愚花

一人の男が、空ろな眼をして柵の間からその奥を見詰めている。
午前三時過ぎ、ひっそりと鎮まり返った新興住宅地の一軒家の前で、男は何かを想い詰めた様な顔をして囁く。
「育花(いくか)…育花……育花……」
鼻息を荒くして苦しそうに喘ぎ、男は一階の窓の向こうに映る人影を柵の隙間から覗きながら下半身を頻りに摩る。
男は「育…花…っ」と力なく叫ぶと男の器から、白濁の種が落ち、その下にあったプランターの土の上に蒔かれた。

それから、四年の月日が流れた。
中秋の名月の晩、一人の男が、帰る道すがらふと、ある一角に目を留めた。
今までは何にも生えていなかった枯れた葉ばかりがそのままになっている長方形のプランターの中央部に、小さな芽が、ひょこっと顔を出していたからである。
男は反射的に朗らかに微笑み、プランターの前に腰を下ろすとその小さな弱々しい芽を見つめ、そっと右の人差し指でその芽の先に触れ、愛しげに微笑んだ。
そして満月を見上げて胸に下がった十字架を右手に取り、目を瞑ると囁いた。
「天におられますわたしたちの父よ。今夜は美しい月に人々はみな夜空を見上げあなたの御業に感謝しております。しかし誰も目に留めない涸れた地にもあなたは新しい生命を宿らせ、それを御覧になられて喜ばれていることをわたしたちに知らせ、そしてどれほどの喜びがそこにあるのかをわたしたちは知ることができます。あなたの祝福が、いつまでも絶えることなくわたしたちのうえに降り注がれますように。アーメン。」

男はその後も毎日、自分の家と教会のあいだの道筋にある家の前のこのプランターの芽に朝と晩、必ず目を留め、時に土が渇いている日には持参のペットボトルの水を上から注いでやるのだった。

そうして、一月もの月日が流れた。
或る夜遅く、一人の男が遣って来て、こう小さく呟いた。
「ちきしょう。」
そして男はがすっと気づくと蹴っていたものを見下ろした。
そこには長方形のプランターの中央部に、薄ピンク色の花が咲いていた。
男は力なく「はっ」と卑屈に笑って右手に持っていたカップ酒を飲んで大きくゲップした。
そして腰をこごめ便所坐りをするとカップ酒を左手に持ち替え、右の人差し指と親指でその小さな花弁を摘まんで、指先についた夜露を舐めて言った。
「或る、愚かな夜に愚かな女がいて、愚かな股を愚かに広げ、愚かな男を愚かに誘惑し、愚かな男は愚かな金を払って愚かな女を愚かに買った。愚かな女に愚かな男は愚かな恋をし、愚かな金の尽きた愚かな男から愚かな女は愚かに逃げた。或る、愚かな夜に愚かな家の中で愚かな女は愚かな入浴を済ませ愚かな裸体を愚かな椅子の上で愚かに曝し愚かな仮眠をとっていた。愚かな男は愚かなそれを愚かな情欲を抱いて愚かに見つめ愚かな妄想に耽り愚かな種を愚かな土の上に愚かに蒔いた。愚かな種は、愚かな土から、愚かな芽を出し、愚かに成長を続け、やがて愚かな花を咲かせた。愚かな薄ピンク色の花は、まるであの愚かな女の、愚かな花弁のようであった。愚かな男を誘惑した愚かな女の愚かな花弁にそっくりな愚かな花、愚かな御前の名を、愚かな男が愚かに付けてやろう。御前の名は、今日から、愚かな花と書いて愚花(ぐか)だ。精々、愚かな男を愚かに誘惑し続けて、愚かに枯れて逝け。」
言い終わると男は立ち上がり、人の居なくなった蛻の殻のその家を一瞥して夜のしじまの向こうに去って行った。
男が立ち去った後、花はそっと自分の名を囁いてみた。
「愚花…ぐか…あたしの…名前は…愚花……」
花弁から、夜露が垂れ落ち、その水玉に月光が反射していた。

翌朝、愚花は頬を優しく撫でられる感触を覚え、目を覚ました。
すると目の前に、大きく優しいあの手があり、あたたかい体温を感じた。
神父の男は愚花に向って微笑み、こう言った。
「なんて愛らしい花でしょう。花をあなたが咲かせるとは想いませんでした。」
愚花は嬉しくて瞬きを何度とし、朝露は神父の指先を濡らした。
神父は持っている黒い鞄の中からペットボトルの水を出し、その水を愚花に与えながら言った。
「さあお水ですよ。今日も良いお天気で、神が可愛らしい花を咲かせたあなたのことを祝福しておられます。」
青空から真っ直ぐに陽射しが神父と愚花を照らし、眩しく、世界は耀くようであった。
「あなたはなんという花なのでしょう。」
そう囁くと神父は身を起こしていつものように教会に向って歩いて行った。
神父が立ち去った後、愚花はそっと自分の名をまた繰り返した。
「あたしの名は、愚花…愚かな花と書いて、愚花…」
花弁から、朝露が垂れ落ち、その水玉に朝日がきらめいた。

それから、一週間後のことである。
教会の門塀に、「今日の聖句」と題した紙が貼られているのをちょうどそこを通りかかった男が目に留めた。
そこにはこう書かれてあった。

『あなたは姦淫を犯してはならない』と言われたのをあなた方は聞きました。
しかし,わたしはあなた方に言いますが,女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな,すでに心の中でその[女]と姦淫を犯したのです。

マタイ五章二十七-二十八節

男は空ろな目でその言葉をじっと眺めていた。
一本の煙草を吹かした後、吸殻を地面に棄てて足で火を消す。
男は教会の門を抜けてそっと教会の戸を開けると中を覗き込んだ。
そこには一人の若い神父が講壇に立ち、老若男女の前で聖書の説教を聴かせていた。
男は一番後ろの席に静かに腰を下ろすと神父の説教に耳を傾けた。
神父はゆっくりと、穏かに話し始めた。
「神はどのような理由からも、姦淫の罪を赦してはおられません。
モーセがエジプトから逃れシナイ山で授かった十戒の一つに、『姦淫してはならない。』という言葉を神は最初に、明確に示されました。
神は『殺人』の罪と『盗み』の罪とのあいだに、『姦淫』の罪を置かれました。
では姦淫の罪を犯すことは、わたしたちにどのような報いがあることを示されているでしょうか。
コリント第一の六章九節と十節にはこうあります。

『淫行の者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、大酒に酔う者、罵り誹る者、略奪する者は、いずれも神の王国を受け継ぐことはないのです。』

さらに、ヨハネの黙示録の二十一章八節にはこうあります。

『しかし、臆病な者、信仰のない者、忌むべき者、殺人をする者、姦淫を行う者、呪(まじな)いをする者、偶像を拝む者、またすべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている湖の中が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』

第二の死とは、肉体の死の後、永遠に神の光の届かない地で生きてゆくことを意味しています。
また、テサロニケ第一の四章では神がわたしたちを召されたその御心は、わたしたちをこのような不品行と情欲のままに汚れたことをさせる為ではなく、清くなる為であると示されています。
そして神を知らない異邦人のように、貪欲な性欲のままに歩み、兄弟の権利を害して侵すならば、神はそのすべてについて処罰を科すことを示されています。
ヘブライ十三章四節では『結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきであり、夫婦の関係は汚してはならない。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるからです。』と示されました。
マルコ七章二十節から二十三節では主イエスは人を汚すものとは、外側から人に入ってくるものではなく、内側から出る悪が人を汚すことを言われました。

『また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』

人は多くの時間、何か悪いものが外から遣ってこないかと脅えることがあるかもしれません。しかし最も恐ろしいものは、実は自分の内に在り、それが自らを最も脅かすものであることを主イエスは言われています。
ですから自分の外に、つまり他者の内にどれほどの悪があるかを数えるのではなく、自分の内にどれほどの悪があるかを知り続ける必要があります。」
その時、静かにそれまで話を聴いていた男が右手を挙げて後ろの席から低い声で呼ばわった。
「神父さん。」
そしてすたすたと神父の立つ講壇の前に歩み寄り、神父の目の前に立ってこう言った。
「あのさ、言いたいことは解る。誰だって好き好んで、そんな悪業を積んでみずから地獄にくだってゆこうとしているように見えないよ。俺だって好きで、情欲をいだいて女の、淫らな妄想をして、女から誘惑され、金払わねえと、駄目だっつんで、あいつに、俺は何百万と、俺は払ってあの女と姦淫を繰り返してきたんだ。これはさ、罠だよ。狡猾で、あまりに汚い、最悪な罠じゃねえか。あの女が俺を誘惑さえしなければ、俺だって童貞のまま、可愛い処女の愛する女と結婚して幸せになりたかったさ。俺は好きで、こんな風になったわけじゃないんだ。誰だってさ、綺麗な道を歩むほうが、本当に幸福になれるってわかってる。たった一度の過ちで、もう二度と、その道を歩むことはできずに虚しく死んで逝くこともわかってる。なあ神父さん。俺は気休めの言葉なんて聴きたくねえんだ。人は神から罪を赦されても、もう二度と、死ぬ迄、神の喜びの道を生きることは赦されねえんだろ。俺はわかってるよ。俺はそれを、あんたに言いたかったんだ。俺はさ、あの糞売女(ばいた)女に誘惑され、罠にはまらなかったら、今頃、大学も落第せず、植物細胞生物学の大学院生になって、今頃、食虫植物の遺伝子研究遣って、世界中のアホで屑な人間どもを全員喰ってくれる巨大な食虫花の開発に勤しんでたろうよ。俺はこの世界の救世主になりたかったんだ。まあでもさ、今は落魄れて、大酒飲みだが、最近、店をこの近辺で始めたんだ。死んだ花を売り捌く店だよ。枯れない生きてるみたいな花だって評判なんだ。教会で花を飾るときなんかがあれば、どうぞよろしくお願いします。それじゃ。」
そう言い棄てて男は一枚の名詞を灰色のジャケットの胸元から取り出すと講壇の上に置いてまたすたすたと歩いて教会の外へ出て行ってしまった。
神父は胸の痛みを感じ、人からこのように率直に情熱的な反論を受けたことがなかった為、とても悲しい気持ちに心が塞いだ。
しんと鎮まり返ったままの教会内で、神父は神に問い掛けた。
「人は、もう二度と、戻れない道があるのでしょうか。」

神父はこの日の帰り道、まだ悄然としていた。
なんとなく、今日のあの男の言った言葉が、かつての自分の訴えと同じものであるように想ったからだ。
神父は児童養護施設で育ち、5歳の時に養子に貰われた神父である義理の父親の家で育ったが、義理の母親が神父の十歳の時に三十八歳で心筋梗塞で他界し、その後、義父は独りで神父が中学を卒業するまで育ててきた。だが高校に入学した年に、義父は仕事が忙しくなり家事手伝いの女性を雇った。義理の母と同じ生まれ年の、四十四歳の女性だった。
その女性と、義父の関係がどういうものであったかは、今でもわからない。
妾のような関係にあったのかもしれないし、何もなかったのかもしれない。
義父は四年前の夏の夜、道路の真ん中でこけて腰を痛めている見ず知らずの老婆を助ける為にその場に駆け寄った瞬間、余所見運転しながら速度を落とさず走ってきたトラックに跳ねられ即死した。
六十九歳だった。
二十九歳で、神父は義父の跡を継いで神父になった。
今は三十三歳。あの女性が行方を晦ましてから十四年が経つ。
ただ側で眺め、情欲をいだき、彼女を心のなかで犯し続ける時間が三年続いて、彼女は跡形もなくどこかへ消えた。

道端で、今夜も儚げにその花は月夜を見上げるようにひっそり咲いていた。
神父は歩き寄り、屈んでその花の弁に指先を触れ、まるでその冷たく清らかな夜露を吸い取ろうとした。
神父はいつもと違って憂いのある表情でじっと花を見つめた。
そしていつも声を最低でもひとつ掛けたり、微笑んだりしていたのが今夜は黙って立ち去ってしまった。
ひとり残された愚花は、こころに不安の露を湧きあがらせ、その水滴は花の真ん中から垂れ流れ、湿った土のうえに音もなく落ちた。

それから、また一週間が過ぎた。
神父はすぐに笑顔を取り戻し、愚花に微笑みかけたが、その顔はまだ、憂鬱な影が帯びていた。
愚花は一分一分、自分の身体から水分が抜け出て、枯れていることを感じ取るようになった。
強い陽射しは、もう前のように快いものではなくなり、苦しく時に焼かれるような熱さも感じるようになり、夜には夜で骨の髄まで染み入るような寒さに身をふるふると震わせ神父のあたたかい体温を前以上に求むようになった。
愚花はどれほど寒くてもいつも、神父に微笑み返した。
会う度に、神父への愛おしさが大きく膨らみ、愚花は神父の雄蕊によって受粉する夢を見た。
神父の雄蕊はあの優しく白く細いが同時に隆々としている右の人差し指であった。
その雄蕊によって愚花の雌蘂は愛撫され、その時、神父の雄蕊の先から金色の粉が湧き出て愚花の雌蘂の先に着き、受粉する。
愚花が恍惚な感覚に満たされたその時、花糸(かし)が一つ、下に落ちた。
今まで自分の元でそっと息づいていたそれが死ぬように土のうえに落ちたままであるのを見て愚花は自分の身体は日に日に、壊れゆくのだということを知った。
愚花はこころの中で静かに叫ぶように祈った。
このまま壊れゆくのならば、いっそのことあのかたに摘まれ、押花にされ、ずっと側に置かれたい。
その時である。
一筋の月光が、愚花の柱頭を光らせ、そこから声が聴こえた。

ではおまえは行ってその通り、あの男に伝えるが良い。

ふと気づくと、愚花はひとつの長細いプランターの中央部に生えた一輪の薄ピンク色の花を見下ろしていた。
まったく同じ色をした、薄ピンク色のワンピースを着た自分が、自分を見下ろしていたのである。
愚花はすこしのま、忙然として突っ立っていたが、はっと我に返り、いっ、急がねばならんがな。と声に出して言うと、裸足のままでとにかく道の向こうを駆けてった。
たぶんこの道を、真っ直ぐに行くとあの神父に会えるであろう。
そう信じてとにかく全速力で愚花は走った。
すると目の前に、眩しき灯りが見えて、そこに向って走った。
どうやらそこは24時間営業のスーパーマーケットであるようだった。
長い黒髪が、汗ばんだ額や首筋にへばりついたまま、愚花はちょっとスーパーマーケットへ寄って行くことにした。
籠にとにかく、甘そうな果実を詰め込んだ。
それでレジカウンターで待っていると店員が愚花に向って言った。
「合計753円。」
「為口かっ。」
愚花は想わず声が出た。
金髪の若い男はもう一度ぶっきら棒に言った。
「合計で753円です。」
愚花はワンピースのポケットのなかを弄(まさぐ)った。
すると不思議なことに、そこにはちょっきし、753円のお金が入っていたのであった。
愚花はそれを払い、籠を持って台の上に移動し、そこで袋に買った果実を放り込もうと袋を開こうとした。
だがこれが、どうしたことか、開かない。開け口の部分を人差し指と親指で擦り合わせるのであるが、一向に、開こうとしないのである。
愚花は想わず、叫んだ。
「くわあっ。枯れる。涸れる。早くしないと。水分がぜんぶ抜けて、愚花は枯れてしまう。」
だがふと台の上に、水を沁み込ませたスポンジ状のものを見つけ、ときめいて愚花はそこへ指をつけた。
そしてその指で袋を擦るとすぐに、袋は開いたのであった。
果実をすべて放り込み、愚花はまた、郊外へ出て走った。
そして走って走って、とうとう神父の家を見つけたのである。
何故かはわからぬが、この家に絶対にあのかたが住んでいると、愚花にはわかった。
愚花はその戸を、想い切り叩いた。
時間は午前の三時過ぎであったが、愚花にはそれがわからず、焦眉の急を要する為、そんなことは言ってられなかった。
するとすぐに、戸は開かれた。
中から、神父が、驚いた顔で顔を覗かせ、そして何かを言おうとしたその時、
愚花は叫んだ。
「神父さま。愚花を、摘んで、それで押してください!」
「今すぐに!今すぐに!」
神父は目を大きく開いて丸め、開いた口が塞がらなかった。
愚花は地団駄をその場で踏み、神父を押し倒して、神父と愚花は玄関に倒れ込み、ドアは閉まった。
可笑しなことに、神父の家のなかへ入った途端、愚花は大人しくなって、何も話せなくなった。
神父は押し倒されたまま、困りに困り果て、この四十歳前後に見える女と、黙って見つめ合っていた。
そうやって見つめていると、神父はこの女がどことなく、自分が想いを寄せ続け、その情欲に身を焦がし続けたあの女性に見えて来るものがあり、生唾をごくりと飲み込み、股間に鈍痛を覚えた。
神父は心臓が高鳴るなか女を起こして玄関に座らせた。
女はこのもうすぐ十一月に入ろうとしている気温のなかに薄いワンピース一枚でしかも裸足で足が膝辺りまで泥だらけであった。
神父は落ち着いて、困った顔で見つめるばかりの女に向って落ち着いて訊ねてみた。
「貴女は、どこから来たのですか?」
愚花は落ち着かない様子でまごまごとして何を言えばいいのかわからなくなった。
「貴女は、どこのだれでしょう?わたしと、会ったことがありますか?」
愚花はうんうんうんうんうんっと首を縦にぶんぶん振った。
神父はどこで会ったかを中空に目を遣って首を傾げて目をきょろきょろさせながら想いだそうとしている。
だが想いだすことができず、その代わり想いを馳せていた女の顔が浮かんでしょうがないのであった。
愚花の顔を眺め渡し、観れば見るほど似ているように想えて胸が苦しくなるのだった。
神父は大きく息を吐いて、「ちょっと待っててくださいね。」と優しく言うと洗面所に言ってタオルをお湯に濡らして持って来て、愚花の足の泥を丁寧に拭いてやった。
愚花はどきどきする余り、足が震えて止まらない。
神父が「大丈夫ですか。」と訊ねるも、愚花は黙って神父を見つめ、それでまた苦しそうに言った。
「愚花を、摘んで、どうか押してください。」
神父はちんぷんかんぷんで一体この女が何を訴えているのかがてんでわからないのだった。
「”ぐか”とは、一体なんでしょう?」
神父がそう問うと愚花は自分を指差した。
「ああ、貴女のお名前が、”ぐか”というのですか。それはとても変わったお名前ですね。」
愚花は素直に自分の名前の意味を神父に告げた。
「愚かな花、と書いて、愚花なのです。」
神父は言葉に詰まり、一瞬、からかわれているのであろうかと訝った。
だが女の切実な潤んだ目を見つめると、嘘をついているようには見えなかった。
神父は小さく嘆息し、もう一度訊ねた。
「貴女の住んでいるおうちは、どこですか?」
愚花は考え込んだ。自分の家とは、一体どこなのかがわからなかったからである。
あの長方形のプランターが自分の家なのであろうか?
しかし家とは、屋根や壁があるものなのではないのか?
ということは、あれは家ではない。そうか、愚花には家というものがないのだ。そう想って愚花は素直に答えた。
「愚花は、家がない。」
神父はこの返事に、またまた困惑した。
家がなくて、一体この女はどこでどう生活をしてきたのであろうか?
それとも、もしかして、夫のもとを出てきたのではあるまいか。
もしそうであるなら、大変である。
この女は夫を騙して姦淫をしているなどと噂され、このわたしも姦淫神父野郎などと陰口を叩かれるかも知れぬ。
そうすると、どうしたら良いのであろう。
わたしもこの女も、この町を出て行かねばならないことになるだろう。
あの教会を棄て…また新しい町で、この女と遣り直すしかない。
神父は不安と胸のときめきが胸中で混濁となる感覚に、先のことを考え過ぎだ、主イエスは「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と言われたではないか。とみずからを叱咤した。
神父は毎夜の聖書の勉強で寝不足となった目でまた女の目を見つめ、「一先ず上がってください。あたたかい飲み物を淹れましょう。」と言って女の肩を支え女を家のなかへ上げた。
女を和室の客間へ案内し、淹れた豆乳チャイティーの入ったマグカップを二つ持って来て座った。
女は差し出されたそれに口をつけ、また焦燥のなかに壊れたA.I.ロボットのように同じことを言った。
「愚花をどうか摘んで押してもらえませんか。」
神父は落ち着いて、ひとつひとつ訊ねることにした。
「その、摘む、とは、一体なにを摘むのでしょう?」
愚花は目を瞬かせて、「摘むとは、根元から、くきっと折って、千切ることです。」
「どこを…?」
「だから、愚花の、根元らへんです。」
神父は俯いて、頭を悩ませた。
顔を上げると、次の質問をしてみた。
「では、押すとは、一体なにを押すのでしょう?」
「愚花を押すのです。愚花の全身を。重いものを載せて。」
「どこへ…?」
「手帖などがよろしいかと…。」
神父は空笑いをすると続けて言った。
「はは、愚花さんを押すにはとても大きな手帖を発注しなくてはなりませんね・・・。」
愚花はこのとき、初めて信じられない衝撃に満たされた。
果たしてあのプランターのなかに咲く愚花と今ここにいる愚花は、同じ存在なのであろうか。
愚花は神父に向って言った。
「あの…新しいビニール袋はありませんか?袋の開く口が開いていない…」
神父は、はて、何に使うのだろうと想ったが「ちょっと待っててくださいね。」と快く返事をするとすぐに新しいぺちゃんこの袋を一枚持って来た。
愚花は「ありがとう。」と御礼を言って、その袋の開き口を人差し指と親指でこすった。
やはり開かなかった。
愚花は絶望した。
あの愚花と、ここにいる愚花は、やはり同時に枯れて行ってるに違いない。
枯れ切る前に、神父さまに摘まれて押されなくては、愚花は、枯れた後も、神父さまのお側にいることができない・・・。
愚花は悲しくて、涙をぽたぽたと落とし、着ている薄ピンク色のワンピースが斑模様となった。
神父は焦って愚花に膝を擦って進み寄り、その右手を両手で握った。
「大丈夫ですよ。神はいつでも貴女のことを見つめて、貴女がどのような時でも変わらず暖かい光を照らし、時に雨を降らし共に泣いてくださる御方なのです。」
愚花はそんな言葉を神父から言われ、想いきり泣きたくなったのだが、此処で泣いては水分が流れ出て、愚花が枯れるまでの時間が早まってしまうと、必死に涙を堪えて我慢した。
だが神父は、「泣きたいときは、存分に泣くのが良いのですよ。さあたくさん泣いてください。たくさん泣けば、すこしすっきりとしますから。」と言った。
愚花は泣きたいのに泣けなくて、本当に泣きたくなった。
そして、「水を貰えませんか。」と愚花は言った。
神父は頷いて急いで2リットルのペットボトルの水とグラスを持って来て水を注いで愚花に飲ませた。
愚花は、ごくごくと、2リットルすべての水を、飲み干したのであった。
神父は、「そんなに喉が渇いていたのですか…気づかなくて申し訳ない…」と謝った。
しかし愚花は、黙って泣くばかりであった。
多分、これで1リットルほどは、泣いても大丈夫やろうと想ったからである。
神父は、懐かしく切ない想いでそんな愚花の泣いている姿を見つめて、愚花の痩せた冷たい手を握り締めていた。
そして愚花が一頻り泣き終わったと見るや、神父は愚花に、こう告げた。
「良かったら…貴女の新しいおうちが見つかるまで、此処で一緒に暮らしましょう。」
愚花は神父の目を見つめてこくんと頷くと、神父の右の人差し指を自分の右の目の下に当て、一粒の涙を神父の指先に落とした。
神父はそのとき、デジャヴュを感じた。

