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ベンジャミンと先生 「二人の秘密」

今日は学校はおやすみ。

ベンジャミンが今朝に起きてマイパソコンを起動させようとすると、なぜかパソコンはプッシュゥという音が鳴りつづけるばかりで、まったく起動しなかった。セーフモードなどあれこれといろんな方法を試してみたが、まったく起動もしなかった。ベンジャミンのパソコンはどうやら壊れてしまったようだ。ベンジャミンはこんなこともあろうとちゃんと外付けハードディスクにバックアップを取っておいてほんとうによかったと胸を撫でおろした。

ベンジャミンはこうとくれば、さっそく、先生の家に向かった。

時間はもう夕方だった。

ベンジャミンは先生の家のドアの前に着くと、そのチャイムをチャリリリリリィンと鳴らした。

すると二回鳴らしても誰も出てこず、三回目を鳴らしてみたとき、ドアの右側の壁にある窓が開いて先生が顔を出した。先生はすこし疲れた顔をしていた。

「ベンジャミン、この鍵で開けて中に入りなさい」

ベンジャミンは先生が居たことにホッとしながら先生から渡された鍵でドアを開けて中に入った。

窓は先生のベッドの近くにあって、ドアを開けるのもしんどいくらいに疲れてるのだろうかとベンジャミンは心配になった。

「先生どうしたの?」

ベンジャミンがベッドに座っている先生に向かって訊くと先生が応えた。

「先生はすこし、二日酔いという因果応報をいま受けている最中なんだよ」

ベンジャミンは「なんだ」と言って笑った。

「心配したじゃないですか。そんなにたくさん飲んだんですか?」

先生はキッチンに向かって水を汲みながら言った。

「それほど飲んだとは思えんのだが、けっこう飲んでしまったようだ。でも二日酔いになるのはほんとうに久しぶりだよ。たぶんあれだな、パンプキンシードだな、かぼちゃの種、これが美味いもんだから先生は我をも忘れて食べながら日本酒をがぶがぶと昨夜は飲んでしまったんだよ」

汲んだ水を飲み干すと先生はまた言った。

「乾燥させたかぼちゃの種は水分を吸い取るだろうからアルコールで脱水症状を起こしているところにさらに水分は奪われたことでエタノールが有機化合物であるアセトアルデヒドに代謝されるその能力が先生のアルコール分解能力を超越してしまってだな、アセトアルデヒドの毒性が二日目にもまだ先生の体内にしぶとくも残りつづけているが為に、先生はこのように、ものすごく胸がむかむかとして気持ちが悪いのだよ」

「二日酔いってそんなに気持ちが悪いものなんですね。ぼくも将来に経験するのかしら」

「まだ今日は全然マシなほうだ。ほんとうにひどいと胃液を吐きつづけて喉が切れて先生は血を吐いたことがある。おまえは経験しないほうがいい。先生の真似をしてお酒を飲むのはやめておきなさい」

「わかりました。できる限り、飲まないように気をつけます」

先生はちいさく口の中だけでゲップをするとソファーに座ってベンジャミンに向かいのソファーに座るように顎で示した。

「今日はどうした、ベンジャミン」

ベンジャミンはソファーに座ると右肩に掛けていた青いバックパックの中に手をつっこみながら応えた。

「先生にお願いがあるんです」

「なんだ。何でも気兼ねなくお願いしなさい。なんだそれは、国家機密文書のコピーが入ったUSBメモリか。それを先生の名前で告発しろというお願いか」

ベンジャミンは笑って言った。

「なんでなんですか。でもぼくの大事な大事な機密がここに入っていることは確かです」

「なんだそれは」

ベンジャミンはまた笑った。

「言っちゃったら機密が機密じゃなくなってしまうじゃないですか」

「おまえが必死にこれまで集めたエロス文書でも入っているのか」

ベンジャミンはまたぞろ笑うと言った。

「エロス文書ってなんですか。先生はそんなものを集めてるんですか?」

「集めてへんよ。なんで先生がエロス文書を集めなくちゃならないんだ。だいたいエロス文書ってどんなものなんだ。さっぱりわからないぞ先生は」

ベンジャミンはまたぞろ笑った。

「先生が言ったんじゃないですか。先生、今日も酔っ払ってるんですね」

「そうだな、猥談を生徒にしかけるなんて普段の先生からは考えられん。先生はもうちょっと、休んだほうがいいかもしれんな」

「そうしたほうがいいです。あっ、先生」

先生が立ち上がると言った。

「なんだ」

「先生、先生のパソコンをぼくに貸してもらえますか?ちょっとこのUSBメモリを入れてしたいことがあるんです」

先生は顎に生えた無精髭をさすりながら応えた。

「それは構わんが、余計なものは見るんじゃないぞ」

「余計なものって、なんですか?」

「余計なものは余計なものだ」

「ταυτολογία(トートロジー)だ」

「よく憶えているなベンジャミン。話を紛らわすんじゃない。ベンジャミン、先生にも一応プライバシーというものがある。それが先生の言う”余計なもの”だ。わかったな」

「つまり、サイト履歴は絶対に見るなってことですか?」

「サイトだけに限らず、すべての閲覧履歴や先生のフォルダの中身とかだな、とにかく先生のプライバシーを覗くんじゃない。いいねベンジャミン」

 「わかりました先生。それは先生にお約束します」

「よし。それじゃ自由に使いなさい」

「ありがとう先生!」

ベンジャミンはソファーから跳ねあがるように立ちあがるとパソコンの置いてあるデスクへと向かって走った。

「ベンジャミン、家の中を走るのはやめなさい。危ないから」

「ごめんなさい先生」とベンジャミンは椅子に座ってさっそく先生のパソコンを立ち上げながら振り返って嬉しそうに言った。

先生はすこしベンジャミンの後姿を眺めるともう一度水を汲んで飲み、ベッドに横たわった。

ベッドからはちょうど大きな柱の陰になってベンジャミンの姿が見えなかった。

 

ベンジャミンは持ってきたUSBメモリをパソコンに差し込むとフォルダをクリックして、その中にある幾つもの図形ファイルをネット上にあるプログラムに取り込んでそこに表れた幾何学模様をひとつひとつちいさく切り抜いては保存していった。

完成したらいちばんに先生に見せようとベンジャミンは思った。

 

気づくと、窓の外はもう夜だった。

先生まだ寝てるのかな。ベンジャミンは椅子から立ち上がろうとしたそのとき、前を開けて着ていたパーカーのファスナーの先の金属部分がキーボードの溝部分に引っかかってキーボードが机から落ちた。

ベンジャミンはキーボードを拾ってデスクの上に置いた瞬間、パソコンの画面を凝視した。

ベンジャミンはとっさに口を手で押さえ、信じがたい思いに駆られた。

画面にはキーボードを落としたときに偶然開いてしまったのだろう一つの先生のフォルダの中身がずらりと並んでいた。

そこには目を疑いたくなる白黒やカラーのものが整然とした様子で敷きつめられていた。

そのすべての画像が、なにであるかはベンジャミンにもすぐにわかった。

そのすべては、”生きている”人ではなかった。

しかしグロテスクなものは一つとしてなく、どれも綺麗な状態のものばかりだった。

ベンジャミンはひどいショックを受けながら先生のもとに走った。

先生はベッドに横たわって本を読んでいた。

「あれ、また走ってきたのかおまえ」

先生はベンジャミンの苦しい心情も知らずにのんきな顔でそう言った。

「先生」

「なんだその顔は。青いじゃないか。どうしたというんだ」

「先生なんで、なんで……」

ベンジャミンは口が震えてうまく言葉が出なかった。

「ここに座りなさい。深呼吸して待っていなさい。先生があったかいハーブティーを入れてやろう」

先生はそう言ってベンジャミンをベッドに座らせるとキッチンへ走って行ってしまった。

ベンジャミンは言われたとおり深呼吸をなんどもしてみた。

それでも苦しみは変わらなかった。

先生が二つのマグカップを持って戻ってくるとひとつをベンジャミンに渡した。

そしてベンジャミンの右隣に座ると深く息をついてこう言った。

「おまえはもしかして、見てしまったのか」

「先生ぼくは見るつもりじゃなかったんです。でもキーボードが落ちた拍子に偶然開いてしまったんです。信じてください先生」

ベンジャミンは泣き声でそうまくし立てた。

「先生はおまえを疑ったことなんて一度もないはずだ。あるかもしれんが、先生のなかでは憶えていない。先生はなんにもおまえを責めないよ。そのハーブティーはレモン入りだ。美味しいだろう」

