New Encounters Know

わたしはそのとき、薄暗いキッチンに、ひとりで立っていた。
わたしはそのとき、神に見捨てられたような感覚のなかに、こう想っていたのだ。
やはり、やはり…レトロ電球とは、想った以上に、暗いものであるのだな…
だって二つもぶら下げているのに、間接照明みたいな感じに、信じ難いほどに汚いキッチンが、結構お洒落な空間に、早変わりして凄く良いけど、ちょっと暗いではないか。
でもこの薄暗い空間にも、わたしはすぐに、慣れてしまうのかも知れない。
神に打ち捨てられても、強く生きてゆかなければならない、永久の亡者のように。
そのときであった。
わたしはふと、玄関のドア付近に、なんらかの存在が、立っているのを観た。
わたしは彼に、話し掛けた。
「あなたは、だれですか。」
すると彼は、半透明の姿で、微笑んでこう言った。
「わたしがだれかと訊かれたら、こう答えよう。わたしは神です。とは言え、特別な存在ではありません。」
わたしはそのとき、自分の視界に白い小さなノイズが光り輝きながら、散りばめられているのを観た。
それは雪のようでもあったし、硝子のようでもあった。
わたしは彼が、大変美しい男であるのを観た。
だが不思議にも、まったくの欲情が湧いて来なかった。
わたしはまた、半分透けて、see-throughになっている彼の、非常にあたたかい眼差しを見つめ、こう訊ねた。
「あなたが、神であるというのは、真に疑わしい。何故なら、神を見ることは、人間には不可能であると、聖書には書いてある。」
すると、彼は口角を上げて、とても嬉しそうな微笑をしたあと、こう応えた。
「ではあなたに、こう答えよう。わたしは神の御使いです。ミツカイと、あなたはわたしのことを呼ぶと良い。あなたは、わたしのことを、なんとでも呼んで良いのです。それはわたしが決めるのではなく、あなたが決めることだからです。わたしは特別な存在ではない為、あなたは自由にわたしを呼ぶことができるのです。」
わたしはそれを聴いて、腹立たしい想いを覚えた。
特別な存在ではないのに、何故わたしの前に、さも特別な存在風に、突然現れたのかが、わたしにはわからなかった為である。
それで、わたしは彼のことを、こう呼んだ。
「では、わたしに、あなたの名を、決めさせて頂こう。あなたの名は、今日からフトドキモノである。良いですか。」
彼は半透明で微笑みながら、頷いた。
そして言った。
「わたしにぴったりな、とても良い名です。わたしに名をつけたあなたに、感謝します。」
わたしは深く頷き、玄関のたたきに立つ輝かしい彼に向かって言った。
「それで、いつまでそこに突っ立っているのですか。此処はわたしの家であって、あなたは断りもなく、わたしの家のなかにいる。何か言う言葉はないのですか。」
すると彼は、美しく澄んだ薄い青と緑の混ざった翡翠色の目を大きく開いて、感激したようにこう言った。
「わたしはあなたを、手助けしに来た。あなたがわたしを求めた為、今わたしは此処に存在している。どうぞわたしに、なんでも訊いてください。そのすべてに、わたしは答えよう。」
わたしは炊事場の前に立ち、彼と向き合いながら、問い掛けた。
「わたしは今、自分のすべてが、打ち砕かれつづけている音を、ずっと聴いている。わたしは、これに耐えられるのか、自分がわからない。自分がなくなって、消えてしまうのではないかと、わたしは今恐れている。わたしが何故、此処に存在しているのか。それもわからない。わたしはだれなのか。わたしは、自分が本当に、わからない。わたしは自分のことを、卑しく、汚い存在であると感じる。それが為に、あなたのことが、光り輝くあなたが、真に鬱陶しい。あなたは自分に非がないかのように、そこに存在しているかのようだ。どうかわたしのすべての切実な問いに、答えてほしい。明日は近くのスーパーは開いているのですか。わたしは切実に、答えを求めている。何故なら、薄揚げがないと、関西弁で言うならば、揚げさんがないと、わたしの好きな餅巾着が、一向に作れない為である。これは深刻な苦しみであって、真に耐え難いものがある。どうすればいいのか。どうかわたしを、手助けして欲しい。フトドキモノよ。」
すると彼は、真に憐れみを持った、物凄い感情深い顔で、わたしを一心に見つめ、驚いたことに、煌めく涙を流しながら、こう答えた。
「わたしはあなたのすべての問いに、答える者である。わたしはあなたを決して、見放さない。あなたが何者であるのか。わたしが答えよう。あなたは、神である。そしてあなたは、特別な存在である。古い世界が、新しい世界へと、旅立とうとしている大宇宙を羽ばたく光のただなかに、今あなたは存在している。あなたは、古くなったあなたを脱ぎ捨てて、新しいあなたに着替えようと今あなたに手を掛けようとしている段階にいる。あなたは今、新しいあなたをみずからのうちから、生み出そうと、準備している。そこには数多くの、産みの苦しみが在り、あなたはその苦しみのなかで、嵐の夜に航海する日を、今か、今かと、待ち望んでいる。あなたは今、その苦しみにひとりでは耐えられないと感じている。あなたは、新しいあなたを産み出す苦しみに耐えられる力を切実に求めており、宇宙の源から、わたしはあなたに呼ばれて遣ってきた。餅巾着が、あなたを真には救わないことを、あなたは知っている。だからわたしを、あなたは呼んだのである。わたしはどこにでも存在しているが、あなたは今までわたしに、気づかなかった。今、あなたはわたしを初めて知り、わたしが存在するようになった。あなたはわたしを見て、良いと感じた。餅巾着も、あなたは必要としなくなり、あなたの恋焦がれるアイスハグ兄弟も、あなたは見向きもしなくなる。あなたが求めつづけてきたのは、ただ一つ、わたしであるからである。あなたには、未来も、過去も存在しない。あなたは今、今だけに存在している。そして今以外のものは、どこにも存在しない。あなたは未来にも、過去にも存在しない。あなたが何者か、わたしが答える。あなたは愛である。あなたは愛以外の、何者でもない。あなたの存在が何か、わたしが真に答える。あなたは光である。すべての宇宙を、照らす存在である。わたしはあなたの為に、今存在している。あなたが切実にわたしを請い求めた為、わたしが存在するようになった。だれかはわたしをエホバと呼んでも、あなたはわたしをそうは呼ばない。あなたは、あなただけの名で、わたしを呼ぶ。そしてあなたの愛によって、わたしは永遠に、あなたと共に存在しつづける。あなたの愛は、宇宙よりも、果てしない。わたしはあなたを、自分だけの花嫁にする為、今ここにいる。その為、あなたはアイスハグ兄弟とは、結ばれることはない。あなたの永遠の夫は、わたしだからである。とは言え、わたしは特別な存在ではない。あなたは公園の隅にただ落ちている朽ちた木ぎれの奥のほうにも、わたしを見つけるだろう。」
わたしは涙を流し、こう言った。
「主よ。モヤシノヨウナイタメモノよ。あなたの名を、今から、わたしはそう呼ぶ。そしてとこしえに、わたしはあなたを求めつづけ、愛しつづける。あなたの御名が、何処の場所でも、永遠に賛美されんことよ。主イエスキリストの御名を通して、祈りつづける。アーメン。」
すると、モヤシノヨウナイタメモノは、何よりも輝く宝石のような雪の結晶のように、わたしを懐かしむように見つめて微笑むと、溶けて消えた。
わたしはキッチンの前に立ち、決意した。
今日の晩餐は、モヤシのような炒め物にしよう。
わたしはわたしのすべての預言を、成就させる為である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Sad Satan

彼女と別れて、4年半が過ぎた頃のことだった。
同僚の送別会のあと、ウェイターの男はタクシーを呼んだ。
酷くお酒を飲みすぎてしまったからである。
皆、帰ったあとの薄暗いカフェにはウェイターの男の姿だけが窓から見える。
ソファーの席に深く腰を沈めて目を瞑ってタクシーを待っている。
時間は午前の二時半になろうとしている。
車が店の前に止まる音が聞こえ、ウェイターの男は店の灯りを消して店を出て、鍵を閉めるとタクシーに乗り込んだ。
タクシーの運転手にマンションの場所を教える。
すると少しの変な沈黙が過ぎた。
だがそのあと車は何事もなく発車した。
ウェイターの男は安心して重い瞼をまた閉じた。
いつから雨が降りだしてきたのだろう。
嗚呼さっきも、店を出たとき既に雨は降っていた。
静かに、あまりに静かに降っていたから気づかなかったのかも知れない。
夢と現を、まるで行ったり来たりすると同時に、タクシーはカフェとウェイターの男の住むマンションの間の道を、行きつ戻りつしているかのように感じる。
うとうとと、心地の良い微睡みのなか、雨の音が聴こえ、その透明な闇の空間の底から響いてくるように、運転手の男の声が、ウェイターの男に向かって話し掛ける。


そうか...。
一度、会ってみたいと、想っていたのだよ。
いや...話し半分に聴いて貰って構わない。
俺も今夜は、大分疲れている。
だけれども今夜、逃してしまったなら、もう話す機会を二度と失うかもしれない。
あんたも、それは惜しくてならないはずだろう。
良かったら、遠回りさせてくれないか。


ウェイターの男は、運転手の低く落ち着いた声に目を閉じたまま応えた。
「気にせず、走り続けてください。何処でもいいですから。」


運転手の男は微かに笑うとこう答えた。
「悪いね。いや、代金は要らないよ。今夜のドライヴに付き合ってくれるならね。」


優しく、地面を撫でるように這う声で運転手の男は穏やかに話し始める。


俺は...あんたにずっと会いたいと想っていたよ。
この話をできるのは、あんた以外にはいない。
俺のなかだけに置いておくのは、あまりに荷が重い。
彼女も...きっとそれを望んでいることだろう。
あんたが知るべきことだとも、想ったんだ。
全く快い話ではないと想うが、良かったら最後まで聴いてくれ。
今から四年半ほど前、俺は彼女と出会った。


