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生霊記 第一章

 今から続きがどこにも見当たらない小説を君だけに読ませるために書こうと思う。
 それはまるで失敗作の形を考えている間に完成してしまったような作品だった。


 昔は誰かが語っていた。その昔というのも自分の未来で、何の接点もない誰かが語っている。
 今まで黙っていたけれども、自分にはものすごい霊感があって、普通見えないものがよく私には見えてくる。未来の映像もくっきりと私には見えている。
 夜の遊園地って寂しいよね。すごく。あれを想像してほしい。そう、あそこにある遊具たちは、賑やかな時間の過ぎ去った暗い時間をいつだって感じなくちゃならない。
ああ楽しかったね、また行きたいね。そう人々が満足している間に、あの子たちはいつもさびしくて泣いている。
 私はそんな近所の遊園地の中のお店にひっそりといたアンティークのテディベアに恋をしていた時期がある。それは本当に恋だった。
 彼(自分の中では男だった)のことを想って一日中胸が苦しかった。ちょうど、中学を卒業して少ししたくらいだったろうか。ちなみにそこは枚方パークという私の実家の近くの遊園地で、アルバイト募集広告を見て面接に行ったけども、落ちちゃったんだね。 当時から暗い感じの人間だったから接客業は向いてないと思われたんだろね。こうしている間に彼はいなくなってしまう、彼を4万近くはたいて早く買い取るしかない、そう思った。値札にはそれくらいの値段がついていた。
 でも、あんなに日々胸を焦がし続けた彼のことをそのうちすっかり忘れてしまった。4万円など、自分にためられる金額じゃなかった。それと同じさ。
 自分が見ているものたちは、ちょうどそれによく似ていた。
 ぼくはよく思うんだよ、あの存在たちって、いったい何度同じ道を帰って家に入って、泣いてるんだろな、って。
 自分の家なのに、知らない人が住んでいる!おかしいじゃないか!でも彼らには自分の姿が見えない。話しかけても無視される。ぼくはここの主人だぞ!この家の、この場所の。
 そして彼が見えるぼくからは、反対の気持ちだった。ぼくの家になに勝手に入り込んできてるの?早く出てってよ!気味が悪いし、腹が立つ!僕の布団で寝ないでよ!ぼくのパーソナルスペースを侵すなよ!
 でもぼくがその存在に何度話しかけてもまるで聞こえないようなんだ。相手も僕の言葉を聞くことができない。
 互いに話すことができない。同じような思いで一緒に、いつも暮らしているというのに。ああ、なんてことだろう。
 目には見えるのに、まるで違う次元に暮らしているんだ、いや、それは事実なんだ。彼は、生きている次元そのものが違う。
 だから何を言っても無駄なのさ。そう諦めていた。
 でも彼は、たまに、ぼくの目をじっと見つめているときがある。
 ぼくが彼のことをすっかり忘れて何かに没頭していて、ふと視線に気づき振り返ると、その目が、まさに夜の遊園地の遊具たちと、忘れられたアンティークのテディベアのあの真ん丸な黒目なんだ。
 言葉が通じないと、こんなとき特に悲しい。
 そもそも、相手には本当に自分の姿は見えているんだろうか?
 確かに何度も目は合う。じっと何時間も見つめられている時もある。でもそれが見えている証拠にはならない。
 もし、もしもだよ、彼にはぼくの姿が見えてもいないのだとしたら、ああなぜだろう、ぼくが本当にここに存在しているのかわからなくなってくるんだ。
 彼はぼくを見ていない。ぼくとは違うものを見ている。いったい何を見ているんだろう。
 ふと気づけば、ぼくの本を勝手に読んでいる彼をじいっと見つめてしまったりしている。
 そしてぼくの視線(気配?)に気づいたのか、はっとした顔をしてぼくの目を見つめる、すると僕もふっと我に返って、今ぼくはどんな目で彼を見つめていたんだろう?って気になってしかたなくなる。
 彼はいったい何者なんだろう?まさか、幽霊ではなくって、生霊だったりしてな。
 生霊だと、彼は今もどこかで生きているってことになる。僕と同じように普通にこの同じ次元で生活しているんだ。
 でも生霊だとしたら、なんで彼はここにずっといるんだろう。ここに前にずっと住んでてこの場所に未練の強い人なのかな?あり得ない話ではないな、あり得ない話など、ない世界だろうから。
 
 そうして、彼と過ごす月日が過ぎていき、ずいぶん彼に親しみを感じ出して来た頃のこと。
 雨がやんだ後の晴れあがった5月の午後だった。
 僕は駅の近くで信号が青になるのを待っている彼を見かけた。
 お、珍しいな、外で見かけるのは滅多にないから、ぼくはいつものように彼に近づき、へへへっという顔を向けようとした瞬間、その場にひっくり返りそうになった。
 彼の様子は、僕の知るぼやけた輪郭ではなかった。彼は生身の肉体を持った人間の姿としてそこに存在していた。
 彼は僕を一瞥すると、奇妙な人間を見るような顔をして、横断歩道を渡ってすたすたと去って行ってしまった。 
 いやいやいやいや、待て、落ち着くんだ、ぼくよ、そっくりさんだろう?まさか、だって、ははは、そんなわけ、ないっていうか、あってほしくないっていうのか、ぼくの心はひどく狼狽して、信じようとしなかった。
 そして、そのまま、汗をびっしょりかいてCD屋にプリンスの追悼コーナーを見に行ってそこにたたずむ人たちと一緒に悲しむという予定も後日に延期にして家に帰った。
 白いワイシャツに、紺色とグレーのストライプ模様のテーパード風パンツを履いた彼が僕をきょとんとした顔で出迎えた。あれ、もう帰ってきたの、残念という顔にもとれた。
 おいいいいいぃっとぼくの心は叫んだ。さっき会った人間とまったく同じ格好じゃないか!
 朝に目にしたときは、黒のJUNGLEDoorと書かれたTシャツに青と黄土色のドットのトランクス姿だったじゃん!なんで着替えてるの?
