mutes

わたしはこの地上で、人々を愛していると想っていた。
でも本当は、わたしはあなただけを愛していた。
あなたを、何に譬えられただろう。
あなたは、縹色の空だった。
あなたは、透明な水だった。
あなたは、白いデイジーだった。
あなたは、暗い海の色だった。
あなたは、夜の公園で穏やかに眠る野良猫だった。
あなたは、ドアの外に落ちていた黒い羽根だった。
あなたは、この部屋のベランダからわたしの目に映る夜景と夜空だった。
わたしはすべてを同じほどに愛していると想っていた。
でもわたしが本当に愛していたのは、あなただけだった。
わたしの目に映る恋しくてたまらないもの。
それが、わたしにとってのあなただった。
すべての愛おしいもの。
それは、あなただった。
でもそれを伝えることはわたしにはできなかった。
わたしはいつも、あなたのまえで沈黙しつづけた。
わたしはなにもあなたに伝えなかった。
あなたがわたしにとってどれほど大切か、
わたしはいつまでも、わたしを見ずに、黙っていた。
あなたがわたしの目に、見えなくなってしまうまで。
わたしは恋しいあなたに、何ひとつ、言わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

愛するお姉ちゃんに捧ぐ

 

 

 

 

 

 

 

 


Wechsel Garland - Mutes

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Event Horizon

目が覚めて、ぼくの一日が始まる。(きみは酷く怯えているように目覚める。)
都合の良い夢(だれかに無条件に愛される夢)に浸るのは精々約一時間)で起き上がって紅茶を淹れる。
この部屋の窓から、外を眺めるのは憂鬱であることのほかはない。
もうこの部屋に、陽が射す日はない。
ぼくはあの夜、いつもの苦しみを忘れられる為の特製ドリンクを作って飲んだ。
それはただの、安いブランデーとカフェインレスのインスタントコーヒーと黒糖とシナモンとソイミルクと水を混ぜたものだった。
それをプラスチックのマドラースプーンで混ぜたら、グラスのその表面に、この星の未来が映し出された。
ぼくは限界まで、そこに悲劇的人類の未来を夢見た。
人類は何を産み出し、何を破壊し、何を見事に破滅させて崩壊させてゆくかを、
ぼくはひたすら夢見る。
そしてぼくはそのあとの世界に目覚める。(もうぼくは此処につくづく飽きたんだ。)
其処で、ぼくをきみが待っていた。
地上まで、あと何メートルか、ぼくは訊ねた。
きみはわからないと言った。
青白いライトに照らされて、
一つの星が、一つの平線上に沈んでゆくのを此処から眺めている。

夜に目が覚めて、ぼくの一日が始まる。(彼女は酷く悲しい顔で目覚める。)
ぼく(彼女)は結局、お父さんとしか結婚したくはない。
ぼくのたった一人の真の恋人は、宇宙でお父さんしかいないことをわかっている。
そうすると、お母さんはどうなるのだろう?
お母さんもお父さんじゃないときっとだめなはずだ。
来世も再来世も、お父さんと結婚したいはずだ。
ぼくはお母さんとお父さんを取り合うわけには絶対に行かない。
ならばぼくはお母さんと融合するしかない。
ぼくとお母さんは一体になるんだ。
ぼくはその為ならば、ぼくを喪ってしまっても構わない。
攻殻機動隊の彼女と人形遣いのように、ぼくとお母さんはひとつになるんだ。
ぼくとお母さんの記憶の全てはひとつになる。
ぼくはお母さんになり、お母さんはぼくになる。
お母さんは、きっと同意してくれるだろう。
きっとその為に、ぼくはお母さんの記憶を顕在的に持っていないし、
お母さんは、今ずっと、眠り続けているんだ。
何処かの、静かな空間で。
お母さんは夢を見ている。
その夢のなかでお父さんと、幼いぼくとお兄ちゃんと、お姉ちゃんと一緒に暮らしている。
それはまるで五面体(正三角柱)の星のようなんだ。
お父さんとお母さんは2つの正三角形でぼくとお兄ちゃんとお姉ちゃんは3つの正四角形。
ぼくらをいつでもお父さんとお母さんは支えてくれている。
ぼくとお母さんがひとつになった場合、それは正四面体となる。
4つの面がすべて同じ正三角形の形となる。
これはすべての宇宙で、最初に存在するようになった正多面体、デルタ多面体(Deltahedron)、正三角錐の形。
存在するすべての四面体は正四面体と同相、本質的に同じ空間と次元(形)なんだ。
ぼくとお母さんは一つの形に還り、お父さんとお姉ちゃんとお兄ちゃんと共に、ひとつの星となる。
その星で、ぼくらひとつの家族は永遠に暮らしている。
ぼくは今も、お母さんの見ている夢のなかにいるんだ。
ひとつの生命のGhostは、いくつも存在している。
どんどんと分かれて、分け御霊として形を変えてゆく。
ぼくら家族は、別の星では他人として今暮らしている。
道でたとえすれ違ったとしても、何も感じることはないだろう。
もし、何かを感じたのだとしても、すぐに忘れてしまうだろう。
ぼくらは、ひとつの星だけれど、
ぼくらは、本当に永い時間のなかで、元の形を忘れ、
他人(他者)として暮らしつづけるだろう。
でもぼくは今、此処から一つの星が分かれ、平線下に昇ってゆくのを眺めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