ベンジャミンは一口飲むと言った。

「ほんとだ、酸っぱくて美味しい」

先生はもう一度深く息を吐くとこう言った。

「そうか、あれを、おまえは観てしまったのか」

ベンジャミンはハーブティーを飲み干すと、すこし落ち着いて先生にはっきりと言った。

「先生なんで、なんで、し、死体の画像なんて集めてるんですか……」

先生はベンジャミンの手からマグカップを取ってエンドテーブルに置くとすこし俯いて言った。

「それは、先生が、先生が……」

「先生はNecrophilia(ネクロフィリア、屍体愛好家)なの?」

先生はマグカップの中に浮かんだレモンを見つめながら生唾をごくりと飲み込むと応えた。

「そう、先生は、たしかに、Necrophiliaだ」

「そうだったんだ……」ベンジャミンは言葉を失った。

「でも先生は、どんな死体でも、興奮するわけじゃない。先生の、母親に似た人の死体しか、先生は興奮できない人間なんだ」

ベンジャミンはそれを聞いて二重のショックを受けた。

「ベンジャミン、ほんとうにすまない。自分の担任の先生がネクロフィリアなんて、笑えない話だな」

ベンジャミンは言葉につまってしまった。

先生がネクロフィリア……先生が死体愛好者……母親に似た死体で興奮する人間……ベンジャミンは信じられない想いだった。

 先生は思いきり喉を鳴らしてハーブティーを飲み干すとマグカップを二つキッチンへ持っていって洗ってからまたベンジャミンの右となりに座った。

 「先生が気持ち悪いだろうベンジャミン。先生も自分が、気持ち悪いよ。どうにかして、この性的嗜好を変えたいと思ってるんだが、つい、観て、してしまうんだ」

「してしまうって、なにをしてしまうんですか?」

ベンジャミンは真っ直ぐに先生の横顔を見つめると言った。

「おまえが毎晩、行なっていることだよ」

「もしかして、マスターベーションのことですか?」

「そうだ」

「先生ぼく毎晩なんてやってないですよ」

「それはすまなかった。それじゃ、どれくらいの頻度でやっているんだ。先生に教えなさい」

ベンジャミンは笑いだして言った。

「なんで教えなくちゃいけないんですか。そんな恥ずかしいこと。先生こそ、いったい週に何度死体を見ながらしてるんですか」

「先生はほんとうに、ほんとうに、昨晩久しぶりにしたんだよ」

「そうだったんですか。もっとしょっちゅうしてるのかと思いました」

「しょっちゅうしてたら、霊的感覚がいちじるしく鈍るだろう。それは先生の仕事に関わることだから、できないんだよ。先生を、しょっちゅうしている人間だとおまえは思っていたのか」

「冗談です。ごめんなさい。悪い冗談でした」

先生はベンジャミンの髪をくしゃくしゃっとして頭を撫でた。

「冗談をもっと言いなさい、ベンジャミン。冗談なくしては、やりきれない話だ。そうだ、カシスソーダがうちにあるぞ、おまえがこないだ美味そうに飲んでるのを見て先生も飲みたくなって買っておいたんだ。アルコールが入っているが、微量だから大丈夫だろう、一緒に飲もうじゃないか」

「先生、ぼくまだ未成年なのに、お酒なんて先生が薦めていいんですか?」

先生は立ち上がってキッチンに向かいながら言った。

「なにも無理に飲む必要はない。おまえが飲みたいなら、一緒に飲もうと言ったんだ」

「勿論飲みたいですよ!」

ベンジャミンはベッドから跳ね上がると先生のそばへ走っていった。

「でも先生二日酔いなのにまた飲んで大丈夫なんですか?」

「こんなもの、ジュースみたいなアルコールだから大したことはないだろう。オレンジの約3倍ものビタミンCを含んでいるカシスを飲めば二日酔いも治るかもしれんしな」

 先生は冷蔵庫に入れておいたカシスリキュールとソーダをグラスに入れてマドラーで混ぜるとベンジャミンに渡した。

「氷は入れないんですか?」

「氷の冷たさは万病のもとだからやめたほうがいい。十分冷えてるから美味いはずだ。さ、ソファーとベッド、どっちに座りたい、それか、立ち飲みにするか」

ベンジャミンはソファーとベッドを見比べると応えた。

「ベッドに座りたいな。ベッドに座って先生と話すのってすごく新鮮だった」

「よし、ではベッドでBed talk(ベッドトーク)をしようじゃないか」

先生の後ろを歩きながらベンジャミンが言った。

「Bed talkってどんなトークですか?」

先生はベッドのシーツを伸ばしてはたくと座ってベンジャミンを見上げて言った。

「眠る前に話したいような、まだ誰も知らない先生の秘密の話だ」

ベンジャミンは静かに先生の左隣に座って先生を見た。

こんなに緊張している先生の顔を見るのは初めてかもしれないとベンジャミンは思った。

先生は立ち上がってエンドテーブルをちょうど二人の座る位置の前に置くとまた座った。

ベンジャミンは先生のグラスにグラスを合わせて「先生のネクロフィリアに乾杯」と言うと、もう一度グラスを合わせ、「先生の秘密に乾杯」と言ってカシスソーダをごくごくと飲んだ。

苦笑を抑えながら喉を鳴らして先生もカシスソーダを飲むと静かな落ち着いた低い声で先生は話しだした。

「先生はなんで、母親に似た死体だけに興奮するのか、先生の心理に隠れている秘密を、いつも知りたいと思っている。その秘密には、かならず先生と、先生の母親の関係が原因としてあるはずだ」

「先生はお母さんの記憶がないんでしょう?」

「うん。先生はみんなにそう言ってきた。でも厳密には、在る」

「どんな記憶ですか?」

「ひとつは確かおまえにも話したことがあったんじゃないかな」

「あ、想いだしました。先生のお母さんが棺に入っている光景の記憶ですよね?」

「そうだ。でもそれは、とても、はっきりとしない記憶なんだ。ほんとうの記憶かどうかもわからない。狭いダイニングの場所に母親が棺の中に入って眠っていて、鼻の穴に白い綿が詰め込まれていた。母親を囲んで母親の友人であるクリスチャンの人たちや家族みんなで嘆き悲しんでいるんだが、先生はちっとも悲しくない。でもみんなが悲しんでいるもんだから、悲しまないとまずいと思って先生は悲しんでいる振りをしているんだ。たった4歳と9ヶ月ほどの先生が。そしてあとで先生の父親から聴いた話では、その日先生は母親の作ってくれた派手な濃い紫色をしたつなぎの服を着たいと泣き喚いて駄々をこねたそうだ。しかし葬式にそんな派手な服は着せられんと先生の願いは聴いてもらえなかった。その紫色の服がクローゼットの前に掛かっているのをぼんやりと見上げているという記憶だ。でもこれは母親が死んだ後の記憶だから、母親の記憶としてカウントされないだろうと思って先生はいつも母親の記憶はないと話してきた」