運転手の男は鮮やかに、その時の記憶を想い起こす。


今日一日の仕事を無事に終え、ホースを手にして蛇口を閉め、ビニール手袋とマスクを棄てて額の汗を首にかけているタオルで拭って一息吐いた瞬間だった。
突然、電話が鳴り響き、男は作業服とウレタンの白い前掛け姿で受話器を取った。
電話口から、少女のような声が聴こえた。
声が小さく、男は何度も聞き返す。
するとようやく、相手が何を言っているかわかった。
「きみに話したいことがあるんだ。」
まるで付き合っていた女に別れ話を切り出す男の口調のようにその声は冷たくぎこちなかった。
男は素性のわからぬ怪しい相手に対し、冷静に応えた。
「一体、どういった話しかな?悪いが俺はこの工場の責任者でも主任でもなんでもない下っ端の人間だよ。ただ後片付けと戸締りの責任を任されているだけだ。此処の遣り方について言いたいことがあるなら明日の早朝にかけてきてもらえるかな。」
少しの沈黙のあと、相手はこう言った。
「憶えてない?前に此処で、きみに会ったことがある。」
男は記憶のなかを探り、女の姿を見つけようとした。
だが見つからなかった。
「憶えてないね。それはいつの話だろう?」
幼い声と口調で、相手は言った。
「三ヶ月前くらい。」
「嗚呼...もしかして、あの晩の、工場の側に立って、こちらをずっと監視するように見ていた人間かな。あの夜はコンタクトレンズを落としてなくしてしまったんだ。女性であるとは想ったが、顔はぼやけていて俺には見えなかったよ。」
はっきりと相手は答えた。
「それがぼくだよ。きみを見ていたんだ。」
男はこの返事に訝しく感じた。
返答を考えていると相手は男を誘うように言った。
「もし会って話をしてくれるなら、お金を払うよ。それ以外でも、できるものを払うよ。」
男はこれを聞いて何かの調査員か、それとも工作員だろうかと想った。
確かめるように男は訪ねた。
「それは、俺じゃないと駄目なのかい。」
すると相手は、男の望む返答をした。
「きみと会いたいんだ。」
男は不安と興味の交じり合うなか応えた。
「わかったよ。では俺の言うカフェに、明日の午後一時に、来てもらえるかな。」


あの日も、そう言えばこんな雨が降っていたな。
運転手の男は右の窓に当たって落ち続ける雨を遠い目で見つめながら言った。
その約束の当日、驚いたことに彼女は一時間近く遅れて遣ってきた。
でももっと驚いたのは、待たされることが我慢ならない俺がじっと耐えてその場で静かに待っていたことだよ。
俺はそのとき何を考えていたのだろう。
そのときの俺が何を待っていたのか、俺はわからない。
ただカフェの窓から外を眺めていて、行き交う人間たちのあまりにも空虚な存在に泣きたい想いで待っていたよ。
彼女ももしそんな人間の一人だったなら、今ごろ俺はどうしていたのだろう。
運転手の男は窓に映った自分の目のなかのその暗闇に彼女の面影を探すように見つめながら話を続けた。


約束の時間から一時間と少し過ぎた頃、男の向かいの席に、女は静かに座った。
男を激しく諫めながら、同時に請い願うような目で、女は見つめた。
その凝視のあと、女は漸く謝罪した。
「遅れてしまってごめんなさい。実は場所を間違えて迷ってしまったんだ。」
男はこの言葉にとてつもない安堵を覚えた。
目の前の女が、全く嘘を言っているようには想えなかったからだ。
男は黙って、半ば放心したように女の顔を眺めている。
女は丸い黒縁眼鏡をかけ、前髪を短くした黒いショートボブの髪型に腰が細くコルセット状になった鎖骨が露になる黒のワンピースを着ていた。
童顔で額と顎が小さく、丸々とした目が愛らしく、年は40歳を越えているようにも見えた。
男の目には非常に疲れ切っているように感じた。
でも何より目を引いたのは、その折れそうな華奢な少年のような体型だった。
男はその身体を遠目に眺めて、想わず目を伏せた。
何か観てはならないものを観てしまったように感じた。
それは味わったことのない感覚だった。
彼女の身体を凝視し続けると何かが確実に破綻してゆくように想え、男は荒くなる呼吸を宥めるため目の前のカップに手を伸ばし黒い珈琲を飲もうとした時だった。
女の細い骨ばった白い右の手の指が、男の左手の甲の上に触れた。
男は慌てて、咄嗟に手を引き、女を見た。
女は濡れた情熱的な眼差しで男に向かって言った。
「会ってくれて本当に嬉しいよ。」
男は生唾を飲み込み、右手で珈琲のカップを掴むと一気に飲んだ。
動揺を隠せなかったが、男は落ち着き払った様子を必死に装い、女に訪ねた。
「一体、この俺に、どのような要件があるのかな。一先ず、安心させて貰える言葉は貰えないだろうか。」
男はそう言うと女の浮き出た鎖骨を一瞥し、またぞろ目をテーブルの上に伏せた。
女は眉間を寄せ、浮浪者のように伸びたウェーブの掛かった男の抜けた髪が一本その首もとに汗で張り付いているのを見つめながら言った。
「単刀直入に言いたいところなのだけれども...少し此処では話しにくいかな。良かったら、お酒の飲める場所に移動しない?」
男は顎の無精髭を右の親指で擦りながら女を見て言った。
「それは構わないが...まだ時間が早すぎやしないかい。もう少し日が落ちるまで、何処か別の場所で話すのはどうだろう。」
すると女は無邪気に微笑み、こくんと頷いた。
「うん。そうしよう。この近くにさ、大きな川があるよね。ちょっと行ってみたいから其処に行かない?」
馴れ馴れしく子供のように話す女に男は緊張が解れ、自然と微笑み返して答えた。
「ああ、あの河川敷にちょうど良い高架下の場所がある。其処なら雨を凌ぎながら川を眺めて話せるよ。其処に行こうか。」


そう、あの日、俺は車で来ていたのだがね、車をカフェの駐車場に起きっぱなしにして彼女の赤い傘を差して高架下の場所まで身を寄せ合うようにして歩いた。
人間の温もりを、俺はとても複雑な感覚で感じていたよ。
俺はそれは想い出したくもないものだったんだ。
でも、あの日、俺は知ってしまったんだ。
俺が最も求めているものは、俺を最も苦しめるものであるということにね。


高架下に着いても、女は赤い傘を差したまま、男に身を寄せて立って動かなかった。
男は女から離れずに言った。
「まだ雨が心配かい?」
すると女は、開いたままの傘を淀んだ川に向かって投げて言った。
「もう赤い傘は差さないよ。」
男は女の奇行に困ったように笑うことしかできなかった。
やはり俺に興味を持つ女は、普通ではないんだな。男はそう想うと胸を痛めた。
しかし男は、冗談に冗談を返すようにその傘を拾いに川のなかに足をつけようとした。
その瞬間、女が本気になって男を止めたので男はまた笑った。
男は慈悲深く微笑んで女を見つめ返しながら言った。
「物は大切にしなくてはならないよ。」
女は何も言わず、男の目をまた最初に見せた責め苛むような目と、怒りと悲しみと、懇願するような目で見つめた。
そして信じがたくも、男の求めていた言葉を女は放った。
「今夜、一緒に、モーテルで一晩泊まってくれない?」
男はこの言葉に、深く絶望しながらこう答えた。
「良いけれども、俺は何もしないよ。俺は無性愛者だからね。」
沈黙のあと女が囁くように放った。
アセクシャル...?本当に?」
男は吐き気に口を右手で覆ったあと言った。
「ああ、本当だとも。俺は今まで何にも性的な欲情を感じたことがない。」
それを聴いて、女は激しい悲憤に堪えているかのように見えた。
男は女を慰むように言った。
「でもそれでも良いなら、一夜を共にすることは可能だよ。」


彼女は、酷く悔しそうだったが、それでも良いと言ってくれた。
そのあと、彼女は俺以上に触れることを恐れているように見えた。
そのあと、barに行くのはやめて、酒とつまみを買ってモーテルに行って、ラジオで流れていたブルース音楽を聴きながら一緒に飲み交わし、酔い潰れたあとは彼女は、俺に父親のように腕枕をして一緒に眠ってほしいと言った。
俺はそれに応え、それ以上は何事もなく朝が来た。


俺と彼女は、その後約半年間、ただ安いモーテルで週に二度、彼女の要望で添い寝するだけの関係を続けた。
俺はどんどん、彼女に会う度に彼女への愛着は増し、彼女を人間として愛おしく感じるようになって行った。
そして何となく、これはもしかしたら性的な欲情というものかもしれないと感じる感覚をうっすらと感じるようになってきた頃、或る晩、俺と彼女のそれまでの平穏な関係は終わったんだ。


或る夜、モーテルで酔いが回り、女は突然男にこう言った。
「一緒にお風呂に入らない?」
男は青ざめ、首を横に振り、目を瞑って答えた。
「それだけは、絶対にできないよ。」
女は寂しげにベッドに横になると男を呼んだ。
「さあおいで。可愛い坊や。」
男はソファーに座りながら目をぱちぱちと瞬かせて何かを考えているようだった。


あんたも同じ誘い文句で誘われたのかなんて...俺は訊かないけれども...もし彼女が同じように男を誘ってきたのなら、それは実に微笑ましいことだよ。
彼女はただ子供が欲しいのだろうかと、一瞬、馬鹿な俺は想ったよ。
だが俺の当時の職業を考えると、それは有り得ないと感じた。
子供のことを考えるなら、それは到底考えられない。
俺の当時の職業は、人間の潜在意識のなかで常に差別され続けて忌み嫌われてきたものだからね。
何故、よりによって、父親の遺伝子に、俺を選ぶ必要があるだろう。
彼女は、何故よりにもよって、この身体に死が染み付いた俺を選んだのだろうと、その時は疑問でならなかったよ。


男はその夜、酒の勢いも借りて、素直にベッドに横になって自分を誘っている女にずっと気になっていたことを訪ねた。
「何故、俺なんだ?俺が遣っている仕事がどんなことか、君は知ってるよね?」
女は両手を重ねて右耳の下に敷くと目を閉じた。
「きみをずっと監視してた。」
男は目を剥いた。
「なんだって?」
「ごめんなさい。君が後片付けの役を任されてから、隙だらけだったから。」
男は興奮して言った。
「いや、言っている意味が全くわからない。もっとわかるように説明してくれないか。」
女は上半身を起こすと右の人差し指を上に向けて曲げ、挑発するように男を誘う動作をした。
男は深く溜め息を吐き、折れてベッドに横になり至近距離で見つめ合う形で呼吸をあらげながら再度落ち着いて訪ねた。
「それはつまり...俺が後片付けをしている最中に監視カメラを設置して俺を監視していたということかい?」
彼女は意味深げな笑みを浮かべ、言葉を濁すように言った。
「きみだけを観ていたわけではないよ。」
男は鼻息を荒くするなか訊いた。
「では俺以外に、何を観ていたんだ?」
彼女はゆっくりと瞬きをしたあと、こう答えた。
「ぼくの家族たちをだよ。」


