ベンジャミンと先生 「カシス海」

さあ今日は、いい天気だな。曇ってるけどな。あたたかい日だ。この昼下がりのこの眩い空、ひじょうに微睡みたいよ、先生はな。

では今日は、ベルギー最大の幻想文学作家ジャン・レーギリシャ世界の古代神を現代に甦らせた、愛と復讐の壮大なドラマとちまたで言われている「マルペイチュイ」を今から一緒に読もう。

読みたい人間は手を挙げなさい。

よし、ではベンジャミン、おまえから読みなさい。

 

「はい」

ベンジャミンは利口そうな顔で静かに立ち上がるとみんなの前で音読し始めた。

「マルペルチュイの館には何かがいる!屋根裏の罠に残されたハエほどの大きさの手、闇にうごめく、人間の形をした小さな生きもの。

ここ、マルペルチュイ館に住む一族は、かつて太古の神々を捕えたカッサーヴの呪われた末裔だった。復讐に狂う神々と大神ゼウスの天翔(てば)ける戦い……」

また帯の部分から読み出したんだなと先生は思いながらベンジャミンに言った。

「天翔(てば)けるではなく、天翔(あまが)ける、だな。あまり使わない言葉だが覚えておきなさい」

「はい先生。では続きをお読みしてもいいでしょうか」

「勿論だベンジャミン。さっそく幻想世界へと我々をいざなってくれ」

 

ベンジャミンは大きく息を吸って吐くと、囁くように緊迫する空気のなか、緊張をこめて音読し始めた。

「アナルカシスの幻」

先生は耳と耳を疑った。

しかしただ読み間違っただけだろうと思い、次の同じ箇所を読む瞬間を信じた。

ベンジャミンは霧がはれたような顔をして読みすすめた。

「霧がはれ、荒れ狂う波がその存在を遠くから告げていた島が、いま恐ろしい姿で現れた。水夫アナルカシスは舵柄(かじがら)にしがみついて、恐怖の叫び声をあげた。」

「舵柄(かじづか)だな。おいベンジャミン」

「はい先生」

「もうひとつ、さっきから間違えてるな。次は読み間違えないように」

「わかりました」

ベンジャミンは眉間にしわをよせながら口をちょっとだけ尖らせつつ感情を全身でこめて読みすすめた。

「小型帆船(こがたほぶね)フェナはもう何時間も前から、この怪物のような岩ののがれられぬ磁力に引きよせられて、破滅へ向かって走ってきたのだ。岸には鉛色の大波がぶちあたり、上方には稲妻が炎のように怒り狂っていた。

アナルカシスは叫んだ。」

「ベンジャミン」

「はい先生」

「もう、おまえはそこまででいい。座りなさい」

ベンジャミンは口に震える手を当てて、懇願するように言った。

「で、でも先生、ここからが、ぼくの、まさにぼくの読みたいところなんです。先生、読ませてください。ここだけは、ここだけは読ませてください」

「どこだ、それは」先生はページをめくり、ベンジャミンが読みたそうな箇所を探した。

「次のページの、14ページまでを、どうかぼくに読ませてください先生」

先生は眉毛をあからさまに八の字にして困った表情をしてみせると「しょうがないな。それじゃ次のページを読み終わったら即すわりなさい。わかったな」

「はい、ありがとうございます先生」

「ベンジャミン」

「はい」

「次のページまで名前は出てこないが、この章の題名は”アナカルシスの幻”だ。間違えないように」

「先生ぼくはなんて読み間違えてしまいましたか?」

「おまえは三度も、アナルカシスと読んだじゃないか」

教室じゅうに、妙な沈黙が流れた。空の雲が、重くなってきた。

「なんだこの沈黙は。ベンジャミン」

「はいなんですか先生」

「今日も放課後に、残りなさい」

「わかりました」

「では続けなさい」

「はい」

「逆風や奇妙な潮流のせいもあった。しかし、それよりむしろ、漂流と言ったほうがいい。船長は完全にコースをはずれてしまったことを了解した。この海域はもう何年も前からよく知っているはずなのに、こんな島を見た記憶はついぞなかった。

いまや間近に迫った死の島からはあの幾重にも呪われた草アナギレスのたまらない悪臭が漂ってくる。彼は、悪の霊が事件に関係していることを悟った。

島の笠石の上に現れたなにものかの形を見たときには、その確信はますます強くなった。それは人間の姿形をしていながらも見るもおそろしいものであり、その大部分は、比較を絶するほどの巨軀(きょたい)をしていた。

