Clonal Plant

男が女と別れてから、約一年が過ぎた。
ウェイターの男は今夜も、気付けばこの駅にいた。
あの夜、彼女に会えると信じて降りたバルティモアの駅である。
男はまるで夢遊病者か偏執病者のようにあのライブハウスへ赴く。
そして演奏される彼女の好きそうな音楽を聴きながら目を瞑る。
そうして待っていれば、彼女はもう一度わたしの手を、死んだように冷たいちいさな手で触れ、わたしを…。
わたしを求める。彼女はでも、今夜も此処には間に合わなかった。
彼女はいつものように酔い潰れ、あの公園のベンチで眠っている。
街灯の柔らかい光に照らされて眠る青褪めた彼女はまるで、親に棄てられた堕天使のようだ。
死にかけているのは、わたしを心配させ、わたしに家に連れ帰って貰おうとしているからだ。
わたしは最早ほかに手段はない、わたしが彼女を看病せねば、彼女は死んでしまうかもしれない。
ベンチの上で膝を曲げて眠る彼女を見詰めたあと、わたしは抱き上げるとタクシー乗り場へ歩いて向った。
そこのベンチに彼女を抱いたまま座る。
それにしてもなんという静寂の夜だろう。
全ての者がやっと自分の行ない続けてきた罪に心から悔恨し、神に手を組んで目をじっと瞑り、懺悔しているかのようだ。
わたしは此処で一台のタクシーを待っている。
彼女を連れて家に帰り、手厚く看病を施したあと、共に眠る。
そして目が覚めると、
一台のタクシーが目の前に止まり、わたしは彼女を抱いてその車に乗った。
車は無言で発車する。
彼女はわたしの膝のうえに頭を載せ、すやすやと幼女のようにあどけない顔で静かに寝息をたてて眠っている。
わたしの家で目が覚めると、彼女はわたしを見つめて、そしてわたしを抱き締めながら話しをする。
運転手の男とバックミラー越しに、目が合う。
「彼女を一体どこへ連れてくつもりだ」
ひとつ、話を想いだしたんだ。
あるところに、悲しい女が生きていて、女は理想の男を、夢想の世界で愛していた。
その男にはモデルがいるんだ。顔や身体つきはそっくりだ。
しかし中身は違う。性格も性質も違えば、記憶すら違う。
それでも女は男のモデルに、愛する女がいることを赦せなかった。
違う存在であるということがわかっていても、どうしてもだぶってしまうときがあって、そのときはいつも女は絶望的になった。
しかし次の年、女の前に、女の理想とする完璧なその男が生身の身体を持った存在で現れた。
男は恐れる女にこう言った。自分は謂うなら、クローンやアンドロイドのような存在であると。
自分は自分の容姿のモデルとなった男と、何一つ関係はなく、女の理想とする部分だけを持っている。
男は女を優しく抱き締めたあと、「わたしは貴女だけを愛するためだけにここに存在している」と言う。
バックミラー越しに運転手の男は、ウェイターの男に言った。
そういや先日、此処の付近で、事故があっただろう。
運転手の男が即死か半身不随になったか、どっちかだった気がするが、どっちだったのだろう。
クローンかアンドロイド、女の目には男が、何より生きている存在に見えた。
彼以上は存在しない世界で、それは最もだろう。
それから幾日と、女と男は愛し合ったが、女は男を愛するほど、男がその男のモデルの容姿にそっくりであり、性質や性格もどこか似ているように感じた。
そうすると女はまたも、モデルの男の愛する女性の存在が気になりだした。
一体この車はどこへ向っているんだ。
運転手の男は独り言のように言った。
ある朝、女は男に問い質した。
きみにほんとうに瓜二つのモデルの男性が、あの女性を心底愛しているのだから、きみもあの女性をまえにしたら愛するのではないのか。
クローンかアンドロイドの男は、それを否定した。
しかし女の不安は、なくなることはなかった。
ある夜、女は、あるジャズコンサートに一人で観に行きたいと男に告げ、家を出た。
