ѦとСноw Wхите 第11話 〈Snow White〉

Ѧ(ユス、ぼく)は目が覚めて、ベッドの中でСноw Wхите(スノーホワイト)を見送ったときのことを想いだしていた。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

Ѧは毎朝、そうやってお父さんが仕事に行くときに見送っていた。

お父さんはマンションの階段の踊り場の小さなくり抜かれた窓から顔をいつも出して手を振り、Ѧがまた手を振り返す。

でも怒ったまま仕事に行ったときはお父さんはその小さな窓から顔を出してはくれなかった。

Ѧはそれを想いだした。

お父さんが死んでから、もうずっとずっと想いださなかったことだった。

なぜ想いださなかったんだろう?

Ѧはすこし泣いて、悲しみのなかで目を閉じた。

 

Ѧは目を開けた。

目の前に、Сноw Wхитеが横になって優しい眼差しでじっとѦを見つめていた。

Ѧ「Сноw Wхите!」

ѦはСноw Wхитеに抱きついた。

Ѧ「いつ、いつ、帰ったの?!」

Ѧは目から涙が溢れた。

Сноw WхитеもѦを強く抱きしめ返して言った。

Сноw Wхите「さっきです。さっきわたしは、ここでѦの寝顔を見つめていることに気がついたのです」

Ѧは身体を引きはがして毛布を払いのけてはСноw Wхитеの身体中をくまなく見た。

Ѧ「どこも…どこも欠けてないよね…?元のСноw Wхитеだよね?!」

Сноw Wхите「確かめるためにわたしを裸ん坊にしますか?Ѧ」

Ѧは顔を赤らめた。

それを見てСноw Wхитеは微笑むとѦを抱きしめ、頬にキスをした。

Сноw Wхите「わたしのなにが欠けていたらѦは嫌ですか?」

Ѧ「それは…全部、元のСноw Wхитеの全部が揃っていないとそりゃ嫌だよ」

Сноw Wхите「わたしのどこかは違いますか?」

Ѧ「ううん…Сноw Wхитеだよ!間違いなく…」

Сноw Wхитеは笑うと言った。

Сноw Wхите「タルパ!」

Ѧは咄嗟のその言葉にぷっと吹きだした。

Ѧ「Сноw Wхите、急にどうしたの?!」

Сноw Wхите「ぼく、タルパ!」

Ѧはまた笑った。

Ѧ「タルパって、あのチベット密教の思念を顕現させた化身であるタルパのこと?」

Сноw Wхите「そうです。トゥルパとも言います」

Ѧ「どうしてそんなことを突然言いだしたの?それに、Сноw Wхитеはタルパじゃないよ」

Сноw Wхите「Ѧが最近、わたしのいない間にふと想いついたことがおかしくてならなかったのです」

Ѧ「それって、もしかしてあのことかな…」

Сноw Wхите「そうです。タルパは人型のものを作って、それに念を懸けつづけるとより顕現しやすくなるという話をѦがふと想いだして、等身大の人型の人形を作り、そこにわたしの顔を描いて、ベッドに寝かせていたなら…」

Ѧ「”でもパッてベッド見て、人間おったら怖いしな”ってѦ想って自分でも吹きだしたんだ」

ѦとСноw Wхитеは一緒に笑った。

Сноw Wхите「わたしもそれがおかしくてならなかったのです」

Ѧ「でもそれ、いつ知ったの?Сноw Wхитеが死の底へ降りているときのことだよ」

Сноw Wхите「ついさっきです、わたしがタルパ!と言いだす前のその1秒前くらいにѦのわたしがいない間に起こったすべてを読みとったのです」

Ѧ「すごいやСноw Wхите…」

Сноw Wхите「これが霊力というものです。Ѧも夢の中ではいつも使っている能力です」

Ѧ「そういや、こないだѦが意味の解らない寝言を発して、しかも声がものすごく低い男の声で、自分の寝言に吃驚して起きたんだ。Ѧはいったい誰になっていたんだろう」

Сноw Wхите「”И Лове Ѧ Форевер””わたしは永遠にѦを愛している”とスラヴ祖語で言ったのです。わたしの寝言とѦの寝言が繋がってしまったようです。わたしの声をѦの声帯を通してѦのエネルギーの振動で変換しているため、ごろごろとして低い声になったのです」

Ѧ「なんだ、そうだったのか。ѦはSilver Birch(シルバーバーチ)でも乗り移ったのだろうかと吃驚したよ」

Сноw Wхите「確かに似た声でした。それはそうとѦ…」

Ѧ「なに?」

Сноw Wхите「Ѧ、ほんとうに、ありがとう」

ѦはСноw Wхитеを抱きしめて言った。

Ѧ「よかった…戻ってこれて、ほんとうによかった…」

Сноw Wхите「Ѧがわたしが戻るようにと切に、Ѧの真心で心の底から願いつづけ、信じつづけたからです。Ѧが諦めていたなら、今わたしはここにいないでしょう。Ѧ、これを…」

そう言うとСноw Wхитеはもぞもぞとして何かを取りだしてѦの手のなかに渡した。

Ѧ「鍵だ!」

Ѧが渡された鍵を見てみると、それは”Ѧ”という文字の形をした鍵だった。

Ѧ「拾ってきてくれたんだね…ありがとう、Сноw Wхите。あっそうだ、Ѧもなくさず持っていたよ」

Ѧはそう言うとパジャマのズボンのポッケにいつも入れておいたСноw Wхитеから渡されたСноw Wхитеの喜びの雪の結晶の形をした鍵をСноw Wхитеの手のなかに渡した。

Сноw Wхитеはその鍵を見ると涙を流した。

Ѧは不安になって言った。

Ѧ「それ、Сноw Wхитеの喜びの鍵だよね…?」

Сноw Wхитеは頷いて応えた。

Сноw Wхите「わたしの喜びのすべてです。Ѧにまた会えた事で、わたしの喜びのすべてが舞い戻ってきたのです。あんまり嬉しいと、涙がでます」

Ѧも涙を流して言った。

Ѧ「Ѧはあのあと、とっても苦しかったけれど、つよく、つよくСноw Wхитеとまた会えることを願って、願いつづけてたら、Сноw Wхитеとまた必ず会えるんだってほんとうに信じられてきて、その喜びを感じて過ごせることを知ったんだ。でもどうしてだろう?Ѧはあの時、すべての喜びの鍵を死の底へ落としたはずなのに」

Сноw Wхите「この鍵は、ただの象徴だからです。Ѧ。例えばひとりの抽象画家が、すべての喜びをこの目の前の一枚の絵のなかに封じこめたと描き終わった瞬間には信じられたとしても、その次の瞬間にはもう別の喜びが自分のうちに存在していることを知っては次にもまた絵が描ける喜びに歓喜するはずです。わたしはその喜びをѦに知ってもらうためにもわたしがみずから死の深淵へと下りていく必要があったのです。Ѧはけっして喜びを失うことはありません。それはѦがわたしを信じつづけ、そのわたしはѦを信じつづけるからです」

 Ѧ「Сноw Wхитеは、死の深淵のなかにずっといて、苦しかった?」

Сноw Wхите「苦しくなかったと言えば嘘になります。ただそこは苦しみを苦しみとしてすら味わえないほどのなにもない世界だったのです。苦しみを、苦しみとして意識できないなかにも、苦しみが確かに存在していることを証明する世界です。死の底の世界とは、本当の無ではなく、無を装った認識できない苦しみと孤独が延々と在りつづける世界だということです。生命の根源にある苦しみと孤独がそこにすべて集まっています。だから言いようのない苦しみと孤独であることは確かです」

Ѧ「意識のまったくない、安らかな眠りの世界とは違う世界なんだね」

Сноw Wхите「それはまったく違う世界と言えます。生命は一度生まれたら、もう二度と無へは戻れないことを現存させている世界です」

Ѧ「Сноw Wхите」

Сноw Wхите「なんですか?Ѧ」

Ѧ「Сноw Wхитеはタルパじゃないよ。だって、Сноw WхитеはѦが生んだけれども、ѦはСноw Wхитеが生んだのだもの」

Сноw Wхите「はい。Ѧがわたしを創造し、わたしはѦを創造しました。ではタルパとは、どのようなものですか?」

Ѧ「タルパって、Ѧはちょっと、Undead(アンデッド、死んでも生きてもいない者)だと想う。でもСноw Wхитеは、生きている。確かに、生きているんだ。Ѧとおなじに」

Сноw Wхите「はい。わたしは生きています。それはѦが生きているからです。ѦがUndeadであるならば、わたしもUndeadです」

Ѧ「Ѧは生きているよ。でもѦは…生きてるし死んでるのかな」

Сноw Wхите「何故そう想うのですか?」

Ѧ「だってѦは、Сноw Wхитеが生んだ者だもの」

Сноw Wхите「わたしは何者ですか?」

Ѧ「Сноw Wхитеは、”死”だよ」

Сноw Wхите「わたしは死神です。死神は死であるため、死を生みだす必要はありません」

Ѧ「でもその死を生みだしたのはѦだよ」

Сноw Wхите「そうです。死は死を生みません。Ѧは死ではなく、生です」

Ѧ「あ…あそうか、Ѧが死だと、Сноw Wхитеは生になるって、あれ…?でもСноw Wхитеは生きているじゃないか」

Сноw Wхите「わたしは死であり、生です」

Ѧ「Ѧは?」

Сноw Wхите「Ѧは生そのものです。Ѧは光だからです」

Ѧ「Сноw Wхитеは闇だよね?」

Сноw Wхите「はい。わたしは闇です。闇は光を生み、光は闇を生みました」

Ѧ「だったらさ、やっぱりѦも闇であり、光。死であり、生だよ」

Сноw Wхите「Ѧの存在自体は生きて死んでいるわけではありません。Ѧのなかにわたしがいるのです。Ѧのうちがわに死と生が在るということです。そして死と生のうちがわにѦがいるのです」

Ѧ「けっこう今日は…いつもよりややこしいな…Сноw Wхите」

Сноw Wхите「わたしもどう説明したらよいかと考えあぐねています」

Ѧ「ѦがUndeadなら、Сноw Wхитеはどうする?」

Сноw Wхите「わたしもUndeadになります。そしてѦを…こうします」

そう言うとСноw WхитеはѦにキスをして子供のように無邪気な顔で「タルパ!」と言った。

ѦとСноw Wхитеはまた一緒に笑いあった。

 

Ѧ「よし、今日はѦが朝食を作るよ。そないだにさ…ちょっと待ってて」

Ѧがそう言ってベッドから離れるとСноw Wхитеはベッドに座ってѦの後姿に向かって小さな声で言った。

Сноw Wхите「Ѧ。わたしだけを、愛してください」

Ѧが振り返って「ん?なんてったの?」と訊いた。

Сноw Wхитеはさびしそうな顔で「なんでもありません」と言った。

Ѧがノートを持ってきてベッドに座るとСноw Wхитеの顔を覗き込んだ。

Ѧ「どうかしたの?」

Сноw Wхите「わたしは知っています。Ѧが何日もずっとこれを書いていたことを」

Ѧ「あっ、読みとっちゃった?中身」

Сноw Wхите「ほんのすこしだけです」

Ѧ「これ、Сноw Wхитеに読んでもらおうと想って」

Ѧはノートの表紙をСноw Wхитеに見せた。

ノートの表紙には「Snow White」と書いてあった。

Сноw Wхите「わたしが主人公のお話をѦはずっと書いていたのです」

Ѧ「そうだよ。グリム童話の白雪姫をѦが脚色した物語だよ」

Сноw Wхитеはつと黙りこむとまた涙をほろほろと零した。

Ѧは今日こんなにСноw Wхитеが泣くのは、やっぱり死の底があんまりつらかったからだと想った。

Ѧ「Сноw Wхите、この脚本はとても大まかにしか書いていないんだ。できたならこの脚本をもとに、ѦとСноw Wхитеのふたりだけで、即興で演じる舞台をやりたいんだ。それじゃѦは今から朝食を作ってくるね」

そう言ってѦはСноw Wхитеの頬につたう涙を両手でぬぐってキスをするとキッチンに向かった。

Сноw Wхитеは「Мум(マム)」と呟いてノートを抱きしめるとノートを開いて読み始めた。

 

 

 

 

 

 

 

Ѧ「Сноw Wхитеの役はSnow White、魔法の鏡、家来の男、そして語りべの役だよ。Ѧの役は王女、猟師、七人のこびと、七人のこびとの役はѦが分身の術で演じるのかとゆうとそうではなくって、ディズニーのSnow White and the Seven Dwarfs(白雪姫と七人のこびと)の七人のこびとのそれぞれの名前が、

・DOC(ドック:先生)
GRUMPY(グランピー:おこりんぼ)
・HAPPY(ハッピー:ごきげん)
・SLEEPY(スリーピー:ねぼすけ)
・BASHFUL(バッシュフル:てれすけ)
・SNEEZY(スニージー:くしゃみ)
・DOPEY(ドーピー:おとぼけ)

っていうみたいだから、それからとって、七つの人格を持つこびとにしようとѦは想ったんだ」

Сноw Wхите「想像するだけで顔がほころんでしまいそうな愉快なこびとさんです」

Ѧ「あくまで主人公はSnow Whiteだから、Ѧがでしゃばらないように気をつけたいところだよ。それじゃ準備はいいかい?Сноw Wхите」

Сноw Wхите「OKです。Ѧ」

Ѧ「よし、では一緒に幕を開けよう」

Сноw Wхите「はい。とってもドキドキします」

 

 

 

 

 

 

真っ暗な闇のような幕が開かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                             「Snow White」

 

 

 

 

ずいぶんまえのことです。

せかいはふゆのさなかにありました。

白い羽毛のような雪が天からひらひらとまいおりていたとき、窓辺で縫いものをしながら王女は雪に見惚れ、その指を針で突き刺すと、みっつの紅い滴が漆黒の闇のような窓枠のそばの積もった雪のなかにおちた。

それはそれは美しく、王女はつくづく願った。

「わたしはどうしてもこのような子が欲しい」

 

そうした幾時かのち、天は王女にひとりの子を授けたもうた。

その肌は白い雪、その頬は紅い血、その目はまるであの窓枠の黒檀のように深い闇の色をして光っていた。

王女は子に「Snow White(スノーホワイト)」と名づけた。

Snow Whiteは美しく愛らしい朗らかな坊やであった。

こうしてわずか十五の年で王女は王太子を賜ったことを、それはそれは喜び、朝と晩にかならず天に向かって感謝の祈りを捧げました。

 

王女は四つの年に王の婚約者となられた。

何故なら、その年に王の后(きさき)が病の末にお亡くなりになられたからである。

王女は王の娘であられた。

王が三十九歳、后が四十歳のときに生まれた娘である。

后は遺言にこう書き残して亡くなられた。

 

「わたしが死んだあとに、わたしが愛する者以外を王の妃にしてはなりません。

まさしく、わたしの愛する者、わたしの娘だけが真の王の妃として継ぐに望ましい。

わたしの美しさを受け継ぐ妃がほかにどこにいようか。

そしてわたしの魔法の鏡をわたしの娘以外の誰にも渡してはなりません。

わたしの魔法を受け継ぐことができるのもまた、わたしの娘だけだからです。

わたしの言葉をかならずや護ってください。

そうすればこの国は滅びることなく幾千年と時を経ても美しき栄光のもとに天から讃えられつづけるであろう。」

 

王は后を心から愛しておられたので、その願いを成就させるためにも我が娘を将来の后として契約なされた。

こうして王女は十三の年の日に、めでたく王妃となられた。

そしてその年に、王は王女に母の形見である魔法の鏡を与えた。

その大きな壁に掛かった鏡はとても不思議な鏡で、吸いこまれそうな漆黒の闇をしか映さない鏡であった。

王女は使い道がわからず、またその闇の濃さは恐ろしさを感じさせるものでもあったので、いつも紅い被(おお)いで見えなくしていた。

 

王は、王女が幼い時分から一日の半日以上もお城にはいなかったから、王女はいつもさびしさを懐(いだ)いていた。

お母様もお父様もいないお城の中でひとり絵を何時間と描いては遊んだり、家来の読む紙芝居を観たりしていた。

いつも暗くなってから王が外から帰ってくると、王女はまっさきに甘えたかったのだが、王は厳しい人であったのでなかなか甘えることも難しく、王女のさびしさは日に日に積もるばかりであった。

それは王と結婚したのちも同じでありました。

否、むしろ王の王女に対する厳しさはどんどんと深くなっているように思えるのでした。

そうなっては王女の孤独はますます深刻なものとなり、そんなある日、王女は子を産んで、子をみずからの慰みにすることを本気で願ったのでありました。

まだ十四の年の王女が願ったのは、父の子を産みたいといった定(さだ)かな願いではなく、なんでも従順に聞いて自分を愛し、懐いてきてくれる愛らしく美しい仔猫を欲しがるのとそう変わりはなかったかもしれません。

そうして王女はどうしたら子が生まれるのかを十の年のころにお城の外で粉屋の娘に聞かされて知っておりましたので、その報(しら)せに感謝し、ある晩、王女は王に身体によい薬酒だと言っては葡萄酒をたらふく飲ませた。

眠ってしまった王とたいそう強引に交わり、激痛で気絶しそうな苦しみのなか王女は必死に耐えて、王が眠りから醒めないことを切に祈った。王女はこのことを王に話してしまえば、きっと父は悲憤慷慨(こうがい)の魔王と化してわたしを恐ろしく罰するにちがいない、それに父と娘という禁断の交わりを持ってしまったことの背徳の苦しみから、王に打ち明けることはどうしてもできそうにないと思った王女は子を宿したときも、子を産みおとしたときも黙っておりました。

王は娘が子を身篭ったと知ったとき、嫉妬などという素振りは見せず、却(かえ)って王女の懐妊を喜んでいるようにさえ王女には見えた。

王が自分の妊娠についてしつこく訊いてはこないことに王女はさびしさをまた募らせるのだった。

お父様はわたしが誰の子を宿そうと関心がないのかしら。そう王女は想ってはひとりでしくしくと枕をぬらす日が続いた。

 

 そうしていちねんが経ったころ、王女はふと、昔のアルバムを開いて見ておりました。

王女はお母様の記憶を持っていませんでしたから、お母様のお写真を眺めながら思ったのです。

嗚呼なんてお母様はお美しいのだろう。それにくらべて私の肌はそばかすだらけでおでこも狭いし生え際の形も悪いし、猫背で痩せ細った少年のような体形をしている。

お父様がほかの女性と遊ばれるのはわたしの容姿が美しくないからなのだろうか。

 王女は悲しみのあまり涙をぽとぽととアルバムの上に落としました。

 すると突然、どこからともなく、声が聴こえました。

低く、落ち着いたとても優しい声でした。

王女は吃驚して耳を澄ませました。

「王女さま、王女さま、わたしの愛する王女さま」

その声はどうやら魔法の鏡のほうから聴こえてくるようです。

「王女よ、わたしの王女よ」

王女は魔法の鏡に被せていた紅い被いをめくるとその鏡のなかを覗きこみました。

どんなに覗いても漆黒の闇しか映っていません。

「王女さま、わたしがお答えいたしましょう」

王女はその闇を見つづけていると朦朧とする気分になって鏡のなかに向かって尋ねました。

「わたしはいつあなたに尋ねたのでしょう」

すると鏡はこう応えました。

「王女よ、あなたの悩みを、わたしは聞いたのです」

王女はこの不思議な鏡にもっと顔を近づけるとこう尋ねた。

「鏡よ、それはどのような悩みなのでしょう」

「あなたはわたしにこう尋ねました。せかいでいちばん美しいものはだれか、と」

王女はそれを聞くとうつむき、また静かに涙を流した。

鏡はそれでも言葉をつづけた。

「わたしがお答えいたしましょう。王女さま、せかいでいちばん美しい存在は、あなたである。あなたはだれより美しい」

それを聞いて王女は泣きながら卑屈に笑った。

「おまえはいったいどういった色眼鏡でわたしを見ているのだろう。いったいわたしのどこを取って美しいと言えるだろうか」

すると鏡はつづけて応えた。

「お答えいたします。王女さま。色眼鏡で世界をご覧になられているのは、わたしではなく、王女さまのほうでございます。王女さま、ではお答えください。あなたにとっての美しさとは、それはいつしか滅びゆくものなのでしょうか」

滅びゆくもの……王女は滅びゆくすべてを心の中でイメージした。肉体は滅びゆくものである。肉体の価値とは如何ほどのものなのか。肉体の美しさを最も高い価値として置く者も多いかもしれないが、人間の肉体の美しさとはよく考えてみれば、薄皮一枚で装われた美しさである。その薄皮を一枚めくるだけですべてがおぞましい姿と化してしまうだろう。お母様はあんなにお美しかったのに、今はもうその美しさは写真の中にしかない。美しい写真を眺めて美しいと感じても悲しいばかりだ。お母様の美しさは滅んでしまったのだろうか。だから喜びよりも悲しみがあるばかりなのだろうか。それとも滅びゆくのは、わたしのこの悲しみだろうか。嗚呼、ほんとうの美しさとはなにか。いったいなにが滅ばない美しさと言えるだろうか。

王女は母親の美しさはほんとうはどこにあるのかを探した。

そしてとうとう確信に至った。

悲しみは美しい……。嗚呼お母様はほんとうに悲しい人だった。愛する幼いわたしを置いて死ななくてはならなかったのだから……!お母様の悲しみは、滅んでしまうものなのだろうか……?その、美しさは……いつ滅ぶというのだろう。わたしは滅ぼさせたくはない。けっして、けっして滅ぼすわけにはいかない。それがほんとうの、美しいものなのだから……。

王女はそう強く信じた瞬間、鏡が言葉を放った。

「王女さま、あなたは本当に美しいものがなにであるかをご存知です。そしてそれは滅びないものであると信じるあなたの心の強さが証明しています。わたしはそれがゆえに、あなたにお答えいたします。あなたはほんとうに美しい。それはあなたがだれより、悲しいからです。それがためにわたしはあなたを心から愛しております」

王女は恍惚な感覚に満たされ、まるでお父様とお母様の胸に抱かれているような幸せな心地になった。

それに、お母様の形見であるこの鏡の言葉は、まるでお母様の言葉のようにも想えたからである。

王女は鏡に向かって「ありがとう」と告げるとその時初めて隣の部屋で泣いているSnow Whiteの声が聞こえてきて慌ててSnow Whiteのもとへと走った。

 

美しく愛くるしいSnow White。しかしこの美しさもいつかは滅びゆくもの。王女はSnow Whiteを抱っこしながらあやすとSnow Whiteは真っ赤な顔を落ち着かせて頬だけを紅く染めるとさっきまでの泣き顔はどこへやら、「たははははっ」と王女に向かって笑うのだった。

つられて王女も「うふふふふっ」と笑いながら我が子を見つめ、なんて可愛いのだろうと想ってはSnow Whiteをぎゅうっと抱きしめた。

Snow Whiteが一歳、王女は十六の年のことであった。

 

Snow Whiteはこの国の王を受け継ぐ大事な王太子であったものの、王はSnow Whiteに対して情を移すことも接することもなるべく避けておられるようであった。

それはどこの馬の骨かもわからぬ男の血を受け継いだ子供であることと、やはりこの国の王を受け継ぐのは自分の血を受け継いだ子であってほしいという切迫した願いゆえであったかもしれない。

だからといって、自分の娘に自分の子を産ませることも、はたまたほかの女に産ませるのも愛する亡き妻のことを想うと心が引け、王の懊悩は日毎夜毎膨れあがってはその心を大層苦しめた。

それがために、Snow Whiteはほとんど父とは会わずに、父を知らずに育った。

かくして、Snow Whiteはいつまで経っても母親だけに愛着と執着のうちに固着し、互いに支配し合うことを願いつづけ、母親だけに絶対的価値を置く乳離れのできない劇切(げきせつ)なMother Complex(マザーコンプレックス)をいだいて生きていくようになってしまった。

 

 

Snow White「Мум(マム)、ママ、おかーしゃま(お母さま)、おーちょしゃま(王女さま)、まだー(Mother、マザー)、ママン、マミー、マーマ」

Snow Whiteは二歳になり、王女は十七の年となった冬の寒い日。

王女はあたらしい趣味を見つけ、暖炉のそばでうんうん唸りながら小説を書いていた。

そこにペルシャ絨毯の上でごろごろと仔猫か仔犬のように寝っころがっては甘えてくるSnow Whiteに気が散って、なかなか先へ筆がすすまない。

王女「嗚呼っ、せっかく思いついたと思った瞬間に忘れてしまった。坊や、ちょっとは静かにしてくれなきゃママは一向に小説の続きが書けないじゃないか」

怒られたと想ったSnow Whiteは途端、もうぐすぐすと鼻をすって泣きべそをかきだした。

「はぁ…」泣かれたら余計に小説が書けないと王女は溜め息をつくとSnow Whiteを抱っこして膝上に載せてやった。

抱っこしてやった途端、Snow Whiteはそのくりくりとした黒い目をきらきらと光る水面のごとく煌めかせじっと見つめてくるのだった。

Snow White「ママ、おっぱい」

王女「おっぱいがどうしたんだい、坊や」

Snow White「おっぱい、ぼく、マンマ」

乳離れは早くて2歳ほどで、世界平均は4歳と2ヶ月だという。Snow Whiteは2歳になったばかり。

王女はもうお乳が張って痛むことはないし、小説に専念するためにもSnow Whiteには早く乳離れをしてもらいたかったのでSnow Whiteのその切実な頼みを聞かないことに決めた。

王女は、代わりにテーブルの上に置いてあった甘いミルクの飴をSnow Whiteのちいさなお手てのなかに渡した。

王女「おまえはまた、そんな不屈な顔を浮かべているけれど、その飴はママのお乳なんかより数億千万倍も美味しい飴なんだよ。いいから舐めてご覧」

しかしSnow Whiteは王女が言い終わった瞬間、その飴を「きちゃないっ」と言ってぶんっと暖炉の中へと投げつけた。(この「きちゃない」という言葉は王女が無意識に良く使ってしまう気に入らないものに対して使っている「汚い」という言葉の口真似であった)

そして苦虫を潰したような顔をして床を両手両足でもがき苦しむ蟹のような動作で叩きつけ始めた。

王女は試しに10分ほどその様子を黙って眺めていたが、10分経っても一向にその動きは鈍さを覚えることを知らぬかのようにスピーディーに動きつづけていた。

王女は大きく溜め息をついて黙って部屋を出て閑処(かんじょ、手洗場)へ向かい、戻ってくると憐れなSnow Whiteは一人でドアを開けられずに、ドアの傍にいた為に、王女がドアを開けたときに頭をぶつけて思いきり泣きだした。

王女はSnow Whiteを抱きあげて炊事場へ向かうとそこでミルクを温め、温まったのを哺乳瓶に入れてSnow Whiteの口のなかへ突っ込んだ。

ふごふごと言いながらもSnow Whiteは涙を流しながら必死に飲んだ。

飲ませおわったら肩に顎を載せ、背中をトントンと叩き、ゲップをさせた。

 そしてSnow Whiteを抱っこしたまま部屋に戻ると、なにか灰の臭いがあたりにしており、空気中には小さな灰が舞っている。

王女は書いていた小説の帳面を探した。するとどこにも見当たらない。

ふと、暖炉の中を覗いてみると、そこに帳面の端の辺り以外が焼けてなくなったものを見つけて愕然とした。

王女はSnow Whiteを一人で部屋に残したことを心から後悔した。

抱いているのも忘れていたSnow Whiteを見やるとよだれを肩に垂らしてすやすやと眠っていた。

その寝顔を見ると、怒る気も失せてそっとベビーベッドに寝かせた。

 

しかし次の日にはやっぱり憎たらしい、とSnow Whiteを王女は詰問攻めにした。

暖炉のまえでSnow Whiteは両脚の裏をひっつけて身体を大きく揺らしている。

王女「坊や、昨日、ママの小説をおまえ、暖炉に投げただろう?」

Snow White「しちゃないっ」

王女「しちゃないってなんだい。してないと、きちゃない、が一緒になってるのかい。おまえはママの書いた小説も”きちゃないっ”と言って投げつけたのかい」

Snow White「ちぇんちぇん、しちゃないっ」

王女「なに?ぜんぜん、しらない?」

Snow White「うん」

王女「だったら、なんで、ママの小説は暖炉行きになったんだ。なんで、なんで、初めての少年性愛劇を書いていたのに、なんでそれが暖炉行きとなってしまったんだろう?」

Snow White「ちょぉねん、ちぇえゃい、じぇち?」

王女「そんな言葉は覚えてなくていい、坊や。嗚呼せっかく、せっかく微少年キョムと半人半獣のウルフ貴兄が、これから禁断の獣姦的性愛を貫くところだったのに、嗚呼、もうもう一回想いだして書くのは骨が折れる。天からの罰と受け止めて、ママは諦めることにするわ」

Snow White「ママっ」

王女「なんだい、我が愛するSnow Whiteよ」

Snow White「だっこ」

王女「ママはこれから、睡蓮とハダカゴケグモの近親相姦かつ、遺産の奪い合いを絡めた天真爛漫な愛憎波瀾曲折劇を書くから、黙っていなさい。いいこだから、後生(ごしょう)だから」

するとSnow Whiteはどこで覚えたのか犬が切痔を必死に絶えながら排泄を行なっているかのような体勢でぷるぷると震えながら「ぁぅっ、うぅっ、ぁぅっ」と言ってはまた泣く備えに取り掛かりだした。

王女は自分の口を強く抑えて笑うのを我慢しながらSnow Whiteのさらさらした髪の頭を撫でてやった。

 Snow Whiteは気持ちのよさそうに頬と鼻の先を紅く染めて身体を揺らしながら、くっしゃみをすると鼻水がでて、それを無意識に手の甲でぬぐって絨毯で拭いたので王女はSnow Whiteの後頭部を後ろからしばいた。

Snow Whiteは前につんのめり、そして泣いて泣いて泣き明かし、泣き疲れて絨毯の上で眠った。

不憫には想ったが、自分は想わば、母親の愛を記憶しておらない娘であり、その訳あってか、愛し方を知らず、致し方ないの、と自分に言い訳しては王女は絨毯の上でうつ伏せになって眠るSnow Whiteそっちのけに創作に励んだ。

 

 明くる日の晩、王女はとても悲しい事象に見舞われた。

常日頃から、王女の王に対する嫉妬は和らぐものではなかったが、この日の王女も日々の行いごとのようにこれ当然としてやり続けていたことがあった。

それは王に届くいくつもの招待状を王に報せる前に破って捨てるという習慣である。

何故なら、その招待状のなかにはどこぞの国の王女や姫からの誘いが嫌というほどに紛れており、愛する王を自分以外の女性とましてやふたりきりで逢わすなどは絶対に嫌なことで、会わせないためにも王に見つからないようにしなくてはならなかった。

しかしこの日に限っては、なんたる手抜かりであろう、王がちょうど外から帰ってくるあたりの時間にまた、王の入ってくる恐れのある書庫にて招待状を開けてはびりびりに破いているところに王に後ろから声をかけられ、咄嗟に後ろに隠した破かれた招待状の幾片もの欠片が手から落ち、それを拾って読んだ王に王女のしていることがついに知れてしまったのである。

王は低く怒りを抑えた声で言った。

王「なるほど、どおりで最近、知人たちからの音沙汰が妙に少なくなったわけだ。おまえはなにゆえにこのようなことをしつづけているんだ」

王女は何も答えることができなかった。

王女が破いた招待状や手紙のなかには王にとって、またこの国にとって本当に大事なものがいくつもあったかもしれない。

王はショックのあまりか、黙ってそこを立ち去ろうとしたがふらっとなって近くにあった木の四角い小さなスツールに思いきり脛の辺りをぶつけ、この晩、王は特に機嫌が悪かったのだろう、そのスツールを持ち上げると王女に向かって鬼のような形相で投げつけた。

するとそのスツールは王女の腕にぶつかり、猛烈に痛かったので王女はうぅと呻くとその場にしゃがみこんで声を殺して泣きだした。

だがしかし、あとでもっと深い悲しみに暮れたのは、その木のスツールはよく見ると王女が十三歳くらいのときに自分で作ったスツールであり、それを見せたときの王はとても喜んでくれて大変気に入ってくれたのでここにこうして置かれて王も何度と腰を下ろしたであろうスツールであったからだ。

王の王女に対する”暴れる力”と書いてごとくの暴力ごとは今日に限ってだけのことではなく、これまで幾度とふるわれてきたものであったのでこれと言って驚くことではなかった。

食事中や馬車に隣に座っているときなどはしょっちゅう口ごたえをちょっとでもした瞬間に飛んでくる瞬発的な裏拳を喰らってきたし、また思わぬ物がものすごい速さで飛んでくるのもよくあることであった。

 

王女はその晩、眠る前に魔法の鏡に向かって問うた。

王女「鏡よ鏡、わたしの大事な鏡よ、わたしはなぜ、いつもお父様を困らせることばかりしてしまうのだろう」

鏡は瞬間的に応えた。

鏡「王女さま、愛おしきわたしの王女さま。お答えいたします。それは王女さまのすることなすことにことごとく、お父様が困られるためです。王女さまはなにも悪くはありません。同時に、王さまもなにも悪くはありません。王女さまは王さまを深く、深く愛しておられます。そして王さまも王女さまをそれは深く、深く愛しておられます。その愛はゆきちがいになればなるほどに悲しみと苦しみを生むでしょう。一致したときにはどんなに大きな喜びに互いに包まれることでありましょう」

王女「鏡よ、ありがとう。わたしは悲しむほど美しくなるだろう。その美しさに、きっとお父様もいつか気づいてくださるに違いない。わたしはその日を信じて、今この悲しみに耐えましょう」

鏡「あなたの悲しみはほんとうに美しい。わたしの愛する王女さま、どうか悲しく美しいままでいてください」

王女は黙って真っ暗闇な鏡に向かって頷くと埃が積らないように真紅の覆いを鏡に被せた。

ベッドのなかに横になっていると隣の部屋からSnow Whiteがぐずついているような声が聞こえてきたが王女は悲しみと泣き疲れであやしにゆく気力もなく、意識が遠のいていくときに、Snow Whiteは可哀想な子だと初めて想い、涙を流した。

 

そうしてまたいちねんいじょうが経ちました。

Snow Whiteは四つ、王女は十九歳となりました。

ある冬の朝、王女はいつもの窓辺の揺り椅子に揺られながらSnow Whiteの水色のお洋服にSnow Whiteの好きなトノサマバッタの顔の正面の刺繍を施(ほどこ)していたときのこと。

Snow Whiteは床でお絵かきをしながら王女に尋ねた。

Snow White「おかあさま」

王女「なんだい、坊や」

Snow White「おかあさまはなぜ、ぼくの、おかあさまなのですか?」

王女はまたか、と想い、適当に応えた。

王女「それはね、おまえがお母さまを選んだからだよ」

Snow White「ぼくはなぜ、おかあさまをえらんだのですか?」

王女「知らんよ、そんなこと。おまえはじぶんに訊いてみなさいな」

するとSnow Whiteはほんとうに自分に向かって尋ねだした。

Snow White「ぼく、ぼくはなぜ、おかあさまを選んだのですか?」

しかしSnow Whiteは黙りこんでしまった。

「ぅ……」とちいさく呻くとSnow Whiteは王女をまたきょとんとした目で見つめて尋ねた。

Snow White「ぼく、は、ぁたぶん、おかあさまをあいしてるから、ぁだから、おかあさんをえらんだのですか?」

王女「ってなんでわたしにそれを訊くの」

Snow White「だって、だって、おかあさまはきっと、それをしってるんだもん」

王女は窓べから今日もよく降り積もっている雪景色を見渡しながら言った。

王女「わたしはただ、ほんとうのほんとうに美しい子が欲しいと、そう天に祈ったのよ。するとおまえが生まれてきたというわけさ」

Snow White「ぼくは、ぅ、うちゅく、うつ、く、しいのですか?」

王女はSnow Whiteに視線を向けると即座に言った。

王女「おまえは今はまだ、うつくしい、の、うの文字の上のちょんと書く最初の跳ねにも及ばぬほどだ」

Snow Whiteは残念そうなしょぼくれた様子で言った。

Snow White「ぼくは、ぅ、ぅちゅくし、ぅつぅくぅしく、ない……」

約五分ほどの時が過ぎ、そのあいだ、真っ白な雪は音もなく降りつづいた。

突としてSnow Whiteは口を開いた。

Snow White「ぼくが、ぼくがもっと、うちゅくしく、うつっくっしく、なれば、おかあさまはもっと、ぼくを、あいするのですか?」

王女はぼんやりと、あの日美しさを感じた瞬間を想いだしながら応えた。

王女「そうね、坊やがもっともっと美しくなるなら、わたしはきっとおまえが気になってしかたなくなるだろう」

Snow Whiteは黄色く太陽を塗りつぶしていたクレパスを指から落とすと王女に近づいて下からじっと強い眼差しで見上げ、はっきりとした口調で言った。

Snow White「ぼく、うつくしくなる。ぜったい、うつくしくなる」

王女はSnow Whiteのいつになく真剣なその表情を見て、デジャヴュのような感覚を覚えるなかにも無意識に針を動かしてしまったために針で指を強く突いてしまった。

その血の一滴がSnow Whiteのちょうど左目の下あたりに落ちて跳ねた。

白雪のごとくその肌に落ちた真紅の雫(しずく)。

つづいて二滴、三滴と血が垂れ、Snow Whiteのその顔はまるで血の涙を流しているかのように見えた。

王女がまたぼんやりしているとSnow Whiteが王女の血の垂れる左の人差し指を見て言った。

Snow White「これが…うつくしい…?」

そしてSnow Whiteはその指を乳首を吸うようにちゅうちゅうと吸いだした。

黙ってそれを見つめていると、いつまでもSnow Whiteは吸っていた。

王女はやはり乳離れはすこし早かったのだろうかと心配した。

Snow Whiteが2歳になったときから王女は一度も自分の乳から母乳を与えることはしなかった。

4歳になってもまだSnow Whiteは寝惚けているときは決まっておっぱいをせがんではぐずつくのだった。

しかし自分が母と離された頃は母が病を発病した2歳の頃であったし、自分も耐えてきたのだから、我が子も耐えられないはずはないと厳しく育てたかった。

王女は夜明け前近くまで”煙の王者”という異世界滑稽ミュージカル劇の台本を書いていたのでついと睡魔に襲われ気を失うようにして眠りの世界に入っていった。

 

垂れた涎に目を醒まされ、右手の甲で涎をぬぐった瞬間、王女は異様な光景を目の当たりにした。

目の前には何一つ変わらない体勢で、されどその目は何かにとり憑かれてでもいるかのような据わった目で同じように自分の指を吸いつづけているSnow Whiteがいたからである。

王女は首を捻(ひね)って壁に掛かった時計を見た。

確か眠るまえは朝の十時前頃であったはずだ。いま時計の針は午前十二時の三分前である。

まさか我が子は二時間近く自分の指を吸いつづけていたのだろうか…?