彼らのうちあるものは力強く、あるものは他に較べて比較的美しかったから、男女の性別があると見えた。背丈もひどくちぐはぐだった。普通の背丈のものは一人もいず、一部のものは小人で畸形であると見えた。もっとも距離の関係で、そのようなちぐはぐが出たのかもしれない。

彼らはみな身じろぎもせずに、荒れ狂う空を見上げ、恐ろしい絶望に凍りついていた。

『死体だ』と船長は泣き声で言った。『山のようにでっかい死体だ!』

中に一人、恐るべき静止の姿勢のうちにも、曰く言いがたい威厳を見せたものがいた。船長は、その相手から恐怖のあまり目を逸らした。

もう一人、宙に浮くかわりに岩にしばりつけられたものがいた。それは不安と超人的な苦痛とに身をよじり、脇腹には洞穴のように大きな穴があき、そこだけが、生命の恐るべき戦慄と動きとを保っているように見えた。その人物の上に覆いかぶさっていた黒い影がなにものであるか、ときおり流れる霧の帯のせいで、水夫には、はっきりとは見えなかった。」

ベンジャミンは14ページのすべてを読み終えると、先生の言ったとおりに席についた。

「よろしいベンジャミン。感情をうまく、これでもかといわんばかりに表現できていたな。高い評価に値するが、放課後残りなさい」

「ありがとうございます。わかりました先生」

 

今日の授業は午後の2時までであった。

「ベンジャミン」

先生は生徒たちがみんな帰ったあとの教室でベンジャミンを教卓の前に立たせた。

「先生ぼくは」ベンジャミンは何か思い悩んでいるというようにそのうつむく顔を翳らせた。

「なんだ、言いたいことをすべて、すべて、先生に言い尽くしてしまいなさい。その為に残らせたのだから」

「先生、ぼくは、先生の心奥(しんおう)を、今日も読んでしまいました。赦してください先生」

「ベンジャミン、先生とアナルカシスと、いったいなんの関係があるというんだ。言いなさい」

するとベンジャミンは顔を見せないようにして深くうつむき、沈黙した。

「だいたい、アナルとカシスってなんだ、アナルとカシスにいったいなんの繋がりがあるんだ。ベンジャミン」

ベンジャミンはその細い軀(からだ)をこまかに震わせながら、なにもこたえはしなかった。

「もうわかった。ベンジャミン。今日は先生はとってもよい気分なんだ。こんなにすきとおったにび色の天気だしな、どこかへ一緒に行こうじゃないか。ベンジャミン、顔をもうあげなさい。おまえがつねづね行きたがっているところとか、どこか今日行きたいところに先生は着いていってやろう」

するとベンジャミンの表情はぱぁっと無垢なものになり、すかさずこう応えた。

「先生ぼく前からずっと、先生と一緒に遊園地へ行きたかったのです。知っていますか?アミューズメントパークといういろんな子供と大人が遊ぶ遊具がたくさんあって、あらゆる種類の食品やグッズを売りさばく出店が出ているといううわさです。ぼく是非そこへ先生と行ってみたいんです」

「ベンジャミン、遊園地という人々が楽しむ場所へ先生は何度か行ったことがあるよ、最後に行ったのは10代のときだったと思うが、先生は憶えている。一世紀前には大変賑わっていたはずの遊園地が、その土地の過疎化によって退廃し、廃墟同然に客はおらず、何か独特な静寂が流れていて、そこにあるすべてはまだ動くものであったものの時間が止まっていたよ。客が少なくなるだけでああなってしまうものなんだと先生は感じて、その空気は先生にとても心地が良かったはずだったと想い出すが、じっさいはもっと、言い知れぬ悲しみがある想い出の場所だ。おまえはその悲しみを、先生に追憶させ、追想の苦しみのなかに立たせながら追懐にたえきれない時間を追蹤(ついしょう)させ、また回顧(かいこ)の記憶の呼び起こしに取り組ませてくれるというのか。それは真に、喜ばしいことだなベンジャミン。おまえが行きたがっている遊園地へ、今すぐに行こうじゃないか。今日は、そういう日なんだよ」

「ぼくが行きたい遊園地がどんな場所か、先生は知っているのですか?」

「先生はそれを知らないよ。そんな場所、いつ近くにできたんだ?先生は興味のないことにほんとうに無知であるから、近くにどんなものがあるかも知らない。しかしどんな場所でも先生は嬉しいはずだ。拷問遊園地とかでなければ」

