ѦとСноw Wхите 第17話 〈ハロウィンの夜〉

今夜は待ちに待ったハロウィンの夜。

Ѧ(ユス、ぼく)とСноw Wхите(スノーホワイト)は仮装をして、大きな古いヴィクトリア朝時代の御屋敷に夜遅くやってきた。

Ѧは仮面をつけた魔女の仮装でСноw WхитеはFrankenstein(フランケンシュタインの怪物男)の仮装をしている。
本当はѦはこんな恐ろしい廃墟へ夜中に遣ってくるなんて嫌だと何度もСноw Wхитеに言ったのだけれども、彼は珍しく駄々を捏ねて、どうしても行きたそうにしてその場を動こうとしなかったので仕方なくѦは彼に着いて来た。

ѦとСноw Wхитеは肝試しさながらに手提げランプを持ってこの広い屋敷の中へと足を入れた。
足だけ入れて帰ってきたのではなく、勿論、全身も入れた。
さっきから、薄々と感じてはいたのだが、どうもѦたちを、じっと静かに覗き見ている存在たちがいるように感じてならない。
もし、ghost(ゴースト)に出会ったのなら、Ѧはこう言おうと想う。
「Boo!!」
こうして、ゴーストに驚かされるよりも、先にこちらが相手を驚かして、相手をびびらせることによって、どうにか因果を被ることを避けようという狡賢い手段である。
すると次の瞬間、あまりの緊張のせいでか、Ѧはつい、まだゴーストにも会っていないのに、
「Boo!!」
と言ってしまったのであった。
お尻から・・・・・・
すると、Сноw Wхитеがまるで子供のように笑ったので、Ѧも笑った。

廃墟の屋敷のなかで、Сноw WхитеはѦに言った。
Сноw Wхите「Ѧに今夜ここでお話をしてあげます」
持ってきたレジャーシートを広げるとСноw Wхитеはそこへ座り、Ѧに向かって手を差し伸べたので、ѦはСноw Wхитеの膝の上に横向きに座った。
そしてСноw WхитеはѦの頬にそっとキスするとゆっくりと話し始めた。

 


昔々、あるところに、一人の男が大きなお屋敷のなかで独りで住んでいました。
男は働きもせず、この世界でまったく自由なように見えたことです。
しかし男の心のなかは、それはそれは深い孤独と悲哀に満ちていたと言います。
いったい何故でしょうか。
男は実は、若い博士が作った、人造人間だったのです。
彼はもともと、人間ではありませんでしたし、今も人間と呼べるかどうか、疑わしいものです。
では彼はもともと、なんだったのでしょう。
彼は博士が、”或る”男の死体を墓から掘り起こし、その死体に博士の作った魂を封じ込めた存在でした。
もともとあった魂ではありませんから、その魂は人造の魂と呼べましょう。
彼の身体の基となった死体は、死んでいたのですし、魂は博士が作るまえまではどこにもなかったのですから、彼のなにからなにまで、人造のものでできていると言って良いでしょう。
彼が人造人間であることは、誰の眼から見ても明らかでした。
何故なら、彼の身体は死体で出来ていたため、その色はどこか青く緑がかってもいましたし、また眼球は想うように動かすこともできず、突然ぎょろっと人形のように動くのでしたから、人は皆、彼を恐れ、近づく人間は博士を除いて、誰一人いませんでした。
博士は実験の為に第一作目の彼を創りあげましたが、彼を哀れに想い、その為に彼に大きなお屋敷に住まわせ、働かずとも暮らして行けるお金を月々送り込む約束をしました。