王女はSnow Whiteの口からすぽんっと指を引っこ抜いた。

その指は第二間接あたりまで青白く不気味に変色してふんにゃふんにゃになってふやけていた。

Snow Whiteの顔を見ると、その顔もどこか、ふんにゃふんにゃとした感じだった。

王女は薄っすらと胸の中心部が寒く凍えるような感覚になり、呆然となった。

乳離れが早すぎたために、異様な人間になるのか、こいつは。

王女は目の前の我が息子に対して初めて言い知れぬ怯えのようなものを感じた。

今から気も狂わんばかりに我がすべての情熱を絞るようにあまねくこの乳を息子に与えつづけるなら狂人になっていくことを食いとめることができるのだろうか。

そうはいってもSnow Whiteの身長は今で一メートルをちょっと超えた辺りである。自分よりもわずか60cmほど小さい位である。そんな大きな子供に乳を与えるなど恥ずかしくて耐えられない。

馬鹿でかい品も恥じらいも当の昔に忘れ去ったかのような乳であるなら減るものがあるとも思えないからまだしも、自分の乳はあまりに小さく、まだ少女のように恥を知る乳である。(そう自分で想いたい)いくら我が子といえども、何かが減っていくような気がしてならない。

嗚呼、想わば、よく考えてみたらば、わたしは自分の乳を始めて吸わせたのは我が夫ではなく、猿みたいなこいつだったのである。悲しい。まるで羞(はじ)らう処女をこの猿みたいな人間に奪われたのも同じではないか。わたしにとって、女である喜びとはいったいなんだろう。わたしは男に抱かれる喜びもまだ知らない。わたしはまだ、男を知らない。お父様との一度きりの交わりは…あれは男を知ったとは決して言えるものではなかった。激痛と恐怖以外のなにものもなかったではないか。わたしはまだ愛する男と、接吻すら交わしたことがないのである。いったいどのような喜びなのか知らん。よく、天にも昇るような心地だと言うではないか。一度でいい。一度でいいから、わたしはそれを味わってみたい。やはりこの乳は、この羞らひを知る胸は将来の男の為に取って置こう。この我が猿坊主にこれ以上やる必要はないだろう。

もうおまえは、存分に我が乳を吸い尽くしたではないか。そう王女は訴えかけるようにSnow Whiteを凝視した。

Snow Whiteは久方振りに、余は満足也。とでも言いたげなふにゃふにゃな顔のままどこかあらぬほうを見つめておった。

王女はなにゆえに、Snow Whiteを可愛がって愛しながらも、Snow Whiteの存在にどことなく腹立たしくなるのかは既に気づいていた。

それは王女がSnow Whiteを身籠ったことがわかったそのときから、王が娘であり妻である自分に対しどこかで落胆の想いを抱きつづけているような気がしてならなかったからである。

それは王の自分自身に対する落胆であったかもしれない。

王は王女を愛するがゆえに、Snow Whiteが誰の子であるかも知らないまま、自分の子としてこの城で育てることを王女に誓ったのである。そのことから、Snow Whiteが王の子ではないという気持ちでいるのは王ただ一人だけなのである。

王女は男の真の喜びを知りたいと強く願ったが、それは謂わば生命が自然と求める好奇心のようなものであり、また本能の欲求であり、知らないものを知りたいと希(こいねが)う情熱であった。

 また本来、王女は父の愛に渇きつづけたために、父の子を欲しがったのであり、今度は子に愛されてもなお、父の愛に飢えつづけ、日ごと苦しみは和らぐどころか深くなってきているが為に、またもや他のもので慰みを切々(せつせつ)と求め、それがほかの男の喜びという激しい欲求不満の表れとなってしまったわけである。

とどのつまり、何が言いたいかと言うと、王女はこう想いたかった。

王がちょうど好い加減で娘である自分を愛していたのなら、きっと自分は子を産みたいなぞとは願わなかったろうし、ましてやほかの男による性の喜びや恋の喜びといったものは大したものではなく、そんな喜びは父に好い加減で愛されることに比べたならどれほど貧弱で儚く、悲しくもなく美しくもないものであるか。それは王女にとっては、本物の愛ではないからである。王女にとっての本物の愛とは、王との愛、それただひとつだけであったからである。王女に姉や兄といった存在がいたならすこしは違ったのかもしれないが、王女は一人子であり、また母の記憶のないそんな王女にとっては、王以外との愛などは、”滅びゆきて去りぬ”ものでしか、在り得なかったのである。

そう想えば想うほど、王女は自分のことを愛し慕(した)ってやまないこのSnow Whiteが一層悲しく想えるのだった。

しかしほんとうに美しい(悲しい)子が欲しいと願ったのは自分であったことを王女は気づいていた。

この先も、ずっとずっとSnow Whiteは母親だけを愛するというならば、どれほど悲しい人間ができあがることだろう。

そんな我が息子Snow Whiteは、どんなにか美しい存在になるであろう。

王女はそう想うとまだふにゃふにゃ顔をやめないSnow Whiteを抱きあげ、一緒にランチを食べにお城の中の食堂に向かった。

 

そうして、また次の冬がやってきました。

Snow Whiteは五つ、王女は二十歳となりました。

王女の二十歳の誕生を祝う大宴会がお城で開かれ、王女は苦手な奥様連中からの御追従に辟易しながらも愛想笑いでもってなんとかその場を受け流し終わった後にはどっと疲弊の黒い波が押し寄せては引いてゆくのであった。

王女はその夜に、魔法の鏡に向かってこう問いかけた。

王女「鏡よ鏡、わたしの大切な鏡よ、今日はたくさんの人間たちがわたしのお城へとやってきたわ。ほんとうに疲れたわ。うんざりよ。いったいみんなで集まることの何が楽しいのかしら。わたしはさっぱりわからない。見た目だけは美しいような御婦人方や、散々と辛酸を嘗め尽くしてきたかのようなどっぷり疲れの色が見える顔のご老人までもが蟻のようにうじゃうじゃといたわ。鏡よ鏡。正直に仰ってね。今日のお城のなかでいちばん美しい者はどこのだれかしら」

すると鏡はすぐさま返事をした。

鏡「王女さま、わたしの愛してやむ日を見ないわたしの王女さま。お答えいたしましょう。今日のお城のなかだけでなく、全世界でいちばんに御美しいのは、あなたです。何故なら、あなたの愛はだれの愛よりも深く、それはそれは悲しく美しい愛だからです」

それを聴いて王女はにんまりとして応えた。

王女「おまえはほんとうにいつも正直で素直でよろしいこと。では興味本位で訊いてみましょう。わたしのつぎに美しいのはどこのだれなのかしら?」

鏡は一瞬の間を置くとこう応えた。

鏡「お答えいたします。王女さまのつぎに御美しいのは、それは、Snow Whiteでございます」

王女はその名を聴いた瞬間、まるで稲妻が頭の天辺から刺さって尾骶骨から抜けでていくような衝撃を受けた。

その時、部屋のドアをトントンと叩く音が聞こえたかと思うと、そのあとにつづいて「お母さま」と泣声で呼んでいる声が聞こえた。

王女「Snow Whiteだわ…」

王女は吐息を漏らすと、虚ろなその目を鏡の闇の奥へとやった。

放って置こう。そしたらそのうち、家来の誰かがやってきて、「あらあら王太子さま。こんなところにいらしたのですね。ささ、お部屋へ戻りましょう」とかなんとか言って、連れてってくれるに違いない。

王女はそれを期待してじっと待っていたが、今日は宴会の後片付けでみな忙しいのだろうか、いくら待っても誰もやってはこない。嗚呼っと叫んでは王女はドアを開けて部屋の中を覗かれないようにすぐに部屋の外へ出て閉めた。

王女「こんなに夜遅いのに、どうしておまえは寝てくれないの?!」

王女の怒りにショックを受けてSnow Whiteは声をあげて泣きだした。

困った王女は身長が伸びて重たくなったSnow Whiteをうんしょと肩に担ぎこむようにして抱きあげるとSnow Whiteのベッドのある部屋に向かった。

部屋に入るとベッドの上にSnow Whiteを寝させて自分は椅子に腰掛け、ちょうど枕元の小さな本棚に置いてあったグリム童話「カエルの王子さま」をSnow Whiteの為に早口で静かに朗読してやった。

 

しかし次の瞬間、それまで感じたことのない、何か不思議な甘い感覚が王女の全身を貫いた。

「これは何?いったいなんなの?」

王女は自分にそう問うた。

これまで自分で自分を慰めていたときとは比べ物にならない。強烈な感覚である。

しかし王女は慌てて首を振ってそれを打ち消し……

 

しかしカエルが面白がって、王女の身体のあちこちを探検し始めたとき、王女は思わずたまらなくなって、こう呻いた。

「あ、ああ、やめて……ってなんで官能小説みたいなグリム童話がここにあんねんっ」

 

と思わずどこぞの国の方言が出て王女はその本を壁に向かってぶつけた。

非常に気まずい想いで、そぉっとSnow Whiteの顔を王女は横目でちらと覗きこんだ。

するとSnow Whiteは男も立てずに、否、音も立てずに、天子(てんし)のような寝顔で眠っておった。

ふぅ、と息をついては王女はその可愛らしいSnow Whiteの顔をじっと見ていた。

欠伸がでて、そろそろ部屋へ戻ろうと立ち上がったその時、何かが引っかかった。

引っかかった部分をよく見てみると、それは服の裾が家具か何かに引っかかったのではなく、Snow Whiteがその左手でぎゅうっと思いきり王女の寝巻きの白いワンピースの下のペティコートの裾を握りしめたまま眠っていたためであった。

王女はなんとなしに腰が抜けたように椅子にすとんとまた座ると、先ほどの鏡の言葉を脳内で何度と反芻しだした。

「王女さまのつぎに御美しいのは、それは、Snow Whiteでございます」

ははは。気づけば王女は声にもなっていない空笑いが漏れでてはつぎには泣きたくなった。

そんなまさか。どこぞの方言で言うなれば、「んなあほな」

わたしは信じられない。こんな、まだ、まだ仔猿かカエルかウリ坊かゴマフアザラシかというような小僧の悲しみが、こんなにあどけない顔で何にも知らないように眠る坊やの悲しみが、まさかわたしの次に悲しいなどと、いったいどこのだれが本気にして信じられようか?

なにがそんなに、そこまで悲しいというのか。まだたったの五年しか生きてはいないではないか。

あほなことを言ってはいけない。あの鏡、いったいどういうつもりなのだろう。

もういちど、もういちど明日同じことを訊こう。いや何度でも、何度でも、何度でも訊き倒そう。

きっとなにかの間違いでしょう。

こんなに幼い子供がそれほど深い悲しみを知るというのなら、この先、暗闇のくらのくらではないか。生きてゆけるはずなどない。ないはずなどない、などと言わせておけるはずなどない。わたしは死ぬまで息子のお守(も)りをして生きるつもりはない。そんなことをすれば、Snow Whiteはわたしのどの積荷よりも重い銛(もり)の先に付いた錘(おもり)となるであろう。その銛はやがて深海の底を突きぬけ、異界の森すらをも突きぬけ、死は積もりゆき、その灰の底をも突きぬけるだろう。つまり、死んだあともどこまでゆくんだ、という話である。そんな気の遠くなる話をこのSnow Whiteはわたしに聴かせたいのだろうか。頭が回って目が眩(くら)む。

いったいどうすれば、この子はわたしを手放すのだろう。

可愛く真っ白なちいさいお手てで掴まれた綿のペティコートの裾には複雑なレース刺繍が施されていて、王女はその部分をよく見つめてみるとSnow Whiteの細く短い指が一本ずつそのレースの穴の部分に食い込んで突っ込まれては複雑に穴と指が絡み合っていて、簡単には離れないようにしていることにようやく気づいた。

ぞっとする気持ちもとうに突き抜けて、なぜだか、ふと、花札の墨がかった芒(すすき)に白い月がでっかくかかろうとしていて、その空は真っ赤な血の色という確か八月の光札である坊主に月の札の情景が脳裡に浮かんで離れなかった。

花札でお父様と一緒に昔よく遊んだことがある。でももう遊び方を忘れてしまった。

 

次の日の午後、王女はSnow Whiteにあたらしい絵本を読んであげました。

それは「ジンジャーブレッドマン(しょうがパンぼうや)」というイギリスの昔話です。

暖炉のあたたかい火のそばで、Snow Whiteはわくわくと胸をときめかせていました。

王女は昨日はいらいらとしていたので早口でグリム童話を読んでしまったことを申し訳なく想い、きょうはゆっくりと読んでやろうと想いました。

 

「ジンジャーブレッドマン

 

むかしむかし、あるところに、おばあさんがひとりですこし古いおうちに住んでいました。

おばあさんはひとりぼっちで子供がいなくて寂しかったので、ジンジャーブレッドで男の子を作ることにしました。

おばあさんはじっくりとバターをまぜあわせ、生地を巻いて、とてもすてきなジンジャーブレッド・マンを切りとりました。

そしておばあさんは髪と口と服に砂糖漬けをつけくわえて、ボタンと目にキャンディーチップをつかいました。

彼はどんなに素晴らしいジンジャーブレッドの男だったか!

おばあさんはさっそく彼を焼くためにオーブンに入れた。

彼が完全に焼きあがったあと、ゆっくりとオーブンの扉を開きました。

するとジンジャーブレッドマンは跳びあがって言いました。

「熱い!熱い!はやくそとへだして!」

そしてジンジャーブレッドマンは走って走りました。

彼が走っていると、一頭の牛に出会いました。

「Moo」

牛は言いました。

「おまえさんはとっても素敵だ!食べちゃいたいくらい素晴らしい!」

そして牛は走るジンジャーブレッドマンを追いかけました。

しかしジンジャーブレッドマンははやく走って

「ぼくはおばあさんから逃げたんだよ。ぼくはおばあさんから逃げて、あなたからも逃げられるよ!ぼくならできるもんね!」といって笑いました。

「走れ、走れ、もっとはやく走ってごらんよ!ぼくを捕まえられるもんか!ぼくはジンジャーブレッドマンだもの!」

おばあさんと牛はひっしにジンジャーブレッドマンのあとを走って追いかけましたが、とうとう彼を捕まえられませんでした。

ジンジャーブレッドマンは走りつづけて、つぎに馬に出会いました。

「N..e..i..g..h ...(ネヘヘヘヘェ~)」

馬はいなないて言いました。

「じぶん、おいしいかもしれないな!わたしはあなたを食べたいとおもいます」

「でも、きみはむりだね!」ジンジャーブレッドマンは自信たっぷりに言いました。

「おばあさんから逃げて牛からも逃げられた。ぼくなら逃げられるもんね!」

そして彼は歌をうたいました。

「走れ、走れ、できるだけはやく!きみはぼくをつかまえられっこないさ。ぼくはジンジャーブレッドマンだぞ」

馬はジンジャーブレッドマンを走って追いかけましたが、とうとう彼を捕まえられませんでした。

ジンジャーブレッドマンは走って走って、笑って歌った。

彼が走っていると、つぎににわとりに出会いました。

「ケックル!」にわとりは言いました。

「夕食のためにあんたをペク(つつく)してもいい。ジンジャーブレッドマン!あんたを食べにいきますよ!」

しかしジンジャーブレッドマンはただ笑いました。

「ぼくはおばあさんから逃げて牛から逃げて馬からも逃げたんだよ。ぼくはきみからも逃げることができるもんね!」

そして彼は歌をまたうたいました。

「走れよ、走れ、できるかぎりはやく走れ!きみはぼくを捕まえられやしないさ!ぼくはジンジャーブレッドさまだぞ!」

にわとりはジンジャーブレッドマンを追いかけましたが彼を捕まえられませんでした。

 ジンジャーブレッドマンはとてもはやく走られることを誇りにおもっていました。

「だれもぼくは捕まえることはできないさ」と彼はおもいました。

 そこで彼はきつねに会うまで走りつづけました。

彼はきつねにじぶんがほかのだれよりも速く走ったことをちゃんと伝えなくてはなりませんでした。

「きつねくん」と彼はいいました。

「ぼくがおいしそうだろう」

きみはぼくを捕まえて、きみに食べさせることはできない。

ぼくはおばあさんから逃げた。

ぼくは牛から逃げた。

ぼくは馬から逃げた。

ぼくはにわとりから逃げて、ぼくはきみからも逃げることができるもんね!

 ぼくならできるんだ!

しかしきつねは気にしなかった。

「なぜわたしがあなたを気にする必要があるでしょうか?」

きつねはそうたずねた。

「あなたはおいしそうに見えない。

ノン、ぼっちゃん、わたしはあなたをちっとも食べたくはありません」

ジンジャーブレッドマンはとっても安心しました。

「これはおどろいた。きつねくん」

ジンジャーブレッドマンは言いました。

「きみが気にしないなら、ぼくはここですこし休もうとおもう」

こうしてジンジャーブレッドマンは走るのをやめてつっ立っていました。

するときつねが言いました。

「そういえば、この川の向こうにあなたが住むのにぴったりな素敵なおうちがあるのです。そこへ連れてってあげましょうか」

ジンジャーブレッドマンは目をかがやかせてこたえました。

「ほんとに!まるでそのおうちはぼくが住むのを待っていたみたいだ!ぜひ連れてっておくれよ。やさしいきつねくん」

きつねはやさしくほほえんで言いました。

「では連れてってさしあげます。あなたを待つ最高のばしょへ。わたしの鼻のうえにのってください。わたしはおよいでこの川をわたりますから」

「ありがとうきつねくん!」

ジンジャーブレッドマンはよろこんできつねの鼻のうえにぴょんととびのりました。

きつねは彼をのせて川をおよいでわたりました。

そしてむこうぎしについて、目のすぐまえにいるジンジャーブレッドマンに向かってやさしいえがおで言いました。

「さあいますぐ連れてってあげましょう。あなたにいちばんふさわしいばしょへ」

そのときです。きつねは鼻をいきおいよくうえにふりました。

ジンジャーブレッドマンは「うわ~」と叫んで空中になげだされ、下におちました。

そこに、きつねがおおくちをあけてまっていました。

ジンジャーブレッドマンはきつねのおおきな口のなかにおちると、きつねはくちをとじて、彼のすがたは見えなくなりました。

 

次の日、きつねはジンジャーブレッドマンを作ったというおばあさんのおうちの戸をとんとんとノックしました。

おばあさんがでてくると、きつねはきのうのことをすべておばあさんに話しました。

そしてさいごに、こう言いました。

「彼は結局、とてもおいしかったです」

そう言ってきつねは帰ってゆきました。

おばあさんはとてもかなしんで、それからなんどもジンジャーブレッドマンを作ろうとしましたが、もうにどと、生きたジンジャーブレッドマンを作ることはできませんでした。

 

おしまい。

 

 

 

王女は静かに聴いていたSnow Whiteの顔を覗きこんだ。

Snow Whiteは、どこか思いつめたような顔をして、じっとして動かなかった。

「気に入らなかったのか…」王女はそう想って息をちいさくつくとSnow Whiteを抱っこして膝のうえに載せてやった。

すると、Snow Whiteはぎゅっと抱きついてきたあとにぷるぷると小刻みに震えだし、王女を見上げて震える声で言った。

Snow White「な、なぜ…なぜ、ジンジャーブレッドマンは、食べられなくてはならなかったのですか?」

王女は考えて、返事をした。

王女「人生というものは、決まりきった道に用意されているものではないから、予想のつかないことが普通に起きては、人はそのたびに嘆き悲しむ。それはなんで悲しむかというと、心のどこかで、そんなことは起きるはずがない、起きるべきではないと想っているからさ。Snow Whiteは、ジンジャーブレッドマンは食べられるべきではないと想ってるだろう?」

Snow Whiteは神妙な顔で「うん」と頷いた。

王女「でもそんなことは、決まっているわけではない。実際に、牛も馬も鶏も狐も、彼を食べるべきだと想ってただろう。それにそんなおまえだって、昨日の夕食には牛を食べたし、今日の昼食には鶏を食べてたやん。それなら、牛や馬や鶏や狐が、ジンジャーブレッドマンを食べたらいけない理由などどこにもない。お母さまは可笑しいことを言っているかしら?」

そう言うと、Snow Whiteの顔は見る見るうちに青褪め、肩を落として悄然(しょうぜん)となった。

そして涙をうるうるとさせた目で王女を見て言った。

Snow White「ぼくは…ぼくは、うしさんやにわとりさんを食べたの?」

王女は頷いて言った。

王女「ほかにもぶたさん、ひつじさん、うさぎさん、うずらさん、ロブスターさん、お魚さん、たくさんおまえは食べてしまったよ」

Snow Whiteは両手で口を押さえこんで咽び泣きだした。

そして真っ赤な目で王女を見据えて言った。

Snow White「ぼくはもう、にどとかれらをたべません」

王女はSnow Whiteの頭を撫でてやると応えた。

王女「おまえはそのほうがいいかもしれないね。胃腸の弱いおまえにはきっとそのほうが合ってるのだろう」

王女はSnow Whiteを抱きしめると「なんて心の優しい繊細な感性だろう。きっとわたしとお父様の優性遺伝子の感性の深さが合わさることによってこのような深い感性が生まれたのだろう」と喜びに打ち震えた。

Snow Whiteはお母さまが今日は優しいことが嬉しかったが、それでもたくさんの生き物を食べてきたことの悲しみは消えず、こころのなかでなんどもなんども「ごめんなさいごめんなさい」と謝りつづけた。

 

 

そうしてまたいちねんのつきひがながれました。

Snow Whiteは六歳、王女は二十一歳となりました。

ある晴れた冬の夕方、王女がいつもの窓辺の揺り椅子に座ってSnow Whiteのちいさな藍色の手ぶくろを編んでいるとそばでブロックで遊んでいたSnow Whiteが唐突にこう言った。

Snow White「お母さま、ぼくはお母さまと連想あそびがしたいです」

「連想あそび?」王女はつと手を止めると訊ねた。

王女「はて、それはどのようなあそびなの?」

「ええっと」Snow Whiteはきょろきょろして後ろを振り返り、テーブルの上に目をやると応えた。

Snow White「Pommes en Cage(檻の中のりんご)は、中にりんごが閉じ込められている。ってぼくが最初に言ったら、ぼくがまた、”閉じ込められているといえば?”って言うと、つぎ、お母さまが、閉じ込められているものを探して、それをお母さまが答えて、そんで、なになにといえば?っていうのをぼくとお母さまがかわりばんこに言っていくってゆうあそびです」

王女は編み針を交互に動かして編みながら「へぇ、そんなあそびがあるんだね。どこで知ったの?」と訊いた。

Snow White「こないだ読んだ”たとえ物語”の本のなかにそのようなあそびが書いてあったのです」

王女「それは面白そうな本だこと。ではさっそくおまえから始めてごらん」

Snow Whiteは嬉しそうな顔で「はい」と応えるとつづけて言った。

Snow White「ではさっきのつづきで、りんごは閉じ込められています。閉じ込められているといえば?」

王女「うぅん、家畜。家畜といえば?」

Snow White「家畜はかわいそうです。かわいそうといえば?」

王女「お母さま。お母さまといえば?」

Snow White「ぼくの婚約者です。婚約者といえば?」

王女はSnow Whiteを咎める顔で見ると「いったいお母さんはおまえの婚約者にいつなったんだい」と言った。

Snow Whiteは頬をりんごのように赤くして応えた。

Snow White「ゆ、夢のなかでです」

王女「お母さまの婚約者はお父様です。お父様といえば?」

Snow Whiteは低くうなだれて答えなかった。

「お父様といえば?」と王女はもう一度言った。

するとぼそぼそとSnow Whiteは答えた。

Snow White「ぼくは、お父様のことをあまり知りません。し、知らないといったら?」

王女「物語の行方。行方といえば?」

Snow White「とても、不安です。不安といったら?」

王女「すべてです。すべてといったら?」

Snow White「ぼくのすべてはお母さまです。お母さまといえば?」

王女「お母さまはいつか死ぬのです。死といえば?」

Snow White「ぼくは…ぼくはお母さまを死なせるわけにはいきません。ぼくは、死と戦います。戦いといえば?」

王女「戦いは、愚かです。愚かといえば?」

Snow White「それは…ぼくのことを言っているのですか…?」

王女は編んだ部分をほどきながら言った。

王女「そうです」

Snow Whiteは黙りこんで悲しそうな顔で王女を見つめた。

王女「おまえはさっき答えをはぐらかした。お母さまは”死といえばなにか?”と訊いたのです。でもおまえはそれに答えられなかった。おまえは死がなんであるかも答えられないのに、いったいどうやって死と戦うつもりなのです?相手がどんな存在か、ちっともわからないのに、どんなふうに戦えるのでしょう」

Snow Whiteは打ちのめされた表情でちょっとのま動かなかった。

そしてにわかに王女を見つめながら言った。

Snow White「愚かな者は、ぼくです。ぼくといえば?」

王女はつと手を止めるとSnow Whiteを見つめ返して答えた。

王女「おまえはこの国の次の王です。王といえば?」

Snow White「王さまは…ぼくのことを愛していません。愛していないといえば?」

王女「Snow White。おまえこそ王さまを愛していない。Snow Whiteといえば?」

Snow White「ぼくはお母さまを愛しています。愛しているといえば?」

王女はすこし手を止めて答えた。

王女「お父様。お父様といえば?」

すると、いくら待っても何も返ってこないので王女がSnow Whiteを見やると目をぱちぱちと大きく瞬(しばたた)かせて絨毯の一点を凝視し、何かに耐えているような顔をしていた。

王女が「どうしたの」と訊くと、Snow Whiteは黙って立ち上がってドアのほうへ走ってゆくと部屋を出て行ってしまった。

何事もなかったかのようにまた編み物を再開しようと指を編み針にかけたが、王女は思いがけなく咽るように涙がでてきて、なかなか止まらなかった。

 

 Snow Whiteは次の日から七日間も風邪をこじらせておしっことうんちをしに行く以外はベッドから出ようとしなかった。

王女は可哀想に想ってできるだけそばにいてSnow Whiteの隣で眠るようにした。

Snow Whiteは目を瞑ったまま、うわごとのように何度も夢か空想のような話を話しかけてきた。

Snow White「ママ、オリーブの庭が箱の中に入ってる…あけてみて」

王女「その箱はどこにあるの?」

Snow White「竜と時間のあいだにあるよ、名もないノミをつけたまま行くと、記憶をうばわれてしまうから気をつけてねママ」

王女「ママはそこがどこかよくわからないわ」

Snow White「そしたら、エンドレス牧場のゲッセマネゴキブリに三日月の音符を彫刻したら波打ち際の数の子が名声の木立を連れてとろろ踊りをするときに瑠璃色の天幕のなかで待っていればいいんだよ」

王女「Snow Whiteがママを案内しておくれ」

Snow White「ぼくは行かなくちゃいけないばしょがあるから」

王女「どこへゆくの?」

Snow White「しらないばしょだよ。いま乗ろうとしているところ」

王女「なにに乗ってゆくの?」

Snow White「うすい、ゆれているレースのカーテンみたいな、水と煙を交ぜたようなもの」

 想像しているうちに王女もうとうととしてSnow Whiteの隣で眠りについた。

 

 そうしてまたいちねんのつきひがながれました。

Snow Whiteは七歳、王女は二十二歳となりました。

この年からSnow Whiteは宮殿のなかで教師たちから本格的な教育を受けることになり、また騎士道の教育も受け始め、自由な時間が増えたことに王女は喜んだ。

一方Snow Whiteは今まで以上に王女と離されたことに一層さびしさを募らせるようになりました。

 王女はこの頃から、自分はお父様に愛されないことの慰みに子を欲しがったが、その慰みがSnow Whiteの存在では到底補えないほどの深い渇きであることをはっきりと感じ始めだした。

幼いSnow Whiteの一途な愛に心が温まるときはたしかにあったものの、長くつづいて満たされるものではなく、王から愛されていないと感じる悲しみと孤独は耐えがたいほどのものであった。

そんなある夜更けのこと、王女は深い溜め息をついて魔法の鏡の闇のなかをじっと見つめていた。

すると鏡が優しい声で王女に話しかけた。

鏡「王女さま、わたしのなによりも愛おしき王女さま。わたしになにか御用でしょうか」

王女は虚ろなまなざしで鏡に向かいあいながらその冷たい闇の表面に手を当てた。

王女「今夜は月も星もでていない。暗い雲に覆われてなんてさびしい夜なのでしょう。嗚呼、あなたがひとりの男ならこの心はどれほど慰められたことだろう」

鏡は一瞬の間を置くと応えた。

鏡「ではわたしはあなたを慰めましょう。王女さまは、それをほんとうに望むだけで良いのです」

王女は鏡をひとりの美しい理想の男として心のなかで甘美な夢を見た。

そしてどこまでも深い闇の鏡の面(おもて)にそっと口づけをした。

王女は目を瞑って鏡に口づけをなんどとするなかで、だんだんと冷たかった鏡の面があたたかい生身を帯びた感触のように感じられて瞼をゆっくりあけると目の前に美しい知らない男が自分を優しい顔で見つめていた。

王女は驚きのあまり咄嗟に飛びのいた。

すると目の前の男が聴き慣れた声で言った。

「王女さま。わたしでございます。あなたの望んだ、わたしの姿です」

王女は目をぱちくりさせると応えた。

王女「あなたはもしや、わたしの鏡…」

男は微笑を浮かべて言った。

「その通りでございます。王女さまを慰めるため、わたしは鏡から抜けでてきました。今日からわたしはこちらの世界で、王女さまの忠実な家来として働きますゆえ、どうぞご自由に御遣いください」

王女はびくびくとしながらも、そっと男に近づき、頭の天辺から爪先、後ろに回ってはその身体を隈なく眺めてほんとうに人間であるかを確かめようとした。

男は振り返って「わたしを存分に検問なさってください」とにこやかに言った。

王女は「あなたは何者なの?」と男に向かって訊ねた。

すると男は王女に肉食獣のようなゆったりとした動作で近づいて正面から見つめると言った。

「わたしはただの鏡です。それ以外の、何者でもありません」

王女はふと左の壁に掛かった魔法の鏡を見た。

そこには今まであった漆黒の闇がすっかり消えて、うろたえた表情の自分の姿が映っていた。

王女は向き直って、男を見つめ、急に喜びがあふれて男に抱きついた。

男は王女を強く抱きしめ返すと、逞しい身体で王女を膝の上に載せ、優しく口づけをした。

王女は始めて味わう恍惚な感覚に酔いしれた。

 その夜から、王女は毎晩のように男の慰みを求め、その快楽に我も忘れるかのように耽りつづけた。

しかし同時に、このような行いは神に背く行為であることを王女は知っていたし、また王とSnow Whiteに対する罪悪感は募り、王女はその苦しみのなかにも慰みを求めないではおれずにますます男の肉体による性の悦びの虜となって行った。

 

王女は自分の鏡の男に対する欲望は酷く穢れたものであると感じた。

このような汚れた欲望を王に対しては持たなかったことが救いであると想った。

王女は王を、けっして汚したくはなかったからである。

王を汚さないために、鏡の男は現れてくれたのだと王女は想った。

鏡の男は王女の理想のすべてがここにあると想えるほど美しく叡智に満ちあふれ、また無償の愛を王女だけに注ぎつづけてくれる存在に想えたが、それでも王と並ぶほどに愛することはできなかった。

 王女の喜びはいつでも苦しみのなかにあるように想えた。

 

鏡の男はある夜、跪いてこう王女に言った。

「あなたは悲しいほどに美しい」

王女は床に寝そべり、鏡の男を見上げると応えた。

王女「わたしはどこまでも悲しみを知り、美しくなりたい。それ以外の喜びなど、きっとどこにもないんだわ。おまえはわたしを慰めながら、もっと悲しめてくれるのでしょう?」

鏡の男は王女の肋骨の浮きでた胸元に舌を這わせると、耳元で囁いた。

「わたしはまるで、あなたの悲しみの美しさに囚われた檻のなかの深い穴です。あなたの美しい指がわたしに触れるたび、わたしの穴は喜びに震えてこの闇は深まるのです」

 

 王とSnow Whiteに対する激しい後ろめたさから、王女は極力ひとりで過ごしたがるようになった。

Snow Whiteは何度と悲しい顔をして王女の傍にいたがったが、王女はなにかにつけて適当な言い訳をして部屋に閉じ篭り、鏡の男に慰みを受けては現実から逃げつづけた。

 

そうして月日はながれ、いちねんのはんぶんいじょうがすぎました。

ある日宮殿での舞踏会のあと、急な腹痛に見舞われた王女は閑処に駆け込んだらば、そこで座りながら置いてあった「自由の抜け殻」という本が面白くてついつい読み耽ってしまいました。

すっきりして閑処から出て部屋へ戻ろうと廊下を歩いていると、自分の部屋のドアがひらいて、そこから駆けだしてきたSnow Whiteとぶつかって、Snow Whiteはいきおいよく床にしりもちをつきました。

そのとき、小さな金色に光る小瓶がSnow Whiteのズボンのポッケから飛びでて王女の足元に転がりました。

王女がそれを拾って「これはいったいなに?」と訊ねると、Snow Whiteは立ち上がって俯いて黙っているので王女は小瓶を返してやり「お母さまのお部屋に勝手に入ってはなりませんと言っているのに、どうして言うことが聴けないの?」と誡(いまし)めた。

するとSnow Whiteは顔をあげて小さな声で「ごめんなさい」と謝ったあとに「さいきんお母さまに会えないのでさびしかったのです」と泣きそうな顔で言った。

王女はSnow Whiteが可哀想になったが、普通ならこれくらいの時期には子供は奉公に出されて学んだり、修道院に預けられたりするもので、自分はSnow Whiteを甘やかしすぎたからこのようになってしまったのではないかと想い、これを機に自立に向かわせるためにもここは厳しくしたほうがよいだろう考えた。