「そんな場所にも行ったことがあるの?先生」

「ないよ」

「先生、行こう。閉館時間まであまり時間がない。きっと楽しいところだよ」

ベンジャミンはそう言うと先生の手を引っ張って、先生は極度の方向音痴のベンジャミンに何も言わずに着いていった。

 

 

 

 

ベンジャミン。ここはほんとうに、遊園地なのか。

ベンジャミンは慌てて青い制服のズボンのポケットの中から地図をとりだし、大きな銀縁眼鏡を中指でくっとあげると目を凝らして見た。

「まちがいないよ先生。ここがちまたで大変人気だという噂の遊園地のはず。あっ、ほらあすこ、遊具らしきものが見えます!行ってみましょう先生!」

先生とベンジャミンは背の高い枯れたアナギレス草の生えしげるなかを手でかきわけながら、その奥へとすすんだ。

「先生、アナギレス草と切れ痔という病は、何か関係があるのでしょうか」

「ないだろう、たぶん」

「そうかな。ぼくはきっと、約500万年前に、人類が最初に切れ痔という病に罹ったとき、研究博士たちが原因を辿ると、このアナギレス草で排泄の後、拭いたから、ということが解って、名前をアナギレス草にしようと偉い学者が命名したのだと思います」

「でも今の切れ痔とアナギレス草はなんの関係もないだろう」

「そう、それがとてもおかしい話なのです。何故なのかしら」

「ベンジャミン」先生が思索に耽っているベンジャミンに向かって言うと、ベンジャミンは現実に戻ってきたような顔をして先生に振り向いた。

ベンジャミンは目の前に広がる景色を眺めると、目を大きくして先生に向き合うと言った。

「先生、よかった。ここはまぎれもなく遊園地ですよ。ほら、あすこ、パンダの乗り物だってあるし、ピンクのうさぎだっている、あっ、あれはきっとホットドッグスという熱い犬というペットを売っている場所だ、すごく情熱的な気性の犬が買えるという話です。あっピンクのうさぎの着ぐるみの奥に見えるのは乗ると目を回して死ぬという飛行機の乗り物だ。回転木馬だってあるし、ジェットコースターもあるじゃないですか!間違いありません。ぼくらは遊園地へやってきました先生」

「ベンジャミン、そうは言うが、ここはなんだかおかしくないか」

「何がおかしいんです?先生」

先生は周りを見渡しながら、遊園地の中へと入っていった。

そしてある一つの小さな幼児の乗る蜂の乗り物を見下ろし、ベンジャミンに向かって言った。

「見なさいベンジャミン。この遊具を。これは明らかに普通じゃない」

ベンジャミンは先生の手が蜂の背中をなでるのを見ながら言った。その背中はざらついてささくれだっているのにすべすべともしている。

「先生、空が晴れてきましたね。西日がとても繊細だ。この遊具というか、この場所はきっと、時空が歪んでいるんですよ先生。ひどく新しいものとひどく古いものが同時に在る。遊園地ってそういう場所ではないのですか?」

「ベンジャミン、ここにあんまり長くいると、戻れるかどうか危険だ。長居するまえに先生と戻ろう」

先生がいい終わるまえにベンジャミンはまるで幼な子(おさなご)のようにはしゃいで走っていき、見つけるものにかたっぱしから触れて遊び、そこから先生を呼んだ。

先生はベンジャミンの乗るパンダの大きな乗り物のその後ろに横向きに乗ると煙草をシャツの内ポケットからとりだし、燐寸(まっち)で火をつけると吸い始めた。その瞬間、先生は、あれ、わたしは煙草をやめたはずなのだが、と思った。

 

 「先生は子供のとき、どんな子供だったんですか」

先生が無意識の境地に入りこんでいるとベンジャミンがそうたずね、先生の意識は戻された。

「ん、なんだって?」

「先生が子供のころはどんな子供だったのか訊いたんです」

「子供のころ、忘れたよ、先生は」

「たった20年前のことを忘れるなんて、先生らしくないです。先生はいつも、ぼくらに忘れていることを教えている人だもの。こういった遊園地とかって、きっと子供時分のことを想いだすために用意されているはずなんです。先生は、ほんとうに忘れてしまった大事なことを、今日想いだせるかもしれません。だから、想いだしてほしいんです。ぼくは知りたいんだ。先生の子供のときのことを」

「先生は忘れてしまったわけじゃないよ、忘れることにしたんだ。それは今を生きたいように生きたいがためだ、過去のすべては、先生にとって、たえきれないものばかりだ、じぶんで忘れようとしたのだから、すべてちゃんと憶えているよ。先生は心を殺す必要だってない。今日ずっとおまえのことを考えていたんだよ」