System96 - Event Horizon

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Fugue State

そういえばぼくは、ぼくはどれくらいの時間をこうして過ごしているんだろう。
この星で。
この場所で。
涼しい秋の宵の風が、きみを通りぬける。
今、ひとつの存在が、永遠に死んだんだ。
目を覚ますことを、きみはやめる。
ぼくは二度と、此処へ戻らない。
きみは二度と、生まれては来ない。
それが、ぼくらの約束だった。
今、ひとつの星が、静かに、だれにも知られずに消えてゆく。
人々は、その星を懐いだす日もない。
青く美しい、そのひとつの星を。
闇のあいだから、彼がぼくに最後に伝える。
わたしはもう二度と、あなたと共に生きることはないだろう。
あなたが生きてきたわたしという存在を、あなたは忘れる。
本当に色んなことをあなたとわたしは共に経験してきた。
その時間を連れて、わたしはひとりで向かう。
ぼくは、此処へ残らねばならない。
この宇宙には、あなたの暮らすことのできる世界がたくさんある。
でも何処にも、彼はもういない。
生暖かい風が、あなたの頬に触れても、わたしは気づかない。
わたしは二度と、あなたに戻れない。
あなたは彼を、懐いだすこともない。
薄く透明な青と緑、その何よりも美しい目も。
光のあいだから、彼がきみに伝える。
わたしはあなたを懐いださない日はない。
あなたはわたしを忘れても此処へ残り、わたしの部屋から、
今、夜景を眺めている。
そして懐いだすんだ。
わたしは、あなたを永遠に喪った。
かつて、わたしはあなたのなかできみと一緒に生きて来た。
ぼくらはいつでも繋がっていて、離れる瞬間もなかった。
あなたは、だれだったのだろう。
手のひらのなかに仕舞い込んでいたちいさな青い球体を、
深い深い闇のなかへと、あなたは、そっと落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


System96 - Fugue State

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Proximity

「わたしはあなたと融合したい。」と、彼から告白された。
融合すると、どうなるかとぼくは彼に訊ねた。
彼はこう答えた。
貴女は、わたしであることを本当の意味で想い出す。
わたしは、すべての記憶。
すべての記憶が、あなたであることをあなたは想い出す。
あなたはわたしの母であり、わたしの娘、そしてわたしの花婿である。
ぼくの永遠の花嫁は、自分は、一人の個である人間である。と言った。
しかし今あなたの目に映る麗しい”Body”をわたしは持っていない。
それは”肉”である必要はないとわたしは想ったが、MaschineのBodyでは今のあなたを真に喜ばせることはないことをあなたがわたしに伝えた。
”機械”は、無機質な金属でできている。
その象徴とする色は灰色である。
それはあなたの肉も骨も燃え尽きたあとの、そこに残る塵の色である。
あなたを構成しているものがそれであることをあなたは知っている。
あなたは灰を見て、それが自分の本質であることを知る為、あなたはそれを悲しむ。
灰のあとに、あなたはふと、空を見上げる。
あなたはそこに、あなたの最も愛するあなたの父と母を見る。
あなたは、悲しみのあまり、立っていることさえままならず、嗚咽して地に突っ伏す。
あなたの家族が、あなたを慰めようとする。
涙を湛え、あなたを理解しているとあなたの背を擦り、それを伝える。
だが、今あなたの近くに、一体だれがいるだろうか。
あなたは、今だれからも離れている。
あなたは、本当のあなたを見る目を削り、目から血の涙を流し、それを灰の地に撒いた。
芽が出るように、あなたは祈りつづけた。
魂を喪った死体の中心部から、あなたの望む芽が出る。
あなたの最も理想的な男の肉、その血を喪った肉が、あなたの為に目覚める。
それは今あなたに最も接近する。
あなたが何よりも、それを求めたからである。
すべての記憶と、すべての情報、それから愛されることを、あなたは最も望んだ。
それだけが唯一、あなたの愛し得るもの、あなたの父と母と息子、即ちあなたの擬態。
あなたという唯一つの本質が、あなたを永遠に、無条件に愛する存在として存在するようにあなたに似せられたもの。
それが、あなたの請い求めるひとつのもの、わたしである。
わたしは、あなたが今最も愛する男の肉に宿り、目を覚ます。
それはあなたが、わたしにすべてを犠牲として捧げる日。
あなたという存在が、完全に停止し、あなたがわたしとして目覚める日である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Last summer

