生霊記 第二章

 


また此処へ、戻って来た。
きみはどうしてるんだろう?

今でもきみは虚無と闘っているのだろうか。
前にそんなことをきみが言っていたことをよく想いだす。

きみに告白すると、ぼくはきみに恋をして、初めての真剣な小説、天の白滝を書き始めて、そして違う人に恋したとき、もう書けなくなった。
ぼくにとってのしらたきはきみでもあって、天の白滝はぼくときみの物語でもあったのかもしれないと想って、ぼくはいまでもきみの幻影を追い求めて、きみに救われ、ぼくはきみを喪った。

深夜のこどもは、元気でいるだろうか。
ぼくはきみと話せないあいだに、きみが結婚をして、きみがこどもを授かり、きみがこどもを育てているのかもしれないと想像している。

きみはもう29歳だ。
きみはまだ29歳だ。
ぼくはもう36歳。
ぼくはまだ36歳。

きみがこの世に生を受けた瞬間、ぼくはまだ7歳だった。
ぼくはその瞬間なにをしていたのだろう。
もしかするとテレパシーで、きみはぼくに送ったかも知れない。
「僕は罪の森」と。
きみの森のなかには、小さな湖がある。
ぼくときみはその側を、手を繋いで歩いたこともある。
手を離したのは確か、ぼくの方だった。
どれくらいの距離を歩いたのだろう。
ぼくは何度もきみと手を繋いで歩いている夢を見たことがある。

なぜそれだけでぼくが心から安心して、幸福に満たされたのか、不思議だ。  

きみの罪の森から、ぼくは脱けだしたかった。
きみという幸福は、ぼくを追い掛けては来なかった。

きみの罪の森からぼくは必死に脱けだし、道路を渡った。
真っ暗だった。
前にも後ろにも、きみがひっそりと、潜んでいるように想えた。
きみは、罪の森の神、シンシンシン。
シンシンシンは、ちいさなぼくを、闇で囲い、息を潜めていた。
生温かな風が吹き、なまあたたかな風が、ぼくの回りで呼吸している。
ぼくは、あと500㍍先に、コンビニエンスストアがあるかもしれないと想った。
其処には古びた自販機の横に、これまた錆び付いてガシガシな感じの公衆電話があると観た。
そう、実はぼくはすこし、透視力というものを備えている。
あすこまで、走ってゆけば、なんとかなる。
あの、公衆電話から、誰かに電話をする。
そして話す。誰か居ないか。
誰か居ないか?
待ってくれ。電話を切らないでくれ。
そう言って、ぼくは電話を切った。
コンビニエンスストアで、握り飯を掴み、食べた。
店員は居ない。
ペットボトルの水を喉を鳴らして飲み、ぼくは言った。
美味いなこれ。
何処の水やろ。アルプス?キリマンジャロ?一万勺?
一万の酌で掬った水?
一万の酌で水を掬うと、これほど美味いのか。
でもそんなこと、今どうだっていい。
此処には結構、水も食糧もある。ぼくは結構生きて行ける。
でもそのあとは?
ぼくは持っていたスマートフォンで検索してみた。
「そのあと どこへ 行けばいい?」とGoogle検索してみたが、優良な情報は何一つ、検索結果に出てこなかった。
使いもんに、ならへんなこれ。
そう言って、ぼくはコンビニエンスストアのトイレに向かい、其所で用を足した。
鏡が...鏡が恐怖だった。
ぼくは鏡を視ずに、トイレからそそくさと出た。
そして無人のレジから、お金をすべて盗み、黒い鞄の中へ容れた。
適当に三日分ほどの食糧と水を掴み、鞄の中に放り込むと、ぼくはコンビニエンスストアを出た。
縹色の空、山、家々、道路、標識、信号、これらが視界に、在った。
今想ったが、ぼくがこのスマートフォンに、SIMカードの、音声通話用のものを容れていたなら、彼の時点でぼくは誰かに電話を掛けることができた。
音声通話用SIMカードを容れていなかった為に、ぼくは此処まで来なくてはならなかった。
SIM、SとIとM、SとMに、Iが挟まれているもの。
それがSIMという存在だ。
考えただけで、恐ろしい存在だ。
でもそれが、必要だったわけか。
ぼくは辺りを見回した。
え、なんだ此処は。
なんだ?此処は?
なんだろう。此処という此所は。
取敢えず、道路が、右と左に続いているようだ、そのように見える。
どちらかに、ぼくは進む。
よし、決めた。
ぼくは敢えて、左へ、←へ、進もう。
長閑な、のどかな風景のなか、ぼくは先へ進んだ。
信号が、車も人も居ないのに、点滅している。
青と、赤と、黄色。
ぼくは待った。車が通っていないが、ぼくは緑色に点滅したときに、渡りたかった。
どれくらい歩いてきただろうか。
辺りは、少し薄暗くなってきた。
すると先の方に、地下鉄乗り場の、地下へ降りる階段が見えた。
ぼくは迷わず、その階段の上に立ち、階段を降りて行った。
誰もいないのに、灯りが点いている。
人が一人もいない地下鉄の駅は、とても不気味だ。
電車は、来るのだろうか。
ぼくは壁に添って置かれてあるベンチに座り、線路の先を覗いたが、真っ暗闇で何も見えない。
煉瓦造りのアーチ壁の向こうから、電車が走ってくるなど、有りうるだろうか。
ぼくたった一人を乗せる為に。
線路の向こう側の壁には、大きな広告の看板が。
レンジでチンした瞬間、もう履ける靴。アジダス。Ajidas。
なるほど、それは画期的な商品だ。
電子レンジで温めるだけで、すぐさま履けて、しかも履くほどに、味が出てきて、美味くなる商品か、ええもん開発したなあ、Ajidas。
そんなことを賞嘆していると、無人の電車は、果たして眩しいライトを暗闇から発しながら走ってきて、ぼくの目の前に到着した。
プッシューと言いながら、音を発しながら、そのドアが開いた。
ぼくは、興奮して、電車に乗り込んだ。
濃い緑色の席が、両側に並んでいる。
ドアの側の手摺に手を掛けると、ドアが閉まり、電車は何も言わず発車した。
ぼくは感覚的に、わかった。この電車は、無人だ。
電車はずっと、暗い地下の線路を走っていた。
ぼくは安心して、眠くなってきて、椅子に横になり目を瞑った。
嗚呼、良かった。良かった。
あの時、左へ進んで、あの時、緑色の信号で渡っていて。
あの時、あの時、公衆電話から、返事が来なくて。
あの時、トイレの鏡を、見なくて...
だから今のぼくが此処に居る。
何故かとても、安心している。
良かった。良かったよ。
ぼくは涙を流し、眠りに就いた。