男は寂しく、眠れずに女の帰りをひたすら待っていた。
午前零時を過ぎた頃、女から電話があった。
終電に間に合わなかったから、今夜は此処の近くのホテルに泊まって帰ると言ったとき、男は耐えられずに言った。
今からタクシーで迎えに行くからどこのホテルか教えて欲しいと。
女はその返事に渋って、なかなか返事をしない。
そのとき男の耳に、電話口の向こうのほうから男の声が聞えた。
「だれと話してるんだ?」
運転手の男はバックミラーは見ないで窓の外を眺めながら小さく言った。
ウェイターの男は答えなかった。
ただじっと膝のうえで眠る彼女の寝顔を愛しそうに見つめ彼女の髪を撫でている。
男は女に、今、男性の声が聞えたけれど、誰か側にいるのかと訊いた。
女は怯えた声で、怖いことを言わないで、誰もこの部屋にはいないと答えた。
男は謝って、空耳だろうかと想い、もう一度女に今から迎えに行くと言った。
女は罠に掛かったかのように、男を待ってるとホテルの場所と部屋番号を伝えて電話を切った。
ウェイターの男は窓の外を眺め、外が真っ暗なのを見て不安になり、運転手の男に声を掛けた。
「いま、どこを走っているのですか?」
運転手の男は正面をぼんやり見ながら答えた。
「あんたのこれから向おうとしているところに向って走っている」
ウェイターの男はバックミラーを見つめながら女が自分を棄てて選んだ男に向けて言った。
「わたしはあなたに、わたしの家の場所に向ってくれと言いました」
運転手の男はちらっと同情心を向けた顔で答えた。
「だからそこへ向って走っている」
それにしてはどこを走っているかもわからないくらい暗い、ぽつぽつと、遠くのほうに灯りが見えたかと想うとすぐに消えてしまう。
男は黙ってその遠くのほうを眺めていた。
すると運転手の男が、バックミラー越しに男を眺め、「あんたの淹れてくれた珈琲は美味かったよ」と言ったあと、「もう飲めなくなるのかと想うと残念だ」と言った。
男は女の頬を撫でて黙っていた。
「あんまり皮肉じゃないか。何故よりにもよって、あの駅で」
「あんたと彼女が初めて会った場所だろう」
「ほかに方法はほんとうにないんだろうか」
「今ならまだ間に合うさ。それはもうすぐ遣ってくるが、あんたが今彼女を置いてこの車を降りるなら、事無きを得、あんたは自分の家に帰ることができる」
「でも降りないと言うなら、このまま真っ直ぐ、あんたの向おうとしているところへ行く」
「彼女も連れてゆく。あんたの大事な愛してやまない彼女だ。あんただけの、あんたの中にだけ存在する彼女だ」
女がうたた寝から目を覚ますと、目のまえに男がいて、男は優しく微笑んで「今から家に帰りましょう」と言った。
頷いて女はホテルの部屋を見渡し、「誰もいなかっただろう?」と言って怯えた顔をした。
男は頭を擡げて女の寝癖を撫で付けると部屋を出る準備をして女と部屋を出た。
ホテルから少し離れたタクシー乗り場のベンチに女と座り、女は男の胸で眠っている。
少しの間そうして座っているとタクシーが目のまえに止まって男は女を抱きかかえて車に乗った。
向かいたい場所へ対価さえ払うなら向ってくれる便利な乗り物だ。
でもその乗り物はわたしを降ろしたあと、どこへ向うのだろうか。
男は今夜も独りで車を降り、朦朧としながら目を開けた。
バルティモア駅に終電の電車が到着し、そしてわたしを一人駅に残して去って行った。
今夜も、そこへ向うことはできなかった。
男は盲者のように夜道を歩き、ベンチに座る。
タクシーを待って、それに乗って帰ることもできるが、ここでこうして眠っていれば、彼女は心配してわたしを見つけ、声をかけるかもしれない。
最近、この辺で事故に合った運転手の男は、確か植物状態のままだという。
その闇のなかで、どちらへ向うか決まれば、きっと抜けだすのだろう。