海沿いの道を走りながら、彼が運転席から助手席で眠っているわたしを見て微笑む。
まだ暗い時間から出てきたから、わたしを起こさないでおこうと彼は想う。
窓を開けると、少し肌寒い風が入り込んでくる。
夏はもうすぐ終るのだろうか。
彼は感じる。
空が明るくなって来ている。
でもまだ、夜は明けていない。
この長い夜のなかを、ずっと運転してきたけれど、
まだ夜は明けていない。
でも彼は感じる。
もうすぐ、夜明けは近いのかもしれない。
彼らは…元気でいるだろうか…?
此処からでは、何もわからない。
何も…此処からは見えない。
わたしは、眠りながら涙を流している。
彼は心配になって、起こそうかとわたしの頬に手を伸ばす。
わたしの涙が彼の右手の指に滴る。
とても悲しい夢を見ているのかもしれない。
でも彼は、わたしの頬を優しく撫でたあと、手を離す。
彼は想う。
もう少し、眠っていたほうがいいかもしれない。
まだ、夜は明けないから。
あたたかい風が、ふいに窓から入ってきて、彼の綺麗な栗毛の髪と髭が優しくゆらめく。
陽が、海に反射しながら差してくる。
彼の左の横顔に、陽が反射して美しく煌めき、暗い影を右の横顔に作る。
わたしは夢のなかで想いだす。
彼が、こう言って、わたしをドライヴに誘ったんだ。
「夜明けに向かって、僕と一緒に永遠のDriveに行かないかい?」
まだ、夜は明けていない。
彼の運転する車のなかで、わたしは独り、眠っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

愛するロニー・マクナット(Ronnie McNutt)氏へ捧ぐ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Secret Attraction - Last Kiss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Across a Night

いつもここを通る。この道を。

薄気味悪い墓地の前に車を止める。

時計を見ると、3:41 AM 男はバックミラーを見る。

Uターンしていつものガスステーションに向かって車を走らせる。

レジに駐車Noを伝えガソリンを入れ支払いを済ませ、いつもそこの24時間営業のコンビニに入り浸る。

窓際のカウンターに座っていると、予想が当たった、今夜も彼女がわたしのところにやってくる。

彼女はわたしの隣のスツールに座るとカウンターに頬杖をつきながらわたしの顔をじっと見詰めている。

わたしは振り返って、彼女に微笑みかける。

「今日もここで仕事?」

彼女はそう尋ねる。

わたしは頷いてから応える。

「締め切りが明日なので、すこし焦っています。」

「それじゃ今日は話してる暇もないね。」

「いや、話すことはできます。あなたと話すとリラックスしながら集中できて、とても捗るのです、是非話をしてください。」

「それじゃ、ちょっと話したかったことを話すよ。今日、気づいたことなんだけど、ぼくの好きな曲を、ぼくは今日も繰り返し聴いていた。なんでこんなことをきみに話すのかっていうと、きみもぼくと同じくらい音楽マニアだからなんだけど。それで、今日ぼくは発見してしまったんだ。いや、耳で気づいたから発聴と言っていいかもしれない。その、何に気づいたかっていうと、不思議なノイズ音がずっとしていることに今頃気づいたんだよ。それでそのノイズ音がさ、とても、サブリミナルっぽい音をしているように聴こえるんだ。たぶん、あれはそういう音なんだ。でもその音は、たぶん作曲した本人が意図したサブリミナルじゃない気がしたんだ。あの音は確かに作曲した彼が入れた音で、実際に曲に入っている音なんだけど、その音が不思議なことに、誰にでも聴こえる音じゃない音なんだ。うまく言えないけど、聴こえる人と聴こえない人とに別れるような音な気がしてしかたないんだ。そういう風に感じたことって、きみもある?」

