酷く、溜まっているようだ。
俺はコンビニの洗面所のドアを開けてレジカウンターにいる男に煙草を注文しようと声をかけた。
すると男は気さくに俺を知っている様子で話し掛けて来た。
「おっ、アンタか。ひさしぶりだな。何かあったんじゃないかって心配してたよ…。彼女があんなことになって落ち込んでたみたいだったしな…。会うのは…あれ以来だよな…」
俺はさっぱりなんのことだかわからず、黙っていた。
すると男はバツの悪そうな顔をしてはにかみ、また話を続けた。
「別の話でもしよう…。今度一緒に、ナイトバーにでも行こうか」
俺は目を逸らして何も返事しなかった。
「……。夜食でも買いに寄ったんだろ?遠慮しなくていい。店のおごりにしとくよ…。会えてよかったよ。ゆっくりしてってくれ」
俺はなんて返事して良いか困り、店員の男の風体をざっと素早く見渡した。派手な眼鏡と身形(みなり)に赤毛の髭と長髪…そういえばどこかで会ったような気が……。
駄目だ、想いだせない……。俺は欲しい煙草を貰い軽く辞儀だけで済ませると適当に帰って食べるものや酒を選んでカートに入れ、負い目を感じながらそのまま外へ出て助手席にカートに入れたものを載せ、車を走らせた。

部屋に戻って真っ先に服も脱がず靴も履いたまま熱いシャワーを浴びて付いた血を洗い流した。そして洗面台でマスク、ジーンズをお湯を溜めて酵素系漂白剤で浸けた。
白のスカジャンは血が凄まじく飛び散っていたが、洗っても血が取れないと想ったのでそのままにした。
頭と顔と身体を適当に洗い裸のままキッチンへ行き冷蔵庫の中からペットボトルの水を出して飲んだ。
そしてふとリビングのほうに物音を感じて振り向くと、見知らぬ女が怯えながらも唖然とした表情で突っ立っていた。
ひいぃっ。と俺は驚愕のあまり声にならぬ声を上げた。
この女は……そうだ、あの夜クリーンルームのエアーシャワーの中に居て、部屋に連れて帰ってきたのか…。
想いだして俺は気まずい想いで黒のジャージの上下を着て、髪の毛が濡れたままでぽたぽた滴が垂れてくるのでフードを被り、顔を逸らして立ち竦んでいる女に声をかけた。
「腹、減ってねえか…?適当に持って帰って来たのがあるから、喰いたければ喰ってくれ」
そう言ってバッグに入れて持って帰ってきた弁当やパスタやパスタソース、菓子やビールやウィスキーなどをダイニングテーブルの上に並べた。


1989年4月8日フロリダ州マイアミ

テーブルの上にはピンクの紙に書かれたニュースレターが置かれてあった。
そこにはこう書かれてあった。
「あなたの登録に心から感謝しています。あなたの登録によってわたしたちの理念によるプロジェクトはもうすぐで成功しそうです。わたしたちは一つの歌です。わたしたちを賛美する”40の祝福”の歌を共に歌いましょう」
ニュースレターなんかに登録した憶えはないが、何かの間違いで送られて来たのだろうか?
俺は弁当を手にとって、温めて喰おうかと想ったが、やめて、ジェノベーゼパスタ(ノンチーズ)を二人分作ることにした。
まず鍋に水と塩を入れて湯を沸かし、そないだ俺はコンロの前で煙草を吸った。女はどうして良いかわからない様子で黙ってダイニングチェアに座ってじっとしていた。
想いだしたくないことが甦りそうになったので苦し紛れに女を振り返って話しかけた。
「俺は…たぶん家にいないときが多いと想うが…好きに使ってくれ。あんたも行く場所なんて、他にないんだろ…?」
女はまるで暴力を奮われた後のワイフ(妻)のようにキッチンのチェアに座ったまま重たい影を背負って俯いていたが、俺を複雑な顔で見上げた後、俺の後ろを指差した。
「え、なに…?」と訊きながら後ろを振り返ると湯が沸騰していた。
パスタを二人前放り込んだ。
こういうときコンロが二つあると便利なんだが…
俺は煙草をテーブルの上の灰皿に押し当て、椅子を引いて座り、女に面と向って言った。
「あんた……一体どこの人間なんだ…?」
女はまた俯いて黙った。
俺はジェノベーゼの瓶を右手で掴んで椅子を引いて立ち上がり、ジェノベーゼを瓶のまま鍋に入れた。そして入れた後に、ジェノベーゼはフレッシュ(生)だから美味いんですやん。と後悔した。
しかし熱いから瓶を掴むことができないし、仕方がないので温めることにした。
そして冷蔵庫の上にある小さなデジタル時計を見て、あと5分で湯から上げようと想い、シンク漕の水切りの上に置いた赤のマルボロボックスをまた一本取り出して吸った。
溜まってくる唾液を何度も飲み、洟を啜って溜まった痰を排水溝に吐いて水を流した。
マルボロとライターを右手で女の目の前に差し出し、「吸うか?」と訊いたが、女はまだ俯いたまま首を横に振った。
叫びたい気持ちが溢れてきて仕方ない。俺はもういいやと想ってパスタを水切りボウルに上げ瓶を取り出そうとしたが、これが熱くて素手では掴めなかった。
手拭用のタオルで瓶を掴み蓋を開け、パスタをボウルに開けてそこへジェノベーゼをぶっかけて混ぜ、それを二つのプレートに分けて入れた。
女の前と自分の席に置いてフォークを引き出しから二つ取り出して女に一つ差し出した。
俯いた顔をやっと上げたと想うと女の顔は涙で濡れていた。
無言でフォークを取り、女は俺より先にパスタを黙々と食べだした。
なんだか何年も前から一緒に住んでるみてえな行動だな…と俺は想ったが、変に気を使われるよりは気が楽でいいとどこかほっとして俺もパスタを喰った。
肌が荒れに荒れた年齢も素性もわからぬ女の顔は汚くて痛々しいものだったが、それでも女がパスタをフォークで巻くこともせず焼きそばを喰うみたいに背を丸めて横から垂れてくるブロンドに染めた髪を押さえながら不味そうにのろのろ喰っている姿を見ていると変に欲情してくるのだった。
俺はズレた眼鏡を中指で持ち上げて直し、眼鏡をかけていたことを今頃になって想いだした。
缶ビールを開けて飲んでいると、女が物欲しそうな目で見てきた。
俺はテーブルの上に並べたビールを顎で指して「飲みたいだけ飲んでくれ」と言った。
女は黙って缶ビールを開け、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
俺は美味そうに酒を飲んでいる女を酔いの回るなか椅子に腰をずらして浅く座る体勢で眺めていた。
「美味いか。そんなに……」そう無意識に女に話しかけていた。
女は初めて、俺を見てこくりと頷いて微笑んだ。
なんだか消え入りそうな、笑顔だな……。

