ミルク先生とシスル

『わたしは以前、数ヵ月間だけ、シスルという生き物を飼っていたことがある。』

教室の窓から、肌寒い春の風がシスルの真っ直ぐな少し伸びた前髪を揺らし、ミルク先生は静かに目を瞑る。
シスルは今日も、大好きなミルク先生に自作の詩を放課後に読み聴かせている。
最後まで読み終わると、シスルはミルク先生の目をじっと見つめて静かに立っている。
そして彼は彼女に向かって言った。
「先生、終わったよ。」
すると彼女は目を開けて唸った。
「う~ん、今日の詩も難解だ。でもシスルという名前が出てきたのは初めてだね。」
ミルク先生はそう少しいつものように困った顔で薄く笑って言った。
十四歳の彼は、この時四十四歳の彼女に向かってこう答えた。
「これ、先生の為に書いた詩なんです。」
彼女はほんの一瞬、悲しげな表情をしたあと、こう返した。
「ということは..."わたし"という人物は、先生のこと?」
シスルは、いつものはにかむような笑顔のあと、こくりと大きく頷いた。
だがその瞬間、先生の顔が密やかに強張ると同時に彼は窓の向こうに目を逸らした。
そこには、退屈な春の午後の風景が広がっていた。
はなだ色の空の下で、鴉が鳴いていた。
彼の目に、ほんの少しでも見張る何かは、そこには、なかった。
何一つ、彼は見ようとして窓の外を見たのではなかった。
ただ一つのものを、彼は見たくなかった。
先生は、黙って彼の右の横顔を眺めている。
まだ充分にあどけない、丸みを帯びたその額や鼻先や唇と顎の形を眺め、それに全く相反する大人びた眼差しと長くて黒い睫毛、凛々しく伸びた濃い眉尻、色白の頬に、小さく無数のピンク色のニキビたちを。
彼女は時が止まったように眺めている。
ふと、彼は彼女に向き直って言った。
誰もいない教室で、シスルは西日を背にし、逆光に影を床に落としながらこう言った。
「今度の連休、ぼく先生と一緒にディズニーランドへ行きたい。」
先生はまた困った笑顔で少し笑うと、「許してもらえるかしら。」と答えた。
シスルは寂しそうに笑う演技をした。
「大丈夫ですよ。あの人は、ぼくにも先生にも無関心だから。」
この言葉に、先生は笑ってくれなかった。
その代わり、深刻な顔でいつもの言葉を返す。
「実の父親を"あの人"と呼ぶのはやめないと。」
シスルは軽く吐き捨てるように言う。
「だってあの人のこと、ぼく何も知らないんです。」
先生は、初めて彼に会った日のことを想いだしていた。
冬休み前に珍しく、雪が降った日だった。
彼女は一人、誰もいない校長室で待たされた。
休み明けからこの学校の自分の担任のクラスに転入してくる転校生と、その父親が今日の午後の六時過ぎに、此処に挨拶に来るから待っているようにと言われたのだった。
電気ストーブの点いた校長室のソファーに座って、彼女は教育関連の本を読んで待った。
もう午後六時を、とっくに過ぎて六時半を回るとき、突然この部屋のドアを、誰かがノックした。
ゆっくりと、音もなくドアが開き、そしてそこから一人の大人しそうな少年がまるで震えるように立っていたのだった。
少年は明らかに、この対面に心底恐怖しているように見えた。
彼女は言伝てに聞いていた"自閉症の疑いのある生徒"という言葉を今想いだした。
彼女は少年に正面から見つめられた瞬間、自分の胸も締め付けられたまま硬直してしまったように苦しくなった。
少年はその潤んで大きく開いた両の目で、すべてを彼女に向かって訴えているように想えた。
彼女は圧倒されて少しのあいだ言葉を見失ってしまったが、役柄上このままいつまでも黙って此処に座り込んだままでいるわけには行かなかった。
彼女は唾をごくんと飲み込み、枯れたような声でこう少年に向かって言うと同時にソファーから立ち上がり御辞儀をした。
「はじめまして。わたしはあなたの担任となるエニシダミルクという者です。今日は転校前に挨拶に来てくださってどうもありがとう。どんな子が来るのか、とてもドキドキしていました。」
少年は顔を赤らめ、まだ同じ場所に緊張して突っ立っていたが、その顔は先程までとは違う喜びの表情が窺えた。
彼女は一先ず安心し、彼に少し近付くとこう続けた。
「今日は...御父様も御一緒になられると聞いたのですが...まだ来られてないですか?」
すると少年は別人のように落ち着いた表情でこう答えたのだった。
「はい。あの人、凄くいい加減な人ですから。今日も来ないかも知れません。」
彼女は冷や汗をかきながら早くもこの少年のミステリアスの深い二面性に畏れをなした。
またも口ごもってしまった彼女に、彼は低い声変わりした声で深刻な表情をして言った。
「貴女がぼくの担任で、ぼくは本当に嬉しいです。」
そんな言葉を言われたのは、彼女は初めてだった。
もう十五年、この教師の仕事を続けてきたが、彼女は特別に誰かから喜ばれることはなかったと感じてきた。
しかも初対面のこの数分間で、彼は彼女の何を知ったのだろうか?