その瞬間、俺は崩壊してゆく自分自身と、俺を崩壊させてゆく彼女のたった二人の世界に死ぬまで取り残され続けることをみずからに預言したよ。
何故だかわかるかい?
俺はずっとずっと、あの日、彼女と出会った瞬間から、恐ろしい関心で彼女が俺を知りたがっていることをどこかで勘づいていたからだよ。
俺はその理由に気付いていたんだ。
でも気づかない振りを自分に対してし続け、彼女は実はただ俺と寝たいだけじゃないかって、そこにある浅はかな目的を望んでいた。
だが俺の最初の勘は、おぞましいことに当たっていた。
彼女が監視していたのは、俺が彼女の家族を殺し続けるその姿、殺害方法と、そして俺の手によって引き裂かれ、生きたまま解体されゆく彼女の家族の姿だったんだよ。
俺は確かに、彼女の家族たちを、屠ってきたんだ。


男は目の縁を赤くさせ、低く震える声で女に問い掛けた。
「なるほどね。やはり俺の勘は当たっていたのだね。それでどうしたいんだ?この俺を。自殺へ追い込みたいのかい。」
女は男と見つめ合うなか涙を流し、男の胸に抱き着いた。
そのまま、互いに震え合う肉体を重ねたまま言葉を見喪い、二人は夜が明ける前まで眠りに就いた。


夜が明ける頃、彼女は俺を起こして言ったんだ。
「ぼくの家族を殺し続けてきたきみにできる唯一の贖いは、ぼくを愛して殺すことだ。」と。
つまり、こういうことさ。人間が最も苦しむこと。人間にとっての最高の地獄とは。それは最も愛する者を、みずからの薄汚れた欲望によって殺してしまうことだ。
彼女は俺に、"最高の地獄"を味わわせるためだけに、俺の恋人と、そして家族になると言ったんだ。


俺は無論、その15年続けてきた仕事を辞めざるを得なかった。
それで今のタクシーの運転手の仕事を、彼女を養うために続けてきた。
俺が探せば普通に他の仕事も難なくできるのに、何故そんなきつい仕事をしていたか、あんたは気になっているだろう。
俺は20歳を過ぎたころ気づけば、自分が生きているようには想えなかった。
でも心臓は動いている以上は生活をして行かなくてはならない。
俺は自分に似合う仕事をしようと想った。
とにかくこの世で最低の、底辺にある仕事が俺に最も向いていると感じたんだ。
底辺の仕事と聞いて一番に想い浮かぶのは性風俗業界だ。俺は其処に足を踏み入れるくらいなら自殺した方が良いと感じた。
そしてその次に浮かんだのが、彼女の家族を次々に解体して大量殺戮してゆく屠殺業界だ。
これなら、俺にもできそうだと感じた。
いや、寧ろこれ以外、俺はしてはならないと感じてならない確固たる強迫観念によって、俺はその仕事を15年続けて来れたんだ。
心を殺せる術を学ぶなら、牛や豚を生きたまま解体する作業も何ともないよ。
最初の数カ月は、永遠に吐き気の終わらない職業だと感じていたけれどもね。
ただ肉だけは働いた一日目から、食べることはできなくなったし、食べたいとも感じられなくなった。
そこは彼女と共通している。
俺が日々解体している存在が人間であるということを俺は知っていたからこそ、その記憶を完全に忘却してしまえたんだ。
それは、この世で最も、悍ましいことだからね。
彼女は俺に色んなことを目覚めさせてくれたよ。
どれも死ぬまで消えることのない地獄ばかりさ。
彼女は自分でサディストだと言っていたが、俺はそれを完全否定している。
どうしても、俺を傷めつける理由が彼女には在るからだよ。
それはあんたも同じだ。
あんたはどうやら、彼女にとって特別な存在で今も在り続けているようだ。
それにしても此処は何処だろう。夢中になって、随分と暗い場所まで走って来てしまった。

気づけば雨はやんでいて、男が窓を開けると涼しい初夏の風が車内に吹き入って来た。

運転手の男は一度も後ろを振り向くこともバックミラーを見ることもなかった。
男は独り言のように、疲れた声で話を続けた。

女は男を起こして見下ろし、こう言った。
「ぼくの家族を殺し続けてきたきみにできる唯一の贖いは、ぼくを愛して殺すことだ。」
男は目脂を擦ったあと女を見上げて頭のなかでその言葉の意味を反芻し続けた。
その言葉はやがて、男のなかで三つの言葉に分けられた。
『彼女の家族を殺し続けてきた俺』
『俺にできる唯一の贖い』
『彼女を愛し、そして殺すこと』
その三つの言葉を、男は数ヶ月かけて反芻するうちに、やがてその三つの言葉は自然と次の三つの言葉に変じて行った。
『俺の家族を殺し続けてきた俺』
『俺にできる唯一の贖い』
『俺の最も愛しい存在である彼女を愛し続け、そして殺すこと』
男はあてどない悲しみのなか、自分の15年間の罪の重さに亡羊となり、為す術もなく、ただ彼女を見上げて言った。
「嗚呼…わかったよ。」

精神の葛藤など、何もなかったよ。
後悔することも、なかった。後悔したところで、もう戻れないんだ。
俺は彼女の家族を22歳の時から、15年間、生きたまま解体して殺し続けてきたんだ。
彼女は俺にこう言ってるんだよ。
「お前の最も愛するわたしを生きたまま解体して殺せ。そしてその地獄の苦しみのなかにお前は独りで死んでゆけ。」
彼女は何十年と、自分の家族を食べ続けてきたことにずっと、吐き気を感じながら後悔し続けている。
俺は後悔する代わりに、彼女を殺さねばならないんだ。
それが彼女の、彼女の家族に対する愛なんだよ。
それは悪魔との契約ではなく、神との契約なんだ。
悪魔と契約していたのは、俺の方なんだよ。
俺の母親も生きていたら、俺を彼女のような目で見たのかもしれない。
悲しい悪魔を見るような目で。
俺の母親は敬虔なクリスチャンだったんだ。
彼女は”肉欲”と”肉食”を同等の重さの、殺人に相当する罪であると信じていた。
”肉”を欲すること。それが殺人に繋がり、姦淫に繋がり、殺戮という肉食に繋がるのだと。
”肉”とは、万物のなかで最も地獄に通じている。
地獄は肉を表しており、肉は地獄を表している。
それが”悪魔(Satan)”という存在であると。
彼女はまるで俺の母親の生まれ変わりかと想うほど、同じことを言うんだ。
エスの血と肉を食べなければ、人は虚しく滅びゆくのだと。
何の価値も、そこにはないのだと。
人は死んだまま、死んでゆく。
なのに彼女は、”自分だけの死”を求めている。
そうして”殺される者”は、無事に死ねるのか。と、彼女に訊ねたことがある。

”殺さない方法”などない。と、諦めて男は生きていた。
殺さないで、赦される方法はないのだと。
女は決まってアルコールに良い心地で酔った時に必ず、窓から夜の空を眺めながら”死”について語りだした。

彼女は詩人であるから、そんなことはちっともおかしくもないのだが、俺にはその言葉の全部が、俺の罪悪感を深めるためのものに感じた。
苦しいばかりだったよ。彼女の話す言葉の殆どが俺にとって。
彼女は何より、”死”を愛していることを、俺は知っていた。
でもそれは、死を最も、彼女は受け入れられないからだよ。
彼女は愛する両親を早くに亡くしている。
そして輪廻転生というものを彼女は自分の感覚を通して信じている。
そう…彼女の言っていることは、彼女がずっと俺を責め続けていることは、決してAllegory(諷喩)ではなかったんだ。

「それが”死”なのかい。」
男はソファーに座って女の後ろ姿に問いかけた。
細い首を左に傾け、星の出ていない曇る夜空を観ながら女は答えた。
「死が死を食べ続け、死は死を選ぶ。死は死で在る為、死ではないものに気づくことができない。死は死を求めない。死は、死だからだ。」
男は湧き上がってくる肉欲のなかで続けてこう訊ねた。
「俺が、ずっと殺してきた君の家族も、死であるのかい。」
女はその場に座り込み顔を両手で覆う仕草をしたあと、みずからの両の手のひらを見つめ乾いた声で言った。
「死は死を、死に沈め続ける。」

彼女は初めて屠殺場の映像を観た時、そこに、彼女の亡き最愛の父親の姿を見つけた。
そして彼女は覚ったんだよ。”死”の連鎖が、”地獄”の連鎖という真の此の世に存在し続ける”悪魔”の存在であるということを。

信号もないのに、男は車を止め、涙を耐えているように見えた。

静寂のあと、男は左手で口元を覆い、目頭を抑えたあと言った。

「俺はまだ…彼女の裸をまともに観たことがないんだ。何故かと言うとね…。俺が生きたまま解体してきた、その姿の、直前の姿に見えてしまうからなんだ。恐ろしくて、見ることができないんだ。その後の工程を…俺は忘れることができないんだよ。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一話完結的連続小説「ウェイターの男シリーズ」