 ぼくは心底裏切られたような気持がした。違う次元に生きている存在だから許せることがあったんだ。言葉が通じない人間なんだし、しょうがないよな、そう心を広く持つことができた。
 生きてんのかよ!おまえ。いや、同じ次元の人間なのかよ。宇宙人とか異星人とか、未来人とかじゃないのかよ?そう台所で勝手にぼくの好物のこごみを茹でてゴマとしょうゆとマヨネーズであえたものをこしらえて喜んでいる彼の後ろ姿に向かって訴えかけた。
 反応はいつも通り、ない。なんてこった。まるでこれじゃ、ぼくが幽霊じゃないか。
 幽霊?確かに生きている感覚はあまりない。存在感がまったくないと兄に気持ち悪がられたことがあるし、兄二人と姉とみんなで揃って冗談交じりに「○○○は幽霊だったりしてな、ははは」とみんなで笑いあった瞬間にぼく以外の全員の表情がぼくを見ながら凍り付いたこともある。
 い、生きて、ない……?し、死んでる……?でも死んだ覚えがない。幽霊なんてそういうものかもしれないけれど、ああそうか、夢の中で死んで、この世界で生き返ったかも?なんだかややこしいな、生き返ったなら、死んでないしな。生きてるけど幽霊?そんなばかな。な、あほな。生きてたら生きてるし、死んでたら死んでるでしょう。でもそれがよくわからないのか。死んでることを覚えてないっていうか、死んでることがどういうことか知らないじゃん。もうなんでもいいか。ぼくは生きてるし、彼も生きてる、そういうことにしておけばいい。だから問題なんだ!なんで生きてる人間がぼくの部屋に住んでんの?生きてると思ったら、邪魔でしょうがないよ。生きてるってことはだって、ぼくとはそう違わないことを考えて、ぼくを見てあれこれ不満を並べ立てたり、嘲笑ったり、軽蔑してるんだろう?どうせ。そんな人間と一緒に生活するなんて疲れるよ。ああ限界だ、僕は出ていくよ、ここを。彼とは、さよならだ。
 ぼくは貯めていたお金で引っ越しすることにした。荷物をまとめて引っ越し屋に運んで行ってもらってると、物がだんだんとなくなっていく部屋を眺めて、彼は茫然としているようだった。何が原因で君がここに住み続けているか知らないけど、君も大変だよな、君と暮らした数年、ぼくはすぐ忘れると思うけど、でも楽しいこともあったね、何考えてるかまったくわからなかったけどさ。
 まあ元気で、それじゃ。そう告げてぼくは床を見つめている彼を残し、この部屋を後にした。
 新しい部屋に、彼はもう来なかった。視線や気配を感じる一瞬もなかった。新しい生活は快適でならなかった。
 でもそんな生活も長くは続かなかった。
「こんばんは。隣に引っ越してきた○○です。これつまらないものですが」
 そう言って箱に入ったタオルを渡したこの人間の顔、ぼくは忘れることはできなかった。
「どうして…?」
「え?」
「君、ぼくのことを知ってるんだろう?」
 彼は怯えた目つきで言葉を詰まらせ、「すみません。覚えがないです」と言ってそそくさと帰った。
 見張られている気がする。ぼくは居てもたってもいられず、隣の部屋のドアをノックした。
 いるはずなのに、出てこない。ぼくは相当恐れられてしまったのかもしれない。
 
 数日後、ぼくは手紙を彼の部屋のポストに入れることにした。
 内容は「実は君の生霊とぼくは数年間暮らしていたんだ。」という始まりの告白文だった。
 そして三日経ったその日の晩、彼はぼくの部屋をノックした。
 「手紙を読みました」深刻な顔でそういう彼に僕はいよいよ今から謎が明かされると期待に胸がうきうきわくわくした。
 しかし彼の口から出た言葉はぼくの欲しい言葉ではなかった。彼はこんな頓狂なことを言った。
「その生霊は、わたしの死んだ双子の弟です。弟は去年事故にあってあっけなく死にました。あなたが見たその生きた弟がわたしの弟ですよ。彼はそのころ確かによく白いワイシャツと紺と灰色のストライプのテーパードパンツを気に入って履いていました。」
「いや、ちょ、ちょっと待ってくださいよ。なんで弟さんは死ぬ前から生霊となってぼくの傍で暮らしていたんですか?」
 彼は特に不思議な様子も見せず、真顔でこう言った。
「さあ、知りませんね。特にその辺の場所に思い入れがある話も聞いたことがないし。でも生霊なんてのは本人の知らないうちに飛んでいくと言いますし、弟自身もきっとわからなかったんじゃないかな」
「でも待ってください。あなたは、引っ越してきた日に僕が会ったことがあるようなことを言うとおかしな顔をしたじゃないですか、双子の弟がいるなら、ぼくは双子の弟さんと勘違いしていたかもしれないのに、何故訝しげな顔をして、覚えがないだなんて言ったんですか?」
 すると、彼はにわかに、「ぅ……」と小さく呻き、呼吸が荒くなった。
「嘘はやめましょうよ。あなたはぼくを知ってます。そうですね?」
「なんかちょっと推理小説みたいになってますね」
「いいから答えてください。あなたはぼくを選んであの部屋に住んだ。違いますか?」
 彼はちょっとのま、俯いて黙り込んでいた。
「ほら、この重い沈黙がもうあなたの答えです。そうでしょう?」
 すると彼は震えながらぼくの顔を見て、こう言った。
「あ、あなたこそ……なんで僕の部屋に、いつもいるんですか……」
 ここで、ぼくは背筋が、ぞわわわわわわわあああああああああ、ああああああああああああぁっっっっとした。
 「ぼ、ぼ、ぼ、ぼくが、あ、あなたの部屋に、い、いつも、い、いる、だ、だだだだだだだ、って……?」
「そうですよ。あなたは今でもいるんです。僕の部屋に」
「ぇ……どういうこと?今もって、つまり、それはこの部屋の隣の部屋にいるって、こ、こ、こ、こ、こと……?」
「そうですよ。なんでいるんですか?」
「そんなのこっちが聞きたいよ!」
「やめてくださいよ、もう。消えてくださいよ。あなたの生霊」
「そんなこと言われてもなぁ……ぼくはだってほら、ぼくの生霊まったく知らないし、言わばこんなの、他人ですよ、そうでしょう?あなたの生霊だって、あなた操れます?操れないでしょう?そうゆうもんでしょう。無理ってもんです。諦めましょう」
「そうですね。諦めたもの勝ちです」
「そうそう、っておいあなた、あなたが先に、ぼくを選んだのは間違いないです。そうです。だってぼくはあなたのことちっとも知らないんだからね」
「は?何言ってるんですか?わたしだって、あんたのことなんか知らないよ。会ったこともなかったよ、あんたは会ったことあるんだから、あんたがわたしを追い回してるんだよ」
「あんただと?人聞きの悪い、あんで、ぼくが、君なんかのことを追いかけなくっちゃあならねえの。あんで、ぼくちゃんの生霊ちゃんが、君の傍に居ついちゃってんの?君、なんか誘惑でもしたんじゃないの?やめてよマジで。ぼくちゃんの可愛い生霊ちゃんを自由にさせてあげてよ」
「もう怒った、俺は怒った、そう言うなら、今から、会いに来ればいい話だ、本人同士会って話をつけてくれ、今から俺の部屋に来い、いいな」
「な、なにぃ……?そ、それは御免だ、それだけは、それだけは死んでも嫌だね。だって、それってあれじゃん、死ぬ前によく見てしまうと言われているドッペルゲンガーじゃん?怖いよ!見たくないね、ぼかぁ。恐ろしいにも程があるよね?でしょ?あーた、自分の生霊やドッペルゲンガー見れます?」
「無理」
「でしょう?ほらぁ、自分にできないことを、相手に望まないようにしましょう、ね?もう大人なんだから」
「そうですね。わたしは大人です」
「ええ、ええ、大人ですとも、立派な。だからもう、やめましょう。こんなこと」
「どういうことです?」
「だから、あなたさ、生きてる振りしてるけどさ、ほんとは、はは、生霊か死霊なんでしょ?」
「なんでです?」
「ぼくにはそう見える。君さぁ、ぼくの部屋にずっといた生霊だよね?輪郭がぼやけてきてるよ」
「そ、そんな、あほな……自分にはぼやけてなんかない、ぼやけて見えないよ。なんでそんな怖がらせること言うんですか?」
「ははは、ぼくはね、ただ真実を知りたいだけなんですよ。君が、何者なのか、ぼくにとって」
「それはわたしも知りたいですよ。ああ、世界が、視界が、歪んできた」
「おい、大丈夫ですか」
「ふう、眠いな」
「おいっ」
「ふっ、ちょっと意識があの世に行ってたよ、ごめんごめん」
「逆にこの世に来てたんじゃないの?というか、こっちがあの世?だと向こうがこの世?これもうわかんねーな」
「とりあえず、今夜は寝させてください」
「なにそれ、俺が毎晩のように君を抱くことを強要しているみたいな言い方」
「そんなこと言ってないだろ」
「へっ、そんなこと言ってさァ、君、部屋に帰ったら俺の生霊抱いて寝てんでしょ?だろ?」
「ぅ……っ」
「やっぱしィ」
「なことするかよ!気味が悪い。生きてるか死んでるかもわからない存在と添い寝できるかよ」
「確かに、生霊ってのは、生きてるか死んでるのか、よくわからない存在だなぁ」
「生きてるのに、霊だしなぁ、どっちやねんってなるね」
「そうだよ、ふつう死ねば霊だよ、生きてる人を霊とは言わない、つまり、人じゃないってこと、生霊は」
「そんなことはわかってるよ」