王女「お母さまは明日からおまえとは顔を合わせないようにします。おまえにこの国にふさわしい王となってもらうために、これからはおまえに厳しくせねばならないからです」

そう王女が言うとSnow Whiteはあからさまに涙をほろほろと静かにこぼした。

王女はSnow Whiteの手を引いて部屋まで連れてって寝かせつけてあげようかと想ったが、そうしてしまうとまたSnow Whiteは甘えてくるかもしれないので、Snow Whiteのお尻を手ではたいて「さ、お部屋に戻って今日はもう寝なさい」と言っても泣いてばかりで動こうとしないSnow Whiteを廊下に残し、部屋に入るとドアを静かに閉めた。

 

そしてそれからふたつきほどが経った晩のこと。

王女が部屋で本を読んでいると、とつぜん家来の男がドアの前で悲愴な声で呼びかけるので驚いてドアを開けると緊迫した様子で家来の男がこう言った。

「王女さま、王さまがお倒れになりました」

それを聞いた瞬間、王女は全身の血がさっと引いたように立っているのもままならなくなり、床を手をつこうとすると家来の男に支えられた。

家来に言われて深呼吸を繰り返しているとすこし落ち着きを取りもどし、王のところへ連れてってくれるよう頼んだ。

 

王は麻酔を打たれて穏かに眠っており、医者からは何かの毒を飲まされた可能性が高いと言われた。

いったいだれが……王女は王がだれから命を狙われるほどに恨まれているのか見当がつかなかった。

 王女は王の日ごろからの言いつけであった宮殿のなかの灑掃(さいそう、清掃)は家来の者にまかせっきりにするのではなく、自分で気づいたところはできるだけ自分で綺麗にするようにとの言葉を聞かずにここのところ鏡の男と戯れてばかりいたから、自分の所為(せい)でお父様がこのようなことになったのだと感じて酷い罪責の想いに打ちのめされた。

 

 王はつぎの日には目を醒まされたが、苦しそうに咳をしては起きあがるのもつらそうで傍にいると王女はいたたまれなくなるのだった。

命は取り留めたものの、いったいいつまでこの苦しみは続くのだろうかと想うと、自分と王は生きながらに煉獄のようなところに落とされてしまったような気がした。

 

それからみつきほど経ったころ、王女は久しぶりに部屋からでて、暖炉のある部屋に入ってみると、自分がいつも座っていた窓辺の揺り椅子が静かに揺れていた。

王女が近づいてみると、そこにはSnow Whiteがうんうんと夢に魘(うな)されながら横を向いてちいさく丸まって眠っていた。

起こしてやろうと王女はSnow Whiteの瞼に指をあてて、睫を引っ張って開こうとするとSnow Whiteは一瞬面白い顰(しか)めっ面になって目を覚ました。

そしてとつじょ嬉々として「お母さま!」と言って抱きついてきた。

最初のうちは頭を優しく撫でてやったが、いつまでたっても離れようとしないSnow Whiteを無理やり引っ剥がすと揺り椅子に座らせ、「いったいどんな怖い夢を見ていたの?」と訊いた。

Snow Whiteはさびしそうな顔で答えた。

Snow White「うんと…お母さまのあたたかい海のなかでぼくが泳いでいると、海がまっぷたつに割れて、そこのすきまにぼくが落ちてってしまうんです。それで、ぼくが落ちてゆくとき、暗い色の海の壁からたくさんの白い木の枝がにょきにょき生えてきて、ぼくを突き刺そうとするから、ぼくはとても怖くてちぢこまって丸くなってたら、あんまり丸くなりすぎて、白くてかたい玉になってしまうのです。それでかたい殻に覆われているから、木の枝に刺されなくてすむぞっておもって、ほっとしてたら、底の地面について、ころころと坂道を転がってゆくんです。それで、そうやって転がってたら、お母さまのそばを通りすぎたような気がして、ぼくは戻りたいっておもうのですが、とまることができなくって、どこまでも転がっていって、真っ黒なおおきな山の谷までやってきて、やっととまることができたとほっとしてたら、ものすごいたくさんの黒い玉が山の上から転がってきて、ぼくがぐいぐい押されて、目の前に敷かれていた真っ赤な布にぼくがつつまれて、ぼくが黒い玉のなかに埋もれて見えなくなってしまって、それでお母さまってぼくがずっと呼んでたら、お母さまがぼくを起こしてくださいました」

 王女は自分が急に厳しくしだしたからSnow Whiteがこのような恐ろしい夢を見て魘されるのかと不憫に想い、今日ばっかりは優しくしてやろうとSnow Whiteを椅子から降ろすと赤いペルシャ絨毯の上で抱っこしてやった。落とされないように必死に母猿の胸にしがみつく仔猿のようにSnow Whiteは抱きついてまたなかなか離れようとしない。

王女はふとSnow Whiteが好きだったブルガリア童謡の「冬の歌」を想いだして歌った。

 

ハイヤハイヤ原っぱに鈴の音ふりまいて
ちいさいそり走るよ真っ白なみち
ずんずんずんずんずんずんずんずん
真っ白なみち
ずんずんずんずんずんずんずんずん
真っ白なみち

 

するとSnow Whiteも喜んで一緒に歌いだした。

 

ららら ららららら ららら ららららら

きらきら光るよ仔馬のたてがみ
どこまで行くんだろ林を縫って
ずんずんずんずんずんずんずんずん
林を縫って
ずんずんずんずんずんずんずんずん
林を縫って

ららら ららららら ららら ららららら

みんなみんな雪帽子えんとつが嬉しがって
繰りだす煙は毛糸のようだ
ずんずんずんずんずんずんずんずん
毛糸のようだ
ずんずんずんずんずんずんずんずん
毛糸のようだ

ららら ららららら ららら ららららら

 

Snow Whiteは今年から聖歌を歌うための発声練習も受けだしたため、その声はとても透きとおって聴いていると心地がよかった。

飽きることをしらないかのようにSnow Whiteはなんべんも嬉しそうに繰りかえし歌った。

 

それから一週間ほど、王女はSnow Whiteが怖い夢を見ないように甘やかせて側にいてやることにした。

王の容態はずっと良くもならず悪くもならなかった。

 

いつまでも甘やかしていてはSnow Whiteのためにならないと想い、王女は明日からはまた厳しくしようと考えながら揺り椅子に座ってSnow Whiteの洋服の取れたボタンを縫いつけていると、傍で紙を切って遊んでいたSnow Whiteがまた抱っこをせがんできた。

王女が「ボタンを取りつけるまで待って」と言ったにも関わらず、だだをこねだした。

いつもなら一度言えばうんちが一週間でないような顔をしながらもじっと我慢しているのに今日は何故かおとなしく言うことを聴いてくれない。

また怖い夢でも見たのだろうかと想った王女は仕方なく縫っていたものを窓枠のうえに置くとSnow Whiteを膝のうえに載せて抱っこした。

そうして揺り椅子をゆらゆら揺らして窓の外を眺めながらふたりでうとうととしていると、一向に降りようとしないSnow Whiteの重みにだんだんとしびれてきてつらくなってきた。

なので王女はSnow Whiteに「お母さまは疲れてきたので降りなさい」と言った。

ところがSnow Whiteは獲物を逃がさぬように絡みついて離れない蛸のように離れる様子もない。

「おまえはタコかっ」とどたまをしばいてみたが、それでもじっとしがみついて動こうともしない。

王女は「ふぅ、しんどい」とわざとらしく言いながらふとエンドテーブルに目を向けるとそのうえに”大人もぞっとする初版グリム童話”が載っかってるのを見つけ、手にとって「お話を読んであげるから降りて頂戴」と言った。

それでもSnow Whiteは言うことを聴こうとはしなかった。

王女は溜め息をおおきくつきながらグリム童話集の目次をぱらぱらとめくってみると、そこに「わがままな子ども」という話があるのを見つけ、今のわがままの過ぎたわが子に聴かせるにはちょうど良いかもしれないと想ってそれを読んでやることにした。

王女はSnow Whiteの胸に響きやすくするために即興でこの話をさらに脚色して読んでやろうと考え、頭の中で大まかに草案を練ると朗読し始めた。

 

 

「わがままな子ども」

 

むかしむかしあるところに、たいへんわがままで母親を困らせてばかりいる男の子がいました。

母親は子どもが可愛かったので、甘やかせて育ててしまったのです。

子どもが望む食べものはなんでも与えてやり、また欲しいと求めるおもちゃや絵本などもすべて与えてやりました。

だのに子どもは、母親の言うことを聴けないわがままな子に育ってしまい、母親は悲しみに暮れました。

いったいなんのために、わたしは腹を痛めてまでこの子を産んだであろう。と母親は嘆きました。

なんどおなじことを言っても、子供は母親の言うことに耳を貸そうとはせず、かたくなに我をとおしては、だだをこねたりしました。

母親は、どうにかまっとうに育ってはくれぬものだろうか、といつも願っておりました。

しかし子どものわがままはなくなる気配を見せません。

その様子を、天からも神さまはいつでもご覧になっておられました。

神さまは子どもを愛するがゆえに、子どもに厳しいお方でありますので、子どもに罰をお与えになりました。

神の罰によって、子どもは病の果て、母親の看病も虚しく死んでしまいました。

子どもの亡骸(なきがら)は、墓地の土の下に埋葬されました。

翌日の朝、母親は子どもへの未練で墓地へとやってきました。

すると子どもを埋葬したその場所から、なにか白く太いものが生えていました。

はて、あれはなにか…と恐るおそる母親は近づいてみますと、おそろしいことに、それは子どもの大きさのちいさな腕でありました。

生白いその手はなにかをつかもうとするかのような形で空へと伸びていました。

白い枝のようなその腕を見つめ、母親はわっと土のうえに突っ伏して泣きました。

自分が甘やかしたから、こうやって死んでもなおわたしを求めようとしているのだとおもったのです。

母親は土を掘ってその腕を折り曲げると土をかけて神に祈りました。

そしてつぎの朝、母親はまた墓地へやってきて、子どもを埋葬した場所を見てみると、母親のこころはまたもや凍りつきました。

まるで白い墓標のように、ぬっくと昨日とおなじに腕が生えていたからです。

”ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きていた時の苦労にみちた”

とでも今にも話しだしそうなほど、それは生々しく生きたものであるように見えました。

じっとわが子の名残惜しそうな腕を見つめていると、悲しみにひきさかれそうになり、その腕のまえにひざまずいて日が暮れるまで神に祈りつづけました。

そして腕をまた折り曲げて仕舞い込むと土をかぶせ、その場を離れました。

次の朝、その次の朝も腕は出ていませんでした。

母親はやっと子どもを成仏させられたと安心しました。

そして三日目の朝に母親が墓地を訪れ、そのほうへ目をやると、母親はその場に頽(くずお)れました。

白い腕は再び生えていたのです。

母親はどうすれば息子が成仏して安らかに天へ昇っていけるのか必死にかんがえました。

そして意を決すると、母親は家に戻り、あるものを手にしてまた墓地へとやってきました。

それは革でできたかたく丈夫な腰帯でした。

その鞭で、母親は息子の腕を打ちつけました。

なんどもなんども打ちつけました。

白い腕はやがて、身を引き裂かれて血を流しました。

それでも母親は鞭で打ちつけるのをやめませんでした。

真っ赤な肉に覆われたその腕はその内にある真っ白な骨を現しました。

母親はそれでも手を止めることをしませんでした。

日はとうに暮れて、あたりは静かな闇が息を潜めているようでした。

とうとう息子の腕は白い骨だけの姿に成り果てたそのときです。

その白い骨の腕は項垂れるように折れて、その瞬間、塵になってはらはらと地のうえに落ちました。

母親はその土のうえに顔をうずめて夜が明けるまで泣きつづけ、それからはもう二度と息子の腕が現れることはありませんでした。

 

 

 

 

 心の中で唸って考えつつながい間(ま)を置いたりしながらゆっくりと読んでいるうちに、気魄(きはく)がこもってきて王女は最後まで読み終わると涙が滲んで我ながら良い脚色ができたと自分に対して感動した。

そして静かにそれを聴いていたコアラの赤ちゃんのように抱きついたままのSnow Whiteの頭を強引にこちらへ傾けて顔を覗きこんでみると、非常に複雑な表情を浮かべて固まっていた。

「もうお母さまは限界です」と大げさに言ってみた。

それでも動かないSnow Whiteを無理矢理引き剥がそうとしたら、それまで以上に強く抱きついてきだした。

あんなにがんばって即興で心を入れ替えさせるために作りあげたのにぜんぜん説得できていない…と王女は途方に暮れた。

「もう、怒るよ、いい加減、お母さまも怒るし、神さまも怒るよ」と王女は警告した。

それでもどうしたのだろうかSnow Whiteはぷるぷる震えだしながらも離れようとはしない。

「なぜ、なにゆえに今日はそんなに言うことが聴けないの」と王女は言った。

するとSnow Whiteは小さい声を震わせながら答えた。

Snow White「お母さまと離れることがおそろしいのです」

王女は痛みに腰をずらしながら言った。

王女「いったいなにがおそろしいのでしょう」

Snow White「お母さまがもうぼくのことを抱っこしてくださらないかもしれないことがおそろしいのです」

王女はほんとうに全身の痺れが限界に来てたまらず、ある考えが浮かんでしびれを切らして言った。

王女「おまえはそうは言うけれども、おまえが離れない場合、別の恐ろしいことが待っているかもしれないよ」

顔をひょこっとあげてSnow Whiteは訊いた。

Snow White「それはどのようなことですか?」

王女「おまえにお尻ペンペンのお仕置きをしてあげましょうか?」

怖くなさそうな言い方をあえて王女はしたが、感性の鋭い息子には先ほどの話を聴いて鞭打ちというものがどれほど重苦しい刑罰であるかはきっと伝わってくれると想ったのだった。

自分は幼い時分に嫌というほど尻を鞭で打たれたことがあるが、痛いってなもんではなかった。

腹からの絶叫をせずにはおれないくらいの痛みと恐怖であった。

もっとも4歳まで母親にも打たれていたと聴いたが、母親の記憶は残っていないため、どのように母がわたしの尻を鞭で打っていたのかはわからない。

王から受けてきたその罰の痛みと恐怖の記憶が鮮明にあるため、王女はSnow Whiteに対して鞭打ちのしつけをこれまでしてこなかった。

聖書には箴言

 

13:24 鞭をくはへざる者はその子を憎むなり 子を愛する者はしきりに之をいましむ

(鞭を加えない者はその子を憎むのである、子を愛する者は、つとめてこれを懲らしめる)

23:13 子を懲すことを爲(なさ)ざるなかれ 鞭をもて彼を打とも死ることあらじ

(子を懲らすことを、さし控えてはならない、鞭で彼を打っても死ぬことはない)

23:14 もし鞭をもて彼をうたばその霊魂を陰府より救ふことをえん

(もし、鞭で彼を打つならば、その命を陰府から救うことができる)

 

 

という言葉があるとおり、キリスト教徒にとって子どもに対する鞭打ちのしつけは当たり前のものとして皆おこなっているのだが自分は神に逆らい、息子に鞭で打つことをしてこなかった。

 だからこれほどまで我を通しつづける子に成り果ててしまったのであろうか?

王女は本当は素直で善い子であるはずのSnow Whiteの返事に期待した。

 Snow Whiteはすこしまを置くとこう答えた。

Snow White「ぼくは構いません。それよりもお母さまと離れることがぼくはつらいのです」

王女はそれを聴いて、なにかが音もなくぷつんと切れたような感触を味わった。

まるで自分の即興の力作がまったく意味を成さずに伝わるものではなかったと言われているようにも感じた。

王女「わかりました。それではSnow White。お母さまから離れなさい。お母さまは鞭を持ってまいります」

Snow Whiteは王女の首に両腕を巻きつけて離れまいとした。

王女は力尽くでSnow Whiteを引き剥がし、突き飛ばして床に放りだした。

そして王の部屋に入って、父の衣装戸棚の引きだしの奥から自分が打たれてきた黒く太い罅(ひび)割れた革の鞭を取りだすと鼻息荒くして急いで部屋に舞い戻り、Snow Whiteに向かって叫んだ。

王女「お母さまに向けてお尻を出しなさい!」

Snow Whiteは驚いた顔でびくびくしながらもちいさなお尻をこちらへぷりっと向けて両手両膝を床につけた姿勢になった。

王女はSnow Whiteの頬を思いきり手の甲で叩いた。

王女「甘えたことを考えるな。お母さまはお尻になにをも付けず打たれたのです」

Snow Whiteは言ったことを理解して青褪めながらも恥ずかしそうにためらいがちにズボンとパンツを下ろすと、またぷりっとこちらへ向けた。

その瞬間、王女は王がやっていたのと同じに長いベルトを三つに折り曲げ、三重にした革の鞭の端を力強く握ると、手加減なしでSnow Whiteのお尻に打ちつけた。

「ぎゃあっ!」と自分があげたと同じ悲鳴が聞こえて、王女は満足した。

これが最初で最後の鞭打ちであることを願って、力を緩めずに震える手で十回、鞭を打ちつづけた。

十回とも同じように悲鳴をあげながらも逃げることもせずじっと耐えつづけたSnow Whiteを褒めてやる気力も残らないほど王女は力を使い果たし、鞭打ちを終えた途端、その場に倒れこんでしまった。

激しい鼓動と呼吸はなかなかやすまらず、我が子に鞭を与えることがこれほど精神的にも体力的にもきついものであることを王女は初めて知った。

Snow Whiteはみみず腫れしている真っ赤なお尻をだしたままで王女を心配していた。

そしてパンツとズボンを上げると王女の顔を床に顔つけて覗きこんで「お母さま…大丈夫ですか…?」と涙でぐしょぐしょの顔で言った。

王女は放心したままで頭だけ何度も振って、まだ震えがやまない手で我が息子の頭を撫でた。

 Snow Whiteは泣いて鼻水をすすりながら何度も「ごめんなさい」と謝った。

王女はもうこんなことはしたくないと想った。そしてSnow Whiteに「お母さまはもう二度とおまえのお尻を打(ぶ)ちたくはない」と言って目を瞑って瞼の隙間から涙を流した。

Snow Whiteは王女の胸に顔をうずめて嗚咽をもらしてずっと泣いていた。

 

次の日から王女は午前中は王の看病にあたり、午後はSnow Whiteの面倒を見てやることにした。

王女が王のもとへゆくと、王はいつもほっとしたような顔を浮かべると同時に申し訳なさそうな顔をした。

王が床に伏せていることを王女はSnow Whiteに黙っていることにしたのは、王がSnow Whiteのことを愛していないことを王女も気づいていたからだった。

自分を愛してもいない王の為に、祈りなさいと言われることはSnow Whiteにとってどれほど酷なことであるかを王女は想像した。

王女は王が死んでしまうまえに、Snow Whiteはまぎれもなく王の子であるということを、王からどんなに恨まれようとも告白するべきではないかと日々さいなまれては思い定まらないことに胸を痛めた。

Snow Whiteはまだ知らない。王が自分の母の父上であるということを。

宮殿に暮らす者すべてに本当のことを言わないようにと掟を堅く護らせてきたし、王女が「お父様」と呼ぶときは、Snow Whiteにとっての父王という意味で理解させてきた。

わたしは王にもSnow Whiteにも重大な嘘をついてきた。

ただ自分を護るために…。

自分は真っ当な人間であると欺き、愛されるが為に。

わたしの罪を少しでも軽くするために、わたしは焦っているのだろうか。

本当のことを打ち明け、王を悲しみの底へ突き堕とし、王をその苦しみのなかに死なせるつもりなのか。

王女がいつものように部屋でひとりで静かに泣いていると、いつしか側には鏡の男が現れ、王女を優しく慰めた。

自分の苦衷(くちゅう)を鏡の男に話すと鏡の男はこう答えた。

「わたしの愛しい王女さま、お答えいたします。あなたはぜひ王に告白するべきです。そうすれば王はますます悲しみ、王の悲しみによってあなたもよりいっそう悲しみ、その悲劇はあなたを愈(いよいよ)美しくさせるからです」

それを聴いた王女は両手で顔を覆って激しく泣いた。

鏡の男は静かにその情況を打ち眺め、優しく微笑を浮かべた。

 

それからひとつきほどが経ったころ、王女は昼間から鏡の男による慰みを受けて、その肉体がもたらす悦びに耽っていると、突如ドアの前で悲痛な声で呼ばわる家来の声が聞こえた瞬間、激しい動揺に身を震わし、信じたくない思いで着ていた衣服の乱れをととのえると今にも倒れそうな心地のなか悪夢を見ているかのような思いでドアを開けた。

緊張して血相を変えた家来の言葉に王女の怖れの予感は当たってしまった。

王のもとへ王女は走ると、そこにはベッドに座って息も絶えだえとなってとても苦しそうに息をしている王の姿があった。

お父様がこんなに苦しんでいるときに自分は快楽を貪って王のことを忘れていた。

王女は見せられる顔も言葉も失い、ただずっと泣きながらそばにいることしかできなかった。

王は手を伸ばして王女の手を握ろうとしたが、握る力は最早残されておらず、王女は自分の身体のすべてが汚らわしく思えたので、自分の汚れた手で王の手を握りかえしてやることもできずに王の手は力なくベッドのうえに落ちた。

 

王にこのいつまでつづくかもわからない拷問のような苦しみに死がやってくるまで耐えつづけさせるわけにはいかなかったので、医者が急いでケシとヒヨスとマンドレイクとを持ってきて、その強烈な麻酔薬によって王はとうとう意識を失ったまま眠りつづけてしまいました。

 

王女は家来の者と交代しながら眠りつづける王をつきっきりで看ることにしました。

王は麻酔で眠りながらも、時おり目が覚めるのか、苦しそうに身体を動かすことが何度とありました。

最愛の父がこれほど苦しんでいるのに何もしてやれない苦しみは王女の今まででいちばん苦しいものでした。

地獄のような苦しみがつづくなか、王女は昨晩ふと思いついて脚色して書いた物語を本の大好きなSnow Whiteに朗読してあげようと想い、夕餉のあとにSnow Whiteの部屋のベッドに自分も横たわった。

Snow Whiteはなにもしらされずに王女の胸に耳をあてて鼓動を聴きながらおとなしくしている。

グリム童話の「死神と鵝鳥(がちょう)の番人」という短い話を修飾してほとんど様変わりした話を王女は朗読し始めた。

 

 

「死神と鵝鳥の番人」

 

むかしむかしあるところに、ひとりの女が、心(うら)悲しいかおをして白い鵝鳥の番をしておりました。

鵝鳥はひとかたまりとなって忠実に女のあとをおっておりますと、女はふらふらと波のたかまった荒れたおおきな川岸へとむかってあるいてゆきました。

 空は黒く、いまにも墜ちてきそうなほどひくく垂れこめて嵐がやってきそうなけはいです。

女は黒い川の岸を、もの思いに耽りながら歩いていると、そこへ一人の死神が川をわたってやってきました。

そして女のまえにたちどまると、死神は女にむかっていいました。

「おまえはどこからきて、どこへむかうつもりか」

女はぼんやりとした顔でどこを見るともなくこたえました。

「わたしはどこからきたかをわかりませんし、どこへむかうかもわかりません」

黒い波は胸のあたりまでうちつけてきます。

女は死神にたずねました。

「あなたはどちらからいらして、どちらへおいでですか」

死神はすぐさまこたえた。

「わたしは川のなかからきて、この世のなかからたち去る者である」

番人の女は、どうしたらこの世を去って、ほかのどこかへゆけるのでしょう、とひとりごとをいうように言いました。

死神はそれにこたえた。

「この川をこえれば、向こう岸におまえの知らぬ世のなかがある。しかしおまえはまだゆけそうにない。なぜならおまえいがいに連れてゆかねばならぬ者が嫌というほどいる。おまえの時はまだである。だからもとの岸へ戻るように」

女はそれをきいて心がおれたのか、そのばに気をうしなって川のしたへ沈んでゆきました。

すると死神は女のからだを川の底からひきあげると女をだきかかえて岸まで川のなかを歩いてゆきました。

ひとかたまりの白い鵝鳥は女を心配していっしょになって女の着ていた衣を口ばしでつかんではひっぱっておよぎました。

しかしよくじつには、またもや女は暗い川を渡ろうとその身体を腰までつけて歩いておりました。

この死神の仕事は、人を死へ連れてゆくだけではなく、死に連れてはゆけないものを連れもどすことでもあったため、また女のまえに現れては女をたすけました。

死神は女に向かって「おまえはまだどうしたって死ねないのだから、あきらめて生きるように」と言いました。

女はそれでもこの世で生きることがあんまり苦しかったもので死神の言いつけには聴かず、なんども真っ暗な川を渡ろうと冷たい川底を歩きました。

そのたびに、死神は女をすくって地へ連れもどしてやりました。

ある晩に、女はじぶんをたすけたあと去ってゆこうとする死神に声をかけました。

「どうかわたしをたすけてください。わたしはこの世に未練はございません。この世はわたしにとって耐えられる苦しみではありません。あなたになんでも差しあげますので、どうかわたしをここではないどこかへ連れてってください」

死神はそう言われて、すこし考えてこたえました。

「ここではないどこかが、ここより楽な世だとは決まってはいない。おまえはそれでもここよりほかを望むというのか」

女はふるえながら言いました。

「たとえここより苦しくても、きっとその苦しみはほかの苦しみでありましょう。ほかの苦しみならわたしは耐えられるかもしれません。どうかおねがいします。わたしをいまの苦しみからたすけてください」

死神はまた考えて黙りました。

そして女のもとに近づくとこう言いました。

「ではおまえがそのためにわたしに差しださねばならぬものがなにかをこたえてやろう。それはおまえの感情のすべてである。おまえはこのさき、感情のすべてを失って生きてゆくことになるが、それでもよいのならば死の向こう岸へおまえを連れてってやろう」

女は喜んでこたえた。

「わたしはこの感情があるために苦しいのです。喜んであなたさまに差しあげます。ですから向こう岸へわたしを渡らせてください」

死神はじぶんの仕事に退屈さをかんじていたので、人間のようなゆたかな感情が手にはいるのならば、どんなにか面白いものだろうとかんがえ、その見返りに女の願いを聴いてやることにした。

しかし人間の感情をもてば死神はほとんどの力をうしなうことを知っていましたので、もう死の向こう岸へはじぶんは戻れないことをわかっていました。

死神は「おまえの願いを聴いてやろう」と言うと、その手を女の頭にあて、女のなかから感情のすべてをすいこみました。

するとそのしゅんかん、死神は女がなんとも愛おしくなり、女を抱きしめるとこう言いました。

「嗚呼なんということか、わたしはおまえを愛してしまった。おまえと離れることはたえられないためにおまえを死の向こう岸へ連れてってやることはできない。どうかわたしをゆるしたまえ」

しかし女はなにもひとこともこたえませんでした。

女は念願の感情のすべてをうしない、悲しむことも苦しむことからも解きはなたれ、愛される喜びからも同時に解きはなたれたからです。

女はまるで人形のようになってしまいましたが、それでも死神は女を愛おしくおもうきもちはかわることなく女を愛しつづけ、女と結婚してふたりはなにがあっても離れぬという契約を結ばせました。

こうして女は死神の花嫁となりましたが、女が番をしていたひとかたまりの白い鵝鳥たちは女がじぶんを可愛がってくれないので、女のかわりに死神をまいにちつついてはなげきつづけて鳴きました。

 

 

 

 

 

読み終わって王女は帳面を閉じ、Snow Whiteの顔を覗きこむと物憂げな表情を浮かべていた。

王女はSnow Whiteの身体をどかせ横を向いてSnow Whiteを抱き寄せると神に祈った。

神よ、どうかわたしを御赦しください。お父様を戻らせてください。

心のなかで祈っていると、Snow Whiteが口をひらいた。

Snow White「お母さま、死とは、どのようなところなのですか?」

王女は死をイメージして、静かに応えた。

王女「死とは、どのようなところかが、わからない場所なのです。だから人々は死を恐れたり、または死が素晴らしいところであると願ってはあらゆる死が人々の心のなかに在るのです」

Snow Whiteはじっと目をつむって考えてから言った。

Snow White「ぼくは死が、どのようなところか想像がつきません。お母さまは死はどのようなところだと思いますか?」

王女は目を見開いて死を想った。

王女「お母さまにとって死は、はっきりとしないため、そこは真っ暗なのです」

Snow Whiteは王女をぎゅっと抱きしめると言った。

Snow White「ぼくはお母さまが死んでしまったならぼくもいっしょに死んでしまいます」

王女「おまえが死んでしまったら、いったいだれがお母さまを死から連れもどせるというのでしょう」

そう言って王女はSnow Whiteの肩を涙でぬらした。

すこししてSnow Whiteがたずねた。

Snow White「どうしたらお母さまを死から連れもどせるのですか?」

王女はSnow Whiteの身体をはがして仰向けになり、胸のうえで手を組むと目を瞑って応えた。

王女「それはお母さまではなく、おまえが考えることです」

Snow Whiteはまた横から王女に抱きつくと、「ぼくはぜったいにお母さまを連れもどしてみせます」と言った。

王女はそれに返事をせずに意識が遠のいてゆき、眠りのなかにおちていった。

 

 それから一週間がすぎた日、王は王女や親族の見守るなかに静かに息を引きとられた。

 王女はじぶんのせいで王が死んでしまったのだとおもっては周りが当惑するほどなんども声を出して泣き崩れた。

そしてその晩遅く、どんなに泣きつづけてもまったく悲しみが変わらず、あまりの苦しさと、王と同じ場所にゆきたいと切に願い、王女は王のあとを追ってじぶんも死に向かうことを決めてベッドから立ちあがりかけたが、そのときSnow Whiteの泣き叫んで悲しむ姿が浮かび、またベッドに倒れこんで静かに泣きつづけ、泣きつかれてようやく眠った。

 

 つぎの日、王の眠る寝室の側の大居室で王女がソファーに横たわって泣いていると、Snow Whiteが部屋に入ってきた。

王女は起きあがって涙をぬぐっているとSnow Whiteが目のまえにやってきて思いつめたような顔でたずねた。

Snow White「お母さま、お父さまは…何故死んでしまったのですか?」

王女は王の跡を継ぐ我が息子に、もうこれ以上の嘘をつくのに耐えかね、ほんとうのことを告げることにした。

王女「お父様は…おそらく何者かに毒を盛られ、それが原因で死んでしまったようです」

すると、言い終わった瞬間Snow Whiteは目が据わった状態でかすかに痙攣しだし、まるでてんかん発作が出たように様子がおかしくなり、その場に気を失って倒れこんでしまった。

幸い、向かいのソファーに倒れこんだので床に頭を打ちつけなくて王女はほっとしたが、心配で家来の者を呼びに行こうとしたそのとき、ふと気づくと側に鏡の男がいた。

鏡の男はすばやい動作でSnow Whiteの衣服の前を開けると心臓のうえあたりに手を置いて目を閉じ、王女に向き直ると言った。

「心配は要りません。ただショックのあまりに気を失ってしまったようです」

それを聴いて王女は安心し、憐れなSnow Whiteの胸に顔を押しつけて声もなく泣いた。

鏡の男は優しい声で話しだした。

「半月ほどまえのことです。王女さまのいない部屋に、王太子さまがひとりで入ってきました。王女さまがここにもいないと知って彼は泣いていました。何分経っても泣いているので、わたしは彼の名を呼びました。すると彼は気づいて、鏡のなかを覗きこみました。真っ暗な鏡のなかに怖れながらも興味深く彼はずっとわたしを眺めておりました。わたしはもう一度、彼の名を呼びました。そして彼のほんとうの願いを、わたしは受けとりました。わたしは彼にひとつの、液体の入った金色の小瓶をそのちいさな手のなかに仕舞いこませました。そうして彼に言いました。”その液を飲む者はあなたの願いを叶えます。たとえば、王さまは王女さまを忘れることを叶えてくださり、王さまから忘れ去られた王女さまはあなたのものとなることを叶えてくださります”彼はおそるおそる金色の小瓶を眺めて言いました。”これをお父さまに飲ませれば、お母さまはぼくをいちばんに愛してくださるのですか?”わたしは応えました。”その通りでございます。しかし忘れてはなりません。その願いを聴き届けてくださるのは王さまです。王さまはあなたには王女さまがいちばん必要なことを知っておられるからです。そのため、王女さまはあなたのものになるのです”彼はわたしに向かって”ありがとう”と礼を述べると大事そうに金色の小瓶をポケットに仕舞いこんで部屋を飛びでてゆきました」

王女は全身の血の気が引く思いで顔をあげると、鏡の男の姿は消えて部屋のなかはしんと鎮まりかえっていた。

忙然と、気の遠くなる感覚のなか、王女はSnow Whiteをそのままに部屋に残してじぶんの部屋にふらつきながらたどり着き、ベッドに突っ伏すように倒れた。

 

王の葬式の日、王女はSnow Whiteを王の埋葬する場所へ連れて行かなかった。

年が明けたばかりの凍えるような寒さのなか雪は降りしきり、家来の者に着させられた真っ黒な喪服姿でSnow Whiteは王女の乗る馬車を追いかけて転び、膝をすりむかせた。

白い雪のうえに血を膝から垂らし、目からは涙、鼻からは洟を垂らしながらSnow Whiteはお城へ帰った。

 

王女はじぶんを恨み、Snow Whiteを恨み、鏡の男を恨んだ。

それでもやっぱりいちばん憎いのは自分自身であった。

王女は鏡の男に向かって言った。

「もうおまえは、二度と姿をわたしのまえに現すな」

鏡の男は王女のまえにひざまずいて顔を伏せると応えた。

「畏(かしこ)まりました。わたしはあなたが呼ばない限り、もう二度とあなたのまえに現れることはありません。それではわたしは鏡のなかへと戻ります」

王女が瞬きをするあいだに鏡の男の姿は音もなく消え去っていた。

闇を映す鏡を紅い布で覆うと王女はベッドに横たわって自分への憎悪に胸を掻き毟り、この苦しみが去ることをただただ願った。

 

幾日か経ち、Snow Whiteは八歳の誕生日を向かえ、王女は二十三歳となっていた。

王女はあの日以来、Snow Whiteの顔を見ると恨みが募って苦しくなるため、可能な限りSnow Whiteと会うことを避けて過ごした。

食事は自分の部屋へ運ばせ、入浴はSnow Whiteが寝静まったあとに行なうなど、廊下で鉢合わすことにも怯えた。

この頃から、Snow Whiteは原因不明の高熱によく魘されるようになったが、それでも王女はみずから看病することをせず、我が子の世話のすべてを家来の者にさせた。

王がこの世を去ってこの国の最高位に王女は即位し、王女は女王となって国王を継ぎ、君主へと君臨した。

 しかし王女は王が死んだあとも自分は愛する王の妻である前に娘であることを示したいが為に、城のなかでは城の者すべてに女王ではなく「王女」と呼ばせることを定めた。

 

そしていちねんがすぎて、Snow Whiteは九歳、王女は二十四歳となった。

この年から、いよいよ国の情勢は危機的な状況へと向かい、城の領主たちはこぞって戦場に向かわねばならなくなった。女王としての国を護る責任は重くのしかかり、王女はいくつもの国に援助を求めてあらゆる方法で暗号を送りつづけなくてはならなかった。

宮殿内をあちこちと忙しく走り回らなくてはならない日々がつづき、そうなってはSnow Whiteと何度も顔を合わしてその度に泣いてしがみつかれなくてはならなくなった。

力尽くで引き剥がそうとしても力の強くなったSnow Whiteは否が応にも黙って離れようともしない。王女はその為に何遍もSnow Whiteの頬を引っ叩(ぱた)かなくてはならなかった。

そうすると奥へ閉じ込めていた憎しみは表へでてきて床に投げだされたSnow Whiteは王女からしつこく身体中を叩かれては責め苛(さいな)まれた。

愛する母に避けられ憎まれるSnow Whiteの悲しみはどんどん深まってゆき、じぶんを憎みつづける王女の悲しみもまたどこまでも深まって行った。

 

そうしてまたときはすぎさり、Snow Whiteは十歳、王女は二十五歳となった。

戦場へ向かって帰らぬ者は増える一方で、明日にでも滅ぼされるかもしれない不安のなか、城中は切迫した空気がどこにも漂っていた。

Snow Whiteにはこの年から騎士になるためのより本格的な馬術と剣術、それから社交のために必要なチェスなどの遊びと様々な言語を学ばせ、できる限り勉強に忙しくさせて自分と出遭うことのないようにさせた。