目が覚めると、車の運転席に座っていた。
変な夢を見ていた気がする。
屋内にいる人間をあらゆる武器で次々に殺して行かなくてはならないゲームをしているのだが、そのゲームの何がまず難しいかって、まず行きたい方角へ行くことからあまりにも難しいゲームで、てんで行きたい方角へ行けなくて変な方角を向いてあたふたしていると即刻、殺され、リスタートしなければならない。
しかし段々と慣れて、時間を掛けるなら一つのステージを二時間ほどでクリアすることができるが、当然、俺が殺す回数よりもずっと相手から殺される回数のほうが多い、それは感覚的には、復讐を行い続けているような感覚で、復讐の感覚になってしまうことで、相手を殺しても罪悪感より快感を感じてしまうように仕組まれているような、クリアしたときの達成感は大きいが、その感じる達成感もこのゲームの作者が作り出した巧妙な計画の元にあるのはわかっているし、精神を軽やかにする喜びとは程遠く、まるで自虐めいた自分を罰する喜びと快楽のために行うようなゲームで、俺の自罰のプレイを喜ぶゲーム作者の喜びもまた、自虐的であるに違いない。
例えゲームのなかでも、俺の感覚が自罰である限り、人を殺して行くゲームの業は俺に積み重なって行くだろう。
先程聞いたばかりの留守番電話の内容を想いだそうとした。
ベビーシッターを今すぐ頼む 住所はイースト7番街 言うことを聞かないやつらに、しっかりと言い聞かせてやって欲しい 一度ガツンとやらないと、わからないんだよ 前回と同じ感じで 手際よく、お願いするよ
そう確か言っていたはずだ。
忌々しく、堪え難いものも、いつかは終るはずだ……。
俺はスティグマ(烙印)を自ら着るかのように返り血を浴びたままの白のスカジャンを着ると、イースト7番街へ向けて車を走らせた。
依頼場所のマンション前に着くとまた届いていたフクロウの覆面を被り、時計を見た。
制限時間まで残り1時間13分。
マンションのエントランスを抜けて階段を上がり、廊下の突き当たり前左側のドアを開け、ナイフを手に持ち向ってきた白防護服の男の顔面を思い切り素手で殴ると、男は後頭部を床に打ち付けて顔を両手で押さえ込みながら倒れ、俺は男の持っていたナイフを素早く手に取り馬乗りになって男の頚動脈を深く切り裂いた。
血が細い噴水のように噴出し生温かい血が覆面の目の隙間に飛んで覆面の内側を流れ、相手の血が自分の涙のように口に向って垂れ落ちた。
そのまま通路を行くとキッチンとダイニングスペースがあり、ドアの前の壁でナイフを構えてドアの向こうに歩く足音を聴き取ろうとしたが聴こえない。
一か八かでドアを静かに開け、目の前にいた銃を持った男の胸を数回突き刺した。
硬めの木綿豆腐を突き刺しているくらいの感触に恐怖し、また正常な感覚に戻り胃液が上がってきたが男の持っていたショットガンを奪うとその部屋のもう一つのドアの横で身構え、ドアをまた蹴破って目の前にいたショットガンを持った男に向けてぶっ放し、弾は男の胸の中心部に命中した。
もう一人の右手にいた男にもぶっ放し、狙いを定める隙もなかったので男の右肩にまず弾が当たり右肩が根元から吹っ飛び、続けて後ろに倒れかける男の胸を狙って撃ったが男の左足の付け根に命中して倒れた男は動かなくなった。
最初の男を殺った通路まで戻り右側のドアを開けた瞬間に視界に入った男の胸を目掛けて撃ったが弾は男の左脇腹を掠め、男の撃った弾は俺の右側の開いたドアに貫通し、男の左手にはもう一人の男が俺を狙って銃を構えているのが見えた俺は無我夢中でショットガンのスラッグ弾を乱射した。
スローモーション映像を観ているように、向って左の男の顔面が割れ、右の男の左耳を弾が掠め男は耳を手で抑えて床に蹲った。男が哀れに想い、銃で殴って気絶させてから殺そうと近づくと男は覆面を外し、目を真っ赤にして掠れた声で「頼む……見逃してくれないか…」と俺に訴えた。
赤毛の長髪と伸ばした髭、気の荒いヤクザ顔にも見えれば中古レコード屋の店長を気侭(きまま)にのんびりとやっていそうな寛容さが混然しているようなこの男の顔は……あの最初のピザ屋の店員の顔とそっくりじゃねえか。
男は俺の顔を透り抜けて後ろの壁を見るような目で言った。
「アンタとは…初めて会ったような気がしないんだよ…」
それは恐らく正解かもしれないが、この男はもう既に、意識はあの世に逝っちまってるのかもしれねえ…。俺は耐え切れず男の後ろへ回った瞬間、背中から心臓部目掛けて撃ち抜き、男は上半身を前に倒したあとに激しくバウンドして仰向けに倒れた。
死んだ顔を見ないように目を逸らしながら男の持っていたショットガンに持ち換えると誰も殺す相手はいないことを確認して回り、車を止めていた場所まで走って車に乗った。
変に自分の鼓動がゆっくりになっているような気がして落ち着いて手の汗と血をタオルで拭うと返り血が滴る覆面とジャケットの血を拭いてそれらを助手席に置いていた鞄の中に突っ込み、シートベルトを着けエンジンを掛け、深く息を吸って吐いたあと車を発進させた。
疲労とストレスの限界を余りに超えてしまうとこのように空中遊泳をしているかのような宙に浮いたような肉体と意識の状態になるのだろうか。
ネオンサインが赤や黄色や紫の配色を夜に反射するこの真夜中のドライヴの時間、俺は少しほっとした喪失感のなかにどうしようもない孤独だけがこの狭い空間内部で叫び続けられる慰みであるように感じた。