「なぜですか?ぼくが、アナルカシスなんて言ったからですか?」

「いや違うよ、先生はおまえの過去を、知らないんだよ」

ベンジャミンは黙りこむといつもの微妙な屁が5日間でないというような顔をした。

 「おい、あれ、船だろう。おまえせっかく来たのだから、あの船に乗ろうじゃないか」

先生が指さすほうをベンジャミンは望むと、そこには大きな船の船影(せんえい)のようなものが見えた。

 凛々しくほほえんで先生を見るとベンジャミンは言った。

「ぼくちょっとそのまえにポップコーンとレモンアイスクリームとアップルパイを買ってきます。先生は何を食べる?OK、ぼくが先生の食べたいものをよみとります。パインアップルソフトココナッツバージョンとコーヒーだね。それじゃちょっと待っててくださいね」

「ベンジャミン」 先生がベンジャミンに「これを持っていきなさい」と言って財布を渡すと、ベンジャミンは笑いながら「いらないよ先生、ここぜんぶ無料で買えるんだよ」と言ってまぶしい西日のなかに駆けていった。

大きなパラソルのついた白いテーブルの椅子に座って先生はベンジャミンのうしろすがたを眺めていた。

青いオーバーオールを着たピンクのうさぎの着ぐるみがベンジャミンにポップコーンを渡している。

あいつはまだうさぎだとわかるが、ほかの店員や風船を持ってうろついている者たちはほとんどが、ワニとカモノハシと鴨と駱駝と馬とカエルとトカゲとイモムシとカタツムリとゲンゴロウブナとクマとパンダと犬と猫などがキメラ化したようないったい何のキャラクターなのか意味のわからない着ぐるみを着ている。

ベンジャミンがすべてを買い終え、もどってきて先生と向かいあってすわるとレモンアイスクリームを食べながら言った。

「先生、あのポップコーンを売ってるピンクのうさぎが先生のこと知ってたよ」

「なんだって?先生は知らないよ、あんなやつ、何かの間違いだろう、平気で嘘をつきながら遺伝子組み換えのポップコーンを売りさばいているような顔をしているじゃないか」

「でも言ってたよ、あいつは確か、20年以上前に俺のポップコーンを買って金を払わなかった奴だって」

「そんな憶えはないぞ、しかしなんであいつはまたそんなことを未だに根に持って憶えているんだ」

「きっとすごく貧しくて苦労して生きてきたうさぎなんだよ。今その分を先生が払ってしまえば赦してくれるはずだよ。先生、さっきからなんでアイスとポップコーンを交互に食べてるんですか?」

「甘いんだよ、すごく、そして、冷たい。交互に食べるとちょうどいい」

先生は懐から財布をとりだすと161ルーブルをベンジャミンに「これをあいつに払ってきてくれるか」と言って渡した。

ベンジャミンはコインを指ではじいて落ちるコインを掴みとると「先生まかせてよ」と気前のよい顔をしてまたポップコーン屋に向かって走っていった。

ベンジャミンが戻ってきて息をはずませながら座ると言った。

「受け取ってくれたよ。でも素っ頓狂な顔をしてた。なんであいつはこんなちっぽけなことを気にしているんだ。こんなお金どうだっていいことなのに。って言ってたよ」

先生はまた無意識に煙草の箱を内ポケットからとりだすと一本抜いてテーブルに立ててとんとんと垂直に落としながら言った。

「おかしくないか?何故ほんとうにどうでもよいことだと思ってるなら、さっきベンジャミンにそのことをあいつは言ったんだ?」

「きっと、想いだしてほしかったんだよ、じぶんのことを」

「なんでだ?ただの他人になんで想いだしてほしいんだ?あのピンクのうさぎ男は何かを隠しているんじゃないのか。それに、あのうさぎ男の目はなんであんなに虚無なんだ?」

「先生、そんなに気になるならもう一回行ってきて、訊いてきましょうか。何かを隠していませんかって」

「いや駄目だ、そんなことをして、あいつがなにかを想いだしてみろ。この不安定な次元の時空がさらにゆがんで、戻れなくなるかもしれない。絶対に駄目だ。そっとしておこう」

「でもほんとうに何かを隠していた場合、あのうさぎ男は先生のことが気になって、これから先生のあとを着けるんじゃないかな」

「怖いことを言うのはやめなさい、ベンジャミン。いったいあのうさぎ男と先生にどんな因果関係があるというのだろう」

「先生、いま、あいつ先生のことじっと見てるよ、ほら」

「やめなさいベンジャミン、着ぐるみを着ているのだから、そんなことはわかるはずがない、って、あそうか、おまえは透視力があったな、先生を怖がらせるんじゃない。楽しむためにここにきたんだろう」

