ベンジャミンと先生 「ベンジャミンの補習」

 先生は次の次の日、ベンジャミンのために、放課後に残して補習授業を行うことにした。

 先生はベンジャミンに「言いたいことを言いなさい」と言った。

 ベンジャミンは先生に向かって言った。

「先生、ぼくはほんとうは自分がすべてを諦めている人間なのだと感じます」

 先生はベンジャミンを静かに見つめると思考の心底に沈んだ顔で左腕をしきりに掻き毟り半袖のシャツをめくって二の腕をじっと気にした後、おもむろに話し出した。

「ベンジャミン、先生の言うことをよく聞きなさい。よく聞きなさい、というのは、先生は人間が頭で理解することを今から言わない、先生は人間が頭以外で理解していることを今から言うから、よく聞きなさい。諦めた人間は何より強い。何も求めないからだ。おまえが求めてるものがあるならば、おまえは諦めてない。先生に嘘をついても、すぐばれる。すぐばれる嘘を、おまえはつけ。嘘をつくために人間は生まれてきたんだ。みんな生まれてきたんだ。嘘がなければ、生きていてもしょうがない世界なんだ。ベンジャミン、心が求めるだけの嘘をついて嘘を憎むがいい。おまえが憎むものすべて、おまえが求めているものだ。おまえが求めなくなれば、それは憎むものではなくなる。おまえは憎しみを求めている、おまえは嘘を求めている、おまえが憎しみを求めなくなるまで、おまえの憎しみはいつもそこにある。おまえが嫌いなものすべても、おまえが嫌悪を求めているからおまえの嫌悪というものがおまえの中にいつまでたってもあるんだ。自分が求めているからある感情なのに相手に向かって嫌いだとゆうたり思ったりしているわけだ。自分の苦しみは自分が望まない限り、どこにもない。ベンジャミン、すべてを諦めた人間は何より強い、それが死だ。何一つ求めないもの、それが死というものだ。もう人間じゃない。すべてを諦め、なにをも求めなくなるとき、人は死になることができる。ではすべてを求めるもの、それはいったいなんだ。」

 ベンジャミンは自信たっぷりな顔で席から立ち上がり、銀縁眼鏡をくっと中指で持ち上げて透き通る英明な声で答えた。

「わかりません」

 先生は静かな動作で左二の腕部分を掻きながらベンジャミンに「座りなさい」と言ったあと続けた。

「すべてを求めるもの、それが死ではないものたち、我々だ。」

「先生、疣蛙もすべてを求めているんですか」

 ベンジャミンが真剣な顔つきで訊いた。

「もちろんだ、あいつ死んでないやろ」

「でも、何も考えてないように見えます」

「何も考えていなくとも、すべてを求めているように見えないか」

「見えません」

「先生はそれを信じない。見えるものを見えないというのは、おまえが見えないことを求めているからだ。先生はなんも、なんも信じない。おまえが求めているからじゃないか。先生は信じてないからすべてがすべてを求めているようにしか見えない。先生は何も信じていないのに、何故、見えるものがあるのだと思う」

 ベンジャミンは机に頬杖ついて頭をかしげて考えながら先生の目を見た。

 先生の目はどこか疣蛙の目に似ているとベンジャミンは思った。

 ベンジャミンが何も応えなかったので先生は続けた。

「信じる必要もない、それはすでに存在しているものだからだ。信じなければ見えないものではない、在るものが、在る、それを感じるだけでいい。だから先生は信じなければ見えないものを信じない。すでに在るものだけを先生は見ている。先生にはそれだけが見える。すでに在るもの、それを人間たちが神と呼び、愛と呼び、真理と呼ぶ、実在と呼ぶ、そしてその在るものがないもの、それを死と呼ぶ、人々は死を夢見る、信じなければ見えないもの、死を求め続ける。神が死を求め、愛が死を求め、真理が死を求め、実在は存在しないものを求め、夢見る。先生は死を信じない、死が存在しないことを知っている、それがゆえに、死を求めずにはおれない。存在しないものを求めることをやめると、そこには死が存在する。求めることと信じることは同じだ。いいか、よく聞きなさい。先生はすべてが死にはならないことを知っている。すべては、在るものだからだ。在るものは、ないものに、なることはできない。求めることをやめること、それが死だ。すべてを求めるもの、それがすべてで、それが在る。すべてを求めるものである在るものが、ないものを求め続ける、在るものは、ないものを、信じ続けているんだ。人々が死を信じ続けるのは、それがないものだからだ。すべてを求めるものとは、すべてを信じるものだ。ベンジャミン、先生はすべてを信じているのは、それが、信じなければ見えないものだからだ。存在しないものだからだ。先生はおまえらの嘘を信じる。嘘を信じるために生まれてきたからだ。先生はすべてを信じない。先生がどれほど嘘を信じ、嘘を求めているか、嘘を信じるためにすべてが存在しているからなんだ。先生はすべてが嘘だと信じているからすべてが実在するものだと信じない、実在するものはすでに存在しているため信じる必要がないからだ、神は、すべての中に入らない、神は、すべてだからだ、神は実在であるがために、実在ではないすべてを信じる、ないものすべてを求める、嘘を求めることのないもの、それは死だからだ、神は死を求め、死を信じ、それがゆえに、実在する、すべては嘘を求め、嘘を信じ、それがゆえに実在する、求めることがなくなると、死になる、死は実在しない、神が実在ではないのなら、すべてが実在ではないのなら実在しないすべてを信じることもない、在るものを、信じる必要はない、だから先生は、すべてを信じない、すべてはすでに、在るからだ、先生はすべてが嘘で在ることを信じる、先生の言うすべてをおまえは信じる必要もない、先生はおまえが嘘で在ると信じることしか言わない、先生は生きるほどに、迷いに迷ってる、迷うことのないもの、それが死だ、先生が生きるほどに死を求めるのは生きるほどに死は遠のくからだ、まるで迷い羊のように、一番遠くにいるそれを先生は見つけ出さずにはいられないからだ、大いに迷っている迷い羊ほど、遠くにいる迷い羊を探しに出かけないではいられない、自分から一番遠い者に神を見るのなら、迷いに迷う者ほど、死に、神を夢見る、自分から一番遠い者に愛を見るのなら、迷いに迷う者ほど死に神は愛だと感じる、絶対に届くことのない者に真理を見るのなら、大いに迷う者ほど死に真理を見る、先生が死を求めるほど、死も先生を求める、求めるほどに死は遠のく、先生が死を求める限り、先生は死になることが叶わない、迷い羊は神を求めるほど、神から遠くへと迷い出る、神は自分から遠のいた羊こそ探し出さずにはいられない、迷えば迷うほど、求めずにはいられない、先生がどれほど嘘で在るすべてを求めているか、神を求めているか、信じているか、死を信じているか、先生がどれほど自分に嘘をついて生きているか、生きるほどに嘘をつかずにはおれない、ベンジャミン、すべての悲しみは果てしない。」

 ベンジャミンは混濁に尻の穴から花の香りの風が吹き続けて止まらない、という顔をして先生の目を突き抜けてどこを見ているのかわからなかった。

 先生はベンジャミンを家に帰した。

 その夜遅くに、ベンジャミンから電話がかかってきて、ひとりで眠るのがすごく寂しいから先生の家のソファで寝てもいいかと訊かれたが先生は「ひとりで眠れ」と言って電話を切った。

 ベンジャミンと言葉を交わしたのは、それが最後だった。

 というオチを想像して、先生は泣きながら左二の腕部分にユースキンを塗って、深い眠りに、ひとりで落ちた。