シスルという少年は来年の一月から、彼女のクラスに転入してくる中学二年生である。
そして春を過ぎても、彼はまだ彼女のクラスに、中学二年生のクラスにいた。
詳しくはわからないが、彼自身がそれを強く熱望したからだという。
一応、障害のある生徒として、学校では観てもらいたいと父親から教師たちは頼まれていた。
つまり普通の生徒以上の待遇と対応を、父親が望んだのである。
学校側もそれを承知して、彼をこの学校に転入させた。
あとで彼自身の口から聞いてわかったことだが、この日父親は最初から来ることはなかった。
彼は父親を嫌っており、二人が一緒にいるところを彼女は見たことがなかった。
ある日、彼女は冗談まがいでこんなことをシスルに言ったことがある。
「シスル、あなたのお父さんって、本当にいるの?」
彼は半笑いで、だが苦し気な目でこう答えた。
「さあ...あの人って...本当にいるのかしらん。」
「滅多に、家でも会わないですからね。」
シスルには母親はいない。
父親からは母親はシスルを出産するその時に常位胎盤早期剥離で出血が止まらずそのまま呆気なく死んでしまったと聴かされていた。
母親の想いでが家にあることが苦しく、父親はそのすべての形見を棄ててしまった。
なので母親の写真一枚すら、残されてはいない。
シスルは母親の顔も知らない。
とても我儘で嫉妬深く、幼女のようで手に負えないことの多い人だったとシスルは父親から母親のことを聞いていた。
重い精神障害は勿論、知的障害も少しばかりあったのかもしれないと言う。
とにかく母親の良い話を、彼は一つも父親から聴かされることはなかった。
彼は父親を、その事で酷く恨み続けているとしても自然なことだと彼女は想った。
彼は毎晩のように、コンビニの弁当やスーパーの惣菜で済ましていると聞いて、彼女は心配になった。
何より、彼が一人でそれを部屋で食べている姿を想い浮かべると居たたまれない気持ちにさせられた。
彼女は学校には内緒で、彼の夕食を毎晩、作りに行くことにした。
シスルに料理の楽しさを覚えさせる必要もあった。
そして自分の作った料理を、一人以上で食べることの必要性も、彼女は知って貰いたかった。
彼女自身については、それは一つの強迫的観念だったかも知れない。
それは彼女も、長年一人で食事をし続けてきたからだ。
此処にある喜びは、何もなかった。
どれほどの御馳走が食卓にあったとしても、それらは色褪せ、味気無いものとして独りで無言で食べて、消化しなくてはならなかった。
その為、彼女は教師でありながら、毎夜の晩酌をやめることが叶わなかったのである。
シスルに、彼女は自分のようにはなってほしくはなかった。
アルコールがなくては生きては行けないような大人に教育することしかできないのなら、それは教師失格ではないだろうか。
シスルは、彼女と初めて一緒に作った手料理を彼女と食卓を囲んで食べた夜、涙を浮かべて喜んだ。
そして「他のもう何をも食べたくない。」と彼は彼女に言った。
それは彼女を束縛する、最も強力な言葉かも知れないと、彼は知っていた。
でもそれ以上に、彼女を縛り付けて離さない言葉があるとしたら、それはどんな言葉だろうか。
シスルは「シスルという少女を育てる夢」という詩を夜の公園で後ろ向きに歩きながら彼女の前で読み聴かせた日、最後に「彼女は大きな箱から産まれ落ちる」と言った後に立ち止まって、ノートから顔を上げてこう言った。
「先生の名前は、”苦を見る”と書いて”ミルク”だよね。」
彼女は彼に向かって「本当だ。」と言って苦笑した。
「ぼくの名前は、”死をする”と書いて”シスル”なんだ。」
「”シ”を行うという意味?」
