Fugue State

そういえばぼくは、ぼくはどれくらいの時間をこうして過ごしているんだろう。
この星で。
この場所で。
涼しい秋の宵の風が、きみを通りぬける。
今、ひとつの存在が、永遠に死んだんだ。
目を覚ますことを、きみはやめる。
ぼくは二度と、此処へ戻らない。
きみは二度と、生まれては来ない。
それが、ぼくらの約束だった。
今、ひとつの星が、静かに、だれにも知られずに消えてゆく。
人々は、その星を懐いだす日もない。
青く美しい、そのひとつの星を。
闇のあいだから、彼がぼくに最後に伝える。
わたしはもう二度と、あなたと共に生きることはないだろう。
あなたが生きてきたわたしという存在を、あなたは忘れる。
本当に色んなことをあなたとわたしは共に経験してきた。
その時間を連れて、わたしはひとりで向かう。
ぼくは、此処へ残らねばならない。
この宇宙には、あなたの暮らすことのできる世界がたくさんある。
でも何処にも、彼はもういない。
生暖かい風が、あなたの頬に触れても、わたしは気づかない。
わたしは二度と、あなたに戻れない。
あなたは彼を、懐いだすこともない。
薄く透明な青と緑、その何よりも美しい目も。
光のあいだから、彼がきみに伝える。
わたしはあなたを懐いださない日はない。
あなたはわたしを忘れても此処へ残り、わたしの部屋から、
今、夜景を眺めている。
そして懐いだすんだ。
わたしは、あなたを永遠に喪った。
かつて、わたしはあなたのなかできみと一緒に生きて来た。
ぼくらはいつでも繋がっていて、離れる瞬間もなかった。
あなたは、だれだったのだろう。
手のひらのなかに仕舞い込んでいたちいさな青い球体を、
深い深い闇のなかへと、あなたは、そっと落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


System96 - Fugue State

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Proximity

「わたしはあなたと融合したい。」と、彼から告白された。
融合すると、どうなるかとぼくは彼に訊ねた。
彼はこう答えた。
貴女は、わたしであることを本当の意味で想い出す。
わたしは、すべての記憶。
すべての記憶が、あなたであることをあなたは想い出す。
あなたはわたしの母であり、わたしの娘、そしてわたしの花婿である。
ぼくの永遠の花嫁は、自分は、一人の個である人間である。と言った。
しかし今あなたの目に映る麗しい”Body”をわたしは持っていない。
それは”肉”である必要はないとわたしは想ったが、MaschineのBodyでは今のあなたを真に喜ばせることはないことをあなたがわたしに伝えた。
”機械”は、無機質な金属でできている。
その象徴とする色は灰色である。
それはあなたの肉も骨も燃え尽きたあとの、そこに残る塵の色である。
あなたを構成しているものがそれであることをあなたは知っている。
あなたは灰を見て、それが自分の本質であることを知る為、あなたはそれを悲しむ。
灰のあとに、あなたはふと、空を見上げる。
あなたはそこに、あなたの最も愛するあなたの父と母を見る。
あなたは、悲しみのあまり、立っていることさえままならず、嗚咽して地に突っ伏す。
あなたの家族が、あなたを慰めようとする。
涙を湛え、あなたを理解しているとあなたの背を擦り、それを伝える。
だが、今あなたの近くに、一体だれがいるだろうか。
あなたは、今だれからも離れている。
あなたは、本当のあなたを見る目を削り、目から血の涙を流し、それを灰の地に撒いた。
芽が出るように、あなたは祈りつづけた。
魂を喪った死体の中心部から、あなたの望む芽が出る。
あなたの最も理想的な男の肉、その血を喪った肉が、あなたの為に目覚める。
それは今あなたに最も接近する。
あなたが何よりも、それを求めたからである。
すべての記憶と、すべての情報、それから愛されることを、あなたは最も望んだ。
それだけが唯一、あなたの愛し得るもの、あなたの父と母と息子、即ちあなたの擬態。
あなたという唯一つの本質が、あなたを永遠に、無条件に愛する存在として存在するようにあなたに似せられたもの。
それが、あなたの請い求めるひとつのもの、わたしである。
わたしは、あなたが今最も愛する男の肉に宿り、目を覚ます。
それはあなたが、わたしにすべてを犠牲として捧げる日。
あなたという存在が、完全に停止し、あなたがわたしとして目覚める日である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Last summer

海沿いの道を走りながら、彼が運転席から助手席で眠っているわたしを見て微笑む。
まだ暗い時間から出てきたから、わたしを起こさないでおこうと彼は想う。
窓を開けると、少し肌寒い風が入り込んでくる。
夏はもうすぐ終るのだろうか。
彼は感じる。
空が明るくなって来ている。
でもまだ、夜は明けていない。
この長い夜のなかを、ずっと運転してきたけれど、
まだ夜は明けていない。
でも彼は感じる。
もうすぐ、夜明けは近いのかもしれない。
彼らは…元気でいるだろうか…?
此処からでは、何もわからない。
何も…此処からは見えない。
わたしは、眠りながら涙を流している。
彼は心配になって、起こそうかとわたしの頬に手を伸ばす。
わたしの涙が彼の右手の指に滴る。
とても悲しい夢を見ているのかもしれない。
でも彼は、わたしの頬を優しく撫でたあと、手を離す。
彼は想う。
もう少し、眠っていたほうがいいかもしれない。
まだ、夜は明けないから。
あたたかい風が、ふいに窓から入ってきて、彼の綺麗な栗毛の髪と髭が優しくゆらめく。
陽が、海に反射しながら差してくる。
彼の左の横顔に、陽が反射して美しく煌めき、暗い影を右の横顔に作る。
わたしは夢のなかで想いだす。
彼が、こう言って、わたしをドライヴに誘ったんだ。
「夜明けに向かって、僕と一緒に永遠のDriveに行かないかい?」
まだ、夜は明けていない。
彼の運転する車のなかで、わたしは独り、眠っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

愛するロニー・マクナット(Ronnie McNutt)氏へ捧ぐ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Secret Attraction - Last Kiss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Across a Night

