実家で兄が飼っている一番古い猫が昨日死んだと姉から連絡が今朝あった。
11歳と2ヶ月、家猫の平均寿命が15歳ほどと言うから、早いほうだ。
父が死んだ次の年2004年に兄が突然買ってきたときはまだ本当に小さい猫だった。
骨がやけに細いというのか、抱き上げると骨を折ってしまいそうなほどやわな猫だった。
うちは、兄の生まれる前に母が突然もらってきたシャム猫を何匹も飼っていたことがあるそうだが、それらの猫は母が兄を妊娠したときに、赤ちゃんに悪いだろうからとほかへみんな貰われた。だから兄が生まれてからはうちで猫は飼ったことがなく、私にとっても初めてのうちで飼う猫だった。
名前は兄がクロエと名付けた。私は猛反対したが私の名前がコズエなので、コズエ、クロエ、ってええやんと兄は言っていた。
2005年頃のクロエ
よく部屋の中を走りまわす元気な子で、可愛かったが、よく噛んでくる子だった。
甘噛みではなくて、尖った歯で本噛みしてくるので、怖れながらいつも撫でていた。
噛んでくる猫は、まだ母猫の側に置いておかないといけない幼い時期に母猫と離してしまうことが原因だとどこかで聞いた。
少しあとにまた兄が買ってきた雄猫のシロとの間にクロエはたくさん子供を産んだ。
その頃兄が拾ってきた雑種のたえちゃんとシロの間にもほぼ同時期に子供が生まれて、うちの中は複雑な関係ながらも賑やかに毎日みんな走り回っていた。
クロエは気の強い性格だった。プライドもどの猫より高い猫のように思えた。
あどけない顔をするときもあれば、どこぞの場末のバーの貫禄のあるママかと思うような顔をしてるときもあった。
私が24歳くらいのときに多分家を出たから猫達とは2年位もの期間しか一緒に暮らせなかった。
それから茨城、埼玉、千葉、などを転々として久しぶりに帰ってきたときにはもうどの猫も私のことを他人を見るような目でよそよそしくとても寂しかったのを覚えている。
26歳のときから家には帰ってないから猫たちとも会っていない。
7年ほど会ってないと、死んだと聞かされてもあまり実感が湧かない。
写真を見ると少し悲しくなったが、死んだということが何か信じられない。
猫たちに会いたいと何度も思っていたのに、会わないうちにどんどん死んでいってしまう。
一緒に暮らしたことがあっても、こんなに実感が薄いのだから、みちた(飼い兎)が死んだときには悲しんでくれる人はどれくらいいるんだろうと思った。
私しか本当に心から悲しんでやれる人間がいないのだと思うと、何かたとえようのない悲しみを感じた。
日曜日に動物霊園で葬儀があるからみんなで会いに行くことになってる。
兄とは2009年の10月に最後会った後、喧嘩別れでそれっきり会ってないから不安だ。
髪型がもさっこくて変だからその前に美容室へ行ってさっぱりしようと思ったが、私はほんまもんのあほだ。
美容室で4500円も払うくらいなら、火葬代に5千円はかかるのだから、兄に5千円を香典に渡すほうが兄は少しでも助かると思うしいいに決まっている。
1万円だと遠慮するだろうし、5千円くらいがちょうどいいような気がする。
日が変わって5月1日午前2時2分に書いている。
夜になって、姉がお花を持って実家へ行くのに着いて行った。
兄は仕事が終わるのが遅いので、会えないかもしれないと言っていたが、お花をイオンで買ったりして、これから向かうと言うときに兄から電話があり仕事が早めに終わったから今から帰るということで、私たちが実家に車で着くと、ちょうど兄も車で帰ってきた。
2009年10月の今の部屋に引っ越してきた日にみんなで会った時以来会っていなかったから、約5年半ぶりに兄の顔を見た。
40歳にはとても見えない、あどけない感じなど変わってなかったがもともと痩せていた身体がさらに痩せていた。顔を見た瞬間互いに、何故か顔をずっと見ながら「こず恵や(笑)」「お兄ちゃんや(笑)」と何度も呼び合った。
家に入って発泡スチロールの箱の中に入れられて寝ているクロエに会った。
私の知っているクロエよりだいぶ小さくなって、目を少し開けたまま眠っていた。
二日前から食べなくなり、もうすぐ別れが近いことを兄は感ずいていたようだ。
姉が買ってきた花をはさみで切り分けながらクロエの周りに置いていった。
ピンクや紫や赤や黄色やいろいろ可愛い色の花を二人で選んでそろえたが、クロエには可愛い真っ白なガーベラが一番似合うと、みんなで言った。
冷たい頭をなでてみても、まだクロエが死んでいることに実感が湧かなかった。
7年ぶりに、たえちゃん、コナン、ちびせん、ロジャーに会えて、たくさん撫でた。
みんななつっこい子たちなので、私のことはもうすっかり忘れているだろうに撫でるとくつろいでゴロゴロ言ってくれた。
他のあとの7匹の猫たちは”あえた”だけ少し顔を見せたが近くには来なくて、他は隠れて出てこなかった。
休みが週一の12時間の運ちゃんの仕事、残業なく終わっても、通勤時間合わせて14時間、それがどれくらいの疲労か、私にはわからない。
仕事は楽しく、社長以外は皆いい人たちだと言っていた。
兄の疲労は、私は言いようのないものだった。
クロエを亡くしたことも今はもちろん関係はしているだろう。
いつもの兄らしいあほなおもろいギャグを飛ばしていたが、でも、あんなに疲れきっているような兄を、疲れている兄を今まで何度も見てきたはずの私が言いようのない疲労を兄から感じて、そんな兄に「氷代(クロエを保存するための)の足しにして」と5千円渡すことしかできない自分が悲しくてならない。
自分がすべてにおいて卑怯者であるような気がした。
私は全然キレギレで生きていない。平和ボケな暮らしもいいところだ。
本当にキレギレで生きるとは兄のような生き方だと感じる。
生きることの過酷さとは私のところにはなく、兄のところにある。
本当の過酷さとは兄のような生き方にあるのだと思った。
そんな人が、この世界にどれほどいるのだろう。
日記一つ書く余裕もない毎日を暮らしている人がどんなに多いんだろう。
自分の一番の病は欝ではなく、働かなくても暮らしていける、暮らしていてもいいという責任能力の欠如という大病だ。
これをなんとかしないと。
働く気がないと言うなら毎日自分を追い詰めて小説を書いて、賞に何度も応募しないと。
まるでこれじゃ、生きる屍だ。
死んでる人はお金が必要ないが、生きてる屍は穀潰しの屍だ。
なんとかしないとな・・・実家の掃除と・・・。