「なんだかわからないなぁ、生霊と幽霊の違いってなんだろうね」
「うん、そういえばわたしの母が死ぬちょっと前に、祖母の枕元に生霊として立ったんですよね」
「よくそういう話って聞くよね」
「うん、不思議なもんだけど、変に納得できるものがある」
「死が近いわけだから、やっぱりあの世とこの世の境目らへんにいてるのかもしれへんね」
「そうですね、そう言うのが、生霊なんでしょう、生きても死んでもいる、みたいなね」
「なるほど、生きてるし死んでる、生きながら死んでて、死にながら生きてるんだ」
「そんな感じっすかね」
「そう思うと、生霊も半分は生きてるわけだから、特に恐ろしいとは思わなくなるね」
「まあ実際見かけたら恐ろしいと思うけどね」
「そうね」
「なんで俺が分離してんの?ってなるやろね」
「なるやろなぁ」
「でもそういう君、分離したほうだよね」
「まだ言ってるのか」
「ほら、触れば、透き通ってしまうよ」
「それはあなたが透き通ってるからわたしを触れないんだよ」
「あ、ほんま、これどっちが透き通ってて触れないのかわからへんわ」
「でしょ、透き通ってるのは、あなたですよ」
「いや、待て、両方とも透き通ってるという考え方もできるぞ」
「だから永遠に触れ合えないわけだ」
「触れる必要もないからね」
「そうだよね。恋人じゃああるまいし」
「そう考えたら、両者が透き通っている生霊や死霊同士の恋愛ってのはつらいもんだね」
「まあなぁ、もう朝か」
「朝の五時だね。帰って寝ないの?」
「だって部屋帰ってもあんたの生霊がいるし、ここで寝ても大して変わりないからもうここで寝ます。ではおやすみ」
「あら、この人寝ちゃったわ。生霊のくせに、寝るのね。ではぼくも、今日は寝ようかしら、ああ隣の部屋でぼくの生霊が寂しくしてないかな。ぼくが忘れ去ったアンティークテディベアみたいな目をしているかもしれないなぁ。でもどうして、ぼくの生霊は、ぼくを離れていってしまったのだろう。生きた霊と書いて生霊、生霊の離れたぼくは、死霊なのだろうか。今日はおやすみ」

 朝に起きて、ぼくは思った。声に出して言った。
「両者が透き通ってなくても片方が透き通ってるだけで、触れられんやんけ」
 生霊はまだ眠っていた。わけではなかった。部屋にいなかった。残されたぼくは、居たたまれなかった。ぼくの知らないぼくが、彼と一緒にいつも暮らしてる。ぼくの知らないぼくを彼は知ってるんだ。生きてるかどうかも怪しい彼が。生霊同士ならいいさ、同類なんだから、そこはぼくの入れない次元だ。でももし彼が生きた人間であるなら、こんなにやりきれないことはない。ぼくのものはぼくのもの、これが覆される。ぼくが知らないのに、きっとぼくを知っているであろうぼくの生霊。その存在が、どれだけぼくにとって、知りたい存在か。我が物にしたい存在か。だって自分が他人の物だと、ぼくはぼくを失うだろう。
 誰よりも、誰よりも我が物にしたい存在、そうだろう?それが自分だろう?そうさ、ぼくは、ただぼくを、ぼくのすべてを知りたい。でも生霊は、ぼくの中の霊はぼくから離れて行ってしまった。
 ぼくのぼくが、ぼくよりも他人を選んで、ぼくの傍にいることより他人の傍にいることを望んだ。
 ふぅ、しかしぼくは隣の壁をノックすることができなかった。ぼくの知らないぼくという存在は、得体のしれない幽霊のようにやはり恐ろしかった。
 でもよく考えてみたら、ぼくはどれだけぼくという人間を知っているんだろう。わかっているんだろう。知らない部分、わからない部分のほうが多いだろうに、なんてことなく自分という存在を自分であるかのように思って生きている。
 それ自体が、おかしいことなのかもしれないな。自分が自分でなくなるとき、いったいその存在を眺めているのは誰なんだろう。
 ぼくはふと思い返した。そういえば彼の生霊と一緒に暮らしていたとき、ぼくは彼をそこまで恐れはしなかった。何故だろう?気味が悪かったのは確かだけれども、彼の存在は何か親しみを感じる存在でもあった。いや、それは人間に感じる親しみよりも深い親しみだったかもしれない。
 ぼくはやっぱり生きた人間よりは幽霊や生霊のほうが近い霊寄りの人間なのだろうか。
 ぼくは自分を恐ろしくは感じなかった。自分がなんであっても、自分以上に親しみを感じる存在などいない。親しみを感じるだけで、恐怖は消える。
 それならば、ぼくがぼくの生霊にもし出会って、親しみを感じないわけなどないではないか。
 鏡を覗くと、そこに違う顔が映っている。でもそれも自分だとわかれば、親しみを感じるものだろう。ぼくがぼくの生霊を理解できないはずはない。
 遊園地の遊具たちだって、楽しむ存在だけではなく、泣いたり寂しがったりする存在だと理解してやれば、夜の姿を思い浮かべても、きっと違った表情を見せるに違いない。
 そうだ、ぼくが生霊を恐れるのは、ぼくという存在がぼくの知る存在であらねばならない、あってほしいと強く願いすぎているためだ。
 人を楽しませる遊具たちは、夜に寂しく悲しんでいるなんて、そんなことを思うと、もう人は彼らで遊ぶとき、悲しみを覚えるだろう。
 ぼくはぼくを自由にさせなくちゃならない。ぼくの知らないぼくもぼくだってことを受け入れなくちゃならない。
 ぼくは、ぼくの生霊を、ぼくの知らないぼくを迎えに行こう。ぼくは、そう決心し、拳を強く握りしめ、酒を飲んで準備を整えた。
 外は宵を少し過ぎて、どんどん暗くなってくる。もっと早く決断すればよかったと思った。
 震える身体をさすりながら、隣の部屋のドアをノックした。
 いきなりぼくの生霊がドア口から顔を覗かせてにたりと笑ったらどうしよう。失神して頭を打って死ぬかもしれない。ぼくの身体中から滝のように汗が流れ出した。
 そうしてるとドアが開いた。ぼくの鼓動はものすごい激しいテックハウスを響かせて、自分の鼓動に合わせて踊り狂いながら恐怖をごまかそうかと考えた。
 するとそこからぼくではない生霊が顔を覗かせて「なに?」と言った。
 ああ、よかったあ!ぼくの生霊じゃなくて、他人の生霊だったあ!ぼくはホッとしたものの、これから待ち受ける恐怖甚だしい試練を思うと、ぼくは本当に今からぼくの生霊に出会わなければならないのかと、自分に訪うた。
 自答を待っていると彼が迷惑そうな顔で「何の用かね?自分の生霊にでも会いに来たのかい?」と言った。
 「そうなんだ。さっきまで会いたいと会いたくないを量る天秤で会いたいが重かったんだよ。ところが今は同じ重さなんだ」
「なら帰ったらどう?わたしも暇じゃないんだよ」
「でも今帰ると……もう二度と会えないんじゃないか、そんな気がしてしまうんだ」
「わかった、わかった、じゃあこう想像してごらん?君の天秤の会いたいの皿の上に今突然空から巨大な重力の隕石が落ちてきて、皿が粉々になりました。これで答えは出ただろう?さあ中に入れよ」
「いや、それじゃ会いたいの皿がなくなって会いたくないの皿のほうが重くなって底につくじゃん」
「なんだって?答えはでも出たじゃないか。会いたくないの皿のほうが重くなった。君は部屋に帰り給え」
「も、もう少し時間をくれよ、いま君がドアを閉じれば、ぼくはもう二度とこの場所に立てない気がする」
「はぁ、あと何分?わたしはうどんを作ってるところでネギを刻まなくちゃいけないのだよ」
「ああ、それじゃあ、ネギを刻むのはぼくの生霊に頼んで来たらいい、あと10分でいい」
「わかったよ、ちょっと待っててくれ」
「オーケー」
 ぼくはドアが閉まらないように支えながら廊下の奥は見ないように目を手すりの向こうに見える藍色の空へ向けた。
 彼が戻ってきてこう言った。
「おい」
「なんだ?」
「君の生霊、わたしのうどんにネギ入れて食っちゃってたよ、どうしてくれるんだ、わたしの晩御飯をどうしたらいいんだね」
「そ、それは、すまないね、そうだ、あとで何か出前を取ろうよ。お金はぼくが払わせてもらいます」
「お、気前がいいね。お腹が減ってるんだ。早く中へ入り給えよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。あと5分できっと答えが出る」
 すると彼はiPhoneをどこからともなく取り出し「タイマー」と人工知能のSiriに向かって言い、タイムリミットを計り出した。
 ぼくは目をつぶって、鮮明にもう一人の自分と出会う場面を想像してみた。やはり恐ろしい。その存在とぼくは打ち解けあえるのか?もし恐怖しか感じられないなら、死ぬまでの後悔となる可能性がある。
 ぼくはふいに涙が溢れ出した。
 こんなに傍にいるのに。ぼくの知らないぼくが。誰よりも知りたいと思っているぼくがいるのに。会うことを悩んでいるなんて。これじゃ、ぼくの生霊が可哀想でならない。誰よりも傍にいたはずのぼくの生霊なのに。離れてしまえば、会うことが恐ろしいだなんて、酷い話だ。
 自分から離れれば、自分とは違う存在に感じるなんて。それはただ、どういう思惑で生霊がぼくから離れて行ってしまったのか、ぼくがずっと考えようともしてないからじゃないのか。ぼくは本当に自分という存在を愛して、自分という存在に深く関心を持ち親しみを感じているのか?