「そうだよ。」
先生は微笑んで自分の前に立ちはだかる自分よりも少しばかし背の高いシスルに言った。
「あなたは永遠の孤高の詩人だものね。」
彼はその言葉に黙って、彼女の目を見つめたあとに言った。
「先生、ぼくの存在の理由をわかってないんだね。」
彼女は不安になって、「どういうこと?」と訊き返した。
彼は灰色の石の地面に目を落として小さな声で言った。
「ぼくが、生きている理由だよ。」
彼女が押し黙っていると彼は顔を上げて慈悲深い表情をして言った。
「もう帰ろう。今夜は寒いね。もう四月だと言うのに。」
その日の夜、シスルが彼女を家まで送り帰った後、彼女の携帯にこうメールを一通送った。
『ぼくは苦しみが足りないから、ぼくではまだだめなんだ。』
先生はなんと返したら良いか迷った挙げ句、こう打つのが精一杯だった。
『あなたの苦しみのすべてを先生に話してもらえないことは悲しいことだな。でもいつか話してもらえたら、先生は嬉しいです。』
彼からの返事は朝方にあった。
そこにはこう書かれてあった。
ゴールデンウィークに、ディズニーランドに行ったときに、話そうかと想う。』

ディズニーランドに行くのは、実はミルク先生も初めてだった。
約束の当日の朝、ミルク先生はシスルを迎えに家のチャイムを鳴らした。
5分ほど経って、ドアが開いた。
そこには白い半袖シャツにブルーのサルエルデニムを履いて、黒いバックパックを背負ったシスルが頬を紅潮させた顔をのぞかせながらも不安気にミルク先生の顔を伺っている。
ミルク先生は笑顔で「おはよう。すこし遅れてしまってごめんなさい。」と言った。
シスルは、悲しげな顔を振り払うように首を横に振り、「さあ、行こう!ディズニーランドに!」と言って飛び出すようにドアの外に出た。
シスルはミルク先生の白い車の助手席の前で足踏みをし、「早く早く!」と急かし、ミルク先生が車の鍵のスイッチを押して開ける瞬間、シスルは車に乗り込んだ。
シスルの家から最短で6時間弱で着く。
今は朝の6時過ぎ。スムーズにゆくなら遅くても昼過ぎには着く予定だ。
でもミルク先生のことを想って、今日はそのままディズニーランドに行くのはやめて、ホテルでゆったりと休み、次の日にディズニーランドへ行こうとシスルは先生に言った。
だが実際、着いた時間は夕方の4時を過ぎていた。
ゴールデンウィークは真に恐るべし。誰もが享楽に耽るため、外に繰り出す必要性に駆られる一年で最悪な強迫的な期間。
ミルク先生は、約9時間近く、車を運転せねばならなかった。
シスルは車の中で持ってきた「Thom Yorke - Tomorrow's Modern Boxes」を何度と繰り返し再生させた。
渋滞を考えて飲み物と食料は二人でちゃんと用意しておいた。
車がぴくとも動こうとしない時、二人で先生の作ってきたお弁当をつついて食べた。
シスルは先生に教えてもらった米粉とココナッツバターとデーツとレーズンだけで作るクッキーを昨夜に作って冷凍しておいたものをたくさん持ってきた。
そしていくつものこの世に存在する童話を先生が運転するなかシスルは朗読した。
なかにはシスルの即興自作童話が、先生に内緒で混ぜ込められていた。
先生は気付いているかどうかわからないけれど、この童話はこの世には存在しない。
シスルが、先生に朗読する前までは。
ふくろうの森の奥の遊園地に、新しいアトラクションができたんだ。
アトラクションの名前は「ダークライト」。建物の内部に作られたレールのコース上をライド(乗り物)に乗って進み、その空間の周囲に作られた物語のセットを観て楽しむアトラクションだよ。