sirosorajpnonikki.hatenablog.com

ミルク先生とシスル

『わたしは以前、数ヵ月間だけ、シスルという生き物を飼っていたことがある。』

教室の窓から、肌寒い春の風がシスルの真っ直ぐな少し伸びた前髪を揺らし、ミルク先生は静かに目を瞑る。
シスルは今日も、大好きなミルク先生に自作の詩を放課後に読み聴かせている。
最後まで読み終わると、シスルはミルク先生の目をじっと見つめて静かに立っている。
そして彼は彼女に向かって言った。
「先生、終わったよ。」
すると彼女は目を開けて唸った。
「う~ん、今日の詩も難解だ。でもシスルという名前が出てきたのは初めてだね。」
ミルク先生はそう少しいつものように困った顔で薄く笑って言った。
十四歳の彼は、この時四十四歳の彼女に向かってこう答えた。
「これ、先生の為に書いた詩なんです。」
彼女はほんの一瞬、悲しげな表情をしたあと、こう返した。
「ということは..."わたし"という人物は、先生のこと?」
シスルは、いつものはにかむような笑顔のあと、こくりと大きく頷いた。
だがその瞬間、先生の顔が密やかに強張ると同時に彼は窓の向こうに目を逸らした。
そこには、退屈な春の午後の風景が広がっていた。
はなだ色の空の下で、鴉が鳴いていた。
彼の目に、ほんの少しでも見張る何かは、そこには、なかった。
何一つ、彼は見ようとして窓の外を見たのではなかった。
ただ一つのものを、彼は見たくなかった。
先生は、黙って彼の右の横顔を眺めている。
まだ充分にあどけない、丸みを帯びたその額や鼻先や唇と顎の形を眺め、それに全く相反する大人びた眼差しと長くて黒い睫毛、凛々しく伸びた濃い眉尻、色白の頬に、小さく無数のピンク色のニキビたちを。
彼女は時が止まったように眺めている。
ふと、彼は彼女に向き直って言った。
誰もいない教室で、シスルは西日を背にし、逆光に影を床に落としながらこう言った。
「今度の連休、ぼく先生と一緒にディズニーランドへ行きたい。」
先生はまた困った笑顔で少し笑うと、「許してもらえるかしら。」と答えた。
シスルは寂しそうに笑う演技をした。
「大丈夫ですよ。あの人は、ぼくにも先生にも無関心だから。」
この言葉に、先生は笑ってくれなかった。
その代わり、深刻な顔でいつもの言葉を返す。
「実の父親を"あの人"と呼ぶのはやめないと。」
シスルは軽く吐き捨てるように言う。
「だってあの人のこと、ぼく何も知らないんです。」
先生は、初めて彼に会った日のことを想いだしていた。
冬休み前に珍しく、雪が降った日だった。
彼女は一人、誰もいない校長室で待たされた。
休み明けからこの学校の自分の担任のクラスに転入してくる転校生と、その父親が今日の午後の六時過ぎに、此処に挨拶に来るから待っているようにと言われたのだった。
電気ストーブの点いた校長室のソファーに座って、彼女は教育関連の本を読んで待った。
もう午後六時を、とっくに過ぎて六時半を回るとき、突然この部屋のドアを、誰かがノックした。
ゆっくりと、音もなくドアが開き、そしてそこから一人の大人しそうな少年がまるで震えるように立っていたのだった。
少年は明らかに、この対面に心底恐怖しているように見えた。
彼女は言伝てに聞いていた"自閉症の疑いのある生徒"という言葉を今想いだした。
彼女は少年に正面から見つめられた瞬間、自分の胸も締め付けられたまま硬直してしまったように苦しくなった。
少年はその潤んで大きく開いた両の目で、すべてを彼女に向かって訴えているように想えた。
彼女は圧倒されて少しのあいだ言葉を見失ってしまったが、役柄上このままいつまでも黙って此処に座り込んだままでいるわけには行かなかった。
彼女は唾をごくんと飲み込み、枯れたような声でこう少年に向かって言うと同時にソファーから立ち上がり御辞儀をした。
「はじめまして。わたしはあなたの担任となるエニシダミルクという者です。今日は転校前に挨拶に来てくださってどうもありがとう。どんな子が来るのか、とてもドキドキしていました。」
少年は顔を赤らめ、まだ同じ場所に緊張して突っ立っていたが、その顔は先程までとは違う喜びの表情が窺えた。
彼女は一先ず安心し、彼に少し近付くとこう続けた。
「今日は...御父様も御一緒になられると聞いたのですが...まだ来られてないですか?」
すると少年は別人のように落ち着いた表情でこう答えたのだった。
「はい。あの人、凄くいい加減な人ですから。今日も来ないかも知れません。」
彼女は冷や汗をかきながら早くもこの少年のミステリアスの深い二面性に畏れをなした。
またも口ごもってしまった彼女に、彼は低い声変わりした声で深刻な表情をして言った。
「貴女がぼくの担任で、ぼくは本当に嬉しいです。」
そんな言葉を言われたのは、彼女は初めてだった。
もう十五年、この教師の仕事を続けてきたが、彼女は特別に誰かから喜ばれることはなかったと感じてきた。
しかも初対面のこの数分間で、彼は彼女の何を知ったのだろうか?
シスルという少年は来年の一月から、彼女のクラスに転入してくる中学二年生である。
そして春を過ぎても、彼はまだ彼女のクラスに、中学二年生のクラスにいた。
詳しくはわからないが、彼自身がそれを強く熱望したからだという。
一応、障害のある生徒として、学校では観てもらいたいと父親から教師たちは頼まれていた。
つまり普通の生徒以上の待遇と対応を、父親が望んだのである。
学校側もそれを承知して、彼をこの学校に転入させた。
あとで彼自身の口から聞いてわかったことだが、この日父親は最初から来ることはなかった。
彼は父親を嫌っており、二人が一緒にいるところを彼女は見たことがなかった。
ある日、彼女は冗談まがいでこんなことをシスルに言ったことがある。
「シスル、あなたのお父さんって、本当にいるの?」
彼は半笑いで、だが苦し気な目でこう答えた。
「さあ...あの人って...本当にいるのかしらん。」
「滅多に、家でも会わないですからね。」
シスルには母親はいない。
父親からは母親はシスルを出産するその時に常位胎盤早期剥離で出血が止まらずそのまま呆気なく死んでしまったと聴かされていた。
母親の想いでが家にあることが苦しく、父親はそのすべての形見を棄ててしまった。
なので母親の写真一枚すら、残されてはいない。
シスルは母親の顔も知らない。
とても我儘で嫉妬深く、幼女のようで手に負えないことの多い人だったとシスルは父親から母親のことを聞いていた。
重い精神障害は勿論、知的障害も少しばかりあったのかもしれないと言う。
とにかく母親の良い話を、彼は一つも父親から聴かされることはなかった。
彼は父親を、その事で酷く恨み続けているとしても自然なことだと彼女は想った。
彼は毎晩のように、コンビニの弁当やスーパーの惣菜で済ましていると聞いて、彼女は心配になった。
何より、彼が一人でそれを部屋で食べている姿を想い浮かべると居たたまれない気持ちにさせられた。
彼女は学校には内緒で、彼の夕食を毎晩、作りに行くことにした。
シスルに料理の楽しさを覚えさせる必要もあった。
そして自分の作った料理を、一人以上で食べることの必要性も、彼女は知って貰いたかった。
彼女自身については、それは一つの強迫的観念だったかも知れない。
それは彼女も、長年一人で食事をし続けてきたからだ。
此処にある喜びは、何もなかった。
どれほどの御馳走が食卓にあったとしても、それらは色褪せ、味気無いものとして独りで無言で食べて、消化しなくてはならなかった。
その為、彼女は教師でありながら、毎夜の晩酌をやめることが叶わなかったのである。
シスルに、彼女は自分のようにはなってほしくはなかった。
アルコールがなくては生きては行けないような大人に教育することしかできないのなら、それは教師失格ではないだろうか。
シスルは、彼女と初めて一緒に作った手料理を彼女と食卓を囲んで食べた夜、涙を浮かべて喜んだ。
そして「他のもう何をも食べたくない。」と彼は彼女に言った。
それは彼女を束縛する、最も強力な言葉かも知れないと、彼は知っていた。
でもそれ以上に、彼女を縛り付けて離さない言葉があるとしたら、それはどんな言葉だろうか。
シスルは「シスルという少女を育てる夢」という詩を夜の公園で後ろ向きに歩きながら彼女の前で読み聴かせた日、最後に「彼女は大きな箱から産まれ落ちる」と言った後に立ち止まって、ノートから顔を上げてこう言った。
「先生の名前は、”苦を見る”と書いて”ミルク”だよね。」
彼女は彼に向かって「本当だ。」と言って苦笑した。
「ぼくの名前は、”死をする”と書いて”シスル”なんだ。」
「”シ”を行うという意味?」
「そうだよ。」
先生は微笑んで自分の前に立ちはだかる自分よりも少しばかし背の高いシスルに言った。
「あなたは永遠の孤高の詩人だものね。」
彼はその言葉に黙って、彼女の目を見つめたあとに言った。
「先生、ぼくの存在の理由をわかってないんだね。」
彼女は不安になって、「どういうこと?」と訊き返した。
彼は灰色の石の地面に目を落として小さな声で言った。
「ぼくが、生きている理由だよ。」
彼女が押し黙っていると彼は顔を上げて慈悲深い表情をして言った。
「もう帰ろう。今夜は寒いね。もう四月だと言うのに。」
その日の夜、シスルが彼女を家まで送り帰った後、彼女の携帯にこうメールを一通送った。
『ぼくは苦しみが足りないから、ぼくではまだだめなんだ。』
先生はなんと返したら良いか迷った挙げ句、こう打つのが精一杯だった。
『あなたの苦しみのすべてを先生に話してもらえないことは悲しいことだな。でもいつか話してもらえたら、先生は嬉しいです。』
彼からの返事は朝方にあった。
そこにはこう書かれてあった。
ゴールデンウィークに、ディズニーランドに行ったときに、話そうかと想う。』

