鏡の向こうに、誰がいるんだ。
鏡の向こうに、君はいるの?
鏡の向こうに手を伸ばした。その手は切断され床に転がった。
ボテッ。その切断面から魔物が出てきて僕に言った。
「マッシュルーム、腐らんうちにはよ食べや」
僕は魔物を壊した。
よく見たらゴキブリに似ていたのだけれども、喰うた。
意外と、んまかった。
僕の一番の猟奇サウンドトラックアルバムは「Romeo + Juliet」の一枚目のサントラだった。兄が持っていたものを隠れて勝手に聴いていた。
映画は別に猟奇的な映画ではないのに、なんでこんな猟奇的なアルバムかと思うかと言うとその当時97年の僕の頭ン中が猟奇的だったからだ。
このアルバムを聴きながら僕は兄の買ったシリアルキラー特集の本を兄が仕事に行ってる間こっそり兄の部屋で読んでいた。全部兄にからんでるのである。
16歳の僕。酒鬼薔薇は当時15歳で後に彼はゴキブリを生きたまま喰うた。
彼の猟奇的なものがまだ克服されていなかった証である。
しかしこのサントラはなんと素晴らしいのだろう。
久しぶりに聴いて感激している。
あの頃の世界が蘇えってくる。
あの頃、僕の人生の中で一番の色っぽい時期であった。
何故、猟奇的なものが色っぽいのか、何よりも。
それは、神に背いているからだろうか。
吸血鬼や暗黒組織、悪魔崇拝などが色っぽさを伴っているのと同じで、それらは闇に属する者たちである。
何故、闇は、色っぽいのであろうか。
僕はちょっと前に、悲しみがこの世で一番色っぽいことを提唱した。
悲しみは愛によってしか起こらない現象だからである。
なので「愛=セクシー」という論理を私は自信を持って掲げる。
しかしどうしたことだろう、猟奇的犯罪が、色っぽいことを私はどう説明するかを今から自分に対して期待しよう。
チープスコッチウィスキイに期待するぞ。
私は「モンスター」という連続殺人者の映画がすごく好きなんだけれども、あの映画を観ても、私はものすごい色っぽさを感じたのである。
同時にそしてそれは、やはり悲しみであった。
悲しみのない猟奇的犯罪が、この世に存在するのだろうか。
「モンスター」は猟奇的犯罪ではなかったけれども、その冷酷さは猟奇と紙一重なものであると感じる。
早々と俺は答えをゆうてもうたが、悲しみというものはすべてセクシーであるようだ。
未だ解明されていない暗黒組織の悪魔崇拝者達はその暮らしの中で定期的に赤子の死体から血を搾取し、飲み干すという儀式と、その血肉を喰らうという儀式を続けている、という巷の噂である。
しかしこのサントラにはThe CardigansのLovefoolという「ラブミ~ラブミ~セイダッチュラブミ~♪」というあまりにラブミーな曲も入っていてこれを聴きながら俺は僕はシリアルキラーの猟奇的犯罪の描写を読んでいたのだから、相当キている、というのは今でも冷静に思う。
そしてその次には「ッテッテレッテッテテレテ~」というあまりに明るいナンバーであって、よくこんなサントラ聴きながら俺は読んでたなと懐かしく思うのだった。
話を戻すと、暗黒崇拝者はその悲しみにおいて、セクシーなのだ。
悲しみを感じない猟奇的犯罪者はおるか?
日本では人肉を食べる欲望を抑えられなかった佐川一政という私のもう一人の愛する猟奇犯罪者がいるけれども、佐川さんもすごくセクシーな人だと私は感じる。
最初に彼を知ったときは吐き気を抑えられなかったけれども、徐々に私は彼の悲しみを愛していった。
私はただ、悲しみの深い人が好きなのだ。
悲しみの深い人に何より魅力を感じるのだ。
酒鬼薔薇は猟奇的犯罪を行ったという時点でその悲しみの深さを15歳の私は読み取ったのだろう。
そしてこのサントラアルバムの核になっているRadioheadの「Talk Show Host」という曲は私が16歳でRadioheadにはまるきっかけになった曲で、この曲の悲しみと寂しさはものすごく猟奇的犯罪の悲しみと孤独を表せている曲だと思う。
あまりにセクシーな曲だ。
あまりに悲しく寂しい曲だ。
セクシーで悲しくて寂しくて暗黒的な曲が詰まっている、また楽しい曲も狂気的な色合いと切ない今はなき想い出をうまく出せているこのアルバムは傑作であり、このアルバムは僕と僕の愛する今は亡き父と一緒に夜の車の中で当時一緒に聴いた想い出のある大切なアルバムだ。
悲しみを愛する者は猟奇的犯罪も愛してしまうということを私は夜の星の見えないぼわーっとした空に投げかけるのだった。