男はそのお屋敷でたった一人で、20年間の月日を過ごしました。
ある朝、男は近くの小川の岸辺で一人泣いておりました。
とてもとても悲しい夢を見たのです。
でもその夢がどんな夢か、ちっとも想いだせないのでした。
男は川の冷たい水で顔を洗ってさっぱりとしたところ、ふと岸に突っ伏した小さな何者かがそこにいるのを発見しました。
生い茂った葦に縺れてなかなか捕まえることもできませんでしたが、やっとのことで捕まえたその”生き物”は、どうやら死んでいるようにまったく動きはしませんでした。
左右の髪を、器用に編んで結んでいる、それはどうやら女の子であるように見えました。
しかし二つの真ん丸い眼はガラス玉のようでしたし、鼻はなく、口は縫い付けられて開きませんし、どうも人間らしくありません。
男は、これは人間の女の子ではなく、人形の女の子なのだとようやく気づきました。
それでもこの女の子は、とても愛らしくて、手放したくないと想ったので、男は水の滴るそれを屋敷に持ち帰ることにしました。
男は屋敷に着くと、女の子が寒くないようにと水気を拭いてやり、女の子を椅子の上に座らせ、話しかけてみました。
「わたしの名前は、Zoa Gernot(ゾア・ゲルノート)と言います。ゾアと呼んでも構いませんし、ゲルと呼んでも構いません。貴女のお好きなように、呼んでください。貴女は、なんという名前でしょう・・・?」
男はそう尋ねてみましたが、相手からの返事はありません。
「わたしはこの屋敷で、二十年間ものあいだ、一人で過ごしてきました。貴女が何故、あのような冷たく寒い場所で一人、突っ伏していたのかわかりませんが、きっと色々な事情があったのでしょう。貴女が話したくなるまで、わたしはいつまでも待ちますので、無理に話す必要はありません。貴女は今日からここに、住んで構いません。貴女の着ている衣服が泥だらけなので、わたしは明日、貴女の着替えを買ってきてあげます。そしてその衣服は、わたしが明日川で洗ってあげます。何故、明日かというと、今日は一日、貴女を安心させる為に、ずっと傍に居てあげたいからです。わたしは決して貴女を見棄てたりしないと神に誓います。だからどうか安心して、ゆっくりしてください。もしかして貴女はひどく疲れていて、今にも眠ってしまいたいでしょうか?わかりました。ではあなたをベッドのところに連れて行ってあげましょう」
男はそう言うと人形を赤ん坊を抱くように慎重に抱き上げ、寝室に連れてゆき、ベッドに寝かせました。
つぶらな眼を開けたまま眠る人形を男は微笑みながら眺めていました。
嗚呼、二十年間生きてきて、こんなに幸福な気持ちになったのは初めてだ。
彼女は人形だが、きっと何かを考えているに違いない。
わたしに助けられ、彼女もきっと幸福な想いでいるに違いない。
男はそうして、三年間ものあいだ、人形と二人で暮らす日々を送りました。
しかし幸福な月日はやがて、それまで以上の寂しさを男の胸の内側に広がらせ、冷たく立ち去ってゆきました。
男はある朝ついに決心し、博士のもとに行き、跪いて懇願しました。
「どうかお願いします。わたしの創造主、愛する御父よ、この少女を、どうかわたしのように”生きた”存在としてあなたの力で創りあげてください。わたしはどうしても生きてゆく為に、この少女の愛が必要になったのです。あなたはわたしに仰いました。わたしは人間たちとは違って、永遠に生きる存在であるのだと。それが本当だというのならば、わたしは愛なくして、どのように生きてゆけばよいのでしょう。わたしがあなたを心の底から呪う日が来てもおかしくはありません。しかしあなたがこの少女に魂を吹き込んでくださるのならば、わたしはあなたを永遠に呪う日は来ないことをあなたに誓います」
博士は男から人形を受け取ると、黙って深く頷き、一年後にまたここに来るようにと言って男を帰らせました。
それから一年間、男はどんなに胸を高鳴らせて過ごしたことでしょう。
普段から億劫で仕方なかった屋敷内の掃除も、毎日何時間と行なってどこもかしこも埃一つ見えません。
そして長いようで短い一年の月日は過ぎ、待ち侘びた日がやってきました。
男は正装をして、襟を立てて首にはリボンタイを結び、髪を油で撫でつけて少女の為に用意しておいた青い押し花が硝子のなかに入った髪飾りを包んだ箱を持って、息せき切って博士のもとへ走って向かいました。