「やあ、いらっしゃい」
植物100%のピザが午前3時半まで売っている狭くて古いピザ屋に寄ってカウンターの前に行くと赤い帽子を被った店員の男がカウンター越しに俺に妙に気の知れた者みたいに明るく声をかけてきた。
「いや、注文する必要はない、ピザはもう出来上がってるから。なんだか、アンタが来そうな気がしてな…ハハ…」
俺はわけがわからず黙っていると、男は笑ったまま開いた口を閉じて瞬きを数回したあと下唇を軽く噛み締め(歯並びは悪かったがそれでいて神経質そうな歯並びが男に良く合っていた)、息をつきながら話を続けた。
「まあ、とにかく、そういうこった。代金はいらないよ。店のおごりってことで」
緑がかった人情深さとギラつくものを並存させた目に大きな黒縁眼鏡、コシの強そうなウェーブのかかった赤毛の長髪と髭。マリファナを吸いながら接客を遣っていても特に違和感のない闇の深いポリネシアで独自の密教を開祖しようとして失敗に終わりマイアミでピザ屋の店長を遣っているSpiritualist(スピリチュアリスト)みたいな風貌の男……そういえばどこかで会ったような…。
でも想いだせない。このピザ屋も、どこか懐かしい感じがする。想いださないほうがいいだろうから忘れてしまったのだろうが、想いだせない苦しみが想いださない苦しみを超えるとき、きっと容易に想いだして苦しむんだろう。
そうどこか諦めずにはおれない感覚になって、俺は男が焼き上げたピザの箱を無言で受け取り、店を出て帰ろうとして振り向くと右のテーブル席に小さいガキと父親の親子連れが黙々とピザを喰っているのを見た。
もう夜中の2時を過ぎているのに、なんだか深い事情がありそうな親子だなと一瞥し、俺の内に切ない孤独が荒漠と広がり、記憶が戻らないことを恐れる想いと記憶が戻ることを願う想いを抱きながらピザ屋を出て自分の家に向って車を発進させた。

部屋に帰ってシャワーを浴び、ピザをオーブンで温めなおしている間、椅子に座って煙草を吸っていた。
すると向こうの部屋から寝起き眼(まなこ)で女が目をこすりながら歩いてきて俺の前に座った。
昨日よりずっと、この暮らしに溶け込んでいるようだ。まるで何年も前から夫婦だったように…。
「紅茶とコーヒーと、ビールもあるが、何飲む?」と俺は女に訊ねた。
女は黙って立ち上がると、冷蔵庫から缶ビール二つを持ってきて自分のところと俺の前にそれを置いてまた椅子に座った。
俺は妙ににやにやした笑いが止まらず、女の前で口を押さえてビールを見ながら笑いを押し殺した。
一体この女は、誰なんだろう……。
俺はなんの為に連れて帰ってきたんだっけ。理由もわからない。でも女が男だとわかれば俺は間違いなく、殺していただろう。
オーブンが音を立ててピザが温まったので皿に入れて女のまえにも置くと女はピザを眺めていた。
椅子に座ってビールを開けて飲んだあと、「俺がいない間なにしてるんだ」と訊ねたが、女は答えずピザを人差し指でつついていた。どうやら火傷しないほどの熱さかどうか確かめているようだ。
俺はピザを齧って「もう冷めてるよ」と言った。
「部屋にはパソコンもあるし、テレビもあるし、ゲームも本もビデオテープもあるし、ラジオもあるし、スピーカーもある。食べ物も俺は買ってきてやるし、飲み物も、なんか飲みたいもんがあれば言えばいい。ビールは欠かさないように気をつけるよ。精神が不安定なら、薬も買ってきてやる。どこか街へ出たいなら出て行っても構わないが、必ず戻ってきてくれ。昨日は忘れたが、今夜からは金を置いて出て行くから」
女はピザとビール以外頭にないような顔をして食べては飲んでを繰り返し、それなのに俺の顔をふと見つめてコクリと頷いた。
「なんでここにいるんだろう?とか、別に考えなくていい。ここは…そういう世界だから」
そう言ったあと俺はキッチンに立って女に背を向け、ビールをホワイトラムで割って飲んだ。
あのピザ屋の店員もこの女も、何か居た堪れない孤独が底にあるのを感じる。多くを話さないか黙っていて、素性も何もわからねえ。だからといって、何一つ、知りたくなどないが……。
俺に任務を与える存在も何者かがわからないし、あの店員やこの女がもし俺を使わす存在と裏で繋がっているなら、俺は何かを試されているということになる。
「生きていることが楽しいとか、ないよな。俺だって、ないよ。もう…」
女に背を向けてグラスを右手に持ってキッチンに突っ立ったままそう俺は独り言のようにぼそっと気付けば呟いていたが、女の反応は何もなかった。
「何が駄目なのかわかんねえが、何かが駄目なのかな。俺の人生は最初から」
振り返ってピザを頬張っている女の顔を見ながら言ったが、やはり何のリアクションもなかった。