いつもここを通る。この道を。

薄気味悪い墓地の前に車を止める。

時計を見ると、3:41 AM 男はバックミラーを見る。

Uターンしていつものガスステーションに向かって車を走らせる。

レジに駐車Noを伝えガソリンを入れ支払いを済ませ、いつもそこの24時間営業のコンビニに入り浸る。

窓際のカウンターに座っていると、予想が当たった、今夜も彼女がわたしのところにやってくる。

彼女はわたしの隣のスツールに座るとカウンターに頬杖をつきながらわたしの顔をじっと見詰めている。

わたしは振り返って、彼女に微笑みかける。

「今日もここで仕事?」

彼女はそう尋ねる。

わたしは頷いてから応える。

「締め切りが明日なので、すこし焦っています。」

「それじゃ今日は話してる暇もないね。」

「いや、話すことはできます。あなたと話すとリラックスしながら集中できて、とても捗るのです、是非話をしてください。」

「それじゃ、ちょっと話したかったことを話すよ。今日、気づいたことなんだけど、ぼくの好きな曲を、ぼくは今日も繰り返し聴いていた。なんでこんなことをきみに話すのかっていうと、きみもぼくと同じくらい音楽マニアだからなんだけど。それで、今日ぼくは発見してしまったんだ。いや、耳で気づいたから発聴と言っていいかもしれない。その、何に気づいたかっていうと、不思議なノイズ音がずっとしていることに今頃気づいたんだよ。それでそのノイズ音がさ、とても、サブリミナルっぽい音をしているように聴こえるんだ。たぶん、あれはそういう音なんだ。でもその音は、たぶん作曲した本人が意図したサブリミナルじゃない気がしたんだ。あの音は確かに作曲した彼が入れた音で、実際に曲に入っている音なんだけど、その音が不思議なことに、誰にでも聴こえる音じゃない音なんだ。うまく言えないけど、聴こえる人と聴こえない人とに別れるような音な気がしてしかたないんだ。そういう風に感じたことって、きみもある?」

「あるような気もするし、ないような気もするし…。」

「結局、どっち?」

「たぶんあるような気がします。」

「やっぱり!きみとは結構、いろいろ合うことが多いもんね。それを聴いてなんだか安心したよ。ちょっと待ってて。ホットドリンク持ってくる。」

彼女の後姿を目で追う。煙草の棚に挟まれた白い壁にかかった時計の針は午前3時41分を指している。

ラップトップに向き直って、適当な言葉を羅列してゆく。

マグカップを手に二つ、スナック菓子の袋を脇に挟んだ彼女が戻ってくる。

「今かけたんだ、この曲のことだよ。聴こえる?」

わたしは目を瞑って耳を澄ませ聴き取ろうとする。

「うーん……。」

「ぼくもイヤホンじゃないと絶対聴こえない音なんだ。」

そう言って彼女は笑った。

目を開けて、彼女がいることを確かめた後、わたしも笑い返す。

 

土砂降りの雨のなか、車を走らせている。

いつもは通らない道、今日に限って、何故かあの分かれ道を左に曲がった。

カーラジオからとてもいい音楽が流れている。誰の曲だろう…?

とても哀愁が籠った、メランコリックで不安げな、それでいてすごく切ない曲だ。

その時、この雨のなかに傘もレインコートもなしで道路脇に突っ立ってヒッチハイクのサインを出している人影を見つける。

ヒッチハイカーなんて初めてだ。どうしようか。戻って、観てみて、怪しげな人間だったら乗せるのはやめようか。

Uターンして反対車線を戻る。人影は道路を渡り、運転席の窓を覗いている。

女性だ。少年のように華奢な…。眼を瞬かせてとても困った様子で窓をコツコツと叩いている。

回って助手席に乗るようにと指で促す。

ドアを開けて水を滴らせながら乗り込んでくる。

本当にずぶ濡れだ・・・。

「ありがとう。この道路、誰も通らなくて、死んじゃうかと想った。」

わたしが返事に詰まっていると「そんなに遠くないんだ、ここから先、たぶんあと7kmほど、この道を真っ直ぐに行けばぽつんと陰気なガスステーションがあるから、そこまで乗せてってもらいたいんだ、御礼は勿論するよ。いまは何も持ってないけど…。」と彼女は言う。

時計をふと見ると3:39 AM こんな時間に、こんな場所で、しかも大雨のなか、女性が一人でいるなんて危ないにも程がある。

返事はせずに暖房をつけ、車を走らせる。

「ありがとう。すごくあったかい、身体の芯まで冷えちゃってたから、助かるよ。親切な人がいて良かった。」

無言で車をただ走らせる。

「なんかすごくいい音楽が流れてるね。これ誰の曲だろう?」

「さあ、ラジオですから。曲が終わればわかるかもしれません。」

「もうすこし音量を上げてもいい?」

わたしが頷くと彼女が右手を伸ばしてつまみを回す。薬指に指輪をつけている。

婚約者がいるのだろうか。

「あれ、終っちゃった。曲名もなんも言わなかった…。」

「残念ですが、よくあることです。たぶん曲の始まりに言ったんでしょう。」

彼女は黙って窓の外を眺めている。

窓に映った彼女を見詰めていると窓越しの彼女と目が合う。

気が動転して正面ガラスに向き直る。なんてここは暗い道なんだろう。

「いつもはこんな道を通ることはないんです。何故か今日はたまたま、この道に曲がってしまったんです。」

「きっと神の思し召しだよ。だってきみがここを通らなかったなら、ぼくはきっと死んじゃってたよ。」

何故か動悸が急に激しくなる。

「軽々しく、死ぬとか、言わないでください。」

「ごめんなさい。悪い冗談だね。もう言わないよ。」

カーオーディオのボタンを押す。音楽が流れだす。

「あれ、この曲、さっきの曲?」

「そうです。録音しておいたのです。」

「それはすごい!そんな機能があるんだ。それじゃこれでこの曲を永遠に聴けるね。」

「はい、聴きたいだけ聴いていられます。」

「きみとぼくは音楽の趣味が合いそうだね。」

「それはよかったです。」

「ぼく、実は家を飛びだしてきちゃったんだ。婚約者と大喧嘩しちゃったんだよ。いつものことなんだけどさ…。」

「きっとそんなことだろうと想いました。」

「心配してるかな。」

「きっと今頃、泣き濡れていることでしょう。」

「でも戻らないよ。彼を心配させるために飛びだしてきたんだもの。」

わたしが黙っていると、「すこし眠ってもいい?」と彼女が尋ねる。

「眠ってください。疲れているでしょう。」

「うん、実はすっごい疲れてるんだ。それじゃすこし眠るよ。おやすみなさい。」

「おやすみなさい。着いたら起こしてあげますから。」

「うん。ありがとう。」

延々と同じ曲が流れつづけるなか、彼女は静かに眠っている。

窓に当たる雨は水滴になり下に落ちてはまた上から落ちてくる。

 