翌朝、ソファーの上で眠っている神父を朝早く、愚花は起こして昨夜買った果実を食べさせた。
皿の上には柿と蜜柑と梨が細かく刻まれて載せられてあった。
ふと、神父が愚花の左手の指を見ると、その指がまるで躊躇い傷がいくつも付いたようにずたずたな状態となっており、ショックの余りに神父は失神しかけた。
だが、その傷だらけの指が、どう見ても違和感を拭えないのだった。
何故なら、一滴も、赤い血が出ていないようだったからである。
その代わりに透明な粘液をともなった液体が、愚花の傷口から垂れているのを神父は見た。
神父はひとつひとつの愚花の傷に、手当てをし、もう決して刃物を使ってはならないと愚花に誡めた。
愚花は神父に、水をたくさん買ってきて貰えないだろうかと頼んだ。
神父はそれを疑問も持たず聞き入れ、2リットルのペットボトルを歩いて往復30分近くかけて十本買って来た。
愚花は不安気な顔でその十本のペットボトルの水を眺めていた。
神父は腕時計を見て、あと30分で教会に着かなくてはならない時間であるのに気づき愚花に言った。
「今日は夕方の五時半頃にはきっと帰ってきます。その時にあと十本のペットボトルの水を買ってきますから。それではいってきます。お昼ごはんは昨晩に作ったものを電子レンジで温めて食べてくださいね。電子レンジの使い方は紙に書いて電子レンジの開けるところに貼ってありますから。」
心許無い愚花を残し、神父は心配でならない想いで家を出た。

急いで神父が家から帰ると、時間は夕方の六時を少し過ぎていた。
家のなかを探しても愚花の姿がなかった。
「愚花さん。」と呼ばわりながら神父が裏庭の雨戸を開けて覗くと、狭い庭先に愚花が目を瞑ってうつ伏せに倒れ込んでいた。
神父は愚花の頬に触れると、その肌はとても乾いていた。
急いで水をグラスに入れて愚花に飲ませ、愚花は飲むというより、口許から吸い取るように水を飲み、2リットルの水を二本飲んだところでやっと目を覚ました。
安心して涙を流しながら神父は愚花を起き上がらせて縁側で抱き締めて言った。
「貴女を愚かな花と名づけたのは誰なのでしょう…わたしがどれほど貴女の元気な姿を見かける度に嬉しかったことも知らずに…」
愚花は一命を取り留めたが、その枯れ具合が、元の瑞々しい状態へと戻ることはなかった。
それでも神父は、愚花の枯れる前の美しさを愛するのだった。
その枯れ行く美しさは、四十七歳で自分の前から姿を消し去った愛する女性の面影があった。

その夜、愚花は縁側に置かれた、プランターと、自分の姿を見つけた。
神父がこの日の教会の帰りに、5本の2リットルのペットボトルの水の入った袋を左手に持ち、残りの5本のペットボトルの水をバックパックに詰めて背負い、そして右手に、愚花の咲いたプランターを抱えて家に連れて帰ってきたからである。
愚花は枯れかけている自分の姿を見るのが痛々しくてならず、そのことを、神父に話すことすらできなかった。
愚花はもう、ただ枯れる前に摘んで押花として神父の側に居られるなら、それで良いと諦めていた。
でも神父は、この日から毎日、どうすれば愚花を生き永らえさせることができるのか、そればかり考えていた。

次の日愚花は、神父が自分を摘んでくれない悲しみのなかにこんなことを言い放った。
「愚花は、ただ生きているだけです。毎日、神父さまは愚花のために重たい水を何本と買ってきて、力をなくした枯れかけの愚花は、もう本当に、生きているだけなのです。ただ枯れかけた見苦しい姿で、咲いているばかりなのです。なぜ、愚花を、摘んでは貰えないのですか?愚花は、これ以上枯れるまでに、せめて今の姿で神父さまの御側におりたいのです。」
気づけばまた、大事な水分が愚花の目から、垂れ流れて止まらぬのであった。
神父は神父で悲しみに暮れ、それでも愚花に向き合って話した。
「すべての花が、実を実らせる為に生まれて生きているのではありません。多くの花はただそこに、咲いているだけのものです。田んぼに出て、農作業をしたりもしない。畑へ出て、野菜や果実を捥ぎ取ったりもしない。工場のなかで働くこともなければ食事を運んだりもせず、誰かのクレームを聴いたりもしません。掃除も洗濯もお皿洗いもしません。それでも神は、その小さな誰も目に留めぬ花でさえ、これを綺麗に着飾らせて、その花に雨を降らせ、日を照らさせるのです。いつか枯れてしまうからといって、神は摘み取ることはしません。」
愚花は悲しくて泣いた。
神父は愚花の代りに泣くことを我慢し、ひたすら愚花の命が永らえる方法をネット上や本のなかに探し出そうとした。
「花を長持ちさせる方法」という本のなかに、「ドライフラワー」という言葉を見つけた瞬間、神父はあの男の言葉を想いだした。
確かあの男は「枯れない生きているような花」だと評判の花を売っていると、そのようなことを言っていたはずだ。
神父は廊下を走って椅子に掛けたままであったジャケットの内側から財布を取り出し、その中に仕舞ったままのあの男の名詞を取り出した。
そこには店の名前と住所と電話番号が書いてあった。
ネットで調べると朝の十時から開いているようだ。
神父は愚花のもとへ戻るとしょんぼりと縁側に座って月光に照らされている愚花を優しく抱き締めて言った。
「わたしはいつまでも貴女とこうしていたいのです。」

翌朝早くに、神父は眠っている愚花を残してあの男の店に一人で出掛けた。
開店の三時間前に、その店のガラス戸を叩いた。
すると奥のほうから、あの男がやって来てドアを開け、にやついた顔で笑って神父を見た。
「まだ開店前に申し訳ない。実はあなたに相談したいことがあるのです。」
男は頷き、「待ってたよ。」と言うと神父を店のなかへ迎え入れた。
神父はなかへ入ると、鮮やかな色彩の花々が芸術作品のように様々なオブジェとして飾られ、展示されているのを見て心が躍動するものを感じ、その独特な華やかさは生花に似てはいるのだが生花とは違う何かを感じるのだった。
「これって…みんな生きた花ではないのですか…?」
男は一緒になって部屋のなかを眺め渡して言った。
「さあ…どうなんだろうね。俺は生きていると感じるが、生きた花よりもね。」
神父は何か闇の光を感じているような感覚で言った。
「これはみんな、水を必要としたり、光が必要だったりしないのですか・・・?」
「うん、水も光も土もなんの栄養素も必要ではない。気をつけることは高温多湿と急激な温度変化を避け、適度な湿度管理、直射日光や強い照明光に当て続けないこと、そして一番重要なのは、”生きている花より美しい”と話しかけることくらいだな、ははは。」
「これは何か名称があるのですか?素材というのかな…」
プリザーブドフラワー(Preserved flowers)ってやつだよ。特殊液に一、二週間漬け続け、そして乾燥させるだけだ。脱色してから着色するという作り方もあるが、うちでは全部生きたままの色を保存させることのできる特別な液体を使っている。だから死んでいるはずなのに、見た目は生きているのと変わりはない。」
「これは…」
神父は言葉が続かず、言うのを躊躇っていた。
「相当、想い詰めた顔しちゃって、深刻な相談なんだろう。金さえ積んでもらえるなら、俺にできることは遣ってやるよ、神父さん。まあ立ち話も疲れるから、ああ、その前に、あっちに水槽があるから、それを見せるよ。」
「水槽…?」
男のあとを追って神父が着いて行くと、一つの部屋に案内された。
部屋のなかには白いカーテンが壁の端から端まで引かれており、男はそのカーテンを一気に引いた。
そこには部屋の半分ほどの大きさの水槽があり、その中にはものすごい数の花々や葉が漬けられていた。
神父が言葉を失っていると男が平然な口調で言った。
「俺の本業は実はこれじゃないんだよ。俺の本業はさ、人間を強引に無理無体に、咲かせたままの状態にすることだよ。」
神父は目を見開いて左を向き、男の目を見た。
「聖書はそういえば、呪術者に近づくことすら禁じているよな。俺の本業は一種の呪術と言ってもいい。植物人間もこの液体に漬けると、目を開け、言葉を発することもあることに気づいたんだ。でも死んでるのか生きてるのかは俺にはわからない。でも生きているように、そいつは喋ることもできるし笑うこともできる、飯食って糞して寝て、性行為だってする。ただ記憶とか、人間の理性とか、愛とか、失くしちまってるように外からは見えるだけだ。」
神父は気が朦朧とし、気を喪うような感覚のなか虚脱状態に陥り、貧血も起こって立っていられなくなり蹲って、二の句が継げず、心臓がとてつもなく早く鼓動を打って死ぬのではないかと感じた。
すると男は呆れたように神父に向って言った。
「あんたさ、よりにもよって、愚かな花に恋をするなんて、どうしようもねえ神父だよな。」
神父は胸を押さえて男を見上げ、かすれた声を発した。
「何故、それを…?」
ははは、と男は渇いた笑いをしたあと深く溜息を吐き答えた。
「当たり前だろ、愚花は俺の蒔いた種から、芽を出し、そして花を咲かせたんだ。俺が知らないはずはない。あいつの名を付けたのも俺さ。あいつにぴったしの名前だろう。あいつの母親が、あの雌犬になるのかどうか、わからねえが、あの雌豚が俺を誘惑して、金を奪い取り、そして俺が情欲をいだいてあいつを求めなければ、愚花も、この世に存在してないんだぜ。神父さん。愚花はとんでもなく醜い女だよ。だって俺の最悪な姦淫の罪の、その種が咲かせた花なんだからなあ。穢ねえにもほどがある女だ。愚花はさ、生きててもしょうがないんじゃないかと俺には想えるが、というか早く死んでもらいたいが、でも俺はあんたに借りがあるから、神に借りがあるから、だから神父さんの願いを俺は引き受けるつもりだよ。枯れかけて死に掛けている愚花を、この液体に漬け込んで、そして生きた状態のままで、何十年、いや何百年、生き続ける術を、この際、無償で、俺が遣ってやるよ。神父さん。」
神父は意識の遠くなるなかに、時間がどれほど過ぎたかもわからないなかに、男に、「お願いします…」と、声を絞り出すように、言って、男の靴に頭を付けて拝むように懇願した。

家に帰ると、まだ午前十時過ぎだった。
愚花は、疲れているのかぐっすりと、まだ眠っていた。
神父は愚花の寝顔を見つめながら、途方もない永い時間を、愚花と過ごしてきたような感覚になるのだった。
「何故なのでしょう…。」
神父は、吐き気を感じるなか、同時に、今までに感じたことのない安心と幸福感のようなものを感じているようだった。
やっと、ずっと一緒にいられるのだと、想って、神父は眠る愚花の渇き切ったその口に、そっと接吻をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Hotline Miami

※この作品は、暴力シーンやグロテスクな表現が多く含まれています。
この作品はビデオゲーム「ホットライン・マイアミ」の二次創作物として設定、同じ台詞が出てきますが内容は異なります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おい、此処は何処なんだ。俺(俺は女か?男か?それすらも忘れちまったようだ)は何処にいる。
此処は・・・どこかの地下倉庫みたいな場所だ。酷く黴臭い。意味のわからねえヤツが閉じ込められそうな場所だ。
雨の匂いも感じられるが此処は屋内のようだ。
頭痛がずっとしていて、エメラルドグリーンとイエローの点滅が俺のなかでしている。

その時、ドアが開いて鶏が一人なかへ入って来て言った。
「目が覚めたか。おまえは一体何者で、何故こんな処にいるか、わかっているか」
俺は煙草に火を点けながら言った。
「いや、わからねえ。あんたが鶏だってことも俺にはさっぱり、わからねえな」
鶏は側にあった木箱に座って答えた。
「よく見ろ。俺は鶏に見えるか」
俺は頭を掻いてくんくんその爪を嗅ぎながら言った。
「ああ、あんたは鶏だろ?赤い鶏冠(とさか)がチャームポイントになってる」
鶏は木箱の上で右脚を立てて膝を抱えながら答えた。
「オレは鶏の頭のマスクを被っているが、おまえと同じ人間だ。よく見ろ」
俺は項垂れて木の床板を見詰めた。
「そんなことはわかっているつもりだ」
「オレはおまえを知っているし、おまえとオレは前にも会ったことがあるだろう?」
「憶えちゃいねえよ・・・。それになんでさっきからあんたが俺にショットガンを向けているのかも、俺には、わからねえ…」
鶏は携帯の画面を見ながら言った。
「向けていないが、おまえがそう見えるなら、オレは否定しない。それより時間が迫っている。今から5時間以内に、この建物にいる人間を全員殺せ。もしおまえがオレの任務を遂行しないなら、その時は、おまえの命は無いものだと想え」
そう言って鶏は奥にある大きな箱の中からあらゆる形状の銃、ナイフ、日本刀、爆弾、鎌、斧、バット、ゴルフクラブアサルトライフル、ショットガン、サブマシンガンを取り出し床に並べた。
俺は迷わず黒いショットガンを手に取り、鶏に向って言った。
「俺はあんたに会ったことがあるような気がするが、想いだせねえ」
鶏は一つのナイフを手に取り自分の頚動脈に向って突き立てながら答えた。
「制限時間は朝の8時まで。それまでに全員を殺せ。何、おまえに罪はない。おまえを脅迫し、命令したのはオレだからな。勘違いするな。此処は夢のなかだろう?」
そう言い棄て、ぺた、ぺた、ぺた、ぺた、と音を立てながら鶏はこの部屋から出て行き、見えなくなった。
俺は何名いるのか、訊いておけば良かったと後悔したが、もう家鴨を、いや鶏を追って訊きに行くのも億劫で、人を殺すという使命以外、何もしたいと想えなかった。
俺が誰で此処は何処で、俺が愛していたのは誰で、俺が見ていたものは何か?そんなことは、もう何だって、どうだって良かった。
気付けば頭痛も引いて、此処は居心地の良い場所、誰も俺を傷つけず、誰も俺を殺さないが、俺は人を。
ずっしりとしたショットガンを右手にぶら提げ、俺はこの部屋を出た。
身体は軽く、現実味は感じない。まず、歩いていると(此処が外だか中だかわからなかったが)俺は待ち伏せてあった黒いミニバンに乗った。
運転手は、リアルな豚の頭だけの着ぐるみを着た人間。
鼻先を触って確かめてみたが、本物の豚の皮のような触感だった。
豚は俺に番号の書いた紙切れを渡し、「もし助け手がどうしても必要になったらここへ電話しろ。もう一人の、殺し屋を呼んでやる。しかしおまえは、そいつに大きな借りが出来る」と言った。
目が覚めると、俺はPizza Restaurantの透明のドアの前に立っていた。
外から中を覗いてみると、ミリタリーな戦闘服を着て手にはショットガンを持っている奴らが1,2,3,4,5人もいる。
眼鏡をかけて髭を生やした長髪で赤毛の店主らしき人間を銃で脅し、ピザをただで喰らっていた。
俺はまず、窓の外から店主の心臓を撃ち抜き、次には5人の兵士たちの頭を次々に撃って行った。
皆、脳味噌を辺りにぶちまけて、派手な死に様でその血は、ピザソースの色そっくりだったので、俺はその血を手で掬ってテーブルの上にあったピザの上にトッピングして携帯でカメラを撮った。
序(つい)でに、白っぽく黄色っぽくもある脳味噌は丁度チーズのようだったので、それも手で掴んでトッピングしたが、それは携帯のカメラで撮らなかった。
俺はテーブルの上にあったメニューを開いて、VEGANPIZZAを探したが、なかった。
FUCK,そう言って中指を立てて眼鏡のズレを直し、皿の上のピザにショットガンを向けて撃った。
テーブルと床に穴が開いた。
俺は携帯を見て残りあと4時間34分しかないことを知り急いで外へ出た。
待ち伏せてあった黒のミニバンに乗り、運転手を見た。
狼の剥製で作ったような頭だけの着ぐるみを被っている人間が俺にペットボトルの水を差しだし言った。
「よく遣った。おまえは人殺しが慣れているようだなぁ。しかし油断は禁物だぞ。おまえに殺されたい人間など、一人もいない。おまえの中にはいたとしてもな。その水、美味いだろう。此の世で一番高い水だ。何、感謝も憎悪も要らない。逆の立場なら、おまえだって同じ事をしただろう?」