1989年4月16日フロリダ州マイアミ

目が覚めると薬物中毒専門クリニックのトーマスから、”今夜予約をノースウェスト184番街の105号アパートで取っておいた。”と電話の伝言メッセージに入っていた。
トーマスなんて男は知らないからまた殺人の依頼だ。
カウンターの上には”イースト7番街で6体の遺体が発見される”という見出しの新聞記事の切抜きが置いてあった。
警察は薬物の違法取引との関係性を示唆しているようだ。
薬物取引き以前に、薬物なんてやってたんなら、殺されても仕方ねえよな……。まあ何かの中毒になってねえ人間なんて、いないんだろうけどな…。
ドアの外に届いていた豚のマスクを持ってノースウェスト184番街に向けて車を発車させた。
アパート前に車を着け、マスクを被ってナイフと銃を装備して105号室のドアを開けた。
別に薬物なんてやってないんだが、世界がいつも完全に変わる。今から人を殺す段階から。

気が付くと、自宅のアパートの浴室にいる。
さっき白昼夢を見ていた気がする。
浮浪者のような男に、暗い路地裏で殺人の手解きを受けている。
一人目は、足で顔面を蹴り殺し、二人目は、バットで撲殺、三人目は、ショットガンで頭を打ち抜いて殺したはずだ。
殺した人間の顔はよく憶えていない。
でも浮浪者の男は、誰かに似ている気がする。
どこか懐かしい気もしたが、誰かは思い出せない。
浴室のドアを開けると、鶏のマスクを被った男が正面に立っており、俺に話し掛ける。
「お前は、何故、ここにいるんだ」
見渡すと、ここは俺の部屋じゃない。
黴臭くて暗い。地下倉庫みたいな場所だ。
窓が一つもない。それなのにまるでここで誰かが暮らしているようにベッドやソファーやレコードやテーブルがあって、ゴミが散らかっている。
俺は何か答えようとするが、声が出ない。
「お前は取り返しの着かないことを、してしまった」
「それなのに、何一つ、学んでないじゃないか」
「お前は同じ事をいつまで繰り返すつもりだ」
「生きる世界が、どこかに、あるとでも思っているのか」
「お前に」
よく見ると、鶏のマスクを被った男はマスクも着ている服も手に持っているバットも、すべて赤い血を滴らせている。
まるでついさっき、誰かを殺してきた……
誰かを……
誰を…………?
「おまえは なぜ ここに いる」

シンデル…ミタイナ…カオ………、シテル……。
女の声で、目が覚めた。
側に女は、いない。
何か夢を見ていた気がする。
不安で、ならない夢……。何も思い出せない。

ノースウェスト184番街、105号室のドアを開けた。
目の前に立っていた白い武装服の男の顔面を殴りつけ、男の持っていたゴルフクラブで思い切り頭蓋骨を割るイメージをしながら目を瞑って何度も殴りつけた。
目をそっと開けると、男の顔面が骨が砕かれているように歪んで折れた何本もの歯が血溜りの床に落ちていた。
左の部屋のドアが開くと同時に俺は床に手をついて飛び跳ねる形でドアの隙間から顔を出した男の後頭部をゴルフボールを打つ感じで撃つと男が回転しながら後ろに吹っ飛んで仰向けになって倒れ込んだ隙にもう一度後頭部を撃ち付けた。
ゴルフクラブの先が男の頭にめり込み、うまく抜けなかったが無理に引き抜いたので脳味噌がついてきた。
右の廊下の先に気配を感じ、男の持っていたサブマシンガンで廊下から姿を見せた瞬間、闇雲に連射すると男は銃弾の衝撃によって全身を激しく躍らせ後ろに倒れた。
男の右後ろにも人影が見え、また連射をぶっ放したがすべて壁に命中し、男には一撃も当たらなかった。
銃弾が空になり、銃を相手の顔面に投げ付けた。近づくと男は気を失っている。男の持っていたマシンガンで心臓を撃ち抜く。
後ろを振り向く。ウォッシュルーム。銃を構えてドアを蹴り開けると男が便器に向って立小便をしていた。
そしておもむろに振り向いてこう言った。
「なんでよりによって…チンポコ出しているときに、殺されなくちゃなんねえんだ。冗談は…やめてくれ」
俺は男が哀れになり銃口を相手の頭に向けながら「早くしまえ」と言った。
しかし男は突っ立ったままで寂しそうな表情をして頭を横に振りながら言った。
「しまうと、オレを殺すのか」
「おい、前にもどこかで、会ったことがあるだろう。オレたち」
「忘れたのか」
俺は吐き気を感じながら「5秒以内にしまわなければ殺す」と言って「5,4,3,2,…」とカウントを呼んだ。男は慌てて仕舞い込み、俺の前で両手を広げて薄く笑った。
その瞬間、男の胸の中心を撃った。
男は薄く笑ったままの顔で後ろの白い便器に血の跡をずるずると引き摺らせながら倒れた。
赤い捩れたような長髪に髭……怪しげな風貌のこの男は…いったい、俺の何を知ってるっていうんだ。その思い自体が既視感を起こした。
大体、俺はマスクを被っているのに、なんで誰だかわかるんだ。
俺がここに来るって、知ってたのか。
ここに今夜来ることは、俺ですら、知らなかった。
点滅する薄暗い蛍光灯の下で、悪魔が俺に囁く。
もう人を殺すのは、やめにしないか。おまえは人を殺すことはやめて、ただ死ねばいい。
おまえが生きてゆく価値はどれくらいのものなのか。
人を殺していって、生きてゆく先に、何が見えるのか。
それは今観ているものより、最悪なものじゃないか。
悪魔の声が脳内にエコーがかかったように鳴り響き続けるなか、二階へと上がる。
ゴルフクラブを握り緊め、ドアの前に耳をつける。
ドアを思いきり蹴りつけ、狭い部屋のなかで驚いて怯えた顔の男の頭をゴルフクラブで殴りつける。
何度も。何度も。何度も。顔面が割れていることに気付き、死んだことにほっとした。
悪魔の声は、この男の声だったのだろうか。殺した瞬間に、消滅し、これ以上の安堵が、きっと俺は赦されない。
暴力を最も恐れ、暴力を最も憎むやつが、最も酷い暴力を行い、そこにある一番の快楽を知る。
誰かの言っていた言葉を思いだす。
その男は確かこう続けた。
男はそしてこう言う。「おれは好きでこんなことをやっているんじゃない」
汗と混じって返り血が口に垂れてきたのを吐き、死んだ男の持っていたライフル銃を持ってドアを開けた。