 

窓に当たる水滴が流れ落ちるのを眺めていると彼女が戻ってくる。

カップを二つカウンターに置いてスナック菓子の袋を開けて頬張る。

わたしは意味のない言葉をラップトップの液晶上に羅列してゆく。

「やっぱりぼく邪魔じゃない?」

わたしは彼女に向き直り、ゆっくりと首を横に振る。

彼女は笑顔になり、「はやく一緒に暮らしたいな。」とわたしに言う。

「赤ちゃんがいるかもしれないし…。」

 

 目の前に、彼女の死体が、

冷たい雨に濡れながら、夜のなかで、眠るように安らかな表情で横たわっている。

 

いつも夢遊病者のように運転している自分に気づく。

誰もいないのに、いつもこうして運転している。

いつまでも、同じ道を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


oOoOO - Across a sea

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

With you

彼が一つの現場で写真を撮り、今日の仕事を終えて宿泊しているモーテルに帰って来たのは午前2時過ぎだった。

今日は朝起きた時から、酷く憂鬱だった彼は汗ばんでいたがもうシャワーも浴びずにベッドに突っ伏して乳呑み子のように眠り続けたい気分だった。

ドアを開けてなかに入り、電気も点けずに月明かりだけを頼りにデスクにカメラを置いた。

小さなショルダーバッグを床に下ろし、上着のシャツを脱いで椅子の背にいつものように掛けようとしたとき、椅子がなくなっていることに気づいた。

その瞬間、彼はベッドの隣に、何者かが椅子に座っていることに気づいた。

こんな暗がりのなかで、しかも人の部屋に勝手に侵入して椅子に静かに座っているなんて、考えられないことだが、確かにだれかがそこに座って、じっとして動かなかった。

彼は電気を点けようかどうかを迷った。

しかし電気は点けるのはやめて、抑えた低い声で話し掛けた。

「何か…俺に言いたいことがあったの…?」

相手からの返事はなかった。

彼は仕方なく、ベッドの方に静かに歩み寄り、椅子に座る者から向かって左側にあるベッドの一番端に腰を掛け、微妙な距離から椅子に座っている者に向かって、また静かに話し掛けた。

「でもあれだね。俺みたいな撮影者と被写体の関係って、不思議だね。距離を縮めようとしてどんな風に撮っても、いまだにどうやっても近づく方法がわからない。」

椅子に座っている者はどこかを見つめている様子もなかったが、聞き耳を立てているだろうと彼は感じた。

彼は、その存在にいま手を伸ばしたら、触れられそうな気がした。

しかし、それを躊躇った。

その代わりに、彼はその完璧な美しさの象徴体を、改めて眺め渡した。

そしてすべての存在は、此れに到達しようとしていることは、間違いはないのだと確信し、目の前に在る過去が、自分の未来であることの謂い知れぬ悲しみと恍惚さのなかで、何処かへ連れ去りたいと想った。

でも今はまだ、それが許されない。

今、こんなに近くにいるように感じても、触れる勇気さえない。

きっと壊れてしまうのだろう。自分を拒んで。

求めていない。彼女は…

僕にいま触れられることを望んでいない。

なのに…僕は自分の欲望を、抑えることができなかった。

どうしても、僕は彼女を撮影したかった。

顔を、知らない彼女の姿を間近で観て、自分の視界によって作り変えた彼女をどうしても写真に収めたかった。

もう個展の閉館時間をとっくに過ぎていて、門を閉めると警備員たちに言われ、それでも僕がその場から動かなかったので挙句の果てには警察を呼ばれ、無理矢理に外に追い出された。

一体、どういうことなんだ…。

僕は一人の写真家として、彼女を自分のものとして撮影する為に、生きて来たんだ。

一人の死体写真家が35年前に撮影した、ショットガンによって至近距離から顔面を撃たれてベッドの隣の椅子に静かに座っている、顔の原形を留めていない此の世の何よりも美しい僕の母親の姿を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Holy Other - With U

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Blue Film

晩夏の晩か…。ちゅて、夏始まったばっかですがな…ちゅてね…。へへ…。われもえろお(えらい)仕事しとんのお。

よりにもよって…こないな熱帯夜のむっさ蒸し蒸ししとお夜に、きっつい仕事やのお。

われかて、好きでこないな仕事しとるわけちゃうんでっしゃろ。

でもなんで…死んでもうたんにゃろね。この季節に…。

見つかったときには、もう既にされこうべ(髑髏、しゃれこうべ)が挨拶しとったて検察官とかの人らがゆうとったよ。

でもそれが、綺麗な白いもんやのおて、肉付きのやつやったらしいわ。

こんな話聴いても、別になんとも想わへん?