「先生ぼくとっても楽しいよ」

「おまえは真に、率直でよろしい、しかし先生はもう、気にしないことにするぞ、ほら早く、食べてしまいなさいそのアップルパイ」

「先生半分食べてよ、Lサイズのポップコーンでお腹がふくれちゃった」

ベンジャミンは大きなアップルパイを半分にちぎると先生に渡した。

先生は左斜め向かいのほうからうさぎ男の視線を感じながらアップルパイを食べた。

「ぼく喉かわいちゃった。ちょっとカシスソーダを買ってきますね」

そういうとベンジャミンはまたうさぎ男の店に向かって走っていった。

ベンジャミンにカシスソーダを手渡しながらうさぎ男がこっちを見ている気がして先生は目をそむけ、煙草を無意識で吸い始めた。

 ベンジャミンは戻ってくると、テーブルにひじをついてカシスソーダのストローに口をつけながらうさぎ男のほうをじろじろと見だした。

「ベンジャミン、あんまり見るのをやめなさい。彼は無実だし、先生も無実だ。憶えちゃいないんだからね。それはそうとおまえはカシスが好きなのか」

「好きだよ先生。味や色も好きだけれど、それよりも名前が好きなんだ。ぼくの好きな本に長野まゆみの”耳猫風信社”って本があるのですが、その話の中にカシスって名前の少年が出てくるんです。すごく面白いから先生も読んでみてください」

「それは面白そうだな、では今度授業でとりあげよう、おまえが最初に読みなさい」

「やった!すごくひさしぶりに読むから楽しみです」

西に傾いた陽は強くなったり、翳ったりをなんども繰りかえしていた。

 カシスソーダを一気に飲みほしたベンジャミンは立ち上がって先生の手をとると「先生、せっかくなんだから船は最後の砦にして、いまから回転木馬とジェットーコースターに乗ろうよ!」と言って先生の手を引っぱった。

 先生はのっそりと立ち上がりながら「最後の砦って、使い方間違ってないか」と言った。

「でも船に乗るのってなんだか、最後の砦って感じがするじゃないですか?」

「先生とベンジャミンはこの地を追われた亡命者というわけか」

「そういうわけです。あのうさぎ男がぼくたちを追ってるんです」

「だからずっとこっちを見ていたわけか」

「うん。今も見てます。何か恐ろしい凶器を持って追いかけてくるまえにここを離れましょう先生」

「そうしよう。ああいう子供の味方の振りをしたクリーチャーほど激しく手ごわい強敵だったりするものだ」

先生は先に走っていってしまったベンジャミンを追いながらうさぎ男から離れるにつれて心底ホッとするのだった。

回転木馬の前で律儀にも待っているベンジャミンに向かって先生は言った。

「ベンジャミン、すまないが先生は昨晩徹夜をしたおかげで急激にいま猛烈な睡魔に襲われている。ちょうどここに良さそうなベッドがあるので先生はここで一眠りをするから、おまえは自由に行動していなさい」

「ベッド?どこにそんなものがあるんですか?」

先生は回転木馬に近づいて階段を上ると、「ほらここに」と言って大きなかぼちゃの馬車の中に入って靴を脱いで横になってしまった。

ベンジャミンが中を覗くと、とてもふかふかとした寝心地の良さそうな場所に先生が膝を曲げて眠っていた。

外からは馬車があるなんて見えなかったし、それにまるで最初からここに寝心地の良さそうな馬車があると知っていたかように先生は言ったな。なぜかしら。とベンジャミンは不思議に思った。

するとそのとき、回転木馬が回り始めたので慌ててベンジャミンは馬車を引く白い馬の背中に乗った。

 馬の頭に耳をつけてベンジャミンは回る景色を眺めた。それは何かが遠ざかっていきながら近づいてくるような過去へさかのぼりながら未来へつきすすんでいくような景色だった。すべてが回っている。すべてが回っているということは終わりと始まりがない、ベンジャミンはなぜ人は途切れ目を探すんだろうと思った。途切れ目が人を幸福にするんだろうか。途切れ目を見つけさえしたなら納得してこの世界が回っていようと回ってなかろうとなんだってよくなるにちがいにない。なんのために回っているのか、きっと考えもしない。きっとそれが死というものなんだ。誕生の前、ぼくの生まれる前をぼくが見つけられないなんて。ぼくの過去を、ぼくが忘れてしまったなんて。先生には言えないよ。先生だけには。