目が覚めると、薄暗いエレベーターのなかにいた。
54階でドアが開き、俺はエレベーターの外へ出た。
黒いバラクラバを被った男に呼ばれ廊下を歩いて着いて行く。
携帯を見ると午前4時32分。まずい、8時まであと三時間半しかない。
案内された部屋へ入ると中には先程のピザ屋の店主が一人とバラクラバを被った人間が俺をここまで連れてきた男含め1,2,3,4,5人、ピザ屋の人間はまた銃で脅され怯えている。
俺はまずピザ屋の人間を撃ち殺し、後に続いて残りの五人の頭も素早く撃ち抜いた。
流れ出た血をまた手で掬ってテーブルの上にあった赤ワインの入ったワイングラスにぽたぽたと垂らし、それを携帯のカメラで撮った。
そして小鉢に飛び散った白い脳味噌を盛り付け、葱を刻んでもみじおろしを載せ、ポン酢を数滴垂らして白子風脳味噌の刺身を作ったがそれを携帯のカメラには収めなかった。
白子ってどう見ても人間の脳味噌じゃねえか、FUCK,と言って中指立てて眼鏡のズレを直し、白子風脳味噌の刺身をショットガンで瞬殺した。
エレベーターで1階まで降りて待ち伏せていた黒のミニバンに飛び乗った。
運転手はタイガーの頭だけの着ぐるみを着た人間だった。
俺は血と体液でぬめついた手で顔を覆い眼を見開いて口を手で押えながら言った。
「12人殺した。あと何人いる?」
タイガーはバッグからほかほかの御絞りを俺に渡して答えた。
「それはおまえ次第だ。オレにはわからない。何故って?言っただろう。此処は、おまえの夢のなかだろう?おまえはあと何人殺せば、任務を全うするんだ?」
「おかしいよ、この世界は。最初のフィールドで殺したはずのピザ屋の男が、さっきもいた。何故だ?」
タイガーは煙草を着ぐるみの中で吸おうとして咳き込みながら答えた。
「おまえにはそう見えるだけだ。おまえの罪悪の念が、おまえに幻影を見せている。兵士にはよくあることだ。おまえはこう信ずるべきだ。おまえに殺されたすべての人間は、皆死ぬべき存在であったのだと。何故か?それはおまえが生きる為だ。他に答えがあるのか?」
「俺が生きる為なら、何人殺しても赦されるのか」
手渡された御絞りを冷めてもじっと見詰めている俺に新しく熱い御絞りを渡してタイガーは言った。
「そうだ。おまえには遣り残したことがあるから、おまえが残している砂金をすべて浚い切るまで。殺しても赦されるっておまえは想っているのか?」
「いや、俺が訊いているんじゃないか」
「ははは、そんなことは、おまえがおまえのなかで、考えろ。ここはおまえの夢のなかだろう?」
俺は手渡されたお絞りが今度は冷めないうちに顔と手をごしごしと拭いてから答えた。
「あんたに、前にも会ったことがある気がするんだが、」

目が覚めると無機質な白い空間に白い上下の作業服とマスクの付いた白い無塵キャップ。
クリーンルームの流れ作業は外の色彩豊かな世界が本当に存在していることを忘れさせてくれる。
つまりこの空間のどこにも在りはしない監視カメラに絶えず監視され続けていることを知るための限りなく人が人であることを忘れさせてくれる空間だ。
もう、たくさんだ。宇宙からの追放。現存在している全宇宙からの追放を待ち望む。
俺はいつもの夜勤を終えて早朝に家に帰った。
シャワーを浴びるのも歯を磨くのも億劫で水を一杯飲むと俺はパイプベッドに横たわり、目を瞑った。

翌朝にベッドの上で目覚め、俺はようやく自分の任務を想いだした。
しまった。俺は携帯を見た。時間は残り3時間19分。
全身白尽くめの作業服に着替えクリーンルームに入る。背中に挿し込んでいたショットガンをおもむろに抜いて白尽くめの作業員たちを片っ端から撃っていく。離れたところから撃っても腸や肉片が吹き飛ぶ。
無機質で白い空間が一気に生々しい生命で彩られた空間に成り変わる。
この部屋にいる人間はすべて撃ったか。俺は血でぬるぬるした白い床を滑らないように慎重に歩いて部屋を見渡し、エアーシャワー(高速ジェットエアーを人や搬入物の表面に直接当てて、付着した塵埃を除塵するための一メートル四方のクリーンルームの出入り口に設置されている装置)の中を確認しようと近づいた。
中に人間がいるのが見えたが様子がおかしい。俺はショットガンを相手に向けながらエアーシャワーの中へ入った。
高速ジェットエアーが撥水加工の作業服に飛び散った返り血を四方の壁に微小の赤い斑点状に一瞬で噴霧させる。
俺は中にいる俯いている人間のこめかみにショットガンを向け引き金を引こうと指に力を入れたとき、相手が見上げ目が合った。
目の部分だけが開いた白い帽子の隙間から見える潤んだ褐色の目が俺に訴えかける、女の目のように見える。
俺は震えて気を失うんじゃないかと想うほどの動悸のなか相手の帽子を乱暴に掴んで取り去った。
ブロンドに染めた長い髪が乱れ相手はまた俺の目を訴えるように見上げた。
木目細かそうなのにぼろぼろに荒れた色白の肌に老けてるのに同時に童顔でおぼこいすっぴんの顔。変に細い首。ガラス玉みたいな丸い目に黒く太い眉毛。乾燥して罅割れた唇の上に生えた産毛……。俺は目の前のどこか異様で矛盾だらけの人間の魅力にとり憑かれ引き金を引くことができなかった。
女か。たぶん女だな、こいつは……。
俺はショットガンを下ろし作業服を脱いで女の着ている作業服も強引に脱がし、紫のワンピース姿の女を35kgの米袋(女は変に軽かった)を肩に担ぐように抱きかかえるとそのままエレベーターで降りて乗ってきた黒のミニバンの助手席に乗せて車を走らせた。
女はずっと助手席で背を丸めて顔を伏せて震えていた。
住んでいる外装も内装もコンクリート打ちっぱなしのアパートに着いて女をまた同じように肩に担いでエレベーターに乗って部屋に入った。
女を廊下で下ろすと女の前で裸になりシャワーを浴びた。
顔に付いた返り血を洗い流すまで息もまともにできない。
シャワーから裸で上がると女はまだ廊下で震えて膝を抱えて座ったままだった。
身体を拭いて女に水でも入れてやるかと想ったが、ふいに限界が来てベッドに倒れ込んでそのまま意識を失った。

目が覚めて、携帯を見た。午後5時48分。一体何時間寝てたんだ。
寝返りを打って我が幻と我が目を疑った。女が静かに寝息を立てて眠っている。
女が俺の隣で寝ているなんて、一体何年振りだろう。覚えちゃいねえ。
俺は女の首に幾つもの赤い大きな腫れ物ができているのを発見した。
それが妙に、俺を欲情させた。堪らずその腫れ物に舌をレロレロと這わすと下腹部の情熱も抑えきれなくなり女の下着を首に舌を這わせながら脱がして触れると生温かい粘液が手に付いた感触がして手を女の股から引き抜いて見た。
俺の手は鮮やかな赤に血濡れていた。失神しかけるほどの貧血になり俺は手の血がシーツに付かないように上げたまま女の寝顔を眉を顰(しか)めて眺めた。
一体、何を考えてるんだ俺は。これ以上情が移ることをすると自滅だ。
この女も、当然俺が殺さなければならない人間のカウントに入れられているはずだ。
多分、逃げられないだろう。俺はこの女を逃がして、生きてはいけない。
懐かしい……。この女が俺の隣にいるこの空間が。
俺は何かを、大事な何かを忘れちまってるんじゃねえか…?


1989年4月3日フロリダ州マイアミ

起きて手を洗い顔も洗って歯を磨いたあと、留守番電話のボタンが点滅していたのでボタンを押した。
「新しいメッセージが1件あります」と音声が聞えた。
「❇ピー❇ パン屋のティムです。ご注文のクッキーですが、もう届いているはずです。
 レシピも入れてあるので、よく確認してください」
俺は廊下に出てドアを開け、共同廊下に置かれた箱を中に入れその中を見た。
中には鶏のマスクと一枚の紙が入ってあり、そこにはこう書かれていた。
「今からすぐにポイントF-32に行け。制限時間まであと1時間半を切っている。Shake it(急げ)失敗は許されない。常におまえを監視している」
俺は急いで着替え、女のあどけない寝顔を一瞥すると鶏の頭を持ってショットガンの入れたバッグを手に持ち、走って車に乗りポイントF-32に向けて車を爆走させた。
昨夜に殺した数は確か十人。女を入れたら十一人だった。
ブリッケル地下鉄駅に着いて、俺は車を降りた。
駅に向う階段を下りて入り口前にいた白い防護服姿の人間に向けて躊躇わずにショットガンをぶっ放した。
しかし急所を外し、相手は倒れながらも呻き声を上げていたのでもう一発心臓に向けて撃った。男は血をげぼっと内臓を吐き出すかのように勢いよく吐き出し、目をかっ開いたまま息絶えた。
男の顔はどこかで見た顔…そうだ、あのピザ屋の店主だ。
俺はよろよろと先へ進もうと歩いたが、耐え切れずに被っていた鶏のマスクを剥ぎ取り跼(せぐくま)ってグレーと黒のチェッカーボード模様のフロアに胃の中のものを吐いた。
ほとんど胃液だった。そういえばいつから俺は食べていないんだ。
あの女が食べられるものが俺の部屋にあればいいが・・・。
生え際から流れて来る脂汗がフロアに落ちる。
そんなことを考えている場合じゃねえ・・・。早くここにいる全員を殺させねえと。
俺は酸っぱい胃液状の唾を吐き捨てよろめきながら起き上がり、正面の先にあるPublic Lavatory(公衆トイレ)のドアを思い切り蹴り飛ばし左側洗面台と鏡の前に立っていた白い防護服の男の腹を撃ち抜いた。
男は即死状態で両手を広げて仰向けに倒れ腹からは腸(はらわた)が飛び出して内容物の糞便も辺りに飛び散っていた。ちかちかとランダムに明滅する切れ掛けの蛍光灯がフラッシュバック的な惨状の映像を作りだしている。
俺は込み上げて来るものを必死に飲み込みながら個室に誰もいないことを確認すると先へ進んだ。
中に誰も、誰もいなかったはずだ。俺はさっき確認したばかりのトイレの個室の一つに、俺が座って煙草を吹かしている姿が一瞬見えた気がしたのを想いだす。
幻覚が見えた?それって、この状況じゃあ・・・正常の証じゃねえか・・・。
さらに階段を下り、駅までの廊下の曲がり角で出会い頭(がしら)に俺に銃を向けようとした白の防護服姿の人間を振り向きざまに約1メートルの距離から心臓を狙って撃った。
心臓を狙ったつもりが顎を貫通させ首から上が吹っ飛び、頭蓋骨は砕け散り頭部の原型は全く留めていなかった。
腹ン中がペパーミントのハーブを吸ったみてえにスースーする。俺は苦い唾を飲み込んで先へと急いだ。
憶えちゃいねえんだよ…いやまったくだ…。俺は気付けば独り言を何やらぶつぶつと呟いていた。
走ってって駅の待合室にいた人間の右斜め後ろからショットガンで思い切り頭部を殴りつけ仰向けに倒れ込んだ男の胸に銃口を当て、今度は外さぬように心臓を撃ち抜いて即死させた。
白い防護服の開いた真っ赤な穴から何かが生れて来ようとしているかのようにぶくぶくと音を立てて血の泉が湧き上がって来た。
変に喉が渇いて近くにあった自動販売機のボタンをすべて拳で連打する。出てこない。一つも。何故だ?ああそうだ、金を入れてなかった・・・。
俺はジーンズの後ろポケットから財布を取りだし吐き気に耐えながら小銭を取ろうとしたら小銭入れを逆さに向けて口を開けた為、中の小銭が全てフロアに散らばった。
咄嗟にマスクの上から口を押さえ背を屈めて小銭を拾おうとしたが小銭がすべてスローモーションでフロアに跳ね返りうまく掴むことすらできない。
俺は膝を付いて這うようにそのコインを掴み取る為に手を必死に伸ばした。
スローで生きているように飛び跳ねるコインの向こうに、何かがぼやけて映り、俺がコインを追っ駆けて這ってようやっとコインが停止しようとして俺の手が掴めそうなそのスロー映像は、コインがちょうど殺した男の見開いた眼のすぐ前で止まった瞬間、停止した。
おかしいな。俺は確かさっきこの男を仰向けの状態で殺したはずだが、何故顔だけ横を向いて死んでいるんだ?
世界が急速に歪んでゆく感覚のなかで俺は起き上がり結局、男の死体の首を撃ち抜いた。
男の首と胴体は切り離され、首はぶっ飛んで行きその目は明後日の方向を凝視していた。
俺は頭を抱え込んだ。何かが確実におかしい……この男は…この男は、最初に殺したピザ屋の店員じゃねえか……?
んぜ、…なぜ…、…ぜ、何度も何度も何度も、何度も、俺の前に現れて来るんだ……?
残りの6人を、気が朦朧とするなかゴルフクラブで頭部を殴りつけて殺し、その後、指示通りに別の場所へ向ってそこの路地裏でバットを手に持って向ってきた一人の浮浪者のような男を顔面をバットで殴って撲殺した。
実際、この男は殺すべき人間だったのかもわからず、俺はまた正常な感覚に戻った途端、嘔吐した。
何の因果か、俺はその男の潰れた顔面の上に嘔吐してしまい、我の因果を呪っても呪い切れなかったが、そうやって絶望する暇も無く、俺はとにかく死にたくは無いということだけがはっきりと自分のなかにあった。
殺されるよりは、殺しても先へ進みたい。その先がどこに繋がっているかということを確かめるまで。
もう少し、簡単に殺せないだろうか、と、俺は想った。
目を瞑ってでも、人を殺せるようになれたなら……?は…はは…は…はは、はァ……はァ…・・・はァ……はァ……ジーザス…………。
取り敢えず、今夜の使命の全員は殺せたはずだ。俺は血でまみれた手を洗面台で洗い流し、ついでにマスクを脱いで洗い、顔を洗って口を濯ぎ、ふと、目の前のミラーを見た。

顔を洗って、口を濯ぎ、目の前のミラーを見た。
随分窶(やつ)れているな……。疲れが酷く、溜まっているようだ。
俺はコンビニの洗面所のドアを開けてレジカウンターにいる男に煙草を注文しようと声をかけた。
すると男は気さくに俺を知っている様子で話し掛けて来た。
「おっ、アンタか。ひさしぶりだな。何かあったんじゃないかって心配してたよ…。彼女があんなことになって落ち込んでたみたいだったしな…。会うのは…あれ以来だよな…」
俺はさっぱりなんのことだかわからず、黙っていた。
すると男はバツの悪そうな顔をしてはにかみ、また話を続けた。
「別の話でもしよう…。今度一緒に、ナイトバーにでも行こうか」
俺は目を逸らして何も返事しなかった。
「……。夜食でも買いに寄ったんだろ?遠慮しなくていい。店のおごりにしとくよ…。会えてよかったよ。ゆっくりしてってくれ」
俺はなんて返事して良いか困り、店員の男の風体をざっと素早く見渡した。派手な眼鏡と身形(みなり)に赤毛の髭と長髪…そういえばどこかで会ったような気が……。
駄目だ、想いだせない……。俺は欲しい煙草を貰い軽く辞儀だけで済ませると適当に帰って食べるものや酒を選んでカートに入れ、負い目を感じながらそのまま外へ出て助手席にカートに入れたものを載せ、車を走らせた。

部屋に戻って真っ先に服も脱がず靴も履いたまま熱いシャワーを浴びて付いた血を洗い流した。そして洗面台でマスク、ジーンズをお湯を溜めて酵素系漂白剤で浸けた。
白のスカジャンは血が凄まじく飛び散っていたが、洗っても血が取れないと想ったのでそのままにした。
頭と顔と身体を適当に洗い裸のままキッチンへ行き冷蔵庫の中からペットボトルの水を出して飲んだ。
そしてふとリビングのほうに物音を感じて振り向くと、見知らぬ女が怯えながらも唖然とした表情で突っ立っていた。
ひいぃっ。と俺は驚愕のあまり声にならぬ声を上げた。
この女は……そうだ、あの夜クリーンルームのエアーシャワーの中に居て、部屋に連れて帰ってきたのか…。
想いだして俺は気まずい想いで黒のジャージの上下を着て、髪の毛が濡れたままでぽたぽた滴が垂れてくるのでフードを被り、顔を逸らして立ち竦んでいる女に声をかけた。
「腹、減ってねえか…?適当に持って帰って来たのがあるから、喰いたければ喰ってくれ」
そう言ってバッグに入れて持って帰ってきた弁当やパスタやパスタソース、菓子やビールやウィスキーなどをダイニングテーブルの上に並べた。