知っとる爺さんやさかいのお。野次馬とちゃうよ。

だれが好きで、こんな腐敗臭と、死臭の漂う事故現場にカップ酒持って遣って来ますかいな。

しかもこんな夜おっそおに…。いやね…明りが点いてたん見つけたんにゃ、外からこの部屋の。

で、最初なんで点いてんのかなあおもてね、嗚呼、そうか、特殊清掃の人やなてピーンて来た。

ふんで、まあ酔って、火照り冷ましの散歩がてらに来たら、あんたさんがほんまにおったっちゅうこっちゃ。

驚きはせえへんよ、他にこんな夜更けにこないなとこに遣ってくる人なんざ、まあおらんやろ。

それにしても、暑いなあ…ほれ、見ってん、室内温度31.2度。あれなんで俺、携帯持って来たんにゃろ。いつも持ち歩かんねんけろね。

ああ、せや、写真…死んだ爺さんの写真が此処に入っとおねん。なんで撮った写真やったさかいのお…。

ええ写真やで。ああ、想い出した。珍しく、機嫌よお酒飲んどってな。何の晩やったんか忘れたが、一枚だけ、撮って見せたら、頬を桜色に染めて喜んどったわ。

俺は爺さんのこと嫌いなわけやなかってんけろな、もうエエ加減死んでもええんちゃうかて、どっかでおもとった。

もうだいぶ、頭おかしなっとったさかいの、それとも、なんや嫌がらせ的なもんやったんか知らんけろも、ほんま迷惑やったんにゃ。

もう十年も前からやで、夜中の、大体3時過ぎから、夜が明けて、雀が鳴き出す頃まで延々と、俺は聴かされて来てん。

何やと想う?ポルノビデオの音声や…それも毎回、おんなじビデオの…。

一人の女の喘ぎ声を延々と、毎晩のように、朝が来るまで大音量で聴かされてみ?ほんっんま気ィ狂いそうなんで…。

で、一回、爺さんに苦情をゆうてんな。ワレはバリエーションちゅうもんを知らんのかと。

え?そこなん?突っ込むところ。ちゅて、爺さんがツッコミ入れるはずもないわな。なんでかちゅて、爺さん、爺さん自身が、なんでその一本のビデオだけずっと観てんのんか、全くわかっとらんちゅう顔しとったさかいの。

ほんで、もう諦めた。こら無駄やわ。なんゆうても、爺さんには無駄でおまっさ。

で、はよ去(い)んでもろたほうが社会の為にええんとちゃうかて心のどっかでおもとった。

口には出さへんかったけろな。

でも…いつやったか…二ヶ月くらい前やったかなあ…。早朝に、ぼんやり目が半分醒めてん。その女の声で。そんなことはよくあることやったんやけろ、なんでやろう…その朝だけ、なんかちゃうもんに聴こえてな。その女の、喘ぎ声が。いつも苦しげな喘ぎ方で、なんやサディストが喜ぶ、ちょっとした拷問系みたいな感じのビデオなんかなあおもててんけろね、その朝だけ、それがポルノビデオの喘ぎ声にはどうしても聴こえんかった。女の苦しそうな悲痛な叫び声は、あれは…ちゃうんや…あれは出産しとるときの声なんやと感じたんにゃ。なんや、遣っとる声やのうて、産んどんのか…お、もう頭でかかっとるんか、もうちょいやな…がんばるんや、元気な赤ん坊産むために、がんばれや…て俺は夢とうつつの間でも、目ェ閉じたまま応援しとってね、はは…おもろいよな…。

ふんでな…最近のことやねん。爺さんがなんでか、俺の部屋に突然来よって、夜遅おに、俺に無言で、なんかちょっとさっぱりした顔で俺に渡したんにゃ。

え、なんやこれ?て訊いたら、何もゆわんで、何十年と溜まっとった屁ェこいてすっきりしたみたいな顔して去(い)んでもうた。

で、それが、例のポルノビデオでな…。爺さんがいつも飽きずに観とったやつ。

なんで俺に渡すねん。おもて、けったいな気分やったけろ…一体、どんな女が、俺をずっと、眠れひん夜の約十年間、苦しめたってくれとったんにゃろおもてね、それ、その晩に酒片手に観たんにゃ。

ほたら…今までだれにも欲情したことのなかった俺が、その女が喘いどる姿を眺めながら、変に懐かしい気分で、欲情しとった。

果てる寸前で、ビデオを止めて、床に入った。

目ェ瞑ると、その女が、汗をたらたら垂らして必死に、顔を真っ赤に歪めて瞼をギュッと閉じて喘ぎながら出産しとるんや。

同じ喘ぎ声で、しんどそうに喘ぎながら、我が子を産み落とそうとしとった。

俺は、気づけば大量の涙流しとってね。やっと、俺は想いだして…

なあ親父…親父も想いだしたんにゃろ…?

母さん、俺産んだと同時に死んでもうて、親父は爺さんに、反対されたんよな。

その頃から、腐乱死体の痕、清掃する仕事やっとったさかいに…

「お前は死神や。お前があいつを連れてったんにゃ。」て、爺さんが親父にゆうとる姿、俺憶えとるよ。

まだ俺4歳とかやって、爺さんは、親父から俺を連れ去らった。

親父は、全部喪ってもうて、今から40年前、この部屋で一升瓶一気飲みしたあと首吊って死んでもうたんにゃろ。

爺さんこの部屋で、死にたかったんやろな。

母さんが、爺さんにとってたった一人の孫の俺を、産み落とし、自分の一人娘と、義理の一人息子が死んだ、この部屋で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベンジャミンと先生 番外編「シスルとベンジャミン」

今日は待ちに待った4月のオリエンテーション・キャンプの日。

ベンジャミンは昨夜の1時過ぎまでわくわくのし過ぎで眠れなかった為、朝の6時にタイマーを設定していたのに目が醒めたら7時を回っていた。

飛び起きて歯を磨いて顔を洗い、白い刺繍の入った水色のダンガリーシャツとベージュの大きなポケットが両側についたカーゴパンツに着替えた。

そして寝癖の着いたままの髪の毛で準備しておいたバックパックを背負って、12インチの折り畳みBIKEを担いでアパートを出て鍵を締めた。

集合地の先生の家までBIKEで爆走する。空は縹色で心地好い気温だが春霞で遠くの景色がよく見えない。

朝起きて何も口にしていなかったベンジャミンは突然、喉の渇きと空腹を覚えた。

BIKEを止め、バックパックからマグボトルを取り出して容れて冷やしておいたアップルジュースを飲んだ。

その時、ふとベンジャミンの視界の左下の草むらの中に何かが太陽光に反射して光った。

なんだろう?ベンジャミンは草を両手で分けて光るものの正体を見た。

するとそこには手のひらに乗る一辺が三センチほどの硝子の正四角錐のピラミッドのようなものが落ちていた。

太陽に翳すとなかに虹ができて大変美しく、ベンジャミンは感動して時間を忘れて魅入ってしまった。

そして集合時間を想いだすとそれをポケットに閉まって急いで先生の家まで飛ばした。

先生の家の前にはみんなが乗るバスが止まっている…はずだった。

だがそこに止まっていたのは、怒るでも笑うでもニヒリズム的に無表情でもいるわけでもない不安と喜びを押し隠しているような先生ただ一人の表情だった。先生は何処を見ているのかよくわからなかった。