男は博士の傍へ静かに歩き寄り、震える口で言葉を発しようとしたその時、博士が振り向いて自分の後ろを指差し、その棺を開けるようにと言いました。
緊張のあまり朦朧とした感覚で男は棺の蓋を開け、その中を覗き込みました。
するとそこには、白いドレスを着た自分の肌の色とはまったく違った肌の白い小さな少女がすやすやと寝息をたてながら眠っていました。
年齢はまだほんの4歳ほどに見えます。
その愛らしさに見惚れていると、後ろから博士が声をかけました。
博士は、喜ぶが良い。この少女はおまえよりずっと人間らしい存在として創りあげることができたはずだとそう言いました。
その言葉を聞いた瞬間、男は灰色の不安が目のまえを覆って胸が苦しくなるのでした。
しかしこの少女がどういう”存在”であるかを、博士であろうとも知り尽くすことはできないだろうと男は想い直し、少女を早く屋敷へ連れて帰りたいと博士に頼みました。
博士はいつでも連れて帰るが良い。この少女はおまえの為に作ったのだから。とそう言いました。
男は博士のまえにひれ伏し、感謝の言葉を何度と捧げると少女を棺のなかから抱きかかえ、その重みに驚きながら抱き締めるようにして屋敷へと連れ帰りました。
少女はその日、目を醒ますことはありませんでした。
男は少女を腕のなかに抱き、まるで娘のように少女を見詰めて共に眠りました。
ところが次の朝、男が目を醒ますと少女の姿がどこにもありません。
男は屋敷中を、無我夢中となって探し回りました。
そして広いキッチンのある部屋に入ったそのとき、床に蹲(うずくま)りながらパンを齧って食べている少女の真ん丸い二つの黒い目とぱちっと目が合いました。
男はその瞬間、気持ちがぱっと晴れやかになって心底ほっとしました。
自分も少女に向かってキッチンの床にぺたんと座って微笑みながら、「そのパンは美味しいですか?」と少女に尋ねました。
少女はあの人形と同じように無表情で黙り込んだままパンに齧りついています。
その様子を打ち眺め、まだ言葉をきっと知らないんだ。と男は想いました。
「わたしの名前は、Zoa Gernot(ゾア・ゲルノート)と言います。貴女の名前は、今日からEmer(エマ)という名前です。わたしは貴女をわたしの妻として迎え入れたいと想います。貴女がそれを受け容れる日には、貴女の名前はEmer Gernot(エマ・ゲルノート)という名前になります。さあわたしのエマ、ここはすこし寒いので暖かいお部屋に行って続きを食べましょう。わたしが貴女の為に温かいスープを作ってあげます」
小さな少女エマはパンをしっかと手に握ったまま男に抱き上げられ、食卓の部屋に連れてゆかれました。
まるで動物のような何もわからないエマをここに置いてスープを作りに行くのは不安でしたが、男はエマをテーブルのまえの椅子に座らせると、キッチンへ向かいました。
男がエマが食べやすいようにと野菜を小さく小さく切って作ったスープの鍋を持って戻ってくると、またもや困ったことに、エマの姿がどこにも見えませんでした。
しかし、今回は先程とすこし違いました。エマの笑い声が聴こえてきたからです。
男は窓辺に行ってレースカーテンの透き間からそっとエマを覗いてみました。
エマが何をそんなに楽しそうに笑っているのかと想えば、エマはお庭のなかにある噴水の池のなかに住んでいる魚を捕まえて遊んでいたのでした。
白いドレスは既に泥だらけになっていて、長い黒髪には枯葉がたくさんついていました。
男はそんな一人で遊ぶ楽しそうなエマの様子を眺めながら、悲しい気持ちになったのは確かです。
何故なら、エマにとっての最初の楽しい出来事は、自分との経験であって欲しかったとどこかで願っていたからでした。
エマは楽しいのに、自分は悲しい。この不一致がますます男を悲しくさせるのでした。
それでもエマを迎えて三日目のことです。
エマは初めて男に向かって笑いかけたのでした。
それは男の目を指差して、突然可笑しくてならないという具合にけたけたと虫が入ったように笑いだしたのです。
どうやら男のこの、キョロっと突然動く奇妙なふたつの眼が、エマの眼からは面白いものに見えたのでしょう。
男はこれまで何度か、子供たちに笑われたことがあってそのときはひどく傷ついたことを想いだしました。
しかしエマのその笑い方は、あまりに純真無垢な無邪気さだったからか、男は悲しい気持ちにならず、それよりもエマの笑いに釣られて可笑しくてしょうがなくなったのでエマと一緒に声を出して楽しく笑い合ったのでした。

