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ベンジャミンと先生

 先生がドアを開けた。各々は自分の席に着く。先生が生徒達に向けて言い放った。

「はい、立て」

「はい、礼」

「はい、座れ」

「では今日の1限目の授業を始める。今日から新しい本だ、昨日渡した本、スウェーデンボルグの霊界日記だ、もう読み終った人間もおることでしょう、でも先生はまだ読んでいない、心のどこかで、楽しみにしている、では読みたい人、立て」

 立った人間の中から先生はベンジャミンを選び、言った。

「では最初はベンジャミン、読め」

 ベンジャミンは賢そうな顔立ちで読み始めた。

「エマヌエル・スウェーデンボルグ、霊界日記。死とは何か」

 先生は、お、帯の部分から読み始めたんだな、と思って感心した。

「死とは何か、生(ナマ)とは何か?」

 先生は耳をうたぐった。しかしここで指摘するとみんなの心の奥底の意識に死ぬまで生という概念=生(ナマ)という発音が残るのではないかと心配し、スルーすることにした。

 ベンジャミンは賢そうな顔で続けた。

「史上たぐいまれな霊界の探訪(たんぽう)者として名高い十八世紀の神学者が、二十年に及ぶ霊的体験を克明(かつめい)に綴った驚愕の日記。」

 読んだ後ベンジャミンはどや顔で静かに席に着いた。

 先生は静かに、なんで帯の部分だけ読んだんだろう、と思ったがみんなの記憶の大事な場所にこの瞬間の光景と共に生=ナマという呼び方が残存し続けるのではないかと思いベンジャミンに何も言わなかった。

 放課後、先生はベンジャミンを一人だけ教室に残し、教壇の前に立たせて言った。

 「ベンジャミン、君もう一度今日読んだスウェーデンボルグの帯の部分を読みたまえ」

「はい」ベンジャミンは聡明な顔で読んだ。

死とは何か、生(ナマ)とは何か?史上たぐいまれな霊界の探訪(たんぽう)者として名高い十八世紀の神学者が、二十年に及ぶ霊的体験を克明(かつめい)に綴った驚愕の・・・」