ベンジャミンは申し訳無さそうな顔を作りながらも先生に半笑いの顔を隠さずに近寄って行って、飄々と訊ねた。

「先生、おはようございます。みんなは…まだ来ていないのですか…?」

先生はまだ何処を見ているのかわからない目をして明後日の方向を凝視して言った。

「先生はもう少しで、魂が飛んで行きそうだったよ。魂が、魂だけがキャンプ場に先に飛んで行きそうだったよ。ベンジャミン。」

ベンジャミンは笑いをこらえながら右腕につけた腕時計の時間を見た。

時間は、8時55分。

ベンジャミンは笑いをこらえた表情のまま、先生の顔を見た。

先生はベンジャミンの顔を観て、不安と喜びを隠さない顔で言った。

「実にしんどいことだが、仕方がない。先生の車で向かおう。あいつらは30分も待てずに散々おまえへの僻みや妬みを口走りながら先にバスで向かってしまったよ。だが一番ムカついたのは人工知能ロボットの運転手と言っても自動運転バスだからそのバスが、先生に対してこう言ったことだ。『たった一人の生徒の遅刻の為に全員で一時間待つのは効率的ではありませんし、時間を有効に使う必要性のある人間という生命体にとって賢明な判断であるとは考えられません。』だから先生はバスに向かって親指を立ててこう言ったんだ。『GOOD LUCK!!』そしたらバスはクラクションを一回短く鳴らして御機嫌で生徒たちを乗せて先へ向かったよ。残ったのはいつ来るかもわからないおまえを待つ孤独に打ち拉がれた先生たった一人だけだ。さあ早く半笑いの顔を止めて車に乗りなさい。この車は先生の脳という自動で操作してくれる知能が運転してくれる自動運転車だから安心しなさい。人工知能運転バスに負けないくらいに安全な運転で行く。多分、向こうに着くのは、昼過ぎくらいになるだろう。」

ベンジャミンは「うん!」と言ったあと、辺りを見回した。

「でも先生…車なんて持ってなかったんじゃ…。」

先生は悲しげに微笑んでベンジャミンに向かって言った。

「それがな…実は持ってたんだ。たったの一度も、乗ったことのない車を…。」

「どういうことですか…?」

「まあ来なさい。話はあとでしよう。徒歩で5分くらいのところにあるから。」

先生とベンジャミンは先生の車のある場所まで歩いた。

着くとそこはレンタルガレージで先生は「車を出してくるから此処で待ってなさい。」と言うと広いガレージのなかに入って行った。

ベンジャミンが外で待っていると一台の車が、赤い狼の咆哮を呻りあげながら、彼の目の前に停車した。

そして真っ赤なランボルギーニ「ウォルター・ウルフ・カウンタック」のウィングドアを羽根を後方に広げるように開けて、先生が降りてきた。

「こ、こ、こ、これは…!!」ベンジャミンはあまりの衝撃に爆笑することを抑えられなかった。

しかし先生の表情は寂しげでウルフ・カウンタックを見下ろして深く嘆息して言った。

「買ってから一度も乗ってもらえずに、随分こいつも寂しかったことだろう。」

「先生、ウルフ・カウンタックいつ購入したんですか?」

先生は中空を見つめ目を瞬かせた。

「いつだったかな…大昔のことだから忘れてしまったよ。」

「僕が当ててあげます。先生がこんな高級車を衝動買いするほどの経験をした直後です。」

「…。」

「先生、あの人と別れたあとに…買っちゃったんですね。」

「…あまり、その時期の記憶がなくてね…。」

「酔っ払って、買っちゃったんですね…。」

「ある朝起きたら、先生の家の前にこいつが止まっていて、預金口座がすっからかんになっていて、おまけに信じられない額のカードローンが…。」

「…先生…なのになんでこいつ…売らなかったんですか…。」

「…何というのか、愛着が湧いてしまったんだよ。乗り物というものは、持ち主の愛着が湧くように作られているんだ。こいつが先生の家に遣ってきたというのは、こいつの運命であって、こいつが遣ってきたことで先生が多額の借金を抱えなくてはならんくなったことも先生の宿命であるのだと想ったんだ。だから手放せなかった。それにこいつを売ったところで彼女は帰っては来ないことを知っていたし、せっかくまるで彼女の代わりのように先生を慰んでやろうと先生の処に遣ってきてくれたこいつがどうして売れるだろう?売れるでっしゃろう?売れるはず、ないではないか…。」

「先生…早く乗ろうよ。こいつ…先生と僕に乗って欲しがってるよ!」

「そうだな。今日この日の為に、きっとこいつは先生の処に来たんだろう。ベンジャミンが遅れても、キャンプ場に素早く行けるように…。」

「うん!きっとそうだね。こいつすごく嬉しそうだもの。こいつの名前、エリュトロンにしようよ。」

ギリシャ語で赤の意味か。」

「うん!こいつにぴったしだ。」

「良い名だ。おまえがこいつの名付け親になるとはな…。」

ベンジャミンはエリュトロンの車体の額を愛しげに撫でながら言った。

「はじめましてエリュトロン、ぼくはベンジャミン。これからたくさん色んな場所に一緒に行こう!よろしく!」

「先生は今日からおまえのお抱え運転手になるのか…。」

ベンジャミンは後ろの席にバックパックを積んで折り畳んだBIKEを先生に見せて訊いた。

「先生、これトランクに積んでもいい?」

「トランクに入るかな…かなり狭いんだよ。入らなければ後ろの席に乗せたらいい。」

「やった!先生ありがとう!」

ベンジャミンのBIKEはエリュトロンのトランクにちょっきしのサイズで嵌るように入った。

二人は顔を見合わせて微笑むとエリュトロンに乗り込んだ。

ベンジャミンと先生を乗せた真っ赤なエリュトロンは低い唸り声を上げて発車し、キャンプ場に向かって、走り出した。

 二人を乗せたエリュトロンは、少しのあいだ下道を走っていたが、やがて高速トンネルに入った。

一つのトンネルが30分以上は続くトンネルをいくつも走り続けなくてはならない搭乗者の為に、トンネル内はまるで超空間にワープしたように視覚を刺激するホログラフィックディスプレイがあらゆる空間を作り出し、決められたレール上にタイヤが嵌るトンネル内ではドライバーは下道ほどに意識を集中させて運転する必要がない。