「もうひとつあるんですか?」

「うん、実はもうひとつ、母親の記憶のようなものがある。この記憶も、ひどく薄っすらとしているから本物かどうかはわからない。先生はまだ赤ちゃんで、狭いベビーベッドに寝かされている。先生は赤ちゃんだから、泣き喚いている。するとそこに何度と先生の母親がやってきて、先生の身体をおもいっきしつねったり、あちこちをしばきまくったりするんだ。ものすごく痛くて、悲しい感覚として憶えている。だから先生は余計泣くんだが、そうすると余計に先生の母親は先生を酷い目に合わす。でもそのときの母親の顔は想いだせない。まるでモネの日傘を差す女や、マグリットの絵のように顔が見えない存在なんだ」

「それはほんとうに先生のお母さんなんですか?ほかの誰かじゃなくて?」

「うん、ちょっとウエスを持ってくる」

そう言うと先生はキッチンへ向かいウエスを一枚持ってきてグラスを持ち上げてエンドテーブルの上の水滴を拭いた。

ふぅ、とちいさく息をついてカシスソーダをごくごくと飲むと先生はまた話しだした。

「たぶんその可能性は、低いはずだと先生は思っている。当時先生の父親は単身赴任していて、家にはいなかったし、その頃に先生と関わっていたのは母親だけだったと父親から聞いている。それに先生自身が、相手を母親だとはっきり認識している感覚としてある記憶だから、まず母親に間違いはないだろう」

先生はベッドに上がって枕元に枕を立たせてそこにもたれて言った。

「このほうが楽だな。おまえも上がってここにもたれるといい」

ベンジャミンは言われたとおりにベッドに上がると同じように枕を立たせてベッドにもたれた。

「腰が楽ですね」

先生はベンジャミンにカシスソーダの入ったグラスを二つ渡してエンドテーブルをもとの位置に戻すとベンジャミンから先生のグラスを受けとり、「ベンジャミンのはそっちのテーブルに置きなさい」と言った。

ベンジャミンは左のテーブルにグラスを置くと足を組んで力を緩めた。

先生は「せっかくだから」と言ってライトの灯りをだいぶ落として暗くした。

そしてベンジャミンにエンドテーブルの上のランプを指差して「それを点けなさい」と言った。

ベンジャミンがランプを点けると先生はほかの灯りをすべて落としてしまった。

「うん、だいぶムードが上がっていい感じになったな」と言うと先生も足を伸ばして組み、手を胸の前で組んで「どこまで話したかな」と言って左にいるベンジャミンを見た。ランプ一つだけの灯りのなかで見る先生の顔はいつも以上に寂しげな顔をしていた。

「ええっと、先生の記憶はお母さんに間違いはないってところです」

「うん。先生のお母さんは、先生をほんとうに虐待していた可能性がある」

「先生はそれを今でも悲しんでいるんですか?」

「いや、先生は悲しくはない。母親の記憶があればきっと悲しいことなんだろうが、先生は母親の記憶がほかにないもんだから、悲しいという感覚でもないんだ。悲しいのは、それらの原因によって、先生が母親に似た死体でないと興奮できない人間になってしまったかもしれないことだ」

「親の虐待や、親の死が原因でネクロフィリアになる人を他にも知ってるんですか?」

「うん、3人くらいは知っている。他にも例えば快楽殺人なんかを起こす人間も幼い頃に虐待や身内の死を経験していることは実際多い。快楽殺人と死体愛好という性的嗜好はけっこう繋がっている場合が多いんだよ。殺すことに快楽は覚えるがその死体には興奮しない人間のほうが珍しい」

ベンジャミンは恐るおそる訊いた。

「先生も……殺人というものに興奮するんですか?」

「いや、先生はこれまで何度と、これも必要な学びだと思ってスナッフフィルムなるものを拝見したことがあるが、殺人には一度も興奮を覚えたことはない。血の気が引くばっかりで、先生の陰茎は悲しいくらいに縮こまってしまう。覚える人間なら、先生なんて仕事、怖くてやってられんだろう、そんな人間は子供という弱者を相手にする仕事なんかは避けるもんだよ」

ベンジャミンは心底ホッとして胸を実際に撫でおろした。

「よかった……」

「親という存在や、親の代わりであったような存在というのはその子供の性的嗜好にものすごく密接に関わってくるものなんだよ。実際に親から虐待を受けいていた子供は暴力的なことを忌み嫌いながらも同時に興奮してしまう人間が多い。先生は暴力的行為というものに興奮を覚えることはないんだが、死体を許可なく勝手に見て、それを見ながら快楽に耽ってしまうこと自体が、とても暴力的なことであると思っている」

「先生、ぼくが見たフォルダの中には、綺麗な死体ばかりの画像がありました。グロテスクな死体にも興奮を覚えるんですか?」

「いや、先生は覚えられない。グロテスクさに美しさを感じることは確かにあるんだけれども、それは先生の性的興奮には繋がらない。先生はもうここ何年と、血の赤い色が苦手になってしまったんだよ」

ベンジャミンは部屋を見渡して言った。

「そういえば先生の部屋って、赤いものがないですね、樹木や土の色とか、緑系が多いですね、とても落ち着きます」

「うん、真っ赤なものを見ると先生は痛みを感じるので、極力避けて赤い物は買わないようにしている」

「先生カシスソーダおかわりしてもいいですか?」

「ベンジャミン、おまえ、顔が赤くなってないか?」

「ランプに照らされてるからですよ。ぼく全然平気です」

「それじゃあと一杯だぞ。先生も汲んでこよう」

そう言うと先生はベンジャミンからグラスを受けとってキッチンへ向かった。

 ベンジャミンは先生がいなくなるとずりずりと腰をずらしてベッドに横になった。

先生が戻ってくるとベッドに上がってベンジャミンのほうのエンドテーブルにグラスを置いた。

ベンジャミンは起き上がってカシスソーダを飲むとまた横になって言った。

「先生このまま先生の話を聴いてもいいですか?」

「構わないさ、どんな体勢で聴いても。いちばん心地の良い体勢で聴いてくれたらいい」

ベンジャミンはとても心地が良かったが、ちょうど目の前に先生の股間のあたりが来ることがすこし気になった。

「先生、先生も横になってくださいよ。まだしんどいんでしょう?仰向けになって話したらどうですか?」

「そうだな。先生もちょっと横になってしまうか」

先生は立てていた枕を下に置いて仰向けになった。

ベンジャミンはこれで先生の股間が目の前に来なくなったと嬉しかった。

「先生はネクロフィリアでいることが、あんまり苦しいものだから、どうにかはっきりとした原因を自分のなかに掴んで、この性的嗜好を変える手立てをいつも、いつでも探しつづけている。だからずっとこのことについて考えているんだが、おまえが傍にいるときだけは、考えないようにしてきた」