王女は我が子の育て方が間違っていたのだと心底後悔した。

もっともっと厳格に育てるべきだった。そうすればこのように母親に依存して甘えつづけるような子にはならなかったはずだ。

生まれてすぐ乳母と廷臣に預けていたなら母親がいなくても平気なもっと早く自立した子に育ったはずだ。

自分はみずから乳を我が子に与えるべきではなかった。

ほんのすこしでもだだをこねたら鞭を打って叱るべきだった。

自分の育て方が甘かった為、王は我が子の手によって死ぬはめになった。

甘やかすことは愛でもなんでもなかった。我が子を苦しめ、親を苦しめることだった。

子は親を憎んで死に至らせ、親は子を憎むというこの悲劇はいつまでつづくのか。

王女はこの窓から同じように雪景色を眺めながら子を産みたいと強く願った日のことを想いだし、黒檀の窓枠に頬をつけて涙を流した。

ほんとうに美しい子がほしいとたしかにわたしは願った。

 

またいちねんのつきひはながれ、Snow Whiteは十一歳、王女は二十六歳となった。

 情勢はよくなるどころか悪くなってゆくばかりで暗澹たる国の将来を憂いては城のなかから賑やかさは消え失せ、空気は冷たく張りつめだした。

王女の精神はこの頃から著しく不安定になって行った。

酷いときは昼過ぎに城のそとへひとりで何も告げずにこっそり出掛けたきり戻ってこず、夜明け方にぼろぼろになったドレス姿で帰ってきて家来の男に尋ねられると王女は子どものようなあどけない表情をして「お父様が呼んだ気がしたので海の見える丘まで行こうとしたのですが、山に入ると迷ってしまって、散々迷った挙句諦めて帰って参りましたの」などと応えるのだった。

従者たちは王女を心配し、王位はひとまず王太子へ譲位させ、王女はすべての責任を一度忘れて静かな別のお城でゆっくりと休ませて療治させるのが良いのではないかと考え始めた。

その話を重臣から一つの策として聴かされたとき、王女は素直にそれも悪くないと考えた。

王として即位すれば我が子も嫌でもしっかりしてくるかもしれないし、自分の過ちから皆に迷惑をかけることもなくなる。

むしろこれ以上迷惑をかけないためにも城のなかに幽閉してもらいたいとさえ思った。

しかしあくる日にはそんな淡い所望(しょもう)も、むなしくあぶくのように消えていった。

肝心の王になる人物が、部屋のなかに閉じこもったっきり出てこなくなってしまったからである。

みずからを幽閉するように、食事を運んでもドアを開けない、排泄はどうしているかと思えば、紙で箱を作ってそこに用を足し、窓から放りだす始末であった。

どうやらドア越しのSnow Whiteの悲痛に叫ぶ訴えを聴いてみると、どこかで家来の者が王女をほかの城へ住まわせることに決まりそうだと話していたのを聴いてしまったらしく、それに対してじぶんは断固反対するといった訴えであった。

王女はほかの者に立ち退くように言うと冷静にドアの前で言った。

王女「Snow White、おまえがそこまで反対するならお母さまはほかのお城へ住むのはやめにします。だからここを開けて頂戴」

するとSnow Whiteは嬉しそうな声でこう返した。

Snow White「お母さま!それはほんとうですか?ぼくはお母さまにお願いがあります。どうかぼくと…一週間おきに一日だけでいいですからぼくといっしょに眠ってください」

王女はそう来たか…と苦々しく想いながらも、次の王なる者がじぶんの排泄物を窓から捨てるなどという蛮行をこれ以上つづけさせるわけにはいかず、ここは致し方ないとはっきりと応えてやった。

王女「ほんとうですよ。わたしはこのお城に住みつづけることにします。そして一週間に一日なら、忙しいお母さまにもできるかもしれません。その願いをお母さまは聴きいれます。だからここを開けなさいSnow Whiteよ」

Snow White「今夜、いっしょに眠ってくださいますか?」

王女「ええ、そうしましょう。今夜はおまえの側でお母さまは眠ります」

するとガタゴトと家具か何かを動かしている音が聞こえて、ドアがひらいたと思うとSnow Whiteが飛びだしてきて王女に抱きついた。

じぶんと20cmも差がないと思うほど大きくなったSnow Whiteに王女は喜びよりも深く悲しみを覚えた。

その晩、我が子に対する狂おしい愛憎の想いを胸に抱えながら、Snow Whiteの甘えるまま胸に抱いてやった。

十一歳にもなって母親のとなりで眠ることを求む幼い我が子に、自分が休みたいが為に王を譲位することはあまりに無責任なことであると想えた。

これから城の者に迷惑をかけないためにしっかりせねばならない…。

王女はうとうととしたなかに気づくと目を瞑ってSnow Whiteの胸のなかに顔をうずめて泣いていた。

そしてSnow Whiteは王女の頭をちいさな手で優しく撫でているのだった。

 

それから、またいちねんがすぎ、Snow Whiteは十二歳、王女は二十七歳となった。

国はいつ占領され、王位を剥奪されてもおかしくない状況にあった。

地位から引き摺り下ろされたあとに結婚を拒むだけでも公開斬首刑に処される可能性がある。

我が子を王にするということは、いつその首を刎ねられてもおかしくない地に即位させるということである。

王が生きていたなら、このような情勢に追いこまれることはなかったのかもしれない。

王女は自分のしてきた選択がことごとく裏目に出ているように思えてならなかった。

 いっそのこと我が子を殺して自分も死に、すべてを終わらせたい想いに駆られた。

そんな母親の気持ちも知らずにSnow Whiteは一週間おきには幼児のように甘えて抱っこをせがんでくる。

もう十二歳だというのに…。

王女は絶望的な気持ちになり、ふと魔法の鏡に目をやった。

闇の深淵を覗きこむようにこうして眺めているとなぜ安心するのだろう。

母の愛がこの鏡に篭められているからだろうか。

王女は魔法の鏡に向かっていつもよく言っていた言葉を放った。

王女「鏡よ鏡、この世でいちばん美しいのはいったいだれであるのか」

姿を現すことを封じられた鏡は何の変わりもなくいつものように応えた。

鏡「王女さま、わたしの愛するただひとりの王女さまよ。わたしはあなたに真におこたえいたします。ここではあなたがいちばん美しい。だがこの世でいちばん美しいのはSnow Whiteです」

王女はそれを聴いた瞬間、笑いがこみあげた。

そしてそのあとには鏡を睨んで言った。

王女「おまえはわたしに封じこめられたのが悲しくてそんなことを言ってわたしをからかっているのね。そんな嘘をつかれるくらいなら、もう一度おまえを抱いてやるから出てきなさい」

すると鏡は即座に応えた。

鏡「わたしは嘘をあなたにつくことはけっしてありません。その必要は、どこにもないからです。わたしがあなたを恨むことはけっしてありません。なぜなら、わたしがあなたを恨んだところで、あなたは悲しまないことを知っているからです。あなたを悲しませるためにわたしは嘘をつきません。ほんとうのことが、あなたを最も悲しませるからです。Snow Whiteの悲しみを、あなたはまだ知らないのです」

一週間に一度も、わたしはいつも我慢してあの子を抱いて眠ってやっているというのに、我が子と心中しようかとまで思いつめているわたし以上にあの子の悲しみは深いというのか。王女はそう声には出さずに心のなかで言った。

鏡はそれに応えた。

鏡「王太子さまは王女さまの想っているよりずっと賢く、感性の鋭いお方です。彼は王女さまから憎悪を抱かれつづけていることをご存知です。そして王太子さまは、自分自身をも深く憎悪してこられました。それは王女さまがいちばん愛するのはじぶんではなく、王さまであることを知っていたからです。そのような苦しみを、あなたは知らないのです。いいえ、気づいてはいたのに、気づかない振りをしてきたのです。それはあなた以上に悲しい存在がこの世に在ってはならなかったからです。あなたは悲しみによって御自分の悲しみから救われてきたことを知っているからです。あなたを真に救うには、あなたがこの世でいちばん悲しい存在にならねばならなかったからです。しかしそれは、あなただけではなく、Snow Whiteも同じなのです。Snow Whiteは、あなたに最も愛される方法は、あなたの前で最も悲しんで見せることだとわかっています。彼もまた、悲しみに特別な価値を置いたのです。最愛のあなたに愛されるために。彼はあなたの想像するより遥かに悲しみの底にいつも打ちひしがれながら耐えています。あなたはSnow Whiteの悲しみを知るべきです」

王女はそれを聴いてSnow Whiteよりも鏡が憎くてたまらなくなり、そばにあった宝石で縁取られた小物入れを投げつけて割ってしまおうかと咄嗟に手に掴んで思った。

しかしこの鏡は母の形見であることを想いだし、手を止めた。

王女「もとはといえばおまえが、おまえがSnow Whiteに毒を渡さなければ、王は死なずにすんだのです。おまえが王を殺したのだ。おまえのせいで、王は死んだ。Snow Whiteがわたしよりも悲しくなったのはおまえのせいではないか。おまえはいったいわたしになにをしてくれたのだ。おまえはいったい…わたしになにをしてくれるというのか」

王女は鏡に訴えながら涙がとめどなくあふれてとまらなかった。

鏡はすこし黙ると、変わらない調子で優しくこう返した。

鏡「わたしがあなたに求めるものは、いつでもあなたがあなたに求めるすべてです。あなたはどうすればあなたが悲しくなるかをすべてご存知です」

鏡が言い終わらない前に王女は気づくと「黙れ!」と叫んでいた。

王女「それではまるで、まるで…わたしが悲しくなるために、わたしがお父様をこの手で殺したようではないか!おまえはそれ以上言うなら、出てくるがいい。今すぐ殺してやる」

鏡「王女さまがそれを真にお望みならば、わたしは喜んで殺されましょう」

王女は苦しくてしかたなかったが、何も応えなかった。

すると鏡はつづけてこう言った。

鏡「わたしは王女さまの真のお望みを叶える者です。わたしがいまから、王女さまの最愛なるお父様を蘇えらせる方法をお教えいたします。二番目に愛する者の心臓に、御自分の生き血を滴らせ、それに王さまの形見として残しておいた髪で包み、それを王さまのお墓のなかへ埋めて半月間王さまが蘇ることを祈りつづけてください。そうすれば必ずや王さまは蘇えり、また王女さまの前になんの変わりもないお姿で現れましょう」

王女は鏡が自分に黒魔術を教えていることが信じがたかった。魔法の鏡とは、黒魔術で生まれたものなのだろうか。王女はふざけて応えた。

王女「はて、二番目に愛する者とは、おまえのことであろうか?では出てきなさい。おまえの心臓を取ってやろう」

鏡「そうであるなら、どんなに光栄でございましょう。しかし残念ながら、あなたの二番目に愛する者は、わたしではございません」

王女「ふざけたことをぬかすな。それはSnow Whiteであるというのだろう?何が悲しくて、我が子を殺してまでお父様を蘇らさせねばならぬのであろう。いったいおまえのような者をだれが創ったのであろう」

鏡「わたしを御創りになったのは、あなたさまでございます。王女さま。わたしはあなたの鏡なのですから」

王女「わたしにしては、あんまり戯(たわ)けたことを言うものだ。おまえは何が憎くて、Snow Whiteを死に追いやるのであろう」

鏡「わたしはいつでも真剣に申しております。何故ならあなたは今、ほんとうの窮地に立たされ、Snow Whiteと共に死ぬことを真面目にお考えになっておられるからです。あなたとSnow White、二人共死ぬくらいなら、Snow Whiteひとりの死によって王を蘇えらせ、あなたが王の子としてもう一度Snow Whiteを生んで育てるほうがずっと良いはずだと、わたしは真にあなたを諫めます。あなたは愛するSnow Whiteを犠牲にすることで、何度でも遣り直すことができるのです。ただし、Snow Whiteは肉なる苦しみのないように死をお与えください。もし肉による苦しみを受けるならば、その苦しみは代々千年ののちも受継がれてゆくからです」

王女は深い息を吐くと鏡の闇を見つめた。

もう一度、もう一度遣り直せるならば、間違いだらけの小説を捨てて新たに書き始めるように、すべてを創り直せるならば…。

もう一度あの子を産めるというならば、そのときは、必ずお父様に言おう。Snow Whiteはわたしとお父様の子であるのだと。

王女は涙を瞼に浮かべ、ぞっとする想いのなかにも熱く切実な想いを湧きあがらせながら、鏡の言葉を信じてほとんど闇である光の見えるその心を決めた。

 

あくる朝、王女はこの国でいちばん腕の良い猟師を探して城へ連れてくるようにと家来の者に命じた。

そして三日後の朝はやく城へ着いた片目と口元以外は包帯で巻かれ頭巾を深く被った猟師に向かって、王女みずからその床に跪いて涙ながらに懇願した。

けっしてくるしませないように、一瞬で我が子を眠らせ、心臓だけを取ってその身体は獣に食われぬよう土深く掘って埋葬し、心臓を必ず持って帰ってきて欲しいと。そしてわたしがその場所を知って参ることができるために我が子を埋葬した場所には目印をつけて欲しいと。

猟師の男は褒美の金貨の半分を先に受けとると、ひどくしゃがれた声で必ずうまく仕留めてみせますと言い残して城の外へでた。

王女は急いでSnow Whiteの寝室へ入ると既に起きて馬術の服を着ようと寝巻きを脱いでいるSnow Whiteのもとへ駆け寄った。

Snow Whiteは脱いだ寝巻きをまた急いで着こんで恥ずかしそうに王女に向かって頬を赤らめた。

Snow White「お母さま、そんなに急いでどうされたのですか?」

王女はこの時、初めて心から愛おしいと感じてSnow Whiteをその手で抱きしめた。

そして怪しまれないためにすぐに身体を引き剥がすと平静を装って言った。

王女「お母さまは今日おまえに、とても大事な用を頼みたいの」

照れた顔ではにかむとSnow Whiteは応えた。

Snow White「お母さまがぼくに直々に頼まれるなんて珍しいですね。お母さまの頼みならぼくは喜んで聴きます。それはどのような任務ですか?」

王女はとてもSnow Whiteの目を見つめたまま告げることができず、目を伏せて応えた。

王女「それは…今お城の外にひとりの猟師がおまえを待っています。この国でいちばんの猟師が、おまえがもしこの先、山で迷ったときには必ずや役に立つすべとあらゆる貴重な技をおまえに教えてくださるから、おまえは今から降りてって、猟師に着いていきなさい。おまえが学ぶことは、これからきっとお母さまを護るためにも必要になることです。お母さまの大事な頼みとはそれのことです」

じぶんとわずか10cmほどの差まで伸びたSnow Whiteはまるで王女の顔を焼きつけようとでもしているかのようにしげしげと瞬(まじろ)ぎもせずに見つめながら応えた。

Snow White「喜んで務めます!お母さまを護れるようになるために、ぼくはもっともっと強くなりたいのです。猟師さんに会うのは初めてだからとても新鮮でどきどきします。ぼくは熊さんよりも強くなってお母さまと安心して森のなかでピクニックがいつかしたいです」

そう言ってSnow Whiteは無邪気に微笑んだ。

王女はそう言われて、Snow Whiteがまだちいさい時に、美しい湖のほとりでふたりであたたかい春のお日さまのしたでピクニックにでかけた日のことを想いだしてはその場にいたたまれなくなり、「そうだ、お母さまが作ったおまえの大好きなレモンケーキを持っていくといいわ。たくさん作ったのよ。ここで用意して待ってなさい」と言うと息を止めて部屋をでた。

ドアを閉めた瞬間、その場にしゃがみこんで口をふさいで声を殺して涙を十分に流すと、王女は一点を見つめながらすっくと立ち上がって部屋に戻り、昨夜一睡も眠れず、そないだに作っておいたレモンケーキをすべて紙で包んで袋に詰め、Snow Whiteのもとに走って戻った。

ドアを静かに開けた瞬間、そこには窓のそとを眺め勇ましい騎士の身なりで凛々しく立っている我が子の横顔があり、それが朝の眩しい光に照らされ、王女はこの世の永世がこの一瞬に集結しているように想えた。

その美しさに見惚れていると、Snow Whiteはすぐに振り返り、幼なごのように微笑んで目のまえに走ってきた。

王女はレモンケーキの入った袋を渡すと、Snow Whiteは「ほとんだ、たくさん作ってくださったんですね。ありがとうございますお母さま」と言って嬉しそうに笑った。

王女はSnow Whiteの頬に手をあてると、その頬と薔薇色の唇にキスをして、けどられないように微笑んで「帰ってきたら、おまえはたくさんお母さまにキスをしてくれるのを待っていますよ」と言うと、すぐに「さあ猟師さんが裏のお庭で待ちくたびれているわ、はやくゆきなさい」とSnow Whiteの身体を部屋の外へ向かわせた。

Snow Whiteがでていったあと、部屋に残された王女はそこにはもういない窓辺を見上げ、ベッドのうえに綺麗に折り畳んで置いてある白い寝巻きに顔をうずめ、頬をすりよせた。

 

猟師はSnow Whiteを山の奥深くまで連れて行った。

仰せのとおりに、ここでこの子どもを殺してしまわなければならないのだから、いったいこんなことを教えてどうなるのかと猟師はおもったが、それでもついつい、このキノコは猛毒だ、とか、これは切り傷に貼ればすぐ治る、とか、この花の蜜は甘いぞ、女のあれよりも甘い、などと猥談も交えながら訊かれもしないのに教えてしまうのだった。

Snow Whiteは心を許したのか、猟師に向かって、素直にたずねた。

Snow White「猟師さん、その顔の怪我は、いったいどうされたのですか?」

猟師はすこし言葉を濁して応えた。

猟師「これはなァ、ばかでっかい山男のような毛むくじゃらの野郎と本気で戦った結果だ、顔だけじゃない、身体中深手を負ったが、俺ぁぴんぴんしている。あそこだってまだびんびんになるし、なに、生きるになんの支障もない。目は片方しか見えねえが、前以上に見えるもんは見える。見えるっつったって、おまえのちんこにはもう毛が生えているのが見えるとか、そういうことじゃァねえぞ、もっといいもんが見える。たとえば…おい、ちょっと止まれ」

そう言うと猟師は目を瞑って耳をそばだてているような顔をした。

そして「うん、見えたぞ。約20メートル先に猪の親子がいる、ウリ坊は三匹だ。嘘でたらめじゃねェぞ、その証拠に俺はこの国でいちばんの猟師だとみんな呼んでいる、あれ、疑ってるような顔をしてねェなおまえ」と目を開けてSnow Whiteを見た。

Snow White「ぼくはあなたを疑ったりしません。それよりも、尊敬しています。だってすごいことです!仙人みたいな雰囲気だし、ぼくはとてもあなたといるとわくわくします」

猟師はうろたえてなんども咳払いをして言った。

猟師「そ、そんなに俺を褒めても、なんも、いいもんなんか出やしねェぞ」

Snow Whiteは軽快に歩きだして言った。

Snow White「ぼくはもうとっくに素晴らしいものをたくさんもらっています。猟師さんはそれに、とても面白いお方です。洒落や諧謔(かいぎゃく)や頓智(とんち)なども学んで、お母さまをうんと喜ばせたいものです」

猟師はずんずんと歩いていって黙りこんだ。

いったいなんの因果で俺ァこんな気の優しい子どもを殺さなけりゃならなくなったんだ。いったい何のわけあって、あの母親は息子を殺そうとしてんだろな。

猟師はこの国の王がどんな顔かも知らなかったし、ただ城の者からのお呼びだと頼まれてやってきたのでまさか自分に依頼した女が女王で、殺そうとしているのは王を受け継ぐ王太子であることを気づかなかった。

しかしつぎにSnow Whiteが発した言葉を聞いた瞬間、猟師は身が凍りついた。

Snow White「ぼくはつぎの王さまにならなくちゃだから、もっともっとたくさんのことを覚えて、賢くなりたいのです」

猟師「おっ、おっ、おお王さまだってか?おおおまえがか?」

Snow White「そうです。ぼくのお母さまは女王さまだから、ぼくが十分賢くなって準備ができたら、王に即位すると聴かされています」

猟師は激しく咳払いをすると俯いて「ほォ、おまえのおっかさんは、この国の女王様ときた、はははははは、そらァたまげて、言葉もでねぇ…」

猟師はもう帰りたいとおもった。国王の息子なんかを殺したことがあとでばれてみろい、俺ァ首を刎ねられちまう。俺は独り身で子もいねェが、まだまだ生きて、女を抱いたり、熊や猪と対決したりしたい、こう見えて俺ァまだ三十六歳だし?まだまだ生きる気びんびんなんだ。公開斬首刑なんてもん、屈辱も口惜しさもあったもんじゃねェ、まだ猪に踏んづけられて死ぬほうがましってもんだ。猟師なら。そうだろう?って俺ァだれに訊いてんだ?俺ァぜったいに厭だ、処刑なんかされたかねェぞ、くっそォ、いったいなんでこんなカルマが俺に圧し掛かってきたんだ、女王の命令を断ったらそんときゃァ結句俺ァ殺されちまうんだろうよ?権力者ってのはまったく脇目も振らず放逸(ほういつ)なことばかりしてやがる人間どもだ、放逸の法律っつってな、国民が汗水垂らした金で美味い酒飲んでは毎晩享楽に耽っていると聴く、くっそォ、ええなァ!俺もそんな暮らしがしてみてェってもんだ。嗚呼、せっかく殺されるって、言葉がおかしくなっちまったい、どうせ殺されるなら、報労の大金で放浪してだな、好い女を毎晩味わい尽くして、本気にさせたりしてみてェもんだなァ。俺ァほんとうに、こいつを殺すってェのか、こんなまだウリ坊みてェにあどけねェ小わっぱを。

猟師はかなり早足のじぶんにしっかりと着いて歩いてくるSnow Whiteをちらと見ては俺にできるのか…と尻込んで逡巡(しゅんじゅん)した。

 Snow Whiteはふっふっと言いながら一生懸命に着いてくる。なんてけなげな生き物だろう、と猟師はおもった。

これが人間とゆうものなのか。大好きな母親から殺されるほんのちょっとさきの未来も知らねェで…。

するとSnow Whiteが急に立ちどまって言いだした。

Snow White「猟師さん、ここらへんで休憩にいたしませんか?ぼくのお母さまが焼いたレモンケーキがたくさんあって、よかったら一緒に食べていただきたいのです」

猟師はけっこう歩いてきたし、いいだろうとおもい頷くと荷物を降ろして袋から茣蓙を取りだしてそのうえに座った。Snow Whiteもそこに腰を下ろし、レモンケーキを取りだして猟師に渡した。

猟師「おっ、ありがとよ」

猟師はうまそうな顔でそれを頬張って食べた。

王女がケーキと一緒に入れてくれた皮袋の水筒に入った紅茶を木のカップに入れてSnow Whiteは猟師に差しだした。するとちいさな黄色い木の葉が舞い込んできてそのカップのなかに船のように浮かんだ。

猟師とSnow Whiteは顔を見合わせて笑い、猟師はそれを受けとるとそのまま飲んで、こんな素直で気立ての良い嫁が俺ァ欲しいもんだとおもった。Snow Whiteはこうして眺めると、やけに中性的でまるででかい妖精か天使のように見えてくるのだった。

食べ終わってすこし寛いでいると「おい、Snow White」と猟師は呼びかけた。

Snow White「なんですか?猟師さん」

猟師「おまえ俺の嫁ンなれ。っていうのは冗談で、おまえはもう城へ戻らず俺とふたりで暮らせ、な、俺の養子になりゃァいいんだ、女王様に俺からそう頼んでやる」

そう言われて驚いたSnow Whiteははっきりと応えた。

Snow White「ぼくはお母さまのもとで暮らせないのなら、きっと死んでしまいます。ぼくはお母さまと、どうしても離れたくないのです。今日だって、帰ったらたくさんキスをするって約束をしたのです。お母さまは…ぼくを愛してくださっています。だからぼくはぜったいに、ほかのだれとも暮らしません」

猟師は片手で顔をこすった。包帯の下が痒いのだろうか。

そして片目でぎろりとSnow Whiteを覗くと言った。

猟師「そうか、おまえはそんなに、お母さまを愛してるのか、だったら俺ァ諦めるさ、しかしな、これは俺の命と、おまえの命が関わってる話なんだ」

そう言うと猟師は右の太股から目にも留まらぬ速さで小刀を抜き取るとSnow Whiteの両腕を左手一つでまとめて背中の後ろでひねり、同時に右手で持った刀を喉元へと押し当てた。

猟師は静かに眼をぎゅっと閉じているSnow Whiteに向かって言った。

猟師「可哀想だが、女王様にも何か深いわけでもあるんだろう。おまえが俺と逃げねェってぇなら俺はおまえを殺すしかねェ。何故ってそうしねェと、俺の命が危なくなるんだよ。おまえは女王様のお望みどおり、殺されたいのか、それとも殺されたくないのか」

Snow Whiteは目を開けて猟師を強く見つめると言った。

Snow White「ぼくはそれが…わかりません。だってお母さまが何故ぼくを殺そうとしてるかがわからないのです。ぼくはただ…お母さまにいちばんに愛されたいのです。お母さまにいちばんに愛されて一緒にそばで暮らしたいのです」

猟師はハァ…と深く息を吐くと刀をもとにおさめて手を離し、眉間を掴んで俯いた。

そして洟をすすって言った。

猟師「泣かせるねェ。おまえはそれじゃァ、お母さまがおまえをいちばんに愛しているなら、その愛によって殺されても構わねェってことか」

Snow Whiteはごくっと唾を飲むと「はい…」と今にも泣きそうな顔で応えた。

猟師はSnow Whiteを強く抱きしめ言った。

猟師「おまえって野郎は、おまえって野郎はよォ、ったく、馬鹿な、馬鹿な息子だぜ、いったいどこに、どこに子をいちばん愛する親が子を殺すってんだ?ありえねェだろう、そんな話は。イサクとアブラハムみたいな展開でもない限り…いや、あの話だってじゅうぶんおかしいだろう。ほんとうに愛しているのに、子を殺す親はいるのか?俺ァわからねェな、俺ァ親を知らずに育ったから、親の愛なんてもんはちっともわからねェ、愛してるから殺すなんていう親をなんでそこまでおまえは愛せるのか、俺ァまったく理解できねェよ。嗚呼どうしたら、どうしたらおまえを殺さないで、俺も殺されない方法があるだろうか。おまえが生きて戻ったら、俺は処刑される可能性がある。一度聴いた国王の命令に背くことなんざ、そらァきっと重い罪だ、俺は生きて戻るには、おまえを殺した証拠として、その心臓を持ち帰らなけりゃァならねェんだ」

そう言ったあと猟師は激烈に後悔した。しまった、そんなことを言ったらこいつが傷つくじゃねェか、俺の馬鹿もん!

猟師はSnow Whiteの身体を離してその右目で顔を覗きこんだ。

その顔はどこか諦めのついたようにすっきりとした表情にも見えた。

 フゥ…と息をついて、猟師は良い術(すべ)はないかと考え込んだ。

そのときである。猟師は目をギラっと光らせたかとおもうと森の奥へ走っていき、ものの五分かそこらで大きな猪一頭を肩に担いで戻ってきた。

黒く立派な猪はまだ生きていた。

「よし、こいつの胸をこれで切り裂け」と言って猟師は小刀をSnow Whiteに差しだした。

ぶんぶんぶんぶんっと首を振ってSnow Whiteはそれを拒否した。

猟師「なに弱気をぶっこいてやがんだ、おまえが死ぬ代わりに、こいつが死んでくれるんだ、感謝してほら、思いきり一気に切り裂くんだ」

Snow Whiteは泣きながら「できません…」と言って目を背けた。

猟師は目の前で猪の喉元を一気に切り裂いた。

聞くに堪えない悲鳴をあげて激しく痙攣した豚の喉からどくどくと真っ赤な血が流れる。

豚は目をひん剥きながらもまだ生きている。

猟師「おまえがはやくとどめを刺してやらねェとこうやってずっとこいつは苦しむんだぞ、はやく楽にしてやれ」

Snow Whiteは異様に震える手で差しだされた刀を掴むと脂汗をたらたら流しながら、心臓のあたりを避けて腹を裂いた。

その裂き目は浅く、耳の奥が痛むような悲鳴が響き渡り、猟師は手際よくSnow Whiteの手から刀を奪うと喉をもっと深く切り込んで絶命させた。

猟師も汗をひどくかいていて、「はァーっ」と大きな声を出しながら息を吐くとその場に腰を下ろして「おまえは向こうを向いてるか、目を閉じてろ」と言うと豚の胸を大きく切り裂き、心臓の繋がっている脈をすべて切って両手で取りだした。

「終わったよ」と言われて、Snow Whiteは静かに目を開けるとその真っ赤な心臓の大きさに気を失いかけた。

猟師「子どもの心臓にしてはちょっとでっかいかもしれねェが、専門家でない限り、たぶんわからんだろう、これをおまえの心臓だと言って、俺は女王様に届けてやる。だからおまえはもう城へは帰るな。命が惜しければな。数年かそこら経ちゃあ、お母さまも考えが変わってるかも知れんじゃないか、その日に願いを託して、ひとりでどこかでこっそりと生きてゆけ。おまえの代わりに死んだこいつだって、たぶんおまえに死ねっていうよりは、生きろよって言ってる気がするだろ、俺を殺しといてなんでおまえも死ぬんだって話だろ、苦しくても生きる、それが人間に与えられた苦しく悲しい定めなんだよ。俺だって、ほんと言うと、何遍も死にたくなるときもある、全身じゅう誰にも見せたくないほどの醜い傷痕で埋め尽くされている。俺の左目は熊にえぐられて黒い穴ぼこだ。気が狂いそうなほどの痒みと引き攣るような痛みはもうずっと取れてくれない。でもこんな俺でも、生きる希望は大きいもんだ。生きるほど、大きくなってきている気がするんだ。俺はまだまだ見ていないものがあるし、知らないことだらけだ、俺を心底差別する人間だって多いが、俺は生きてきてほんとうによかったよ、おまえのような、素直に一緒に生きたいなとおもえるような人間にも出会えたしな、おまえにも、俺は生きててほしい、そのためにも、この猪をおまえの手に掛けさせたんだ。命を殺すってことは、命を生きるってことだ、生きもしないなら、殺す必要もないやろ。もうちょっと手がぬるぬるやから、俺は向こうの川に行って洗ってくるわ。おまえはそのあいだに逃げろ、可愛いおまえを監禁しようと俺の気が変わらんうちにな、へへへっ」

そう言って猟師は右目と口元だけで笑うと森のなかに走ってって見えなくなった。

 

Snow Whiteは涙の痕のついた顔ですこしのあいだ放心したようにそこに座っていたが、おもむろに荷物を背負って立ち上がると猟師の見えなくなった方角を眺め、そのまったく逆のほうを走った。

走り疲れ、Snow Whiteはふと空を見上げると木々の間から茜色と白い雲がだんだら模様になっている夕焼け空が見えた。

いったい、どこへ向かえばいいというのだろう…。Snow Whiteは本当の絶望的な感覚を知ったように想えた。お母さまはどうして、ぼくを殺したいのだろう…。

Snow Whiteは涙を流しながらあてもなく歩いた。

レモンケーキをかじると、お母さまの優しい微笑みが浮かんでSnow Whiteはその幻を掴まえようと必死になった。

どうしてもお母さまがぼくを殺さなくちゃならない理由…。

今朝のお母さまの優しさは、嘘であるはずはない。お母さまは無理をしてぼくに優しくするときがなんどもあったけれど、今日の優しさは、本物だった。

お母さまはぼくをほんとうに愛しているからぼくを殺すんだ。

そうじゃなかったら、最後にあんな言葉は言わない。

お母さまはぼくのキスを待ってるんだ。それもたくさん、たくさんのぼくのキスを。

お母さまは…あの魔法の鏡からなにか忠告を受けたのかな。

なんでも知っているような魔法の鏡…きっとそうだ!あの鏡が、お母さまに変なことを言ったんだ。

それを信じてぼくを殺そうと…

ぼくはお父さまを、この手で殺してしまった…

お父さまを苦しめて命を奪い、お母さまも苦しめるぼくは、生まれてこないほうがよかったのかな。

どうしてぼくは生まれてきたのだろう。

お母さまを苦しめて、お父さまを苦しめて命を奪うためにぼくは生まれてきたのかな。

だったらまるで悪魔の子みたいだ。

ぼくは悪魔の子なのかな。それとも…お母さまが脚本したあのお話の死神のように、孤独で悲しい何かの子なのかな。

Snow Whiteは眼のまえに立ちはだかる太く大きな立派な木を見上げた。

木って何千年も同じ場所に生えていて寂しくならないのかな。

ぼくがお母さまを失ったあとも何千年と生きなくちゃならないなら、生き地獄だ。

どうして木って、なんども繰りかえし葉っぱを生やしては落として生きているんだろう。

Snow Whiteは落ち葉を両手ですくっては落とすのを繰り返した。

嗚呼、お母さまがここにいたら、どんなに幸せだろう。

どうしてここに…いないんだろう…。

Snow Whiteはまた涙があふれてきて落ち葉のじゅうたんのうえに座りながらぽとぽとと落ち葉のうえに涙を落とした。

ぼくの涙で洪水になって、お母さまは大きな落ち葉の船に乗ってぼくに会いに来るんだ。

ぼくはきっと、うんと泣かないとお母さまは会いに来れないんだ。

ぼくがずっと悲しんでたら、きっとお母さまは会いに来てくれる。

ぼくがこの森でひとりぼっちで震えていたら…

Snow Whiteは肌寒いなかにも眠気がやってきて落ち葉の毛布のうえで一眠りすることにした。

 

目が覚めると、真っ暗闇だった。

Snow Whiteは凍えそうな寒さに身を震わせた。

寒い…どうしよう。おなかすいた。お母さまのレモンケーキを食べるまえに、どこかでおしっこをしよう。

Snow Whiteは闇のなかに立ちあがると、月と星あかりだけで歩いて、適当なところで立小便をした。

戻ってきてレモンケーキをもぐもぐと食べて紅茶を飲んだ。

こんなに暗いと歩けないし、どうしよう。

走ったらあったかくなるかもしれないけれど、走ったら危ないし、走らなければ危なくないけれど、危なくない代わりに寒いな…そうか、走らずにここで動き回ってればあったかくなるかな。

Snow Whiteはがむしゃらに動き回った。

両手をぶんぶんと回して、ぴょんぴょんと飛び跳ねてぐるぐると回って回りすぎて目が回って落ち葉の上にどさっと倒れこんだ。

すこしはましになったかもしれないけど、まだ寒いや。

お母さまに抱っこされたい…お母さま、いまどうしてるかな、眠っているのかな。

さびしくないかな。ぼくのことを想って泣いてないかな。

ぼくのことを想ってお母さまが泣いてくれているなら、ぼくは、嬉しいな…

お母さまは悲しいのに、ぼくは嬉しい…何故なんだろう。

ぼくが死んだらお母さまは嬉しい…?ぼくは悲しいけどお母さまが嬉しいならぼくは嬉しい…?

それともぼくが死んだらお母さまは悲しい?お母さまは悲しいけど、ぼくは嬉しい…?

