Maternal

彼女は彼の膝のうえにちょこんと座り、彼にキスをして微笑んだ。
アルバートは幸せな過去を想いだすように恍惚な表情で中空を見つめながら暗い牢屋のなかで呟いた。
「わたしはそのとき、想ったのです。わたしは彼女をぜひ食べたいと。」
彼は檻のなかから、その痩せた手を彼女に差し伸べた。
かすかにその手は震え、手にした瞬間にくしゃっとドライフラワーのように砕けて地に落ちた。
天井からはいつでも赤黒い血が滴っている。
そう、ここの上階はもう18世紀初頭からずっと殺人者の処刑場だからである。
その床の血溜まりを覗けば、懐かしい人がいつも微笑み返してくれる。
わたしはアルバートの手をとって、檻の鍵穴に鍵を差しこみ格子扉を開けなかへ入った。
彼の銀髪は綺麗に油で撫でつけてあるように整っている。
わたしはその老人の望むままに膝のうえにちょこんと座った。
そして彼にやさしくキスをした。
「嗚呼…想いだした。わたしは貴女の味を想いだしたのです。」
アルバートは何処も見ていない目でそう耳奥に心地よく響く声でゆっくりと言った。
ランプに大きな虫がなんどもぶつかって羽音を大きく立てた。
わたしは怖くなって彼に抱きついた。
彼はわたしの頭に頬をすりよせて言った。
「貴女はほんとうに…ほんとうに美味しかった…。」
わたしは強く彼に抱き締められた。
「神が貴女をわたしにお与えくださったのです。最高のわたしを喜ばせる食べ物として。貴女を食べ尽くしたとき、どれほど深い安心と幸福に包まれたことか…まるであの時わたしは愛する貴女を胎内に宿した妊婦だったのです。」


断末魔が聴こえる。
あれは…人の声だろうか?
いいえあれは、家畜の声です。
此処の上の上の階は食肉解体場です。
よかった…。
「人間じゃなくて、ほんとうによかった。あなたが食べたのが人間じゃなくて、ほんとうに。」
わたしはもう一度愛おしい彼の頬にキスをした。
すべての壁から水滴が流れて止まることがない。
あなたはご存知ですか?
彼が食べたのは、人間ではなかったのです。
だからその肉は、とても美味しかったのです。