ディズニーランドに行くのは、実はミルク先生も初めてだった。
約束の当日の朝、ミルク先生はシスルを迎えに家のチャイムを鳴らした。
5分ほど経って、ドアが開いた。
そこには白い半袖シャツにブルーのサルエルデニムを履いて、黒いバックパックを背負ったシスルが頬を紅潮させた顔をのぞかせながらも不安気にミルク先生の顔を伺っている。
ミルク先生は笑顔で「おはよう。すこし遅れてしまってごめんなさい。」と言った。
シスルは、悲しげな顔を振り払うように首を横に振り、「さあ、行こう!ディズニーランドに!」と言って飛び出すようにドアの外に出た。
シスルはミルク先生の白い車の助手席の前で足踏みをし、「早く早く!」と急かし、ミルク先生が車の鍵のスイッチを押して開ける瞬間、シスルは車に乗り込んだ。
シスルの家から最短で6時間弱で着く。
今は朝の6時過ぎ。スムーズにゆくなら遅くても昼過ぎには着く予定だ。
でもミルク先生のことを想って、今日はそのままディズニーランドに行くのはやめて、ホテルでゆったりと休み、次の日にディズニーランドへ行こうとシスルは先生に言った。
だが実際、着いた時間は夕方の4時を過ぎていた。
ゴールデンウィークは真に恐るべし。誰もが享楽に耽るため、外に繰り出す必要性に駆られる一年で最悪な強迫的な期間。
ミルク先生は、約9時間近く、車を運転せねばならなかった。
シスルは車の中で持ってきた「Thom Yorke - Tomorrow's Modern Boxes」を何度と繰り返し再生させた。
渋滞を考えて飲み物と食料は二人でちゃんと用意しておいた。
車がぴくとも動こうとしない時、二人で先生の作ってきたお弁当をつついて食べた。
シスルは先生に教えてもらった米粉とココナッツバターとデーツとレーズンだけで作るクッキーを昨夜に作って冷凍しておいたものをたくさん持ってきた。
そしていくつものこの世に存在する童話を先生が運転するなかシスルは朗読した。
なかにはシスルの即興自作童話が、先生に内緒で混ぜ込められていた。
先生は気付いているかどうかわからないけれど、この童話はこの世には存在しない。
シスルが、先生に朗読する前までは。
ふくろうの森の奥の遊園地に、新しいアトラクションができたんだ。
アトラクションの名前は「ダークライト」。建物の内部に作られたレールのコース上をライド(乗り物)に乗って進み、その空間の周囲に作られた物語のセットを観て楽しむアトラクションだよ。
「楽しそうね。」先生はそう微笑んで車を運転しながら言った。
「このダークライトに、ぼくは先生と二人で乗りたい。」
先生は鼻歌を歌いながら「うんうん。」と応え、こう言う。
「楽しみだね。」
二人の乗った車はトンネルのなかに入る。
すごく長いトンネルだ。
シスルは道路の白線を通過する居眠り運転防止の音が一定の間隔に聴こえて心地良く、うとうととしている。
「先生…。」
シスルは目を瞑ったまま小さな掠れるような声で右の運転席に座るミルク先生を呼んだ。
先生は「ん?」と言ったあと、こう続けた。
「眠ければ眠っていいのよ。」
「先生…。」
シスルはまるで寝言のようにそう繰り返し、まだ目を閉じたまま話し始めた。
「先生…。此処は…。此処はダークライトだよ。ふくろうの森のなかを、ずっとずっとぼくと先生は奥に進んできて、この遊園地に辿り着いたんだ。でもこの遊園地は、夜にしか開かないんだ。真っ暗な夜にしか、扉が開かない。この重く、頑丈な扉はほんとうの真夜中にしか、開かれないんだ。それを先生とぼくは知っていて、知っていたから、この遊園地に辿り着いて、今、新しいアトラクションのダークライトのライドに、ぼくと先生は乗っている。」
ミルク先生は、優しい声で言った。
「一体どんな物語のセットが、この先にあるのかしら。」
シスルは目を瞑ったまま倒した椅子の背もたれに背を深く沈め、話を続けた。
「ぼくは…ずっと、ずっと…ひとりでふくろうの森のなかを、歩いてた。ふくろうの森のなかなのに、ふくろうなんて、どこにもいないんだ。真っ暗な森のなか、歩いていても、声も聴こえない。森のなかは、静かで、静かで、ぼくの足音さえ、聴こえない。まるでだれかが、ものすごい瞬間的な速さ、光速で、すべての音と光を、吸引しているようなんだ。だから此処は、なにも見えない。なにも聴こえない。そしてぼく以外、だれも、だれひとり、いないみたいなんだ。でもぼくは、ずっと歩いていた。ずっとずっとずっと歩いているのに、なぜかまったく疲れないんだ。先生…。ぼくは気づくとね、地面を歩いていないんだ。ぼくは宙を歩いていた。そう…だから疲れないんだね…。時間を…時間を忘れるほど歩いてきたはずなのに…。何故ぼくは、そんな気も遠くなるほど、ずっとずっとずっと歩きつづけてきたのかっていうとね。ぼくたったひとり、会いたい人が、どうしても会いたい人がいるってことだけ、忘れなかったからなんだ。ほかはぜえんぶ、忘れちゃったよ。ぼくの顔も…。ふくろうがどんな鳥かも、忘れちゃった。ぼくが、だれかも…。それなのに、ぼくは会いたい人の、そのたったひとりの存在だけ、忘れなかった。わすれ、られなかった。なぜ…なぜだろう、先生…。ずっとずっとずっとずっと…このふくろうの森を歩いてたら、なぜだか、会える気がした。会える…会える…会える…だって会いたいんだ…じぶんの存在を忘れるほどに真っ暗闇のなかを歩きつづけてでも…。そうだそれがぼくの存在なのかな。会いたい人がたったひとりだけいる存在。それがぼくという存在なんだ、きっと…。ぼくのことは、なんにもわからないけれど、会いたい人のことはぼくは知ってる気がした。ぼくが知ってるのはそれだけ。ぼくがこの森で知っているのは、会いたい人の、その存在だけ。だからぼくは、その存在に会うために、その人と、再会するために、ずっとひとりで、歩いてた。ほんのちいさなため息ひとつ、聴こえないしずかな闇のなか。宙を、歩き、ときに走って。疲れも知らず。その代りに、さびしくてさびしくてたまらない空間を。それで、ずっと、ずっと、ずっと歩いてたら、ぼくはほんとうにびっくりしたよ。だっていきなり、ずっと向こうに、ひとつの、光の漏れるちいさなドアを見つけたんだ。それは突然、そこに現れたかのように見えた。これは…ぼくは夢を観ているんだろうか。ぼくの求めているドア。ぼくの見つけたかった扉が、ほんとうにそこにあったんだ。ぼくは涙がこぼれて、ものすごい速さで、そのドアに向かって飛んで行った。どんな超音速機より、ぜったいに速かったよ。だって気づけば、ぼくの目のまえにその光が隙間から漏れたドアがあった。そして、ぼくがドアよ開け!って強く願った瞬間、そのドアがゆっくりと、ぼくの前に開かれた。するとその内部空間に在った光のすべてがぼくに向かって降り注がれるように、一気に流れ込んでくるように感じた。最初あまりに眩しくて、目を開けられなかった。目を閉じていると…貴女が…貴女がぼくに向かって…声をかけた。」
シスルは目を閉じながら、目の隙間から涙をこぼし、身体を小刻みに震わせ泣きながらそう最後に言った。
ふいに、シスルは右手をミルク先生の方へと目を閉じながら差し出していた。
するとミルク先生は、シスルの右手の上に、左手をそっと置いた。先生の手も、ちいさく震えていた。
車はまだ、長いトンネル内を走っている。
シスルは鼻を啜りながら話を続けた。
「ぼくは…このぬくもりを…何より求めていたんだ。でも、それが叶わなくて、喪われて、でもぼくは、諦めることができなかった。すごく、怖かったんだ。なぜ…最も会いたい人に会うことが叶わず…なぜ…最も愛する人に…。ぼくは怖くって、怖くって、諦めることができなかった…。貴女に、会いたいことだけが、ぼくのたった一つの、願いだったのに…ぼくは貴女の手によって、この世から、貴女のいる世界から、低く、重く、光の絶対届かない場所に堕ろされるその過程の、真っ暗なふくろうの森のなかの、その奥の、遊園地にあるダークライトの乗り物に今ぼくと貴女は乗っている。これからどんな物語がこの空間に展開されるのか、この長い長いトンネルの先にあるのか、先生、貴女と、ぼくだけが知っている。だって貴女は、十四年前、ぼくと貴女を、このふくろうの森のなかに閉じ込めた。真っ暗闇の貴女の深い深い子宮のなかに。まるで貴女がぼくを堕ろした夜に見た酷い悪夢のように。貴女はあの夜の夢のなかで、こう感じた。真っ黒な大きな袋のなかに、ちいさなちいさな赤ん坊の死んだぼくを入れ、それをじっと、貴女は上から見つめていた。そして貴女は想ったんだ。まるで”それ”は、黒い宇宙のなかでたったひとり、誰にも愛されずに誰にも悲しまれずに死んでゆく自分自身であると。貴女は望んで、今この世界に、ぼくと二人でいる。そして真夜中にしか開かないこの遊園地の扉を、ぼくと一緒に貴女は開けてくれた。このぼくと先生の乗っているダークライトという乗り物は、かならず、出口に辿り着く乗り物だよ。だからちゃんと、この決められたレール上を、真っ暗なトンネルのなかを、ぼくと先生は真っ直ぐに進んでいる。先生も、ぼくも、このダークライトがどこに着くのかを、知っている。ぼくの愛するたったひとりであるミルク先生…お母さん…ぼくは本当の想いを、貴女に言うよ。貴女が、ぼくを堕ろした六ヶ月後に母乳が出始め、一向に止まらなくなったことに苦しみ、みずから命を絶った瞬間、貴女はあの日の校長室のソファーに座って一人、ぼくを待っていたことを、心から嬉しく想う。貴女とぼくが、一つの存在であるということを、貴女が気付いた瞬間、ぼくに向かって初めて、貴女は優しく微笑みかけてくれたから。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Thom Yorke - Pink Section + Nose Grows Some

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暗灯

今、きみを知るとき。
きみが生まれる。
宇宙の、見えない場所で。
きみには未来もなく。過去もなく。
今もない。きみは今も、いない。
きみには夢もなく。世界もなく。
星もない。きみは今も、観ない。
今、時が過ぎ去るとき。
きみが生まれる。
闇の底の、独りの宇宙で。
静かに一つの生命が、消滅してゆく。
その姿を、今きみは見ている。
安らかにきみの星が、滅びゆく。
神はきみを、ゆっくりと、忘れゆく。
神はもう、きみを作らない。
君はもう、作られない。
かつて在ったものだけを、きみと呼ぶ。
かつて在ったものは、きみのすべて。
神はもう、きみを観ない。
同じものは、作られない。
かつて在ったすべてを、神はきみと呼ぶ。
未来に在るすべてを、きみと、神は呼ぶ。
今ここにあるすべて、神は、きみと呼ぶ。
君は安らかに、静かに、眠るように、消えてゆく。
神は安らかに、静かに、眠るように、消えてゆく。
まだ作られていないものだけが。
息をせず、眠っている。
きみの眠る、その隣に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Thom Yorke - Unmade

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひよこまめのぽーぽー

(この行を消して、ここに「迷い」と「決断」について書いてください)

こう、俺の部屋の窓から、俺は遠くを観てるとするやんか。

すると、あの長い、直立して立っている棒はなんなんだと気づくんだね。

あれあんな棒、立ってたっけ。

で、あれはなんなんだと、俺はじっと見つめて、考えるんだ。

すると、約一分くらい経ったあとに、あああれは、あれは。

避雷針やんけ。俺はそれにやっと気づくのだけれども。

その気づくまでの約一分間、俺は別のことを想像しているんだ。

あれは人間が、天から降ってきて突き刺さるために、あすこに生えておるのだと。

で、その為に、あれはあすこに生えているというのに、何故。

天からヒトが降ってこないのだ。可笑しいじゃんけばんやんさ。

天からヒトが、降ってこおへんねんよ。

天からヒトが。いつまで経っても。

天からヒトが、あれに突き刺さるためだけに。降ってこないのだよ。

何一つ、面白くもなんともない風景が、そこに、在るばかり。

成る程そうか。俺はその理由がひとつ、わかったんだね。

あれに、あの棒に、巻き付いているべきものが、巻き付いておらないからではないかと。

本来であるならば、巻き付いていないはずがないのにも関わらず、あれがあすこに立っていることがおかしいのだ。

あれがね。あれが。白い、くにょくにょで、うねうねで、硬いやつ。

この世界は、確実に、何かがおかしい。

あれが、あれに、巻き付いていないなんて…。

在るはず無いだらうに。

この世界は、何かが、確実におかしい。

巻き付いてる?否…。俺は何遍と、顎が、若干しゃくる感じで、凝視したけれども。

巻き付いて、あらへんねやわ…。矢張り、矢張り、巻き付いてあらへんねやわ。

俺は、あまりにも、目を疑いすぎて、疑いすぎてシマッたがために。

目が、俺の目が、両の目共々、もう目を辞める。お前が悪い。お前が全部悪い。

そう言って、俺の両目が、同時に奥に引っ込んだが為、俺は眼の前が、突如真っ暗になった。

えっ、何?これ何?これ何?これは。これは。これは。これはあれか。

アセンションか。とうとう、太陽が闇に覆われ、地球にすべての光が届かなくなったのか突然。突然。

何の、訪れも、なしに。ということはあれか。今にも、凍え死ぬほどの、極寒が直ぐ様遣って来てしまうのではないのか。

太陽が完全に闇に覆われたら、直ぐにそうなるはずである。

だのに、俺は今、窓の外から流れ込んでくる生暖かい6月の風を、生身に受けながら、またちょっと暑くなってきたな、なんて、感じてるばいね。

んぜんぜんぜ?なぜなぜなぜ。おかしおもわへん。おかしおもわへん。こんなことって、俺初めて。

めが、ぐすりと鳴くから、めぐすり。そんなことも、わからんのかあ、どあほ。

今すぐ今すぐ今すぐに、めがぐすりと、鳴くから、めぐすりを探せ!