「だからぼくの透視力によっても先生が死体ばかり考えていることを読み取れなかったんですね」

「そうだ。おまえの透視力は曖昧で好い加減なものでもあるが、先生はそれでも常に気を使って、絶対におまえの傍では死体について思い巡らさないようにしてきた」

「でも先生、なんで先生の心を読み取ろうとするといつもエロいことばかりが読み取れたんですか?」

先生は笑った。

「それはおまえが、毎日エロいことばっかり考えているから、その心の焦点によって先生に投影し、同じものをとくに読み取っていたんだろう」

「ぼくそんなエロいことばっかり考えてないですよ!」

「ははは、剥きになるところが怪しいな」

「先生ぼくを疑うんですか?」

「いや、疑ってない。先生の冗談だよこれは。おまえはいつでも間に受けてしまうのだから」

「先生の冗談わかりにくいからなぁ……」

「それはすまない。いや実際、先生はおまえといるとき、常にエロいことばかりを浮かべているんだよ」

「なんだやっぱりそうなんじゃないですか。なんでなんですか?」

「でもほかの事だって同じだけ考えているさ。でもおまえが読み取るのが何故かエロいことばかりに偏るのはおまえの焦点の問題だ。まあ冗談でおまえがいつもやってるのはわかっているよ」

ベンジャミンは顔を赤らめて黙りこくった。

先生はベンジャミンをちらと見て笑った。

「ははは。そんなに恥ずかしがることはない。健康的な性的嗜好で喜ばしいことじゃないか。先生がエロいことばかり思い浮かべているのは、普遍的なエロスを想像しつづけることによって先生の性的な好みを変えることができないかと常にこころみているからだ」

ベンジャミンは安心したような自分と先生がかけ離れていることが悲しいような複雑な気持ちになった。

「先生はほんとに、お母さんに似た死体以外ではまったく興奮できないんですか?あれ、でも先生にはかつて愛した女がいるって言ってたじゃないですか。その女の裸を見ても興奮しなかったんですか?」

「うん、その話をちょうどこれからおまえにしようと先生は想っていたんだよ。一人だけ、先生にも例外がいた。それが先生がこの人生でたった一人、愛した女の存在だ。先生が22歳のときに付き合い始めた人だ。彼女は先生よりも16歳上の38歳だった」

「ずいぶん年上なんですね。16歳上ってことは、その人が16歳のときに子供を産んでたら、先生と同じ年の子供がいるじゃないですか」

「そうだな。16歳で子供を産むことはそれほど珍しいことでもない。先生は親の愛情に飢えきった子供であるから、年上の恋人に母親のような愛情を求めることもごく自然なことだ」

先生はふとエンドテーブルを振り返って時計を見た。

「もうこんな時間か。ベンジャミン」

「はい。なんですか?先生」

「おまえ、腹減ってるんじゃないのか」

ベンジャミンはすこし考えるようにして間を置くと言った。

「ほんとだ、先生に言われて初めてお腹がすいていることに気づきました」

「それは真に、喜ばしい限りだな」

「どうしてですか?」

「なぜってそれだけ集中しておまえは先生の話に耳を傾けつづけてくれていたってことだからだよ」

「だって先生の大事な大事な話だもの。好い加減に聴いたら罰が当たってしまいます」

「先生は嬉しいよ、すごく」

先生がそう言ってベンジャミンを見つめるとベンジャミンは照れたように笑った。

「よし、それじゃあ先生がマクロビピザを今から焼いてやろう」

「ピザ?!そんな手の込んだ料理を作ってたら時間がもったいないですよ先生、はやく先生の話の続きが聴きたいのに」

「冷凍ピザだけれども」

二人はどっと一緒に顔を見合して笑いあった。

先生はベッドから立ちあがると言った。

「先生が今から冷凍マクロビピザを焼いて、その焼いているすきに特製サラダを作ってやるから待っていなさい」

「はい。ぼくはおとなしく待っていることにします。とか言って先生、ぼくにもなにか手伝わせてくださいよ」

「なんだおまえは、手伝いたいというのか」

「なにか協力したいです」

「よし、それじゃあ、キャロットをピーラーで剥いてもらうかな」

「やった!ぼくピーラーで剥くのが大好きなんです」

「よし、それでは早いところキッチンへゆくぞ」

先生はキッチンへ向かって走った。

ベンジャミンが後を追って笑って言った。

「先生走ってるじゃないですか」

「ここはしょうがない。今日は、しょうがない。急いでいるからな」

「先生元気になってよかった」

先生はベンジャミンにキャロットとピーラーを渡して言った。

「おまえのおかげだ、ベンジャミン」

先生はサニーレタスを洗ってちぎり、セロリを幼虫の形みたいに斜めに薄く切って、DAIKONを千切りにしだした。

ベンジャミンはキャロットをピーラーで剥きながらふと気になったことを訊いた。

「先生もしかして、先生が菜食になったことと、先生がネクロフィリアであることはなにか関係してるんですか?」

先生はベンジャミンが剥いたキャロットとサニーレタスとセロリとDAIKONを混ぜ合わせ器に盛り付けながら言った。

「なんでそう思う?」

「だって、死体のことを毎日考えていると、肉とかって食べるのつらいだろなと思って……」

「確かにそれはそうだな。でも先生が菜食になったのは30歳の頃だし、あまりそこは関係ないかもしれん。しかし先生はずっと昔から罪悪感を常に意識しながら肉を食べていたから、親の死と肉食の罪悪感は関係している可能性は考えられるな」

「きっと、関係しているとぼくは思います。そう思うと、身近な死を経験することってすごく大事なことに思う」

「うん、そのテーマは先生がずっとおまえと話したいことだ」

そのときオーブンが音を鳴らした。

「お、ピザが焼きあがったようだ。それではこのサラダをベンジャミン、ベッドの上に置いてきてくれるか」

先生はトレイの上に載ったサラダをベンジャミンに渡した。

「え、先生、ベッドで食べるんですか?」

「うん、今日は特別だ。こんな日は、ダイニングテーブルで食べる気がしない。たまにはいいだろう、ベッドで食べるのも」

 ベンジャミンはワオ!という言葉とヒュゥ!という喜びを表す言葉が喜びのあまり同時に出て「ヒュォワ!」と声をあげてサラダを運びに行った。

先生は「ヒュォワ!」ってどういう意味なんだ、またなんか生徒たちの間だけで流行っている意味の解りかねた言葉なんだろうかとピザを切り分けながら思った。

 

先生とベンジャミンはベッドの上で向かいあって胡坐をかき、灯りは落としたままでサラダとピザを食べた。

「こんな経験は先生は恋人ともないぞ、しかもこのオイルが垂れてくるピザを必死に下に落ちないように先生と生徒が向かいあって必死に食べるというのも野生的で粋なもんだな」

ベンジャミンはけらけらと笑って言った。

「先生、”必死に”って二回言った」

先生もベンジャミンの笑いに釣られて笑った。

「おまえ二回言ったらそんなにおもしろいのか、おまえ」

ベンジャミンはまた虫が出た子供のようにけらけらと笑った。

先生はこりゃベンジャミンは完璧酔ってるなと思った。

しかし先生がピザを食べ終えるとベンジャミンはそそくさとトレイをキッチンに持って行き洗いだした。

先生は不思議に思ってキッチンで手を洗うとベンジャミンは先生の手を取ってベッドに向かった。

ベッドに寝転がるとベンジャミンは先生の寝転がる場所をぽんぽんと叩いて言った。

「先生、続き」

「おまえさっきまであんなに笑ってたのにいきなりシリアスな顔がよくできるもんだな」

先生は感心しながらベッドに横たわった。

「漢字で書くと、尻に明日と書いて”尻明日(シリアス)”ですね」

「なんか深い意味があるのか」

「意味は特に、考えつきません」

先生は苦笑して口に左人差し指を曲げて当てた。

「先生の唯一愛した女は先生の16歳上の女だったというところからだな。彼女はどういう人だったかと言うと、一言で言えばとても、子供っぽい人だった。普段は静かで、思慮深い面も持ち合わせていたが、温和な性格とは言いがたく、怒るとなんでもかんでも投げつけてきたり、先生を叩きつけてきたりと手に負えないような人だった。しかし何事にも素直で、あまりに純粋な人だった。見た目は、小動物系だった。童顔の人だったよ。見た目も性格も、すべて、寝ている姿も、ビブラートとオブラートの掛かったようなその優しい声も、全部、母親にそっくりだと先生は思った」