1989年4月8日フロリダ州マイアミ

テーブルの上にはピンクの紙に書かれたニュースレターが置かれてあった。
そこにはこう書かれてあった。
「あなたの登録に心から感謝しています。あなたの登録によってわたしたちの理念によるプロジェクトはもうすぐで成功しそうです。わたしたちは一つの歌です。わたしたちを賛美する”40の祝福”の歌を共に歌いましょう」
ニュースレターなんかに登録した憶えはないが、何かの間違いで送られて来たのだろうか?
俺は弁当を手にとって、温めて喰おうかと想ったが、やめて、ジェノベーゼパスタ(ノンチーズ)を二人分作ることにした。
まず鍋に水と塩を入れて湯を沸かし、そないだ俺はコンロの前で煙草を吸った。女はどうして良いかわからない様子で黙ってダイニングチェアに座ってじっとしていた。
想いだしたくないことが甦りそうになったので苦し紛れに女を振り返って話しかけた。
「俺は…たぶん家にいないときが多いと想うが…好きに使ってくれ。あんたも行く場所なんて、他にないんだろ…?」
女はまるで暴力を奮われた後のワイフ(妻)のようにキッチンのチェアに座ったまま重たい影を背負って俯いていたが、俺を複雑な顔で見上げた後、俺の後ろを指差した。
「え、なに…?」と訊きながら後ろを振り返ると湯が沸騰していた。
パスタを二人前放り込んだ。
こういうときコンロが二つあると便利なんだが…
俺は煙草をテーブルの上の灰皿に押し当て、椅子を引いて座り、女に面と向って言った。
「あんた……一体どこの人間なんだ…?」
女はまた俯いて黙った。
俺はジェノベーゼの瓶を右手で掴んで椅子を引いて立ち上がり、ジェノベーゼを瓶のまま鍋に入れた。そして入れた後に、ジェノベーゼはフレッシュ(生)だから美味いんですやん。と後悔した。
しかし熱いから瓶を掴むことができないし、仕方がないので温めることにした。
そして冷蔵庫の上にある小さなデジタル時計を見て、あと5分で湯から上げようと想い、シンク漕の水切りの上に置いた赤のマルボロボックスをまた一本取り出して吸った。
溜まってくる唾液を何度も飲み、洟を啜って溜まった痰を排水溝に吐いて水を流した。
マルボロとライターを右手で女の目の前に差し出し、「吸うか?」と訊いたが、女はまだ俯いたまま首を横に振った。
叫びたい気持ちが溢れてきて仕方ない。俺はもういいやと想ってパスタを水切りボウルに上げ瓶を取り出そうとしたが、これが熱くて素手では掴めなかった。
手拭用のタオルで瓶を掴み蓋を開け、パスタをボウルに開けてそこへジェノベーゼをぶっかけて混ぜ、それを二つのプレートに分けて入れた。
女の前と自分の席に置いてフォークを引き出しから二つ取り出して女に一つ差し出した。
俯いた顔をやっと上げたと想うと女の顔は涙で濡れていた。
無言でフォークを取り、女は俺より先にパスタを黙々と食べだした。
なんだか何年も前から一緒に住んでるみてえな行動だな…と俺は想ったが、変に気を使われるよりは気が楽でいいとどこかほっとして俺もパスタを喰った。
肌が荒れに荒れた年齢も素性もわからぬ女の顔は汚くて痛々しいものだったが、それでも女がパスタをフォークで巻くこともせず焼きそばを喰うみたいに背を丸めて横から垂れてくるブロンドに染めた髪を押さえながら不味そうにのろのろ喰っている姿を見ていると変に欲情してくるのだった。
俺はズレた眼鏡を中指で持ち上げて直し、眼鏡をかけていたことを今頃になって想いだした。
缶ビールを開けて飲んでいると、女が物欲しそうな目で見てきた。
俺はテーブルの上に並べたビールを顎で指して「飲みたいだけ飲んでくれ」と言った。
女は黙って缶ビールを開け、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
俺は美味そうに酒を飲んでいる女を酔いの回るなか椅子に腰をずらして浅く座る体勢で眺めていた。
「美味いか。そんなに……」そう無意識に女に話しかけていた。
女は初めて、俺を見てこくりと頷いて微笑んだ。
なんだか消え入りそうな、笑顔だな……。

目が覚めると、車の運転席に座っていた。
変な夢を見ていた気がする。
屋内にいる人間をあらゆる武器で次々に殺して行かなくてはならないゲームをしているのだが、そのゲームの何がまず難しいかって、まず行きたい方角へ行くことからあまりにも難しいゲームで、てんで行きたい方角へ行けなくて変な方角を向いてあたふたしていると即刻、殺され、リスタートしなければならない。
しかし段々と慣れて、時間を掛けるなら一つのステージを二時間ほどでクリアすることができるが、当然、俺が殺す回数よりもずっと相手から殺される回数のほうが多い、それは感覚的には、復讐を行い続けているような感覚で、復讐の感覚になってしまうことで、相手を殺しても罪悪感より快感を感じてしまうように仕組まれているような、クリアしたときの達成感は大きいが、その感じる達成感もこのゲームの作者が作り出した巧妙な計画の元にあるのはわかっているし、精神を軽やかにする喜びとは程遠く、まるで自虐めいた自分を罰する喜びと快楽のために行うようなゲームで、俺の自罰のプレイを喜ぶゲーム作者の喜びもまた、自虐的であるに違いない。
例えゲームのなかでも、俺の感覚が自罰である限り、人を殺して行くゲームの業は俺に積み重なって行くだろう。
先程聞いたばかりの留守番電話の内容を想いだそうとした。
ベビーシッターを今すぐ頼む 住所はイースト7番街 言うことを聞かないやつらに、しっかりと言い聞かせてやって欲しい 一度ガツンとやらないと、わからないんだよ 前回と同じ感じで 手際よく、お願いするよ
そう確か言っていたはずだ。
忌々しく、堪え難いものも、いつかは終るはずだ……。
俺はスティグマ(烙印)を自ら着るかのように返り血を浴びたままの白のスカジャンを着ると、イースト7番街へ向けて車を走らせた。
依頼場所のマンション前に着くとまた届いていたフクロウの覆面を被り、時計を見た。
制限時間まで残り1時間13分。
マンションのエントランスを抜けて階段を上がり、廊下の突き当たり前左側のドアを開け、ナイフを手に持ち向ってきた白防護服の男の顔面を思い切り素手で殴ると、男は後頭部を床に打ち付けて顔を両手で押さえ込みながら倒れ、俺は男の持っていたナイフを素早く手に取り馬乗りになって男の頚動脈を深く切り裂いた。
血が細い噴水のように噴出し生温かい血が覆面の目の隙間に飛んで覆面の内側を流れ、相手の血が自分の涙のように口に向って垂れ落ちた。
そのまま通路を行くとキッチンとダイニングスペースがあり、ドアの前の壁でナイフを構えてドアの向こうに歩く足音を聴き取ろうとしたが聴こえない。
一か八かでドアを静かに開け、目の前にいた銃を持った男の胸を数回突き刺した。
硬めの木綿豆腐を突き刺しているくらいの感触に恐怖し、また正常な感覚に戻り胃液が上がってきたが男の持っていたショットガンを奪うとその部屋のもう一つのドアの横で身構え、ドアをまた蹴破って目の前にいたショットガンを持った男に向けてぶっ放し、弾は男の胸の中心部に命中した。
もう一人の右手にいた男にもぶっ放し、狙いを定める隙もなかったので男の右肩にまず弾が当たり右肩が根元から吹っ飛び、続けて後ろに倒れかける男の胸を狙って撃ったが男の左足の付け根に命中して倒れた男は動かなくなった。
最初の男を殺った通路まで戻り右側のドアを開けた瞬間に視界に入った男の胸を目掛けて撃ったが弾は男の左脇腹を掠め、男の撃った弾は俺の右側の開いたドアに貫通し、男の左手にはもう一人の男が俺を狙って銃を構えているのが見えた俺は無我夢中でショットガンのスラッグ弾を乱射した。
スローモーション映像を観ているように、向って左の男の顔面が割れ、右の男の左耳を弾が掠め男は耳を手で抑えて床に蹲った。男が哀れに想い、銃で殴って気絶させてから殺そうと近づくと男は覆面を外し、目を真っ赤にして掠れた声で「頼む……見逃してくれないか…」と俺に訴えた。
赤毛の長髪と伸ばした髭、気の荒いヤクザ顔にも見えれば中古レコード屋の店長を気侭(きまま)にのんびりとやっていそうな寛容さが混然しているようなこの男の顔は……あの最初のピザ屋の店員の顔とそっくりじゃねえか。
男は俺の顔を透り抜けて後ろの壁を見るような目で言った。
「アンタとは…初めて会ったような気がしないんだよ…」
それは恐らく正解かもしれないが、この男はもう既に、意識はあの世に逝っちまってるのかもしれねえ…。俺は耐え切れず男の後ろへ回った瞬間、背中から心臓部目掛けて撃ち抜き、男は上半身を前に倒したあとに激しくバウンドして仰向けに倒れた。
死んだ顔を見ないように目を逸らしながら男の持っていたショットガンに持ち換えると誰も殺す相手はいないことを確認して回り、車を止めていた場所まで走って車に乗った。
変に自分の鼓動がゆっくりになっているような気がして落ち着いて手の汗と血をタオルで拭うと返り血が滴る覆面とジャケットの血を拭いてそれらを助手席に置いていた鞄の中に突っ込み、シートベルトを着けエンジンを掛け、深く息を吸って吐いたあと車を発進させた。
疲労とストレスの限界を余りに超えてしまうとこのように空中遊泳をしているかのような宙に浮いたような肉体と意識の状態になるのだろうか。
ネオンサインが赤や黄色や紫の配色を夜に反射するこの真夜中のドライヴの時間、俺は少しほっとした喪失感のなかにどうしようもない孤独だけがこの狭い空間内部で叫び続けられる慰みであるように感じた。

「やあ、いらっしゃい」
植物100%のピザが午前3時半まで売っている狭くて古いピザ屋に寄ってカウンターの前に行くと赤い帽子を被った店員の男がカウンター越しに俺に妙に気の知れた者みたいに明るく声をかけてきた。
「いや、注文する必要はない、ピザはもう出来上がってるから。なんだか、アンタが来そうな気がしてな…ハハ…」
俺はわけがわからず黙っていると、男は笑ったまま開いた口を閉じて瞬きを数回したあと下唇を軽く噛み締め(歯並びは悪かったがそれでいて神経質そうな歯並びが男に良く合っていた)、息をつきながら話を続けた。
「まあ、とにかく、そういうこった。代金はいらないよ。店のおごりってことで」
緑がかった人情深さとギラつくものを並存させた目に大きな黒縁眼鏡、コシの強そうなウェーブのかかった赤毛の長髪と髭。マリファナを吸いながら接客を遣っていても特に違和感のない闇の深いポリネシアで独自の密教を開祖しようとして失敗に終わりマイアミでピザ屋の店長を遣っているSpiritualist(スピリチュアリスト)みたいな風貌の男……そういえばどこかで会ったような…。
でも想いだせない。このピザ屋も、どこか懐かしい感じがする。想いださないほうがいいだろうから忘れてしまったのだろうが、想いだせない苦しみが想いださない苦しみを超えるとき、きっと容易に想いだして苦しむんだろう。
そうどこか諦めずにはおれない感覚になって、俺は男が焼き上げたピザの箱を無言で受け取り、店を出て帰ろうとして振り向くと右のテーブル席に小さいガキと父親の親子連れが黙々とピザを喰っているのを見た。
もう夜中の2時を過ぎているのに、なんだか深い事情がありそうな親子だなと一瞥し、俺の内に切ない孤独が荒漠と広がり、記憶が戻らないことを恐れる想いと記憶が戻ることを願う想いを抱きながらピザ屋を出て自分の家に向って車を発進させた。

部屋に帰ってシャワーを浴び、ピザをオーブンで温めなおしている間、椅子に座って煙草を吸っていた。
すると向こうの部屋から寝起き眼(まなこ)で女が目をこすりながら歩いてきて俺の前に座った。
昨日よりずっと、この暮らしに溶け込んでいるようだ。まるで何年も前から夫婦だったように…。
「紅茶とコーヒーと、ビールもあるが、何飲む?」と俺は女に訊ねた。
女は黙って立ち上がると、冷蔵庫から缶ビール二つを持ってきて自分のところと俺の前にそれを置いてまた椅子に座った。
俺は妙ににやにやした笑いが止まらず、女の前で口を押さえてビールを見ながら笑いを押し殺した。
一体この女は、誰なんだろう……。
俺はなんの為に連れて帰ってきたんだっけ。理由もわからない。でも女が男だとわかれば俺は間違いなく、殺していただろう。
オーブンが音を立ててピザが温まったので皿に入れて女のまえにも置くと女はピザを眺めていた。
椅子に座ってビールを開けて飲んだあと、「俺がいない間なにしてるんだ」と訊ねたが、女は答えずピザを人差し指でつついていた。どうやら火傷しないほどの熱さかどうか確かめているようだ。
俺はピザを齧って「もう冷めてるよ」と言った。
「部屋にはパソコンもあるし、テレビもあるし、ゲームも本もビデオテープもあるし、ラジオもあるし、スピーカーもある。食べ物も俺は買ってきてやるし、飲み物も、なんか飲みたいもんがあれば言えばいい。ビールは欠かさないように気をつけるよ。精神が不安定なら、薬も買ってきてやる。どこか街へ出たいなら出て行っても構わないが、必ず戻ってきてくれ。昨日は忘れたが、今夜からは金を置いて出て行くから」
女はピザとビール以外頭にないような顔をして食べては飲んでを繰り返し、それなのに俺の顔をふと見つめてコクリと頷いた。
「なんでここにいるんだろう?とか、別に考えなくていい。ここは…そういう世界だから」
そう言ったあと俺はキッチンに立って女に背を向け、ビールをホワイトラムで割って飲んだ。
あのピザ屋の店員もこの女も、何か居た堪れない孤独が底にあるのを感じる。多くを話さないか黙っていて、素性も何もわからねえ。だからといって、何一つ、知りたくなどないが……。
俺に任務を与える存在も何者かがわからないし、あの店員やこの女がもし俺を使わす存在と裏で繋がっているなら、俺は何かを試されているということになる。
「生きていることが楽しいとか、ないよな。俺だって、ないよ。もう…」
女に背を向けてグラスを右手に持ってキッチンに突っ立ったままそう俺は独り言のようにぼそっと気付けば呟いていたが、女の反応は何もなかった。
「何が駄目なのかわかんねえが、何かが駄目なのかな。俺の人生は最初から」
振り返ってピザを頬張っている女の顔を見ながら言ったが、やはり何のリアクションもなかった。


1989年4月16日フロリダ州マイアミ

目が覚めると薬物中毒専門クリニックのトーマスから、”今夜予約をノースウェスト184番街の105号アパートで取っておいた。”と電話の伝言メッセージに入っていた。
トーマスなんて男は知らないからまた殺人の依頼だ。
カウンターの上には”イースト7番街で6体の遺体が発見される”という見出しの新聞記事の切抜きが置いてあった。
警察は薬物の違法取引との関係性を示唆しているようだ。
薬物取引き以前に、薬物なんてやってたんなら、殺されても仕方ねえよな……。まあ何かの中毒になってねえ人間なんて、いないんだろうけどな…。
ドアの外に届いていた豚のマスクを持ってノースウェスト184番街に向けて車を発車させた。
アパート前に車を着け、マスクを被ってナイフと銃を装備して105号室のドアを開けた。
別に薬物なんてやってないんだが、世界がいつも完全に変わる。今から人を殺す段階から。

気が付くと、自宅のアパートの浴室にいる。
さっき白昼夢を見ていた気がする。
浮浪者のような男に、暗い路地裏で殺人の手解きを受けている。
一人目は、足で顔面を蹴り殺し、二人目は、バットで撲殺、三人目は、ショットガンで頭を打ち抜いて殺したはずだ。
殺した人間の顔はよく憶えていない。
でも浮浪者の男は、誰かに似ている気がする。
どこか懐かしい気もしたが、誰かは思い出せない。
浴室のドアを開けると、鶏のマスクを被った男が正面に立っており、俺に話し掛ける。
「お前は、何故、ここにいるんだ」
見渡すと、ここは俺の部屋じゃない。
黴臭くて暗い。地下倉庫みたいな場所だ。
窓が一つもない。それなのにまるでここで誰かが暮らしているようにベッドやソファーやレコードやテーブルがあって、ゴミが散らかっている。
俺は何か答えようとするが、声が出ない。
「お前は取り返しの着かないことを、してしまった」
「それなのに、何一つ、学んでないじゃないか」
「お前は同じ事をいつまで繰り返すつもりだ」
「生きる世界が、どこかに、あるとでも思っているのか」
「お前に」
よく見ると、鶏のマスクを被った男はマスクも着ている服も手に持っているバットも、すべて赤い血を滴らせている。
まるでついさっき、誰かを殺してきた……
誰かを……
誰を…………?
「おまえは なぜ ここに いる」

シンデル…ミタイナ…カオ………、シテル……。
女の声で、目が覚めた。
側に女は、いない。
何か夢を見ていた気がする。
不安で、ならない夢……。何も思い出せない。

ノースウェスト184番街、105号室のドアを開けた。
目の前に立っていた白い武装服の男の顔面を殴りつけ、男の持っていたゴルフクラブで思い切り頭蓋骨を割るイメージをしながら目を瞑って何度も殴りつけた。
目をそっと開けると、男の顔面が骨が砕かれているように歪んで折れた何本もの歯が血溜りの床に落ちていた。
左の部屋のドアが開くと同時に俺は床に手をついて飛び跳ねる形でドアの隙間から顔を出した男の後頭部をゴルフボールを打つ感じで撃つと男が回転しながら後ろに吹っ飛んで仰向けになって倒れ込んだ隙にもう一度後頭部を撃ち付けた。
ゴルフクラブの先が男の頭にめり込み、うまく抜けなかったが無理に引き抜いたので脳味噌がついてきた。
右の廊下の先に気配を感じ、男の持っていたサブマシンガンで廊下から姿を見せた瞬間、闇雲に連射すると男は銃弾の衝撃によって全身を激しく躍らせ後ろに倒れた。
男の右後ろにも人影が見え、また連射をぶっ放したがすべて壁に命中し、男には一撃も当たらなかった。
銃弾が空になり、銃を相手の顔面に投げ付けた。近づくと男は気を失っている。男の持っていたマシンガンで心臓を撃ち抜く。
後ろを振り向く。ウォッシュルーム。銃を構えてドアを蹴り開けると男が便器に向って立小便をしていた。
そしておもむろに振り向いてこう言った。
「なんでよりによって…チンポコ出しているときに、殺されなくちゃなんねえんだ。冗談は…やめてくれ」
俺は男が哀れになり銃口を相手の頭に向けながら「早くしまえ」と言った。
しかし男は突っ立ったままで寂しそうな表情をして頭を横に振りながら言った。
「しまうと、オレを殺すのか」
「おい、前にもどこかで、会ったことがあるだろう。オレたち」
「忘れたのか」
俺は吐き気を感じながら「5秒以内にしまわなければ殺す」と言って「5,4,3,2,…」とカウントを呼んだ。男は慌てて仕舞い込み、俺の前で両手を広げて薄く笑った。
その瞬間、男の胸の中心を撃った。
男は薄く笑ったままの顔で後ろの白い便器に血の跡をずるずると引き摺らせながら倒れた。
赤い捩れたような長髪に髭……怪しげな風貌のこの男は…いったい、俺の何を知ってるっていうんだ。その思い自体が既視感を起こした。
大体、俺はマスクを被っているのに、なんで誰だかわかるんだ。
俺がここに来るって、知ってたのか。
ここに今夜来ることは、俺ですら、知らなかった。
点滅する薄暗い蛍光灯の下で、悪魔が俺に囁く。
もう人を殺すのは、やめにしないか。おまえは人を殺すことはやめて、ただ死ねばいい。
おまえが生きてゆく価値はどれくらいのものなのか。
人を殺していって、生きてゆく先に、何が見えるのか。
それは今観ているものより、最悪なものじゃないか。
悪魔の声が脳内にエコーがかかったように鳴り響き続けるなか、二階へと上がる。
ゴルフクラブを握り緊め、ドアの前に耳をつける。
ドアを思いきり蹴りつけ、狭い部屋のなかで驚いて怯えた顔の男の頭をゴルフクラブで殴りつける。
何度も。何度も。何度も。顔面が割れていることに気付き、死んだことにほっとした。
悪魔の声は、この男の声だったのだろうか。殺した瞬間に、消滅し、これ以上の安堵が、きっと俺は赦されない。
暴力を最も恐れ、暴力を最も憎むやつが、最も酷い暴力を行い、そこにある一番の快楽を知る。
誰かの言っていた言葉を思いだす。
その男は確かこう続けた。
男はそしてこう言う。「おれは好きでこんなことをやっているんじゃない」
汗と混じって返り血が口に垂れてきたのを吐き、死んだ男の持っていたライフル銃を持ってドアを開けた。