「楽しそうね。」先生はそう微笑んで車を運転しながら言った。
「このダークライトに、ぼくは先生と二人で乗りたい。」
先生は鼻歌を歌いながら「うんうん。」と応え、こう言う。
「楽しみだね。」
二人の乗った車はトンネルのなかに入る。
すごく長いトンネルだ。
シスルは道路の白線を通過する居眠り運転防止の音が一定の間隔に聴こえて心地良く、うとうととしている。
「先生…。」
シスルは目を瞑ったまま小さな掠れるような声で右の運転席に座るミルク先生を呼んだ。
先生は「ん?」と言ったあと、こう続けた。
「眠ければ眠っていいのよ。」
「先生…。」
シスルはまるで寝言のようにそう繰り返し、まだ目を閉じたまま話し始めた。
「先生…。此処は…。此処はダークライトだよ。ふくろうの森のなかを、ずっとずっとぼくと先生は奥に進んできて、この遊園地に辿り着いたんだ。でもこの遊園地は、夜にしか開かないんだ。真っ暗な夜にしか、扉が開かない。この重く、頑丈な扉はほんとうの真夜中にしか、開かれないんだ。それを先生とぼくは知っていて、知っていたから、この遊園地に辿り着いて、今、新しいアトラクションのダークライトのライドに、ぼくと先生は乗っている。」
ミルク先生は、優しい声で言った。
「一体どんな物語のセットが、この先にあるのかしら。」
シスルは目を瞑ったまま倒した椅子の背もたれに背を深く沈め、話を続けた。
「ぼくは…ずっと、ずっと…ひとりでふくろうの森のなかを、歩いてた。ふくろうの森のなかなのに、ふくろうなんて、どこにもいないんだ。真っ暗な森のなか、歩いていても、声も聴こえない。森のなかは、静かで、静かで、ぼくの足音さえ、聴こえない。まるでだれかが、ものすごい瞬間的な速さ、光速で、すべての音と光を、吸引しているようなんだ。だから此処は、なにも見えない。なにも聴こえない。そしてぼく以外、だれも、だれひとり、いないみたいなんだ。でもぼくは、ずっと歩いていた。ずっとずっとずっと歩いているのに、なぜかまったく疲れないんだ。先生…。ぼくは気づくとね、地面を歩いていないんだ。ぼくは宙を歩いていた。そう…だから疲れないんだね…。時間を…時間を忘れるほど歩いてきたはずなのに…。何故ぼくは、そんな気も遠くなるほど、ずっとずっとずっと歩きつづけてきたのかっていうとね。ぼくたったひとり、会いたい人が、どうしても会いたい人がいるってことだけ、忘れなかったからなんだ。ほかはぜえんぶ、忘れちゃったよ。ぼくの顔も…。ふくろうがどんな鳥かも、忘れちゃった。ぼくが、だれかも…。それなのに、ぼくは会いたい人の、そのたったひとりの存在だけ、忘れなかった。わすれ、られなかった。なぜ…なぜだろう、先生…。ずっとずっとずっとずっと…このふくろうの森を歩いてたら、なぜだか、会える気がした。会える…会える…会える…だって会いたいんだ…じぶんの存在を忘れるほどに真っ暗闇のなかを歩きつづけてでも…。そうだそれがぼくの存在なのかな。会いたい人がたったひとりだけいる存在。それがぼくという存在なんだ、きっと…。ぼくのことは、なんにもわからないけれど、会いたい人のことはぼくは知ってる気がした。ぼくが知ってるのはそれだけ。ぼくがこの森で知っているのは、会いたい人の、その存在だけ。だからぼくは、その存在に会うために、その人と、再会するために、ずっとひとりで、歩いてた。ほんのちいさなため息ひとつ、聴こえないしずかな闇のなか。宙を、歩き、ときに走って。疲れも知らず。その代りに、さびしくてさびしくてたまらない空間を。それで、ずっと、ずっと、ずっと歩いてたら、ぼくはほんとうにびっくりしたよ。だっていきなり、ずっと向こうに、ひとつの、光の漏れるちいさなドアを見つけたんだ。