それから半年の月日が経った頃のことです。
男がエマに絵本を読み聴かせたあとに、エマは突然男に向かって「パッパ」と呼びかけました。
悲しいことに、エマが初めて口にした言葉が男の名前ではなく、その言葉だったのです。
エマがその意味をわかって言っているのかは定かではありませんが、男はエマに向かって優しく言い聴かせました。
「エマ、残念ながら、わたしは貴女のパッパ(父親)ではないのです」
しかしエマは不思議そうな顔を男に向けたまま、また「パッパ」と今度は嬉しそうに呼びました。
男はすこし深刻な顔をして「わたしのことはどうかゾアと呼んでください」とエマに言いました。
それでもエマは楽しそうに小さな身体を男の膝の上で揺らしながら「パッパ、パッパ、パッパ」と何度と繰り返し呼ぶのでした。
男はきっと父親という意味をわからないで発音が面白くてエマは言っているのだと想いました。
「いまはまだ貴女はちいさいから、貴女のパッパでいてあげましょう」
そう微笑んで言ったあとに、「でもいつの日かわたしは貴女の父親ではなくなるのです」と続け、エマを抱き締めました。

エマはそれから三年余り、男のことをパッパと呼びつづけました。
男の危惧の想いはいや増して、どうしても自分のことを名前で呼ばせなくてはならないと気は焦り、エマはまだ7つほどの幼な子でしたが、エマに”本当”のことを打ち明ける決意をしました。
エマはちょうどそのとき、日が傾いたお部屋のなかでお人形遊びをしていたので、男はエマの傍に座って落ち着いた声でゆっくりと話しだしました。
「エマ、今からわたしの言うことを良く聴いてください。今から貴女に、わたしは本当のことを言います。貴女とわたしは、人間ではありません。一人の若い博士が作った人造人間なのです。つまり、人間に創られた存在だということです。他の人間たちは皆、神が創った存在です。しかしわたしと貴女を”生きた”存在にしたのは、他の誰でもない一人の人間なのです。貴女はわたしと違って、人間のように年を取って身体は変化を伴いますが、わたしはまったく30年ほど前から姿形が変わってはいません。貴女はわたしよりも”人間らしい”のです。それでも、貴女は人間と同じように生きてゆくことはできません。何故なら・・・・・・貴女とわたしは、元は死んだ人間だからです。死んだ人間に、博士が新しい魂を入れてくださったのです。この世に、わたしと貴女のような存在はどこにもいないでしょう。貴女は、人間と仲良くしてはなりません。人間は、わたしたちが死んだ人間からできていることを見抜いてしまえば、酷いことをするのです。ですからわたしたちは決して人間に近づいてはならないのです。貴女を学校に行かせて学ばせないのもその為です。貴女とわたしは、ずっとずっと二人で生きてゆかなくてはなりません。わたしは貴女の父親の”まま”でいるつもりはなく、わたしは貴女の夫として存在しているのです。それは貴女の生まれるまえから決まっていることなのです」
エマはおとなしく神妙な顔をして静かに聴いていましたが、突然、長く黒い睫毛の瞼をぱちぱちと瞬かせたかと想うと、たっぷりと涙を目縁(まぶち)に浮かべて声を放った瞬間に、ぽろぽろと真珠のように涙を零しました。
「エマはもう、パッパと呼んじゃいけないの?」
男は自分が生まれたときから大人だったからでしょうか、エマがこれほどまでに自分に父親を求めることが理解できませんでした。
だからエマに向かって、「エマにパッパは存在しないのです」とはっきりと応えましたが、言い終わったあとに、エマがあんまり悲しそうに泣くものですから、エマが不憫でならなくなりました。
男はそれから、三日間、一人で遊ぶエマを影から眺めながら考えました。
エマの為に、あと三年間、あと三年の間だけ、エマの父親でいてあげようと男は決心して、エマに自分のことをパッパと呼ぶことを許しました。
喜んではしゃぐエマを強く抱き締めると、エマは逃れようと身体を捩りながらも「パッパ、パッパ、パッパ」と言って笑いました。
エマが10歳ほどになったときにはきっと、自分を父親ではなく、一人の男として見てくれるようになるだろうと、男はエマを信じることにしました。