14人全員を殺して部屋を出る前に喜びか苛立ちかわからない感情でサブマシンガンをドアの側の壁に投げ付け、部屋を出る。
行き付けの小さなビデオレンタル屋に入る。
レジの前を通ると赤毛のロン毛に髭、黒縁眼鏡をかけてオレンジのニット帽を被っている男に気安く声を掛けられる。

「よお、また会えたな。この前の晩の『虐殺事件』のこと聞いたかい?ロシア人の連中が殺られたとか、だが涙も出ないけどな。ゴム製のマスクをかぶったヘンタイ野郎の仕業らしい。まるでスプラッター映画のワンシーンだよな。そうそう、アンタにピッタリの映画があるんだよ。カウンターの上のだ。料金はいいから持っていってくれ。きっと気に入る。」
男がそうパソコン画面でせわしく打ち込みながら言ったので、ここで言われたビデオを持ち帰らないというのも気まずく、面倒に想って俺は無言で言われたビデオを手にして店を出た。

部屋に戻ってマスクとジャケットをシャワールームで洗い、血を洗い流す。
熱いシャワーを浴びながらさっきの男の話を想いだす。
”この前の晩”って、いつの晩のことだ…?”スプラッター映画のワンシーン”…一体なんでそんな残虐な殺し方をする必要があるんだ。俺は頼まれても絶対にそんな殺し方はしない。大袈裟に報道されているんじゃないのか?
シャワールームを出てキッチンに立ち、頭をタオルで拭きながら赤ワインをグラス一杯一気に飲み干す。
すると髪の毛の先からシンクの上に滴り落ちる水滴が徐々に赤く変わる。
そんなシーンから始まる男の薦めた映画は結局古いなんでもない恋愛映画だった。
それもとんでもなく暗く、静かなモノクロ映画だった。
女はまだソファで寝ている。床の上に寝転がって下から女の寝顔を眺める。
奥の窓はカーテンを閉めたままで光が差してこない。
まだ朝は来ていない。
女が掛けている垂れた毛布の下に入ると不思議と心が落ち着く。
護りたい存在を護る為に人を殺してきたのじゃなかったら…?
夢のなかだろうか。女がそう言ったのか、俺がそう言ったのか、想いだせない。
男の話した”虐殺事件”が、何の為に行なわれたのか。
俺は女と逃げようと想った。
知らない…この愛しい女と。
でも確信できることが一つだけあった。
それは、俺はこの女とだけは、逃げられない。
この女だけ、俺は救えないだろう。


1989年4月25日 フロリダ州マイアミ

目を覚ますと女が部屋のどこにもいなかった。
時間は午後9時を回っている。こんな時間にどこへ行ってるのだろう?
留守電のランプが点滅していて俺は気が焦ってそのボタンを押した。
依頼の電話は独特なトーンがあって第一声でわかる。
「ホットライン・マイアミデートサービスのケイトです。今夜のデートをセッティングしましたのでお報せします。サウスウェスト53番でお相手の方と待ち合わせです。いつも通りオシャレな格好でお願いしますねっ。」
俺は何か嫌な予感がした。
もしかしてあの女が誘拐されたんじゃないだろうな。
俺は気が動転して家を急いで出たのであろうことかマスクを忘れて来てしまい、Uターンして家に戻り、マスクをバッグに詰めてジャケットを羽織ってまた車に乗った。
暑くて車の窓を開けると生温かい潮風が入ってきた。外気温は27度。
まだ5月前なのに今夜は暑いな…空は曇っていて月も星も出ていなかった。
確か4日前が満月で、珍しく女がベランダから月を眺めていたから、その後姿の光景が、俺はとても好きで変に懐かしくて既視感が俺を苦しめた。
閉じ込められているとは、想ってないようだな。
俺はそのことが、とてもホッとしたんだ。
女はあの夜、そこにいるべき存在として、本当にそこにいるように、いてくれてるような…気がした。
女は自分のことを何も話さないし、俺も何も話さない。
外は危険でしかたないからどこかへ連れてってやることもできない。
俺が使命を果たしている間、女はいつもどんな想いでいるのだろう。