 今まで何度も他人が僕に関心を示さないことに腹を立てて責めてきたけれど、自分に関心がないのは、実は自分のほうじゃないだろうか?
 実際、最近自分の書いた文章を読み返す気にすらなれない。自分に関心を持てない人間が、いったい誰に関心を持つことができるんだろう?
 自分の生霊を恐怖するのは、自分の生霊に対する関心の浅さじゃないのか。自分から離れていったって、それは自分に違わないじゃないか。きっと僕が泣いたり喜んだりすることと同じように生霊も感情を持った存在に違いない。感情があるからこそ、きっと何かを強く思って、離れて行ってしまったんだ、このぼくの肉体から。
 ぼくがそれを知らないわけ、ないじゃないか。思い出すんだ、ぼくよ、ぼくは何を強く思った、誰を強く想って、どの場所を強く想って、どの道を……。
 夢によく出てくる場所、夢の中でよく歩いている道、夢でよく会う人、それらはぼくの意識してないぼくが強く想っていることの証なんだろう。自分の意識していない自分が夢の中でその場所で生活して、その道を歩いて、会いたい人と会って生きている。
 ぼくはすっかりと忘れていたことを思い出した。ぼくが、他人だったことを思い出した。
 ぼくは本当の自分である彼の部屋に入り、出前を取って、ココ壱のカレーを自分と一緒に六畳間であぐらをかいて食べた。
 本当のぼくである彼はらっきょうを口に放り込んだ後「やっと思い出したんだね」と言った。
 ここでぼくが、彼の生霊に親しみを感じていたことの謎が解けた。
 つまり、彼という生霊がほんとうのぼくで、肉体を持ったぼくが他人で、ぼくの姿をした生霊というのは、彼という生霊のそのまた生霊だということだった。そしてこの中で一番後に存在するようになったのがこのぼくで、それは考えようによって、ぼくが一番の生霊だということだった。彼らから最後に離れていった存在、それがぼくだからだ。
 生霊ならば他人だとは言わないと思うかもしれないけれど、ぼくはあえて他人であることを望んで違う性質と別々の記憶とを選びなおして彼らから離れていった存在だった。
 自分が二人いて、その二人がまったく違う記憶を持って生きていたら、それは他人と呼べると思うんだ。自分という他人だけれど、自分がそのもう一人の自分から離れた存在なら、本当の自分は相手のほうだと感じるものだ。相手が本物で、自分は虚構に思える。
 ぼくはほんとうの自分に向かって訪ねた。
「あれ?ぼくの姿と同じ生霊はどこにいったの?」
 彼はははは、と笑ったあと「君がここにいる限り現れないさ」と言った。
「どうして?」
「考えてもごらんよ、君は確かにその生霊から離れていった存在だけれども、それは全くの別の次元にいるってわけじゃないんだ、別の存在というわけじゃない。ちょうどいくつも重なったマトリョーシカはそれで一体だけど、中の小さなものを順に外していってもそのすべてがそれぞれ一体なのと同じさ。でも中にいたころにはその外側の目から自分より大きな自分の内側を見ることはできたけれど、離れてしまえばそこから見えるのはまるで違う物体になる。それを大きな自分と認識することはできないんだ。認識できないからと言って、同じ次元に存在していないことにはならない。すぐ近くにどでんと大きな自分がいる。つまり、見ることはできないけれど、感じることは可能だってことさ。」
「でも、どうして君はその生霊が見えるの?君は一番大きなマトリョーシカだから?」
「わたしだって、一番大きなマトリョーシカではないよ。中間あたりさ。わたしの内部にいる存在も外部にいる存在もこの目では見えない。それを見るには内部の目で見るしかない。内部の目を持つにはコツがある。ここで君はおかしいことを言ってることに気づかないかい?」
「何がおかしいの?……あっ」と僕は言って、確かにおかしいと思った。どうしてぼくには彼の存在が目に見えるんだろう?
 彼はポテトサラダをうまそうに食べて、こう言った。
「君はわたしを見るコツはもうすでに覚えている。どうしてだかわかるかい?」
「わからないな」
「ではこれを明日のお昼までの宿題にしよう」
「当てられたら、なにかご褒美をもらえるの?」
「そうだな、それでは君の生霊をプレゼントしよう」
「また増えるの?ぼくより小さいマトリョーシカ?」
「そうだ、大切にするんだよ」
「なんだか責任が重そうだなぁ」
「ほっといても生霊は育つ。安心しなさい」
「よぉし、ぼく、がんばるぞ~」
 そうしてぼくは自分の部屋に静かに帰った。
 もう恐れる必要はないんだ。そう思った。ぼくは、何故ぼくには彼の姿が見えるのか考えることをすっかり忘れ、布団に入ってぐっすりと眠った。
 そして夜明け前に目が覚め、ぼくは急いで考えた。僕は最初、こう思った。きっとたまたまパズルの最後のピースをぼくは見つけたに違いない。そしてわけもわからずにそのピースを嵌め込んで見えるようになれたに違いないと。
 するとうとうととしてすぐにまた眠りの中へ入ってしまった。
 ぼくは奇妙な夢を見る。
 現実では乗ったことのない飛行機にぼくは乗っている。ぼくは絶望的な心持でいた。機内のアナウンスが聞こえる。「機内でのパソコン及び携帯などの無線の電源は必ずお切りください。安全運航に支障をきたすおそれのある無線を機内で使用することは航空法で禁止されています。使用になられているお客様のいた場合は早急にご注意をなさって無線の電源をお切りになるように促すようよろしくお願いいたします」
 ぼくは隣の席の人に気づかれないように膝にかけたブランケットの下にパソコンを入れて無線の電源をカチッと入れた。ぼくはこの飛行機に乗ってる全員を道連れにして死んでしまおうと思った。
 しかし飛行機は落下とは逆の方向にその機体を傾けだした。まるでロケットのように垂直に立った飛行機はどんどん空へ向かって飛び続け出した。そして異次元にまで入り込んで、遠くではグレイ形の宇宙人が僕らに手を振っていた。みんな目を輝かせて楽しそうにしていた。ぼくはだんだんと恐ろしくなってきた。この飛行機内にいる人間全員が狂っているとしか考えられなかった。いったいこの飛行機はどこへ向かっているんだろう。水木しげる手塚治虫の漫画でロケットに改造された人間が延々と死ぬこともできず、人間的な感情を失った後も宇宙内を飛び続けるという話があったことをぼくは思い出し、さらに恐怖した。それは死よりも恐ろしく、寂しい場所に違いない。
 ぼくはこの状態が延々に続くことは、精神的な拷問が永遠と続くことだと感じた。
 機内の人たちは何故か一人一人消えていった。どこか異次元へワープしているのだろうか。ぼくがワープするとき、どうかその世界は死か、元の世界であってほしいと強く願った。
 ひとりひとり、いなくなって、最後のひとりになった。と思ったら後ろの席で物音がした。おそるおそる席の上に膝立ちになり後ろの席を見てみると、そこに彼が座っていた。ぼくはとんでもない安堵を覚え、嬉し涙を流し泣きつこうとしたら彼が手に持ったiPhoneを僕に見せてこう言った。
「タイムリミットはあと2時間だ。なぜ君が私の姿が見えるか、さあ答えを見つけ出すんだ」
「ええ?!いったいそれとこの事態は何か関係してるの?!」
「ああ関係してるとも、関係してないならわたしがここにいるのはおかしいだろう」
「答えを見つけ出せなかったらどうなるの?」
「勿論それは君の恐れている通りになる」
「ぼくの恐れていることだって……?」
「ぼくはこんな状態で延々と生き続けるのも嫌だし、変な世界にワープするのも嫌だよ!くそ!いったいなんでぼくは君の姿が見えるんだ?畜生!」
「落ち着くんだ。いいかい、知らないことを知るには、それまでの観念や概念では決して知ることはできない。君が一つ一つ知っていくということは、それ自体がひとつひとつ自分の考え方、見方を壊していくということなんだ。物事は積み重ねじゃない、破壊の連続で見えてくるんだ。君が何故わたしの姿が見えるのか、それを見つけるには、君の中の最も大きな信念を建て直す必要があるだろう」
「ぼくのなかの一番大きな信念をこの二時間で建て直せだって?!無茶だよ!」
「無茶だと思えばそりゃ無茶だ。諦めて君の恐れる事態を受け入れることだ」
「ぼくならやれるぜ!」
「その調子だ」
 そうとなればぼくは一休さんのように頓智を思いつけるように彼の隣の席に座禅を組んで仏の手を組み「ちーん」という心の中の鐘の音と共に瞑想に入った。
 しかし目をつぶれば浮かび上がるのは腹が減ったせいで美味い食べ物の映像ばかりで、なかなか深く瞑想に入っていけない。
 その次には睡魔に襲われ、座禅を組んだまま眠ってしまい彼に起こされた。
「あと一時間だ。ヒントがわかったかい?」
「ええー!!ヒントって何?」
