nostalgia

男は洞窟のなかで酒の入ったカップを手に、一人の幼い少女に話し掛ける。
季節は真冬だというのに足は脛まで水に浸かりながら。

聴いてくれ。
一人の愚かな男が、たった一つの救いをそこに見つける。
なんだと想う?
男は見つけたんだ。やっとそれを。
泥沼のなかにね。
男は一人の男を助ける。
彼は泥沼のなかで、苦痛の表情に顔を歪めていた。
今すぐ助けが必要なんだ。
でもこれは命懸けだぞ。
男は自分に問い掛ける。
いいのか。
俺はこれで死ぬかも知れない。
泥沼の底で、息もできなくて男と共に死んでしまうかも知れない。
失敗は許されない。
だが男がそんなことを考えている間に目の前の男は今にも死にそうな顔をしている。
嗚呼、これはまったく、時間がない...
目の前でこの男は、まるで俺を呪うかのように死んでゆこうとしている。
此処で俺が助けなかったら、間違いなくこの男は俺の目の前で死ぬだろう。
そしてそれから俺はどうするだろうか。
想像もできない。
俺はそんなのは堪えられない。
『何故助けなかった?』という呪詛が一秒毎にこの頭蓋の底に鳴り響く日々を死ぬまで生きなくてはならない人生など。
だから俺はこの男を助ける以外に方法はないということだ。
男は笑った。そうと決まれば...
そして泥沼のなかへと足を踏入れ、男を肩に担いで岸辺まで無事に上がってきた。
息も絶え絶えさ。
二人の男は岸辺に倒れ込み、暗がりのなかに身動き一つしなかった。
夜が明けようとする頃、一人の男が言った。
何の真似だ?
男は怒りに打ち震え、涙を流しながら言った。
俺はお前を助けようとしたんだぞ。
命懸けで。
なのにお前は...お前は...

一人の男はそこから立ち上がると男を置いて暗がりに見えなくなった。
残された男は美しい一羽の白い鳩の姿となり、天に向かって飛び去った。
彼は天のみ使いだったんだ。
男はそしてまた泥沼に舞い戻ってきた。
泥沼のみなもから、いつものように地上を眺め続ける。
今度こそ、今度こそ、必ず、俺は人を助ける。
命を棄てて...
だが男を助けようとする者は天使ばかりだった。
男はだれひとり救えず、独りでこの沼底で死ぬんだ。
天使以外の誰も、この男の死を悲しまなかった。
ずっと泥沼のなかで暮らしてきたからさ。
誰も知らなかったんだ。
この男の存在を。
この男は死んだあとも今でもずっと夢を見ている。
自分の魂を捨ててでも、人を救う夢を。
自分を救おうとする者が、自分が救う者であるのだと今も決して疑わない。
でも天使は知っている。
この男を命を懸けてでも救おうとする者は、既に救われているのだと。
彼はだれひとり救えない。
一人の男が今夜も、この真っ暗な沼底を眺めている。
そして呟く。
必ず、お前を救ってやるから、待ってろ。
そうさお前の為ならこの魂だって、惜しくない。
二人の男はそうして見つめあっている。
誰もが、自分を犠牲にしてでも見知らぬ相手を本当に助けようとする瞬間、白い鳩となって羽ばたく。
終末が見えるんだ。
すべてが白い鳩となって羽ばたいてゆく。

天から降ってきた一つの羽毛の羽根を一人の男が拾い、それをコートのポケットに入れる。
男は死が近い。
だから今こうして、男は母親に向かってこんな話をしているんだ。
なんだかとりとめもない話だとは想わないかい?

男はそう言うと、悲しげな顔で微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

アンドレイ・タルコフスキー監督の「ノスタルジア」に寄せて。