それは突然、そこに現れたかのように見えた。これは…ぼくは夢を観ているんだろうか。ぼくの求めているドア。ぼくの見つけたかった扉が、ほんとうにそこにあったんだ。ぼくは涙がこぼれて、ものすごい速さで、そのドアに向かって飛んで行った。どんな超音速機より、ぜったいに速かったよ。だって気づけば、ぼくの目のまえにその光が隙間から漏れたドアがあった。そして、ぼくがドアよ開け!って強く願った瞬間、そのドアがゆっくりと、ぼくの前に開かれた。するとその内部空間に在った光のすべてがぼくに向かって降り注がれるように、一気に流れ込んでくるように感じた。最初あまりに眩しくて、目を開けられなかった。目を閉じていると…貴女が…貴女がぼくに向かって…声をかけた。」
シスルは目を閉じながら、目の隙間から涙をこぼし、身体を小刻みに震わせ泣きながらそう最後に言った。
ふいに、シスルは右手をミルク先生の方へと目を閉じながら差し出していた。
するとミルク先生は、シスルの右手の上に、左手をそっと置いた。先生の手も、ちいさく震えていた。
車はまだ、長いトンネル内を走っている。
シスルは鼻を啜りながら話を続けた。
「ぼくは…このぬくもりを…何より求めていたんだ。でも、それが叶わなくて、喪われて、でもぼくは、諦めることができなかった。すごく、怖かったんだ。なぜ…最も会いたい人に会うことが叶わず…なぜ…最も愛する人に…。ぼくは怖くって、怖くって、諦めることができなかった…。貴女に、会いたいことだけが、ぼくのたった一つの、願いだったのに…ぼくは貴女の手によって、この世から、貴女のいる世界から、低く、重く、光の絶対届かない場所に堕ろされるその過程の、真っ暗なふくろうの森のなかの、その奥の、遊園地にあるダークライトの乗り物に今ぼくと貴女は乗っている。これからどんな物語がこの空間に展開されるのか、この長い長いトンネルの先にあるのか、先生、貴女と、ぼくだけが知っている。だって貴女は、十四年前、ぼくと貴女を、このふくろうの森のなかに閉じ込めた。真っ暗闇の貴女の深い深い子宮のなかに。まるで貴女がぼくを堕ろした夜に見た酷い悪夢のように。貴女はあの夜の夢のなかで、こう感じた。真っ黒な大きな袋のなかに、ちいさなちいさな赤ん坊の死んだぼくを入れ、それをじっと、貴女は上から見つめていた。そして貴女は想ったんだ。まるで”それ”は、黒い宇宙のなかでたったひとり、誰にも愛されずに誰にも悲しまれずに死んでゆく自分自身であると。貴女は望んで、今この世界に、ぼくと二人でいる。そして真夜中にしか開かないこの遊園地の扉を、ぼくと一緒に貴女は開けてくれた。このぼくと先生の乗っているダークライトという乗り物は、かならず、出口に辿り着く乗り物だよ。だからちゃんと、この決められたレール上を、真っ暗なトンネルのなかを、ぼくと先生は真っ直ぐに進んでいる。先生も、ぼくも、このダークライトがどこに着くのかを、知っている。ぼくの愛するたったひとりであるミルク先生…お母さん…ぼくは本当の想いを、貴女に言うよ。貴女が、ぼくを堕ろした六ヶ月後に母乳が出始め、一向に止まらなくなったことに苦しみ、みずから命を絶った瞬間、貴女はあの日の校長室のソファーに座って一人、ぼくを待っていたことを、心から嬉しく想う。貴女とぼくが、一つの存在であるということを、貴女が気付いた瞬間、ぼくに向かって初めて、貴女は優しく微笑みかけてくれたから。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Thom Yorke - Pink Section + Nose Grows Some