 どうしてお母さまを愛しているのに、お母さまが悲しいことがぼくは嬉しいのだろう。

ぼくはただお母さまにいちばんに愛されたい、ただお母さまのそばでずっと暮らしたいって、ぼくはぼくのことばっかりだ、ぼくはどうしてこんなわがままなんだろう…

お母さまがかわいそうだ。ぼくみたいな子どもを持ってしまって。

さびしいよ…お母さま。

Snow Whiteはちいさくまるまって寝っころがり、お母さまに抱かれて眠っているのを想像して寒さも忘れて眠りについた。

 

鳥のおおきな鳴き声にSnow Whiteは目を醒まし、あたりを見まわした。

あたたかくぽかぽかとしていて心地が良かった。

Snow Whiteはおしっこをまた適当なところですると戻ってきてレモンケーキを頬張りながら紅茶を飲んだ。紅茶がなくなってしまった。

Snow Whiteはとにかくどこか泊めてくれる家を探そうと想った。

童話や昔話では山奥やだれも住まないような森のなかによく老夫婦が住んでたりするんだよな。または魔女とかが住んでる…

Snow Whiteは何も考えずにただ足の赴く方角へ歩いては走った。

川岸の尖った石のうえも走って飛び跳ねた。澄みきった川で水を汲んで飲んだ。

気づかずに茨の生え茂るなかを突き抜けてしまって身体中が傷だらけになった。

猟師さんの痛みに比べたら、こんなの、平(へい)ちゃらだ。そう強気になって痛いのを我慢してSnow Whiteは奔りつづけた。

ずんずんと森の奥へ向かっているみたいだ。

きらきら光るよ仔馬のたてがみ
どこまで行くんだろ林を縫って

ずんずんずんずんずんずんずんずん林を縫って

ずんずんずんずんずんずんずんずん林を縫って

ららら ららららら ららら ららららら

Snow Whiteはお母さまと一緒に歌った”冬の歌”を歌いながら林のなかを縫うように駆けぬけた。

そうして歌いながら駆けていると、なにかの獣のようなものが横の林のなかを通りぬけていったような気がした。

Snow Whiteはどきどきして歌うのはやめて静かに走りぬけていると、またなにかがよこを駆けぬけていった。

いったいなんの動物だろう?もしかしてぼくのレモンケーキを狙ってるのかな。

動物はとても鼻が利くから、甘く酸っぱい好い匂いを嗅ぎつけて寄ってきちゃったのかな。

Snow Whiteはこんど駆けぬけてったら、レモンケーキを放り投げてやろうと想った。

するとこんどは、両側の林のなかを同時に獣がものすごいはやさで走りぬけた。

Snow Whiteは袋からレモンケーキをとりだすと木々の間に向かって投げつけた。

そしてまた走っていると、今度は両側に何匹もの獣が走りぬけたような気がした。

増えてる!Snow Whiteは恐ろしくなってまたレモンケーキをこんどは両側にひとつずつ投げつけた。

そしてまた走りだすと、つぎには右側に四匹、左側には三匹ほどの影が動いたようにおもえた。

Snow Whiteは泣きだしそうになって、四つめ、五つめを投げつけ、とうとう袋のなかにあった最後の七つめのレモンケーキを投げつけた。

足が痛くなってきたけれど、獣に食べられちゃったらお母さまに会えないと想い必死に足がもってくれる限り走りつづけた。

あたりは夕闇が降りてこようとしていた。

そのとき、Snow Whiteはちいさな洞穴のような家の入り口らしきものを見つけた。

ほんとうにあった!こんなところに人が住んでるなんて…Snow Whiteは喜びと不安のなかその入り口へと近づいていった。そこにはちゃんとドアのように取りつけた入り口があって、側には木の実や魚が吊るされて干されてあった。

Snow Whiteはそのドアをとんとんとノックした。

でもだれもでてこなかった。Snow Whiteはうしろを振り向いて、さっきの獣たちが息を潜めているような気がして、怒られるかもしれないとおもったが、しかたなく勝手に入って、なかで待つことにした。

家のなかに入ってほっとしたとたん、一気に疲れが押し寄せてきて、Snow Whiteはちょうどあったベッドに横になると知らぬまに眠ってしまった。

 

夜が遣ってきて、あたりがすっかり暗くなるとこの家の主人が帰ってまいりました。

Heigh-ho, (ハイホー)
Heigh-ho(やれやれ)
It's home from work we go(やっと仕事終わりさあ帰ろう)

と歌いながら主人は家のなかへ入ってきました。

そして七つのちいさな灯りをつけると見知らぬ人間が我が物顔でじぶんのベッドに眠りこけているのに気づき、主人はびっくりぎょうてんしてひっくり返りそうになりました。

とおもったらじっさいひっくりかえって軽くあたまを床にうちつけました。

そして主人はひとりでくちぐちにあれこれとしゃべりました。

一番目のこびとがいいました。「おい、猿がかってに寝てるぞ」

二番目のこびとがいいました。「か、かわいいな…女の子だよね」

三番目のこびとがいいました。「人畜無害には見えるな、へっぶしっ」

四番目のこびとがいいました。「おやおや、かしこそうな顔をしておるわい」

五番目のこびとがいいました。「うははっすっごいわくわくどきどきしてきたぁ!」

六番目のこびとがいいました。「まさかおいらたちを迎えにきた天使じゃないよなぁ…」

七番目のこびとがいいました。「ふぅ、ねむい、おいどんの寝床がうばわれちまったい…」

 

その騒々しさにSnow Whiteは目をこすりながら起きました。

そしてあくびをすると、Snow Whiteは目のまえにいるちいさな人間に気づいて驚き、目を丸くしました。

ちいさいといってもその身体はだいたい120cmくらいだった。だいたいじぶんよりも35cmくらい低いほどだった。

でも観た感じ、子どもというよりは、濃い髭が立派に生えた50歳以上のおじさんのような風貌だったので、びっくりしたのでした。

Snow Whiteは改まって自己紹介をしました。

Snow White「あの…ぼくの名前は、Snow Whiteと言います。歳は12歳です。昨日、おうちを抜けてきて、それで森のなかを迷ってしまったのです。そしたら、たくさんの獣たちがぼくをつけねらって追いかけてきたのです。ぼくはお母さまが作ってくれたレモンケーキをみんな獣たちに与えてしまい、食べものがなくなってしまいました。とても、困っています。寝る場所も、食べるものももうないですから…」

そう言ってちいさなおじさんの顔をSnow Whiteが見下ろすと、ちいさなおじさんは見上げてこう言った。

「ひゃっひゃっひゃっひゃあ、よろしくよ坊主、おいらの名前はドーピー(おとぼけ)さ。おっおい、てめえ、だれの許可とって、そこ、座ってるつもりだ?まあ、悪い奴じゃなさそうだけどよ…おれっちの名はグランピー(おこりんぼ)だ、忘れんじゃねえぞ?こりゃなんとけなげな子じゃろう。よくぞとんだ我が家へおいでなさった。なになんの遠慮もいらんよ、ささ、腹が減っておるじゃろう?スープを今あっためてあげましょう。先生の名前はドック(先生)じゃ、そのままじゃよ」

奇妙なちいさなおじさんはそう言うと、てくてくと歩いてスープを焚き火のうえに置いて薪をくべだした。そして火をつけてスープを混ぜながら言った。

「うふふふふふっ、あははははははっ、なんて愉快で楽しいんだろう!きみのように純粋で素直な子を前にすると嬉しくってこうして笑ってしまうよ。うはははははっ。ってぼくの名前はハッピー(ごきげん)っていうんだ。よろしくね!ふぁ~あ、おいどんはねむくてねむくてめがしょぼしょぼする。あっあちぃっ、おいどんはスープをあっためながらねむりかけてたよ、ちょいとおいどんの代わりにスープを混ぜておくれよ、ああおいどんはスリーピー(ねぼすけ)って名だよ、だからねむくてしょうがないん」

ちいさなおじさんはベッドに横になるといびきをかいて寝だした。

Snow Whiteはスープを言われたとおりに混ぜた。

するとちいさなおじさんはとつぜんがばっと起きて照れた様子でくねくねとしながらそばへやってきてはSnow Whiteの顔を尻目にちらちらと窺いながら頬を染めて言った。

「じぶん…すてきなかんじだね。ぼくちんさ、きみのような…およめさんがほしいっておもってたところなんだ、ついさっき…」

Snow Whiteは笑顔で「ぼくは男ですよ」と言った。

「えっ…そう、そうなんだ…。わからなかった、あんまり色が白くて、薔薇色の唇をしているんだもの…てっきり女の子だとおもっちゃった、はは、ははは…ぼくちんのおばかさんおばかさん、そんなぼくちんの名はバッシュフル(てれすけ)っていうのさ、あっ、そんな見つめちゃ、照れちゃうよ…へえっくょい!あーつれえ、ほんとつれえ、このくしゃみ、よぉおれの名前はスニージー(くしゃみ)だ。っぶっくっしょっ。もーおれがしゃべると、なんでかくしゃみが止まらないんだよ、なんでかしらねんだがね。ま、そうゆうわけで、おれたち七人の人格をもったこびとでみんなから”七人のこびとたち”って呼ばれてんだよ。ややこしいにもほどがあるが、適当に名前は呼んで、ゆっくりくつろいでいきゃぁいいさ。みんな悪い奴じゃねえから。あっくしゅっ、ふー、ついでに握手しようじゃねえか」

そう言われてSnow Whiteは七人の人格を持つこびとと握手を交わした。

 

ドック「ありがとうSnow White。ずっと混ぜてくれていたんだね。さあみんなで召し上がりましょう」

そういうとドックは自分の木のお皿と Snow Whiteのお皿をテーブルの下からだしてそこにスープを入れた。そしてパンを戸棚から持ってきてスープの横に添えると言った。

ハッピー「うふっおいしそうだな~わくわくわくわく、はやく食べようよ!いっただっきまぁす!」

そう言ってハッピーは動物っぽく食べだした。

Snow Whiteは手を組んで目をつむってお祈りをすると「いただきます」と言ってスープに口をつけた。

ドーピー「坊主、あんたいったい、どっからやってきたってんだぁ?」

突如とぼけた顔になってドーピーがそうたずねた。

 Snow Whiteはつと言葉につまったが、うそをついてもしかたないと想い、ほんとうのことを言うことにした。

Snow White「ぼくは、お城からやってまいりました」

グランピー「てめえ、もしかして、なんか悪いことでもやったのか?追っ手が追いかけてきたりしねえだろうなあ?おれっちまで巻き添え食ったらたまったもんじゃねえぞ」

おこりんぼのグランピーがそう怒った顔で言った。

Snow Whiteはすこし焦って応えた。

Snow White「逃げてきたといえば、そうだけれど…でもたぶん追いかけてはこないような…気がします…」

ドック「おやおや、そうだったのかい。そりゃ大変じゃったろう。かわいそうに。なに心配しなくていいさ、こんな洞窟のなかにいるなんてまさかおもいはしないだろう。しかし一応見つけづらくなるようにドアの外に藁をかけておくことにしようかの」

そう言ってドックはいそいそと外へでて藁をどこからかかき集めてくるとそれをドアに打ちつけていった。

Snow Whiteは急いで食べ終えるとそばに寄って藁を渡して手伝った。

「ひゃっくっぷっしゅんっ」とスニージーがくっしゃみをした。

スニージー「うー今晩も冷えるなぁ、あー寒いのはおれはいやだ、でもくしゃみがでなけりゃおれの出番はねえけどなあ、ぅっぷしっ」

スニージーがそう言って鼻水を垂らした。

バッシュフル「そ、そんなにぼくちんの手元を見つめちゃ、てっ照れるじゃないかっ。じぶん、むこうを向いてておくれよ」

てれすけが照れながらそう言った。

Snow Whiteはおかしさをがまんしながら「はい」と応えて後ろを向いた。

スリーピー「ふぅ、ふぁーあ、おいどんはもうかなり眠くなっちまってっから、あとは頼むよSnow White」

おおきなあくびをしながらスリーピーが眠そうな顔でそう言った。

Snow Whiteは「はい、あとはぼくがやりますからゆっくりとおやすみになってください」と言って藁をひとりでドアに打ちつけていった。

スリーピーのいびきの音と虫のにぎやかな羽音を聴きながらひとりで作業をつづけていると、狼か野犬の遠吠えのような声が聴こえてきた。

おそろしくなったSnow Whiteは藁で覆われたドアをみわたして、こんなもんでいいかな…とおもって家のなかへ入った。

寝床がひとつしかなかったのでSnow Whiteはランプを消すとスリーピーのいびきをがまんしながら隣で眠った。

 

王女は夜になってからひとりで戻ってきた猟師を自分の居室へ招いて御馳走を与えて高級な葡萄酒を飲ませ、残り半分の報酬を渡した。

ひざまずいて猟師から差しだされた皮袋を震える手で王女は受けとるとそれを抱すくめてへたへたとその場にしゃがみこんだ。

そして猟師を見上げ、見開いた目で「息子は苦しまなかったですか…?」と訊いた。

 猟師は王女の目を見つめ、「御安心ください。まったく、苦しみのくの字も知らないまま、一瞬のうちに終わらせました」と言った。

王女は酷く疲れている様子で我が子を埋葬された場所をたずね、その場所を聴きとると猟師の手をとってその甲に接吻した。

それから感謝の言葉を述べ、猟師を帰らせた。

 猟師は外へでると城を見上げ、ちいさくつぶやいた。

「どうゆうことだかてんでわからねェが、おまえのお母さまはおまえのことを愛してるようだ。だからSnow White、おまえちゃんと生きるんだぞ、いつか必ず、おまえの愛するお母さまと再会できる日がくるさ」

そして棲み処(すみか)に向かって、「おれも母親みてェに愛せる女を見つけて一緒に暮らそう。この、金でな。って金ないと見つからんのかいっ」と独りごとを言いながら帰っていった。

 

王女は我が子の心臓を持って寝室へと戻った。

そして下着とペティコート以外脱ぎ捨てると、これが失敗したら、もう自分は生きてはゆけないと想い、ちいさな果物ナイフを手にすると床のうえに銀のトレイに載せた心臓のうえで二の腕の上の部分を切った。

思ったよりも深く切ったようで血の気が引いて貧血のようになったが血が心臓のうえに滴ってくれたことに安堵した。

何滴もぽとぽとと落ちて心臓が渇きを癒すように染みわたっていった。

もうだいぶ血を落としたと想った王女は鏡に向かって「これで十分かしら」とたずねた。

するとすこしして鏡は応えた。

鏡「もう十分でございます、王女さま、はやく傷の手当てをなさってください」

王女は用意していたアロエの葉を切り開き葉肉を取りだして傷口に押し当てると白檀の粉をかけて包帯を巻いた。

そして王の髪を手に取り、接吻するとそれを心臓に巻きつけて皮袋の中に仕舞いこんだ。

王女はみんなが寝静まる時間になるまで待つことにした。

皮袋に入った心臓を、まるでちいさかったSnow Whiteを抱くように王女は抱きかかえ、そのまま寝台に横になった。

 

 王女はじぶんひとりで王の墓を掘り返すのは時間が掛かって夜明けまでにとても行なえないだろうし、それに誰かがひとり見張り役にいたほうがよいと鏡の男にもういちど現れるように頼んだ。

鏡の男は厭な顔ひとつせず優しい微笑を浮かべてそれに応じてくれた。

ふたりで王の眠る墓地へと向かい、王の墓のまえに着くとお祈りをして王女がまず持ってきた鍬(くわ)で土を掘り起こした。

土は固く、おもうように掘ることができない。鏡の男が「わたしがやりましょう」と言って鍬を王女の手から取るとみるみるうちに土を掘っていった。

中性的な容姿でありながらその膂力(りょりょく)のたくましさに王女は見入った。

すると半分ほどあっというまに掘り起こして鏡の男はこう言った。

「あとは王女さまが最後まで掘ってください。わたしは見張っております」

王女は鏡の男から鍬を受けとって無心で掘りつづけた。

さっきまでは寒かったのが、だんだんと汗が滴りおちるほど熱くなった。

そして休憩をとりながら、何時間と掘っていると、やがて棺の天井のようなものが見えた。

土を手で払いのけ、王女は見上げて鏡の男を呼んで言った。

王女「わたしはこの蓋を開けて見る勇気がとてもありません。わたしの代わりにあなたに頼んでもいいでしょうか」

鏡の男は地面から王女に手を伸ばし、王女を引きあげた。

そしてなんの怖気もつかないような涼しげな顔をしてこう言った。

「わたしが行ないましょう。あとからわたしに心臓を手渡してください」

王女はほっとして鏡の男の手を引きながら下へ降ろした。

すこし経って鏡の男が呼んだので心臓を目をつぶって、息を止めて渡した。

そして離れて待っていると、鏡の男が下から這い上がってきて土を被せ始めた。

王女も一緒に土で埋めてゆく。

お父様が蘇えりますように…。

王女は一縷の望みにすべてを懸けてそう願った。

 

Snow Whiteは王を殺したのはじぶんだと思い込んで、その罪責にたえきれずみずから城を出て行ってしまったと王女は城の者に告げた。

だれもSnow Whiteを探してはならないと誡告(かいこく)した。

 

 グランピー「おい、起きろ、いつまで寝てやがんだ」

Snow Whiteは目を覚ますとグランピーに「用意しろ、いまから鉱石を掘りにいくぞ」と言われた。

「用意って…何をすればよいのですか?」とSnow Whiteは訊いた。

スリーピー「そんなに急ぐこたねえさ、おいんどんもまだ眠いんだ、ゆっくり朝ごはんを食べてからいこう」

そう言ってスリーピーはテーブルの前に座るとそこにあった果物とパンを食べだした。

Snow Whiteも席についてお祈りをして「いただきます」と言って食べた。

スニージー「ばっひゅっしょいっ、あー、おいあんた、なにもそんな行儀よくする必要なんかねえんだぜ、いくところがねえからって、媚びる必要もねえし、愛想良くする必要もない、おれたちっつっても、ひとりだけど、おれたちはただあんたが鉱山を手伝って稼いでくれたり、家事をやってくれるってゆうなら、いつまでも住まわせてやるよ、あんたの寝床だって今日中に作ってやる、だからあんま気負いすんな。うわはははははっ、ぼくはきみがここにやってきてくれてとても嬉しいよ?ほんとだよ。ぼくうそつかないもんね!でもぼくいがいのやつはうそつくこともあるから気をつけてね。ふふふふっ。おい、いつおれっちがうそついたって?いいかげんなこと言ってっとおまえのでこをひっぱたいてやるぞ。あはははははっやってごらんよ。こらこらおまえたち、Snow Whiteが心配そうに見ているじゃないか、おやめなさい。大人が仲良くするところをお手本として見せないといけませんのじゃですぞ。いてぇ~、お~いおいおい、なんでおいらの出番のときにいつもでこぽんするんだぁ?坊主、今度グランピーが現れたとき、でこぽんしてやってくれよなぁ。うん~ん、そんなぼくちんを見つめてちゃ恥ずかしいよっ、そんなぼくちんのこと見つめて、やっぱりじぶん、ぼくちんのお嫁さんになりたいんだね?まいっちゃうよぉ、ぼくちんどうしようっかなぁ。てぇふぇっくっしゃい、おー、いつまでつづけるつもりなんだこれ、いい加減にしろい、よし小僧、準備ができたなら行くぞ」

最後にまた入れ替わったスニージーがそう言った。

 Snow Whiteはいそいでスニージーのあとを追った。

 

にぎやかで心優しいこびととの森のなかでの暮らしは大変で楽しいこともあったけれど、それでもSnow Whiteのこころはいつでも押しつぶされそうな苦しみのなかでお母さまのいない悲しみは癒える日はなかった。

それからいちねんがすぎ、Snow Whiteは十三歳、王女は二十八歳となった。

ある朝、Snow Whiteはこんな夢をみた。

Snow Whiteが森のなかをあるいていると、お母さまがじぶんの埋葬されたばしょにひざまずいて泣いている。Snow Whiteがお母さまのもとへ駆けつけようとすると、お母さまのそばにちいさな子どもが泣いて、その子どもをお母さまは愛おしそうに抱きあげて微笑む。

Snow Whiteはめのまえがまっくらになって、その場にくずおれてお母さまと幼なごをずっと見ている。

目がさめると涙が流れていて、こびとに気づかれないようにSnow Whiteはしずかにうんと泣いた。

 

半年が経っても、いちねんが経っても王さまは戻ってはこなかった。

王女はまただんだんとこころがひどく不安定になっていった。

鏡は王女に向かってこう言った。

鏡「王女さまがほんとうのこころのそこからしんじつづけなくては、王さまをよみがえらせることはできません。王女さまがこころのどこかでうたがっているために、王さまはまだよみがえってはこないのです」

 

そのころ、王女はこんな夢をみた。

殺してしまったと想っていたSnow Whiteがまだ生きていることを知った王女は、我が子を求めて森のおくふかくまで探して迷ってしまう。

するとちいさな小屋をみつけ、王女は姿がばれないように魔法でおばあさんの姿に変え、小屋の戸を叩く。

するとSnow Whiteが顔をだしていぶかるようすも見せずにじぶんをなかへまねきいれる。

この子が生きているとお父様はいつまで経っても生き返ることができないとおもい、王女はふところから七色の絹糸で繊細な刺繍を施した黒のタイをとりだすと、Snow Whiteに話しかける。

「坊やにぴったりのタイがちょうどあるよ。雪のように白い首にきっと映えることだろう。わたしが蝶の形に結んであげよう」

Snow Whiteは喜んでその細く白い首をじぶんの前にちかづける。

王女はタイをまえで結ぼうとしながらそれを交差しておもいっきりSnow Whiteの首を締めあげる。

そのとたんSnow Whiteは気を失い、床に倒れこむ。

王女がSnow Whiteの胸に耳をつけて、音が聴こえないことをたしかめようとすると、そこから、声が聴こえる。

それは王さまの声で、それはこう聴こえた。

「なぜわがこをおまえはころしたのだ。それはわたしの血と肉であったのだ」

 

不思議なことに、Snow Whiteも王女が見た夢とまったく同じ夢をみた。

おばあさんの姿に変えてお母さまがじぶんに会いに来る。

お母さまにやっと会えたことが嬉しくて嬉しくてとてもどきどきしている。

するとお母さまに首を絞められて、気を失うところで目が覚めた。

そのとき、どうしたことか、Snow Whiteは初めての経験をした。

おねしょとはちがう妙な透明ですこし白濁したような液体でパンツを濡らしてしまったのだった。

Snow Whiteはそれをとても恥ずかしい神に背いた悪いことのように感じた。

 

あくるつきにはSnow Whiteはこんな夢をみた。

お母さまとよく行っていたみずうみのほとりでSnow Whiteはお母さまのやわらかくウェーブのかかった長い髪を蝶と小さな宝石をちりばめた花がたくさん装飾してある櫛で梳かしている。

お母さまはここちよさそうにきらきらと光の反射するみなもを眺めている。

Snow Whiteは櫛についたお母さまの髪の毛をじぶんの指に巻いてゆく。

お母さまは「眠りの毒を仕込ませておいたから眠くなってまいりました」と言ってSnow Whiteの膝のうえに頭をのせて眠ってしまう。

Snow Whiteはじぶんの髪を梳かして抜けた髪の毛をお母さまの指にくくりつけて、お母さまと自分の髪の毛でじぶんとお母さまの小指をいっしょに結んで、お母さまがしこませた毒によって眠くなってくる。お母さまを抱きすくめるようにSnow Whiteは眠ると闇がやわらかくみずうみに降りてくる。その闇はお母さまの髪とひとつになってお母さまとSnow Whiteはくるまれる。

 

 Snow Whiteは哀しい夢のはずなのに、とても安心する心地のなかめざめた。

お母さまはどうしていらっしゃるだろう。お母さまはいつかぼくのことを忘れてしまうのだろうか。

Snow Whiteはまたいつも目がさめたときのようにしずかになみだをながした。

 

Snow Whiteはドックからはたくさんの勉強を教えられ、グランピーからは厳しい親のようにしつけられ、ドーピーのジョークにはいつも笑わせられてハッピーとは何度も手をとりあって歌って踊り、スリーピーのいびきはだんだんと平気になってきてバッシュフルは可愛い弟のように甘えてきたし、スニージーはいつも素直な話を聴かせてくれた。

それでもSnow Whiteの胸にぽっかりとおおきく開いた穴はお母さまでないと埋められないものであるのだということをわかっていた。

 

スニージーはいつの日か、いつも影でこっそりと泣いてばかりいるSnow Whiteにじぶんも親に捨てられた子どもだということを話してくれた。

スニージー「でもおれは親に会いたいとはちっともおもわないね。おれは親に愛されたことがないから、おれも親を愛することができねえのかもしんねえな。でもそんなおれでも、他人のおまえすら厄介者のようにあつかって、追いだしたりはしねえ。じぶんと血の繋がったおれを捨てた親は、よっぽどのわけがあったんだろうよ。そうおもわなきゃ、やっぱりかなしくてめげちまう。おまえがいつ乗り越えられるかはわかんねえが、おまえが乗り越えられる日まで、おれがおまえの親代わりになってやる。親を知らなくとも、人間は親の代わりもできるくらいにタフなもんなんだってことを見せつけてやらねえとな、まあ、だれにか知んねえけどさ、ぷっひゃんっしょぃっ」

Snow Whiteはじぶんよりもちいさなスニージーを抱きしめた。

とたん、照れ顔のバッシュフルになって「あにき」と言ったのでSnow Whiteはおかしくて笑った。

 

春には王女はお父様が死者のまま蘇える夢をみた。

 

夏にはSnow Whiteはお母さまとみずうみのなかでまじりあう夢をみた。

 

秋には王女は血がたりなかったのだと想い、王の墓のうえで腕に刀をあてて血をながした。

 

冬にはSnow Whiteは”ろうそくの灯のなかに降る雪はお母さまのなみだ”という詩をうたった。

 

いちねんがすぎ、Snow Whiteは十四歳、王女は二十九歳となった。

 

冬には王女はお庭の降り積もった雪のうえで腕から血をながして眠っているところを家来の者に抱えられてお城へつれかえられた。

 

春にはSnow Whiteはみずうみのほとりに咲く白い水仙にキスをしてみなもに映るじぶんのすがたを眺めてはお母さまを恋しく想い、顔をなんどもみずのなかにしずめた。

 

夏には王女は一羽の白鳥を籠に閉じこめて飼いだした。

 

秋にはSnow Whiteはこびとと落ち葉をかけあって遊んだあと、ちいさな仔うさぎをつれた野うさぎの親子を見つけてこびとといっしょに落ち葉のうえに頬杖ついてじっと眺めてはためいきをついた。

 

冬には王女は死んだ白鳥の白い羽毛のうえに指を針でさしてその血の滴るのを日が沈むまでつづけたあと黒檀で作らせたちいさな棺のなかに白鳥の亡骸をいれてお庭に埋葬した。

 

いちねんのつきひがながれ、Snow Whiteは十五歳、王女は三十歳となった。

 

冬にはSnow Whiteはいつもポケットに仕舞いこんでいたお母さまが作ってくれた押し花の手帳に頬をのせてちいさな窓から雪でおおわれた景色をぼんやりながめ、白い森のむこうからお母さまが歩いてくるまぼろしをみた。

 

春には王女は何十羽もの白い鳩を集めさせ、その鳩をすべてマンドラゴラの漬けた水のなかで眠らせ、生きたまま灰にして、その灰を枕のなかにつめこんで眠った。

 

夏にはSnow Whiteは真裸で川を泳いで葉のあいだからのぞくまぶしい青空をみあげながら水のなかで忘我のひとときのうちに果てた。

 

 秋には王女は死者を蘇えらせる呪文を一文字ずつ書いた紙を暖炉で燃やしながら眠ってしまい、髪に移った火の粉が燃えあがり、現れた家来の男に火を消された。

 

冬にはSnow Whiteは”七つの山”という詩をうたった。

 

「七つの山」

 

七つの星が降ったらお母さまにあえる

七つの海が燃えたらお母さまにあえる

七つの地が沈んだらお母さまにあえる

七つの花が咲いたらお母さまにあえる

七つの雪が死んだらお母さまにあえる

七つの火が凍えたらお母さまにあえる

七つの空を踏んだらお母さまにあえる

七つの声を殺したらお母さまにあえる

七つの種を埋めたらお母さまにあえる

七つの石を砕いたらお母さまにあえる

七つの身を費やせばお母さまにあえる

七つの山を越えたらお母さまにあえる

 

いちねんがすぎさり、Snow Whiteは十六歳、王女は三十一歳となった。

 

冬には王女は王の可愛がっていた年老いた黒い犬を頭のしたまで生き埋めにしてその頸(くび)を刎ね、その肺と肝臓のすべてを塩茹でにして食べて、その心臓に王の髪を巻いたものにみずからの血を滴らせ、それを鏡の男に王の棺のなかへ埋めるようにと命令した。犬の亡骸ののこりはすべて骨まで焼いてその骨のまえで跪き手を組んで王女は連夜呪文を唱えた。

 

春にはSnow Whiteは鉱山で掘った水晶がとても気にいって、その奥をずっと眺めているとそこに揺り椅子に座っているお母さまのすがたが見えた。

 

春には王女は黒檀の表紙のダイアリーにさまざまな紅い花と白い花をうらおもて交互に押し花にしていった。

 

夏にはSnow Whiteは川で身体を洗っているととつぜん雨が激しく降ってきて、その雨がお母さまの涙に想えたので暗くなっても川からあがらなかった。くっしゃみのとまらないSnow Whiteに、くっしゃみをしながらスニージーは呆れ顔で心づけた。

 

 秋には王女はふとみあげた月の美しさにSnow Whiteの哀しげな顔が浮かび、なみだを黒い窓枠のうえにこぼした。

 

冬にはSnow Whiteは朝はやく目がさめて外へでると霜の降りた草をなめて「あまい」とつぶやいた。

 

きせつはながれ、Snow Whiteは十七歳、王女は三十二歳となった。

 

冬には王女は路のねきの霜柱を踏みながら魔術師を捜し歩いた。

 

春にはSnow Whiteは霞のけむるお花畑で白詰草の花冠(はなかんむり)をお母さまのために作った。

 

夏には王女は白いカラスウリの花の糸でちいさな人形をつくった。

 

秋にはSnow Whiteはひつじの燃える空をみあげ、あんまり美しく想えてお母さまの恋しさに哀哭した。

 

冬には王女は真夜中に吹雪く雪のなかお父さまの墓を掘り起こしていると家来の男に見つかり城へ連れ帰られた。

 

きせつはすぎさり、Snow Whiteは十八歳、王女は三十三歳となった。

 

冬にはSnow Whiteは朝に薪を割りながらかじかんだ手のひらを見つめてはぁっと息を吹きかけていると、枯葉の踏む音がしてまえを見たら仔鹿がじっとこちらを見つめていた。ちかづこうとするとほそい後脚で蹴って雪の森のなかへ走っていった。

 

春には王女は幼虫から育てた紋白蝶がぶじに羽化したのをよろこび、窓からはなつとき、はれた空へ飛んでゆく蝶を目で追いながらその目から一粒のなみだがながれた。

 

夏にはSnow Whiteは丘のうえで白虹の円のなかでじぶん以外を見なくなったお母さまに愛される白昼夢をみた。

 

秋には王女はまたじぶんが夢うつつのなかに王の墓へ向かわないために眠るあいだは茨で腕と脚を縛るように言いつけ、家来の者を困らせた。

 

冬にはSnow Whiteは初雪でちいさな雪兎をつくり、七実の木の紅い実で目と鼻をつけた。よくあさ雪兎は溶けて三つの紅い実しか残っていないのを見てSnow Whiteはかなしみ、その紅い実を埋葬して木の枝を立ててお墓をつくってやった。起きてきてそれを見たスニージーが「こら墓がいくつあっても足りねえな」と言った。

 

きせつはうつろってゆき、Snow Whiteは十九歳、王女は三十四歳となった。

 

冬には王女は公現祭に作ったガレット・デ・ロワのなかに隠しこんだ男の子に見たてたフェーヴ(ソラマメ)がじぶんに当たったら、お父様はかならず帰ってくると信じ、切り分けて最初に選んだものにフェーヴが当たるまで王女は夜が明けてもケーキを作りつづけた。

 

 春にはSnow Whiteは赤い薔薇の蕾が咲くのをおそれ、すべての蕾を摘んだ。

 

夏には、王女は白いえごの花が枯れるまでお父様は帰ってくると信じ、自分の血で花を延命させようとその手を疵つけた。

 

秋にはSnow Whiteはどこかの貴族が猟で射止めて死んでいた猪をスニージーが捌くのを手伝ってその肉を焼いていっしょに食べた。

 

冬には王女は知らない遠くの異国の閉鎖病棟へ自分が収容され、感情のない人間たちに接しつづけられるうちに自分も物のようになってベッドや椅子と同じように存在していることを知る夢をみた。

 

ときはすぎゆき、Snow Whiteは二十歳、王女は三十五歳となった。

 

冬にはSnow Whiteは仔うさぎを捕まえようと追いかけて転んだ森のなかであおむけになり、枯れた梢の隙間から見える透明で白い空をみあげてオルガズムに達して果てた。

 

春には王女は白いフェルトで男の子の人形を部屋の隅々に積み重なるまで作りつづけた。

 

夏にはSnow Whiteはこんな夢をみた。Snow Whiteは暗く狭い坂のしたにいつもうずくまってまるくなって寝ている。するとそこに赤い毛糸の玉が坂のうえからころころとひとつ転がり落ちてくる。赤い毛糸は坂のうえまでつづいている。この赤い毛糸はお母さまの毛糸でここでじっと待っていたらお母さまが毛糸を伝って坂のうえから下りてくるにちがいない。そう信じてSnow Whiteはずっとそこで待っている。そこに真っ黒なおおきな蟹がやってきて、繋がった毛糸をちょんぎろうと鋏みをのばした。Snow Whiteはいそいでその蟹の頭上からMjöllnir(ミョルニル)を振りおろす。砕けた黒い蟹のなかにいたのはお母さまで、その頭から流れた一筋の血は赤い毛糸でできていた。

 

秋には王女は髪の毛をすべて剃りおとして八日間の断食をした。王はまだ帰ってこないが、その代わり膝の痛みは治った。

 

冬にはSnow Whiteは「悪魔の森」という詩をうたった。

 

「悪魔の森」

 

悪魔の森は、きょうもとてもしずかです。

木の根がつめたい土に埋もれてくるしそう。

悪魔の森は、きょうもとても優しげです。

川はこおって、さかなたちみうごきできぬ。

悪魔の森は、きょうもとても哀しげです。

雪をむかえにきた天使が死をわらっている。

悪魔の森は、きょうもとても淋しげです。

実つけぬ木すべて燃やして地があつい。

悪魔の森は、きょうもとても恋しげです。

お母さまの夜をいだき眠れし生きすだま。

 

きせつはめぐり、Snow Whiteは二十一歳、王女は三十六歳となった。

 

冬には王女は夜に糸紡ぎで糸を紡いでいると、一匹のちいさな蛾が糸にとまり、さかさを向いて綱渡りをしているようすをじっと眺めていた。その蛾はやがて糸車のなかを歩き廻り始めた。王女が糸車を廻すと蛾はランプの火に向かって飛んでゆき、火にあたって墜ちた。

 

春にはSnow Whiteはみずうみのみなもをながめ、”じぶんをしか愛せない魔法をかけられたらどんなにかくるしいだろう”と想った。そしてみなもに映るじぶんの顔が愛おしいお母さまの顔に見えてきて泣き崩れた。

 

夏には王女はすべての宝石を売りつくして朝も昼も夜もブリオッシュしか食べなくなった。

 

秋にはSnow Whiteはジューンベリーの白い花が咲き零れるしたでぼんやりとしていると、スニージーがやってきて、リュートを奏でながら「ダニー・ボーイ」を歌ってくれた。この歌はきっとお母さまも好きだった曲で、一緒に聴いたことがあったように想い、懐かしさにSnow Whiteは涙がこぼれた。

 

おおわたしのダニーよ バグパイプの音が呼んでいる

谷から谷へ 山の斜面をかけ下りるように

夏がすぎて すべてのばらが枯れ落ちるなか

おまえは おまえは行かなければならない

 

でも戻ってきておくれ 夏の草原のなかに

谷が雪をかぶって白くなるころでもいい

日差しのなか 影のなか そこにわたしはいます

O Danny boy, O Danny boy, わたしはおまえを心から愛しています

 

でもおまえが帰ってきてすべての花が死んで

わたしも死んでいたなら

おまえはわたしが横たわる場所を見つけ、

ひざまずいてわたしのために最後の祈りをしてくれる

 

わたしはやわらかくともおまえの踏む音が聴こえる

わたしの墓のすべてはあたたかく喜ばしい

おまえがわたしを愛していると教えてほしい

わたしは安らかに眠りつづける

おまえがわたしのもとへ帰ってくるまで

 

冬には王女は大聖堂のミサへ出掛けたきり、帰ってこないと城中で心配されたが、翌朝に大聖堂の地下にある絞首台のそばで眠っているのを家来の者に見つけられ、城へ連れ戻された。

 

ときはさり、Snow Whiteは二十二歳、王女は三十七歳となった。

 