いつも此処に居る。
そんな安らかな気持ちで、ぼくは目を覚ました。
電車は、停まっていて、ドアが開いている。
外は明るい。ぼくは荷物を肩から下げ、電車を降りた。
忘れ物はございませんか。
後ろから、そう声を掛けられた気がするが、ぼくは振り向かなかった。
忘れ物...。あったとしても、ぼくは振り向かなかった。
落とし物ですよ。
後ろから、そう声を掛けられた気がするが、ぼくは振り向かなかった。
落とし物...。あったとしても、ぼくは振り向かない。
日の光りは優しく、影を落としていない。
此処は、影が、見当たらない。
目の前には、ちょうど良い広さの、公園が広がっていた。
真ん中に、ジャングルジム。
懐かしい、近所の児童公園で、このジャングルジムを登って、よく遊んでいたなあ。
此処からぼくの住んでいたマンションに帰るためには、二通りの帰り道がある。
右回りか、左回りの道だ。
確か歩いて五分もかからないはずだ。
でもおかしい。想いだそうとしても、ぼくのマンションまでの道が想いだせない。
もしかして、本当はいつまでも辿り着けない道をあの頃のぼくは歩いて家に帰っていたんじゃないか。
ぼくは確かに此処から、お父さんとお兄ちゃんの住む家に一人で帰っていたはずだ。
いやもしかするとお母さんのいた頃にも、ぼくは此処から、一人で帰っていたのかもしれない。
今ぼくは、此処からどうすればぼくの家に帰られるのか、想いだせない。
右回りか、左回りか、そのどちらから回っても、ぼくのマンションに辿り着けない。
ぼくのマンションは今でも其処に在って、今はお兄ちゃんが猫たちと一緒に住んでいるが、其処にぼくの居場所はない。
ぼくは家を、出てきたんだ。
居場所を追い求めて、ぼくは24年間暮らした家を出た。
未だに、新しいぼくの居場所は見つからない。