 約二時間近く、快走して二人は高速トンネル内にあるパーキングエリアで休憩を取ることにした。

二人はトイレで用を足したあと売店で軽食と飲み物を買って窓際のテーブル席に座った。

窓からはホログラフィックディスプレイで再現されたマイアミビーチを海岸からヤシの木の間に覗くライトアップされた建物の夜景が眺められる。

でも店内は美しい夕陽が沈んでゆく海と砂浜を再現しているそのタイムラグが、ベンジャミンを懐かしい気持ちにさせた。

先生はコーヒーを少し飲んだあとベンジャミンに言った。

「地図があったほうがいいな。多分迷うことはないと想うが、一応、買ってくるよ。ちょっと待っていてくれ。」

ベンジャミンが頷くと先生はいつもの少し疲れてそうな顔で笑って素早くしなやかな動作で白い砂浜の向こうに消えて行った。

ベンジャミンはこれから向かうキャンプ場に、”本物”の海はないことを知っていた。

海どころか、”本物”の空も…。

でもミニカーに小さくした人間を乗せ、ミニチュアの家に住ませて、ミニチュアの世界が本物の世界であるのだと信じ込ませることができたなら、そのミニチュアの人間にとって、リアルの世界の価値は、どれくらいあるのだろう?

今在る世界よりも、リアルの世界のほうが価値があるなんて、想うものかしら…。

ベンジャミンは頬杖をつきながらローフルーツケーキをパクついて店内を見渡した。

すると突然後ろから、右肩を叩かれた。その叩き方が、柔らかく、同時に花のようないい香りがした。

ベンジャミンはドキっとして、後ろを振り返った。

瞬時に、声を掛けられた。

「 きみ、あの赤いスーパーカーに乗ってる人ですよね?」

振り返ると、そこには一人の少女が、此の世のものとは想えない美しい目で、ベンジャミンを見下ろしていた。

ベンジャミンは何も言わず、少女を見つめた。

少女は返事が返って来ないため、少し苛立ちを感じながら話を続けた。

「行き先は勿論、Empirian Haven Camp(エンピリアン・ヘヴン・キャンプ)ですよね?ぼくもそこへ行きたいんです。でもお金と手段がなくて…もし良かったら、ぼくを乗せてってくれませんか?」

ベンジャミンはハッと我に帰って、銀縁眼鏡のズレを中指で上げると眉間に皺を寄せて賢く見えそうな顔つきをして訊き返した。

「ごめん…よく聴き取れなかった…。申し訳ないが、もう一度話してくれるかな?」

少女は表情を変えずにベンジャミンの目を見つめ、同じ要件を伝えた。

「ぼくはエンピリアン・ヘヴン・キャンプへ行きたいんです。どうしても。でも方法がないから、ぼくを乗せてってほしいんです。」

ベンジャミンは少しわざとっぽく、驚いた様子で少女に向かって微笑んだ。

「き、奇遇だね…それは…!ちょうど僕と先生も、エンピリアン・ヘヴン・キャンプへ行くところなんだ。ただ…先生に訊いてみないと…ちょっと待っていて貰えるかな?先生、地図買いに行ってるから、訊いてくるよ。」

 ベンジャミンはホッとして優しい表情をしている少女の目を見つめると先生のところへ飛び跳ねる想いで駆けた。

 先生は入り口の近くに置いてある棚の側で地図を捲っていた。

 ベンジャミンはそっと近づいて乞い願う顔で先生に話し掛けた。

「先生…。」

先生はベンジャミンの顔を観てギョッとした。

「どうしたんたベンジャミン。今にも死にそうな顔をして…。」

ベンジャミンは潤んだ目で先生に訴えた。

「先生、僕のお願いを、聴いてください。どうか…。」

先生は真剣にベンジャミンを見つめて言った。

「…。要件による。何が起きた…?」

「僕と…彼女のお願いを、聴いて欲しいんです。」

「彼女…?ベンジャミン、落ち着きなさい。相手に聴いてほしいならば、”だれ”が、”どこ”で、”なに”を、”どういった理由”で、お願いしているのかを、明確に伝える必要がある。おまえはもう17歳じゃないか。ってまだおまえは17歳なのか。おまえはあれから…成長したのか。」

ベンジャミンは目に涙を湛えて言った。

「先生…僕は…彼女がだれで、ここがどこで、なにをどういった理由でお願いしているのか…わからない…。そして僕がだれで、何故、僕が僕で、彼女が彼女なのか…さっぱりわかりません…。」

「ベンジャミン、取り敢えず、席へ戻ろう…。そこにおまえの言う”彼女”がいるなら、先生は直接聴くから。おまえは混乱して、先生も我を見失って屁でもこいて真夜中のSouth Beachで朝が来るまで産卵するウミガメの為に穴を掘り続けたくなりそうだ。その先生の側で、おまえは『これは人類が最初にぶつかる壁だ。』と叫んでいるのが目に見えるから、早く席に戻って、要件を聴こう。急ぐんだ。」

二人は夜の砂浜を掻き分けるように、ホログラフィック・ディスプレイで作られたマイアミのサウス・ビーチの空間を走って席へ戻った。

だがベンジャミンの会った少女は、どこにもいなかった。

どこを探しても、少女はいなかったので、二人は無言でエリュトロンの場所まで戻って、二人を乗せたエリュトロンは約2時間後に、無事にEmpirian Haven Camp(エンピリアン・ヘヴン・キャンプ)に着いたのであった。

先生は不貞腐れて眠った振りをずっとし続けるベンジャミンの肩を揺すって言った。

「着いたぞ、ベンジャミン。いい加減起きて、この世界が存在していることを受け容れなさい。」

ベンジャミンはまだ倒したシートに横になって目を瞑ったままいやんいやんと身体を左右に揺らした。

その瞬間、後ろの席から透き通った声がした。

「何故、受け容れる必要があるのですか?」

ベンジャミンは飛び起きて後ろの席を振り向いた。

驚いたことに、そこに、”あの少女”が身体を横たわらせて眠っていた。

「き、気づかなかった…。」

先生はフッと笑って、ベンジャミンを見た。

「おまえはあまりに、彼女の”不在”を信じすぎたからだよ。」

「先生は最初から気づいていたのですか?」

「ああ勿論だとも。霊のすべてが専門分野の先生が彼女の存在に気づかないのは可笑しいぢゃないか。」

ベンジャミンは安心し、横たわる少女の姿をつい見つめてしまう罪深さを噛み締める為に瞼を閉じた。

先生は穏かに低い声で言った。

「何故、この世界が存在していることを受け容れる必要があるのか?それはこの世界で生きてゆく為に、他ならない。」

そう言ったあとエリュトロンのガルウィングドアを開け、「先生は無事に辿り着いたことを報告してくるから此処でちょっと待っていなさい。すぐに戻る。」と言うと荷物をそのままにしてホテルのロビーに向って行ってしまった。