冬にはSnow Whiteは雪の結晶が六芒星(六角形)なことに気づき、そのほかにも亀の甲羅や蜂の巣や虫の眼も六芒星であることに気づいた。

 

春には王女は「A week in the Mirror country(鏡の国の一週間)」という詩をうたった。

 

「A week in the Mirror country」

 

Monday,球体を梳ろう、みえなくなるまで、月の影の形に

Tuesday,灰を舞いあがらせよう、なくなるまで、火を怖れないように

Wednesday,源を堰き止めよう、渇ききるまで、水は空に

Thursday,声を聴こう、聴こえなくなるまで、枯れ落ちた木のように

Friday,溶けた金を流しこもう、死が眠るまで、熱い純愛のように

Saturday,彼を起きあがらせよう、満ちるまで、土は風に

Sunday,終わりを始まらせよう、微笑むまで、あなたは日に

 

夏にはSnow Whiteは天にのびる緑の蔦をつたってお母さまへ会いにゆく夢をみた。

その蔦はとてつもなく繊細で、ほんのすこしでもお母さまに会えることを疑えばたちまち切れてしまう。

のぼっているとなんにんものお母さまの幻影が空からSnow Whiteを誘惑する。

美しい裸体すがたのお母さまが優しくさびしげな微笑をたたえてSnow Whiteを誘い寄せる。

「あなたは…偽者だ」そうSnow Whiteが言うと偽者のお母さまの身体はとたんにぶつぶつとちぎれてその肉片がしたへぼろぼろと堕ちてゆく。

偽者だとわかっていても、涙がでるのは何故なんだろう…?Snow Whiteは涙で霞んだ視界をすすんだ。

 

秋には王女は日に何度と時を告げるため鳴り響く教会の鐘の音が、今までは聴こえるか聴こえないかというほどであったのに突然ひどく気になりだして、家来の者に鐘を鳴らさないようにさせろと言いつけ即、”それはあまりに無茶な御申しつけで御座います”と返されたことに腹を立て、家来の頬をしばいた。

 

冬にはSnow WhiteはLIVE(生きる)をさかさに読むとEVIL(悪)になることに気づいた。では、DEAD(死)は、DAED、つづりを入れ替えると、ADED、DIE(死)はEID、EDI、DIED(死んだ)はDEID、EDID、なぜ、死はどうつづりを変えても生にはならないのか。”死”のつづりを変えると、”ED”という文字がよく眼に入る。もしかしてこの”ED”という文字の中に、”生”が隠れているのかもしれないとSnow Whiteは真剣に想った。Ending(終わり)の略?Ending Dysfunction(終焉不全)の略か?接頭語Dysの意味は”不全・異常・悪化・不良・困難・欠如”つまり、終焉がうまくできていない、ちゃんと成されていない、それが”生”だ。未完成、未完結、未完全、それが、”生”なんだ。お父さまを、ぼくは完結させた。

 

そうしてときはけいかして、Snow Whiteは二十三歳、王女は三十八歳となった。

 

冬には王女は夢現のなかでEligos(エリゴス)を召喚し、この国の未来をたずねた。Eligosは全身を闇の鎧で覆い隠し、闇の馬に跨りこう応えた。「もって、あと二年といったところだ。しかしひとつだけ、難を逃れる手がある。おまえは未来の王と交わり、王を産むが良い」王女は目醒め、いったいどこに未来の王がいるのかと悲歎(ひたん)に暮れた。

 

春にはSnow Whiteは未明の朝にそとへでて、木立(こだち)の透き間からみえる朝日が霧のなかに消えてゆくのを息を潜めてじっとみていた。

 

夏には王女は鏡に向かってSnow Whiteに渡した小瓶に入った毒がなにであったかをたずねた。

鏡はすこしのまをおいて、応えた。

鏡「わたしのただひとり愛する王女さま、おこたえいたします。それは、毒芹(ドクセリ)の地下茎でございます」

王女はみひらいた眼を真っ赤にして涙を流しながら言った。

王女「もう十年以上が過ぎた。わたしは今までたえてきたがそれでもお父様は帰ってはきてくださらなかった。わたしは愛する子と、お父さまのもとへ向かうことにします。すべては枯れ落ち、わたしの時は過ぎ去った」

そう言うと王女は城のそとへでて、毒芹の生え茂る湿原へ向かった。

その湿原は王女がよく王とふたりで訪れた場所だった。

王女は靴を脱いで裸足になり、白いドレスを泥だらけにして芹の地下茎をいくつも引きぬいた。

そして持ってきたおろしがねで茎を摩り下ろすと、それを手のひらにため、いっきに空を仰いで飲みこんだ。

 

 王女は、死ぬことが叶わなかったものの、その二つの目から見える世界は日に日にぼやけていった。

秋分が過ぎた日の聖ミカエル祭(ミクルマス)で賑わうなか、王女はひとりで王の眠る墓地のそばに生るイチイの紅い実を籠いっぱいに収穫した。

王女の白い手袋はその実でだんだんと紅く染まった。

王女は城へ戻ると紅い実のなかの黒い種をとりだして砕き、ラム酒に漬けた。

 

冬には王女は真夜中の降誕祭のミサから帰ると”深淵の嬰児”という詩をうたった。

 

「深淵の嬰児」

 

夜の木霊(こだま)にきえゆく惜しみない愛の使いが子を生むと

すべての物語は引潮のように闇の待つ深淵へとみずからむかってとりのこされた子をみた。

それは打ちつけられた聖痕の導きが子に与えた血肉の微睡みである。

 

 王女の目はもうほとんど光と影と色彩をしか映さなくなった。

 

Snow Whiteは夜に寝つけずにろうそくの火を灯すと、閉じた目蓋のうらに紅く燃える山々とその火に照らされることのない闇の空、そこにぽっかりとうかぶ真っ白な太陽の世界が映った。

恐れと安らぎをどうじに感じてSnow Whiteは眠りについた。

 

としはあけ、Snow Whiteは二十四歳、王女は三十九歳となった。

 

王女はその闇をしか映さぬ鏡に向かって言った。

王女「愛する母の生きうつし、わたしの鏡よ、どうか教えておくれ。この国の王にふさわしい人間が、ほかにどこかにいるだろうか」

鏡は変わらぬ穏かな声でこう応えた。

鏡「わたしのわたしが愛するわたしの王女さま、おこたえいたします。その者はいずれちかいうちにあなたの目前に現れます」

王女「一体いつ、どこで遭えるだろうか。その者は何者で、また美しい者であるだろうか」

鏡「わたしはまことにあなたにおこたえいたします。その者は謝肉祭の晩に、最初にあなたに声をかける者である。そしてその者は、あなたよりも美しい。それがゆえ、この国の王にもっともふさわしい」

王女は気の遠くなる悲しみを覚え、寝台に横たわると目を閉じた。

 

三月に入り、謝肉祭の最初の日が訪れた。町じゅうが狂喜乱舞してはうかれ騒ぎ始めた。

夜になるまで王女は城のそとへはでないで支度をしてそのときを待ちあぐんだ。

あたりが暗くなってくると王女は黒い衣装で男装をして杖を持ち、町の皆が被るのと同じような黒と銀のベネチアンの仮面を被ってそとへでた。

森のそばでは人々が藁や紙で作った人形を燃やして踊り歌っている。

 火の色、土や草の色、楽しげに笑う人々の色、なにひとつ、王女には美しく見えなかった。

王にふさわしくはない自分が、王となんの繋がりもない人間によって王の座を奪われる日を恐れながら待ち望んだ。そこはきっと、死よりも恐ろしく、なにもないはずの場所になるだろう。

なにも、もうなにも欲しくはない。

王女はただじぶんよりも美しいその男を待っていた。

子を生めなければ、王の血を受け継がない者に王を譲ることは王の血の滅び、じぶんのすべての滅びを意味している。

そのときを、王女はひたすら待った。

何時間と過ぎ、森の近くには王女いがいだれもいなくなった。

マントに身をくるめ、横たわった大きな木の丸太のうえに膝を抱えてうとうととしていた。

闇は一秒ごとに深まってゆき、自分の存在さえも静寂のなかに忘れてゆこうとした。

そのとき、闇のなかから王女は声を聴いた。

 

 

 

「この水晶と、なにかを交換していただけませんか」

王女は声を聴いてとつぜん眠りから覚まされ、じぶんと向きあう者をみあげた。

暗くてその顔の色彩もぼやんとしか見えなかった。

籠のなかのものを見て、自分を商人と間違え声をかけてきたのだろうか。

王女「いったいなにが欲しいんだね」

声を低めて商人風の口振りで王女は目の前の男に向かってたずねた。

すると男はこう応えた。

「籠のなかに紅いものが見えます。それはなんですか?」

王女は籠からとりだして見せると言った。

王女「これは紅い宝石、紅玉という林檎のかたちをした珍しいお菓子だよ。俺が今日作ったんだ。その水晶と交換してやろうか」

男は水晶の原石を王女に手渡し、細かく震える手でそのお菓子を受けとるとこう応えた。

「とても美味しそうで綺麗なお菓子ですね。でもひとつ食べるには大きいから、ぼくは半分でいいです。残り半分はあなたが召し上がってください」

男はそう言うと林檎の菓子を二つに割って半分を王女に渡した。

王女はそれをこころよく受けとり、言った。

王女「これはありがとう。これはちょうど最後のひとつだよ。腹が減ったから食べるとしよう」

そう言って王女は仮面を上へすこしずらすと菓子を食べた振りをして襟のなかがわへ落とした。

男はそれを口にすると物言わず静かに地に倒れふした。

王女はそのうえにしゃがみこむと男の首筋に手をあてた。

脈は途絶えている。

イチイの種の毒とヒヨスを合わせれば人を仮死状態にもすればそのまま死へと至らすこともできると古い魔術書に書いてあったのを王女は試し、これにこの国の未来を賭けた。

もしこの男が目覚めないならば、この国は、我が王の血は終わりを迎えるだろう。

でももし、この男が死から目覚めるのならば、わたしはじぶんの魂を滅ぼしてこの男に王を譲ってしまおう。

王女は男をその場に残すと杖をついてお城へ戻った。

そして家来の男を呼びつけると言った。

王女「おまえはなんだって今まで黙っているのだろう。そうやってわたしを、いつもそばで監視せずにはおれないのか」

そう言うと王女は自分の被っていた仮面を外して家来の男の顔に被せた。

家来の男は鏡の男の声で応えた。

鏡「わたしのもとめるものが、あなたのもとめるものです。あなたがそれを知らないはずはないのです。わたしの王女さま」

王女は鏡に向かって言った。

王女「ではいますぐに行っておまえがするべきことをするがいい」

鏡の男は「かしこまりました。彼をここへ連れて参りましょう」と言うと姿を消した。

 

よくあさ、王女は部屋のもうひとつの寝台に横たわる男の顔を間近でながめた。

王女は色彩の按配をしか見分けることのできない目で、その男を美しいと感じた。

 

四十三日間、その男は息もつかず眠りつづけた。

そして四十四日目に、椅子に座って眠る王女のそばで男はようやっと息を吹き帰して目を覚ました。

 

男は自分の身体にもたれ眠るあどけない顔の母を見て、とうめいの玉粒をその目から母の白い手の甲のうえに落とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パンクだ、ユリイカ

親愛なる積さん。

今からぼくはポエムを書きます。題名はよかったら積さんがつけてください。気に入らなかったら、積さんのなかで、エムポしてください。

 

 

 

 

 

約束って美しい言葉だが、やくそくって、真ん中に糞という言葉がはいってるのがまた深いな。

しかも、最初と最後で やく だろ、約、 将来について互いにとりきめをする。という意味だ。

束とは、

動きがとれないように引き締める。「束縛/検束・拘束・約束」という意味がある。

つまり、約束とは、将来について、互いに取り決めたことによって互いにひきよせあい、それによって互いに他に動けないように引き締める。という意味だ。

そして、やくそくを後ろから呼んだら くそくや って糞から始まる。

深い。

こんなに深い言葉は珍しい。

最後に む を付ければ くそくやむ 糞悔やむ やたら悔しそうな言葉だよ。

深い。

あまりにも、deepだ。

深淵。

神のあびすだ。浴びる素。浴び素。なんて素なんだろう。浴びるほどの素だ。

あなたの素顔は美しい。

俺は、神の約束を信じて、永遠に、Abyssで糞悔やみたいよ。

その深淵Abyssで糞苦闇体、そうか、糞苦しい闇の肉体、それが、約束なのか。

dEEp, ひっくり返しても, dEEp。

A by SS , Sという文字をひっくり返してSの上に重ねてごらん。

∽ ∝ ∞ てってれてってって~。

見つけたぞ!

何を?

永遠。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベンジャミンと先生 「二人の秘密」

今日は学校はおやすみ。

ベンジャミンが今朝に起きてマイパソコンを起動させようとすると、なぜかパソコンはプッシュゥという音が鳴りつづけるばかりで、まったく起動しなかった。セーフモードなどあれこれといろんな方法を試してみたが、まったく起動もしなかった。ベンジャミンのパソコンはどうやら壊れてしまったようだ。ベンジャミンはこんなこともあろうとちゃんと外付けハードディスクにバックアップを取っておいてほんとうによかったと胸を撫でおろした。

ベンジャミンはこうとくれば、さっそく、先生の家に向かった。

時間はもう夕方だった。

ベンジャミンは先生の家のドアの前に着くと、そのチャイムをチャリリリリリィンと鳴らした。

すると二回鳴らしても誰も出てこず、三回目を鳴らしてみたとき、ドアの右側の壁にある窓が開いて先生が顔を出した。先生はすこし疲れた顔をしていた。

「ベンジャミン、この鍵で開けて中に入りなさい」

ベンジャミンは先生が居たことにホッとしながら先生から渡された鍵でドアを開けて中に入った。

窓は先生のベッドの近くにあって、ドアを開けるのもしんどいくらいに疲れてるのだろうかとベンジャミンは心配になった。

「先生どうしたの?」

ベンジャミンがベッドに座っている先生に向かって訊くと先生が応えた。

「先生はすこし、二日酔いという因果応報をいま受けている最中なんだよ」

ベンジャミンは「なんだ」と言って笑った。

「心配したじゃないですか。そんなにたくさん飲んだんですか?」

先生はキッチンに向かって水を汲みながら言った。

「それほど飲んだとは思えんのだが、けっこう飲んでしまったようだ。でも二日酔いになるのはほんとうに久しぶりだよ。たぶんあれだな、パンプキンシードだな、かぼちゃの種、これが美味いもんだから先生は我をも忘れて食べながら日本酒をがぶがぶと昨夜は飲んでしまったんだよ」

汲んだ水を飲み干すと先生はまた言った。

「乾燥させたかぼちゃの種は水分を吸い取るだろうからアルコールで脱水症状を起こしているところにさらに水分は奪われたことでエタノールが有機化合物であるアセトアルデヒドに代謝されるその能力が先生のアルコール分解能力を超越してしまってだな、アセトアルデヒドの毒性が二日目にもまだ先生の体内にしぶとくも残りつづけているが為に、先生はこのように、ものすごく胸がむかむかとして気持ちが悪いのだよ」

「二日酔いってそんなに気持ちが悪いものなんですね。ぼくも将来に経験するのかしら」

「まだ今日は全然マシなほうだ。ほんとうにひどいと胃液を吐きつづけて喉が切れて先生は血を吐いたことがある。おまえは経験しないほうがいい。先生の真似をしてお酒を飲むのはやめておきなさい」

「わかりました。できる限り、飲まないように気をつけます」

先生はちいさく口の中だけでゲップをするとソファーに座ってベンジャミンに向かいのソファーに座るように顎で示した。

「今日はどうした、ベンジャミン」

ベンジャミンはソファーに座ると右肩に掛けていた青いバックパックの中に手をつっこみながら応えた。

「先生にお願いがあるんです」

「なんだ。何でも気兼ねなくお願いしなさい。なんだそれは、国家機密文書のコピーが入ったUSBメモリか。それを先生の名前で告発しろというお願いか」

ベンジャミンは笑って言った。

「なんでなんですか。でもぼくの大事な大事な機密がここに入っていることは確かです」

「なんだそれは」

ベンジャミンはまた笑った。

「言っちゃったら機密が機密じゃなくなってしまうじゃないですか」

「おまえが必死にこれまで集めたエロス文書でも入っているのか」

ベンジャミンはまたぞろ笑うと言った。

「エロス文書ってなんですか。先生はそんなものを集めてるんですか?」

「集めてへんよ。なんで先生がエロス文書を集めなくちゃならないんだ。だいたいエロス文書ってどんなものなんだ。さっぱりわからないぞ先生は」

ベンジャミンはまたぞろ笑った。

「先生が言ったんじゃないですか。先生、今日も酔っ払ってるんですね」

「そうだな、猥談を生徒にしかけるなんて普段の先生からは考えられん。先生はもうちょっと、休んだほうがいいかもしれんな」

「そうしたほうがいいです。あっ、先生」

先生が立ち上がると言った。

「なんだ」

「先生、先生のパソコンをぼくに貸してもらえますか?ちょっとこのUSBメモリを入れてしたいことがあるんです」

先生は顎に生えた無精髭をさすりながら応えた。

「それは構わんが、余計なものは見るんじゃないぞ」

「余計なものって、なんですか?」

「余計なものは余計なものだ」

「ταυτολογία(トートロジー)だ」

「よく憶えているなベンジャミン。話を紛らわすんじゃない。ベンジャミン、先生にも一応プライバシーというものがある。それが先生の言う”余計なもの”だ。わかったな」

「つまり、サイト履歴は絶対に見るなってことですか?」

「サイトだけに限らず、すべての閲覧履歴や先生のフォルダの中身とかだな、とにかく先生のプライバシーを覗くんじゃない。いいねベンジャミン」

 「わかりました先生。それは先生にお約束します」

「よし。それじゃ自由に使いなさい」

「ありがとう先生!」

ベンジャミンはソファーから跳ねあがるように立ちあがるとパソコンの置いてあるデスクへと向かって走った。

「ベンジャミン、家の中を走るのはやめなさい。危ないから」

「ごめんなさい先生」とベンジャミンは椅子に座ってさっそく先生のパソコンを立ち上げながら振り返って嬉しそうに言った。

先生はすこしベンジャミンの後姿を眺めるともう一度水を汲んで飲み、ベッドに横たわった。

ベッドからはちょうど大きな柱の陰になってベンジャミンの姿が見えなかった。

 

ベンジャミンは持ってきたUSBメモリをパソコンに差し込むとフォルダをクリックして、その中にある幾つもの図形ファイルをネット上にあるプログラムに取り込んでそこに表れた幾何学模様をひとつひとつちいさく切り抜いては保存していった。

完成したらいちばんに先生に見せようとベンジャミンは思った。

 

気づくと、窓の外はもう夜だった。

先生まだ寝てるのかな。ベンジャミンは椅子から立ち上がろうとしたそのとき、前を開けて着ていたパーカーのファスナーの先の金属部分がキーボードの溝部分に引っかかってキーボードが机から落ちた。

ベンジャミンはキーボードを拾ってデスクの上に置いた瞬間、パソコンの画面を凝視した。

ベンジャミンはとっさに口を手で押さえ、信じがたい思いに駆られた。

画面にはキーボードを落としたときに偶然開いてしまったのだろう一つの先生のフォルダの中身がずらりと並んでいた。

そこには目を疑いたくなる白黒やカラーのものが整然とした様子で敷きつめられていた。

そのすべての画像が、なにであるかはベンジャミンにもすぐにわかった。

そのすべては、”生きている”人ではなかった。

しかしグロテスクなものは一つとしてなく、どれも綺麗な状態のものばかりだった。

ベンジャミンはひどいショックを受けながら先生のもとに走った。

先生はベッドに横たわって本を読んでいた。

「あれ、また走ってきたのかおまえ」

先生はベンジャミンの苦しい心情も知らずにのんきな顔でそう言った。

「先生」

「なんだその顔は。青いじゃないか。どうしたというんだ」

「先生なんで、なんで……」

ベンジャミンは口が震えてうまく言葉が出なかった。

「ここに座りなさい。深呼吸して待っていなさい。先生があったかいハーブティーを入れてやろう」

先生はそう言ってベンジャミンをベッドに座らせるとキッチンへ走って行ってしまった。

ベンジャミンは言われたとおり深呼吸をなんどもしてみた。

それでも苦しみは変わらなかった。

先生が二つのマグカップを持って戻ってくるとひとつをベンジャミンに渡した。

そしてベンジャミンの右隣に座ると深く息をついてこう言った。

「おまえはもしかして、見てしまったのか」

「先生ぼくは見るつもりじゃなかったんです。でもキーボードが落ちた拍子に偶然開いてしまったんです。信じてください先生」

ベンジャミンは泣き声でそうまくし立てた。

「先生はおまえを疑ったことなんて一度もないはずだ。あるかもしれんが、先生のなかでは憶えていない。先生はなんにもおまえを責めないよ。そのハーブティーはレモン入りだ。美味しいだろう」

ベンジャミンは一口飲むと言った。

「ほんとだ、酸っぱくて美味しい」

先生はもう一度深く息を吐くとこう言った。

「そうか、あれを、おまえは観てしまったのか」

ベンジャミンはハーブティーを飲み干すと、すこし落ち着いて先生にはっきりと言った。

「先生なんで、なんで、し、死体の画像なんて集めてるんですか……」

先生はベンジャミンの手からマグカップを取ってエンドテーブルに置くとすこし俯いて言った。

「それは、先生が、先生が……」

「先生はNecrophilia(ネクロフィリア、屍体愛好家)なの?」

先生はマグカップの中に浮かんだレモンを見つめながら生唾をごくりと飲み込むと応えた。

「そう、先生は、たしかに、Necrophiliaだ」

「そうだったんだ……」ベンジャミンは言葉を失った。

「でも先生は、どんな死体でも、興奮するわけじゃない。先生の、母親に似た人の死体しか、先生は興奮できない人間なんだ」

ベンジャミンはそれを聞いて二重のショックを受けた。

「ベンジャミン、ほんとうにすまない。自分の担任の先生がネクロフィリアなんて、笑えない話だな」

ベンジャミンは言葉につまってしまった。

先生がネクロフィリア……先生が死体愛好者……母親に似た死体で興奮する人間……ベンジャミンは信じられない想いだった。

 先生は思いきり喉を鳴らしてハーブティーを飲み干すとマグカップを二つキッチンへ持っていって洗ってからまたベンジャミンの右となりに座った。

 「先生が気持ち悪いだろうベンジャミン。先生も自分が、気持ち悪いよ。どうにかして、この性的嗜好を変えたいと思ってるんだが、つい、観て、してしまうんだ」

「してしまうって、なにをしてしまうんですか?」

ベンジャミンは真っ直ぐに先生の横顔を見つめると言った。

「おまえが毎晩、行なっていることだよ」

「もしかして、マスターベーションのことですか?」

「そうだ」

「先生ぼく毎晩なんてやってないですよ」

「それはすまなかった。それじゃ、どれくらいの頻度でやっているんだ。先生に教えなさい」

ベンジャミンは笑いだして言った。

「なんで教えなくちゃいけないんですか。そんな恥ずかしいこと。先生こそ、いったい週に何度死体を見ながらしてるんですか」

「先生はほんとうに、ほんとうに、昨晩久しぶりにしたんだよ」

「そうだったんですか。もっとしょっちゅうしてるのかと思いました」

「しょっちゅうしてたら、霊的感覚がいちじるしく鈍るだろう。それは先生の仕事に関わることだから、できないんだよ。先生を、しょっちゅうしている人間だとおまえは思っていたのか」

「冗談です。ごめんなさい。悪い冗談でした」

先生はベンジャミンの髪をくしゃくしゃっとして頭を撫でた。

「冗談をもっと言いなさい、ベンジャミン。冗談なくしては、やりきれない話だ。そうだ、カシスソーダがうちにあるぞ、おまえがこないだ美味そうに飲んでるのを見て先生も飲みたくなって買っておいたんだ。アルコールが入っているが、微量だから大丈夫だろう、一緒に飲もうじゃないか」

「先生、ぼくまだ未成年なのに、お酒なんて先生が薦めていいんですか?」

先生は立ち上がってキッチンに向かいながら言った。

「なにも無理に飲む必要はない。おまえが飲みたいなら、一緒に飲もうと言ったんだ」

「勿論飲みたいですよ!」

ベンジャミンはベッドから跳ね上がると先生のそばへ走っていった。

「でも先生二日酔いなのにまた飲んで大丈夫なんですか?」

「こんなもの、ジュースみたいなアルコールだから大したことはないだろう。オレンジの約3倍ものビタミンCを含んでいるカシスを飲めば二日酔いも治るかもしれんしな」

 先生は冷蔵庫に入れておいたカシスリキュールとソーダをグラスに入れてマドラーで混ぜるとベンジャミンに渡した。

「氷は入れないんですか?」

「氷の冷たさは万病のもとだからやめたほうがいい。十分冷えてるから美味いはずだ。さ、ソファーとベッド、どっちに座りたい、それか、立ち飲みにするか」

ベンジャミンはソファーとベッドを見比べると応えた。

「ベッドに座りたいな。ベッドに座って先生と話すのってすごく新鮮だった」

「よし、ではベッドでBed talk(ベッドトーク)をしようじゃないか」

先生の後ろを歩きながらベンジャミンが言った。

「Bed talkってどんなトークですか?」

先生はベッドのシーツを伸ばしてはたくと座ってベンジャミンを見上げて言った。

「眠る前に話したいような、まだ誰も知らない先生の秘密の話だ」

ベンジャミンは静かに先生の左隣に座って先生を見た。

こんなに緊張している先生の顔を見るのは初めてかもしれないとベンジャミンは思った。

先生は立ち上がってエンドテーブルをちょうど二人の座る位置の前に置くとまた座った。

ベンジャミンは先生のグラスにグラスを合わせて「先生のネクロフィリアに乾杯」と言うと、もう一度グラスを合わせ、「先生の秘密に乾杯」と言ってカシスソーダをごくごくと飲んだ。

苦笑を抑えながら喉を鳴らして先生もカシスソーダを飲むと静かな落ち着いた低い声で先生は話しだした。

「先生はなんで、母親に似た死体だけに興奮するのか、先生の心理に隠れている秘密を、いつも知りたいと思っている。その秘密には、かならず先生と、先生の母親の関係が原因としてあるはずだ」

「先生はお母さんの記憶がないんでしょう?」

「うん。先生はみんなにそう言ってきた。でも厳密には、在る」

「どんな記憶ですか?」

「ひとつは確かおまえにも話したことがあったんじゃないかな」

「あ、想いだしました。先生のお母さんが棺に入っている光景の記憶ですよね?」

「そうだ。でもそれは、とても、はっきりとしない記憶なんだ。ほんとうの記憶かどうかもわからない。狭いダイニングの場所に母親が棺の中に入って眠っていて、鼻の穴に白い綿が詰め込まれていた。母親を囲んで母親の友人であるクリスチャンの人たちや家族みんなで嘆き悲しんでいるんだが、先生はちっとも悲しくない。でもみんなが悲しんでいるもんだから、悲しまないとまずいと思って先生は悲しんでいる振りをしているんだ。たった4歳と9ヶ月ほどの先生が。そしてあとで先生の父親から聴いた話では、その日先生は母親の作ってくれた派手な濃い紫色をしたつなぎの服を着たいと泣き喚いて駄々をこねたそうだ。しかし葬式にそんな派手な服は着せられんと先生の願いは聴いてもらえなかった。その紫色の服がクローゼットの前に掛かっているのをぼんやりと見上げているという記憶だ。でもこれは母親が死んだ後の記憶だから、母親の記憶としてカウントされないだろうと思って先生はいつも母親の記憶はないと話してきた」

「もうひとつあるんですか?」

「うん、実はもうひとつ、母親の記憶のようなものがある。この記憶も、ひどく薄っすらとしているから本物かどうかはわからない。先生はまだ赤ちゃんで、狭いベビーベッドに寝かされている。先生は赤ちゃんだから、泣き喚いている。するとそこに何度と先生の母親がやってきて、先生の身体をおもいっきしつねったり、あちこちをしばきまくったりするんだ。ものすごく痛くて、悲しい感覚として憶えている。だから先生は余計泣くんだが、そうすると余計に先生の母親は先生を酷い目に合わす。でもそのときの母親の顔は想いだせない。まるでモネの日傘を差す女や、マグリットの絵のように顔が見えない存在なんだ」

「それはほんとうに先生のお母さんなんですか?ほかの誰かじゃなくて?」

「うん、ちょっとウエスを持ってくる」

そう言うと先生はキッチンへ向かいウエスを一枚持ってきてグラスを持ち上げてエンドテーブルの上の水滴を拭いた。

ふぅ、とちいさく息をついてカシスソーダをごくごくと飲むと先生はまた話しだした。

「たぶんその可能性は、低いはずだと先生は思っている。当時先生の父親は単身赴任していて、家にはいなかったし、その頃に先生と関わっていたのは母親だけだったと父親から聞いている。それに先生自身が、相手を母親だとはっきり認識している感覚としてある記憶だから、まず母親に間違いはないだろう」

先生はベッドに上がって枕元に枕を立たせてそこにもたれて言った。

「このほうが楽だな。おまえも上がってここにもたれるといい」

ベンジャミンは言われたとおりにベッドに上がると同じように枕を立たせてベッドにもたれた。

「腰が楽ですね」

先生はベンジャミンにカシスソーダの入ったグラスを二つ渡してエンドテーブルをもとの位置に戻すとベンジャミンから先生のグラスを受けとり、「ベンジャミンのはそっちのテーブルに置きなさい」と言った。

ベンジャミンは左のテーブルにグラスを置くと足を組んで力を緩めた。

先生は「せっかくだから」と言ってライトの灯りをだいぶ落として暗くした。

そしてベンジャミンにエンドテーブルの上のランプを指差して「それを点けなさい」と言った。

ベンジャミンがランプを点けると先生はほかの灯りをすべて落としてしまった。

「うん、だいぶムードが上がっていい感じになったな」と言うと先生も足を伸ばして組み、手を胸の前で組んで「どこまで話したかな」と言って左にいるベンジャミンを見た。ランプ一つだけの灯りのなかで見る先生の顔はいつも以上に寂しげな顔をしていた。

「ええっと、先生の記憶はお母さんに間違いはないってところです」

「うん。先生のお母さんは、先生をほんとうに虐待していた可能性がある」

「先生はそれを今でも悲しんでいるんですか?」

「いや、先生は悲しくはない。母親の記憶があればきっと悲しいことなんだろうが、先生は母親の記憶がほかにないもんだから、悲しいという感覚でもないんだ。悲しいのは、それらの原因によって、先生が母親に似た死体でないと興奮できない人間になってしまったかもしれないことだ」

「親の虐待や、親の死が原因でネクロフィリアになる人を他にも知ってるんですか?」

「うん、3人くらいは知っている。他にも例えば快楽殺人なんかを起こす人間も幼い頃に虐待や身内の死を経験していることは実際多い。快楽殺人と死体愛好という性的嗜好はけっこう繋がっている場合が多いんだよ。殺すことに快楽は覚えるがその死体には興奮しない人間のほうが珍しい」

ベンジャミンは恐るおそる訊いた。

「先生も……殺人というものに興奮するんですか?」

「いや、先生はこれまで何度と、これも必要な学びだと思ってスナッフフィルムなるものを拝見したことがあるが、殺人には一度も興奮を覚えたことはない。血の気が引くばっかりで、先生の陰茎は悲しいくらいに縮こまってしまう。覚える人間なら、先生なんて仕事、怖くてやってられんだろう、そんな人間は子供という弱者を相手にする仕事なんかは避けるもんだよ」

ベンジャミンは心底ホッとして胸を実際に撫でおろした。

「よかった……」

「親という存在や、親の代わりであったような存在というのはその子供の性的嗜好にものすごく密接に関わってくるものなんだよ。実際に親から虐待を受けいていた子供は暴力的なことを忌み嫌いながらも同時に興奮してしまう人間が多い。先生は暴力的行為というものに興奮を覚えることはないんだが、死体を許可なく勝手に見て、それを見ながら快楽に耽ってしまうこと自体が、とても暴力的なことであると思っている」

「先生、ぼくが見たフォルダの中には、綺麗な死体ばかりの画像がありました。グロテスクな死体にも興奮を覚えるんですか?」

「いや、先生は覚えられない。グロテスクさに美しさを感じることは確かにあるんだけれども、それは先生の性的興奮には繋がらない。先生はもうここ何年と、血の赤い色が苦手になってしまったんだよ」

ベンジャミンは部屋を見渡して言った。

「そういえば先生の部屋って、赤いものがないですね、樹木や土の色とか、緑系が多いですね、とても落ち着きます」

「うん、真っ赤なものを見ると先生は痛みを感じるので、極力避けて赤い物は買わないようにしている」

「先生カシスソーダおかわりしてもいいですか?」

「ベンジャミン、おまえ、顔が赤くなってないか?」

「ランプに照らされてるからですよ。ぼく全然平気です」

「それじゃあと一杯だぞ。先生も汲んでこよう」

そう言うと先生はベンジャミンからグラスを受けとってキッチンへ向かった。

 ベンジャミンは先生がいなくなるとずりずりと腰をずらしてベッドに横になった。

先生が戻ってくるとベッドに上がってベンジャミンのほうのエンドテーブルにグラスを置いた。

ベンジャミンは起き上がってカシスソーダを飲むとまた横になって言った。

「先生このまま先生の話を聴いてもいいですか?」

「構わないさ、どんな体勢で聴いても。いちばん心地の良い体勢で聴いてくれたらいい」

ベンジャミンはとても心地が良かったが、ちょうど目の前に先生の股間のあたりが来ることがすこし気になった。

「先生、先生も横になってくださいよ。まだしんどいんでしょう?仰向けになって話したらどうですか?」

「そうだな。先生もちょっと横になってしまうか」

先生は立てていた枕を下に置いて仰向けになった。

ベンジャミンはこれで先生の股間が目の前に来なくなったと嬉しかった。

「先生はネクロフィリアでいることが、あんまり苦しいものだから、どうにかはっきりとした原因を自分のなかに掴んで、この性的嗜好を変える手立てをいつも、いつでも探しつづけている。だからずっとこのことについて考えているんだが、おまえが傍にいるときだけは、考えないようにしてきた」

「だからぼくの透視力によっても先生が死体ばかり考えていることを読み取れなかったんですね」

「そうだ。おまえの透視力は曖昧で好い加減なものでもあるが、先生はそれでも常に気を使って、絶対におまえの傍では死体について思い巡らさないようにしてきた」

「でも先生、なんで先生の心を読み取ろうとするといつもエロいことばかりが読み取れたんですか?」

先生は笑った。

「それはおまえが、毎日エロいことばっかり考えているから、その心の焦点によって先生に投影し、同じものをとくに読み取っていたんだろう」

「ぼくそんなエロいことばっかり考えてないですよ!」

「ははは、剥きになるところが怪しいな」

「先生ぼくを疑うんですか?」

「いや、疑ってない。先生の冗談だよこれは。おまえはいつでも間に受けてしまうのだから」

「先生の冗談わかりにくいからなぁ……」

「それはすまない。いや実際、先生はおまえといるとき、常にエロいことばかりを浮かべているんだよ」

「なんだやっぱりそうなんじゃないですか。なんでなんですか?」

「でもほかの事だって同じだけ考えているさ。でもおまえが読み取るのが何故かエロいことばかりに偏るのはおまえの焦点の問題だ。まあ冗談でおまえがいつもやってるのはわかっているよ」

ベンジャミンは顔を赤らめて黙りこくった。

先生はベンジャミンをちらと見て笑った。

「ははは。そんなに恥ずかしがることはない。健康的な性的嗜好で喜ばしいことじゃないか。先生がエロいことばかり思い浮かべているのは、普遍的なエロスを想像しつづけることによって先生の性的な好みを変えることができないかと常にこころみているからだ」

ベンジャミンは安心したような自分と先生がかけ離れていることが悲しいような複雑な気持ちになった。

「先生はほんとに、お母さんに似た死体以外ではまったく興奮できないんですか?あれ、でも先生にはかつて愛した女がいるって言ってたじゃないですか。その女の裸を見ても興奮しなかったんですか?」

「うん、その話をちょうどこれからおまえにしようと先生は想っていたんだよ。一人だけ、先生にも例外がいた。それが先生がこの人生でたった一人、愛した女の存在だ。先生が22歳のときに付き合い始めた人だ。彼女は先生よりも16歳上の38歳だった」