「君はヒントをもらうために眠っていたんだ」
「何も覚えてないよ!」
「目をつぶって思い出すんだ。今見ていた夢の中に必ずヒントが隠されていたはずだ」
 ぼくは目をつぶった。すると街路樹の生えた広い道路の真ん中に自分がいたことを思い出した。でもそれ以外、何も思い出せない。街路樹……街路樹ってのは、ぼくにとって一体なんなんだ?なんの存在に当たるんだ?広い道路、広い道路は、とても……いい。道路は狭いより広いほうがいい。それがぼくにとって一体なんの関係があるんだ?真ん中にぼく……なんで真ん中にぼくはいるんだ?いくらぼくが宇宙の中心だとしても、道路は車がいつ通るかわからないんだから、危ないじゃないか?こ、この考え方を建て直さないと、見えてこない、それはとても納得できる……。ああ街路樹……街路樹はなんで街路樹なんだ。でもわからないぞ?道路の脇に立っていたのは木ではなく、ガイロ・ジューという外国人だったかもしれない。そうだ、それをぼくの変換で勝手に木にしてしまったんだ。では道路は、しんにょうと首と足と各だったかもしれない。いや、待てよ?道路って言葉はそもそもおかしくないか?昼食ランチ、サハラ砂漠みたいな言葉じゃないか。なんで道と路、ってみちって意味を二つ入れてるんだ?ぼくはぼくのiPhone4sでグーグル検索をした。万葉集では「路」という字は「チ」と呼ばれていた。それに御(み)が付いて「みち」と呼ばれるようになったかもしれないそうな。それじゃ御のつく前だと道路は「チチ」という読み方で呼ばれることになるな。路の右側の各という字は
「下向きの足」の象形と「口」の象形(「祈り」の意味)から、神霊が降ってくるのを祈るを意味し、そこから、「いたる」を意味する「各」という漢字が成り立ったらしい。

 そうか、つまり天の父である道に足を下すぼくが神霊で、それを見守るガイロ・ジューという外国の聖霊たちがぼくを両脇から見守っているということだな?どんな誇大妄想だよっ。
 しかし路という言葉と神の存在の意味が深く繋がっていたということがわかるな。
 道路というのも人が歩くために、人がそこを通るためにある。人がそこを通るために作る。これは神は人あってこその存在だということを表しているのだろう。
 それにつけてもあれだな、街路樹ってのは、道路の両脇にしか生えてないんだな。つまり、それって傍観者のようにも感じる。ぼくが進む道の後ろにも先にもいない。街路樹たちはいつでも両脇からぼくを冷静に観察しているようだ。ぼくの進む道に彼らは立たない!決して立たない。街路樹が道路の真ん中に立てば、邪魔で通れなくなるから。邪魔でその樹を斧で切り倒していかなくちゃならないからね。そして、切った切り株からはいつでも血が溢れて止まることはないという……うわあああああっっっ、街路樹殺人街道になってしまうな。「切り株」でグーグル検索してみたら「生きている切り株」って出てきた。なんだか怖いよっ。ってタイムリミット迫ってるのにこんなこと検索してる場合じゃなかった!あ、でも待てよ?街路樹はそういやよく切り倒されているよなあ?最も人間の身近で切り倒されている木かもしれないな?だってこの御時世、木を見るのなんて街路樹くらいかな、っていう人間が増えてきてるってぼくがいうじゃないか。そうか、街路樹は、切り倒された切り株が見せた過去の幻の姿かもしれないわけだな。ぼくはよく街路樹のことを思う。道を歩けば人々を和ませ、空気を綺麗にしてくれる街路樹。でもその足元を見れば、なんて狭苦しいところに生やされているだろう。正方形や円形に切り取られた場所の少ない土の上にけな気に生えているけれど、次に歩いて見たときには、もう切り倒されていたりもする。ぼくらの進む道に彼らは立たない……?いや、立たないんじゃない、立てないんだ。立てば邪魔だと言って切り倒されてしまうから立てないんだ。日本の道路は狭いから、歩道をちょっとでも広くしようと、あんなに端っこに立たされているんだ。でもいったい街路樹はぼくにとってどんな存在の象徴なんだろう?神の両端に立たされている街路樹……?ぼくが立たしているのか?君はただそこに立っていればいいんだよ。君はただそこからぼくを見守ってくれてればいいんだ。そんなことを無意識に定めている存在がぼくにいるのだろうか。 街路樹、路、その真ん中を歩くぼく。ぼくが歩く道をぼくだけが歩くのは当然かもしれないな。街路樹はぼくが追いやってるわけではないんだ。でもそう思いたいだけなのかな。僕が関心もなければ、ぼくの両脇に立たせたりなんかしない。関心がないなら僕の目には見えないだろう。僕の目に街路樹は映らない。まるでそこにいないのと同じことだ。
 街路樹は僕の邪魔をしないし、僕の邪魔はできない。街路樹はいつでも着いてくる。道を曲がっても、遠くまでやってきても、いつも路の端にいる。両脇の街路樹にいつも静かに見られているぼくは緊張がやむことはない。でもだから歩くことが楽しいんだ。孤独な道を歩くことがこんなに嬉しいんだ。そうだ、街路樹ってハイウェイの連なる街路灯にも似てるな。ぼくはあれがとても好きなんだ。あの光景を思い浮かべるとうっとりとする。暗い道をどこまでも照らし続ける、どこまでも続いていく炎の色をした光の列。
 ああ、眠くなってきた。朝の五時だ。今日もおやすみなさい。

 そしてぼくは、突如、便意を催し、機内のトイレへ駆け込んだ。
 飛行機は垂直に上を向いている状態なので、ちょうど便器に座ると便器が座りながら眠ることのできるベッド代わりになり、そのあまりの快適の良さにぼくは恥ずかしくも用を足しながら眠ってしまった。
 こんな夢を見たのだ。
 ぼくはすべてに傷つき果て、すべてを憐み悲しみから真理を見出すために一人、山の奥の暗く冷たい洞窟に閉じこもることを決めた。
 その生活を通してぼくが学んだことは筆跡に尽くす。筆跡に尽くすとは何だ?筆舌に尽くしがたいものがあると言いたかったのだ。食生活から変えていった。ぼくはほとんど断食を行い、果てはほぼ光と水とてんとう虫だけで生きていけるようになった。
 この小さな虫の天の道の虫と名付ける人間はなんという愛だろう。
 この虫を食べればぼくも天の道を進める気がしたのだ。
 そして光と水とてんとう虫を食しながら苦虫を噛み潰したような顔をしてとうとうぼくは目覚めたのだった。
 約、20年余りの月日が過ぎていた。
 ぼくは山を下り、人々の住む町まで戻ってきた。ぼくの体から発せられる異様な体臭にすれ違う人全員が顔を背けて「くせえ」と言った。なんせ20年余り風呂に入ってなかったのだ。が、そんなことさえ微笑ましいことであった。
 ぼくはぼくの家に帰り、その真理をブログにアップしようとパソコンをオンにしてキーボードを打ち始めた。
 題名はこうだ。
 「やっぱり便の中に宇宙ってあるんかな」
 そこで自分は愕然とした。自分が20年間苦しみに苦しみぬいて目覚めた真理を言葉にすると、なんという陳腐な響きになるのだろうかと絶望したのだった。
 言葉の中にだけ真理はあるのに言葉では真理を表すことはできないのだという真理に我は目覚めたのだ。
 我が苦しみぬいた20年間は無駄だったのか。いいや決して無駄ではない。しかし我は洞窟に閉じこもる以前よりも途方に暮れてその後、死ぬまで風呂には入ることはなかった。
 そののち、50年間風呂には入らなかった。
 という夢想をして夢から覚めた。
 まどろみの中でまず感知した感覚は嗅覚だった。臭い、なんだ?うわっ、なんでぼく、トイレで糞しながら寝てたんだよ。だからあんな変な夢見たんだな。ふぅ、ぼくはケツを拭いて便器の水を流して手を洗って自分の席に戻った。
 ほんとうにぼくである彼は眠りこけていた。ぼくはほっとした。いなくなってたら、どないしょう、と思ってたんだ。
 変な次元に入り込んでしまっているんだろう、機内は重力という重力を感じなかった。
 だから垂直に傾いていても楽々と機内を移動できるのだ。へっ、まるで幽霊にでもなった気分だぜ。縁起でもないことを言うなっ。とぼくはSelf Tukkomiをした。
 うおっ、あとタイムリミットが一時間だって?な、あほな。あんなアホな夢を見てしまったおかげで変なモードに入っちゃって、これじゃとても僕の真剣で重苦しい信念を壊して建て直すなんてできっこなさそうと思えば本当にできなくなってしまうから、そんなこと思ってるわけないんだよな、ははは、はははは、ははははは。もう、何言ってるんだよ自分、思ってるわけないだろう?冗談、冗談、Japanese Jyo-danだよ。
 兎に角、座禅だよ、座禅、目をつぶって、心を無にして考えるのだ。できるかっ。心を無にして、呼び起こすのだ、本物の自分を。感覚の自分を呼び覚ますのだ。
 宇宙よ、出でよ!