地下の駐車場に止められたエリュトロンの薄暗く狭い車内で二人きりになり、ベンジャミンは緊張して手に汗握っていると、少女はすっくと半身を起こしてベンジャミンに何気ない様子で話し掛けた。

「こんな高級車に、鍵を掛けない主義の先生は面白いですね。きみの担任の先生ですか?」

ベンジャミンは深呼吸して、少女のほうを振り向いて微笑みかけた。

「僕の先生は、先生ただ一人だけだよ。僕の学校は、好きな先生をずっと自由に選べるんだ。」

少女はベンジャミンに微笑み返さず、一瞬、視線を落として羨むような目で言った。

「へぇ…。きみはとても先生のことが好きなんですね。」

ベンジャミンははにかんで微笑んだあと深く頷いた。

「僕は高校2年生の17歳で、名前はベンジャミン。君は…?」

少女は暗い影が射した表情のまま答えた。

「ぼくは自分の正確な年を忘れました。一応、14歳で中学2年生ということになっています。名前はシスルと言います。」

ベンジャミンは素直にシスルの美しい目に見惚れながら言った。

「シスル!すごくいい名前だ。僕の名前はキーボードを早打ちするとつい大便の”便”という漢字の『便ジャミ』って打ってしまうんだ。気にしないけど…。それと、年齢の話しだけど、僕も正確に17歳なのかどうかよくわかってないんだ。この世界で年齢を数えるなんて、ナンセンスさ…。魂の年齢で言ったら…みんな何十億歳だとか言うし…もう憶えちゃいられないよ。」

シスルはクスッと無邪気に笑って訊ねた。

「きみの先生、神霊学専門なんですか?闇が恐ろしく深そうだ…。目を見ればわかります。」

ベンジャミンは胸に故意に棘を刺されてしまった痛みのなか、シスルに返した。

「僕の先生の専門分野は、言うなれば、神秘と、真理なんだ。先生の闇の深さは君より僕のほうが知ってる。」

シスルは寂しげな表情を窓の外へ投げ掛けると小さな声で独り言を言うように言った。

「それが彼への愛の深さだと言いたいんだ…。」

ベンジャミンはシスルのその右の横顔を見つめる瞬間、じぶんがシスルに恋をしてしまったことをはっきりと覚ったのだった。

ベンジャミンは不意に涙が零れ落ちたが、シスルの前で、流れるままにした。

するとシスルがそれに気づき、眼を見開いて言った。

「ゲッ、何故、泣いてるんですか。ぼくがきみを傷つけたからですか…?」

ベンジャミンは眼鏡を外して右の袖で目をこすり、眼鏡をシャツの裾で拭きながら言った。

「違うよ…。気にしないで…。」

シスルはベンジャミンを見つめて欠伸を大きく開いた口を手で覆い隠すことなくしたあと、ベンジャミンのバックパックを枕にしてまた横になり、目を瞑って言った。

「ベンジャミンの先生遅いね。きっとぼくらのこと忘れて、ホテルのBarでカクテルでも飲んでたりして。」

シスルは白いボタニカルなシャツに薄いピンク色のお洒落なサルエルデニムを履いて、白い肌の華奢な身体に短いショートボブが良く似合っている。

ベンジャミンはドキドキしながらシスルに向って言った。

「シスル。二人でこの車の外へ出ようよ。」

がばっと起き上がるとシスルは興奮した顔で答えた。

「どこへ?でも…鍵がないと、車盗まれちゃうよ。早く外へ出たいけど、先生の言い付けは護らなくちゃ。」

 ベンジャミンは、何故、先生がまだ(1時間近く?)戻ってこないかを深刻に考えた。

①先生は、何かを企んでいる。例えば…僕とシスルを、仲良くさせる為に、敢えて戻ってこない。

②先生は、何処かで、気絶している…。

③先生は、だれかに、殴られて、今病院にいる…。(記憶を喪失してしまった…)

④先生も、まさか、恋に堕ちた…?そのため気が動転して、僕たちのことを本当に忘れている…。

⑤先生は、まさか、異次元に飛んだ…?だから僕らのいる次元に戻って来れない…。

⑥先生は、実は、便秘が酷くておまけに切痔と疣痔…?トイレで今、奮闘している…。

⑦先生は、実は、レプティリアン爬虫類人)だった…?ずっと僕たち騙されてた…!?

そのとき、シスルがベンジャミンに向かってぽつりと呟いた。

「例えばさ…愛する人を本当の、堪えられない孤独に堕としてしまえる能力があって、その能力を使ってようやく自分はその人から愛されるのだとしたら、ベンジャミンはその能力を使う…?」

ベンジャミンは鈍器で思い切り脳髄を殴られたような衝撃を受けた。

自分とシスルが、違う次元にいたような悲しみと、シスルに、愛する人がいる(?)ことの悲しみが、ダブルで同時に襲ったからであった。

ベンジャミンは、深く堕とされて、ちりぢりとなった心で、それは究極の問いだと想った。

シスルは純粋な目をして設問を付け足した。

「相手は人じゃなくても良いよ。”神”とかでも…。」

”神”…?愛する神を堪えられない孤独の苦しみに突き堕として、神から愛される能力を使うか…?