「ずいぶん年上なんですね。16歳上ってことは、その人が16歳のときに子供を産んでたら、先生と同じ年の子供がいるじゃないですか」

「そうだな。16歳で子供を産むことはそれほど珍しいことでもない。先生は親の愛情に飢えきった子供であるから、年上の恋人に母親のような愛情を求めることもごく自然なことだ」

先生はふとエンドテーブルを振り返って時計を見た。

「もうこんな時間か。ベンジャミン」

「はい。なんですか?先生」

「おまえ、腹減ってるんじゃないのか」

ベンジャミンはすこし考えるようにして間を置くと言った。

「ほんとだ、先生に言われて初めてお腹がすいていることに気づきました」

「それは真に、喜ばしい限りだな」

「どうしてですか?」

「なぜってそれだけ集中しておまえは先生の話に耳を傾けつづけてくれていたってことだからだよ」

「だって先生の大事な大事な話だもの。好い加減に聴いたら罰が当たってしまいます」

「先生は嬉しいよ、すごく」

先生がそう言ってベンジャミンを見つめるとベンジャミンは照れたように笑った。

「よし、それじゃあ先生がマクロビピザを今から焼いてやろう」

「ピザ?!そんな手の込んだ料理を作ってたら時間がもったいないですよ先生、はやく先生の話の続きが聴きたいのに」

「冷凍ピザだけれども」

二人はどっと一緒に顔を見合して笑いあった。

先生はベッドから立ちあがると言った。

「先生が今から冷凍マクロビピザを焼いて、その焼いているすきに特製サラダを作ってやるから待っていなさい」

「はい。ぼくはおとなしく待っていることにします。とか言って先生、ぼくにもなにか手伝わせてくださいよ」

「なんだおまえは、手伝いたいというのか」

「なにか協力したいです」

「よし、それじゃあ、キャロットをピーラーで剥いてもらうかな」

「やった!ぼくピーラーで剥くのが大好きなんです」

「よし、それでは早いところキッチンへゆくぞ」

先生はキッチンへ向かって走った。

ベンジャミンが後を追って笑って言った。

「先生走ってるじゃないですか」

「ここはしょうがない。今日は、しょうがない。急いでいるからな」

「先生元気になってよかった」

先生はベンジャミンにキャロットとピーラーを渡して言った。

「おまえのおかげだ、ベンジャミン」

先生はサニーレタスを洗ってちぎり、セロリを幼虫の形みたいに斜めに薄く切って、DAIKONを千切りにしだした。

ベンジャミンはキャロットをピーラーで剥きながらふと気になったことを訊いた。

「先生もしかして、先生が菜食になったことと、先生がネクロフィリアであることはなにか関係してるんですか?」

先生はベンジャミンが剥いたキャロットとサニーレタスとセロリとDAIKONを混ぜ合わせ器に盛り付けながら言った。

「なんでそう思う?」

「だって、死体のことを毎日考えていると、肉とかって食べるのつらいだろなと思って……」

「確かにそれはそうだな。でも先生が菜食になったのは30歳の頃だし、あまりそこは関係ないかもしれん。しかし先生はずっと昔から罪悪感を常に意識しながら肉を食べていたから、親の死と肉食の罪悪感は関係している可能性は考えられるな」

「きっと、関係しているとぼくは思います。そう思うと、身近な死を経験することってすごく大事なことに思う」

「うん、そのテーマは先生がずっとおまえと話したいことだ」

そのときオーブンが音を鳴らした。

「お、ピザが焼きあがったようだ。それではこのサラダをベンジャミン、ベッドの上に置いてきてくれるか」

先生はトレイの上に載ったサラダをベンジャミンに渡した。

「え、先生、ベッドで食べるんですか?」

「うん、今日は特別だ。こんな日は、ダイニングテーブルで食べる気がしない。たまにはいいだろう、ベッドで食べるのも」

 ベンジャミンはワオ!という言葉とヒュゥ!という喜びを表す言葉が喜びのあまり同時に出て「ヒュォワ!」と声をあげてサラダを運びに行った。

先生は「ヒュォワ!」ってどういう意味なんだ、またなんか生徒たちの間だけで流行っている意味の解りかねた言葉なんだろうかとピザを切り分けながら思った。

 

先生とベンジャミンはベッドの上で向かいあって胡坐をかき、灯りは落としたままでサラダとピザを食べた。

「こんな経験は先生は恋人ともないぞ、しかもこのオイルが垂れてくるピザを必死に下に落ちないように先生と生徒が向かいあって必死に食べるというのも野生的で粋なもんだな」

ベンジャミンはけらけらと笑って言った。

「先生、”必死に”って二回言った」

先生もベンジャミンの笑いに釣られて笑った。

「おまえ二回言ったらそんなにおもしろいのか、おまえ」

ベンジャミンはまた虫が出た子供のようにけらけらと笑った。

先生はこりゃベンジャミンは完璧酔ってるなと思った。

しかし先生がピザを食べ終えるとベンジャミンはそそくさとトレイをキッチンに持って行き洗いだした。

先生は不思議に思ってキッチンで手を洗うとベンジャミンは先生の手を取ってベッドに向かった。

ベッドに寝転がるとベンジャミンは先生の寝転がる場所をぽんぽんと叩いて言った。

「先生、続き」

「おまえさっきまであんなに笑ってたのにいきなりシリアスな顔がよくできるもんだな」

先生は感心しながらベッドに横たわった。

「漢字で書くと、尻に明日と書いて”尻明日(シリアス)”ですね」

「なんか深い意味があるのか」

「意味は特に、考えつきません」

先生は苦笑して口に左人差し指を曲げて当てた。

「先生の唯一愛した女は先生の16歳上の女だったというところからだな。彼女はどういう人だったかと言うと、一言で言えばとても、子供っぽい人だった。普段は静かで、思慮深い面も持ち合わせていたが、温和な性格とは言いがたく、怒るとなんでもかんでも投げつけてきたり、先生を叩きつけてきたりと手に負えないような人だった。しかし何事にも素直で、あまりに純粋な人だった。見た目は、小動物系だった。童顔の人だったよ。見た目も性格も、すべて、寝ている姿も、ビブラートとオブラートの掛かったようなその優しい声も、全部、母親にそっくりだと先生は思った」

「先生はお母さんの声を憶えてるんですか?」

「いや、先生のお母さんの話し声は先生は聴いたことがないんだが、先生のお母さんはクリスチャンだったから、賛美歌を歌っているテープがうちにあって、それを聴いては、ああお母さんの声ってこんな声だったんだなと先生は知ったんだ」

「ぼくも聴いてみたいな」

「先生の実家はいま先生の兄貴が住んでいて、兄貴とは敬遠になってしまったから、ちょっと手に入れるのが難しいな」

「そうか…残念だな」

「先生も聴いたのは10代の頃だから、また聴いてみたいもんだ」

「先生と彼女は、どうやって知り合ったんですか?」

「とうじ先生は、まだ先生の仕事に就いてなくて、非常にブラブラとしていた。お金がなくなった頃に適当なバイトを見つけてはすぐにやめての繰り返しだった。先生はその時、本屋のレジの店員のバイトをしていた」

「先生がレジ打ちのバイトなんてすごく意外だ。エプロンをつけて打ってたんですか?」

「うん、なんでエプロンなんか着なきゃいけないんだとすべてを憎み倒しながらたくさんポケットがついていてパンダのマークが真ん中に付いた青いエプロンを着ながらレジを打ってたよ」

「パンダ堂書店だ!けっこう大きな書店で働いてたんですね」

「いや、先生の働いていたときはまだチェーン店になってなくてすごくちいさい古本屋みたいな書店だった。実際新刊よりも古本のほうが売れるってんで半数以上は古本を売っていた。そこに、彼女がやってきたんだ」

「新入社員として?」

「いや、客として。彼女は生粋の文学少女で、昔から特にマニアックな本ばかり好んで読んできた人だった。その彼女がいつも先生の働いてるパンダ堂にやってきては本を取り寄せていたんだ。本が届けば彼女の家に先生が電話して、ものの5分かそこらでいつも走ってやってくるほど本が好きな人だった。そんなある日彼女が取り寄せた本が廃刊であることがわかって、手に入れられないことが解った。しかしその本は、先生が持っている本だったんだ」

「なんて本ですか?」

「あれは、サウジアラビア人の作家が書いた”マ・ティミライ・マヤ・ガルチュー”という本だ」

「それはどういう意味なんですか?」

ネパール語で”愛している”という意味だよ」

サウジアラビア人なのにネパール語の題名なんですか?」

「そうだ」

「どういう内容?」

「ほとんど理解に難しい、奇怪な本だった」

「すごい本を先生は持っていたんですね」

「うん、でもその本は先生が買った本じゃなく、先生の恩師から、”要らんからおまえにやる”と言われてもらった本なんだ」

「先生にも恩師がいたのか……」

「先生はものすごく、恩師に感謝した。この本の御蔭で、先生は彼女と知り合えると思ったんだ。先生はもう、彼女を一目見た瞬間から彼女にぞっこんで、それから重苦しい恋煩いに陥るほど彼女が愛おしくてたまらなかった。先生は意を決して、書店から彼女に電話をかけ、こう言ったんだ。”申し訳ありませんがポチェレーヴィン様のお取り寄せして頂いたマ・ティミライ・マヤ・ガルチューという御本は現在廃刊となっておりました。しかし御安心ください。実はその御本はわたくしが持っておりましてですね、是非ともこの御本をポチェレーヴィン様にお譲りしたいと思っている次第でございまして、代金は勿論、必要ございません。なんでかと言いますと、わたくしこの本は明日にでも古本に売ろうと思っていた本でありましてですね、古本でいくらの値段がつくのかと調べてみますと、これが、0円だったわけです。無料だったんですね。ですのでポチェレーヴィン様がわたくしに払う代金も当然、無料となっておりますのでどうぞなんの気兼ねも必要ございませんでして、今すぐにでも取りに来て頂いても構いませんし、もしよければ、わたくしのほうからポチェレーヴィン様のご自宅へ今日のうちに宅配させていただくことも可能でございます。如何いたしましょうか?ポチェレーヴィン様?わたくしめの声は聴こえていますでしょうか?ポチェレーヴィン様、もしもし、もしもし?”と先生がいくら話しかけても電話の向こうはうんともすんとも言ってくれなくって先生が脳内でひとり混乱していると、書店のドアがカランコロンと開いて、息を切らして入ってきたのが、まさしくその、御本人様であるポチェレーヴィン様だったんだ」

先生は一瞬、嬉しそうなどや顔でベンジャミンを一瞥するとカシスソーダを飲んだ。

ベンジャミンもカシスソーダを飲んでくすくすと笑った。

「それで先生は、その場でポチェレーヴィン様に”マ・ティミライ・マヤ・ガルチュー”を渡すと、もうもんのすっごい御礼を先生の手を握り締めて泣きながら言われて、そのとき先生は確信したんだ。嗚呼この人は先生の結婚相手だって。彼女は是非なにか御礼をさせて欲しいと何度も先生に懇願してきた。先生はこの機を逃してなるものかと思ってだな、彼女を店の外に連れ出して言ったんだ。”それじゃどうか自分の恋人に今日からなってください”と。いたく卑怯なやり方だったと思ったのは、かなり後になってからだった」

「それで彼女の反応は?」

「彼女は最初呆気にとられていたが、次の瞬間には耳の先っちょまで真っ赤にして深く俯いたまま無言で先生に”マ・ティミライ・マヤ・ガルチュー”を渡し返したんだ」

「愛してるを愛してるで返したってことですね。ネパール語で……やけに初心(うぶ)な人だったんですね」

「うん、彼女にとっても、先生がほんとうの初めての人だったんだよ。先生はもうその瞬間に彼女を思いきり羽交い絞めにしてそのまま家に引き摺りこんであれやこれやと彼女を愛し尽くしたい欲望が頂点に達し気を失いかけそうな勢いのその欲情を先生は、死体を思い浮かべることで必死に理性で押さえ込んだことをよく憶えている」

「その頃から先生はネクロフィリアだったんですか」

「うん、もう毎日のように、見ては、性的快楽を貪っていた。先生がそれに目覚めたのは、15歳のときなんだ。でも先生は彼女を恋人にすることで、この苦しく悩ましい性的嗜好も絶対治るだろうと信じていた」

「駄目だったんですか?」

ベンジャミンは先生の顔が急に暗くなるのを見た。

「先生は彼女を、たった一度しか、抱くことが叶わなかったんだよ」

「抱くっていうのは、つまり……」

「先生はたった一度しか、彼女との、性交に成功できなかったんだ」

ベンジャミンは必死に笑いをこらえた。

「笑っていいところだ、ベンジャミン、真剣なところだが、笑うことでもしないと、話してられない話だから」

「先生わざと言ってるのか、真剣に言ってるのかがほんとうにわからないです」

「いつものことだろう。笑いたいときは笑いなさい」

そう言うと先生はベンジャミンの目を見つめ、また言った。

「先生はどうしても、彼女との性交に成功したい想いを常に持っていたんだが、運命は残酷さを望み、先生はほんとうにたったの一度しか、彼女との、性交を成功させることが叶わなかった」

ちょっとの沈黙の間をおいて、やっぱりベンジャミンは吹きだしてしまった。

「笑いたいだけ笑いなさいベンジャミン。おまえが笑ってくれるほど、先生は楽になる」

「先生酷いじゃないですか、これじゃぼくは先生を馬鹿にしたくないのに馬鹿にしているようなことになってしまう」

「馬鹿にすればいいんだよベンジャミン、こんな、ふにゃちん先生の事なんか」

ベンジャミンはまた吹きだして笑ってしまった。

「どうして、先生は、性交を成功させられなかったんですか?一度しか」

「それは先生が、ふにゃちん先生だからだ」

「ふにゃちん先生のばか」

「もっと言いなさい」

「ふにゃちんネクロフィリア教師」

「もっとだ」

「ふにゃちんネクロフィリアレプティリアン菜食ばか教師」

「どこからレプティリアンが入ってきたんだ」

「おまけです」

「おまけ付きなのか、先生は。まったく、喜ばしいこと、この上ないことだな、しかしそれを言うなら、ふにゃちんレプティリアン教師というだけでも面白いな」

ベンジャミンは声に出して笑った。

「先生カシスソーダのおかわりを作ってきてください」

「おまえはまだ飲むのか」

「うん、お酒がないと、聴いてられません」

「よし、では先生もおかわりしてしまおう」

先生が立ち上がってグラスを取るとベンジャミンもベッドから起きて廊下のほうへ歩きだした。

「どこへ行くんだ」と先生が呼びかけると「トイレを貸してください先生」とベンジャミンは応えた。

ベンジャミンはいつもトイレを借りるときは「トイレをお借りしてもよいですか先生」と律儀にも言ってくる生徒だったのに言わないということはやはり相当酔ってるのだなと先生は思った。

ベンジャミンがトイレから出てくると「これを持っていきなさい」と言ってグラス二つとお皿にパンプキンシードが入ったものが載ったトレイを渡して先生はトイレに入った。

パンプキンシードのせいで二日酔いになったって言ってたのに、また食べるのかな……とベンジャミンは先生が相当酔ってるかもしれないと思った。

 

先生がすっきりした顔で戻ってくるとベッドに横になり、「美味いだろうこれ」と言いながら枕元に置かれたトレイの上にあるパンプキンシードを口にした。

 「美味しいけど先生、また食べ過ぎたらまた二日酔い、いや、三日酔いになりますよ」

「そうだな、先生はもう食べないからあとはおまえが食べなさい」

ベンジャミンはぽりぽりとかぼちゃの種をつまみながら横になって先生の横顔を眺めた。

「どこまで話したか」

「先生がふにゃちんレプティリアンというところまでです」

「先生は教師でもなくなってしまったのか。ってその前のところはどこだったか」

「先生が一度しか性交に成功できなかったってところです」

「あそうだ、先生はほんとうに、彼女と一度しか、性交に成功できなかった。何度と、数えきれないほど先生は試みたのだが、無理だったんだ」

「先生はEDだったの?」

「勃起障害、勃起不全、確かに先生は、EDだな」

「先生はEDET」

「EDET、言葉に発すると何故かすごいむかついても来るが、省略している分、言いやすくもあるな。先生はいつから地球外生命体になったんだ」

「先生は地球内生命体なんですか」

「おまえはいつから、先生を地球外生命体だと思っていたんだ。ってこんな話をいつまでも話してたら先に進めないぞ」

ベンジャミンはくすくすと笑った。

「クスクスベンジャミン、先生は続きを話すぞ」

「お願いします」

「先生は性交渉以外の行為ではもう普通にそれは…」

「ビンビンだったの?」

「うん」

「ビンビンET」

「なんか急に、如何わしい存在になってしまったな」

「ふにゃちんET」

「突如、温和で慈悲の深そうな存在になったな。おまえだいぶ酔っ払ってるだろう」

「先生だって」

「確かに、先生もちょっと酔っ払ってきてしまってるかもな。まあ今日は特別だ。これをきっかけに、飲んだ暮れの生徒になったらいかんぞ」

「大丈夫です。先生と一緒だから飲んでしまうんです」

「そうだな。先生が悪い。話を戻すと、先生は、何故か、彼女といざ、性交を成功させようともくろむと、決まって先生の下腹部はとたんに元気を失ってしまったんだ。その原因を、先生はどれほど考えたことだろう。彼女の身体には普通に興奮するのに、なぜ繋がろうとすると駄目になってしまうのか。彼女は母親とそっくりだと感じている。近親相姦という人間に備わった禁忌の本能がそうさせるのか、また性交というものは、死を表すものであるから、死への恐怖からなのか」

「なぜ、性交は死なのですか?」

「性交が死である、タナトスとエロスを同一として考えることは、哲学者や文学者の間でも広く言及されていることだが、これは考えるより、感じとるものだよベンジャミン。おまえも経験したら、感じとるものであるはずだ」

「先生はその一回の性交で死を感じとったんですか?」

「先生はほんとうに、貴重な経験をした。何故なら先生は、先生は…」

ベンジャミンは先生の顔が見る見るうちに青ざめていくような気がした。

「先生は彼女を…彼女の存在を、まぎれもない”死”であると信じきって、彼女と交わったんだ。つまり、何故その一回が成功したかというと、先生が彼女をほんとうの死体であると信じきることができたのが一度きりだからなんだ。それ以外では、先生は彼女を死体だと心から信じることができなかった。当然の話だ。彼女は、生きているのだから。でもなんで先生が彼女と母親が似ているということを感じたのかというと、彼女はどこか、死体っぽい人だったからだ」

「目が死んでいる人とか?」

「うん、確かに彼女の目は、だいたいが瞳孔が開きかけている目であったし、その目は、完全に光を失っているように見えることもあった。でもそういった彼女の目に見えるものから先生は死を感じとったわけじゃない。彼女はほんとうはもう既にこの世に存在してないんじゃないかと感じるときが何度もあった。それほど彼女の存在感というものが、非常に透明で、あまりに薄かったんだ。彼女は思慮深い面があると先生はさっき言ったが、と同時に、彼女は無意識に考え事をしつづける癖を持っていた。あるときなんかは、一時間近く先生が彼女の名を呼びつづけてもまったく返事をしないことがあった。彼女は椅子に座って一点をずっと見つめ、その意識がどこか別のところに行ってるのはわかるんだが、咳をしたり、口に手を持って行ったりするんだよ。だから目を開けて寝ているわけでもないと思って先生は心配になってずっと彼女を呼ぶんだが、一向に返事をしてくれない。そして一時間ほど過ぎた頃にようやく、ハッとした顔をして”なにか言った?”って言うんだ。そしていったい何をそんなに深く考えつづけていたのかと訊くと彼女は何を考えていたのかまったく想いだせないけれども、確かにとても深いことを考えていた気がすると、いつも同じことを返すんだ。そういった彼女の部分に先生はとても、魅了されていたんだよ。そういう人であることを先生は彼女と出逢った瞬間に、感じとったんだ。それは先生のなかにも、同じ”死”があるからなのかもしれない」

ベンジャミンはそういえば先生の家に訪ねたとき、先生の目がきまっていつもより暗い色をしていることを想いだした。先生は家にいるとき瞳孔がすこし開いているのだろうか。朝に訪ねても暗い色だから、お酒を飲んで瞳孔が開いているわけではないだろうし、緊張すると瞳孔が開くようだけれども、先生は家にいるほうが緊張してるのだろうか。

 

 「話を戻すと、先生は性交によって死を感じたわけではなく、死を感じられたから性交できたということになる。本物のネクロフィリアとしては珍しくもなんともない話だが、先生はその罪悪感によっても、彼女との交わりを、いっそう困難なものにしたのは確かだと感じている。彼女から死を感じとるほど、先生は興奮して、エクスタシーを感じることのできる存在だったんだ。そして彼女は、ほんとうに鋭い、センシティブな人でもあったから、たぶん先生の秘密を、どこかで感知していた可能性がある。先生は彼女にばれてしまうことをほんとうに恐れた。先生が彼女を愛する理由を、彼女が知るところとなればもう、この関係はかならず終わってしまうことを先生はわかっていた。先生は彼女を失うのが、ほんとうに怖かった。彼女を失うとは、先生にとって、母親を二度目に失うことを意味していたんだ。先生は彼女と、約5年間付き合った。別れは突然、彼女から告げられた。もう耐えていくことができないと。彼女は……先生との子供を切(せつ)に、切に欲しがっていた人だったんだよ。お金もないもんだから、人工授精もできなかったし、それ以前に、先生は彼女のお父さんから、結婚を反対されていたんだ。反対の理由を先生は教えてはもらえなかった。彼女は父親をほんとうに愛する人であったから、駆け落ちで籍を入れることもできなかったがそれは彼女の言い訳で、彼女はその前に先生と結婚することを不安に思っていたはずだ。そして先生も、不安でたまらなかった。酷い言い方だが、彼女と結婚するって事は、先生が、”死体”と結婚するってことだ。彼女の場合、自分を”死体”として愛する夫と夫婦になるってことだ。そんなことは、いくらど変態の先生でも、許すことはできなかった。もっとも先生は、できれば死ぬまで彼女と一緒にいたいと願ったが、その将来は、想像すればあまりにおぞましい将来であることが在り在りと先生には見通すことができた。子供を心から望むのに、子供を生めないこと、先生との交わりもできないこと、彼女はこのさき先生といると、ほんとうの死体となってしまうに違いないと先生は思った。だから彼女から別れを告げられたとき、先生はすんなりと、あっさりと受け容れた。先生自身が、今度はほんとうの死体になってしまったような感覚で。二度目に母親を失うということが、あんまりにも先生にとって、信じがたいことであったので、未だに彼女のことを想っては一滴の涙も流すことができない」

「先生」ベンジャミンはお酒の力でいつもは絶対にできそうにないことをやれる喜びを感じながら、先生の左脇腹のあたりに顔を突っ伏した。

「おまえが代わりに泣いてくれているのか」

「泣いてないよ。先生。嬉しいんだ」

「先生がほんとうの死体になってしまったことがそんなに嬉しいのか」

「うん。先生は死体だ」

「もっと言いなさいベンジャミン」

「先生はふにゃちん死体」

「もっとだ」

「先生はふにゃちんばか死体」

「まだ弱い、もっと強力なものを持ってきなさい」

「先生はふにゃふにゃのちんぽ死体とそのばか」

「変な感じに分離してるんだな」

「先生は死の人と本だ」

「うん、いい感じに分離してきている」

「”人”と本”って書いて、体だよ、知ってた?」

「うん、先生なんだからそれは知っている。漢字は真に面白いなベンジャミン」

「先生は、一本の線の下の”夕ヒ”と”人”と”本”なんだよ」

「そうだな、もう、人間じゃあない」

「違うよ先生、それが人間なんだよ」

「それが人間なのか。今日はおまえが先生で先生はおまえの生徒だな」

「えっへん、ぼくは今日から先生の先生なのだ。神妙にしたまえ」

「うむ、先生は先生であるがゆえに、先生だ。おまえは真に、正しい」

「先生、いまから面白い遊びしようよ」

「どんな遊びだそれは。おまえが猫になって、先生が毛虫になって、先生はおまえの頭のてっぺんに乗っかり、二人で夕ヒに向かうジェットコースターに乗って疲れ果てる。という遊びか」

「うーん、それもすごくいいけれど、今はこの部屋でできる遊びがいいな」

「どんな遊びがいい。おまえをこのまま放置して、先生は眠りこけるという放置プレイか」

「先生それいつもやってる遊びじゃないですか」

「先生はそんな趣味はないぞ」

「それじゃ、どんな趣味があるんですか?」

「それは…死体愛好趣味だ」

「先生、今ぼくを死体に見立てて遊んでみてくださいよ」

「そんなこと、先生ができるか」

「どうしてですか?ただの遊びなんだからいいじゃないですか」

「できない、絶対に、そんな遊びは」

「先生の命令だぞ?聞くんだ。先生」

「だいたいどうやって遊べばいいんだ」

「ぼくを死体に見立てて、先生が興奮する遊びです」

「先生は一応ヘテロだから、無理があるぞ。ベンジャミン。おまえだって歴としたヘテロじゃないのか、女のあれとかこれとか、思い浮かべてばっかりいるじゃないか」

「今は欲求不満な先生のために、忘れてあげるんです。すべてを」

「おまえは酔いすぎだベンジャミン。あれ、もうこんな遅い時間じゃないか。明日は学校なんだから、おまえはもう眠ったほうがよくないか」

「あー?そう言って、ぼくが眠ると先生はぼくを死体に見立てて襲うつもりなんでしょう?すべてお見通しですよ!」

「では先生が襲ってやるから、おまえはもう寝なさい」

「いやだいやだいやだ!」

ベンジャミンの初めて登場する駄々をこねた子供のような人格に先生は目を見張った。

「困ったもんだな。それじゃあほかの遊びなら先生は考えてやってもいい。ほかの遊びを考えなさい」

「うーん、それじゃぁ、あっ、これにしよう」

「どれだ」

「今からぼくと先生は、ひとつの作品を共作するんです」

「どんな作品だ?」

「それは、ぼくという男子生徒と、男性教師である先生が真に愛し合うという作品です!」

ベンジャミンはけたけたと笑った。

「おまえはまた、虫が出たか。どんな風に愛し合うんだ」

「あっ、こうしよう!先生、パソコンの前に座ってください」

「なんだ、何をしようと想ってるんだ」

「先生は今から、小説を書くんです。ぼくと先生が真にもって愛し合うという純文学小説です」

先生は大きく息を吸って吐くと言った。

「なんの刑罰なんだ、これは」

「先生がネクロフィリアであることの刑罰です」

「なるほど、それなら受けないわけにはいかんな先生は」

「その通りです先生。さあ一緒に、パソコンのところへ向かいましょう」

「うむ…」

先生は残っていたカシスソーダを一気に飲み干すと重い腰を上げてパソコンの場所へ行った。

「先生、座ってください」

「うむ」

パソコンが勝手にシャットダウンしていたことにベンジャミンはホッとした。

そしてふと想いだした。

「先生そういえば、小説を書いているって言ってませんでしたか?」

先生はワードを立ち上げると応えた。

「うん、先生はずっと小説を書いているよ」

「読ませてくださいよ!」

「それがまだ、完結しておらんのだよ。だから読ませられない」

「そんな…前に聞いたときって、もう何年も前だったような」

「うん、先生はたった一つの小説を延々とずっと書いている」

「それって、いったいどれくらいの長編なんですか?」

 「そうだな、ざっと、4センチほどの厚さの文庫本にすると今で…」

「何冊分…?」

「だいたい、167冊ほどだろう」

「げ!どんだけ長いんですか、それ、ぼく読むのすごく遅いから、読むだけでものすごく時間がかかるじゃないですか、先生ぼくの生きているうちに書き終えられるんですか」

「いやその前に先生が死ぬだろう」

「そんなことわかりませんよ。ぼくが死ぬまでに絶対に完結させてください。ぼくは先生の小説を絶対読みたいんだから」

「そうだな、先生はがんばるよ」

ベンジャミンは白紙のワード画面を見つめると言った。

「先生、その小説の主人公の一人称は?」

「”わたし”だな」

「主人公は男?」

「うん」

「標準語?」

「そうだな、時に、変になるが」

「よし、それじゃ、書いてください。打ち込んでください。ぼくが最初は考えますから、先生はつづきを書いてください」

「了解でござる」

「わたしは今朝、ひどく奇妙な夢を見た」

 わたしは今朝、ひどく奇妙な夢を見た。

 先生はベンジャミンに言われるがままにそう最初に打ちこんだ。

 「それは、こんな夢である。わたしは、ひとりの教師であり、彼は、ベンジャミンという名の、ひとりの少年であった」

ベンジャミンが先生の座る椅子の背に手を掛けてそう言うと、その言葉を先生はまた打ちこんだ。

  それは、こんな夢である。わたしは、ひとりの教師であり、彼は、ベンジャミンという名の、ひとりの少年であった。

「そのベンジャミンとわたしが、禁断の愛を真に愛し合うという夢である」

先生は苦渋の顔を浮かべながらも真剣に打ちこんでいった。

 そのベンジャミンとわたしが、禁断の愛を真に愛し合うという夢である。

「ベンジャミンは突如、けつを出して先生に向けて言い放った」

 ベンジャミンは突如、けつを出して先生に向けて言い放った。

「ベンジャミンの台詞を先生が書いてください」

先生は口元をさすりながら低く唸った。そして先生の細くて綺麗な指がベンジャミンの台詞を打ち始めた。

「先生、ぼくを、ぼくを、愛してください。おねがいですから。後生ですから」

「先生、音読しながら打ちこんでくださいよ」

「うむ」

「その台詞、音読してください」

先生は声に出してベンジャミンの台詞を読んだ。

「先生、ぼくを、ぼくを、愛してください。おねがいですから。後生(ごしょう)ですから」

「よぉし、先生は聴いてやるぞ。おまえを先生は今から愛そうではないか。お?こんなところに、椅子が在る。すべすべとして、やわらかく、とても心地の良さそうな椅子ではないか。先生は座るぞ」

「よぉし、先生は聴いてやるぞ。おまえを先生は今から愛そうではないか。お?こんなところに、椅子が在る。すべすべとして、やわらかく、とても心地の良さそうな椅子ではないか。先生は座るぞ」

「そう言うと、先生はベンジャミンのけつに、座った。そして言った」

 そう言うと、先生はベンジャミンのけつに、座った。そして言った。

「なんて座り心地の良い椅子だ。先生はおまえを愛するぞ。真の愛によってだな、おまえを愛するよ。先生はな」

「なんて座り心地の良い椅子だ。先生はおまえを愛するぞ。真の愛によってだな、おまえを愛するよ。先生はな」

次、ベンジャミンの台詞です。先生考えてください。

先生がちらと左上のベンジャミンの顔を見上げるとその口元は震え、必死に笑いをこらえているように見えた。先生は、これは我慢大会だなと思い、声を出して笑いだしたいのを必死に抑え、ベンジャミンの台詞を口に曲げた左の親指と人差し指を当てて考えた。

考えつくとそれを朗読しながら打ちこんでいった。

「先生のけつって、あったかいなぁ。ぼくはほんとうに、幸せですよ。先生のけつが、ぼくのけつの上に乗っかっている。ぼくはもうそれだけで、嗚呼何と言うことだろうか、満たされてしまいます。気が、おかしくなりそうです。先生の真の愛を、真に感じます。先生のけつと、ぼくのけつ、これで一体だ、一つの人の本と書いて、一体です」

ベンジャミンは目を瞑って厳しい顔をして腕を組んで体を前後にゆらゆらと揺らしだした。限界がすこし来ているだろう事に先生はこの勝負の勝利の予感を感じた。そしてベンジャミンは目を瞑ったまま先生の台詞を言い始めた。

「おまえのけつはなぁ、真に、なによりも、どの物質よりも、美しいよ。先生の椅子にふさわしいというもんだ。おまえはだから、自信を持って、じぶんのけつを信じろ、いいか、おまえはおまえのけつを信じろ。けつだけを、けつだけを信じろ。先生のいっさいを信じるな。先生はおまえのけつさえあれば、生きていける。おまえは本に、美しい。おまえのけつを失って、先生がどう生きてゆけるというのか、おまえは本当に、それを想いつづけて生きなさい」

 「おまえのけつはなぁ、真に、なによりも、どの物質よりも、美しいよ。先生の椅子にふさわしいというもんだ。おまえはだから、自信を持って、じぶんのけつを信じろ、いいか、おまえはおまえのけつを信じろ。けつだけを、けつだけを信じろ。先生のいっさいを信じるな。先生はおまえのけつさえあれば、生きていける。おまえは本に、美しい。おまえのけつを失って、先生がどう生きてゆけるというのか、おまえは本当に、それを想いつづけて生きなさい」

 「先生、ぼくをもっと、愛してください。足りません。まだまだ、もっと、もっと愛してくださらなければ、ぼくは渇く。先生を、本当に愛しています。ぼくのけつを、降りないでください。先生のけつの重み、これは先生の愛の重みです。ぼくは耐えつづけます。先生のけつがささくれ立つ日には、ぼくのけつが先生のけつでこすられ、このけつを血で染めるでしょうが、ぼくはその血を、その痛みを、良き贈り物として、受け止めます。この、けつで」

「おまえの愛は、本物だよベンジャミン。先生はおまえがいればな、本当に生きていくことができる。おまえを知るまで先生は、本当の死体だった。正真正銘の、死体だった」

「でもそれは人間です。先生」

「そうだな。人間だ。人間であるからこそ、先生は死体だったんだ」

「それじゃ今はなんなんですか?先生」

「おまえを知ってから先生は、人間ではなくなった」

「なんになったんですか?」

「ベンジャミン、先生は、ほんとうはおまえの過去を知っている」

机の上に置かれたベンジャミンの白い手がちいさく震えだした。

「そう、だったん…ですか」

「だからベンジャミン、おまえから、先生に話してほしい」

「先生ぼくは、ぼくは…過去のすべてを……忘れてしまったんです」

「それを先生は知っていたよ。おまえと会ったあの日から。おまえは誰より、先生を慕ってくる生徒だ。先生の教えをいちばんに切実に求めているのがおまえなんだ。先生はおまえを、感じとっていた。おまえはどこか、先生の母親と、似ている気がする」

「先生ぼくは、ぼくは…死体なんですか」

「おまえは人間だ。生きている。ここに」

「それじゃ先生は、ぼくに死を感じとる先生はいったい、何者だというんですか?」

「そんなものはもう決まっている。先生は、おまえと会ったあの日から、おまえの過去になったんだよ。おまえの過去は、先生なんだ。先生は死体でも人間でもなく、おまえの過去だ。おまえの過去として生きることを、先生は決めたんだ。だから先生の知っていることはすべて、おまえがもうすでに、すべて知っていることだ。ベンジャミン、先生はおまえの過去だから、おまえといつでも、いつまでも、漂っていたいよ。おまえは先生の未来なのだから」

ベンジャミンは眼鏡を静かにはずすと、先生の胸に突っ伏して声をあげて子供のように泣いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ѦとСноw Wхите 第10話 〈鍵〉

Ѧ「なにも、なにも見えないよ。真っ暗だ。暗くて怖い。さびしい。Сноw Wхите、どこにいるの?」

Ѧ(ユス、ぼく)は闇の空間のなかでСноw Wхите(スノーホワイト)を呼んだ。

 

Сноw Wхите「Ѧ、わたしはここにいます」

 

Ѧ「どこ?なにも見えないんだ。闇しかないよ。苦しい。怖いよ」

 

Сноw Wхите「わたしはѦとそれほど離れていない場所にいるはずです。わたしもなにも見えません。Ѧのあまりに深い悲しみとわたしの悲しみのСынчронициты(シンクロニシティ、共時現象)によって、Ѧとわたしの見える視界をこの闇の空間に変えてしまったのです」

 

Ѧ「Сноw Wхите、Ѧのところへ来てほしい。Ѧはひとりでさびしくて怖いよ。Ѧを抱っこしてほしい」

 