やがて三年の月日が流れ、エマが10歳頃の少女になると、男は三年前の約束をエマに想い起こさせるためにエマの遊んでいるお庭へと歩いてゆきました。
広いお庭の樹に囲まれた狭い小道を歩いていると、散った枯葉のなかに小さな白い花が咲いているのを男は見つけました。
おや、こんな季節に春の花が咲いていると男はその花を見つめ、その白いちいさな顔を覗かせる花の姿がエマの愛らしさに重なったものですから、男はその花を摘むと手の平のなかに隠してエマにプレゼントするときっと喜ぶだろうと想いました。
男は樹の木陰に座ってお絵かきをしているエマを見つけました。
そっと近寄ってそばに腰を下ろすとエマが男を見上げて微笑みかけました。
男も微笑み返し、エマが描いていた絵を覗き込みました。
そこには真ん中に小さな女の子が手を繋いでいる両端には男の人と女の人が描かれ、みな嬉しそうに笑っている絵でした。
男は一瞬にして、血の気が引くほどの悲しみを覚えました。
それでも落ち着いてエマにそれぞれの人物について尋ねました。
まず顔から口がはみ出すほど嬉しそうに大きな口で笑っている女の子を指差し、エマに「これは誰ですか?」と尋ねました。
すると予想していた通りに「エマ」、と返事が帰ってきました。
次には、エマの左手と繋いでいる男に指差し尋ねました。
「これは誰ですか?」
エマは男を見上げることなく俯いたまま「パッパ」とだけ答えました。
男は指していた指を、エマを通り過ごして今度はエマの右手を繋ぐ女を指して尋ねました。
「では、これは誰ですか?」
するとエマは俯いていた顔を上げて、半ば男を責めるような顔と声で応えました。
「マム」
男は青褪めた顔でエマに尋ねました。
「いったい、エマのマム(母親)がどこにいるのですか?」
エマはまた深く俯いてしまうと今度は何も答えませんでした。
男は気を取り直してエマを抱き上げて膝に乗せると優しく抱き締め、「わたしの愛するエマ」と言いました。
「わたしの愛するエマ、貴女は三年前のわたしとの大事な約束を憶えていますか?」
エマはまだふてくされた顔をしながら俯き、首を横に振りました。
男はエマの髪を撫でながら言いました。
「わたしの可愛いちいさな花嫁、エマ、わたしは今日から、貴女の夫となるのです。ですから今日からはどうか、わたしのことを名前で呼んでください」
エマは眉間に皺を寄せて、訴えかけるような眼を男に向けながら見詰めました。
男が悲しい眼で見詰め返すと、エマの視線はだんだんと力をなくしてゆき、男の胸の辺りをぼんやりと見詰めていました。
男は先程、無意識に胸ポケットに挿したままの白い花を想いだし、そのちいさな花をエマの黒髪に結んであげました。
そしてエマに向かって、「なんて愛らしい花嫁でしょう。明日は花をたくさん買ってきて、大きな花冠を作ってあげます」と言いました。
エマは男が結んであげた花を無造作に左手で掴みとってしまうと、その花を地面に投げつけました。
そのとき突風が吹いて、小さな花は風に飛ばされてどこかへ行ってしまいました。
男はエマまでどこかへ行ってしまわないようにとしっかりとエマの手を握り締めていましたが、エマは無理やりその手をほどいて駆けて行こうとしたものですから、男はエマを呼びとめようと後ろから追って名を呼びました。
しかしエマはそのまま走ってって、庭の雑木の陰に隠れて見えなくなってしまいました。
男は気づかず水溜りのなかに足をつけていたのでその足を上げると、そこにはへし折れて花びらのほとんど散ったさっきの白い花が泥と枯葉にまみれてあるのを見つけ、男は一層悲しみに暮れながらじっとその無残な青白くなった花を見詰めることしかできませんでした。

エマは次の日から、男に対して大きな抵抗をあからさまに見せるようになりました。
それは男のことを、「パッパ」とは呼ばなくなった代わりに、こんどは「マム」と呼ぶようになってしまったことです。
男はエマの抵抗に酷く傷つき、エマの無垢な目をじっと見詰めて言葉を探していました。
エマに悪気がまったくないように見える以上、何をどう言えば伝わるのか、男はわからなくなってしまったのです。
まだ10歳という歳で親の愛情を求めることは仕方のないことなのだと男は自分に言い聞かせ、エマへの複雑な想いをどうにか宥めようとしました。
それでも男は、エマがなんの意図もなく自分のことをマムと呼ぶことに対して、まるで自分の悲しみがエマに伝わっていないことを知り、余計に悲しくてならなくなるのでした。
だからといって、男は未来に対する希望を手放すことはしませんでした。
何故なら、エマはまだ幼いからです。
エマの寝顔を見詰めながら男は毎晩、胸の奥が熱くなって恍惚とした感覚になる夢想をしました。
自分のことを一人の夫としてエマから愛されるという夢想です。