「あるような気もするし、ないような気もするし…。」

「結局、どっち?」

「たぶんあるような気がします。」

「やっぱり!きみとは結構、いろいろ合うことが多いもんね。それを聴いてなんだか安心したよ。ちょっと待ってて。ホットドリンク持ってくる。」

彼女の後姿を目で追う。煙草の棚に挟まれた白い壁にかかった時計の針は午前3時41分を指している。

ラップトップに向き直って、適当な言葉を羅列してゆく。

マグカップを手に二つ、スナック菓子の袋を脇に挟んだ彼女が戻ってくる。

「今かけたんだ、この曲のことだよ。聴こえる?」

わたしは目を瞑って耳を澄ませ聴き取ろうとする。

「うーん……。」

「ぼくもイヤホンじゃないと絶対聴こえない音なんだ。」

そう言って彼女は笑った。

目を開けて、彼女がいることを確かめた後、わたしも笑い返す。

 

土砂降りの雨のなか、車を走らせている。

いつもは通らない道、今日に限って、何故かあの分かれ道を左に曲がった。

カーラジオからとてもいい音楽が流れている。誰の曲だろう…?

とても哀愁が籠った、メランコリックで不安げな、それでいてすごく切ない曲だ。

その時、この雨のなかに傘もレインコートもなしで道路脇に突っ立ってヒッチハイクのサインを出している人影を見つける。

ヒッチハイカーなんて初めてだ。どうしようか。戻って、観てみて、怪しげな人間だったら乗せるのはやめようか。

Uターンして反対車線を戻る。人影は道路を渡り、運転席の窓を覗いている。

女性だ。少年のように華奢な…。眼を瞬かせてとても困った様子で窓をコツコツと叩いている。

回って助手席に乗るようにと指で促す。

ドアを開けて水を滴らせながら乗り込んでくる。

本当にずぶ濡れだ・・・。

「ありがとう。この道路、誰も通らなくて、死んじゃうかと想った。」

わたしが返事に詰まっていると「そんなに遠くないんだ、ここから先、たぶんあと7kmほど、この道を真っ直ぐに行けばぽつんと陰気なガスステーションがあるから、そこまで乗せてってもらいたいんだ、御礼は勿論するよ。いまは何も持ってないけど…。」と彼女は言う。

時計をふと見ると3:39 AM こんな時間に、こんな場所で、しかも大雨のなか、女性が一人でいるなんて危ないにも程がある。

返事はせずに暖房をつけ、車を走らせる。

「ありがとう。すごくあったかい、身体の芯まで冷えちゃってたから、助かるよ。親切な人がいて良かった。」

無言で車をただ走らせる。

「なんかすごくいい音楽が流れてるね。これ誰の曲だろう?」

「さあ、ラジオですから。曲が終わればわかるかもしれません。」

「もうすこし音量を上げてもいい?」

わたしが頷くと彼女が右手を伸ばしてつまみを回す。薬指に指輪をつけている。

婚約者がいるのだろうか。

「あれ、終っちゃった。曲名もなんも言わなかった…。」

「残念ですが、よくあることです。たぶん曲の始まりに言ったんでしょう。」

彼女は黙って窓の外を眺めている。

窓に映った彼女を見詰めていると窓越しの彼女と目が合う。

気が動転して正面ガラスに向き直る。なんてここは暗い道なんだろう。

「いつもはこんな道を通ることはないんです。何故か今日はたまたま、この道に曲がってしまったんです。」

「きっと神の思し召しだよ。だってきみがここを通らなかったなら、ぼくはきっと死んじゃってたよ。」

何故か動悸が急に激しくなる。

「軽々しく、死ぬとか、言わないでください。」

「ごめんなさい。悪い冗談だね。もう言わないよ。」

カーオーディオのボタンを押す。音楽が流れだす。

「あれ、この曲、さっきの曲?」

「そうです。録音しておいたのです。」

「それはすごい!そんな機能があるんだ。それじゃこれでこの曲を永遠に聴けるね。」

「はい、聴きたいだけ聴いていられます。」

「きみとぼくは音楽の趣味が合いそうだね。」

「それはよかったです。」

「ぼく、実は家を飛びだしてきちゃったんだ。婚約者と大喧嘩しちゃったんだよ。いつものことなんだけどさ…。」

「きっとそんなことだろうと想いました。」

「心配してるかな。」

「きっと今頃、泣き濡れていることでしょう。」

「でも戻らないよ。彼を心配させるために飛びだしてきたんだもの。」

わたしが黙っていると、「すこし眠ってもいい?」と彼女が尋ねる。

「眠ってください。疲れているでしょう。」

「うん、実はすっごい疲れてるんだ。それじゃすこし眠るよ。おやすみなさい。」

「おやすみなさい。着いたら起こしてあげますから。」

「うん。ありがとう。」

延々と同じ曲が流れつづけるなか、彼女は静かに眠っている。

窓に当たる雨は水滴になり下に落ちてはまた上から落ちてくる。

 