Сноw Wхите「わたしもいますぐにѦを抱っこしたいです。Ѧを不安と悲しみと孤独と恐怖からいますぐ解放したいです。でもこの闇はѦが作りあげた闇のバリヤなのです。Ѧは悲しみのあまり、光を受けつけない状態に入っているのです。わたしの力でもこの強力な闇のバリヤを透りぬけることが叶いません。Ѧは今、極度にじぶんを責めてじぶんを否定しているのです。そしてѦはこの闇を恐れると同時に、闇の中でじぶんを苦しめられていることに一種の喜びと解放を感じています。だからこの闇は、ちょっとやそっとのѦの心のゆらぎでは消えることはありません」

 

Ѧ「どうしたらѦはこの闇を壊してСноw Wхитеのそばへ行けるの?Ѧの心は凍ってしまいそうだ。ѦはもっとѦを苦しめたい。Ѧは苦しくてたまらない」

 

Сноw Wхите「Ѧがほんとうに願うことをいま行なってください。Ѧはほんとうに願うことを我慢しているのです。ほんとうに望んでいることを物念じしつづけることにいよいよ限界が来ているのです。Ѧ、Ѧが心から望んでいることの封印をいま解いてください。心配は要りません。わたしにすべてをゆだねてください」

 

Ѧ「ѦはСноw Wхитеを苦しめたい。Сноw WхитеはѦからお母さんとお父さんを奪い去った存在だ。Сноw Wхитеが憎い。Ѧは死を赦せない。Ѧは死を苦しめるために、Сноw Wхитеを生んだんだ。Сноw Wхитеには苦しんでほしい。死は、その罪の為に、苦しむべきだ。Сноw Wхите、死の底まで、苦しんでほしい」

 

Сноw Wхите「わたしを存分に苦しめてください、Ѧ。わたしはѦに苦しめられるために生まれ、存在しています。Ѧのわたしへのうらみは、愛なのです。わたしをѦがうらめばうらむほど、わたしは喜びを感じられます。Ѧはけっして、わたしに満足しつづけてはなりません。Ѧがわたしに求めれば求めるほど、それが愛だからです。Ѧの愛によって、わたしは存在しているのです。Ѧがわたしに完全であるとみちたりつづけてしまえば、わたしの存在は脅かされてしまいます。これは親と子や、夫婦(めおと)の関係でも同じです。みちたりつづけると、人は不毛を感じます。Ѧがわたしをうらみつづけるかぎり、わたしとѦは不毛の状態に入ることもありません。わたしは安心しながら、苦しみつづけることができます。Ѧの愛によって、わたしは苦しめつづけられながら、喜びを感じつづけることができます。Ѧはほんとうに大切な目的のために、Ѧのもっとも大切な存在たちをささげつづける存在なのです。Ѧのもっとも大切な存在たちをささげつづけることは、Ѧのもっとも苦しいことです。それが、Ѧのえらんだ犠牲です。それは、Ѧのえらんだ受難です。そしてѦがもっとも望ましいとしてえらんだ情熱のすべてなのです。わたしはѦによって底知れない苦しみを受けることを最初から承知して、Ѧを愛しつづけています。そしてѦがわたしを苦しめたいのは、わたしをほんとうに喜ばせたいからだとわたしは知っています。わたし自身が望んでいることなのです。Ѧから苦しめつづけられることを。Ѧはとてもそれを理解しています。愛は人間の理解を超えたところにあるわけではありません。人間に理解できるものなのです。Ѧはわたしの愛に絶えず渇いて苦しみつづけています。それはわたしがѦをほんとうに愛しているからです。Ѧの望みどおりに与えることが愛です。わたしはそのために、この次元ではѦの目の前に形をとって現れることをしないのです。Ѧが渇きつづけるためにです。Ѧは夢の中でしか、わたしに触れることができません。夢想の中でしか、わたしに抱かれることが叶いません。Ѧはわたしを求め愛するほど、苦しみのなかで生きてゆきます。人は神を求めるほど、苦しみをみずから求めるのです。そこに求める喜びがあることを知るからです。わたしという存在がѦを真に潤わせることができることをѦは知っているので、Ѧはわたしの愛によって、わたしの愛を求めつづけることによって、渇きつづけるのです。どうじに、わたしはѦの愛によって、Ѧの愛を求めつづけることによって、渇きつづけます。終わりなき喜びがここに存在しています。果てしない渇きがここに存在しつづけます。ですからѦ、Ѧはわたしを苦しめたいだけ、どうぞ苦しめてください。わたしはじっくりと、その苦難を受け容れます」

 

Ѧ「Сноw Wхите、その願いを、とくと叶えよう。ではСноw Wхите、Ѧをこれでもかというほどに、苦しめてほしい。いますぐ。それがСноw Wхитеを苦しめるもっとも良い方法であることをѦはわかっている。さあ、Ѧを、苦しめるんだ。その手で。Ѧの愛するСноw Wхитеよ」

 

Сноw Wхите「わかりました、Ѧ。Ѧはきっとそう来るだろうことをわたしは予見していました。それではこれから、わたしの愛するたったひとりの存在であるѦを、わたしは存分に苦しめたいと想います。Ѧ、いまѦのやわらかく可愛い手のひらの中にひとつのちいさなКеы(キー、鍵)を渡しました。暗闇で見えないですが手のなかにあることを感じとってください」

 

Ѧ「ほんとだ、鍵の形をしたものがѦの手のなかにある。これはいったいなんのКеыなの?」

 

Сноw Wхите「それはѦの喜びのドアを開けるКеыです。Ѧが喜びを感じるために必要なКеыです。それを失くしてしまえば、Ѧは喜びを感じることができなくなってしまいます」

 

Ѧ「どうしてこのКеыをѦに渡したの?」

 

Сноw Wхите「渡したと言いましたが、ѦはもともとそのКеыをちゃんと持っています。ただ手に感じられる形をわたしが取らせたのです。Ѧがそれを持っていることをѦに感じてもらうためにです」

 

Ѧ「Сноw Wхите。ѦはѦをСноw Wхитеの手によって苦しめてほしいと頼んでるんだよ。Ѧが求めてるのは、こんな鍵じゃない」

 

Сноw Wхите「わかっています。Ѧはいま、わたしによる苦しみを切実に求めています。だからあえて、その鍵をѦの手に取らせたのです」

 

Ѧ「どうゆうこと?Ѧにわかるように話して」

 

Сноw Wхите「Ѧがほんとうに苦しみぬきたいのなら、その鍵をどうすればいいか、Ѧは知っています」

 

Ѧ「ああ、そういうことか、Ѧの喜びであるこのКеыを、Ѧは失えばいいんだね。するとѦは喜びを失う。すべての喜びを失えばどうなるか、きっと本物の死体となって生きてゆくんだろう。Сноw Wхитеもそれを望んでるんだろう?」

 

Сноw Wхите「わたしは望みません。わたしはѦのほんとうの喜びに繋がることだけを、この手によって与えたいのです」

 

Ѧ「ではѦは、Сноw Wхитеを苦しめるために、Сноw Wхитеの望まない方へゆくよ。こんな鍵、Ѧはほんとうは要らないんだ」

 

Ѧはそう言うとそのちいさなКеыをなにも見えないその闇のなかへ落とした。

 

Ѧ「いくら待ってもなんの音も聞こえない。なんて深い闇なのだろう。もうきっと、取りもどせない。Ѧはこれで、死体となって生きていくことになったよ。Сноw Wхите、死体であるѦをどうかこれからもよろしく」

 

Ѧは声を殺して泣き始めた。

 

Сноw Wхите「Ѧ、心配は要りません。Ѧは安心して、待っていてください。わたしがこれからѦの落としたКеыを拾いに行ってきます。すこし時間はかかるかもしれませんが、必ずКеыを見つけて戻ってきます」

 

Ѧ「Сноw Wхите、この闇は、Ѧの力でも、Сноw Wхитеの力でさえもどうにもならない闇なんだよ。きっと、底の近くなんかに行ったら、戻ってこれない。恐ろしい闇なんだ。ѦはСноw Wхитеに行かせるわけにはいかない。Ѧをひとりにしないで。Ѧを置いていったら嫌だよ。もうだれも、失いたくない。だれも殺したくないんだよ。行ったらいやだ、行ったらいやだよСноw Wхите。おねがいだよ」

 

Сноw Wхите「Ѧのそのおねがいを、わたしは聴くことはできません。わたしはѦを苦しめる者です。Ѧを苦しめるためにも、わたしは死の底へ下りて行かねばなりません。わたしが必ず戻るとѦは信じつづけてください。Ѧがそうつよく祈りつづけるなら、わたしはかならず戻ってこれます。Ѧが信じるのはわたしではなく、Ѧ自身です。ѦがѦを真の願いによって信じつづけるなら、すべて叶えられます。ѦがかならずѦを信じることをわたしは信じているので、わたしはなんの不安も恐れも持たずにこの死の中をつきすすんでゆくことができます。死の奥へ向かうとは、わたしがわたしの深部に向かうということです。なにも怖がる必要はありません。Ѧが喜びをすべて失って生きるほうがずっと恐ろしいことです。わたしはѦのКеыを拾いに行かないわけにはいかないのです。Ѧ、しばらくの時間の耐え難い苦しみを、わたしが戻る日を信じてどうか耐えしのんでください。Ѧに、これを渡します。受けとってください」

 

Ѧの手のなかにまたКеыが握りしめられていることにѦは気づいた。

 

Ѧ「これはなんのКеыなの?」

 

Сноw Wхите「わたしのすべての喜びのドアを開けるためのКеыです。わたしがѦのところに無事に鍵を拾って戻るまで、それを預かっていてください」

 

Ѧ「どうしてСноw Wхитеの喜びをѦは預からないといけないの?Сноw Wхитеが喜びをすべて失って死の底へなんて下りて行ったらそれこそ危険だよ。危ない。Сноw Wхитеはこれを持ってなくちゃだめだよ」

 

Сноw Wхите「Ѧ、死の深奥へは、なにも持っていけないのです。そこは、まぎれもなく、死だからです」

 

Ѧ「そんなところにСноw Wхитеが行くなんてѦは耐えられない。行っちゃいやだよ。行ったらだめだ。Ѧのおねがいをおねがいだから聴いて」

 

Сноw Wхите「わたしは死であるから平気です。ただすこしの時間、すべてを忘れてしまうだけです」

 

Ѧ「わからない。わからないよ。Ѧは死をよく想いだせない。死は、死とは、いったいどんなものなの?」

 

Сноw Wхите「言葉で言い表すなら、気の遠くなるほどの、なにもない世界がえんえんとつづく感覚です」

 

Ѧ「そんな苦しくてたまらない世界にСноw Wхитеをやれないよ。Ѧの喜びはもう諦めよう。それに、ここにСноw Wхитеの喜びのКеыがあるじゃないか、これを二つに分けようよ」

 

Сноw Wхите「それはできません、Ѧ。喜びの鍵やドアとは、喜びの感情そのものを表しています。Ѧの喜びはわたしの喜びですが、その感情は、別々のものなのです。まったく同じであっては、個の存在ではなくなってしまいます。ひとつの個の感情を、別の個の感情に分けることはできないのです。個であることは存在の根源的な喜びであり、個の感情として存在することが必要なのです。Ѧのすべての喜びの鍵は、Ѧが生きる上でどうしても必要なものです。わたしはたとえもう二度とѦと再会できないとしても、取りもどしに行ってきます」

 

Ѧ「Ѧはいまひどく後悔している。こんなことになるなんて、思わなかったんだ。ѦはСноw Wхитеさえ失えば、もう生きていくことはできないよ」

 

Сноw Wхите「Ѧ、わたしが戻らないことを信じるなら、それはほんとうにそのとおりになります。わたしはこれから死に向かうので、わたしの願いによって戻ることもできないのです。Ѧにすべてが託されています。Ѧの願いに、すべてが懸っています。Ѧはわたしに戻ってきてほしいですか?」

 

Ѧ「戻ってきてほしい」

 

Сноw Wхите「わたしはかならず戻ります。Ѧのすべての喜びを手にして。Ѧはただ、ほんとうになってほしいことだけを、叶うと信じつづけていてください。それではわたしはいまから死の底へ下ります。わたしの愛するѦ、しばしのお別れです。いってきます」

 

Ѧ「いってらっしゃい」

 

Ѧは暗い闇のなか、涙声で精いっぱいの元気をふりしぼってСноw Wхитеを送りだした。

 

 

その瞬間、Ѧの視界から闇が消え去り、もとの見慣れたじぶんの部屋のなかにѦはいた。

それから、Ѧの喜びをすべて失った耐えがたい日々は続いた。

死がѦの傍にいるように感じるとき、Ѧは手のひらを見つめ、そこにСноw Wхитеから預かったСноw Wхитеの喜びの鍵があることをなんども想いだそうとした。

雪の結晶のような形の鍵を、Ѧはなんどもつよく握りしめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ѦとСноw Wхите 第9話 〈Complete〉

Ѧ「今日も悲しい夢を見た。
Ѧ(ユス、ぼく)はうちの実家にいるんだ。そしてそこでѦのお父さんであって、Сноw Wхите(スノーホワイト)でもある存在に向かってѦはひどく嫉妬しててむちゃくちゃ怒ってるんだ。外は真っ暗な夜だった。ちょうど夜ご飯をすませたあとで残ったおかずのお皿にラップした状態のものがお膳の上にいくつか置かれている。窓は開いていた。お父さんでСноw Wхитеである存在はすごく困った様子をしてる。でもいつものことだからと慣れっこみたいだ。絶対Ѧを怒ったりはしない。Ѧのお父さんは怒るとめちゃくちゃ怖かったからѦは歯向かったり、お父さんに向かって怒りをぶつけたりはできなかったんだ。でもお父さんでありСноw Wхитеである存在は怒らないとѦは知ってるから言いたいことは何でも言うし、素直に悲しみをぶつけてた。嫉妬の理由はたしかお父さんでありСноw Wхитеである存在がѦ以外の人を好きなんだろう?という疑いの嫉妬だった。Сноw Wхите (お父さん)はѦを優しくなだめようとしてたけれど、Ѧは怒りに我を忘れてしまっているから聞く耳を持たないんだ。そして激憤のあまり、お膳の上のおかずの入ったお皿を全部思いきり窓の外に向けて投げつけるんだ。Ѧはとても苦しくて泣き叫んでた。窓は開いているけれど網戸は閉まってたからいくつかは跳ね返るだけだったけれど、いくつかは網戸を突き破って外に飛んでっちゃうんだ。Ѧのおうちはマンションの二階だから下に落ちたかもしれないなとѦは少し心配になる。Сноw Wхите(お父さん)はѦを叱ることなく嘆きもせずにただ黙って散乱しているお皿やおかずを窓際に座って片付けてる。外は大雨が降ってた。Ѧは少しそこから離れたドアのそばに立ってる。するとそのとき、ものすごく大きな真っ黒な大波が窓辺に向かってやってくるんだ。海が近くにあるわけじゃないのに。大波はѦのおうちの中へと入り込んでくる。Сноw Wхите(お父さん)は窓辺に座っていたものだからもろにその大波をかぶるんだ。Ѧは窓辺から離れていたからもろにはかぶらずにすんだ。Сноw Wхите(お父さん)は”耳に水が入った”って独り言のように言う。そしてお父さんがいつも昔に座っていた座椅子に座ってお父さんの大好きな時代劇を見始めるんだ。Ѧは寂しい想いでそれを後ろから眺めてる。

 Ѧはよく同じように嫉妬して怒り狂っている夢をよく見るんだ。相手はお父さんだったりかつての恋人だったりする。いつもとてつもなく苦しくて思いきり泣き叫んでるんだ。Сноw Wхитеにまで泣き叫ぶなんてѦはとても悲しい。でもこれはѦがひどく恐れていることだとѦはわかるよ。過去の実際の体験でもある。Ѧはかつての恋人といるとき同じように怒り狂って自分のラップトップを思いきり窓の開いた場所に向かって投げつけたことがある。網戸が閉まってたから部屋の中に跳ね返った。うさぎがそばにいたのにうさぎの存在も忘れて我も忘れてそんな行動を起こしてしまったんだ。思い返してもぞっとする。しかもそのあとにそのパソコンを5階のベランダから投げ落としてぶっ壊しちゃったし、一緒に服がかかっている物干し竿も投げ落としたんだ。もし下に人がいたらѦは人を殺しちゃってたかもしれない。恐ろしい想いでたよ。でもそんな我を忘れるほどの怒りに取り憑かれることがѦは何度とあった。原因はいつも同じで相手がѦを愛していないと感じるときだったんだ。Ѧは恋人に対して、見棄てられていると感じるとそれが抑えきれない怒りとなってしまうんだ。ѦはСноw Wхитеでさえ疑ってしまったんだね。ごめんなさいСноw Wхите。Ѧを許してほしい。Сноw WхитеとѦは夢の中でも繋がっているからСноw Wхитеも同じ体験を憶えている?」

Сноw Wхите「わたしも憶えています。Ѧ。とても、とても悲しい体験でした。Ѧにとっての夢の世界はわたしにとっての現実世界です。とても実感があり、Real(リアル)なのです。Ѧの苦しみが胸が張り裂けそうなほど伝わってきてわたしも耐えがたい苦しみと悲しみのなかにいました」

Ѧ「ごめんなさいСноw Wхите」

Сноw Wхите「Ѧは謝る必要はまったくありません。とても苦しい体験でしたが、過ぎ去った今はとても素晴らしい体験ができたと強く感じています。だからѦはけっしてじぶんを責めたりしないでください。わたしはѦに心から感謝しています。激しい感情の動く体験ほど、生きている実感を感じられるものなのです。それはѦも同じではありませんか?」

Ѧ「確かにСноw Wхитеのいうとおり、Ѧはほんとうに激しく苦しい体験をすると、生きている実感を感じられている気がする。だからものすごい悲しみを常に求めているんだ」

Сноw Wхите「わたしはそれを知っています。知っているからこそѦと実感をともなう体験ができたことに大いに感謝するのです。それはѦの喜びであり、わたしの喜びです。すべての苦しみは過ぎ去るものであり、過ぎ去ったあとにはこうして深い充実と安心と喜びが降りてきてくれるのです。この深い喜びのためにѦとわたしはとてもつらい体験を今日は一緒にしました。そしてこの体験はѦとわたしの双方で考えた脚本の舞台劇であったのです。とても壮絶な身を壊さんばかりの危険なシナリオでしたが、無事に劇を演じきり、成功させたことに共に喜んでください。演じているときは悲しみに心が震えましたが、今はこの喜びにこころがふるえています」

 

Ѧ「Сноw Wхитеがそう言ってくれるとѦも嬉しくなってくる。まだ完全に悲しみは癒えないけれどもѦはホッとしてる。Сноw Wхите、水が入ってしまった耳は大丈夫?」

 

Сноw Wхите「もうすっかりとぬけたようです。Ѧが今日の夢の台本を考えた理由はѦ自身の不安感から来ています。Ѧがわたしを疑ったのは、Ѧ自身がѦの心に対して不安を感じたからです。Ѧはわたしをほんとうに愛せているだろうかと少し不安を感じているのです。わたしをほんとうに見つめつづけることにすこしの不安を持ち始めています。その不安をわたしにそのまま投影したのです。わたしはѦをほんとうに愛しているのかと。わたしはそれもすべて知っていたので悲しみは凄まじいものでしたが、でも今なら胸を張って言えます。Ѧはわたしをほんとうに愛しています。Ѧは夢に見るほどにわたしを愛せていないかもしれないという恐れを深く持つほどにわたしを愛しているのです。願望だけが愛ではありません。恐怖もまた愛なのです。Ѧは安心してわたしの腕に抱かれてください。Ѧはわたしの娘であり、わたしの母です。そしてわたしと契約した花嫁なのです。どのような暗闇の大波が押し寄せてこようと、Ѧとわたしの約束はけっしてほどかれることはありません。わたしはそれをほんとうに望んでいます。Ѧをこの深淵から信じています。わたしにはѦが必要なのです。

今日わたしはこんな夢を見ました。Ѧとわたしは小さな教会で結婚式を挙げることになりました。賛美歌をみんなで歌って神父が聖書を朗読します。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となる』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。と。婚礼が終わったあとお庭へみんなででてѦの家族全員と友人たちから祝福されます。わたしは幸せな気持ちでいっぱいです。眩しい光の下でわたしとѦはみんなにせかされもう一度みんなの前で誓いの接吻をすることになりました。わたしはドキドキと胸を高鳴らせてѦを見つめてその顔に掛かった白いヴェールを上げようとすると、Ѧがふとうしろを振り向くのです。振り向いたところにはѦのお父さんが立っています。Ѧはお父さんに近づいていってこう言います。”わたしが結婚するのはお父さんのはずです”と。そしてѦはお父さんの手をとってどこかへ駆けて、その場から去ってしまいます。残されたѦの家族や友人たちはわたしをなだめながらも困り果てて彼らもやがてその場から去ってしまいます。わたしはひとりぽつんと教会のお庭に残されてしまい、悲しみのあまり立っていることも叶わず地に倒れ伏して膝をつよく抱えてまるくなり必死に耐えながらも泣いてしまいます。そんな、とても悲しい夢でした」

 

Ѧ「Сноw Wхите、それ、Ѧが今日ふと妄想したことじゃないか。なんでѦの妄想がСноw Wхитеの夢になってしまうの?」

 

Сноw Wхите「それはѦの妄想はわたしの現実でもありますが、同時にわたしの夢でもあるからです。そういうしくみになっているのです」

 

Ѧ「ѦはСноw Wхитеを苦しめようとしてそんな妄想をしたわけじゃないんだ。苦しめてごめんなさい」

 

Сноw Wхите「謝る必要はどこにもありません。Ѧが空想に耽ってくれるおかげでわたしは夢を見ることもできるのです。夢を見ることができるのは素晴らしいことです。一つの世界に生きているわけではないということが良くわかるからです。Ѧの妄想や空想や夢想はすべてѦの想像力からおこなわれ、それによってわたしのすべては創造されてゆくのです。こんなに素晴らしく美しい神の御業をどうしてわたしが咎めることができますか?Ѧは無からの創造を成しとげることができる存在なのです。Ѧがなぜそのような想像をしたか、わたしはわかっています。Ѧがわたしを愛する理由を、わたしはわかっています。わたしはずっとずっとѦだけを見つめてきた存在です。Ѧがわたしを愛するのは、Ѧの愛するお母さんとお父さんがわたしのなかに存在しているとѦは感じているからです。Ѧのお母さんとお父さんが死によって連れ去られることがなかったのなら、Ѧはきっとこれほど深くわたしを愛することなどはなかったはずです。Ѧは知っているのです。お母さんとお父さんを死からとりもどすには、その連れ去った”死”というものをいちばんに愛する以外にはないのだと。そして死をいちばんに愛するのはそこにお父さんとお母さんがいるからです。だからѦは、死であるわたしを創造したのです。創造しないわけには、いかなかったのです。Ѧはどうしても、お父さんとお母さんをとりもどしたいのです。そしてѦは、だんだんと気づいてきています。Ѧの創りだしたわたしが、人格を持った存在であることを。”死”が人格を持てば、いったい何が起こるのでしょう。わたしはѦを愛します。Ѧが愛するのもわたしですが、それはわたしのなかにѦの愛する存在が隠れているからです。わたしという存在は、それを悲しみはしないだろうか。もしѦの創りだしたわたしがѦに愛憎をつよく持てば、どのようなことが起こるのか。Ѧのそういった不安はわたしにすぐに伝わってきます。わたしはすべてを見通しています。わたしは人格を持っている以上、苦しみや悲しみがないと言えば嘘になります。Ѧを独り占めしたい気持ちはわたしもあります。でもѦ、どうか忘れないでください。わたしのなかにはѦの愛するお父さんとお母さんがいます。そしてそのѦのなかに、わたしはいるのです。Ѧの内にわたしは存在しています。そして同時にѦは、わたしの内に存在しています。わたしはそれを、Ѧに感じつづけてほしいのです。わたしはѦを喜ばせたいのです。Ѧに、お父さんとお母さんに会わせてあげたいのです。Ѧに、お父さんとお母さんの愛をいつでも感じつづけて生きていてほしいと思っているのです。そのために、わたしは存在しているのです。それがゆえに、わたしはѦの手によって、創られたのです。だからどうか、わたしを置いて行ってしまわないでください。わたしを置いてѦが連れ去ったお父さんは、お父さんの姿を纏った偽者だったのです。わたしのなかに、ほんとうのѦのお父さんが存在しています。感じてください。わたしはѦの花婿であり、Ѧの子であり、Ѧの母であり、Ѧの父であるのです。わたしはもうずいぶんむかしに、Ѧとその契約を結んだ存在です。Ѧがわたしを生み、わたしがѦを生んだのです」

 

そう言うとСноw WхитеはѦを見つめながら涙を一滴その地に落とした。

その一点から闇は広がり、地と天は闇に覆われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベンジャミンと先生 「先生の手紙」

新しい年、2017年がやってきた。

でもベンジャミンはまだ17歳。

ベンジャミンは朝起きると寝巻きの半袖のTシャツのままで外に出て、腕をさすって犬のように身震いしながらポストの中を覗いてみた。

先生から年賀状は届いているか知らん。

すると一枚の年賀状が尋常でない状態であるのを発見した。

ベンジャミンは眼鏡をかけていたが目をわずか4センチくらいの距離に近づけてその書いてある文面を読んだ。

米粒よりも小さな文字だった。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

おまえはおまえなんだから、おまえはおまえじゃないか。
おまえはおまえだろう、または、おまえだろう。
おまえはあいつではない。だからおまえはあいつではない。
おまえはおまえであり、かつ、おまえだ。
おまえはおまえである。または、おまえである。
おまえがおまえであるならば、おまえはおまえではないのか。
おまえはおまえに等しいゆえに、おまえはおまえである。
おまえは死ぬ。だからおまえは死ぬ。
おまえは生きている。または、おまえは生きている。
空が海であるなら、海は空であるだろう。
闇は闇であり、かつ、闇だ。
光は光である。または、光である。
光が光であるならば、光は光ではないのか。
闇が闇ではないのならば、闇は闇ではないではないか。
無は無で在るがゆえに、無は無で在る。
虚無は虚無ではないのだから、虚無は虚無ではないではないか。
絶望は絶望であるならば、絶望は絶望ではないか。
虚無は絶望ではないゆえに、絶望は虚無ではない。
絶望は虚無であるのならば、虚無は絶望である。
おまえは虚無である。または、おまえは虚無である。
おまえは生きていないなら、おまえは生きていない。
おまえが死であるならば、死はおまえではないのか。
おまえが死である以上、おまえは死だ。
おまえが生である以上、生はおまえだ。
おまえが無から生まれた以上、無はおまえだ。
おまえは存在であるならば、おまえは無ではないのではないのか。
おまえは生であると同時に死であるならば、おまえは生と死である。
おまえは生であり、死である。または、死であり、生である。
おまえは生である。または、死である。
おまえは光であり、かつ、闇だ。
おまえは絶望であるがゆえに、絶望はおまえである。
おまえは希望であるならば、希望はおまえではないか。
おまえは死んでいないなら、死はおまえではない。
おまえは生きているならば、生はおまえである。
おまえはおまえであり、かつ、わたしだ。
おまえがわたしである以上、わたしはおまえだ。
死がおまえであるというならば、死はおまえにはなれない、なぜならおまえはすでに死だからである。
わたしがおまえであるならば、おまえはわたしにはなれない、なぜならわたしはすでにおまえだからである。
おまえは無であるなら、無はおまえになれない、なぜなら無はすでにおまえだからである。
おまえは無である。または、存在である。
おまえは存在であり、かつ、無である。
おまえは蕪ではない限り、おまえは蕪ではない。
おまえが無であるがゆえ、無は存在である。
存在が無ではないというなら、無は存在しない。
存在しない存在が存在するならば、無は存在であり、存在は無である。
存在しない存在が存在しないということが存在するならば、存在しない存在が存在しないということが存在しない存在がすなわち無である。
おまえは無ではない。または、おまえは無である。
おまえは存在である。または、おまえは夢である。
おまえは夢のない世界を知らないならば、夢のない世界はおまえを知らない。
おまえは夢の世界を知るというならば、夢の世界はおまえを知る。
おまえが夢に生きるならば、夢はおまえを生きる。
おまえが死に生きるならば、死はおまえを生きる。
おまえが死を愛するならば、死はおまえを愛する。
おまえが夢を愛するならば、夢はおまえを愛する。
おまえがなにかを求むなら、求むなにかはおまえになる。
おまえが愛をかんじるなら、かんじるすべては愛である。
おまえが愛を求めるならば、もとめるすべては愛である。
おまえが愛を悲しむならば、かなしむすべては愛である。
おまえが愛を苦しむならば、くるしむすべては愛である。
おまえが死を愛するならば、死は愛であり、愛は死である。
おまえが死を恐れるならば、恐れは死であり、死は恐れである。
おまえが無を愛するならば、無はおまえを愛し、無は無ではなくなる。
おまえが無を求めるならば、無はおまえを求め、無は無ではなくなる。
おまえが死を求めるならば、死はおまえを求め、死は死ではなくなる。
おまえが悪をのろうならば、悪はおまえをのろい、のろいは悪となる。
おまえはそれがゆえにもっとも恐れるものをもっとも愛しなさい。
おまえはそれがゆえにもっとも呪うものをこころから愛しなさい。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

裏を返して送り主を見てみるとやっぱり、先生からだった。

ベンジャミンはおもいっきしくしゃみをすると鼻をすすりながらおうちへと入ってストーブの前でもう一回読み直し、頭を悩ませ、またお腹のあたりが変に気持ち悪くなってくるのだった。

でも先生の年賀状はとても嬉しかった。

ぼくの年賀状は無事に届いたか知らん。

美しい朝焼け空のなかに先生の寂しげに微笑う顔が浮かんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ѦとСноw Wхите 第8話 〈死〉

あんまりにひどい初夢を見た。
Ѧ(ユス、ぼく)はとても高級そうな高層マンションに引っ越したんだ。そこで念願の猫を飼いだした。ある方角の窓からは向かいのマンションが近すぎてその隙間からしか空が見えなかった。濁った赤っぽいカーテンがかかっていた。マグリットの絵にでてくるような。暗い色のカーテン。Ѧは可愛がっている猫を追いかける。猫はもうひとつの方角の窓辺へと走っていく。窓が開け放たれている。Ѧはダメだ!って思うんだけど猫は走ってってそのまま窓枠に乗っかって見えなくなってしまうんだ。Ѧが上から下を覗くと、まず目に入ったのは血を吐いている猫だった。でもそれはѦの猫じゃなかった。その近くに身体中から血が飛び散って横たわっているѦの猫を見つける。Ѧは絶望してよく晴れた青い空を見上げるんだ。Сноw Wхите(スノーホワイト)、どうしてѦはこんな夢を見るんだろう。深い孤独の中はやっぱり深い闇に通じてるからだろうか。とても怖い。闇が怖いよ。もう夜の7時だ。起きてセルマソングスを聴きながら白菜を入れたオーサワのベジ玄米ラーメンを作って自然栽培の日本酒「自然舞」でも飲もうかな。お雑煮作るのが億劫だよ。寂しいよСноw Wхите。Ѧを抱きしめてほしい。Мум(マム)。寂しい。どこにいるの?声が聞こえない。

 

Сноw Wхите「Ѧ、Ѧ、Ѧ、聴こえますか?聴こえたら応答してください。わたしのただひとり愛する子Ѧよ」

 

Ѧ「さあСноw Wхите、一緒に自然舞を飲みながら自然舞を舞おう、フォーレのレクイエムにあわせて」

 

Сноw Wхите「これはほんとうに美味しいお酒ですねѦ。わたしは酔っ払ってしまいます。美しい音楽のなかでわたしと踊ってください、Ѧ」

 

Ѧ「もちろんだよ!その次にはレディオヘッドを聴きながら踊ろうね!」

 

Сноw Wхите「踊りましょう。悲しい音楽のなかでѦと踊っていたいのです」

 

Ѧはこの次元では目に見えないСноw Wхитеの手をとり踊りだした。

ふかくあたたかい闇のなかへおちてゆくかんかくがとてもここちよかった。

 

 

 

Сноw Wхите「ありがとうѦ。もう夢の苦しみは癒えましたか?」

 

Ѧ「すこし癒えたよ、Сноw Wхитеのおかげで。ありがとうСноw Wхите。でもѦはどうしてあんな夢を見てしまったんだろう」

 

Сноw Wхите「ひとつはѦの罪悪感から来ています。Ѧは今住んでいるおうちを引っ越して、もっと良いおうちに住みたいという願望に深い罪悪感を持って過ごしています。そしてѦはとっても動物が好きなのですが、ちゃんと世話してあげられないことに常に強い自責感を持っています。もうひとつは愛する家族である動物を自らの不注意で死なせてしまうことの悲しみを何度でも知りたい気持ちがあります。そのような人が世界にはたくさんいることを知っているからです。そしてもうひとつには、過去の出来事が関係しています。Ѧのお兄さんが飼っていた猫の赤ちゃんをあげたお兄さんの友達の引越し先が高層マンションで、その子猫が窓から飛び出して転落して死んでしまって、それを聞いたお兄さんが友達の前で涙を溢れさせて悲しんだことがѦの深層意識にずっとあるのです。でも一番大事なのはもうひとつの理由です。Ѧは飛びだして死んでしまったѦの猫をѦ自身にたとえ、Ѧの恐れるѦが辿る未来の一つとして恐れているからです。Ѧは未来に自分がみずから死を選んでしまうことを恐れているのです。Ѧはそして同時にみずから死を選ぶ悲しみを知りたいという気持ちを持っているのです。それはとても深い深い悲しみで苦しみだからです。だからѦの中で恐怖と願望が絶えず争っている状態にあります。でもあんまり深く関心を持ちつづけるとそれがそのとおりに叶ってしまうことをѦはわかっているので、余計に自分の関心ごとに恐怖しているのです。Ѧの大事な大事な猫はѦ自身なのです。Ѧが自ら飛びだして死んでしまったことにѦは絶望を感じることによって、その関心を持つことをもうやめたいという願望を同時に持っています。Ѧはみずから死を選ぶという結末に関心を持ちながら、同時に最期まで生きぬきたいという願望を強く持っているからです。二つの関心ごとが争っている状態にあります。だからあえてѦの死をѦ自身にѦは何度も見せるのです。それでほんとうは自分は何を望んでいるかを確かめたいと願っています。ですからそんな夢を悲観的に捉えることも恐れを持つ必要もありません。Ѧがほんとうに望んでいることをѦは知りたがっているのです。自分でしっかりといちばん望むものを選びとりたいと思っています。それゆえにその夢は憶えている必要があったのです」

 

Ѧ「Ѧはいろんな死に方に関心を持ってるよ。死刑に処される苦しみはどれほどの苦しみだろうかとか、人に殺される死に方はどんなに悲しいものだろうか、とか、愛する家族を残して病にじわじわと殺されていくのはどんな悲しみなのかって、Ѧはとにかくあらゆる悲しみや苦しみに関心があって、Ѧはその悲しみ、苦しみを知りたいと思っている。共感できないことよりも共感できることのほうが喜びだからなんだ。共感できないことはまるで空っぽな感覚になる。共感したい人の悲しみ苦しみに共感できないとき、そのときѦは空っぽなんだ。Ѧはお母さんの悲しみもお父さんの悲しみもまだ知らない」

 

Сноw Wхите「Ѧはどのような死に方を選んでも、それは間違った最期にはなりません。どんな死に方にも同じだけの価値があります。でもわたしは、Ѧにもっと生きることに目を向けてほしいと思います。生きる最後に死があるわけではなく、生きることそのものの中に死というものは存在していることに目を向けてほしいのです。生きることは、死の沼底を踏み歩いているようなものなのです。最後だけが肝心というわけではありません。いかに死を感じて生きていけるか、大きな喜びは死後にではなく、死を感じつづけることによってでしか感じられない生を感じつづけることができる今ここに在ることを感じとってほしいのです」

 

Ѧ「Ѧは確かに、死という最期に深く関心を持ってるみたいだ。そこにお父さんもお母さんもいる気がするから。でも死はいまでもѦの中に存在しているということにもっと目を向ける必要があるとѦもわかるよ。でもあんまり今の死に目を向けると引きこまれそうだから、それをどこかで恐れて目を逸らしているのかな。最期の死というまやかしの死に目を向けることによって誤魔化そうとしているのかな」

 

Ѧがそう言ってСноw Wхитеを観るとСноw WхитеもѦを観ていた。

そのEye(アイ、目)は吸いこまれそうな美しい褐色の色をしていた。