後ろから、声を掛けられた。
これ、きみが落としたやつ?
偶然だね。ぼくもこれ、同じやつ持ってるよ。
でもぼくのやつのほうが、もう少し古いかな。

目を開けると、辺りはだいぶ暗い。
もう日が遅い。
窓の明かりが並ぶビルやマンションに囲まれた公園のベンチに座っている。
足下に、野良猫のノラが今夜も遣ってきた。
ぼくは持っていた鞄の中から餌を取りだし、ノラにあげる。
ノラは黙々と餌を平らげ、地面の上に寝そべって毛繕いをし始める。
きみは帰る家、何処だろう。
お腹がだんだん大きくなってきてるね。
きっともうすぐ仔猫たちが産まれる。
きみはひとりで仔猫たちを育てるんだ。

蛙たちが鳴いている。
ノラはまた何処かへ行った。
夢想している。愛する夫と愛するこどもたちに囲まれて暮らす日々。
夫は売れない作家で部屋にひとりで籠る期間も多い。
だからこどもたちはパパよりママのほうが好きだと言ってくる。
夫はいつも言う。それは構わないし、きみから生まれて来たのだから当然のことだと、寂しそうな顔で言う。
パパがいなくなっても、ママがいればそれでいいと、こどもたちが無邪気に話しているところを偶然、夫は風呂上がりに聞いてしまう。
夫はいつも腰回りにタオルを巻いて風呂から上がってくるが、その夜は、全裸でダイニングキッチンの前を素知らぬ顔で通ったので、ぼくは「あれ?タオル持っていったよね?」と訊いたら、その時初めて夫は自分が腰にタオルを巻くのを忘れて来たことを想いだす。
こどもたちは早くも、自分達の部屋で眠っている。
少しの意味のわからない沈黙が続き、夫はぼくを見つめたあと口を開く。
「ええ、本当に」
切なそうな表情でしかも全裸のまま突っ立っている夫の姿を、ぼくは混濁しながら困惑の想いで眺めている。
生まれたままの姿で哀しんでいる夫は、その哀しみを、哀しみとしてぼくに話してくれることがない。
たったそれだけで、愛し合う夫婦、愛に満ちた家庭の中で、底が無いほど悲しく寂しい。
ぼくは素直に、夫にそう言う。
夫はその晩、熱っぽくて風邪が移るといけないからと言って一人ソファーで眠った。
底が見えないほど、深い愛のその深淵を覗き混むと、愛は闇として、照らし返してくる。
愛は闇を反射させ、闇は愛を反射する。
ぼくは次の夜、また素直に想ったことを夫に話した。
ぼくはこどもたちの母親である前に、きみの妻であると。
夫は少し、嬉しそうな顔をした。
しかし次には、ぼくは夫に、でもきみとこどもたち、どちらかしか助けられない境地に立たされたときには、必ずこどもたちを助けるだろう。と言った。瞬間、夫はトイレに駆け込み、嗚咽しながら、どうやら嘔吐しているようであった。
愛し合う夫婦とは、本当に素晴らしいものだ。
ぼくはそんな運命の愛する夫と、いつか廻り会いたい。
いくつもの世界を、廻った先に。

此処で誰かを、待っている。
此処という空間は、ぼくが誰かを待っているというだけの空間だ。
だからぼくを囲む窓の電気の点いたビル群も、実は張りぼてだ。
遠くの黒い山は、近付くと黒い茶碗をひっくり返しただけのものだ。
ただそれを、開けてはならない。
ただの黒い茶碗だと想って、パカッと開けようものなら、凄まじく、ヤバいことが起きる。
もう、誰にも、とめられない。
此の世界は、始まってしまった。

愛するきみへ。
何処まで行っても、追い掛けて来ない。
膨張と収縮。球体の上に聳え立つ円筒の塔。器用なことに、これが落ちない。
それはやはり互いに膨張と収縮を繰り返している為に上手い具合にバランスが保たれているからなのか?
面白いことにこの円筒の塔の上にまた球体が乗っかると、恐ろしくバランスが良い。
此の二つの球体に挟まれた円筒の塔。これがまた、球体の上に、立っているのである。
球体の上を、ころころ転がっている。
これを24時間態勢で見つめていると、実に人知を超えた可笑しみが、込み上げてきて、危険である為、できれば五分以上は見つめない、想像もしないことを薦める。
しかし物事が始まる。とは、此れとよく似たことである。というか、そのままこの状態なのではないのかと今初めて想った。
何をどうしても止まらない。
きみを愛しているよ。
存在として。