 ぼくはまたもや座禅を組み手を仏の形に組んで心地よい鐘の音を心の中に響かせた。
 チーン。
 そしてまた夢の中へ入って行ってしまった。
 そこは、ゲームの世界だった。といっても、恐竜同士で戦わせることや様々な変なモンスターが出てきてHPを減らされるということなど何も起こらないゲームだった。ぼくらの日常そのままをゲームにしたゲーム。これがどのゲームよりも面白いから面白い。平凡ではあるけれども、どんなスリル溢れるゲームよりも面白いのは何故なんだろう?
 この世界では、だいたいのことは叶う。例えば、自分の容姿、これも好きに望むように作って変えることもできる、生まれる前に自分でデザインすることもできる。よし、俺は23歳を過ぎたあたりで禿げたいな、そう思えばちょうどその時期が来たら禿げてきてくれるように設定できる。そして若禿げを苦しみ、その壮絶な試練によって大切な何かを見出そうという人生設定、生涯の計画だ。
 でも一旦ゲームを始めると自分でデザインしたこと、自分でデザインできることすべてを忘れるように自分で設定している。そのほうがおもしろいからだ。
 そうすると、自分の願うことがだいたい叶う人生とはならない。ほとんどのことが叶うゲームの世界だけれども自分で作り出した自分は自分の本当の願望や目標を忘れてしまうから、その自分は自分の作り出した自分から離れて行って違う願望や目標を持ったりするからだ。
 だからどうしてこんなに叶わないんだろう?思い通りにならないことだらけで人生がつまらないと思う人も多い。
 でもぼくの場合はこの世界がゲームだとわかっているから、思い通りにならないことをむしろ楽しめて、こんなに面白いゲームはないと感じてこのゲームを毎日やっている。ここでさっき言ったことと真逆のことを言ってるけれど、ぼくだってすべてのすべてをわかっているわけじゃない。何故ならこのゲームは複雑過ぎて、人間の脳では最早理解することはできない世界だからだ。
 ゲームだとわかっていても、何がどうなってこうなっているのかということがほぼわからないゲームというのは、自分で操作できないあらゆることで溢れかえっている最高に難度の高いゲームだ。
 そう、こんなに難しいゲームは他にはきっとないだろう。だからどのゲームよりも面白いんだ。
 悪いモンスターが現れてやっつけられた、ぼくの正義の勝利だ、そして村は平和を取り戻した、やった!それではすぐに飽きてしまう。そんなゲームはどこにあるか知らないが、ゲームというのは難しいほど面白いものなんだ。難しすぎて一向に前へ進めない、確かにこれじゃ面白くないだろう。でもそれは、進む道がそこにしかないと勘違いしているからだ。
 つまり、そこにしか道が存在してないゲームをやってるから面白くない。ゴールに最も遠い道を疲れきった身体で寄り道ばかりして、てんで辿り着けない道ばかりのそのそと歩くというゲームを選ぶこともできる。
 人間はいつだって面白い道、愛着の湧く道を求めている。どうしてもこの道がいいんだ。そんな道が誰にでもあって、そこをみんな歩いているんだ。でもその道が、例えば木の形をしていたら、大きな幹を歩いていて、てっきり一番上の高い枝の先へ辿り着くかと思いきや、辿り着くのは一番地面に近い部分に生えた枝の下の小さな若葉のその葉脈の先の場所だったということもある。
 その木の脈がすべて自分の歩くことのできる道で、すべての道を歩き通すこともできる。つまり宇宙中に自分が歩くことのできる道が存在しているということになる。
 開かれていない門はひょっとすると別の道、地下から潜ってみれば開く門を見つけられるかもしれない。
 その門に厳重な鍵を掛けたのは自分なんだ。でもその鍵をどこに閉まったのか忘れてしまった。
 実はその鍵は森の奥のとても大きな湖の底に沈んでいる。その門を開けるには、まずその湖を探しださなくちゃならない。その湖を探しだすためにあらゆる道を通らなくてはならない。
 地獄のような道も自ら通るのは、その門の先が自分にとってとても大事な場所だからだ。
 そして気付くとぼくは誰もいない場所を歩いていた。
 ひとりではなかった。うさぎを抱っこして歩いていた。
 その道は歩けば疲労は激しくさびしくもあったけれど、わくわくすることがたくさんある道でもあった。
 見渡せばのどかな町は広々としていて、誰もいないのでシンと静まり返っていた。
 鳥や犬や蛙や虫の鳴き声が聞こえるものの、どこで鳴いているのか見当たらなかった。
 だれも住んでない家々や建物はそこが時間の止まっている場所なんだとはっきりと感じられた。
 ぼくは好きな家や建物の中に入り、生活をした。
 そこにある冷蔵庫からなんでも取っていろんな料理を作り、人のパソコンを使ってゲームをしたり、人の家の庭でガーデニングを楽しんだり、誰もいないスーパーマーケットへ赴いてはたくさん買い物をして帰った。
 時間が止まっているからなんでも新鮮なままで古くなることもなかった。
 古くなっていくのはぼくとぼくのうさぎだけのように感じた。
 でもそれは生きている証だから、それ自体が喜びだった。
 この町は、何も起こらない。それはぼくとうさぎだけが暮らしているからだ。
 ぼくが突然発狂して籐でキリギリスの大きな置物を一日中作って一日を終える日が10年続いたり、うさぎが突然巨大ロボラビットに変身して何故か二足歩行でぼくを乗せて移動するというような変わったことも何一つ起きない。
 本当に何も、何も起こらない。星の王子さまですらバラに恋をしたりして波乱万丈な星での生活を営んでいたというのに、ぼくは突如庭先に落ちていた松の葉のその根元の分かれていない部分だけに恋をするというようなことも起きない。
 なのに、どうしてこんなわくわくするんだろう?ぼくが生きていること、ぼくのうさぎが生きていること、これだけでこの安心感はなんだろう。まるでこれじゃ、あと数年で人生の幕が閉じることを悟っている老人のようじゃないか。
 さびしいのにわくわくする。疲弊しきっているのにうきうきする。もしかしてぼくはもうすでに発狂しているのだろうか。
 ああ本当にこの街には、この世界には誰もいないのだろうか。
 ぼくに見えるにんげんが……? まさか、ぼくに見えないだけでたくさんの人が暮らしているなんて、そんなことないよなぁ。
 真っ暗で灯りのつかない家々たち、あの中で普通に人々が暮らしていたり、そんなはずないよなぁ。
 ぼくはふと思いついて誰か知らない人に向けて手紙を書き、それを瓶の中に入れてコルクで栓をし、不安だったからさらにサランラップを巻いてセロハンテープでぐるぐる巻きにして川に流した。
 ぼくの住所を書いてあるから、もしこれを読む人がいれば返事が届くかもしれない。
 すると驚いたことに次の朝にポストを覗いてみるとぼく宛てに手紙が届いていた。
 ドキドキして封を開けた。
 そこにはこう書かれてあった。
 「手紙をありがとう。
 この手紙をわたしはずっと待っていたよ。
 やっと送ってくれたんだね。
 ところでわたしは誰だかわかりますか?