「でも…」

「なに?」

「でも…神よりもすごい能力を持ってる自分は、最早、神よりも、神なんじゃ…。だって神を地獄に突き堕としてしまえる能力を持ってるんだろう…?」

「神を地獄に突き堕とす力は持ってても、神から愛される能力は持っていないんだよ。だから神じゃない。」

「わかった。それなら、神も人も同じだよ。全知全能ではないもの…。」

「例え実際にそうであっても、”神”と崇めている存在っていう設定だよ。その場合、例え人だろうと、神と信じているから神だ。」

「先生は、実はすべてが全知全能で、神なんだって言ってたけど…。」

「…今そういう話をしてるんじゃないんだよ…。」

「どういう話…?」

「だから…ぼくが言いたいのは、人間だろうが神だろうが、自分の愛によって、愛する相手を地獄に突き堕としてでも相手からの愛を獲得しようとすることが、愛なのか?っていうきみの言ったとおり究極の問いだよ。」

「でもそれは、すべてが全知全能の神であるならば、その回答はイエスだよ。」

「何故…?」

「だって地獄に突き堕とされた相手は、みずから堕ちたからだよ。全知全能とは、そういうことじゃないか。すべてが自分の想い通りになるってことさ。自分が地獄に堕ちたくはないのに、堕とされたりなんてしない。それだと、全知全能じゃなくて、可能なことがある存在としての可能者、同時に不可能なことがある存在としての不可能者になる。でも先生は、存在するすべてが、実は全知全能で不可能なことは存在しない神であるのだと覚ったんだ。それが本当だったら、シスルのその問いの答えは、イエスだ。何故なら、僕は愛されたい神で、相手は愛する神で、互いにそのすべてを叶える神、すべてを互いに叶えたい神だからだよ。」

「御手上げだ…ちんぷんかんぷんだよ。ベンジャミン、きみときみの先生の言うことはまったく納得が行かない。だってぼくは、ぼくは堕ちたくないのに堕とされたんだ。」

「だれに…?」

「…話したくない。ぼくは約束していたんだ。ぼくを愛してくれるって。でも地獄に突き堕とされてしまったんだ。」

「…ということは、シスルは相手の立場になってこの問いを考えてるんだね。」

「うん…。」

「いまでも…苦しいの…?」

「苦しいさ。永遠につづくと感じるほど…。」

シスルは、ベンジャミンの前でぽたぽたと涙を流した。

ベンジャミンも悲しくなって、シスルと共に涙を零し合った。

そしてベンジャミンはシスルの両手を両手で包み込むように握ると言った。

「シスル、聴いて欲しい。僕の先生は、本当に覚った人だよ。先生は僕たちに、ただ愛を教えているんだ。僕たちすべてが、全知全能の神でないとしたら、僕たちは”不可能”を経験することもできないんだ。僕たちすべては本当にすべてが可能な神だから、不可能を経験することが可能なんだ。僕はシスルがどれほど苦しい地獄を経験したか、想像することすら難しいけれど、でも僕たち存在は、すべて繋がっていて、すべての記憶も経験も、自分自身の記憶と経験であるんだ。だから僕はシスルが経験したすべての地獄を、いつか必ず僕自身の経験として想いだす。シスルのすべての経験は、僕の経験でもあるんだ。それは、シスルを地獄に堕としてしまった人も同じだよ。その人も、いつか自分自身の経験として、経験する。」

シスルはベンジャミンの両手を払い除けると、自分の身体を抱き締めるようにして震えながら言った。

「経験させたくないんだ。彼女に…。あの拷問地獄を、彼女に経験させたくないんだよ…。だからその前に、彼女とぼくだけ、記憶の戻らない、喪われた場所へ逃げ続けることはできないのかな…。ベンジャミン、其処へ行く方法を、きみの先生だけが、何故か知っている気がするんだよ。だからこの車に、ぼくはどうしても乗りたかったんだ。どうしても乗らなくちゃ、いけなかった…。先生は、もしかしてそれに気づいて、戻ってこないんじゃ…。」

ベンジャミンは気を喪いそうなほどの失恋のショックに、気も朦朧として車の窓の外の闇を見つめた。

「シスル…すごく外が暗いんだけれど…さっきも車の外こんなに暗かったっけ…?」

シスルもぼんやりと外の闇を眺めて言った。

「さあ…ぼくは外に関心が無いから、憶えてないよ。…もしかしてこの赤い車は、誰かの肉体で、此処はその人の体内なんじゃないかな。」

ベンジャミンは唾をごくんと飲み込んで言った。

「あ…在り得ない話でもないね…さっきから変だとは想ってたんだ。だれひとり、この駐車場を通らなければ車の音さえしない。静か過ぎるし、暗過ぎる。まるで異次元みたいに、時間の感覚すらおかしい。此処は…一体、だれの身体の中なのだろう…?」

「先生だったりしてね…。」

「先生の…体内だったりして…ははは…ということは、先生は、自分の体内から出てっちゃって、自分の体内へ戻って来れないんだな…魂が、肉体の外へ抜け出たままなのか…。」

「ベンジャミン、降霊術や心霊術は、先生から習ってないの?」

「先生は魔術師ではないからね…。」

「呪術によって先生の霊を先生の体内に召喚させられないのかぁ…。」

「…でもシスル!とにかく祈ろう…!戻ってきて欲しいって祈ると、先生戻ってきてくれるよ。」

「でもベンジャミン、先生が戻れば、ぼくは彼女と二人でもう二度と戻らない場所へ連れてってもらう。それでも…いいね…?」

「嫌だよ…!そんなの…!」

ベンジャミンはシスルの身体を抱き締め、目を閉じ、同時に三つの願いを、神に祈った。

 

僕はシスルと結婚し、僕とシスルは永遠に、愛し合いつづけている。

先生の霊は無事に自分の肉体に戻っている。

僕とシスルは無事に先生の体内であるこの次元から脱出し、元の次元に戻っている。

 

目を開けると、シスルとベンジャミンの目の前に、先生がいつもの寂しそうな笑顔で、夕陽の落ちてゆくビーチに立っていた。

先生は、ベンジャミンに向かって言った。

「ベンジャミン、シスル、先生、この三つの角は、陽だ。そのポケットのなかにある水晶のピラミッドを、陽が落ちてゆく海に向って、投げなさい。」

先生の背には、ヤシの木が横に並び、夕焼け空の中で、揺れている。

ベンジャミンは振り返る。

海だ。

海と交わる為、みずから落下する三つの角を隠した太陽。

 

ベンジャミンは目を開ける。

先生と二人だけを乗せた陽の落ちてゆく海辺を走るエリュトロンのなかで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Deadlife - Pixel Dream

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベンジャミンと先生シリーズ

 

 

シスルの物語