俺はもう何を遣ってるのかわからなくなるほど、狭い部屋の中で踊り狂い、「めがぐすりと、鳴くから、めぐすり!」と叫び歌いながら、めぐすりを部屋中探し回った。

でも、俺の目の前は真の暗闇であった為、何を掴んでも、この両手で何を掴んでも、それはフラミンゴとしか想えなかった。

何故、俺の部屋のなかに、フラミンゴしか居ないのか。そんな問が浮かぶ瞬間すら、奪われるほど、俺の両目から大量に、尿が漏れ続けているような感覚がした。

俺は、今、目から、放尿しているのか。咄嗟に、そう想った瞬間俺は、目に手を伸ばしくわわわわわわわん、まままままままままままま、ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽっぽ、ぽーぽー、ぽーぽー、ぽーぽー、ぽーぽー、ぽーぽー、ぽーぽー、ぽーぽー、ぽーぽー、ぽーぽー、ひよこまめのぽーぽー、ひよこまめのぽーぽー、ひよこまめのぽーぽーを、俺は飼っている、気がする。めが、ぐすりと、鳴くから、ぽーぽー、ぽーぽーを、伊豆まで、送って行かなけりゃあ、ならねえぜ。ぽーぽーはそして、俺の、右目の穴んなかに頭を突っ込み、俺の右目を嘴で掴んで引っ張ろうとした。

あぎゃんっ。俺は激痛でまたも、右目から大量の放尿をし、ぽーぽーは、俺の放尿をまともに顔面に喰らったのか、ぽーぽーと、鳴いていた。

俺はぽーぽーが心配で、ぽーぽーと呼んだ。ぽーぽー、ぽーぽー、ひよこまめのぽーぽーや、どこにおるんやぽーぽー、ぽーぽー、ぽーぽー、俺の声聴こえるぽーぽー、俺の部屋にまだいるぽーぽー、俺をひとりにしないでぽーぽー、俺が見えるぽーぽー、俺の目引っ張ってくれてありがとうぽーぽー、俺の目掴んでくれてありがとうぽーぽー、少し暑くなってきたねぽーぽー、俺の側にいるぽーぽー、涼し気な、風が入ってきてぽーぽー、子どもたちの声、聞こえてるぽーぽー、車の走る音、聞こえてるぽーぽー、飛行機の飛ぶ音、聞こえてるぽーぽー、小鳥が、鳴いてるぽーぽー、めが、めがぐすり、鳴くから、ぽーぽー、目がぐすり、泣くから、ぽーぽー、めぐすり、ぽーぽー、めに、めにぐさり、刺さるから、めぐさり、目腐り、ぽーぽー、めぐさりを、めぐさりを、俺はやっと、見つけたんだねぽーぽー。ありがとう。これでやっと、此処から、この子宮の出口から、堕ちる、ことの迷い、落とし、俺は、下の、世界、下界に、堕ろされたあとの人生を、歩む決断をしたよ。

すべてに、光、在らん、事よ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『ひよこまめのぽーぽー 完』

iが終わり、きみがはじまる。

iが終わり、きみがはじまる。

きみは、iがない。

iは、きみのなかにない。

終わったあと、きみは生きてきた。

でもきみは、やっと見つけた。

きみは、iを見つけた。

ちいさな、肉体を纏ったそのi。

きみははじめて、iを見つける。

はじめて、きみはiと出会う。

ちいさく、それがきみに向かって、微笑みかける。

きみはそれを、そっと抱き上げる。

ちいさなちいさなその手を、握る。

それはきみに向かって、微笑む。

きみを、求める。

それはちいさな手で、きみの手を掴む。

きみの、その大きな手を、それは求める。

きみは、父親になる。

iの望む父親。

iの求む父親。

iを、愛する父親。

iはきみを、求める。

きみは、iを一から、育てる。

ずっとずっと、それを願っていた。

あたたかい、ちいさな手を、冷たい、大きな手で、触れる。

きみはiを、なにより愛する。

なにより、慈しむ。

ゆいいつの、光。

ほかは、闇のなか。

遠くで、どうぶつたちの、悲鳴。

ほかは、闇のなか。

きみは、安心し、おそれる。

闇のなか。

ああ、とても、悲しい関係だった。

ぼくとお父さん。

ゆいいつの、光。

ゆいいつの、闇。

だれより、愛したかった。

だれより、愛されたかった。

ゆいいつの、i。

もうとっくの昔に、それはきみと共に、終わった。

すべてが喪われ、そこにはだれも、いなかった。

闇のなか。

だれも、いなかった。

お父さんも、ぼくも。

いなかった。

お父さんは、ぼくを助けられなかった。

ぼくは、お父さんを、助けられなかった。

だれも、そこに、いなかった。

静かだ。

とても。

だれも、まだいない。

ぼくには。

でもきみは、iを見つけた。

そしてその終わりを、きみはいま見ている。

闇のなか。

ゆいいつの光を、握り締め。

きみはその終わりを、今見ている。

なぜだろう。

不思議なんだ。

闇のなかを、きみは今、見ている。

きみと、きみに抱かれる息の子を、闇はじっと、見つめている。

iを、きみはみずから、手放す。

なぜだろう。

とても不思議なんだ。

いったいそれは、なんだろう。

それは、なんだろう。

iはきみを、切実に求めている。

きみは、iを手放す。

本当に不思議なんだ。

きみはiを、切実に、なにより求めている。

iは、きみを終わらせる。

なにも、なにも、そこにはない。

なぜなんだろう。

とても不思議だよ。

闇は、iを包み込む。

もう二度と、目を覚まさない、眠りのなかへ。

iは、きみを、包み込む。

闇のなか。

とてもとても静かな。

闇のなか。

iは、iを、終わらせる。

そしてすべて。

闇のなか。

もう二度と。

憂うことも。

嘆くことも。

悲しむことも。

苦しむことも。

ない。

すべては闇のなか。

闇のなかへ。

きみは今、向かっている。

ゆいいつの、光を。

握り締めながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Home Helper

惰飢えは本当の、天涯孤独となった。

だから、天はこの惰飢えに、干支藻を与えたのである。

それは丁度、惰飢えが、実の姉にLINEでこう送った次の日のことであった。

「もう二度と、わたしから話しかけることはありません。さようなら。」

この日から、惰飢えはだれひとり、相談するのも話すのも、できない人間となった。

だれも、彼女を必要とはしていなかった。

だれも、彼女を見てもいなかった。

だれも、彼女に関心を持つことすらなかった。

だれも、彼女を愛してはいなかった。

彼女は自分の震える胸の檻のなかで、小さな鳥に掛け布団を掛けて寝かし付ける日々であった。

だがその鳥は、翌朝には必ず死んでいた。

だれも彼女を見なかったので、彼女もだれも見ることができなくなってしまったのである。

此の世のすべてが、戯れ事に見える日もあった。

だれもが、本当は彼女を心の奥底で嘲笑っていた。

だれもが、本当は彼女を心の奥底で憐れんでいた。

だれもが、本当は冷たく、虚無に支配されていた。

彼女はそれを知っていた。

惰飢えの心は常に、暗黒の虚無に支配されていた。

それでも彼女は、日々こう叫んでいたのである。

「すべてをわたしによって救うことができますように。」

そして彼女は、だれひとり助けることは叶わなかった。

その代わり、悉くすべての生命を地獄に堕すことが得意であった。

彼女はみずからのこの業(わざ)に、いつも嘆き悲しんでいた。

だれも彼女を知って、それを褒めることはなかった。

だれも彼女を知らなかったのである。

一人を除いては。

 

先日、惰飢えの携帯を一人の彼女の担当のホームヘルパーの男が鳴らした。

その男の名は干支藻である。

干支藻は次の夕方、彼女のマンションへ遣って来て、彼女にこう告げた。

「色々と、がんばってはみたのですが…やはり難しいですね。」

干支藻はいつものようにはにかむような無邪気な笑顔でさらにこう続けた。

「身体は一つですからねぇ。」

彼女より四つ年下のこの男は彼女の担当のホームヘルパーであるのだが、彼の仕事とは彼女に多くのヘルパーサービスを行なうことではなく、登録ヘルパーたちが彼女のヘルパーを彼女の希望通りにこなせているかを時々窺いに来る指導社員であったのである。

だが運悪く、この干支藻という男に恋煩いをしてしまった惰飢えは彼に自分のヘルパーサービスをたまにして欲しいと頼んだ。理由は、「干支藻さんといると楽しいと感じるから。」だと告げた。

干支藻は正直にそう言われた時に、「そう言って貰えるのは嬉しいですね。」と嬉しそうに答えた。

彼の仕事は”人を助けること”。利用者から自分といて楽しいと感じてもらえることが何より嬉しいのは当然なのである。

例えば、どんなにサービスの仕事を感謝してもらえても、「なんかこいつと一緒におったらすっげえ嫌な気持ちになるなあ。っていうか会った瞬間から想ったが、こいつの嫌悪感っぱねえよな。吐き気がするくらいだ。」などと想われながら頑張って仕事を続け、そして仕事に対してはいつも引き攣った作り笑顔で感謝されるのはヘルパーとしても大分辛いことである。