 制限時間を設けるから、よく考えてください。
 制限時間は三日間。
 もしわからなければ、その時は、いいね?
 君ならきっとわかる。そう信じているよ。
 
 ペンネーム キレギレスより」

 と書かれてあった。
 まるで狂人の脅迫状みたいでぼくは手紙を流したことを心から後悔した。
 なんだ、この世界にも人間が住んでるんじゃないか。ぼくは嬉しいよりも、がっかりとした。
 それは自分だけの特別な愛するパーソナルスペースを小汚い糞を踏んだ土足で上がり込まれたような感覚だった。 
 相手はぼくを知っているようだけど、ぼくはわからないな。制限時間を過ぎればいったい何を起こすつもりなんだろう?
 ペンネームのつけ方にセンスを感じるし、相手は相当きれぎれに生きてる賢い人間かもしれないな。油断はできないぞ。
 ぼくは湯船にゆったりと浸かり心を無にして思い出そうとしたがなかなかうまくいかなかった。
 そうしているうちにうとうととしていつの間にか眠りに落ちていった。
 
 悲しみにも色々あるが、すべての人間を見下している人間は本当に悲しい人間だよな。
 だってそのすべてに自分も入っているわけだ。
 ああわかっているよ、それだけじゃあないさ。本当に悲しい人間とは、自分しか愛せない人間だよ。その点俺はいろんな人間を好きになるが、それがいったいどれほどのもんなんだと思うね。
 愛する人間に愛されたからってなんだっていうんだろう。
 俺の人生がより悲しくなり、美しくなるってか?もう十分だと思う。
 俺はもう十分だ。その点に関してはね。俺は十分悲しく、美しい。これ以上のものは最早ない。
 だから俺は言っとくが、愛なんてもう望んじゃいないし、だれにも感謝されたくはないし、俺はつまり、バナナを皮ごと食う猿みたいなもんだ。バナナの皮は渋くて皮ごと食えば身の甘さは半滅する。バナナの美味さを味わおうとせずに、ただ喰えたらそれでいい、そう思って俺は人間と関わっているようなもんだ。
 俺は言っておくが、君を喜ばせるために何かをした覚えなどない。俺はいつでも君を苦しませたかった。君を苦しめるためだけに俺は君とは関わってきた。しかし君は何故か、何度も俺に礼を言う。可笑しなことだ。勘違いも甚だしい。礼を言われるたんびにいつも俺は居心地が悪く、落ち込んでしまうよ。何故届かないんだと。俺のこの想いが。俺はとにかく君を苦しめたい。君を特に苦しめたい。何故かはわからない。苦しんでいる君を想像すると、ぞくぞくするよ。喜んでいる君はまったくつまらない。何の魅力も感じないね。これじゃまるで君の魅力を失わせるために俺が君を喜ばせているみたいだ。君はもっと、苦しむべきだ。そして俺を苦しめてほしい。何度も言ってきたはずなのに、君は何もわかっちゃいない。君はバナナを皮ごと食う猿みたいなもんだ。ちゃんと剥いてから食ってほしいものだ。俺は剥きたい。俺は剥いて食べたいよ。君のバナナを。君の苦しみを想像することが俺の喜びなんだ。君を苦しめていると思うと、俺は欲情するよ。俺はそれで十分なんだ。ほかに何にも欲しちゃいない。俺は君を苦しめるがためにもう何度試んできただろう。じっくりと君を痛めつけていくためにもう何年の月日を費やしてきただろう。まだ終わらせる気なんてさらさらないよ。何故終わらせようとするんだ。俺の生きる喜びであるこの企みを打ち壊そうとするのはよしてほしい。俺を殺さないでくれ。俺は君を苦しめたくて生きているようなものだ。君に苦しめられたくて俺はいつも飢えきっている状態なんだ。君だって本当はそれを望んでいる。君も俺を苦しめたいし、俺から苦しめられたいとそう思っている。俺はそれがわかっているんだよ、だから君をずっと愛してきた。苦しめ合う愛以上の愛はこの世に存在しない。俺はそれをわかっているんだ。俺が君に優しくするのもすべては君に俺を信頼させるために必要なことだからだ。君は毎回まんまと騙されてしまうんだな。そんなところも愛している。君はまるで子供のような面を持っている。おやつを与えたら素直に喜ぶ子供、中身が毒入りなのも知らずに。俺は君が幸福になることなんか望んじゃいない。君には、不似合いだ。その魅力のなんにもない場所で生きることは君にふさわしくない。君は本当に闇が似合う。黒水晶や黒瑪瑙も真っ黒なほど自分をよく映してくれる。君が闇であるほど、俺を映し、俺は君が愛おしい。君の闇が薄まるほど君は俺を反射しなくなる。俺はそんな君に興味もないよ。君はわかっているんだろう?俺が君に何かのアクションを起こすとき、すべてが苦しみの幕開けになると。それは俺が苦しみでできているからだ。あまりに空虚なその幻で君が喜ぶ姿を俺は見ていられない。その幻から覚めて闇に沈み込む君が見たいだけなんだ。どうしたらその幻を君に見せられるか、そのために俺があらゆるやり方で君に虚構を見せてきた。俺のすべてが虚構であるということを君に見せてきた、君はそれをわかっている。俺が君を信じるのは、君の闇だけだ。それ以外を俺は信じはしない。君の闇を知りたい。君の闇が見たくて俺は君と関わろうとしてきたんだ。俺が君を手に入れたいのは、闇は俺のものだからなんだ。君が闇の中にいる以上俺から離れることはできない。俺が君の闇を求める以上君は俺のそばにいる。いつでもそばに、俺は君のそばにいるんだ。気づかないか、俺はいつでも君のすぐそばで息をしている。息づき、苦しい吐息をもらし、喘いでいる。同じ闇にいると感じられる時だけ快楽を感じる。俺は君の闇に侵入される日を待ち望んでいる。俺の闇が君の闇に侵される瞬間を。だって二つの闇は、まったく同じものではないんだ。ほんの少しだけ似ているかもしれないというだけだ。二つの闇が交じり合う瞬間、一体どんな闇が生まれるのだろう。その闇を俺が誰より想っている以上は君の闇は俺の闇のいつでも近くにいる。俺はだから、まるで生霊のようだ。自分を生霊のように感じる。この世の闇の中で息づいている者、それが生霊でなくてなんだろう。君とはどんな因縁があるか知らないが、互いに闇で引かれ合っている以上は、俺の言うことに君は納得できるはずだ。似ているから引かれ合うのだろう。しかしどんなに引かれ合っても、二つの闇がどちらかに飲み込まれることはない。安心し給え。君の闇と俺の闇はどのように混じり合おうと別々のものだ。俺の言っている交じり合うとはつまり融合ではなく、絡み合うという意味だ。闇と闇が絡み合い、一体生まれる闇があるのかを見たいということだ。俺は新たなる闇を見たい。その為だけに俺は君に執着している。俺は君の新たなる闇を見たい。俺はそれを見せたい。君に新しい闇を見せたい。それは君の闇に釣り合うほどの闇でなければ、生まれはしないだろう。俺にはその自信がある。俺はそれだけに自信がある。俺の闇はそして年々濃くなってきている。俺はこの闇が本当に愛おしい。闇は俺のもう一人のマザーであり、ファザーなんだ。俺を育てている。そして闇の使いである死神は俺をいつでも見つめている。俺は死神から乳を与えられあやされ、ようやく生きているようだ。俺は俺の死を想うことはできる。しかし君の死は考えられない。これは俺が自分以上に君を人間じゃないように感じている証拠だろう。君は俺にとって、闇そのものなんだ。君は俺の中で人間ではない。俺は君を人間として愛していない。君をもし人間と感じる日が来るなら、それは俺にとっての君の死を意味する。君は消えていなくなってしまうだろう。君を肉体を通して交わろうと想像したことが何度もある。