ベンジャミンは何週か回って馬からおりるとかぼちゃの馬車の中をのぞいてズボンのポケットから携帯電話をとりだして先生のやさしい寝顔を写真におさめた。

向かいの椅子にベンジャミンも靴をぬいで膝を曲げて横たわると目をつむった。

目を閉じたまぶたからすこし涙がこぼれおちた。

 

 「くるしみっていうのはほんとうに、きりがない」

「かなしみっていうのはほんとうに、きりがないよ、ベンジャミン」

先生の声で目を醒ますと先生の姿がなくなっていた。

不安になったベンジャミンは先生の姿を探した。

もう日が暮れかけてきてあたりは薄暗い。

 ひょっとしてうさぎ男との因縁を思い出してけんかを吹っかけにでも行ったのだろうかとポップコーン屋に行ってみたが店はひとつ残らず閉店になっていて真っ暗だった。

その周りを探してみても先生の姿はどこにも見当たらない。

ベンジャミンは急に泣きたいような気持ちになってきた。

先生が言った「戻れなくなるかもしれない」という言葉がとてつもない恐怖と共によみがえり絶望的な気持ちになった。

こんなところで戻れなくなって死ぬまで過ごさなくちゃならなくなったらならぼくはどうしよう。

 絶体絶命だ。誰もいなくなったこの遊園地はまるで、死体のようじゃないか。

ベンジャミンは打ち震える心で叫んだ。

「死体だ!」

「山のようにでっかい死体だ!」

するとベンジャミンの右肩に誰かが手を載せた。

「うわああああああああっ」

ベンジャミンが悲鳴をあげて振り向くとそこには先生がぎょっとした顔をして突っ立っていた。

「どうしたんだいったい、何があったんだ?死体ってなんのことだ?」

「先生いったいどこに行ってたんだよ、ぼくを一人で置いていくなんてひどいじゃないですか」

ベンジャミンは心からホッと胸をなでおろして泣きそうな顔でそう言うと先生は微笑みながら返した。

「なんだなんだそれは悪かったよすまなかった。先生はベンジャミンを起こしてもなかなか起きないもんだからそこらをぶらっと散歩したついでにトイレを見つけたんでトイレに行ってたんだよ」

 ベンジャミンは先生の左腕をぐっと掴んで引っ張ると叫んだ。

「先生!はやくあの船に乗らないと!」

先生はそんなベンジャミンを制して立ち止まった。

「待ちなさいベンジャミン。今からあの船に乗るのはとても危険だ。船の中に着いたころにはもう真っ暗闇だ、灯りを持っていないから操船できないし、航海もできないぞ。この遊園地はもうとっくに閉館時間を過ぎている、今日のところは戻ることにしよう」

ベンジャミンは納得のいかない様子で海に浮かぶ山のようにでっかい船影のほうを見やった。

先生はベンジャミンの前へ回ると言った。

「ベンジャミン、先生が眠ってしまったせいで船に乗れなかったのだから、この借りは必ずおまえに先生は返す、次には一緒にあの船に乗るとおまえに先生は約束する。先生を信じてくれるか」

「でも先生いつも先生を信じるなって言うじゃないですか」

「それとこれとでは話が別だベンジャミン、先生が言ってるのは、おまえの大事なものを先生が借りた事実を先生がなにがなんでもおまえに返したい気持ちを信じて先生と一緒に戻ってほしいと頼んでるということだ」