「先生はお母さんの声を憶えてるんですか?」

「いや、先生のお母さんの話し声は先生は聴いたことがないんだが、先生のお母さんはクリスチャンだったから、賛美歌を歌っているテープがうちにあって、それを聴いては、ああお母さんの声ってこんな声だったんだなと先生は知ったんだ」

「ぼくも聴いてみたいな」

「先生の実家はいま先生の兄貴が住んでいて、兄貴とは敬遠になってしまったから、ちょっと手に入れるのが難しいな」

「そうか…残念だな」

「先生も聴いたのは10代の頃だから、また聴いてみたいもんだ」

「先生と彼女は、どうやって知り合ったんですか?」

「とうじ先生は、まだ先生の仕事に就いてなくて、非常にブラブラとしていた。お金がなくなった頃に適当なバイトを見つけてはすぐにやめての繰り返しだった。先生はその時、本屋のレジの店員のバイトをしていた」

「先生がレジ打ちのバイトなんてすごく意外だ。エプロンをつけて打ってたんですか?」

「うん、なんでエプロンなんか着なきゃいけないんだとすべてを憎み倒しながらたくさんポケットがついていてパンダのマークが真ん中に付いた青いエプロンを着ながらレジを打ってたよ」

「パンダ堂書店だ!けっこう大きな書店で働いてたんですね」

「いや、先生の働いていたときはまだチェーン店になってなくてすごくちいさい古本屋みたいな書店だった。実際新刊よりも古本のほうが売れるってんで半数以上は古本を売っていた。そこに、彼女がやってきたんだ」

「新入社員として?」

「いや、客として。彼女は生粋の文学少女で、昔から特にマニアックな本ばかり好んで読んできた人だった。その彼女がいつも先生の働いてるパンダ堂にやってきては本を取り寄せていたんだ。本が届けば彼女の家に先生が電話して、ものの5分かそこらでいつも走ってやってくるほど本が好きな人だった。そんなある日彼女が取り寄せた本が廃刊であることがわかって、手に入れられないことが解った。しかしその本は、先生が持っている本だったんだ」

「なんて本ですか?」

「あれは、サウジアラビア人の作家が書いた”マ・ティミライ・マヤ・ガルチュー”という本だ」

「それはどういう意味なんですか?」

ネパール語で”愛している”という意味だよ」

サウジアラビア人なのにネパール語の題名なんですか?」

「そうだ」

「どういう内容?」

「ほとんど理解に難しい、奇怪な本だった」

「すごい本を先生は持っていたんですね」

「うん、でもその本は先生が買った本じゃなく、先生の恩師から、”要らんからおまえにやる”と言われてもらった本なんだ」

「先生にも恩師がいたのか……」

「先生はものすごく、恩師に感謝した。この本の御蔭で、先生は彼女と知り合えると思ったんだ。先生はもう、彼女を一目見た瞬間から彼女にぞっこんで、それから重苦しい恋煩いに陥るほど彼女が愛おしくてたまらなかった。先生は意を決して、書店から彼女に電話をかけ、こう言ったんだ。”申し訳ありませんがポチェレーヴィン様のお取り寄せして頂いたマ・ティミライ・マヤ・ガルチューという御本は現在廃刊となっておりました。しかし御安心ください。実はその御本はわたくしが持っておりましてですね、是非ともこの御本をポチェレーヴィン様にお譲りしたいと思っている次第でございまして、代金は勿論、必要ございません。なんでかと言いますと、わたくしこの本は明日にでも古本に売ろうと思っていた本でありましてですね、古本でいくらの値段がつくのかと調べてみますと、これが、0円だったわけです。無料だったんですね。ですのでポチェレーヴィン様がわたくしに払う代金も当然、無料となっておりますのでどうぞなんの気兼ねも必要ございませんでして、今すぐにでも取りに来て頂いても構いませんし、もしよければ、わたくしのほうからポチェレーヴィン様のご自宅へ今日のうちに宅配させていただくことも可能でございます。如何いたしましょうか?ポチェレーヴィン様?わたくしめの声は聴こえていますでしょうか?ポチェレーヴィン様、もしもし、もしもし?”と先生がいくら話しかけても電話の向こうはうんともすんとも言ってくれなくって先生が脳内でひとり混乱していると、書店のドアがカランコロンと開いて、息を切らして入ってきたのが、まさしくその、御本人様であるポチェレーヴィン様だったんだ」

先生は一瞬、嬉しそうなどや顔でベンジャミンを一瞥するとカシスソーダを飲んだ。

ベンジャミンもカシスソーダを飲んでくすくすと笑った。

「それで先生は、その場でポチェレーヴィン様に”マ・ティミライ・マヤ・ガルチュー”を渡すと、もうもんのすっごい御礼を先生の手を握り締めて泣きながら言われて、そのとき先生は確信したんだ。嗚呼この人は先生の結婚相手だって。彼女は是非なにか御礼をさせて欲しいと何度も先生に懇願してきた。先生はこの機を逃してなるものかと思ってだな、彼女を店の外に連れ出して言ったんだ。”それじゃどうか自分の恋人に今日からなってください”と。いたく卑怯なやり方だったと思ったのは、かなり後になってからだった」

「それで彼女の反応は?」

「彼女は最初呆気にとられていたが、次の瞬間には耳の先っちょまで真っ赤にして深く俯いたまま無言で先生に”マ・ティミライ・マヤ・ガルチュー”を渡し返したんだ」

「愛してるを愛してるで返したってことですね。ネパール語で……やけに初心(うぶ)な人だったんですね」

「うん、彼女にとっても、先生がほんとうの初めての人だったんだよ。先生はもうその瞬間に彼女を思いきり羽交い絞めにしてそのまま家に引き摺りこんであれやこれやと彼女を愛し尽くしたい欲望が頂点に達し気を失いかけそうな勢いのその欲情を先生は、死体を思い浮かべることで必死に理性で押さえ込んだことをよく憶えている」

「その頃から先生はネクロフィリアだったんですか」

「うん、もう毎日のように、見ては、性的快楽を貪っていた。先生がそれに目覚めたのは、15歳のときなんだ。でも先生は彼女を恋人にすることで、この苦しく悩ましい性的嗜好も絶対治るだろうと信じていた」

「駄目だったんですか?」

ベンジャミンは先生の顔が急に暗くなるのを見た。

「先生は彼女を、たった一度しか、抱くことが叶わなかったんだよ」

「抱くっていうのは、つまり……」

「先生はたった一度しか、彼女との、性交に成功できなかったんだ」

ベンジャミンは必死に笑いをこらえた。

「笑っていいところだ、ベンジャミン、真剣なところだが、笑うことでもしないと、話してられない話だから」

「先生わざと言ってるのか、真剣に言ってるのかがほんとうにわからないです」

「いつものことだろう。笑いたいときは笑いなさい」

そう言うと先生はベンジャミンの目を見つめ、また言った。

「先生はどうしても、彼女との性交に成功したい想いを常に持っていたんだが、運命は残酷さを望み、先生はほんとうにたったの一度しか、彼女との、性交を成功させることが叶わなかった」