朦朧と女のことを想いながら車を走らせていると気付けばサウスウェスト53番ストリートを走っていた。
平屋ばかりの高級住宅地にぽつぽつと二階建ての豪邸が建っている。
待ち合わせ場所はその中でも一番の広い敷地に建つ屋敷のようだ。
一体何の仕事をしていたらこんな豪邸に住みたいと想えるのだろう。人の妬みを買うばかりの…
しかしハイエンドなエリアにしては街灯や照明が少なく暗い。
セキュリティを気にすることは多分、ないだろう…何故なら俺はこの屋敷の主と今夜ここで待ち合わせしているはずだ。
デートのお相手は…さあ誰だろう。
少し手前に車を止めて銃とナイフを装備して、屋敷前に車を着け、豚のマスクを被って降りた。
ヤシの木の並ぶ前庭の通路を突っ切ってドアを開ける。
目の前にいた武装する男の顔面を殴り男の持っていたライフル銃で後頭部を思い切り打ち付ける。
持っていたナイフで倒れた男の頚動脈を切り裂き左に続く廊下に出ると廊下の行き止まりに銃を持った男が突っ立っている。
さっき殺した男のところまで戻って男の履いていた靴を脱がし、その靴を廊下の先に放り投げた。
足音が近づいてくる。男は警戒して銃を構えたまま忍び足で俺の潜んでいる右の壁の奥を覗き見る。
瞬間、男の銃を左手で引っ張ると同時に右手で男の首元にナイフを深く突き刺す。
血飛沫が豚のマスクの表面に跳ね返って男は力なく後ろに倒れ込む。
少しの間俺の顔を見詰め続けて全身を痙攣させ、すぐに動かなくなった。
俺は哀れな男の死体に向かって囁く。「悪いな。今夜此処で、デートの待ち合わせをしているんだ。無事にデートを終える為に、おまえらを殺さなくちゃならねえんだよ。」
今夜はとても静かだ。虫の音が屋敷の中までも聴こえてくる。
最高のデートがどんなデートだかは、知らねえが…
ベージュ色の大理石の床にぽたぽたと返り血が落ちる。
今夜は…本当に静かだ。俺はもう一度小さく囁くと倒れた男の持っていたマシンガンを構え廊下を突っ切り右のドアを蹴破ってぶっ放した。
ようやくセキュリティが作動し、警報機が鳴る。
一人、二人、三人、四人、右の部屋にいた者を撃ち殺した。
元の廊下に出ると何故か警報機が止んだ。
左のドアを蹴破る。広いバスルームの右手にでかい湯張りした浴槽。
湯気が立っていて石鹸のいい香りがしている。
武装した一人の男が銃を構えて振り向いた瞬間に胸を撃った。
男は背中から湯船の中に派手にはまり浴槽の湯が赤くなってゆく。
まるで羊水のように、死んだ男を温めているようだ。
あとの二人の男も、浴槽の前まで追い込み、その前で撃ち殺した。
マシンガンを持って二階に上がり、約3分以内で10人を撃ち殺しせしめた。
ショットガンを手に持って一階に下りると、男たちの死体に囲まれた血だらけのリビングで黒人のゴム製のマスクを被った男が俺に銃を向けながらこう言った。
「おまえの女、上手かったぜ。相当、好い女優になれるよ。ヤクさえ打ちゃ、あっちの世界でのな。へへへ…。」
男の股間を撃つと男は呻いてその場に蹲って倒れ、俺は男の被っているマスクを取った。
赤毛の髪と髭を伸ばした男、どこかで見たような顔だ。
男は涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃになった顔で俺に言った。
「楽にしてやれよ…あの女を…。」
男は目を瞑って静かになった。俺は男の脳天にもう一発撃ち込むと走って廊下の突き当たりのドアを蹴破った。
薄暗い部屋の中、左側のベッドの上に裸体姿で女が手錠で両手と両脚を縛られていた。
ベッドの上には注射器やSMプレイのような道具が転がっている。
俺はショックでちょっとの間そこから動けなかった。
女は黙ってじっと俺を見ていたが、突然嗚咽を漏らして咽び泣き始めた。
そして泣き腫らした目で女は俺にこう言ったのだった。
「もう終らせて欲しい」