その年に、男はエマと一緒にお風呂に入っているときに、ほんのすこし膨らんできた小さな胸にそっと手を触れた次の日から、エマは一人でお風呂に入ると言いだしました。
男は自分でもセクシュアルな関心から触れたのかどうかさえよくわかりませんでしたが、エマが自分と一緒にお風呂に入るのを避けたがることを残念に感じながらも、恥らうエマがとても愛おしく想えるのでした。

きっと、あと6年。あと6年もの月日が経てば、エマは16歳の少女となって結婚できる年になり、自分のことを夫として見てくれるようになるはずだ。
そう男は6年後のエマに望みを託して、それまではエマに対して自分はマムの代わりになってあげようと想いました。

そうして長い年月が過ぎ去り、エマはようやく少女が同時に大人の女性として認められる16歳という年の頃になりました。
エマはこの6年間のあいだ、男のことをマムと呼んだり日によってはパッパと呼んだりしてきましたが、男を名前で呼ぶことはありませんでした。
でもこれから先は、どうしても自分の名前を呼ばせなくてはならないと男は想いました。
男はエマの作ってくれた昼食を一緒に食べ、後片付けも一緒にしたあとにいつものお庭のベンチにエマと並んで座り、本を読み聴かせました。
するといつものようにエマは眠くなって男の膝の上に頭を載せ、ベンチに横になって微睡みながら聴いています。
エマが気に入っていた一冊の本を読み終えたあと、静寂が風の音のなかに広がっていました。
男も目を瞑り、白昼夢を見ているような心地のなかで、囁きかけるように言葉を放ちました。
「わたしは今日から、貴女の父と母をやめて、貴女の夫となろうと想います」
そのとき、エマは寝言のように小さな声で返事をしました。
「・・・エマはきっと、恋をしているの」
男も少しうとうととするなか、まるで寝言のようにその言葉に返しました。
「貴女は誰に、恋をしたのでしょう」
エマはくぐもった口調で言いました。
「・・・名前も知らない男の子」
名前・・・名前も・・・・・・知らない・・・男・・・・・・。男はその瞬間、はっと目を醒まし、酷く恐れを感じてエマを激しく揺り起こしました。
エマはただでさえ青い男の顔がさらに青褪めているのを見てギョッとし、目を丸々と見開いて男の目を見詰めました。
男はエマの肩を震える両手で強く揺さぶりながら言いました。
「貴女はいったい・・・誰に、だれにいったい、恋をしたのです」
エマは男のおかしい様子にショックを受け、怒られていることに怯えながら答えました。
「し、知らない男の子・・・エマが公園で遊んでいると、いつも声をかけてきて、エマに描いた上手な絵を見せてくれるの」
男はエマの返事があんまりにも衝撃だった為、見開いた眼が閉じることも忘れ、目はだんだんと充血してきましたが、全身を震わせながらもエマの目から目を一瞬でも離すことができませんでした。
エマは男の様子に恐怖を覚え、心配になったものの、どうしたらよいか困りに困り果てて、じっと黙って男の涙さえ浮かんできた目を見詰め返すことしかできません。
こんなことになるなら、エマを自由に外へ遊びにゆかせることを許すべきではなかったと男は心の底から悔恨に苛まれました。
エマはしまいには恐ろしさと不安から涙をぽとぽとと落とし始め、ちいさく「マム」と呟いて男に抱き着きました。
しかし男は生気が果てたようにエマを抱き返すことも叶わず、エマの身体を力ずくで引き剥がすと自室まで忙然として歩いてゆき、それっきり寝台に倒れ伏せて寝込んでしまいました。
「エマにとって、わたしとは・・・・・・」日が何度暮れても、男は頭のなかで何度と朦朧としながらそう繰り返すばかりでした。
エマは男のことがとても心配でしたが、その苦痛を一時でも忘れたくていつもの公園に出向いては恋をしている男の子を待ちました。