14人全員を殺して部屋を出る前に喜びか苛立ちかわからない感情でサブマシンガンをドアの側の壁に投げ付け、部屋を出る。
行き付けの小さなビデオレンタル屋に入る。
レジの前を通ると赤毛のロン毛に髭、黒縁眼鏡をかけてオレンジのニット帽を被っている男に気安く声を掛けられる。

「よお、また会えたな。この前の晩の『虐殺事件』のこと聞いたかい?ロシア人の連中が殺られたとか、だが涙も出ないけどな。ゴム製のマスクをかぶったヘンタイ野郎の仕業らしい。まるでスプラッター映画のワンシーンだよな。そうそう、アンタにピッタリの映画があるんだよ。カウンターの上のだ。料金はいいから持っていってくれ。きっと気に入る。」
男がそうパソコン画面でせわしく打ち込みながら言ったので、ここで言われたビデオを持ち帰らないというのも気まずく、面倒に想って俺は無言で言われたビデオを手にして店を出た。

部屋に戻ってマスクとジャケットをシャワールームで洗い、血を洗い流す。
熱いシャワーを浴びながらさっきの男の話を想いだす。
”この前の晩”って、いつの晩のことだ…?”スプラッター映画のワンシーン”…一体なんでそんな残虐な殺し方をする必要があるんだ。俺は頼まれても絶対にそんな殺し方はしない。大袈裟に報道されているんじゃないのか?
シャワールームを出てキッチンに立ち、頭をタオルで拭きながら赤ワインをグラス一杯一気に飲み干す。
すると髪の毛の先からシンクの上に滴り落ちる水滴が徐々に赤く変わる。
そんなシーンから始まる男の薦めた映画は結局古いなんでもない恋愛映画だった。
それもとんでもなく暗く、静かなモノクロ映画だった。
女はまだソファで寝ている。床の上に寝転がって下から女の寝顔を眺める。
奥の窓はカーテンを閉めたままで光が差してこない。
まだ朝は来ていない。
女が掛けている垂れた毛布の下に入ると不思議と心が落ち着く。
護りたい存在を護る為に人を殺してきたのじゃなかったら…?
夢のなかだろうか。女がそう言ったのか、俺がそう言ったのか、想いだせない。
男の話した”虐殺事件”が、何の為に行なわれたのか。
俺は女と逃げようと想った。
知らない…この愛しい女と。
でも確信できることが一つだけあった。
それは、俺はこの女とだけは、逃げられない。
この女だけ、俺は救えないだろう。


1989年4月25日 フロリダ州マイアミ

目を覚ますと女が部屋のどこにもいなかった。
時間は午後9時を回っている。こんな時間にどこへ行ってるのだろう?
留守電のランプが点滅していて俺は気が焦ってそのボタンを押した。
依頼の電話は独特なトーンがあって第一声でわかる。
「ホットライン・マイアミデートサービスのケイトです。今夜のデートをセッティングしましたのでお報せします。サウスウェスト53番でお相手の方と待ち合わせです。いつも通りオシャレな格好でお願いしますねっ。」
俺は何か嫌な予感がした。
もしかしてあの女が誘拐されたんじゃないだろうな。
俺は気が動転して家を急いで出たのであろうことかマスクを忘れて来てしまい、Uターンして家に戻り、マスクをバッグに詰めてジャケットを羽織ってまた車に乗った。
暑くて車の窓を開けると生温かい潮風が入ってきた。外気温は27度。
まだ5月前なのに今夜は暑いな…空は曇っていて月も星も出ていなかった。
確か4日前が満月で、珍しく女がベランダから月を眺めていたから、その後姿の光景が、俺はとても好きで変に懐かしくて既視感が俺を苦しめた。
閉じ込められているとは、想ってないようだな。
俺はそのことが、とてもホッとしたんだ。
女はあの夜、そこにいるべき存在として、本当にそこにいるように、いてくれてるような…気がした。
女は自分のことを何も話さないし、俺も何も話さない。
外は危険でしかたないからどこかへ連れてってやることもできない。
俺が使命を果たしている間、女はいつもどんな想いでいるのだろう。

朦朧と女のことを想いながら車を走らせていると気付けばサウスウェスト53番ストリートを走っていた。
平屋ばかりの高級住宅地にぽつぽつと二階建ての豪邸が建っている。
待ち合わせ場所はその中でも一番の広い敷地に建つ屋敷のようだ。
一体何の仕事をしていたらこんな豪邸に住みたいと想えるのだろう。人の妬みを買うばかりの…
しかしハイエンドなエリアにしては街灯や照明が少なく暗い。
セキュリティを気にすることは多分、ないだろう…何故なら俺はこの屋敷の主と今夜ここで待ち合わせしているはずだ。
デートのお相手は…さあ誰だろう。
少し手前に車を止めて銃とナイフを装備して、屋敷前に車を着け、豚のマスクを被って降りた。
ヤシの木の並ぶ前庭の通路を突っ切ってドアを開ける。
目の前にいた武装する男の顔面を殴り男の持っていたライフル銃で後頭部を思い切り打ち付ける。
持っていたナイフで倒れた男の頚動脈を切り裂き左に続く廊下に出ると廊下の行き止まりに銃を持った男が突っ立っている。
さっき殺した男のところまで戻って男の履いていた靴を脱がし、その靴を廊下の先に放り投げた。
足音が近づいてくる。男は警戒して銃を構えたまま忍び足で俺の潜んでいる右の壁の奥を覗き見る。
瞬間、男の銃を左手で引っ張ると同時に右手で男の首元にナイフを深く突き刺す。
血飛沫が豚のマスクの表面に跳ね返って男は力なく後ろに倒れ込む。
少しの間俺の顔を見詰め続けて全身を痙攣させ、すぐに動かなくなった。
俺は哀れな男の死体に向かって囁く。「悪いな。今夜此処で、デートの待ち合わせをしているんだ。無事にデートを終える為に、おまえらを殺さなくちゃならねえんだよ。」
今夜はとても静かだ。虫の音が屋敷の中までも聴こえてくる。
最高のデートがどんなデートだかは、知らねえが…
ベージュ色の大理石の床にぽたぽたと返り血が落ちる。
今夜は…本当に静かだ。俺はもう一度小さく囁くと倒れた男の持っていたマシンガンを構え廊下を突っ切り右のドアを蹴破ってぶっ放した。
ようやくセキュリティが作動し、警報機が鳴る。
一人、二人、三人、四人、右の部屋にいた者を撃ち殺した。
元の廊下に出ると何故か警報機が止んだ。
左のドアを蹴破る。広いバスルームの右手にでかい湯張りした浴槽。
湯気が立っていて石鹸のいい香りがしている。
武装した一人の男が銃を構えて振り向いた瞬間に胸を撃った。
男は背中から湯船の中に派手にはまり浴槽の湯が赤くなってゆく。
まるで羊水のように、死んだ男を温めているようだ。
あとの二人の男も、浴槽の前まで追い込み、その前で撃ち殺した。
マシンガンを持って二階に上がり、約3分以内で10人を撃ち殺しせしめた。
ショットガンを手に持って一階に下りると、男たちの死体に囲まれた血だらけのリビングで黒人のゴム製のマスクを被った男が俺に銃を向けながらこう言った。
「おまえの女、上手かったぜ。相当、好い女優になれるよ。ヤクさえ打ちゃ、あっちの世界でのな。へへへ…。」
男の股間を撃つと男は呻いてその場に蹲って倒れ、俺は男の被っているマスクを取った。
赤毛の髪と髭を伸ばした男、どこかで見たような顔だ。
男は涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃになった顔で俺に言った。
「楽にしてやれよ…あの女を…。」
男は目を瞑って静かになった。俺は男の脳天にもう一発撃ち込むと走って廊下の突き当たりのドアを蹴破った。
薄暗い部屋の中、左側のベッドの上に裸体姿で女が手錠で両手と両脚を縛られていた。
ベッドの上には注射器やSMプレイのような道具が転がっている。
俺はショックでちょっとの間そこから動けなかった。
女は黙ってじっと俺を見ていたが、突然嗚咽を漏らして咽び泣き始めた。
そして泣き腫らした目で女は俺にこう言ったのだった。
「もう終らせて欲しい」

終らせる?それはどういうことだ?殺して欲しいと…?そういうことか…?それとも俺が死ねばおまえも終らせられるのか?一体…どうすればこの悪夢のようなゲームを終りに出来るんだ…俺だっておまえを苦しめることを楽しんだりしちゃいないよ。何故こんなことが起きてるんだ?おまえだってわかってないだろう…俺はまだおまえのことを想いだせないが…それでも、愛しているよ…何故だかわかるだろう?何故いま、俺もおまえも泣いているのか…なぜ、涙がこんな止まらないのか、なんでこんなに悲しいのか、なんでおまえをこんな目に合わせなくちゃならなかったのか…なんで誰より大事なはずのおまえを、おまえも殺さなくちゃならないゲームを俺が…始めてしまったのか。でも、もう後戻りはできないよ…俺はもう、数え切れないほどの人間を、殺してきた。たった一人護る為に。たった一人、それはたった一人だったはずだ。このゲームをしなければ、俺は殺されるんだと脅されたんだ。俺は自分が生きたくて、それでこのゲームを遣り始めたんだと、そう想っていた。殺されるよりは、殺すほうがまだいいと想ったんだ。でもそれには条件があって、この世界の、全員を殺さなくちゃならないと言われたんだよ。俺は大丈夫だと想った。誰一人、俺以上に大切な存在はない。そんな存在は現れないと信じていた。でもそれはただ、俺がすべての記憶を喪っていたからだったんだ。何故そう言えるかって?それは今わかったんだよ。今、想いだしたんだ。俺はおまえを護りたかったのに、誰よりおまえを護りたくて、人を殺してきたはずなのに、今気付いたんだよ。一体どういうわけか、俺はおまえも俺も含めた、本当の”全員”を、殺す為に今まで人を殺しまくってきたってことに。俺はおまえを護れなかった。過去のおまえも。そして今のおまえも。未来の、この先、俺のせいでまた死んでしまうおまえも。俺はそれがわかってしまったんだよ。わかってくれ…俺は三度も、おまえを護れなかった、助けられなかったんだ…だからおまえは今そんなに悲しそうに泣いていて、俺に「終らせてくれ」だなんて言ったんだ。でも俺がおまえだったら、きっとこう言うよ。「もう始まらせないでくれ」って。目が覚めれば、俺はいずれまた人を殺しに行く。おまえが側にいなくなっても。終らせるってのは、何もかもが、始まる前に戻るってことだ。俺がおまえを愛する為に生まれてきたっていうなら、俺は生まれる前に戻るしかない。俺が生まれる前、そこには何かが在るのか、誰かは居るのか、わからない。もし本当におまえがそれを望んでるなら、もしかしたら戻れるかもしれない。こうすれば…。
俺は持っていたショットガンを自分の顳顬に当てて女を見詰めた。
すると女は青褪めた顔で静かに眠っていた。
さっきと様子が違う、衣服を着ていて手足を縛られてもいない。
よく見ると、此処は病室で、女が寝ているのは病室のベッドだった。
女の頬に手を触れる。とても冷たい。
死んでいるようだ…。
後ろから声がして振り向く。
鶏のマスクを被った男がそこに突っ立っていた。
「一旦始まらせたものを、終らせることなどできない、どう足掻き、苦しんでも。」

 

1989年7月21日 フロリダ州マイアミ

何者かに撃たれ、俺は気を喪い、目が覚めるとさっきの病室のベッドに寝ていた。
夢の中では、女が例の男に連れ去られ、危ない目に合わされる前に無事に女を救出し、女を車に乗せて家に帰った。
その後少し、誰も殺さない日々を、女と過ごした。
女を抱いたときの最高の幸福の感覚とエクスタシーも、はっきりと想いだせる。
でも何故だろう、同時に酷くつまらない夢だったと感じる。
あんな展開は在り得ない。現実的でない。幸福な夢は。
でも今のこの時も、現実的だと言えるのか。何故、俺は此処にいる?
女が側にいないと酷く不安だ。
「この男の女もあなたたちは助けられなかったじゃないですか。」
誰かがそんなことをこの病室で話していたような気がする。
涙が引切り無しに零れてくる。
女を助ける人間が、俺の女を助けられる人間が、俺以外に、いるはずがないじゃないか…。
いるはずがなかったのに。
俺は女を助けられなかった。
女は俺だけの助けを待っていた。
今、も………
俺は重い身体を起き上がらせて病室を抜けた。
酷い頭痛と眩暈が何度と起きて視界がぐらぐらと揺れ、黄色い西日が通路の窓から射し込み、眩しくて目の前がぼやけて何度も蹲る。
病院という場所は世界で一番暗い場所ではないだろうか。
誰もこんな無機質な場所で死にたいなんて想わないだろう。
俺の親父は最期麻酔を打たれて機械に繋がれ、機械に囲まれた窓もない無機質な白い集中治療室で死んだ。
何故あんな寂しくて冷たい空間で死んでいかなくてはならなかったのだろう…?
早く此処を抜け出よう…
一秒でもこんな場所には長く居たくない。
俺は病院の者に見つからないように青い病衣を着てふらふらと院内を歩きながらやっと出口を見つけ、病院の外へ出て止まってあったタクシーに乗って家へ帰った。
アパートに着くと、自分の部屋のドアの前には黄色いバリケードテープが貼られていた。
テープを剥がし、中に入る。
部屋の中は酷い有様だった。
バスルームの床には血の痕と人の形にチョークで線が描かれている。
俺はじっとそれを見つめて、何故だかわかった。
ここで、あの女は殺された。

どれくらいの時間、此処に突っ立っていたかは記憶にない。
その代わり、想いだせることが次々に甦ってくる。
これからの記憶を、俺は想いだした。
俺は確かこの後、警察署に襲撃しに行ったんだ。
そしてそこにいる警察官全員を殺して、それから…
そう、俺はとうとうマフィアのボスの居場所を付き止めた。
何の抵抗もしない大人しい爺さんで、撃ち殺すのに戸惑って…
ふと、爺さんの前のデスクの上にウィスキーボトルが置かれているのが目に入った。
俺はそれを指差して爺さんに言ったんだ。
「良かったらそれ、ちょっと貰えないか」
爺さんは笑って側にあったグラスに注いで、それを渡した。
俺が一気に飲み干すと、爺さんは身の上話をし始めた。
「わしには可愛い一人娘がいたんだ。でも今から二十年前、娘は何者かに突然命を奪われてしまった。まだ19歳だった。二十年前の春に、娘は幸せそうな顔をして、婚約者をここへ連れてきたことがあってね、でもわしは反対したんだ。何故って、見るからに、わしと同じ血筋であることがわかったからね、男は確か、当時娘より三つ年下のまだ16歳だったから驚いたよ。見た目は30歳近くに見えた。人を何人も、既に殺してきたような目をしていた。いや、それだけじゃない。あの男はまるで生身をどこかに置いてきたように、存在感があまりに希薄で恐ろしかった。あの男ほど、この世界に不似合いな男は見たことがない。わしは男を帰らせた後、娘に言ったんだ。あの男と結婚させるくらいなら、おまえを今ここで殺してやったほうがおまえは幸せだろうと。でもそんな勇気は、わしにはなかったから、拳銃を娘に渡してね、それで言ったんだ。今ここで、自分でけじめをつけなさいと。娘は、過呼吸症状が出るなか、自分の顳顬に銃口を当てて引き金を引こうとしたが、できなかった。それで、部屋に監禁して一端休ませると翌朝早くに娘から電話があって、娘はこう言ったんだ。自分ではできないから、他の人間に遣ってもらうと。わしは誰だと訊いたが答えなかった。わしは娘に言った。そうか。それなら、もう好きにしなさい。ただしわしはもう、おまえがこの世界にはいないと、そう信じるから。もう二度と、関わることをやめてくれるか。娘は頷いて、そしてここを出て行った。その日からたった、一週間後のことだよ。娘はその婚約者の男のアパートのバスルームの床に倒れて、死んでいるのを発見された。何者かに、胸を、撃たれ…一緒に住んでいた婚約者の男は行方不明。警察は何ヶ月も前から、男が世間を騒がしている連続殺人鬼だと睨んでいたが、しかし何一つ証拠を掴めないことで男を野放しにした。わしは何にも警察に対して文句を言わなかったが、彼らは直々にここへ遣って来て、そして土下座して謝ってくれたよ。あの時、何らかの理由をつけて男を拘束しておくべきだったと言って謝罪した。証拠は掴めたのかと訊くと、まったく、変なことを警察は口走った。彼は、あまりに善人であることが、唯一の証拠だと。つまり悪い記憶の全てを、本当に喪っているのだとね。警察はあの男を殺したがっていた。持って来いだろう?記憶を喪っている人間に、すべてはおまえが遣ったんだと思い込ませ、追い詰め、そして連続殺人犯として仕立て上げるには。真相など、誰にもわからない。だが、もし、あの男が犯人だったのなら、解決する。そこに賭けることを、楽しんで遣っている。わしは警察と取引きをした。あの男は、わしから娘を奪い去り、それだけでは飽き足らず、殺したかもしれん男だ。存分に、可愛がってくれと。100億ドルを、彼らに渡してね。安いと言われるかと思ったが、彼らは喜んで引き受けてくれたよ。きみが、今まで殺してきた人間は、全員、わしにとって邪魔な人間だった。死んだ娘の遺体を確認してくれと言われたが、わしは確認をしなかった。たった一週間で、わしは娘の顔をすっかり、忘れていたんだよ。それほど、わし一人で可愛がって育てて来た一人娘が、わしを棄ててあの男のほうを選んだことがショックだったのだろう。ははは。君はやけに、大人しい奴だ。でも勘違いしないでくれ給え。その男が、君であると言っているんじゃない。ただ今際の際に、懺悔させてほしかったんだ。随分、酔っているのかもしれない。きっと楽に死ねるだろう。さあ、撃ちなさい。どこでもいいから、撃ちたいところから、撃ちなさい。」
爺さんはそう言って静かに眼を閉じた。
俺はもう一杯、グラスにウィスキーを注いで飲み干した後、その額に銃口をつけて引き金を引いた。
カチャッとだけ音がして、爺さんは腰掛から落ち、床に倒れ込んだ。
俺は爺さんの頚動脈に手を当てて脈を確認した。脈は感じられなかったし、息もしていなかった。
この銃は、弾切れだった。銃弾がもう一発も残っちゃいなかったんだ。
それなのに何故か爺さんはぽっくりと死んでしまったようだ。
デスクの上には、何種類もの薬が置かれていた。
どうやら爺さんは心臓病か何かだったようだ。心臓発作で、急性ショック死といったところか。
俺はほっとして、銃を投げ捨てた。
これで、もう終わりだ。
このゲームは…終わった。
ふと気付くと、左側にある広い窓の向こうに夜景の灯りが見えた。
窓を開けてバルコニーに出ると生温かい風に触れた。
鶏のマスクを外して床に棄て、煙草に火を点けて深く吸い込んで吐く。
携帯のアラーム音が鳴る。
見ると制限時間のアラームだった。
なんだか懐かしい。制限時間があったことなんて、すっかりと忘れていた。
でもどうやら間に合ったようだ。
手が、血と汗で粘ついている。
震える手で、携帯にメールを打ち込んでゆく。