ちょっとの沈黙の間をおいて、やっぱりベンジャミンは吹きだしてしまった。

「笑いたいだけ笑いなさいベンジャミン。おまえが笑ってくれるほど、先生は楽になる」

「先生酷いじゃないですか、これじゃぼくは先生を馬鹿にしたくないのに馬鹿にしているようなことになってしまう」

「馬鹿にすればいいんだよベンジャミン、こんな、ふにゃちん先生の事なんか」

ベンジャミンはまた吹きだして笑ってしまった。

「どうして、先生は、性交を成功させられなかったんですか?一度しか」

「それは先生が、ふにゃちん先生だからだ」

「ふにゃちん先生のばか」

「もっと言いなさい」

「ふにゃちんネクロフィリア教師」

「もっとだ」

「ふにゃちんネクロフィリアレプティリアン菜食ばか教師」

「どこからレプティリアンが入ってきたんだ」

「おまけです」

「おまけ付きなのか、先生は。まったく、喜ばしいこと、この上ないことだな、しかしそれを言うなら、ふにゃちんレプティリアン教師というだけでも面白いな」

ベンジャミンは声に出して笑った。

「先生カシスソーダのおかわりを作ってきてください」

「おまえはまだ飲むのか」

「うん、お酒がないと、聴いてられません」

「よし、では先生もおかわりしてしまおう」

先生が立ち上がってグラスを取るとベンジャミンもベッドから起きて廊下のほうへ歩きだした。

「どこへ行くんだ」と先生が呼びかけると「トイレを貸してください先生」とベンジャミンは応えた。

ベンジャミンはいつもトイレを借りるときは「トイレをお借りしてもよいですか先生」と律儀にも言ってくる生徒だったのに言わないということはやはり相当酔ってるのだなと先生は思った。

ベンジャミンがトイレから出てくると「これを持っていきなさい」と言ってグラス二つとお皿にパンプキンシードが入ったものが載ったトレイを渡して先生はトイレに入った。

パンプキンシードのせいで二日酔いになったって言ってたのに、また食べるのかな……とベンジャミンは先生が相当酔ってるかもしれないと思った。

 

先生がすっきりした顔で戻ってくるとベッドに横になり、「美味いだろうこれ」と言いながら枕元に置かれたトレイの上にあるパンプキンシードを口にした。

 「美味しいけど先生、また食べ過ぎたらまた二日酔い、いや、三日酔いになりますよ」

「そうだな、先生はもう食べないからあとはおまえが食べなさい」

ベンジャミンはぽりぽりとかぼちゃの種をつまみながら横になって先生の横顔を眺めた。

「どこまで話したか」

「先生がふにゃちんレプティリアンというところまでです」

「先生は教師でもなくなってしまったのか。ってその前のところはどこだったか」

「先生が一度しか性交に成功できなかったってところです」

「あそうだ、先生はほんとうに、彼女と一度しか、性交に成功できなかった。何度と、数えきれないほど先生は試みたのだが、無理だったんだ」

「先生はEDだったの?」

「勃起障害、勃起不全、確かに先生は、EDだな」

「先生はEDET」

「EDET、言葉に発すると何故かすごいむかついても来るが、省略している分、言いやすくもあるな。先生はいつから地球外生命体になったんだ」

「先生は地球内生命体なんですか」

「おまえはいつから、先生を地球外生命体だと思っていたんだ。ってこんな話をいつまでも話してたら先に進めないぞ」

ベンジャミンはくすくすと笑った。

「クスクスベンジャミン、先生は続きを話すぞ」

「お願いします」

「先生は性交渉以外の行為ではもう普通にそれは…」

「ビンビンだったの?」

「うん」

「ビンビンET」

「なんか急に、如何わしい存在になってしまったな」

「ふにゃちんET」

「突如、温和で慈悲の深そうな存在になったな。おまえだいぶ酔っ払ってるだろう」

「先生だって」

「確かに、先生もちょっと酔っ払ってきてしまってるかもな。まあ今日は特別だ。これをきっかけに、飲んだ暮れの生徒になったらいかんぞ」

「大丈夫です。先生と一緒だから飲んでしまうんです」

「そうだな。先生が悪い。話を戻すと、先生は、何故か、彼女といざ、性交を成功させようともくろむと、決まって先生の下腹部はとたんに元気を失ってしまったんだ。その原因を、先生はどれほど考えたことだろう。彼女の身体には普通に興奮するのに、なぜ繋がろうとすると駄目になってしまうのか。彼女は母親とそっくりだと感じている。近親相姦という人間に備わった禁忌の本能がそうさせるのか、また性交というものは、死を表すものであるから、死への恐怖からなのか」

「なぜ、性交は死なのですか?」

「性交が死である、タナトスとエロスを同一として考えることは、哲学者や文学者の間でも広く言及されていることだが、これは考えるより、感じとるものだよベンジャミン。おまえも経験したら、感じとるものであるはずだ」

「先生はその一回の性交で死を感じとったんですか?」

「先生はほんとうに、貴重な経験をした。何故なら先生は、先生は…」

ベンジャミンは先生の顔が見る見るうちに青ざめていくような気がした。

「先生は彼女を…彼女の存在を、まぎれもない”死”であると信じきって、彼女と交わったんだ。つまり、何故その一回が成功したかというと、先生が彼女をほんとうの死体であると信じきることができたのが一度きりだからなんだ。それ以外では、先生は彼女を死体だと心から信じることができなかった。当然の話だ。彼女は、生きているのだから。でもなんで先生が彼女と母親が似ているということを感じたのかというと、彼女はどこか、死体っぽい人だったからだ」

「目が死んでいる人とか?」

「うん、確かに彼女の目は、だいたいが瞳孔が開きかけている目であったし、その目は、完全に光を失っているように見えることもあった。でもそういった彼女の目に見えるものから先生は死を感じとったわけじゃない。彼女はほんとうはもう既にこの世に存在してないんじゃないかと感じるときが何度もあった。それほど彼女の存在感というものが、非常に透明で、あまりに薄かったんだ。彼女は思慮深い面があると先生はさっき言ったが、と同時に、彼女は無意識に考え事をしつづける癖を持っていた。あるときなんかは、一時間近く先生が彼女の名を呼びつづけてもまったく返事をしないことがあった。彼女は椅子に座って一点をずっと見つめ、その意識がどこか別のところに行ってるのはわかるんだが、咳をしたり、口に手を持って行ったりするんだよ。だから目を開けて寝ているわけでもないと思って先生は心配になってずっと彼女を呼ぶんだが、一向に返事をしてくれない。そして一時間ほど過ぎた頃にようやく、ハッとした顔をして”なにか言った?”って言うんだ。そしていったい何をそんなに深く考えつづけていたのかと訊くと彼女は何を考えていたのかまったく想いだせないけれども、確かにとても深いことを考えていた気がすると、いつも同じことを返すんだ。そういった彼女の部分に先生はとても、魅了されていたんだよ。そういう人であることを先生は彼女と出逢った瞬間に、感じとったんだ。それは先生のなかにも、同じ”死”があるからなのかもしれない」

ベンジャミンはそういえば先生の家に訪ねたとき、先生の目がきまっていつもより暗い色をしていることを想いだした。先生は家にいるとき瞳孔がすこし開いているのだろうか。朝に訪ねても暗い色だから、お酒を飲んで瞳孔が開いているわけではないだろうし、緊張すると瞳孔が開くようだけれども、先生は家にいるほうが緊張してるのだろうか。