「何の為に、わたしがいるのでしょう」
ある夜に、言いつけも護らず遅くに帰ってきたエマを起こして、男は覆いかぶさる姿勢で穏かに言いました。
エマは男の要求をずっとずっと、本当はわかっていました。
だからずっと苦しんできたのは、エマのほうだと、エマは言葉ではなく、その二つの潤った目で男に向かって訴えてきました。
「そうです。貴女はわたし以上に、苦しんできました。貴女はどうしても、わたしの妻になることを拒むのですね。でもわたしは、貴女を娘とする為に、博士に貴女を創らせたのではないのです。貴女はわたしだけを愛するわたしだけの妻として存在するようにと、ただそれだけの願いによって、この世に生まれたのです。わたしの願いなしに、貴女はどこにも存在しないのです。それに、貴女の身体の基(もと、原料)となった死体と、わたしの身体の基となった死体はまったくの赤の他人であり、決して父と娘のような関係ではなかったのです」
暗がりのなかでランプもつけずに男は怯える目つきをしたエマに向かってそう言うと、言ったあとにハッとした顔をして眼球をころころと動かせながら一点を見詰めました。
どこかきょろっとした目をしながらもひどく狼狽した様子で男は寝台から素早く身を離し、エマの部屋を出て屋敷も出てゆきました。
男は息せき切って、博士のもとを訪ねました。
そして博士に向けて、絶望した眼差しでこう言いました。
「わたしとエマを創りし神よ、あなたはまさか、まさかあなたの選んだわたしとエマの基となった死体は、父と娘であったのではないですか・・・?」
すると博士は静かに頷き、深い息を吐いたあとに答えました。
「愛する我が創造物のゾアよ、どうか赦してくれ。何故ならおまえと彼女の基となる死体は、他にどこにも存在しなかったからである。おまえたちの基となった父と娘は、共にある日不幸に死んで、誰もその死には気づかなかった。しかしわたしが、生きた存在として蘇えらせる為に、何年と保存していたのだ」
男はそれを聞いた途端、がくっと膝から崩れ落ち、床に手をついて項垂れました。
「あなたは一体、わたしと彼女に”何の”実験を望んでいるのか。わたしの望みを、あなたは聴いて、わたしの為に彼女を創ってくださったのではないのですか。エマは苦しみ、わたしも苦しく、他に遣り場が無く、心が痛くてなりません。あなたの望みどおりに、わたしたちは生きているのでしょうか。もし、あなたの望みどおりにわたしたちが生きていないのだとしたら、それでもわたしたちは生きていなければならないのでしょうか。あなたの願いによって、わたしたちは存在しているのではないのですか。どうか望みを、わたしに生きる望みをお与えください。あなたはわたしたちの、わたしたちを愛する親ではありませんか。エマはわたしを、夫として愛することができないのです。あなたは仰いました。彼女はわたしよりも人間らしい存在となると。では人間らしさの不十分なわたしは、この世界でどのように生きてゆけばいいのですか。彼女は人間のように歳を取り、人間のようにその感性は、あまりに複雑です。わたしはいつまで経ってもまるで赤子か死者のように成長することができないのです。あなたきっと、心のどこかで想っているのです。わたしは”失敗”であり、”不出来”であると。何故ならわたしは、もはや生きる望みを、すべて喪ってしまったのですから。あなたの希望は、失敗であったということです。あなたの願いは不出来であり、不十分であったのです。しかしわたしは、最後にはあなたの望みどおりになりましょう。あなたの実験物は、失敗に終わった為、存在している必要など、どこにもありはしないのです。わかりますか。あなたの望みとは、きっとエマの望みと同じものであるのです。生きていて、わたしがどのように人間から離れてゆくのか、あなたには見えるでしょう。あなたはわたしの願いを叶える存在です。それ以外に、あなたは何者でもありません。わたしを存在させることのできたあなたは、わたしを”もと”に戻すことが、できないはずはありません。エマが最も求める存在は、わたしではない。それだけの理由で、わたしはこの世界に、いる必要など、ないとあなたに最後に願います。これが今あなたの目のまえにある、あなたのわたしに対する一番の望みです。我が主よ、あなたの望みによって、わたしのすべてを喪わせてください」
男は床を見詰めながらそう振り絞った声で言い終わると、ちょうど斬首刑を待つ罪人のようにその首を前に突き出して、両手を胸の上で祈りを捧げるように組みました。
博士はしばらくすると男の頭に右の手を載せ、男の願いを聴き入れました。
男はそのすべてを喪われるまで、愛するエマの顔が見えました。
エマは何故か、いつまでも男に向かって微笑みかけているのです。
すべてを喪われた男のなかで、エマは男の名を呼び、こう囁きかけるのです。
「わたしのたった一人の愛する夫。あなた以外に、わたしは存在しない」

「わたしのたった一人の愛する妻。あなた以外に、わたしは存在しない」
それが男の最期の言葉だったと、博士がエマに告げると、エマはその場にくずおれ、声をあげて泣きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Ricky Eat Acid - because