彼が一つの現場で写真を撮り、今日の仕事を終えて宿泊しているモーテルに帰って来たのは午前2時過ぎだった。
今日は朝起きた時から、酷く憂鬱だった彼は汗ばんでいたがもうシャワーも浴びずにベッドに突っ伏して乳呑み子のように眠り続けたい気分だった。
ドアを開けてなかに入り、電気も点けずに月明かりだけを頼りにデスクにカメラを置いた。
小さなショルダーバッグを床に下ろし、上着のシャツを脱いで椅子の背にいつものように掛けようとしたとき、椅子がなくなっていることに気づいた。
その瞬間、彼はベッドの隣に、何者かが椅子に座っていることに気づいた。
こんな暗がりのなかで、しかも人の部屋に勝手に侵入して椅子に静かに座っているなんて、考えられないことだが、確かにだれかがそこに座って、じっとして動かなかった。
彼は電気を点けようかどうかを迷った。
しかし電気は点けるのはやめて、抑えた低い声で話し掛けた。
「何か…俺に言いたいことがあったの…?」
相手からの返事はなかった。
彼は仕方なく、ベッドの方に静かに歩み寄り、椅子に座る者から向かって左側にあるベッドの一番端に腰を掛け、微妙な距離から椅子に座っている者に向かって、また静かに話し掛けた。
「でもあれだね。俺みたいな撮影者と被写体の関係って、不思議だね。距離を縮めようとしてどんな風に撮っても、いまだにどうやっても近づく方法がわからない。」
椅子に座っている者はどこかを見つめている様子もなかったが、聞き耳を立てているだろうと彼は感じた。
彼は、その存在にいま手を伸ばしたら、触れられそうな気がした。
しかし、それを躊躇った。
その代わりに、彼はその完璧な美しさの象徴体を、改めて眺め渡した。
そしてすべての存在は、此れに到達しようとしていることは、間違いはないのだと確信し、目の前に在る過去が、自分の未来であることの謂い知れぬ悲しみと恍惚さのなかで、何処かへ連れ去りたいと想った。
でも今はまだ、それが許されない。
今、こんなに近くにいるように感じても、触れる勇気さえない。
きっと壊れてしまうのだろう。自分を拒んで。
求めていない。彼女は…
僕にいま触れられることを望んでいない。
なのに…僕は自分の欲望を、抑えることができなかった。
どうしても、僕は彼女を撮影したかった。
顔を、知らない彼女の姿を間近で観て、自分の視界によって作り変えた彼女をどうしても写真に収めたかった。
もう個展の閉館時間をとっくに過ぎていて、門を閉めると警備員たちに言われ、それでも僕がその場から動かなかったので挙句の果てには警察を呼ばれ、無理矢理に外に追い出された。
一体、どういうことなんだ…。
僕は一人の写真家として、彼女を自分のものとして撮影する為に、生きて来たんだ。
一人の死体写真家が35年前に撮影した、ショットガンによって至近距離から顔面を撃たれてベッドの隣の椅子に静かに座っている、顔の原形を留めていない此の世の何よりも美しい僕の母親の姿を。