終らせる?それはどういうことだ?殺して欲しいと…?そういうことか…?それとも俺が死ねばおまえも終らせられるのか?一体…どうすればこの悪夢のようなゲームを終りに出来るんだ…俺だっておまえを苦しめることを楽しんだりしちゃいないよ。何故こんなことが起きてるんだ?おまえだってわかってないだろう…俺はまだおまえのことを想いだせないが…それでも、愛しているよ…何故だかわかるだろう?何故いま、俺もおまえも泣いているのか…なぜ、涙がこんな止まらないのか、なんでこんなに悲しいのか、なんでおまえをこんな目に合わせなくちゃならなかったのか…なんで誰より大事なはずのおまえを、おまえも殺さなくちゃならないゲームを俺が…始めてしまったのか。でも、もう後戻りはできないよ…俺はもう、数え切れないほどの人間を、殺してきた。たった一人護る為に。たった一人、それはたった一人だったはずだ。このゲームをしなければ、俺は殺されるんだと脅されたんだ。俺は自分が生きたくて、それでこのゲームを遣り始めたんだと、そう想っていた。殺されるよりは、殺すほうがまだいいと想ったんだ。でもそれには条件があって、この世界の、全員を殺さなくちゃならないと言われたんだよ。俺は大丈夫だと想った。誰一人、俺以上に大切な存在はない。そんな存在は現れないと信じていた。でもそれはただ、俺がすべての記憶を喪っていたからだったんだ。何故そう言えるかって?それは今わかったんだよ。今、想いだしたんだ。俺はおまえを護りたかったのに、誰よりおまえを護りたくて、人を殺してきたはずなのに、今気付いたんだよ。一体どういうわけか、俺はおまえも俺も含めた、本当の”全員”を、殺す為に今まで人を殺しまくってきたってことに。俺はおまえを護れなかった。過去のおまえも。そして今のおまえも。未来の、この先、俺のせいでまた死んでしまうおまえも。俺はそれがわかってしまったんだよ。わかってくれ…俺は三度も、おまえを護れなかった、助けられなかったんだ…だからおまえは今そんなに悲しそうに泣いていて、俺に「終らせてくれ」だなんて言ったんだ。でも俺がおまえだったら、きっとこう言うよ。「もう始まらせないでくれ」って。目が覚めれば、俺はいずれまた人を殺しに行く。おまえが側にいなくなっても。終らせるってのは、何もかもが、始まる前に戻るってことだ。俺がおまえを愛する為に生まれてきたっていうなら、俺は生まれる前に戻るしかない。俺が生まれる前、そこには何かが在るのか、誰かは居るのか、わからない。もし本当におまえがそれを望んでるなら、もしかしたら戻れるかもしれない。こうすれば…。
俺は持っていたショットガンを自分の顳顬に当てて女を見詰めた。
すると女は青褪めた顔で静かに眠っていた。
さっきと様子が違う、衣服を着ていて手足を縛られてもいない。
よく見ると、此処は病室で、女が寝ているのは病室のベッドだった。
女の頬に手を触れる。とても冷たい。
死んでいるようだ…。
後ろから声がして振り向く。
鶏のマスクを被った男がそこに突っ立っていた。
「一旦始まらせたものを、終らせることなどできない、どう足掻き、苦しんでも。」

 

1989年7月21日 フロリダ州マイアミ

何者かに撃たれ、俺は気を喪い、目が覚めるとさっきの病室のベッドに寝ていた。
夢の中では、女が例の男に連れ去られ、危ない目に合わされる前に無事に女を救出し、女を車に乗せて家に帰った。
その後少し、誰も殺さない日々を、女と過ごした。
女を抱いたときの最高の幸福の感覚とエクスタシーも、はっきりと想いだせる。
でも何故だろう、同時に酷くつまらない夢だったと感じる。
あんな展開は在り得ない。現実的でない。幸福な夢は。
でも今のこの時も、現実的だと言えるのか。何故、俺は此処にいる?
女が側にいないと酷く不安だ。
「この男の女もあなたたちは助けられなかったじゃないですか。」
誰かがそんなことをこの病室で話していたような気がする。
涙が引切り無しに零れてくる。
女を助ける人間が、俺の女を助けられる人間が、俺以外に、いるはずがないじゃないか…。
いるはずがなかったのに。
俺は女を助けられなかった。
女は俺だけの助けを待っていた。
今、も………
俺は重い身体を起き上がらせて病室を抜けた。
酷い頭痛と眩暈が何度と起きて視界がぐらぐらと揺れ、黄色い西日が通路の窓から射し込み、眩しくて目の前がぼやけて何度も蹲る。
病院という場所は世界で一番暗い場所ではないだろうか。
誰もこんな無機質な場所で死にたいなんて想わないだろう。
俺の親父は最期麻酔を打たれて機械に繋がれ、機械に囲まれた窓もない無機質な白い集中治療室で死んだ。
何故あんな寂しくて冷たい空間で死んでいかなくてはならなかったのだろう…?
早く此処を抜け出よう…
一秒でもこんな場所には長く居たくない。
俺は病院の者に見つからないように青い病衣を着てふらふらと院内を歩きながらやっと出口を見つけ、病院の外へ出て止まってあったタクシーに乗って家へ帰った。
アパートに着くと、自分の部屋のドアの前には黄色いバリケードテープが貼られていた。
テープを剥がし、中に入る。
部屋の中は酷い有様だった。
バスルームの床には血の痕と人の形にチョークで線が描かれている。
俺はじっとそれを見つめて、何故だかわかった。
ここで、あの女は殺された。