しかしその肉体自体が、最も君の闇を表すものであるように感じている。何故だかわかるかい。肉体とは精神以上に虚構のものだからなんだ。肉体それ自体が虚無で闇に最も近い。肉体の交わりが死に通じているのはその為だね。エロスは死と通じている。その闇が快楽と苦しみをもたらす。俺は何度も君の闇と交わる妄想をした。それはあまりに恍惚で実際には叶わないことだからこそ価値がある。実際に行ってしまえばどれほど虚しいものだろう。君は俺を愛さなくて本当に良かった。肉体の交わりは、そのすべてが虚しいものだった。幻との交わりほど甘美なものはない。肉体は肉体を求める、闇は闇を求め、虚無が虚無を求め、虚構が虚構を求める。そして精神は幻を求める。君はいつの日か、現実と幻想の区別がつかないと言ったね。俺はどうも君の現実と幻想の定義と俺の現実と幻想の定義が違うのではないかという気がしている。俺の言う現実と幻想というのは、簡潔に言うと、不快と快だよ。現実は不快で埋め尽くされている。不快なものがすなわち現実なんだ。そして快いものはすべてが幻想であるということなんだ。俺が例えば君に何かを言われて快さを感じるならば、それは幻想なんだ。幻想は快さであるから、虚しい。それは容易なんだ。快さを求めることが容易で、快さを感じて喜ぶことが容易なんだ、だからすべての幻想は虚しい。不快なものは苦しく、それを自ら求めることは容易なことではない、だから価値があり、幻想より虚しくはない。俺はだから現実派なんだ。肉体の虚構というのは、これは苦しみであるから現実であり、すなわち価値がある。闇は苦しみであるから現実であり、その苦しみの深さは価値の大きさになる。君と肉体の交わりを行えばどんなにか虚しいだろう。その虚しさの苦しみは価値があり、それを求めずにはおれないというわけだ。つまり、幻想も、現実も虚しさには違わない、そういう意味で、君の現実と幻想の区別がつかないというのは同じ意味となる。どちらも虚しく、苦しい、その中で分けた不快と快という区別のことを俺は言っているんだ。容易さには、容易さの苦しみが用意されている。俺はただいつでも苦しみの大きいほうを選びたいと思っているだけだ。幻想より現実を選びたい。君はしかし、まだ俺に現実を見せているように感じられない。君はまだ俺を全然苦しめられていない。君が俺に見せている闇は、ちょうど君にあげたパワーストーンほどの大きさの闇だ。確かにこんな大きさでも十分自分を映そうとする。君は俺に苦しみを見せないで、感謝ばかりしている。俺は君に嘘を言った覚えはない。俺のすべてが嘘だからだ。君に対する感謝は嘘ではない、しかし本当ではない。君を本当に愛している。しかしそれも君の闇に映った自分に対して言っているようなものだ。俺は君の闇しか愛していない。これはいったいどれほどのものなんだろうと俺は思っている。それが見えなくなった途端、俺は君に興味も抱かなくなる。それはいったいどれほどの苦しみに、闇になるだろうか。俺は君の悲しみが見たいんだ。君の悲しみは、君の何より美しい。俺は君の闇に恋をした。それは俺にとって君の悲しみに恋をしたことと同じことだった。ここで君の闇の定義と俺の闇の定義が違ってくるのかもしれないね。俺は君の闇に悲しみを感じるからそれを美しいと感じるんだ。俺は君の虚無や暗黒な部分に恋をしているわけじゃないんだ。俺は何より、君の悲しみを愛している。それ以外は、俺は君を君だと認識しない。悲しみでないもの、すなわちそれは君ではない。俺はそれを見ようともしない。俺の闇は深くなっているようだ。生きるほどすべてを愛し、すべてに無関心になってきているようだ。君の言葉はまるで、俺には向けられていない言葉のようだ。俺だけには向けられない、俺が受け取ることのできない言葉のようだ。俺は君の感謝の言葉を受け取ることはできない。それは、俺に向けられた言葉ではないからだ。俺は君を悲しみとして愛している以上、悲しみ以外から発せられる言葉は、俺に向けられた言葉だとは信じたくない。全くの別人か、それとも君自身に向けての言葉にしか思えないんだ。俺は君が悲しみを見せてくれないことに飢えきっている。しかしその悲しみは俺に向けて発してはならない。それは俺にとって悲しみより、虚しい幻想の喜びとなってしまうからだ。俺はそれを望んでいない。俺は君にとってそんな存在であってはならない。君は俺を安易に喜ばせるような存在であってはならない。君は俺を特別扱いしては、決してならない。幻想は確かに悲しいものだ。でも俺は現実派だから、俺はどこまでも不快派で、君はもっと俺を苦しめ悲しませることのできる存在なんだ。だからそれを俺は望んでいる。具体的に何をどうすれば、そんなことは俺も知らない。でも言えるのは、君は十分に俺に悲しみを見せてもいないのに、俺に感謝しているということだ。これでは虚しい。君がもし、喜びよりも苦しみをもって俺にアクションを起こすなら、それは俺はとても嬉しい。想像するだけで生き返るような感覚になる。君の苦しみに俺は愛を感じる。俺が君を喜ばせ、君が喜びを返してくれても、俺はそれを愛と感じられない。俺は君のいつもそばにいたい。君の持つ喜びの周波数と同じ周波数を俺は持っていない。俺は共に喜び合うことはできないんだ。君の悲しみの周波数しか俺は合わせることができない。それ以外はノイズで何を言っているか聞き取れないんだ。それは俺に向けられる言葉ではないから俺は聞こえないんだと思う。
 悲しんでほしい、俺という人間を。俺はどんどん、そんな人間になっていく。
 俺は読み返すことができないよ。君が手を痛めながら書いた手紙が俺に向けての言葉とは感じられないなんて。悲し過ぎて、読み返すことができない。
 俺は君から感謝を述べられたり情熱的な言葉を投げかけられるような人間じゃないんだ。
 君の悲しみは、俺のような人間に打ち明けてはならないんだ。
 俺は陰から君の悲しみを知れたなら、それで十分だよ。

 その晩、俺は夢を見た。

 痩せて老いた聖者が骨を休めた場所は暗く寂しい凍える寒さの洞窟の狭い寝床だった。
消え入りそうな焚き火の前でその日の夢の話を話し出す。
その話を耳をそばだて聴く者とは、浮遊する魂たちである。
聖者は涙を流しながら話す。わたしは夢とこの世の区別がつかなくなってきたと。
こうしている今も夢のように感じると。
ふわふわと浮かぶ魂たちは囁くように訊ねる。
どうしてそれがそんなに悲しいのかと。
すると聖者は泣きながら笑い、応える。
なぜ悲しみの涙だとあなたがたは思ったのか。わたしはいま悲しく、喜び、泣いている。
魂たちは聖者から大事なものを奪い去った。
しかしそれが一体誰にとって大事なものか、誰も知らない。
聖者は何事もなかったかのように、また街の中へ帰る。
大事なものがなぜ大事なものだったか忘れてしまった聖者は夢を見る。
自分と他者が全く違う存在であるという夢だった。
なにひとつ、共感できない。なにひとつ。
なにをするにもまったく理解ができない。
聖者はついに子供のように声を出して泣き出してしまった。
それは同時に、自分の何一つわからないことだった。
夢から覚めた聖者は大事なものがなんだったかを思い出す。
大事なものを思い出したのでほっとして、また深い山の中へとひとり入っていった。
そして闇の中、寒さに凍えながらひとりで眠った。
大事なものが何なのか、本当はすべてが知っている。
ただ思い出せば聖者のように闇の中で暮らすようになるだろう。