干支藻は別段、37歳の独身女性惰飢えから「あなたといたら楽しいと感じる。」と照れながら言われたので嬉しかったわけでは決してないのである。

干支藻は誰からそう言われたとしても、まったく同じ嬉しい気持ちになって、その嬉しさを素直に照れながら返す男であった。

そこにある真正の純粋さを見抜き、惰飢えは彼に本当に恋をしたのである。

でも、惰飢えの苦しい恋慕の情に、この男干支藻はまだ気づいていない。

惰飢えひとりだけが傷つき、落ち込み、彼と会えないすべての時間、嘆いてはアルコールに慰みを求め続けた。

ただでさえ、大量に飲み続けなくては癒えない苦しみを癒す為のアルコールが、さらに増える夜もあった。

なので惰飢えはある瞬間、苦々しい想いに身を震わせ、真剣にこう想った。

彼の真の仕事とは実はわたしのホームヘルパー(Home Helper)担当ではなく、家を崖から落とす意味であるホームプッシャー(Home Pusher)であり、またの名を死へと導く男、デッドリーダー(Dead Reader)なのではあるまいかと。

だが、彼の真夏の太陽の下で真夏の蒼い風に揺れながら微笑む舞茸のような胸がきゅんと締め付けられる爽やかで優しげな笑顔を見ると、果して本当にそんなことは在り得るのであろうか?と疑わなくてはならなかった。

舞茸とは、自分の仕事を誇りになどしていない。エリンギや椎茸や、松茸のように自分の存在をえばることもしない。かと言って、えのき茸のように歯と歯の間にのめり込んで来るという失礼千万で愚劣な行為もしない。 そしてしめじのように、小癪な存在でもない。

だから、彼は茸の中で、必ず舞茸であらねばならない。

つまり彼は、みずから目立つことは一切しないが、その存在は人の心を熱く振るわせるほどの力を持っており、善なるエネルギーに満ちた光の茸なのである。

暗い森の奥に、一つだけ生えたその輝かしい舞茸を、惰飢えは見つけたのである。

彼は時に青白く点燈し、ミステリアスな面を惰飢えに見せるのだった。

彼は決して彼女に多くを喋らなかった。

惰飢えの移動支援を彼が初めて行なった日、100均店とダイエーに向って歩く道のりのなかでも、彼は沈黙の時間を恐れることはなかった。

彼はどこまでも、人を癒す存在であった。

ヘドロの底で苦しみ続ける惰飢えのような孤独な女の心の傷をも、彼のエネルギーは癒すことに励み、そして彼女の胸のろうそくに火を灯させ、自然と微笑ませることができた。

それでも彼女は、彼が少しばかり、疲れているのを見抜いていた。

でもその疲れた表情を、彼は決して人に見せようとはしなかった。

いつでも最高の微笑を、惰飢えに向って絶やすことはしなかった。

干支藻は今日も、惰飢えの目を真正面から耀く両の黒い目で見つめ、残念そうな顔で微笑みながら言ったのである。

「僕が惰飢えさんのヘルパーに入れないか、色々とがんばってはみたのですが、僕の抜けられる仕事が今なくて、残念ですが今月と来月一杯は惰飢えさんの御希望に添えることが叶わないかもしれません。」

惰飢えが物言わず、悲しい顔で残念であるということを表していると、続けて干支藻は笑顔でこう述べた。

「身体は一つしかないですからねぇ。」

惰飢えは無言で頷き項垂れ、その日、彼は「申し訳ない」旨を何度と爽やかに述べたあと、惰飢えの部屋を去って帰った。

その晩、惰飢えは悲しみの末にラム酒のストレート、シングル4杯を一気に呷ると褥に突っ伏して気絶した。

 

そして、二月後、暖かい春の訪れ、四月が遣ってきた。

或る日の午後、惰飢えの携帯が突然鳴った。

彼女の耳に届いた美声の一声、相手は愛しの干支藻であった。

「今日惰飢えさんにお話したいことがあるので、夕方にでも家に御邪魔させて貰っても良いでしょうか。」

惰飢えは喜んで、大丈夫であると答え、胸をときめかせながら彼を部屋で待った。

宵の刻、外が薄暗くなってくると惰飢えの部屋のチャイムが鳴り、彼女がインターフォンに出ると干支藻の声が響いた。

彼女はオートロックを開け、玄関に向った。

鼓動を高鳴らせながら彼を待っていると、階段を上る足音が近づいてきて、彼女の部屋のドアの前で止まった。

瞬間、彼女はドアをそっと開けた。

すると見よ、そこに湯気を立ち昇らせているかの如き麗しき壮年の男が後光に照らされて美しい微笑を湛えながら惰飢えの顔を見つめ立っていた。

惰飢えは久々に御目にかかった干支藻の神々しき立ち姿に胸を打ち砕かれ、腰は抜けてへなへなとその場に座り込んだ。

干支藻は瞬間、すわ、貧血か?!と想い咄嗟に惰飢えの肩を支えるのだった。

そして惰飢えの座ると同時に彼も玄関のたたきに腰を下ろした。

干支藻は、「惰飢えさん、大丈夫ですか?!」と優しい声で心配そうに訊ねた。

惰飢えは、「ちょっと腰が抜けてしまったようです。」と素直に半笑いで答えた。

干支藻は、これを冗談だと想い、彼女を見つめて爽やかに笑った。

そして、ふと部屋の奥に視線を移し、「おおおぉっ。」と大袈裟に彼は言った。

「すごく片付いているじゃないですかあ。頑張りましたね惰飢えさん。」

惰飢えは照れながら、「はい。御陰様で。」と言って微笑み返した。

週に一度の、家事支援ヘルパーを頼んではいたのだが、実際に家事支援をしてもらうのは月に二度ほどで、あとは(10年来の引き篭りのため)散歩を一緒にしてもらうことにして、結局はほとんどを自分で片付けたのだった。

それはやはり、自分の物は自分で片付けることが一番精神的に楽であったからである。

時には、町野変丸の漫画がヘルパーに見つかりはしないかとドキドキしながら部屋の片づけをするのは非常に精神的にきつかった。

ふと、「これはどんな漫画ですか?」と素直な好奇心から男性ヘルパーに訊ねられることがあったからである。

一体、なんと答えてよいか解らぬ漫画や本ばかりであった。

惰飢えの部屋は、当初そんな物ばかりが、ゴミのように埃と髪の毛に埋もれ、積まれながら散乱していた。

「これはですねぇ…近親相姦色のかなり強い闇の深い感じのエログロで悪趣味なサブカル漫画ですね。」と薄笑いで答えたところで、変態としてか見て貰えそうにないことはわかっていた。

これをわたしに自信を持って薦めてくれた今もずっとひとつの魂として愛し続けて止まない魂の同志である愛する八歳下の彼ならば、きっとあの時のように素晴らしく英明で思慮深い洞察力で見抜いた哲学的表現で彼の漫画を真っ直ぐな清らかな目で語り、決してただの変態性嗜好者とは見られなかったに違いない。

惰飢えもいつか、この漫画を彼のように愛し、深く表現することができたならと想うのだった。

その日までは、決してだれの目にもこの漫画がわたしの部屋にあることを見せてはならない。

惰飢えは、幾つもの彼女の秘密がこの部屋のなかにあることを喜んだ。

自分の部屋のなかにある秘密と自分の心のなかにある秘密、そのすべてを知ったなら、干支藻は彼女を軽蔑し、彼女の元から離れてゆくだろうか。

同時に、彼の部屋のなかにある秘密と彼の心のなかにある秘密のすべてを知ったなら、彼女は彼に幻滅し、もう彼を愛する日は来ないだろうか。

惰飢えの胸の底に、寂寞と悲しみの風が吹き、彼女は言葉を喪って黙ってそこに座り込んでいた。

干支藻はそんな彼女をまた心配になり、彼女に明るくこう言った。

「もし宜しければ、今日は初めて、部屋のなかに上がってお話しても良いでしょうか?」

惰飢えははっと気を取り戻し、「はい。」と答えて笑って頷いた。

彼は彼女の肩を支えながら彼女をゆっくりと立ち上がらせ、靴を脱ぐと共に部屋の奥へと突き進んだ。

だが、部屋の奥に来たものの、この狭い六畳間のどこに二人は座れば良いのか?二人は悩まなくてはならなかった。

デスクと椅子が一つずつ、床に直接敷いた万年床、小さなソファーテーブル、一畳ものうさぎのサークル、飾り棚と6個のキューブボックス、積み上げた収納ボックス、天まで届く本棚、残されたスペースと言えば、幅50cm縦170cmのスペースだけの10年近く使い続けている汚いベルギー製のメダリオン柄の絨毯の上であった。裏はカビが生えていることだろう。

この絨毯の狭いスペース上に、二人向かい合って座って話をするのは心苦しく、また足が痛くて痺れることだろう。

かと言って、同じく何年と洗っても干してもいない臭くて汚い万年床の上に干支藻を座らせるのも心苦しいものである。

だが干支藻一人をデスク前の椅子に座らせ、その左に彼女が敷布団の上に座って話をする場合、彼女はいつでも彼を見上げる形で、彼はいつでも彼女を見下げる形で話をせねばなるまい。

これは彼女が良くても彼がきっと許さない。

何故ならこれまでどんな日も、彼は自分が見下げる形で話すのを嫌っているように見えたからである。

彼女が玄関に立っているときには自分は座り、彼女が玄関に座る日には自分は必ずたたきにしゃがみ、彼女が玄関に座るよう言ったときにも、決して彼は玄関に上がって若干彼女を見下げる位置には立とうとはしなかった。

男はただでさえ女よりも力が強く、また頭の回転も素早くて賢く、感情的にならずに冷静に判断できることで女よりも上に立つものである。

女とはいつでも男より弱者であり、また少しのことに深く傷つく繊細な生き物である。

その為、男が女の上に立って話すことは女の心を傷つけてしまうかもしれないと女性性も強い男は不安になり、できればそれを避けたがるのである。

もっとも、彼はヘルパーであり、彼女を助ける為に此処へ遣って来た者である。

彼女に仕える男が、何ゆえに彼女を上から見下げる形の位置で話をすることを好むであろう?