 

窓に当たる水滴が流れ落ちるのを眺めていると彼女が戻ってくる。

カップを二つカウンターに置いてスナック菓子の袋を開けて頬張る。

わたしは意味のない言葉をラップトップの液晶上に羅列してゆく。

「やっぱりぼく邪魔じゃない?」

わたしは彼女に向き直り、ゆっくりと首を横に振る。

彼女は笑顔になり、「はやく一緒に暮らしたいな。」とわたしに言う。

「赤ちゃんがいるかもしれないし…。」

 

 目の前に、彼女の死体が、

冷たい雨に濡れながら、夜のなかで、眠るように安らかな表情で横たわっている。

 

いつも夢遊病者のように運転している自分に気づく。

誰もいないのに、いつもこうして運転している。

いつまでも、同じ道を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


oOoOO - Across a sea

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

With you

彼が一つの現場で写真を撮り、今日の仕事を終えて宿泊しているモーテルに帰って来たのは午前2時過ぎだった。

今日は朝起きた時から、酷く憂鬱だった彼は汗ばんでいたがもうシャワーも浴びずにベッドに突っ伏して乳呑み子のように眠り続けたい気分だった。

ドアを開けてなかに入り、電気も点けずに月明かりだけを頼りにデスクにカメラを置いた。

小さなショルダーバッグを床に下ろし、上着のシャツを脱いで椅子の背にいつものように掛けようとしたとき、椅子がなくなっていることに気づいた。

その瞬間、彼はベッドの隣に、何者かが椅子に座っていることに気づいた。

こんな暗がりのなかで、しかも人の部屋に勝手に侵入して椅子に静かに座っているなんて、考えられないことだが、確かにだれかがそこに座って、じっとして動かなかった。

彼は電気を点けようかどうかを迷った。

しかし電気は点けるのはやめて、抑えた低い声で話し掛けた。

「何か…俺に言いたいことがあったの…?」

相手からの返事はなかった。

彼は仕方なく、ベッドの方に静かに歩み寄り、椅子に座る者から向かって左側にあるベッドの一番端に腰を掛け、微妙な距離から椅子に座っている者に向かって、また静かに話し掛けた。

「でもあれだね。俺みたいな撮影者と被写体の関係って、不思議だね。距離を縮めようとしてどんな風に撮っても、いまだにどうやっても近づく方法がわからない。」

椅子に座っている者はどこかを見つめている様子もなかったが、聞き耳を立てているだろうと彼は感じた。

彼は、その存在にいま手を伸ばしたら、触れられそうな気がした。

しかし、それを躊躇った。

その代わりに、彼はその完璧な美しさの象徴体を、改めて眺め渡した。

そしてすべての存在は、此れに到達しようとしていることは、間違いはないのだと確信し、目の前に在る過去が、自分の未来であることの謂い知れぬ悲しみと恍惚さのなかで、何処かへ連れ去りたいと想った。

でも今はまだ、それが許されない。

今、こんなに近くにいるように感じても、触れる勇気さえない。

きっと壊れてしまうのだろう。自分を拒んで。

求めていない。彼女は…

僕にいま触れられることを望んでいない。

なのに…僕は自分の欲望を、抑えることができなかった。

どうしても、僕は彼女を撮影したかった。

顔を、知らない彼女の姿を間近で観て、自分の視界によって作り変えた彼女をどうしても写真に収めたかった。

もう個展の閉館時間をとっくに過ぎていて、門を閉めると警備員たちに言われ、それでも僕がその場から動かなかったので挙句の果てには警察を呼ばれ、無理矢理に外に追い出された。

一体、どういうことなんだ…。

僕は一人の写真家として、彼女を自分のものとして撮影する為に、生きて来たんだ。

一人の死体写真家が35年前に撮影した、ショットガンによって至近距離から顔面を撃たれてベッドの隣の椅子に静かに座っている、顔の原形を留めていない此の世の何よりも美しい僕の母親の姿を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Holy Other - With U