「でも先生、この遊園地は次も来ることはできるんでしょうか」

「おまえがほんとうに望みつづけるならば必ず来れる。それは安心しなさい」

「わかりました先生、ぼくは先生のいうことを聴きます。そのためにぼくは先生の生徒であることを選んだのだもの」

「よし、では戻るぞ、ベンジャミン、帰り道に向かって先生を誘導しなさい」

「はい、あの蜂の遊具の近くが入り口と出口でしたから、あの場所へまずは戻りましょう先生」

二人は暗がりの遊園地の中をならんで歩きだした。

ベンジャミンはふと後ろを振り返って船影の向こうの海を見つめるとその濃い色の紫はその空とまったく同じ色であった。

向き直って少し歩いてゆくと先生が小さな声で言った。

「ベンジャミン、なにか後ろから足音のような音が聞こえないか」

「そういえば、何か足音っぽい音が聞こえてきますね、なにかしら先生」

「おまえさっき振り返ったとき何か見えなかったか」

「何も、カシス色をした海と空いがいは」

「もしかして、アナルカシスが着いてきてるんじゃないのか」

ベンジャミンは震える声で応えた。

「まさか、だってその名はぼくが作った名で、彼はどこにも存在していないのですから」

ベンジャミンはそう言いながら心の中でアナルカシスに謝り倒した。お願いだから化けて出てこないで。ぼくはふざけていたけれど、ふざけていたわけじゃないんだ。

「先生アナルカシスというのは漢字で書いたら穴のなかに流れるカシスと書いて”穴流カシス”なんです」

「いったいどういう意味なんだそれは」

「つまりそれは…大きな闇のような穴の中に濃い紫色の粒粒の実が流れ落ちていくという意味で、その濃い紫色の粒粒とはすべての闇の一歩手前のぼくたち生命を表していて、だから濃い紫色をしているんです、で、それが本物の闇の穴の中へ流れ込むというイメージと言いますか、すみません今考えました」

「なかなか面白いじゃないかベンジャミン、そういったひょんなイメージが真理を表現しているものなんだよ」

「でも先生、足音がおっきくなってきていませんか」

「気にするな、気にしだしたら余計に大きくなってくるぞ、あとを着いてきているのは存在しないものだ、さて、存在するものと存在しないもの、どちらが後を着けてくるほうが恐ろしいと思う?ベンジャミン」

 「先生どちらも怖いよ、だって存在しないものとイメージした瞬間、それは”存在しないもの”として存在してしまうような気がするじゃないですか」

「ははは、引っ掛け問題だよベンジャミン、気にした瞬間にそれはなんであろうと存在を感じるものとして人は恐怖する、だから気にせず忘れること以外にこの恐怖から逃れるすべはないぞ」

「でも気にしてはいけない、気にしてはいけないと思えば思うほど気になってしまうものです。先生はこの足音の正体はいったいなんだと思いますか?」

「ベンジャミン、目を閉じてよく聴いて御覧なさい」

ベンジャミンはそう言われて目を瞑ると足音だけに集中した。そして目を開けて先生に言った。

「先生ここは、ここは、ぼくらの願望と恐怖をほんのすこし後にこだまのように返してくる場所だったんだね、後ろからつけてくる足音の調子はぼくの踏む足音のリズムとまったく同じリズムと音だ、さっきまでは先生の足音も聴こえてきてたはずなのに、先生が気にしなくなったから先生の足音は消えてしまったんですね、そういえば恐怖という言葉を思い浮かべるだけで恐怖を感じます、なんの恐怖かもわからないのに」

「恐怖というもの自体が恐怖であることの証だよ、それにしてもベンジャミン、さっきから先生とおまえは同じところを何遍ぐるぐる回っているんだ?」

「だって蜂の遊具が見当たらないんです、これじゃ出口まで行き着けない、先生どうしよう」

「ベンジャミン落ち着きなさい、せっかく足音が消えたのに今度はまた新たな恐怖に恐怖しているぞ、おまえがここへ先生を連れてきたのだからおまえの戻る道でないと先生も帰れないんだ、蜂の遊具は小さいから見つけづらい、そのそばにパンダの大きな乗り物があったじゃないか、蜂はやめてパンダを探そう」

「パンダなんて、見なかったよ先生、なぜだろう。もしやあのうさぎ男の自家用車があのパンダの乗り物なんじゃ、きっとそうだ、そうに違いないですよ先生、乗って帰ってしまったんだ、ああどうしよう、目印が、大事な道標を、あいつは奪ったんだ、ピンクのうさぎは白と黒と前脚の先がじゃっかん茶色がかったパンダの背中に乗って竜宮城へと帰ってしまったんだ」

「ベンジャミンいいから落ち着くんだ、恐怖のあまり思考がちょっとした狂者風になっているぞ、しかしあのうさぎ男がパンダの乗り物に乗って家路に着くというのはまったく違和感がない話だな。もうここは致し方ない、先生は今からうさぎ男に電話をかけるから、あいつがやってきたらおまえは出口の場所を聞き出しなさい。お礼に次はLLサイズのポップコーンを買うと言えば教えてくれるはずだ」

「先生なんでうさぎ男の番号を知っているの?」

「当てずっぽうだよそんなものは」

先生はそう言うと携帯電話をどこからともなく取り出して番号をプッシュし、耳に当てて話し始めた。

「悪いが今すぐにここに来てくれ、勿論、礼は弾むよ、ありがとう。おまえの恩は絶対にたぶん忘れない」

電話を切ると先生はベンジャミンに向かって「すぐ来てくれるそうだ、これで安心だ、それまであの呪われた木が人間を羽交い絞めにしようとしているようなベンチにでも座って待っていよう」と言って大きな曲がりくねった呪われた魔女の木のベンチに向かって歩いていった。