 

 「話を戻すと、先生は性交によって死を感じたわけではなく、死を感じられたから性交できたということになる。本物のネクロフィリアとしては珍しくもなんともない話だが、先生はその罪悪感によっても、彼女との交わりを、いっそう困難なものにしたのは確かだと感じている。彼女から死を感じとるほど、先生は興奮して、エクスタシーを感じることのできる存在だったんだ。そして彼女は、ほんとうに鋭い、センシティブな人でもあったから、たぶん先生の秘密を、どこかで感知していた可能性がある。先生は彼女にばれてしまうことをほんとうに恐れた。先生が彼女を愛する理由を、彼女が知るところとなればもう、この関係はかならず終わってしまうことを先生はわかっていた。先生は彼女を失うのが、ほんとうに怖かった。彼女を失うとは、先生にとって、母親を二度目に失うことを意味していたんだ。先生は彼女と、約5年間付き合った。別れは突然、彼女から告げられた。もう耐えていくことができないと。彼女は……先生との子供を切(せつ)に、切に欲しがっていた人だったんだよ。お金もないもんだから、人工授精もできなかったし、それ以前に、先生は彼女のお父さんから、結婚を反対されていたんだ。反対の理由を先生は教えてはもらえなかった。彼女は父親をほんとうに愛する人であったから、駆け落ちで籍を入れることもできなかったがそれは彼女の言い訳で、彼女はその前に先生と結婚することを不安に思っていたはずだ。そして先生も、不安でたまらなかった。酷い言い方だが、彼女と結婚するって事は、先生が、”死体”と結婚するってことだ。彼女の場合、自分を”死体”として愛する夫と夫婦になるってことだ。そんなことは、いくらど変態の先生でも、許すことはできなかった。もっとも先生は、できれば死ぬまで彼女と一緒にいたいと願ったが、その将来は、想像すればあまりにおぞましい将来であることが在り在りと先生には見通すことができた。子供を心から望むのに、子供を生めないこと、先生との交わりもできないこと、彼女はこのさき先生といると、ほんとうの死体となってしまうに違いないと先生は思った。だから彼女から別れを告げられたとき、先生はすんなりと、あっさりと受け容れた。先生自身が、今度はほんとうの死体になってしまったような感覚で。二度目に母親を失うということが、あんまりにも先生にとって、信じがたいことであったので、未だに彼女のことを想っては一滴の涙も流すことができない」

「先生」ベンジャミンはお酒の力でいつもは絶対にできそうにないことをやれる喜びを感じながら、先生の左脇腹のあたりに顔を突っ伏した。

「おまえが代わりに泣いてくれているのか」

「泣いてないよ。先生。嬉しいんだ」

「先生がほんとうの死体になってしまったことがそんなに嬉しいのか」

「うん。先生は死体だ」

「もっと言いなさいベンジャミン」

「先生はふにゃちん死体」

「もっとだ」

「先生はふにゃちんばか死体」

「まだ弱い、もっと強力なものを持ってきなさい」

「先生はふにゃふにゃのちんぽ死体とそのばか」

「変な感じに分離してるんだな」

「先生は死の人と本だ」

「うん、いい感じに分離してきている」

「”人”と本”って書いて、体だよ、知ってた?」

「うん、先生なんだからそれは知っている。漢字は真に面白いなベンジャミン」

「先生は、一本の線の下の”夕ヒ”と”人”と”本”なんだよ」

「そうだな、もう、人間じゃあない」

「違うよ先生、それが人間なんだよ」

「それが人間なのか。今日はおまえが先生で先生はおまえの生徒だな」

「えっへん、ぼくは今日から先生の先生なのだ。神妙にしたまえ」

「うむ、先生は先生であるがゆえに、先生だ。おまえは真に、正しい」

「先生、いまから面白い遊びしようよ」

「どんな遊びだそれは。おまえが猫になって、先生が毛虫になって、先生はおまえの頭のてっぺんに乗っかり、二人で夕ヒに向かうジェットコースターに乗って疲れ果てる。という遊びか」