水の中の闇、真空の中の闇、空気の中の闇。一体どれが一番暗いだろうか?
ギリシア神話ナルキッソス(Νάρκισσος)は、まるで太陽の下の光の反射する湖の水面を覗き込み、自分の顔を映したときに、その自分の映った顔に恋をしてしまうと勝手に想像されているように想えるが、実はそうではないのではないか?
実はナルキッソスは、地下世界に隔離されてしまい(もしくは森のニンフであるエコー(Echo)を悲しませて死なせてしまったことに悲しみ、自ら地下世界に潜り込み)、光の届かない場所で暮らしていた。
ナルキッソスはいつも、水を飲みに、湖の場所まで赴き、その湖の水面に口を付けて水を飲んでは渇きを癒していた。
それを幾度と、繰り返し、何年と過ぎた。
ある時、ナルキッソスは、そのいつもの湖の水面に口を付けてどれほど喉を鳴らして飲んでも、喉の渇きが一向に癒えないことを知る。
おいいいいいぃぃぃっ。一体どうゆーことやねーん。
え、なんで?なんで?なんで?
ホワイッ?
今までは、少し、此処のこの湖から、水を貰って飲めば、忽ち俺様の喉はすっごぉく潤ったじゃん。
なのに今、腹が、もうたっぷん、たっぷん、ゆうほど水を大量に飲んでいるにも関わらず、ぜーんぜん喉が渇いて仕方ない。
しっ死ぬぅっ。こんな状況は、マジで大(DIE)の付くほどの、ピンチ(Κρίση)。
俺はまだ、遣り残したことが死ぬほど在る。
しっ死んで、たま、る、か。玉、流、課。
玉が流れていって、言の果を、結ぶか。
俺は例え、この愚かな、愚鈍な自分自身しか愛せない人間に為ったとしても、それでも、生きてゆきたい。
って、あっ。
誰か知らん。なんという、美しさ...
闇の湖の底から、俺をじっとりと、まるで恋をする乙女のように見つめ返してくる中性的な、男が。
うーん、女性でも行ける顔で、可愛すぎるではないか。
いやもしかしたら女性かも知れない。
ナルキッソスは、その湖の底から見つめ返してくる存在に一目惚れし、その存在をもっと知りたいと立ち上がった。
すると湖の底の人間は、湖の底で全身を見せるようにして仰向けになった。
あっ、生えてる...ということは、男か...。
全裸のナルキッソスは、一瞬、相手も男性であったということを残念に想ったが、次の瞬間には、それでもその美しき裸体をうち眺め、うっとりと恋の情熱に駆られ、そんなことは全く問題ではないと感じ、気付けば、喉の猛烈な渇きが、すっかりと、消えてなくなっていたという。
これは、本当の暗闇の湖であったから、できたことであって、光が少しでも反射する湖の水面であったのならば、ナルキッソスはどうしても、そこに闇を見てしまい、死ぬまで、死ぬほど恋い焦がれるということはなかったのではないだろうかとぼくは今、想った。
本当の闇の中で、自分自身を見つめ続けてはならないという、寓話的な実話である。
ナルキッソスは最後、湖の底から自分に熱く見つめ返し続ける美しい男を抱き締めたくなり、湖の底へ潜ってゆき、あちらの世界へとうとう行ってしまうのである。
で、あちらの世界で二人は幸せに暮らしましたとさ。
とそんな続きは、誰も話さないのである。
ではあちらの世界で、ナルキッソスはどうなったのか?ということである。
知らぬが神。と謂える次元の話である。
ナルキッソスのその後の物語。
誰も、今まで話すことはなかった。
しかし、ぼくが今夜、話そうではないか。
まあ聴いて欲しい。
簡潔に話すが、あちらの世界は、こちらの光の全く届かない地下世界より、もんのすごい、暗い闇であったのである。
ナルキッソスの愛を、では誰が、止められるのか?
ナルキッソスは、闇が深いほど、自分自身しか愛せない人間なのである。
闇が深まるほど、自分だけを切実に愛する。
光の届かない闇の中にいる限り、自分自身だけと、ナルキッソスは愛し合い続ける。
ぼくは、ナルキッソスを救いだすために、己れの光を持って、その闇の中に、今から入ってゆく。
すんげえ、深いぜ。
本物の闇が、ぼくを待っている。
好、御期待。

 

 

 

 

 

 

『生霊記 第二章』
続く。