「もういい、ネンジャミン」先生は読み終わる前に言った。

「ベンジャミンです」

「ベンジャミン、おまえは先生を馬鹿にしているのか」

 ベンジャミンは分厚いレンズの眼鏡をくっと中指で持ち上げて言った。

「先生、ぼくは先生の深層部分にある呼び名で読んだだけです」

 先生は黙り込んだ。そして静かに言った。

「先生の心を透視したのか」

「そうです」

「ベンジャミン、それはいいとして、心を透視するのは構わない、しかしおまえは先生を馬鹿にしているだろう」

 ベンジャミンは尻の穴から空気がだだ漏れ続けているという顔をして言った。

「僕は先生を馬鹿になんかしていません」

「わかった、ではもう一度、読め」

「はい」ベンジャミンはいつもの利口な顔に戻って読んだ。

死とは何か、生(ナマ)とは何か?史上たぐいまれな霊界の探訪(たんぽう)者として名高い十八世紀の神学者が、二十年に及ぶ霊的体験を克明(かつめい)に・・・」

「やめろ、もういいベンジャミン」

 先生はベンジャミンの目を真正面から見つめて言った。

「今日、うちに来なさい」

 ベンジャミンは華やいだ顔になり応えた。

「先生、疣蛙持って行ってもいいですか」

「持ってくんな」先生はベンジャミンが言い終わる前に即座に言った。

「独りで来い、わかったな」

 ベンジャミンは黙っていた。

「返事は」先生が言うとベンジャミンは約三分後にようやく「はい」と応えた。

 先生はこの三分間の間に世界の地という地のすべてから疣蛙が生まれ地は疣蛙の子供達に埋め尽くされるという夢を見た。

 日が落ちてきて、暗い霧があたりを包みだした頃にベンジャミンは先生の家のチャイムをチャリリリリィンと鳴らした。

 先生がドアを開けると先生が予想していた通りにベンジャミンの胸に抱えた疣蛙が先生をニヒリストのような目で見上げてゲロンと鳴いた。

 先生は何も言わずベンジャミンをうちに上げた。

 先生はベンジャミンに安い紅茶を淹れてやった。

 ベンジャミンは疣蛙をテーブルの真ん中に置き紅茶を飲んだ。

「ベンジャミン、疣蛙を後ろの棚の上に置きなさい」

 ベンジャミンは屁を出すことはもう一生しないと神に誓ったような顔をして黙って動かなかった。

 先生は仕方なく自分の手で疣蛙の入った籠を後ろの棚の上に置いた。

 先生は椅子にまた着いて静かな表情で話し出した。

「おまえは今年で十七歳、先生はおまえが十四歳のときから教えている。先生は先生に教わりたい生徒だけ教えている。生徒が先生を選ぶ自由が存在している。おまえが先生の生徒なのは、おまえが先生から教わることがあるからだ。教わることがないというのなら、おまえは生徒にはならないし、先生は先生ではない。教わることがないと思ったら先生と生徒という関係ではなくなる。先生がおまえに、おまえは先生から教わることがあるだろうとは思わない。おまえが先生から教わることがあると思ってないのなら生徒である必要はない。先生はたくさんの教え子がいるけれども、先生を馬鹿にしている生徒はひとりもいないおまえを除いて。何故なら馬鹿にした瞬間先生は先生ではなくなるからだ。先生を馬鹿にする人は先生から教わろうとやってこない、先生は何も教えられることはない、先生を馬鹿にする人に何も教えられることがない、ベンジャミン、何故今日の出来事が先生を馬鹿にしていない出来事か、言え」

「ぼくは先生の言ってることが、はっきり言ってわからない」

「タメ口を使うな」

「わかりません」

「先生の教えが何一つわからないのか」

「はい」

 先生は遠い目をした。

「でもぼくは先生のことが好きで、先生の教えは楽しいし、意味が解らなくてもとてもぼくにとって意味があることだと思うし、だからぼくは先生の教え子でいたいし、先生を馬鹿になんかしていないし、むしろ尊敬しているし、先生の授業がつまらないわけではないし、ぼくは先生の授業が楽しいから先生の教え子でいます」

「本当に何一つ、わからないのか」

「わかりません、でもわかりたいと思います」

「先生が一体何を教えているか、それはわかるか」

「先生、それがぼくにはわからないのです」

 先生は静かに屁を出した。そして言った。

「先生は、それを信じない。先生は人間がわからないことを教えていない。人間がわかることしか教えていない。人間が理解できないことで先生が教えることは何もない。例えば心から人間を殺してははならい理由を理解できないものには何も教えられることなどない。先生は人間がわかることしか教えられない。先生が教えていることは全部、既におまえらがわかっていることだけだ。」

「でもぼくはほんとうにわからないんです」

「先生は、信じない。だから教えているんだ。」

「先生ぼくを信じてください。ぼくはほんとうに人間を殺してはならない理由さえわからないのです」

「先生は、おまえのその言葉を信じていない、おまえのその気持を信じていない、おまえが信じていることを先生は信じない、先生が教えていることはそういうことなんだ、先生はなんにも信じていない、何も信じられない」