 

おまえに逢いたいよ。
今、どこにいる?
もう全部終ったから、逢いに行けそうなんだ。
何にも、何、ひとつ、まだ想いだすことはできないようだが、俺はおまえを知っているんだ。
嘘ばっかりだが、この世界っていうのは。俺もおまえも嘘ばっかりだと想うが。
愛している。
逢いたいんだ。おまえのことを知れなくていい。
同じ世界にいるんだろう?
今でも。
離れていると、感じられない。
おまえと俺は、同じ世界にいる。
でも見えないんだよ。
俺が、おまえを殺した俺が、俺を赦せないからだよ。
おまえが見える為に、俺は俺を赦す必要があって、俺は俺を赦す為に、おまえを見る必要がある。
100億年以上かけて、人間は人間と殺し合って来た。信じられないだろう。
いつも、何遍も飽きることなく、同じことを繰り返してきた。
でも見つけたんだ。
此処から抜け出す方法を。
そして俺はおまえを見つけた。
俺は本当に、誰一人殺したくないんだ。
一番に愛するおまえをこの手で殺さなかったなら、永遠に殺し続けただろう。
俺は此処にいるから。
愛するおまえを此処で、ずっと待っているから。
いつか、迎えに来て欲しい。

そう打ったあと、携帯を夜景の中に投げ捨てて目を閉じる。
何も映らない。
何も。
今はまだ。
恋しいばかりで、何も映らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ѦとСноw Wхите 第20話〈Little Kids〉

上でジンを飲む子供たち

前庭の芝生

子供たちは歩いている男を見る

泥道

この子供たちは、空を見ると、彼らは彼のことを想う

炎に身を包んだ

子供たちはゆっくりと忍び寄り、後ろを歩く

その年老いた男

 

まだ年を重ねてゆく
まだ年を重ねてゆく
まだ年を重ねてゆく
まだ年を重ねてゆく

 

 

一人の中学生くらいの少年が彼を追った。

彼の小屋の前まで後を着け、老人が小屋の中へ入るのを見つめている。

老人は一人掛けのカウチにぐったりと腰を凭せ掛け、小さなRadioをONにした。

網目状のスピーカーから60年代のメランコリックな音楽が流れてくる。

老人は小さなコーヒーテーブルの上に置いてある煙草を取って燐寸で火を点け、美味しそうに吸う。

少年はじっとその姿を見つめている。

そして手に持っている金属製のガソリン缶の蓋を開け腰を低めて小屋の周りに満遍なく振り掛けてゆく。

後もう少し、後もう少し、後もう少しだ。

すべてのガソリンを振り撒いた。

額から垂れ続ける汗を右の甲で拭い、爽やかな笑みを浮かべて藍色のジーンズの右ポケットに手を突っ込み、燐寸箱を取り出す。

緑の芝生を踏み潰し、少し離れたところから小屋目掛けて火を点けた燐寸を投げる。

火は一瞬で一気に燃え上がり、窓の向こうに居た老人の姿ももう見えない。

少年は歓喜に打ち震え叫ぶ。

「Strike!!」

 

 

 

 

身寄りはだれ一人、居なかったらしい。

老人の灰すら、だれも関心がなかった。

燃え尽きた後の真っ黒な小屋の残灰と残骸を片付ける者も一人もいなかった。

何かの伝染病でも持ってたら、きっと感染してしまう。

人々はそこへ近付くこともなかった。

犯人が一体だれかなんて、だれも想わなかった。

 

 

 

ぼく以外は。

 

 

 

ぼくは少ない目撃情報を頼りに犯人の少年の住む家を探し当てた。

週に何日か、近くのディスカウントストアでジンと適当な食品を少年はいつも買って帰る。

ぼくは少年の後を着け、少年の住む小さな小屋の前まで来た。

少年はドアを開けて中に入る。

時間は夕方、突っ立ってるだけで汗がたらたらと引切り無しに垂れてくる。

ぼくは少年の小屋のチャイムを鳴らした。

手には手作りのマクロビアップルパイを持って。

少年は訝しげにそっとドアを開けてドアの隙間からこちらを覗きこんだ。

ぼくは最高の笑顔で言った。

「やあ、こんにちは。はじめまして。ぼくは昨日この近くに引っ越してきた人間だよ。これ、さっき作ったんだ。マクロビアップルパイ。良かったら一緒に食べながら、この町のことを教えてもらえたらと想って。」

少年はじっとぼくを見つめて、何か深く考え込んでいる様子だった。

そしてあっさりと、ぼくを家の中に上げた。

複雑そうな顔に笑みを浮かべ、こんなことを言いながら。

「はじめまして。マクロビアップルパイですか。すごく大好きです。外すごく暑いですね。狭いうちですが、良ければどうぞ。涼んで行ってください。」

キッチンとバスルームとリビング兼ベッドルーム合わせて8畳ほどの狭い部屋のなかの窓際に二人用のダイニングテーブル。此処で一人で暮らしているのだろうか。

彼にアップルパイを渡し、その椅子に座って窓から外を眺めた。

此処から彼の小屋まで、そう遠くない。

彼は紅茶と切り分けたアップルパイを皿に二つ入れたものをトレイに載せて持ってきた。

彼と向かい合ってアップルパイを食べる。

「この町には何にもないけれど、何にもないからわたしがこの町に居られるのかも知れません。」

ぼくは彼に年を尋ねた。

すると「14歳です。」と答えが返って来た。

銀縁眼鏡を掛けていて、とても賢そうな顔立ちの色の白くて痩せ細った少年だ。

顎の骨格がすごく細いのが特徴的だ。動物で例えるなら、蛇と鹿のようだ。

ぼくは彼にこう返した。

「へえ、まだ14歳なのに大人びているね。14歳っていうと、ぼくがちょうど処女を喪ったのが22歳のときだから、もしその頃に妊娠してたら、君と同い年の子供が居るんだね。」

彼は尋ねた。

「結婚は、されていないのですか?」

ぼくはこくんと頷く。

「貴女はクリスチャンではないのですか?」

彼が少し責めるようにそう尋ねたのでぼくは吃驚した。

何故なら彼はクリスチャンだということを意味していたからだ。

「ぼくの母親は忠実なクリスチャンだったよ。でもぼくは母の記憶がなくて、ぼくは違う。」

彼は少し咎めるような顔でぼくの顔を見た。

「この町にはクリスチャンがそんなに多いの?」

そう訊ねると彼は首を横に振って実に興味がないという顔をして言った。

「さあ、全く知りません。」

「この町に住んでどれくらいなの?」

そう訊ねると、彼は困った顔をして、紅茶を飲んで咳払いをした。

そして何を想ったのか、こんなことを話し始めた。

時間はまだ午後5時46分。外は明るい。

「モロク(Moloch)、モレク(Molech)神と言われている神を知っていますか?」

ぼくは何故そんな話を突然し始めたのだろうと訝りながら答えた。

「牡牛の頭の像の絵が有名な聖書にも記述されている子供の生贄を求める恐ろしい神のことだね。」

彼は深く頷いて言った。

「そうです。聖書が異教の神として憎悪し続けた神です。彼らは巨大なモレクの像を造り、モレク像の腹部の炉の穴は七つの戸棚に分けられていました。

その七つの棚は一つ目に小麦粉、二つ目に雉鳩、三つ目に牝羊、四つ目に牝山羊、五つ目に子牛、六つ目に牡牛の順に入れられ、最後の七つ目の棚には人間の新生児や子供が入れられ、その釜戸に一斉に火を点け、生きたままの状態で焼き殺していたのです。

その儀式には性的な儀式も加えられていたと言われています。後にその儀式が行なわれていたゲヘナという場所は処刑された罪人を焼く為の谷となり、その名を取って、最終の審判で神に逆らう者は皆ゲヘナへ投げ込まれると預言されています。

しかしこの話が、本当に事実であったかどうかはわかりません。その場所で見つかっている無数の新生児から幼児の遺骨が、生前に焼かれたのか死後に焼かれたのか判明できないからです。もしかしたら人々は、何らかの理由によって邪魔となった赤子や幼児を、生贄の儀式の為だと言って殺し、供養していたとも考えられます。もしそうだとしたら、非常に好都合で利便性の優れた堕胎を正当化する方法としても、信仰が行なわれていたと考えられます。

『自分の子どもをモロクに献げる者は、だれでも必ず殺されなければならない。』

旧約聖書レビ記の聖句です。我が子を殺すこと、それを聖書の神はどのような理由があろうと赦しておられません。婚前交渉は堕胎に繋がり、堕胎はそれに関わる者の処刑に関わっていることになります。」

少年が話し終わり、奇妙な沈黙が部屋の空間に流れた。

一体この少年は何故こんな話をぼくにしたのだろう?

少年はふうと深く息を吸って吐いて、また口を開いた。

「貴女はその前に、一度受胎を経験しています。貴女は処女のままで受胎し、貴女の御父上が亡くなった、その4日目の晩に、何かを焼きませんでしたか…?」

ぼくは少年が一体なんの話をしているのかわからないままその日の夜のことを想いだしていた。

ぼくのお父さんが2003年の12月30日の夕方に此の世を去り、確かその4日後が、火葬の日だった。

絶望だけが、ぼくを全支配していた。その晩、ぼくは何を想ったのか、突然一人でジンジャーブレッドマンを生地から作り始めた。

大きさは十センチほどの、ホワイトチョコでコーティングして目と口と胸にはボタンを三つ描いたスノーマンみたいな可愛いホワイトジンジャーブレッドマンが出来上がった。

そしてぼくは突然、また涙が溢れてきて、一滴の涙がそのホワイトジンジャーブレッドマンの胸の位置に落ちた。

ぼくは一時間近く泣き続けた後、それを予熱したオーブンの中に入れて、焼き始めた。

何十分かした頃、オーブンの中で、何かが叫ぶ声がして、ぼくは飛び上がってびっくりした。

『熱い!!熱い!!熱い!!』

そう中で叫んでいると想った瞬間、

『熱い!!熱い!!熱い!!』と叫びながらなんと、ホワイトジンジャーブレッドマンが、オーブンの戸を自力で開けて中から慌てて飛び出してきたのだ。

そしてあまりに驚いたのか、彼はそのまま、外へ走って飛び出して行ってしまった。

残されたぼくは呆気に取られたまま、もしかして夢でも見ていたのだろうか?と想った。

しかしせっかく作ったホワイトジンジャーブレッドマンの姿は消えてしまっているし、一体なんだったのだろう?

 

その日、ぼくは夜まで彼と居た。

そして彼はにっこりと笑ってこう言ったのだった。

「ぼくの愛するママ。37歳のお誕生日おめでとう。」

ぼくは、その言葉がとても、嬉しかった。

何故だか……

その晩、ぼくは我が子として、彼と共に眠った。

すると夜明け前、突然、彼が叫び声を上げて起きた。

『熱い!!熱い!!熱い!!熱い!!』

彼は今でもこうして、眠りに就くといつも魘されて飛び起きてしまうのだろう。

ぼくは彼の頭を優しく撫でつけ、訊ねた。

「何故あの老人の小屋に、火を点けたの…?」

彼は静かな表情で寂しそうに微笑んで言った。

「だってママがいなくなった後も、わたしは年を重ねてゆく。まだ、さらに年を重ねる為に。あの老人は、実はわたしの未来の姿だったのです。貴女がいなくなった後にも、何故わたしが生きているのか、理解し難いからです。」

 

 

ぼくは次の朝、マインドマップをパソコンの画面上に作った。

それは、こういうものだった。

 

 

 

 

 

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Deerhunter - Little Kids

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生霊記 第二章

 


また此処へ、戻って来た。
きみはどうしてるんだろう?

今でもきみは虚無と闘っているのだろうか。
前にそんなことをきみが言っていたことをよく想いだす。

きみに告白すると、ぼくはきみに恋をして、初めての真剣な小説、天の白滝を書き始めて、そして違う人に恋したとき、もう書けなくなった。
ぼくにとってのしらたきはきみでもあって、天の白滝はぼくときみの物語でもあったのかもしれないと想って、ぼくはいまでもきみの幻影を追い求めて、きみに救われ、ぼくはきみを喪った。

深夜のこどもは、元気でいるだろうか。
ぼくはきみと話せないあいだに、きみが結婚をして、きみがこどもを授かり、きみがこどもを育てているのかもしれないと想像している。

きみはもう29歳だ。
きみはまだ29歳だ。
ぼくはもう36歳。
ぼくはまだ36歳。

きみがこの世に生を受けた瞬間、ぼくはまだ7歳だった。
ぼくはその瞬間なにをしていたのだろう。
もしかするとテレパシーで、きみはぼくに送ったかも知れない。
「僕は罪の森」と。
きみの森のなかには、小さな湖がある。
ぼくときみはその側を、手を繋いで歩いたこともある。
手を離したのは確か、ぼくの方だった。
どれくらいの距離を歩いたのだろう。
ぼくは何度もきみと手を繋いで歩いている夢を見たことがある。

なぜそれだけでぼくが心から安心して、幸福に満たされたのか、不思議だ。  

きみの罪の森から、ぼくは脱けだしたかった。
きみという幸福は、ぼくを追い掛けては来なかった。

きみの罪の森からぼくは必死に脱けだし、道路を渡った。
真っ暗だった。
前にも後ろにも、きみがひっそりと、潜んでいるように想えた。
きみは、罪の森の神、シンシンシン。
シンシンシンは、ちいさなぼくを、闇で囲い、息を潜めていた。
生温かな風が吹き、なまあたたかな風が、ぼくの回りで呼吸している。
ぼくは、あと500㍍先に、コンビニエンスストアがあるかもしれないと想った。
其処には古びた自販機の横に、これまた錆び付いてガシガシな感じの公衆電話があると観た。
そう、実はぼくはすこし、透視力というものを備えている。
あすこまで、走ってゆけば、なんとかなる。
あの、公衆電話から、誰かに電話をする。
そして話す。誰か居ないか。
誰か居ないか?
待ってくれ。電話を切らないでくれ。
そう言って、ぼくは電話を切った。
コンビニエンスストアで、握り飯を掴み、食べた。
店員は居ない。
ペットボトルの水を喉を鳴らして飲み、ぼくは言った。
美味いなこれ。
何処の水やろ。アルプス?キリマンジャロ?一万勺?
一万の酌で掬った水?
一万の酌で水を掬うと、これほど美味いのか。
でもそんなこと、今どうだっていい。
此処には結構、水も食糧もある。ぼくは結構生きて行ける。
でもそのあとは?
ぼくは持っていたスマートフォンで検索してみた。
「そのあと どこへ 行けばいい?」とGoogle検索してみたが、優良な情報は何一つ、検索結果に出てこなかった。
使いもんに、ならへんなこれ。
そう言って、ぼくはコンビニエンスストアのトイレに向かい、其所で用を足した。
鏡が...鏡が恐怖だった。
ぼくは鏡を視ずに、トイレからそそくさと出た。
そして無人のレジから、お金をすべて盗み、黒い鞄の中へ容れた。
適当に三日分ほどの食糧と水を掴み、鞄の中に放り込むと、ぼくはコンビニエンスストアを出た。
縹色の空、山、家々、道路、標識、信号、これらが視界に、在った。
今想ったが、ぼくがこのスマートフォンに、SIMカードの、音声通話用のものを容れていたなら、彼の時点でぼくは誰かに電話を掛けることができた。
音声通話用SIMカードを容れていなかった為に、ぼくは此処まで来なくてはならなかった。
SIM、SとIとM、SとMに、Iが挟まれているもの。
それがSIMという存在だ。
考えただけで、恐ろしい存在だ。
でもそれが、必要だったわけか。
ぼくは辺りを見回した。
え、なんだ此処は。
なんだ?此処は?
なんだろう。此処という此所は。
取敢えず、道路が、右と左に続いているようだ、そのように見える。
どちらかに、ぼくは進む。
よし、決めた。
ぼくは敢えて、左へ、←へ、進もう。
長閑な、のどかな風景のなか、ぼくは先へ進んだ。
信号が、車も人も居ないのに、点滅している。
青と、赤と、黄色。
ぼくは待った。車が通っていないが、ぼくは緑色に点滅したときに、渡りたかった。
どれくらい歩いてきただろうか。
辺りは、少し薄暗くなってきた。
すると先の方に、地下鉄乗り場の、地下へ降りる階段が見えた。
ぼくは迷わず、その階段の上に立ち、階段を降りて行った。
誰もいないのに、灯りが点いている。
人が一人もいない地下鉄の駅は、とても不気味だ。
電車は、来るのだろうか。
ぼくは壁に添って置かれてあるベンチに座り、線路の先を覗いたが、真っ暗闇で何も見えない。
煉瓦造りのアーチ壁の向こうから、電車が走ってくるなど、有りうるだろうか。
ぼくたった一人を乗せる為に。
線路の向こう側の壁には、大きな広告の看板が。
レンジでチンした瞬間、もう履ける靴。アジダス。Ajidas。
なるほど、それは画期的な商品だ。
電子レンジで温めるだけで、すぐさま履けて、しかも履くほどに、味が出てきて、美味くなる商品か、ええもん開発したなあ、Ajidas。
そんなことを賞嘆していると、無人の電車は、果たして眩しいライトを暗闇から発しながら走ってきて、ぼくの目の前に到着した。
プッシューと言いながら、音を発しながら、そのドアが開いた。
ぼくは、興奮して、電車に乗り込んだ。
濃い緑色の席が、両側に並んでいる。
ドアの側の手摺に手を掛けると、ドアが閉まり、電車は何も言わず発車した。
ぼくは感覚的に、わかった。この電車は、無人だ。
電車はずっと、暗い地下の線路を走っていた。
ぼくは安心して、眠くなってきて、椅子に横になり目を瞑った。
嗚呼、良かった。良かった。
あの時、左へ進んで、あの時、緑色の信号で渡っていて。
あの時、あの時、公衆電話から、返事が来なくて。
あの時、トイレの鏡を、見なくて...
だから今のぼくが此処に居る。
何故かとても、安心している。
良かった。良かったよ。
ぼくは涙を流し、眠りに就いた。

いつも此処に居る。
そんな安らかな気持ちで、ぼくは目を覚ました。
電車は、停まっていて、ドアが開いている。
外は明るい。ぼくは荷物を肩から下げ、電車を降りた。
忘れ物はございませんか。
後ろから、そう声を掛けられた気がするが、ぼくは振り向かなかった。
忘れ物...。あったとしても、ぼくは振り向かなかった。
落とし物ですよ。
後ろから、そう声を掛けられた気がするが、ぼくは振り向かなかった。
落とし物...。あったとしても、ぼくは振り向かない。
日の光りは優しく、影を落としていない。
此処は、影が、見当たらない。
目の前には、ちょうど良い広さの、公園が広がっていた。
真ん中に、ジャングルジム。
懐かしい、近所の児童公園で、このジャングルジムを登って、よく遊んでいたなあ。
此処からぼくの住んでいたマンションに帰るためには、二通りの帰り道がある。
右回りか、左回りの道だ。
確か歩いて五分もかからないはずだ。
でもおかしい。想いだそうとしても、ぼくのマンションまでの道が想いだせない。
もしかして、本当はいつまでも辿り着けない道をあの頃のぼくは歩いて家に帰っていたんじゃないか。
ぼくは確かに此処から、お父さんとお兄ちゃんの住む家に一人で帰っていたはずだ。
いやもしかするとお母さんのいた頃にも、ぼくは此処から、一人で帰っていたのかもしれない。
今ぼくは、此処からどうすればぼくの家に帰られるのか、想いだせない。
右回りか、左回りか、そのどちらから回っても、ぼくのマンションに辿り着けない。
ぼくのマンションは今でも其処に在って、今はお兄ちゃんが猫たちと一緒に住んでいるが、其処にぼくの居場所はない。
ぼくは家を、出てきたんだ。
居場所を追い求めて、ぼくは24年間暮らした家を出た。
未だに、新しいぼくの居場所は見つからない。