どれくらいの時間、此処に突っ立っていたかは記憶にない。
その代わり、想いだせることが次々に甦ってくる。
これからの記憶を、俺は想いだした。
俺は確かこの後、警察署に襲撃しに行ったんだ。
そしてそこにいる警察官全員を殺して、それから…
そう、俺はとうとうマフィアのボスの居場所を付き止めた。
何の抵抗もしない大人しい爺さんで、撃ち殺すのに戸惑って…
ふと、爺さんの前のデスクの上にウィスキーボトルが置かれているのが目に入った。
俺はそれを指差して爺さんに言ったんだ。
「良かったらそれ、ちょっと貰えないか」
爺さんは笑って側にあったグラスに注いで、それを渡した。
俺が一気に飲み干すと、爺さんは身の上話をし始めた。
「わしには可愛い一人娘がいたんだ。でも今から二十年前、娘は何者かに突然命を奪われてしまった。まだ19歳だった。二十年前の春に、娘は幸せそうな顔をして、婚約者をここへ連れてきたことがあってね、でもわしは反対したんだ。何故って、見るからに、わしと同じ血筋であることがわかったからね、男は確か、当時娘より三つ年下のまだ16歳だったから驚いたよ。見た目は30歳近くに見えた。人を何人も、既に殺してきたような目をしていた。いや、それだけじゃない。あの男はまるで生身をどこかに置いてきたように、存在感があまりに希薄で恐ろしかった。あの男ほど、この世界に不似合いな男は見たことがない。わしは男を帰らせた後、娘に言ったんだ。あの男と結婚させるくらいなら、おまえを今ここで殺してやったほうがおまえは幸せだろうと。でもそんな勇気は、わしにはなかったから、拳銃を娘に渡してね、それで言ったんだ。今ここで、自分でけじめをつけなさいと。娘は、過呼吸症状が出るなか、自分の顳顬に銃口を当てて引き金を引こうとしたが、できなかった。それで、部屋に監禁して一端休ませると翌朝早くに娘から電話があって、娘はこう言ったんだ。自分ではできないから、他の人間に遣ってもらうと。わしは誰だと訊いたが答えなかった。わしは娘に言った。そうか。それなら、もう好きにしなさい。ただしわしはもう、おまえがこの世界にはいないと、そう信じるから。もう二度と、関わることをやめてくれるか。娘は頷いて、そしてここを出て行った。その日からたった、一週間後のことだよ。娘はその婚約者の男のアパートのバスルームの床に倒れて、死んでいるのを発見された。何者かに、胸を、撃たれ…一緒に住んでいた婚約者の男は行方不明。警察は何ヶ月も前から、男が世間を騒がしている連続殺人鬼だと睨んでいたが、しかし何一つ証拠を掴めないことで男を野放しにした。わしは何にも警察に対して文句を言わなかったが、彼らは直々にここへ遣って来て、そして土下座して謝ってくれたよ。あの時、何らかの理由をつけて男を拘束しておくべきだったと言って謝罪した。証拠は掴めたのかと訊くと、まったく、変なことを警察は口走った。彼は、あまりに善人であることが、唯一の証拠だと。つまり悪い記憶の全てを、本当に喪っているのだとね。警察はあの男を殺したがっていた。持って来いだろう?記憶を喪っている人間に、すべてはおまえが遣ったんだと思い込ませ、追い詰め、そして連続殺人犯として仕立て上げるには。真相など、誰にもわからない。だが、もし、あの男が犯人だったのなら、解決する。そこに賭けることを、楽しんで遣っている。わしは警察と取引きをした。あの男は、わしから娘を奪い去り、それだけでは飽き足らず、殺したかもしれん男だ。存分に、可愛がってくれと。100億ドルを、彼らに渡してね。安いと言われるかと思ったが、彼らは喜んで引き受けてくれたよ。きみが、今まで殺してきた人間は、全員、わしにとって邪魔な人間だった。死んだ娘の遺体を確認してくれと言われたが、わしは確認をしなかった。たった一週間で、わしは娘の顔をすっかり、忘れていたんだよ。それほど、わし一人で可愛がって育てて来た一人娘が、わしを棄ててあの男のほうを選んだことがショックだったのだろう。ははは。君はやけに、大人しい奴だ。でも勘違いしないでくれ給え。その男が、君であると言っているんじゃない。ただ今際の際に、懺悔させてほしかったんだ。随分、酔っているのかもしれない。きっと楽に死ねるだろう。さあ、撃ちなさい。どこでもいいから、撃ちたいところから、撃ちなさい。」
爺さんはそう言って静かに眼を閉じた。
俺はもう一杯、グラスにウィスキーを注いで飲み干した後、その額に銃口をつけて引き金を引いた。
カチャッとだけ音がして、爺さんは腰掛から落ち、床に倒れ込んだ。
俺は爺さんの頚動脈に手を当てて脈を確認した。脈は感じられなかったし、息もしていなかった。
この銃は、弾切れだった。銃弾がもう一発も残っちゃいなかったんだ。
それなのに何故か爺さんはぽっくりと死んでしまったようだ。
デスクの上には、何種類もの薬が置かれていた。
どうやら爺さんは心臓病か何かだったようだ。心臓発作で、急性ショック死といったところか。
俺はほっとして、銃を投げ捨てた。
これで、もう終わりだ。
このゲームは…終わった。
ふと気付くと、左側にある広い窓の向こうに夜景の灯りが見えた。
窓を開けてバルコニーに出ると生温かい風に触れた。
鶏のマスクを外して床に棄て、煙草に火を点けて深く吸い込んで吐く。
携帯のアラーム音が鳴る。
見ると制限時間のアラームだった。
なんだか懐かしい。制限時間があったことなんて、すっかりと忘れていた。
でもどうやら間に合ったようだ。
手が、血と汗で粘ついている。
震える手で、携帯にメールを打ち込んでゆく。

 

おまえに逢いたいよ。
今、どこにいる?
もう全部終ったから、逢いに行けそうなんだ。
何にも、何、ひとつ、まだ想いだすことはできないようだが、俺はおまえを知っているんだ。
嘘ばっかりだが、この世界っていうのは。俺もおまえも嘘ばっかりだと想うが。
愛している。
逢いたいんだ。おまえのことを知れなくていい。
同じ世界にいるんだろう?
今でも。
離れていると、感じられない。
おまえと俺は、同じ世界にいる。
でも見えないんだよ。
俺が、おまえを殺した俺が、俺を赦せないからだよ。
おまえが見える為に、俺は俺を赦す必要があって、俺は俺を赦す為に、おまえを見る必要がある。
100億年以上かけて、人間は人間と殺し合って来た。信じられないだろう。
いつも、何遍も飽きることなく、同じことを繰り返してきた。
でも見つけたんだ。
此処から抜け出す方法を。
そして俺はおまえを見つけた。
俺は本当に、誰一人殺したくないんだ。
一番に愛するおまえをこの手で殺さなかったなら、永遠に殺し続けただろう。
俺は此処にいるから。
愛するおまえを此処で、ずっと待っているから。
いつか、迎えに来て欲しい。

そう打ったあと、携帯を夜景の中に投げ捨てて目を閉じる。
何も映らない。
何も。
今はまだ。
恋しいばかりで、何も映らなかった。