「ぼくは先生を信じている」

「信じるな、おまえは先生の教えを信じていない、おまえは誰より先生の教えを理解している生徒だ」

「ぼくは先生の教えは何もわからない」

「なあベンジャミン、何故、疣蛙は息をしているんだ」

「さあ、知りません」

「何故ここにいるんだ」

「わかりません」

「おまえが連れてきたからやろ」

 ベンジャミンはサイコパスな目を光らせて疣蛙を一瞥した。そして応えた。

「そうです」

「じきにそいつは、冷たくなって動かなくなってしまう」

「はい、でも今でも冷たいです」

「そうだな、で、動かなくなったらおまえはどうするんだ」

「土の中に埋めてあげます」

「おまえの心はどうなるんだ」

 ベンジャミンは俯いて黙っていた。

「そいつは名前はなんて言うんだ」

「疣蛙です」

「固有のおまえがつけた名前だ」

「ありません」

「『アリマセン』って名前か」

「はい」

「アリマセンはいつか死ぬ、アリマセンだけじゃなく、すべてはいつか死ぬ、動かなくなって鳴いたり話したりしなくなる」

「はい」

「なんでアリマセンをここに連れてきた」

「先生が喜ぶかと思って」

「連れてくんなゆうたやろ」

「はい」

「俺は別に喜ばない、むしろ邪魔だから後ろに置いたんだ、アリマセンを先生に見せることが喜びなのはおまえだろう」

「はい」

「おまえがわからないわけはないだろう、ベンジャミン、おまえがわからないというのは、おまえがそういった嘘を言うのは、先生はもうわかっている」

「ぼくは先生の教えがほんとうにわからない」

「先生はおまえの一歩上手だ、だからおまえの先生をやれるんだ」

 先生はテーブルの上にあった聖書をベンジャミンに渡して言った。

「マタイ18章の10節と11節を音読しろ」

「はい」ベンジャミンは聖書をめくって声に出して読んだ。

あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。」

 しばし二人のあいだに沈黙が訪れた。沈黙のあと、先生は言った。

「ベンジャミン、人間はもう、わかっていることをわからないでいることはできない」

 ベンジャミンは悔しそうに顔をゆがめて言った。

「ぼくはほんとうに先生が言ってることがなにもわからない」

「ベンジャミン、よく読め、その迷い羊は迷いたくないのに迷ったのか、それとも自ら迷うことを望んでひとりで迷い出たのか、後者であれば、神は迷い羊を探しには行かないのか」

 ベンジャミンは目に涙を浮かべて震える声で言った。

「きっと神は、神は、後者よりも前者を先に見つけに行くだろう」

「何故そう思うんだ」

「後者は強い迷い羊で前者は弱い迷い羊だからです」

「でも先生は、先生ならば、よりひとりで打ち震えているほうを先に見つけ出そうとするだろう、たとえ後者であろうともだ」

 ベンジャミンは涙をぽたぽたと開いた聖書の上に落とした。

「自ら選んだ試練だとしても、その重さに耐え切れなくなる羊は多い。ベンジャミン、自分の能力に高慢な者は、それがゆえの弱さを信じようとしない、おまえが苦しい試練を選んだのは、自分の能力の強さを信じたからだ、しかしあまりの重さに崩れ落ちる羊がどれほど多いだろうか、おまえは後者だが、おまえは決して強い迷い羊ではない、何故なら、どの生徒よりも先生の教えを必要としているのがおまえだからだ、先生を困らせる行為をして、先生を信じる者がおまえだからだ、わからないことをできないよりも、わかることをできないほうが人は打ちのめされる、おまえはよくわかってるからこそ打ちひしがれて先生の教えを求めに来たんだ、誰より求めるからこそ、おまえは誰より先生から離れてひとりで迷い出た、先生は必ずおまえを見つけ出しに行く、九十九匹すべてが迷い羊でもだ、一番遠くに迷い出たおまえを先に見つけ出しに行く、だからおまえは存分に迷い出たいだけ迷い出ることができる、おまえが求めるほど、先生もおまえを求める、強い羊とは、求めることがない羊のことだ、神は強い羊を見つけに行く必要はない、先生も、強い羊ではない、先生も迷ってる、おまえも迷ってる、まるで、生きるほど迷ってるような気がするんだよ。」

 言い終わるとベンジャミンのお腹の虫が鳴った。先生はナポリタンを作りにキッチンへ向かった。

 先生がナポリタンを作って持ってくるとベンジャミンはソファに横たわって眠っていた。先生は一人でナポリタンを食うた。

 疣蛙は何か得体の知れないものを食うていた。

 ベンジャミンがその後目を覚ますことはもう、なかった。

 というオチを想像して、先生は一人で笑って、眠っているベンジャミンを眺めて一人で泣きながらナポリタンを食うた。