後ろから、声を掛けられた。
これ、きみが落としたやつ?
偶然だね。ぼくもこれ、同じやつ持ってるよ。
でもぼくのやつのほうが、もう少し古いかな。

目を開けると、辺りはだいぶ暗い。
もう日が遅い。
窓の明かりが並ぶビルやマンションに囲まれた公園のベンチに座っている。
足下に、野良猫のノラが今夜も遣ってきた。
ぼくは持っていた鞄の中から餌を取りだし、ノラにあげる。
ノラは黙々と餌を平らげ、地面の上に寝そべって毛繕いをし始める。
きみは帰る家、何処だろう。
お腹がだんだん大きくなってきてるね。
きっともうすぐ仔猫たちが産まれる。
きみはひとりで仔猫たちを育てるんだ。

蛙たちが鳴いている。
ノラはまた何処かへ行った。
夢想している。愛する夫と愛するこどもたちに囲まれて暮らす日々。
夫は売れない作家で部屋にひとりで籠る期間も多い。
だからこどもたちはパパよりママのほうが好きだと言ってくる。
夫はいつも言う。それは構わないし、きみから生まれて来たのだから当然のことだと、寂しそうな顔で言う。
パパがいなくなっても、ママがいればそれでいいと、こどもたちが無邪気に話しているところを偶然、夫は風呂上がりに聞いてしまう。
夫はいつも腰回りにタオルを巻いて風呂から上がってくるが、その夜は、全裸でダイニングキッチンの前を素知らぬ顔で通ったので、ぼくは「あれ?タオル持っていったよね?」と訊いたら、その時初めて夫は自分が腰にタオルを巻くのを忘れて来たことを想いだす。
こどもたちは早くも、自分達の部屋で眠っている。
少しの意味のわからない沈黙が続き、夫はぼくを見つめたあと口を開く。
「ええ、本当に」
切なそうな表情でしかも全裸のまま突っ立っている夫の姿を、ぼくは混濁しながら困惑の想いで眺めている。
生まれたままの姿で哀しんでいる夫は、その哀しみを、哀しみとしてぼくに話してくれることがない。
たったそれだけで、愛し合う夫婦、愛に満ちた家庭の中で、底が無いほど悲しく寂しい。
ぼくは素直に、夫にそう言う。
夫はその晩、熱っぽくて風邪が移るといけないからと言って一人ソファーで眠った。
底が見えないほど、深い愛のその深淵を覗き混むと、愛は闇として、照らし返してくる。
愛は闇を反射させ、闇は愛を反射する。
ぼくは次の夜、また素直に想ったことを夫に話した。
ぼくはこどもたちの母親である前に、きみの妻であると。
夫は少し、嬉しそうな顔をした。
しかし次には、ぼくは夫に、でもきみとこどもたち、どちらかしか助けられない境地に立たされたときには、必ずこどもたちを助けるだろう。と言った。瞬間、夫はトイレに駆け込み、嗚咽しながら、どうやら嘔吐しているようであった。
愛し合う夫婦とは、本当に素晴らしいものだ。
ぼくはそんな運命の愛する夫と、いつか廻り会いたい。
いくつもの世界を、廻った先に。

此処で誰かを、待っている。
此処という空間は、ぼくが誰かを待っているというだけの空間だ。
だからぼくを囲む窓の電気の点いたビル群も、実は張りぼてだ。
遠くの黒い山は、近付くと黒い茶碗をひっくり返しただけのものだ。
ただそれを、開けてはならない。
ただの黒い茶碗だと想って、パカッと開けようものなら、凄まじく、ヤバいことが起きる。
もう、誰にも、とめられない。
此の世界は、始まってしまった。

愛するきみへ。
何処まで行っても、追い掛けて来ない。
膨張と収縮。球体の上に聳え立つ円筒の塔。器用なことに、これが落ちない。
それはやはり互いに膨張と収縮を繰り返している為に上手い具合にバランスが保たれているからなのか?
面白いことにこの円筒の塔の上にまた球体が乗っかると、恐ろしくバランスが良い。
此の二つの球体に挟まれた円筒の塔。これがまた、球体の上に、立っているのである。
球体の上を、ころころ転がっている。
これを24時間態勢で見つめていると、実に人知を超えた可笑しみが、込み上げてきて、危険である為、できれば五分以上は見つめない、想像もしないことを薦める。
しかし物事が始まる。とは、此れとよく似たことである。というか、そのままこの状態なのではないのかと今初めて想った。
何をどうしても止まらない。
きみを愛しているよ。
存在として。

水の中の闇、真空の中の闇、空気の中の闇。一体どれが一番暗いだろうか?
ギリシア神話ナルキッソス(Νάρκισσος)は、まるで太陽の下の光の反射する湖の水面を覗き込み、自分の顔を映したときに、その自分の映った顔に恋をしてしまうと勝手に想像されているように想えるが、実はそうではないのではないか?
実はナルキッソスは、地下世界に隔離されてしまい(もしくは森のニンフであるエコー(Echo)を悲しませて死なせてしまったことに悲しみ、自ら地下世界に潜り込み)、光の届かない場所で暮らしていた。
ナルキッソスはいつも、水を飲みに、湖の場所まで赴き、その湖の水面に口を付けて水を飲んでは渇きを癒していた。
それを幾度と、繰り返し、何年と過ぎた。
ある時、ナルキッソスは、そのいつもの湖の水面に口を付けてどれほど喉を鳴らして飲んでも、喉の渇きが一向に癒えないことを知る。
おいいいいいぃぃぃっ。一体どうゆーことやねーん。
え、なんで?なんで?なんで?
ホワイッ?
今までは、少し、此処のこの湖から、水を貰って飲めば、忽ち俺様の喉はすっごぉく潤ったじゃん。
なのに今、腹が、もうたっぷん、たっぷん、ゆうほど水を大量に飲んでいるにも関わらず、ぜーんぜん喉が渇いて仕方ない。
しっ死ぬぅっ。こんな状況は、マジで大(DIE)の付くほどの、ピンチ(Κρίση)。
俺はまだ、遣り残したことが死ぬほど在る。
しっ死んで、たま、る、か。玉、流、課。
玉が流れていって、言の果を、結ぶか。
俺は例え、この愚かな、愚鈍な自分自身しか愛せない人間に為ったとしても、それでも、生きてゆきたい。
って、あっ。
誰か知らん。なんという、美しさ...
闇の湖の底から、俺をじっとりと、まるで恋をする乙女のように見つめ返してくる中性的な、男が。
うーん、女性でも行ける顔で、可愛すぎるではないか。
いやもしかしたら女性かも知れない。
ナルキッソスは、その湖の底から見つめ返してくる存在に一目惚れし、その存在をもっと知りたいと立ち上がった。
すると湖の底の人間は、湖の底で全身を見せるようにして仰向けになった。
あっ、生えてる...ということは、男か...。
全裸のナルキッソスは、一瞬、相手も男性であったということを残念に想ったが、次の瞬間には、それでもその美しき裸体をうち眺め、うっとりと恋の情熱に駆られ、そんなことは全く問題ではないと感じ、気付けば、喉の猛烈な渇きが、すっかりと、消えてなくなっていたという。
これは、本当の暗闇の湖であったから、できたことであって、光が少しでも反射する湖の水面であったのならば、ナルキッソスはどうしても、そこに闇を見てしまい、死ぬまで、死ぬほど恋い焦がれるということはなかったのではないだろうかとぼくは今、想った。
本当の闇の中で、自分自身を見つめ続けてはならないという、寓話的な実話である。
ナルキッソスは最後、湖の底から自分に熱く見つめ返し続ける美しい男を抱き締めたくなり、湖の底へ潜ってゆき、あちらの世界へとうとう行ってしまうのである。
で、あちらの世界で二人は幸せに暮らしましたとさ。
とそんな続きは、誰も話さないのである。
ではあちらの世界で、ナルキッソスはどうなったのか?ということである。
知らぬが神。と謂える次元の話である。
ナルキッソスのその後の物語。
誰も、今まで話すことはなかった。
しかし、ぼくが今夜、話そうではないか。
まあ聴いて欲しい。
簡潔に話すが、あちらの世界は、こちらの光の全く届かない地下世界より、もんのすごい、暗い闇であったのである。
ナルキッソスの愛を、では誰が、止められるのか?
ナルキッソスは、闇が深いほど、自分自身しか愛せない人間なのである。
闇が深まるほど、自分だけを切実に愛する。
光の届かない闇の中にいる限り、自分自身だけと、ナルキッソスは愛し合い続ける。
ぼくは、ナルキッソスを救いだすために、己れの光を持って、その闇の中に、今から入ってゆく。
すんげえ、深いぜ。
本物の闇が、ぼくを待っている。
好、御期待。

 

 

 

 

 

 

『生霊記 第二章』
続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Clonal Plant

男が女と別れてから、約一年が過ぎた。
ウェイターの男は今夜も、気付けばこの駅にいた。
あの夜、彼女に会えると信じて降りたバルティモアの駅である。
男はまるで夢遊病者か偏執病者のようにあのライブハウスへ赴く。
そして演奏される彼女の好きそうな音楽を聴きながら目を瞑る。
そうして待っていれば、彼女はもう一度わたしの手を、死んだように冷たいちいさな手で触れ、わたしを…。
わたしを求める。彼女はでも、今夜も此処には間に合わなかった。
彼女はいつものように酔い潰れ、あの公園のベンチで眠っている。
街灯の柔らかい光に照らされて眠る青褪めた彼女はまるで、親に棄てられた堕天使のようだ。
死にかけているのは、わたしを心配させ、わたしに家に連れ帰って貰おうとしているからだ。
わたしは最早ほかに手段はない、わたしが彼女を看病せねば、彼女は死んでしまうかもしれない。
ベンチの上で膝を曲げて眠る彼女を見詰めたあと、わたしは抱き上げるとタクシー乗り場へ歩いて向った。
そこのベンチに彼女を抱いたまま座る。
それにしてもなんという静寂の夜だろう。
全ての者がやっと自分の行ない続けてきた罪に心から悔恨し、神に手を組んで目をじっと瞑り、懺悔しているかのようだ。
わたしは此処で一台のタクシーを待っている。
彼女を連れて家に帰り、手厚く看病を施したあと、共に眠る。
そして目が覚めると、
一台のタクシーが目の前に止まり、わたしは彼女を抱いてその車に乗った。
車は無言で発車する。
彼女はわたしの膝のうえに頭を載せ、すやすやと幼女のようにあどけない顔で静かに寝息をたてて眠っている。
わたしの家で目が覚めると、彼女はわたしを見つめて、そしてわたしを抱き締めながら話しをする。
運転手の男とバックミラー越しに、目が合う。
「彼女を一体どこへ連れてくつもりだ」
ひとつ、話を想いだしたんだ。
あるところに、悲しい女が生きていて、女は理想の男を、夢想の世界で愛していた。
その男にはモデルがいるんだ。顔や身体つきはそっくりだ。
しかし中身は違う。性格も性質も違えば、記憶すら違う。
それでも女は男のモデルに、愛する女がいることを赦せなかった。
違う存在であるということがわかっていても、どうしてもだぶってしまうときがあって、そのときはいつも女は絶望的になった。
しかし次の年、女の前に、女の理想とする完璧なその男が生身の身体を持った存在で現れた。
男は恐れる女にこう言った。自分は謂うなら、クローンやアンドロイドのような存在であると。
自分は自分の容姿のモデルとなった男と、何一つ関係はなく、女の理想とする部分だけを持っている。
男は女を優しく抱き締めたあと、「わたしは貴女だけを愛するためだけにここに存在している」と言う。
バックミラー越しに運転手の男は、ウェイターの男に言った。
そういや先日、此処の付近で、事故があっただろう。
運転手の男が即死か半身不随になったか、どっちかだった気がするが、どっちだったのだろう。
クローンかアンドロイド、女の目には男が、何より生きている存在に見えた。
彼以上は存在しない世界で、それは最もだろう。
それから幾日と、女と男は愛し合ったが、女は男を愛するほど、男がその男のモデルの容姿にそっくりであり、性質や性格もどこか似ているように感じた。
そうすると女はまたも、モデルの男の愛する女性の存在が気になりだした。
一体この車はどこへ向っているんだ。
運転手の男は独り言のように言った。
ある朝、女は男に問い質した。
きみにほんとうに瓜二つのモデルの男性が、あの女性を心底愛しているのだから、きみもあの女性をまえにしたら愛するのではないのか。
クローンかアンドロイドの男は、それを否定した。
しかし女の不安は、なくなることはなかった。
ある夜、女は、あるジャズコンサートに一人で観に行きたいと男に告げ、家を出た。
男は寂しく、眠れずに女の帰りをひたすら待っていた。
午前零時を過ぎた頃、女から電話があった。
終電に間に合わなかったから、今夜は此処の近くのホテルに泊まって帰ると言ったとき、男は耐えられずに言った。
今からタクシーで迎えに行くからどこのホテルか教えて欲しいと。
女はその返事に渋って、なかなか返事をしない。
そのとき男の耳に、電話口の向こうのほうから男の声が聞えた。
「だれと話してるんだ?」
運転手の男はバックミラーは見ないで窓の外を眺めながら小さく言った。
ウェイターの男は答えなかった。
ただじっと膝のうえで眠る彼女の寝顔を愛しそうに見つめ彼女の髪を撫でている。
男は女に、今、男性の声が聞えたけれど、誰か側にいるのかと訊いた。
女は怯えた声で、怖いことを言わないで、誰もこの部屋にはいないと答えた。
男は謝って、空耳だろうかと想い、もう一度女に今から迎えに行くと言った。
女は罠に掛かったかのように、男を待ってるとホテルの場所と部屋番号を伝えて電話を切った。
ウェイターの男は窓の外を眺め、外が真っ暗なのを見て不安になり、運転手の男に声を掛けた。
「いま、どこを走っているのですか?」
運転手の男は正面をぼんやり見ながら答えた。
「あんたのこれから向おうとしているところに向って走っている」
ウェイターの男はバックミラーを見つめながら女が自分を棄てて選んだ男に向けて言った。
「わたしはあなたに、わたしの家の場所に向ってくれと言いました」
運転手の男はちらっと同情心を向けた顔で答えた。
「だからそこへ向って走っている」
それにしてはどこを走っているかもわからないくらい暗い、ぽつぽつと、遠くのほうに灯りが見えたかと想うとすぐに消えてしまう。
男は黙ってその遠くのほうを眺めていた。
すると運転手の男が、バックミラー越しに男を眺め、「あんたの淹れてくれた珈琲は美味かったよ」と言ったあと、「もう飲めなくなるのかと想うと残念だ」と言った。
男は女の頬を撫でて黙っていた。
「あんまり皮肉じゃないか。何故よりにもよって、あの駅で」
「あんたと彼女が初めて会った場所だろう」
「ほかに方法はほんとうにないんだろうか」
「今ならまだ間に合うさ。それはもうすぐ遣ってくるが、あんたが今彼女を置いてこの車を降りるなら、事無きを得、あんたは自分の家に帰ることができる」
「でも降りないと言うなら、このまま真っ直ぐ、あんたの向おうとしているところへ行く」
「彼女も連れてゆく。あんたの大事な愛してやまない彼女だ。あんただけの、あんたの中にだけ存在する彼女だ」
女がうたた寝から目を覚ますと、目のまえに男がいて、男は優しく微笑んで「今から家に帰りましょう」と言った。
頷いて女はホテルの部屋を見渡し、「誰もいなかっただろう?」と言って怯えた顔をした。
男は頭を擡げて女の寝癖を撫で付けると部屋を出る準備をして女と部屋を出た。
ホテルから少し離れたタクシー乗り場のベンチに女と座り、女は男の胸で眠っている。
少しの間そうして座っているとタクシーが目のまえに止まって男は女を抱きかかえて車に乗った。
向かいたい場所へ対価さえ払うなら向ってくれる便利な乗り物だ。
でもその乗り物はわたしを降ろしたあと、どこへ向うのだろうか。
男は今夜も独りで車を降り、朦朧としながら目を開けた。
バルティモア駅に終電の電車が到着し、そしてわたしを一人駅に残して去って行った。
今夜も、そこへ向うことはできなかった。
男は盲者のように夜道を歩き、ベンチに座る。
タクシーを待って、それに乗って帰ることもできるが、ここでこうして眠っていれば、彼女は心配してわたしを見つけ、声をかけるかもしれない。
最近、この辺で事故に合った運転手の男は、確か植物状態のままだという。
その闇のなかで、どちらへ向うか決まれば、きっと抜けだすのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Mother Space

「それは疑いもなく固いもので、なんともいえない色艶をしていて、いい香りがする。それはおれじゃないあるものだ。おれとは別のもの、おれの外にあるものだ。しかし、おれがそれに触れる。つまり指を伸ばしてつかんだとする。するとその時、何かが変化するんだ、そうだろう?パンはおれの外にあるのに、おれはこの指で触り、それを感じることができるんだ。おれの外にある世界も、そういう世界じゃないかと思うんだ。おれがそれに触れたり、それを感じたりできるのなら、それはもうおれとは違った、別のものだとは言えないはずだ。そうだろう?」

 

コルタサル短篇集「追い求める男」131,132P 》

 

 

 

 

自分の人生を、まるで映画のように好きに編集できたなら良いと想う人は、どれほど多いだろう。
ウェイターの男は今夜も、自分の過去の人生を想い返し、ひとつひとつ、後悔していた。
”あのときのあの言葉が、あのときのあの行為が、あのときのあの仕種が、あのときのあの想いが、彼女からわたしへの愛を去らせた”
彼女からわたしへの愛を、奪い去ったのではないか。
外は雨が降っている。雨の音を聴くと、彼女と一緒に聴いた日を想いだす。
雨に触れた道路を車が走る音を聴くと、彼女とドライヴへ出掛けた日のことを想いだす。
夜空を見上げれば、そこに瞬く星ひとつない。
それでも何度と、彼女とわたしは夜の空を見上げ、言葉なく涙を流す彼女の脣に、わたしは脣付けをする。
彼女は、「なぜここにいるのかわからない」と言う。
わたしは自分に言聞かせる。「わたしは彼女の孤独を愛したわけではない」
あの男のように。
彼女はいま、わたしの外にはいない。

「Cut!」と声が掛かり、彼女はほっとした表情で微笑みわたしに握手して着替えをするため衣装室へ向った。
わたしはCafeを淹れてソファに座り、飲みながら彼女を待つ。
衣装室からでてきた彼女はわたしの隣に座りわたしを抱き締め、耳元で言う。
「ぼくはきみの孤独を愛したわけではないよ」
彼女はいま、わたしの外以外にはいない。

バルティモアの夜、彼女はわたしに求めたわけではなかった。
彼女からわたしに求めたことはなにひとつなかった。
彼女は自分の内側にいるわたししか、愛したことはなかった。
なにひとつ、彼女はわたしを求めなかった。