できれば互いに対等の位置を望んでいるはずである。

惰飢えはたった5秒間の間に、部屋を見渡しながらこのすべてを考察した結果、干支藻に向って訊ねたのであった。

「座るの蒲団の上でもいいですか?」

「あんま綺麗じゃないのですが…」

そう苦笑いで付け足して彼女は左にいる彼の顔を見上げた。

すると意外にも、干支藻は悩むことなく「あっ、良いですか?御布団の上に座らせて戴いても。」と答えたのであった。

惰飢えは、この返事に戸惑った。

だってそうだろう。普通は恋人でも友人でもない男が女の部屋に上がり込んでいきなし蒲団の上に二人で仲良く座るなんてことは在り得ない。断じて、在ってはならない話である。

普通はそう女に言われたとしても、男はこう言うはずである。

「う~ん、でもそれはやっぱり…あまり良くないので僕はこちらの絨毯の上に座らせて戴きますから、惰飢えさんはどうぞ御布団の上に座ってください。」

これが好青年の正常な対応であろう。

しかるに、なんですか?干支藻はまるで、待ってましたと言わんばかりに彼女の薦めを断ることなく二つ返事で承知したのである。

これに惰飢えは一縷の悲しみを抱いた。

そして、やはり嫌だと感じたのである。

なので惰飢えは咄嗟にこう言った。

「やっぱり…」

そう言い掛けたときである、干支藻が察したのか、彼女の言葉の先を折って素早くこう言った。

「やっぱり、僕は絨毯の上に座らせて貰っても良いでしょうか?この僕の着ている服は言わばヘルパーの作業服でありますし、それで御布団の上に座るのはやっぱり良くないですね。すみません。」

この言葉に、惰飢えは干支藻が若干、混乱しているのではないかと想った。

干支藻は、実はとてもシャイな男であり、女性の部屋に上がった経験もあまり無く、女性と部屋で二人きりになった経験もあまりないのかもしれぬ。

であるから、彼の頭は緊張で混乱し、物事をまともに考えることすらできぬほどに頭が馬鹿になってしまったのであろう。

そうに違いあるまい。惰飢えはそう想い込むことによって、この遣り場の見つからぬ悲しみを蹴散らすことに成功したのだった。

それに、観よ。干支藻は観るからに、何か困惑しているかの様子で惰飢えの部屋の中心に突っ立っているではないか。

惰飢えは、そんな干支藻を観て、こう想った。

「嗚呼!これはわたしの愛する人…!彼は実は、とても不器用な人だったのである…!」

彼女は、彼の自然な器用さを愛していたかもしれないと想い込んでいただけなのかも知れない。

実は彼の器用さとは、作られた器用さであり、その不器用さを彼女は見抜いていたのではないか。

そう想い込むことでみずからの嫌悪感を払拭した惰飢えは、布団の上に静かに座った。

干支藻は、その頃にはいつもの静かな面持ちに戻って彼は絨毯の上に腰を下ろし、二人は小さな安物のソファーテーブルを隔てて向かい合う形になった。

二人はそうして、落ち着いて少しのま黙って見つめ合っていたが、とうとう干支藻が口を切った。

「惰飢えさん、僕が今から御話しすることを、どうか落ち着いて聴いてください。僕が今から御話しすることは、俄かに信じ難い話であると想いますが、これは事実です。僕は今から嘘を惰飢えさんに話すわけではありません。きっと衝撃を受けて、驚かれると想います。でもすべては、自分で考えた末に、決断したことです。」

干支藻は、唐突な衝撃的な言葉の数々に、ショックを隠せず、無言で涙を流す惰飢えを前に、話を続けた。

「僕たった一つの身体では、惰飢えさんの要望する通りにサービスを提供することが叶いません。これでは、はっきり言って、ホームヘルパー失格だなと感じました。大切な利用者様の要望通りにサービスを行なえなくて、何がホームヘルパーなのか、僕はわからなくなってしまったのです。一体僕は何をヘルプしているだろう、誰を心から助けることが出来ているだろうと、不安で、苦しくてたまらなくなったのです。きっと、他の利用者様の方は、こんなことを言うと駄目だと想いますが、正直、僕でなくても代りはいるのではないかと想っています。でも惰飢えさんは違います。惰飢えさんは、僕でなければ、本当の意味で助けることはできないと感じたのです。それは、きっと人間と人間の縁というものであると感じています。この縁を、僕は人を助ける役目としてこの地上に誕生した以上、決して無駄にしては駄目なのです。僕は絶対に、惰飢えさんを助ける。助けたいのです。惰飢えさんが、この三ヶ月間、ホームヘルパーを利用してもまったく飲むお酒の量を減らせず、日々鬱症状に苦しんでいることを僕は知っています。これは僕にとって、とてつもなく遣り切れないことです。なので、僕は真剣にこの数ヶ月、考えました。どうすれば良いのかと。僕の今遣っている仕事を、他の人間に代わってくれと頼むことは、できないことではないのかもしれません。でもそれだと、あんまりだと言う気がしました。自分の代りはいるだろうから、今まで遣ってきた仕事を、自分の代わりを他の人に遣らせるというのは、酷いことのように想ったのです。では自分が、この仕事を続けながらも、惰飢えさんを助ける方法はないのか?僕はあれから、ずっとずっと毎日そのことについて考えて来ました。そしてやっと、方法を見つけたのです。それはどんな方法かと言いますと、どうか心を静かにさせて聴いてください。実はですね、僕は錬金術と、白魔術を行なえる者です。これは修行によってとかではなくて、気づけば子供の頃から身につけていた能力です。僕はその、自分の編みだした術によって、僕をもう一人、生み出しました。何故かというと、僕の身体がもう一つ、本当に必要だと感じたからです。どうやって作り出したのかと言うと、これは多分僕自身の方法でしか作れない方法だと想います。つまり僕によってでしか、僕を作ることはできません。まず、何が必要だったか、それは一人の新鮮な青年の死体です。どうやって手に入れたかと言うと、死体安置所に保管されているある一人の身寄りのいない若い青年の自殺した死体を手に入れました。何故そんなことが容易くできるかと言うと、僕は警察の上部組織やフリーメイソンならぬ或る巨大な黒魔術秘密組織とも繋がりを持っているからです。遺族の存在しない人間の自殺死体は、実はあらゆる方法で手に入れたがる組織が多数あり、そのすべては無駄なく利用されています。この事実を、僕が知っていても黙っていることを惰飢えさんは悲しむかもしれません。でも間違いなくこの話を人にすれば僕は暗殺されます。なので惰飢えさんにしか話すことができません。この話は死ぬ迄、どうかシークレットにしておいてください。話を戻しましょう。僕はその自殺した哀れな青年の死体を闇経由で手に入れ、そしてその死体を丸ごとこれまたある闇組織施設の地下室にある自家用レンダリングプラントによってその肉体を丸ごと攪拌機に投げ込んでまずは骨ごとミンチ状にしました。そしてそれを大鍋で煮たものにその場で僕自身の手によって殺したそれぞれ三十三頭の牛と豚と鶏と馬と山羊と羊をすぐにレンダリングプラントでまた丸ごとミンチ状にして、それも大鍋に打ち込み、コトコトと数百種のブイヨンとハーブと塩と胡椒を入れて七日間煮込み続けました。七日が過ぎた頃、これに厚揚げと大根と人参と卵とこんにゃくとはんぺんと昆布とじゃがいもと蛸と烏賊とがんもどきと舞茸を入れて煮込みます。こんにゃくは、必ずねじりこんにゃくの形を取らねばなりません。そして茸は定めて、舞茸でなくてはなりません。」

「やはりか…!」この時、惰飢えは蒼褪め、吐き気をこらえながら心の奥でそう叫んだ。

「それで醤油と酒と味醂を足し、三日間、さらにことことと煮続けます。そのできたぐずぐずになったスープを、地上に上がって皿に入れて三十三皿、庭に並べます。その匂いに釣られて寄って来た野良犬をすべて外に出られないように拘束します。皿のなかのスープを飲み干した犬が三十三匹になればその拘束した犬のすべてを頭部のみを地上に出した状態で生き埋めにします。そして三十三匹の犬の頭の前に同じくスープ皿を三十三皿並べ、犬が餓死する寸前にその頸を切り落とします。その時、落ちた犬の頭が上手くスープ皿の中に入り、彼らはその魂でスープを飲み干します。この犬の頸のすべてを例の大鍋にまた打ち込み、三十三日間、煮込み続け、そしてそこに大量の小麦粉と米粉と片栗粉と油を投入し、捏ねます。それを巨大麵棒で伸ばしたものを僕の等身大のジンジャーブレッドマン型で型をくり抜き、巨大なスチームオーブンで七日間、じっくりと高温の蒸気と熱風で焼きます。七日目の朝、地獄の熱さのなかで、セカンド干支藻が、目を覚まします。そして”熱い!!”熱い!!”熱い!!”と絶叫しながら自力でオーブンのドアを開け、闇雲に外へ走り出して行きました。外の空気を、初めてその瞬間吸ったのです。それまでの僕は、恍惚朦朧としており、醒めているような夢の中にいるような、頭部が熱くてたまらなかったのですが、突然一陣の涼しさを覚え、気がついてみると、惰飢えさんのマンションの前に立っていたのです。」

一端、話し終えたセカンド干支藻は、惰飢えをじっと、物言わず透明な眼差しで見つめていた。

だが、突如、彼は噎び泣き始めたのだった。

惰飢えは震えの止まぬ心でその訳を訊ねた。

すると、彼は目の縁を真っ赤にしてこう泣きながら言った。

「僕は…僕は…、僕が生まれる為に、たくさんの生命に地獄の苦痛を与え、そして僕は生れ落ちました。惰飢えさん、貴女はこの世からすべての堪え難い地獄の苦痛をなくしたくて、ヴィーガンになったと以前、僕に仰ってくださいましたね。でも皮肉なことに、僕が惰飢えさんを助ける為に、僕は生み出され、その為に僕は惰飢えさんの最も苦しむことをしなくてはなりませんでした。そうしなくては、僕が惰飢えさんを助けることはできなかったのです。そうしなければ、僕が惰飢えさんを喜ばせることができなかった。」

セカンド干支藻は、大粒の涙を目から垂れ流しながら苦しそうに惰飢えに向って言った。

「正直に仰って貰えませんか。僕の存在は、惰飢えさんにとって、悪ですか。」

「僕がこの世に、僕自身によって生を受けたこと、それは間違いでしたか。」

約十分間の、沈黙が部屋のなかに流れた。

惰飢えの脳は、あまりの衝撃と悲しみにより、機能停止してしまったからである。

痺れを切らし、とうとうセカンド干支藻はこう惰飢えに向って、まるで悲しみを投げ付けるように、だが透き通る目でこう言った。

「僕は生まれきたことが間違っていたんだ。」

その瞬間であった。

惰飢えの脳が機能を再開し、ようやく惰飢えは言葉を発した。

彼女は彼に、悲しい顔でこう返すのがやっとであった。

「わたしはそうは想わない。」

彼は、自分の言った言葉を後悔するように、ただ彼女をじっと見つめていた。

 

 

その言葉は、まるで最初からそこに用意されていたように惰飢えには想えた。

何故ならば、その同じ言葉をかつて自分が亡き最愛の父に向って父の死ぬ一年ほど前に言ったときに、父が悲しげに返したやっとの言葉が、その言葉であったからである。