ベンジャミンは左隣に座る先生の横顔をきょろきょろと眺めながら「先生うさぎ男ほんとうにやってくるの?」と訊いた。

「必ず来るさ、それくらいの能力がなくては先生は先生をやっていられない」

「それじゃ先生はこの遊園地の出口を見つけられないの?この場所を日が落ちてもあぶなくない場所にはできないの?先生は何故好きな女を自分のものにはできなかったの?」

「ベンジャミン、最後の質問だけ明らかに先生の傷口をえぐっている、やめなさい」

「だってそれくらいの能力は先生は持ってるんじゃないんですか?」

「先生はそれくらいは持ってるさ、だからこそ自ら叶えないものがたくさんある、先生は何を叶えるべきかを知っている、先生は好きな女の自由を奪うことなんて、したくなかった、先生は女を自由にできる魔法があるからこそ、女に嫌われて捨て去られるという人生を選んだんだ、先生は決して負け惜しみで言ってるわけじゃないぞ、おまえのことだって同じだ、おまえのほんとうに望むことと反対のものを先生はおまえに経験させたりはしない、だから先生の過去の女の話を持ち出して先生を意気消沈させることはやめなさい、いいね、ベンジャミン」

するとベンジャミンは右を指さして言った。

「先生、あすこのぬいぐるみが並んだショーウィンドウの影にいるのパンダに乗ったうさぎ男だよ!ほんとうにパンダが自家用車だったなんて、すごいや」

「ほんとうだ、さ、早くあいつのところに行って出口の場所を訊いてきなさいベンジャミン」

「うん!」

ベンジャミンがなにひとつ恐怖を抱かずに走っていったことに先生はホッとした。

交渉をし終えた様子でベンジャミンが息せき切って戻ってくると嬉しそうな顔で言った。

「先生うさぎ男が教えてくれたよ、出口の場所!」

「おおそれはよかった、で、どこだって?」

ベンジャミンは先生の頭上を指さした。

先生が頭上を見上げて言った。

「なんだこれは、先が真っ暗闇で見えないじゃないか、この大きな穴、ここが出口だって?」

「そうだよ先生!どんな感じ?」

ベンジャミンはベンチの上に立って先生の上を覆いかぶさるようにして垂れていた太い木の幹の真ん中にくり抜かれた深くて大きな穴の中を覗きこんだ。

「ほんとうに真っ暗だ先生、先生は先に入るの怖い?それならぼくが先に入るよ」

勇ましいベンジャミンに感動して先生は返した。

「では先にベンジャミン、おまえから入ってくれ、そして安全かどうかを先生に教えなさい、そしたら先生はおまえの後をゆくから」

「OK!なんだかドキドキするな、こんなに真っ暗な深い穴の中に入るのは初めてだよ先生」

ベンジャミンは木の穴のふちに手をかけるとよじ登って中へと入っていった。

ベンジャミンの姿がまったく見えなくなって不安を感じた先生は「ベンジャミン」と呼びかけた。

「どうだ、穴の中は?何か見えるか」

するとすこし経ってから返事が聴こえた。

「先生、まだすごく暗いよ、何かがあるように見えるんだけれど、何があるのかよく見えないんだ、でも危なくはないみたい、先へ進めそうだよ、先生もおいでよ」

先生は大きく声を張り上げて穴の中へ向かって返事を返した。

「今から先生も入るから、そこで待っていなさい」

「OK!先生を待ってるよ」

 

 

 

 

 

 

先生が静かに目を開けるとベンジャミンは目の前の椅子に座りながら眠っていた。

窓際の席から見える夜の空はよく晴れている。

ベンジャミンが風邪をひくといけないから小さな電気ストーブをつけたまま眠ったことを思いだす。

先生はベンジャミンの肩をつかんで小さく揺らした。

 ベンジャミンがゆっくりと瞼をひらけてゆく。

目の前に先生が安心したような顔をして座っていた。

ベンジャミンはあたたかい教室の中でとても心地がよかった。

そういえばこんなに夜遅くまで教室に先生と一緒にいるのは初めてだ。

ベンジャミンはふと左の窓を見た。

「先生、カシスの海と空だ、カシス海、Cassiskyだ」

そういうとベンジャミンは先生に向かってこぼれおちそうな顔で微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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