「Cut!」と声が掛かり、わたしは着替えて車で彼女を迎えに行く。
今夜は二人が出逢った日の記念日であることを彼女は忘れていた。
だからこの日、わたしに別れの言葉を言ったに違いない。
彼女は家には居なかった。待ち合わせの時間まであと一時間半もある。
一体どこに行ったのだろう。わたしはちいさな箱を開けて今日彼女の指と、わたしの指にはめようと想っていた指輪を眺め、この二つのちいさな輪を繋げるにはどうしたら良いのだろう。この二つの輪が繋がっていないため、彼女はこれからわたしに別れを告げるのだと想った。
でもこの二つの輪を用意したのは、わたしだった。
どうすれば戻れるだろう。彼女をわたしに縛るために用意したこの分かれた二つの輪によって、わたしたちは別々の人間であったことを証明される前に。

「Cut!」と声が掛かり、わたしは彼女を待っている。
このCafeには、秘密の部屋が在る。
「Bedroom」と書かれたドアの向こうで、数えきれない男女が密会を行い、そして別れてきた。
約2m四方の部屋で彼らが囁きあった愛の言葉は全て、酷く有り触れた詰らないものだったため、この部屋の空間ごと、カットせざるを得なかった。
だからこの部屋は本当はどこにも存在しない。
愛の空間だけが実はこの世界のどこにも、存在できない。
彼女は店を閉めた後のこの部屋に、何度とわたしを誘った。
そして彼女のチューリップのなかにわたしが入ることを望んだ。
アンティークの3人掛けのチェスターフィールドソファの赤みを帯びた本皮は、謂わば残り続けている死体の一部と言える。
彼女は何度もわたしに言った。
「このソファで抱き合う恋人たちは死の一部と為っているんだ」
「死んではいないとは言えない行為を遣っているんだよ」
「Cut!」と声が掛かり、彼女はわたしの死の一部と為った。
彼女の死は、わたしの一部と為った。
わたしたちは生を、死に売って来たのではなかったか。
存在しないすべてに、存在するすべてを売り払って、わたしたちは存在すると想い込んで来た。
わたしたちは死として、存在すると。
彼女の赤みを帯びたチューリップの中が完全の死を以てわたしを誘い、わたしでないなにかを産み落とそうとしていたことに、わたしは気付いていなかったわけではなかった。
わたしは恐れなかった。
いや、恐れていた。
わたしと彼女はもはや別々のものではなかった為、わたしは安心と恐怖を、本当に同じだけ感じていた。
しかしわたしに最初に触れたのはわたしでなく、彼女だった。
触れるまでわたしには、恐怖とそれに触れることの渇きしかなかった。
無内容の聖域、愛を虚像として創りあげたなら彼女という女性になっただけのことであり、それ以外に、わたしは彼女のなにを観ていただろう。
彼女のなにが、わたしを見ていたのだろう。
彼女は巨大なこの空を包む女性器のような白い花弁のMother Space(マザースペース)であり、わたしはその蜜を吸いに飛んで行き、彼女の愛の蜜に絡まりながら窒息死してゆく存在に過ぎなかった。
わたしと彼女は性を以て、愛し合ったに過ぎない。
わたしは愛の虚像として、彼女を創り愛し慈しんだ。

「Cut!」と声が掛かり、わたしは振り返る。
そこには誰もいない。ただひとつの古い鏡が、わたしに疲れ切った顔で問い掛ける。
「彼女とおまえは、切り離されたため、おまえが苦しんでいるだろうか」

わたしは今夜も、わたしのなかにだけ存在する彼女を抱いて安心して眠り、恐怖に目覚めるのは、やはりそこに彼女がいないことを知るからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベンジャミンと先生 「羊飼い少年とオオカミ」

「みんなおはよう。ってもう終了時間まであまり時間はないが」

先生がしんどそうにそう言うと静かに席についているベンジャミンが真っ直ぐに先生を見つめて言った。

「先生、もしかして今日も、二日酔いですか?」

先生は恥ずかしがる素振りも見せずベンジャミンの透き通った眼差しを見つめ返し堂々と答えた。

「そうだ」

ベンジャミンは口角を上げてにやついたが何も言わなかった。

教室はしんと静まり返っている。

「なんだこの沈黙は」

先生がそう言うとベンジャミンが幼児のように笑って無邪気に訊ねた。

「先生、昨日は何を飲まれたんですか?」

「ベンジャミン、授業と関係のない話は放課後にしなさい」

先生がすかさずそう応えるとベンジャミンはまたいつものようにふてくされ、”屁を90日間我慢し続けたこの誇り”、私はこれからも、がんばるつもりです。とでも言いたげな表情で先生を無言で見つめ、先生はついその重圧に負け、本当のことを明かした。

「昨夜は、あれだよ、あれ、”イエガーマイスター”という実に56種類ものハーブが使われているアルコール度数は35度の濃い赤色をしたドイツ産のリキュールを水と氷で割って結構何倍も飲んでしまったんだ。しかも酒のあては焦げたさつまいもだ。何故焦がしたかというと先生はあのときすでにかなり酔っ払っていて先生のブログに読者登録をしてくれている方のブログにいちゃもんをつけるようなコメントを連投するのに必死で、鍋の水がなくなっていることに気付かず、さつまいもが焦げてしまったのだよ。なんだかすべてが悲しくて、そのコメントに今日返事が来ていたようだが、先生はまだ返す気になれない。お酒は本当に、恐ろしい。一体先生はこれからのこの気まずさをどうやって切り抜けたらいいんだ。イエガーマイスターは本当に先生は合わない。あれを飲むといつも悪い酔いをするんだよ。おまえたちも成人になったら気をつけるように」

ベンジャミンは笑いをこらえていますという風な顔を作って先生に問い質した。

「先生なんで悪い酔いをいつもするとわかってまたイエガーハウスマイスターを飲んだんですか?」

「ハウスは余計だ。おまえハウスマイスターというドイツの音楽家を知っているのか。ってそんな話は今関係ない。こんな話してたら授業時間が終るぞ。単純に他のお酒が切れて、何故か随分まえに酔っ払ってまたネット注文してしまったイエガーマイスターを仕方なく飲んだんだよ」

先生がそう言うとまた教室内がしんと静まった。

「だからなんなんだこの沈黙は」

ベンジャミンは目をぱちぱちさせて口をもごもごさせて言った。

「先生、今日の授業はなんですか?」

「今日は」先生はそう言うと、教卓に右の肘を付き、ふうと一息ついて続けた。

「今から本当におまえたちに大事な授業をしたいと先生は想っている。先生は今日、起きたときからずっとベッドの上にいたんだが、先生はずっと考えていたんだよ」

「何を考えていたんですか?」

「ベンジャミン、おまえもきっと知っているだろう”オオカミ少年”というイソップ寓話の話についてだ。先生はこの話の教訓は、本当のところ、一体なんなんだとここに来るまでずっと考えていた。が、答えはまだ、そう簡単に出せるものではない。それほどこの話とは面白いと先生は感じたんだよ。この物語について、みんなと一緒に先生は答えを探して行きたいんだよ。丁度この話が教科書にも載っているから、誰か朗読したい人間、ベンジャミンが一番手を上げるのが早かったな、それじゃベンジャミン、このオオカミ少年という物語を、今から、朗読しなさい」

「はい!」

ベンジャミンは椅子から静かに立ち上がると口をひょっとこのように尖らせ、目を細くし、眼鏡を右中指でくっと持ち上げると厳かな口調でゆっくりと朗読し始めた。

 

オオカミ少年

(またの題名を、”嘘をつく子供”、”オオカミと羊飼い”、”羊飼い少年とオオカミ”

原題は”The Boy Who Cried Wolf”(オオカミと叫んだ少年))

 

昔、ある深い森のなかはいつも暗く、その山麓にもオオカミの群れがいました。

夏のあいだはオオカミたちは涼しい木々のなかで家族と共に暮らし子育てをしました。

しかし冬になると真っ白で冷たい雪に森は覆われオオカミたちは獲物が見つけることが困難になり、幾度か丘まで下りてきてそこにたくさんいる農家に飼われている羊たちを襲いました。

彼らを見つけるとき、いつも一匹ではなく何匹かで狩りをしているようでした。

この小さな村には、羊飼いが三人いました。

一人はオオカミを狩ることに命を懸けているWolf(ウォルフ)と呼ばれる男です。

ウォルフは外にいるときはいつでも猟銃を手放さず、オオカミを狩れないときは鹿や兎を狩ってその毛皮と肉を売り、なんとか生活している一匹狼の孤独な男でした。

ウォルフは人と群れることを嫌い、人と一緒に仕事をすることを嫌いましたが獲物が狩れないときは酷く貧しかったものですから若い頃、羊飼いの家の娘にある夜、大事の羊たちを護るためにオオカミを狩ってくれないかと頼まれました。

男は悩んだ挙句、それを一度断りました。

すると娘は、こう言いました。

「そうですか。それではぼくにも考えがあります。あなたはぼくの親が経営している酒場でいつもお酒をツケで飲んで、そのツケがだいぶと溜まっていますよね。本当に払ってくれるのでしょうか?払うなら、一体いつ払えますか?具体的な支払日を言ってください」

男は口籠り、娘の責めるような目から目を背け、俯いて答えました。

「いや…払うつもりは勿論あるとも。だが具体的に、いつ払えるというのは、今はちょっと…言うことはできない。すまない。でも近いうちに必ず払うから。そこは安心してくれ」

娘は男の手をそっと手に取ると、「明日」と言いました。

男は「ん?」と娘に向き直ると娘は咎めたてるような目で言いました。

「明日、明日必ず払ってください。お金がどうしても必要なのです。それが無理だと言うのなら、明日、あの暗い森のなかで羊たちを襲うオオカミたちを三匹、必ず殺してください。きっとそのオオカミたちは家族のオオカミでしょう。一匹は母オオカミ、一匹は父オオカミ、一匹はまだ幼い子オオカミです。その三匹を、ぼくの羊たちを護るために殺してください。その証拠をぼくが知るために明日、あの森のなかにぼくを連れてってください。いいですね」

男は深い溜め息をつき、誰もいない薄暗い路地裏で娘の手を優しく払い除けると首を横に振って言った。

「そうかい、あんたの言いたいことは良くわかったよ。これは脅迫だ。俺は今まとまった金がないんだ。俺はそのためにあんたの言い分を逆らうことが出来ない立場に立たされている。俺はどうしたって逃げられない。逃げてもあんたは俺を追い駆けてきっとこう言うんだろう。”金を払うか、オオカミの家族を殺すか、どっちかにしてくれ”と。もっとも、あんたの言ってることが間違ってると言ってない。しかしこれは脅迫だ。俺には逃げ場がない。俺はあんたに帰伏し、あんたの言うことを聴こうじゃないか。明日、あの森にあんたを連れて行って、あんたの目の前でオオカミの家族を撃ち殺して遣ろう。これで俺は助かるし、あんたも助かるんだ。その代わり、俺のツケはもう少し待ってくれ。これで手を打とうじゃないか」

 

その晩、男はなかなか寝付けなかった。

それにしてもあの娘の執念というものは恐ろしいな。今の暖かい季節に、オオカミが村まで下りてきて羊を襲うことは滅多にない。それなのにあの娘は、冬に殺された羊の家族の仇(あだ)を取るため、ああしてオオカミの家族を殺すまで苦しんでいるようだ。もし子供のオオカミを一匹でも逃すなら、その子供のオオカミはやがて親になり、子供にこう話すとでも想っているようだ。自分の親の仇(かたき)を討つため、あの村の羊たちを全員、今度襲いに行こう。

 

男はうとうととしながら夢とうつつの間のなかで夜の暗い森のなかにいた。

夜の真っ暗な森のなかでひとり、酒を飲んで朦朧としていた。

あまりに暗いので、男はランタンに火を点け、その火で煙草を吸った。

すると何やら、ぴちゃ、ぴちゃ、と水の音が聞えてきた。

渇ききったこの森の地面のどこに、そんな水があるのだろうと男は不思議に想って静かにその音に耳を傾け聴いていた。

男はランタンを手に持ち、立ち上がって水音の聴こえるほうを覗いた。

そこには小さな泉があり、そのなかであの娘が裸で入浴していた。

男はまるで夢でも見ているようだと想った。

何故こんな夜の森でひとり、あの娘は水に浸かっているのだろう。

いつも変わった娘だと想っていたが、在り得ないではないか。

いつ狼や熊に襲われるかわかったものじゃないこの森のなか。

いったいあの娘はなにを考えているのだろう。

男はじっと娘の入浴する姿を打ち眺め、腹の下に鈍痛を覚えた。

娘は泉から上がると灰色の衣を羽織、家へ帰ろうと辺りを見回した。

しかし戻る道がてんでわからず、膝を抱えてしくしく泣きだした。

男はじりじりと娘に近寄り、娘の小さな白い耳もとに荒い息をかけた。

娘は男に気付き顔を上げて男の手にそっと触れ、囁くように言った。

明日、必ずオオカミの家族を三匹、撃ち殺してくださいね。

そして最後はどうか、母オオカミを撃ってください。

あなたの、この猟銃で。

そう言うと娘は男の下腹部に触れ、硬くなって熱を帯びたそれを握り緊め、自分の腹の下に宛がい、微笑して言った。

「此処を、必ず撃って、殺してくださいね」

 

 

 

 

男は今夜も、いつもの酒場で酒を飲んでいた。

そして帰ると羊飼いの少年が、男の家のドアの前に座り、頭をドアに凭せ目を瞑って待っていた。

男は少年を起こし、引き摺るように部屋のなかに入れ、椅子に座らせた。

酔い潰れ、目は真っ赤に腫れている。

「いったい何があったんだ」

男は優しく少年に問い掛けた。

少年はうっすら目を開け、男の姿にほっとすると涙を止め処なく流し、震えながら言った。

「もしかしてまだ知らないのですか。昨夜、母さんが死にました」

男はその言葉を信じられず、忙然として訊き返した。

「昨夜って、一体いつのことだ」

少年は壁時計を見上げ、答えた。

「たった、日付の変わる3時間ほど前です」

男は時計を見詰め、息を呑んで黙っていた。

「オオカミに、殺されたんです」

男は少年の、そのそっくりな目を見詰め返し、何も言えなかった。

 

あの時まだ、少年は14歳ほどだった。

あれから三年もの月日が経った。

少年の母親を埋葬した、三ヵ月後だった。

「Wolf!(オオカミ!)Wolf!(オオカミ!)Wolf!(オオカミ!)」

と何度も、夜に叫び、男のドアを叩いて家に上がりこんでは喚き、「オオカミが丘に下りてきた。銃で撃ち殺してほしい」と、嘘の報告をするようになったのは。

男は少年を落ち着かせるため、いつもグラス一杯のハーブ酒を飲ませた。

その嘘の報告を少年はほぼ毎晩のように続け、三年が経ち、少年は今は17歳になった。

男は嘘だと解ってはいても銃を持ち、その都度あの森のなかで酔い潰れて眠っている少年を抱きかかえて連れて帰ってきた。

少年は次の朝、必ずけろっとした顔でこう言う。

「いったいいつまでぼくに嘘を突き通すつもりなんですか?ウォルフさん、あなたは」

男は毎朝、羊飼いの少年に言った。

「俺は嘘なんかついちゃいないよ」

「でも母さんはいつもあなたのことを話していました」

「それも嘘だ」

「母さんはいつもぼくに話していたんです。あなたとぼくと、三人で暮らせるならどんなにか幸せだろうと」

男は溜め息交りに言った。

「何度も言うがおまえの母親は、俺と暮らしたいなんて言ったことはないよ。おまえの母親と俺は、本当になにひとつ関係がなかった。ただおまえの祖父母の経営していた酒場の常連客で、そこの娘であるおまえの母親に俺は羊を護るようにと頼まれ、それを引き受け続けて来ただけなんだ」

「でもぼくは嘘をついていない。あなたが本当のことをぼくに言わないから、母さんはオオカミに殺されてしまったんだ」

「それも俺は信じちゃいない。おまえの母親は、酒とドラッグが身に祟って、死んでしまったんだ。オオカミに殺されたというのは、おまえだけの妄想だ」

「本当かしら」

と少年はぼんやりと中空を見て静かに言うと立ち上がり、壁に立てて置いていた猟銃を手に持って言った。

「銃の撃ち方をぼくに教えてください。もう十七歳になったんです。良いでしょう?」

男は素早くその銃を少年から奪うと鍵つきの箱の中に入れて鍵を閉め、振り返らずに言った。

「おまえにいま銃を渡したら、何をしでかすか心配でならないんだよ。おまえがオオカミを撃つとしても、しっかりと急所を狙えるようになるまでには何年と掛かる。でもおまえは今すぐにでもオオカミを殺したがっているじゃないか。そんな人間には渡すことは出来ないし、教えることも出来ない」

少年は後ろから、男の背に近寄ると手のひらの上にあるものを男の前に差し出して言った。

「ぼくが殺したいのはオオカミじゃありませんよ。ぼくが殺したいのは、あなたと離れることができるものたち、子羊たちです」

男は少年の手のひらの上に乗った十字架のペンダントを見つめ、その十字架があの夜、少年の母親が欲しいと言ったので自分の首に掛かった十字架を少年の母親の胸に付けてやったことを想いだした。

あの夜、少年の母親は男に最後の言葉を言った。

「ぼくは今まで大切な子羊たちを護るのに必死だったけど、ぼくが本当に護りたかったのは子羊たちでもなければぼくでもなく、きみでもない、ぼくの今、このぼくのなかに存在しているひとつの存在であったんだ。ぼくはあの夜、森のなかできみに撃たれて死んだ母オオカミを抱いて心底想ったんだ。もう本当に戻れないって。戻れない場所までやっと来ただろう。ぼくに必要だったこの場所は、オオカミの森だ。ぼくの子羊たちをすべて食べて、そして飢えるオオカミの森で、きっとぼくも死ぬのだろう。さようなら、ぼくのオオカミさん

 

「生きているのが本当に嬉しいのに、ぼくはどうしてこんな風なんだろう」

少年はまるで独り言を言うように話し、その十字架のペンダントを、思い切り力を要れてぱきっと二つに折ると片方のチェーンのついたほうを男の首に掛け、もう片方を持って部屋を出て行った。

男は割れて不完全な十字架を眺め、少年の母親を、あの娘が戻ってくるならと想い、自分の銃を慰んで森へ行った。

 

在る夜、少年はいつものように「Wolf! Wolf! Wolf!」と叫び男と共に森のなかへ入った。

そして一匹の、まだ若いオオカミを撃った。

男が近づくと、若いオオカミは哀れにも既に息絶えていた。

その側には少年の持っていたあの十字架の片方が落ちていた。

 

男はその夜を最後に、少年には会っていない。

一体何処へ行ってしまったかもわからないが、少年と会えなくなっても、男の耳には毎夜、少年の叫ぶ声が谺(こだま)するかのように聴こえて来る。

村の者は皆、消えてしまった少年のことを嘘をついてばかりの「オオカミ少年」と呼んだが、少年はただ自分の名を叫んでいたに過ぎない、そして本当のことを言えなかったのは、自分のほうであると、男は毎晩のように夢とうつつのなかであの娘の子宮に銃を突きつけ、娘(母親)も少年も一緒くたに愛そうとするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

先生が目をうっすら開けると、教室には誰もいなかった。

たったひとり、自分の膝を枕代わりにして眠っているベンジャミンひとりを除いては。

先生はベンジャミンの望む答えが、本当に懐かしいと感じて一体何処へ、戻りたがっているのかと一つのその場所を、信じようとした。