ノスタルジア

男は微笑み、そこに見える幼い少女に向かって話し掛ける。
面白い話をしてあげよう。
独りの死に至る病の男が、或る夜、 酒に酔って泥沼のなかにはまってその底で眠ってしまう。
すると一人の孤独な悲しい女がその男を見つけ、助けようとする。
沼の岸辺で力尽き、 女が苦しんで息をしていると男が眠りから目を醒ましてこう言う。
これは一体何の真似だ?
ぼくは沼底にずっと住んでいたんだ。
男は言い終わると同時に声を出して笑い始めた。
男は笑いながら続けた。
ぼくを救うとはすなわち、 ぼくをまた地獄へと舞い戻すということか。
止してくれ。
男は急にまともな顔をする。
ぼくはやっと此処に、この故郷に辿り着いたんだ。
このまま、ぼくは此処で死ぬだろう。
女はそんな男を絶え絶えの息で見つめることしかしない。
男は酔いからすこし醒め、女にこう言う。
悪いが水を一杯汲んできてくれないか。
泥まみれの女は重いからだを起こし、 そして立ち上がると男を見下ろし言う。
今すぐ汲んできますから、待っていてください。
男は力なく答えて目を瞑る。
悪い。
だが女がその場から離れようとすると男は荒い息を吐きながら叫ぶ 。
待ってくれ!
ぼくはもうすぐ死ぬ。
此処で独りで死ぬんだ。
だれもいなくなったこの故郷の沼の底で。
だれが、だれが此処に居たと想う?
ぼくをほんとうの独りに。
だから此処へ帰ってきた。
何故わかる?
ほんとうに帰る家があるとでも?
それはぼくが居る場所か。
置いて行かないでくれ...
ぼくが堪えられるのならば、行って、 二度と戻って来ないと約束してほしい。
これ以上の、独りになるのは、信じがたい。
彼はぼくに教えてはくれない。
老いた牛のように、水辺に立ち、それはぼくを見つめる。
助ける方法は知っている。
だが決して助けてはならない。
彼の苦しみに比べれば、ぼくの苦しみはないに等しい。
ぼくの家は、遥かに遠い。
では此処は何処なのか。
ほくを憐れむ者はもはや消え去り、過去を望む者もいない。
彼女はその家で飼っていた鳥を家から出し、足を切り、 鳥は飛び続けることしかできない。
死の淵に降り立つことさえ叶わず、死も越え、 どこまでも飛び続ける。
暗い、だれもいない安らげる洞窟を見つける。
でもそこで羽根を休めることもできない。
この中を、廻り続けて飛び続けるなら、 いつの日か目を回して墜落し、 もう二度と目を覚まさないことがあるだろうか。
廻り続けるうち、陽の光がどんなものであったかを忘れる。
暖かさを忘れ、冷たさを忘れ、それを想いだそうともしない。
そうださっきまで、ぼくは酷く喉が渇いていたはずなのに、 今はそれを想いだすこともない。
苦しみを忘れ去り、安らかなるすべてを忘れ去り、 如何なる死も幻想も、此処から立ち去った。
彼女は我が子を家から追い出し、子は悲しみに足を切り、地の底にみずから堕ちる。
地の底を這うように、飛び続ける。
霧が深く、顔が見えない。
自分の顔も。
忘れてしまった。
ひとつ残らず、羽根は折れ、骨はその身体中に突き刺さり、 それでも飛び続ける。
これでこの地の底に、白い羽毛の雪は降り止むことはないだろう。
彼女は安心し、 落下するように降り続ける我が子たちを愛で続ける。
我がノスタルジア
そこへ降り立つ。
我が故郷に、それは降り止むことはない。
それが降り立つ日まで。

 

 

 

 

 

 


我が愛するアンドレイ・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』に寄せる。