「うーん、それもすごくいいけれど、今はこの部屋でできる遊びがいいな」

「どんな遊びがいい。おまえをこのまま放置して、先生は眠りこけるという放置プレイか」

「先生それいつもやってる遊びじゃないですか」

「先生はそんな趣味はないぞ」

「それじゃ、どんな趣味があるんですか?」

「それは…死体愛好趣味だ」

「先生、今ぼくを死体に見立てて遊んでみてくださいよ」

「そんなこと、先生ができるか」

「どうしてですか?ただの遊びなんだからいいじゃないですか」

「できない、絶対に、そんな遊びは」

「先生の命令だぞ?聞くんだ。先生」

「だいたいどうやって遊べばいいんだ」

「ぼくを死体に見立てて、先生が興奮する遊びです」

「先生は一応ヘテロだから、無理があるぞ。ベンジャミン。おまえだって歴としたヘテロじゃないのか、女のあれとかこれとか、思い浮かべてばっかりいるじゃないか」

「今は欲求不満な先生のために、忘れてあげるんです。すべてを」

「おまえは酔いすぎだベンジャミン。あれ、もうこんな遅い時間じゃないか。明日は学校なんだから、おまえはもう眠ったほうがよくないか」

「あー?そう言って、ぼくが眠ると先生はぼくを死体に見立てて襲うつもりなんでしょう?すべてお見通しですよ!」

「では先生が襲ってやるから、おまえはもう寝なさい」

「いやだいやだいやだ!」

ベンジャミンの初めて登場する駄々をこねた子供のような人格に先生は目を見張った。

「困ったもんだな。それじゃあほかの遊びなら先生は考えてやってもいい。ほかの遊びを考えなさい」

「うーん、それじゃぁ、あっ、これにしよう」

「どれだ」

「今からぼくと先生は、ひとつの作品を共作するんです」

「どんな作品だ?」

「それは、ぼくという男子生徒と、男性教師である先生が真に愛し合うという作品です!」

ベンジャミンはけたけたと笑った。

「おまえはまた、虫が出たか。どんな風に愛し合うんだ」

「あっ、こうしよう!先生、パソコンの前に座ってください」

「なんだ、何をしようと想ってるんだ」

「先生は今から、小説を書くんです。ぼくと先生が真にもって愛し合うという純文学小説です」

先生は大きく息を吸って吐くと言った。

「なんの刑罰なんだ、これは」

「先生がネクロフィリアであることの刑罰です」

「なるほど、それなら受けないわけにはいかんな先生は」

「その通りです先生。さあ一緒に、パソコンのところへ向かいましょう」

「うむ…」

先生は残っていたカシスソーダを一気に飲み干すと重い腰を上げてパソコンの場所へ行った。

「先生、座ってください」

「うむ」

パソコンが勝手にシャットダウンしていたことにベンジャミンはホッとした。

そしてふと想いだした。

「先生そういえば、小説を書いているって言ってませんでしたか?」

先生はワードを立ち上げると応えた。

「うん、先生はずっと小説を書いているよ」

「読ませてくださいよ!」

「それがまだ、完結しておらんのだよ。だから読ませられない」

「そんな…前に聞いたときって、もう何年も前だったような」

「うん、先生はたった一つの小説を延々とずっと書いている」

「それって、いったいどれくらいの長編なんですか?」

 「そうだな、ざっと、4センチほどの厚さの文庫本にすると今で…」

「何冊分…?」

「だいたい、167冊ほどだろう」

「げ!どんだけ長いんですか、それ、ぼく読むのすごく遅いから、読むだけでものすごく時間がかかるじゃないですか、先生ぼくの生きているうちに書き終えられるんですか」

「いやその前に先生が死ぬだろう」

「そんなことわかりませんよ。ぼくが死ぬまでに絶対に完結させてください。ぼくは先生の小説を絶対読みたいんだから」

「そうだな、先生はがんばるよ」

ベンジャミンは白紙のワード画面を見つめると言った。

「先生、その小説の主人公の一人称は?」

「”わたし”だな」

「主人公は男?」

「うん」

「標準語?」

「そうだな、時に、変になるが」

「よし、それじゃ、書いてください。打ち込んでください。ぼくが最初は考えますから、先生はつづきを書いてください」

「了解でござる」

「わたしは今朝、ひどく奇妙な夢を見た」

 わたしは今朝、ひどく奇妙な夢を見た。

 先生はベンジャミンに言われるがままにそう最初に打ちこんだ。

 「それは、こんな夢である。わたしは、ひとりの教師であり、彼は、ベンジャミンという名の、ひとりの少年であった」

ベンジャミンが先生の座る椅子の背に手を掛けてそう言うと、その言葉を先生はまた打ちこんだ。

  それは、こんな夢である。わたしは、ひとりの教師であり、彼は、ベンジャミンという名の、ひとりの少年であった。

「そのベンジャミンとわたしが、禁断の愛を真に愛し合うという夢である」

先生は苦渋の顔を浮かべながらも真剣に打ちこんでいった。

 そのベンジャミンとわたしが、禁断の愛を真に愛し合うという夢である。

「ベンジャミンは突如、けつを出して先生に向けて言い放った」

 ベンジャミンは突如、けつを出して先生に向けて言い放った。

「ベンジャミンの台詞を先生が書いてください」

先生は口元をさすりながら低く唸った。そして先生の細くて綺麗な指がベンジャミンの台詞を打ち始めた。

「先生、ぼくを、ぼくを、愛してください。おねがいですから。後生ですから」

「先生、音読しながら打ちこんでくださいよ」

「うむ」

「その台詞、音読してください」

先生は声に出してベンジャミンの台詞を読んだ。

「先生、ぼくを、ぼくを、愛してください。おねがいですから。後生(ごしょう)ですから」

「よぉし、先生は聴いてやるぞ。おまえを先生は今から愛そうではないか。お?こんなところに、椅子が在る。すべすべとして、やわらかく、とても心地の良さそうな椅子ではないか。先生は座るぞ」

「よぉし、先生は聴いてやるぞ。おまえを先生は今から愛そうではないか。お?こんなところに、椅子が在る。すべすべとして、やわらかく、とても心地の良さそうな椅子ではないか。先生は座るぞ」

「そう言うと、先生はベンジャミンのけつに、座った。そして言った」

 そう言うと、先生はベンジャミンのけつに、座った。そして言った。

「なんて座り心地の良い椅子だ。先生はおまえを愛するぞ。真の愛によってだな、おまえを愛するよ。先生はな」

「なんて座り心地の良い椅子だ。先生はおまえを愛するぞ。真の愛によってだな、おまえを愛するよ。先生はな」

次、ベンジャミンの台詞です。先生考えてください。

先生がちらと左上のベンジャミンの顔を見上げるとその口元は震え、必死に笑いをこらえているように見えた。先生は、これは我慢大会だなと思い、声を出して笑いだしたいのを必死に抑え、ベンジャミンの台詞を口に曲げた左の親指と人差し指を当てて考えた。

考えつくとそれを朗読しながら打ちこんでいった。

「先生のけつって、あったかいなぁ。ぼくはほんとうに、幸せですよ。先生のけつが、ぼくのけつの上に乗っかっている。ぼくはもうそれだけで、嗚呼何と言うことだろうか、満たされてしまいます。気が、おかしくなりそうです。先生の真の愛を、真に感じます。先生のけつと、ぼくのけつ、これで一体だ、一つの人の本と書いて、一体です」

ベンジャミンは目を瞑って厳しい顔をして腕を組んで体を前後にゆらゆらと揺らしだした。限界がすこし来ているだろう事に先生はこの勝負の勝利の予感を感じた。そしてベンジャミンは目を瞑ったまま先生の台詞を言い始めた。

「おまえのけつはなぁ、真に、なによりも、どの物質よりも、美しいよ。先生の椅子にふさわしいというもんだ。おまえはだから、自信を持って、じぶんのけつを信じろ、いいか、おまえはおまえのけつを信じろ。けつだけを、けつだけを信じろ。先生のいっさいを信じるな。先生はおまえのけつさえあれば、生きていける。おまえは本に、美しい。おまえのけつを失って、先生がどう生きてゆけるというのか、おまえは本当に、それを想いつづけて生きなさい」

 「おまえのけつはなぁ、真に、なによりも、どの物質よりも、美しいよ。先生の椅子にふさわしいというもんだ。おまえはだから、自信を持って、じぶんのけつを信じろ、いいか、おまえはおまえのけつを信じろ。けつだけを、けつだけを信じろ。先生のいっさいを信じるな。先生はおまえのけつさえあれば、生きていける。おまえは本に、美しい。おまえのけつを失って、先生がどう生きてゆけるというのか、おまえは本当に、それを想いつづけて生きなさい」

 「先生、ぼくをもっと、愛してください。足りません。まだまだ、もっと、もっと愛してくださらなければ、ぼくは渇く。先生を、本当に愛しています。ぼくのけつを、降りないでください。先生のけつの重み、これは先生の愛の重みです。ぼくは耐えつづけます。先生のけつがささくれ立つ日には、ぼくのけつが先生のけつでこすられ、このけつを血で染めるでしょうが、ぼくはその血を、その痛みを、良き贈り物として、受け止めます。この、けつで」

「おまえの愛は、本物だよベンジャミン。先生はおまえがいればな、本当に生きていくことができる。おまえを知るまで先生は、本当の死体だった。正真正銘の、死体だった」

「でもそれは人間です。先生」

「そうだな。人間だ。人間であるからこそ、先生は死体だったんだ」

「それじゃ今はなんなんですか?先生」

「おまえを知ってから先生は、人間ではなくなった」

「なんになったんですか?」

「ベンジャミン、先生は、ほんとうはおまえの過去を知っている」

机の上に置かれたベンジャミンの白い手がちいさく震えだした。

「そう、だったん…ですか」

「だからベンジャミン、おまえから、先生に話してほしい」

「先生ぼくは、ぼくは…過去のすべてを……忘れてしまったんです」

「それを先生は知っていたよ。おまえと会ったあの日から。おまえは誰より、先生を慕ってくる生徒だ。先生の教えをいちばんに切実に求めているのがおまえなんだ。先生はおまえを、感じとっていた。おまえはどこか、先生の母親と、似ている気がする」

「先生ぼくは、ぼくは…死体なんですか」

「おまえは人間だ。生きている。ここに」

「それじゃ先生は、ぼくに死を感じとる先生はいったい、何者だというんですか?」

「そんなものはもう決まっている。先生は、おまえと会ったあの日から、おまえの過去になったんだよ。おまえの過去は、先生なんだ。先生は死体でも人間でもなく、おまえの過去だ。おまえの過去として生きることを、先生は決めたんだ。だから先生の知っていることはすべて、おまえがもうすでに、すべて知っていることだ。ベンジャミン、先生はおまえの過去だから、おまえといつでも、いつまでも、漂っていたいよ。おまえは先生の未来なのだから」

ベンジャミンは眼鏡を静かにはずすと、先生の胸に突っ伏して声をあげて子供のように泣いた。